「無限責任問題」に人類はどう対応してきたか
一昨日、昨日と「責任」について語ってきましたが、ダメ押しで今日もその続きを。
いやあ、皆さんもこう立て続けに同じテーマだともう食傷気味かもしれませんが、書き手目線だとひとたび書き始めるとそのテーマに関連して色々思いついちゃうものでして、ついついもうちょっと付け加えちゃおうってなっちゃうんですよね。すみません。
さて、昨日の記事では、社会には「無限責任」の問題がどうしてもついて回るよ、という話を語りました。このことは逆に言うと、この問題は今に始まったことではなく、過去からずっと人類社会に存在してきた問題であったということになります。
ということは、「じゃあこれまではどうしてたん」という疑問が生まれますよね。今日はこの点について、江草の私見を述べてみたいと思います。
実際、その目線で見てみると、人類は色んな手法でこの問題に対応してきたのではないかと思われるんですよね。
江草が考えるその「手法」というのを以下にいくつか挙げてみます。
小集団による「お互い様」
まず、一つあると思うのは「お互い様」という文化です。
昨日の記事の最後で、社会みんなで無限責任を引き受けようという矜持が重要ではないかという指摘をしましたけれど、この実践の一形態がこれです。
誰かが一人では抱えきれないような責任も、進んで周りの人が一緒に引き受けてあげようとするわけです。「単純に利他心からそうしてる」という解釈でも良いですけれど、特に小集団であれば「お互い様」という感覚がその助けになっている可能性があるでしょう。
というのも、互いに付き合いが深く長い小集団であれば、今は自分が責任を肩代わりする役回りであっても、次は逆に自分が責任を肩代わりしてもらう役回りになることが期待しやすいからです。たとえば、子どもの面倒を一部代わってもらったとしたら、次は自分がその人の子どもの面倒を見てあげるとか。
いわゆる「村」のような小集団もそうですし、家族親族の血縁集団もそうでしょうし、あるいは終身雇用が前提の企業組織内なんかでも、そういう側面はあるでしょう。ずっと付き合っていくからこそ、また逆に責任を負担してもらう場面が来るかもしれないと互いに思える。だから「お互い様」なわけですね。
特にそうした小集団はいわゆる「運命共同体」でもありますから、一部の人間に責任を押しつけたところで、それが集団の弱体化につながり、結局は全滅につながるかもしれない。ならば、集団の生存戦略としてみんなで無限責任に対応する方が理にかなってるという路線の理屈も考えられます。
この「お互い様」文化の弱点は、メンバーの離脱と集団の巨大化です。つまり、責任を他のメンバーに負ってもらうだけ負ってもらっておいて、いざ自分が助ける側(責任を肩代わりする側)になる時にその集団を離脱するというムーブをされると「お互い様」が成り立たずに困るんですね。いわゆるフリーライダーというやつです。
先ほどから「お互い様」文化は長く深く付き合うことが前提であることを示してきましたが、これは逆に言えば人がちょいちょい出て行ったり入れ替わっちゃうと、うまく機能しにくくなるということになります。
また、集団が巨大化すると、互いに互いのことを知らないメンバーが出てきます。すると、何かやらかしたとしても責任をとらずに逃げてしまうという「逃げ得」の隙が生まれちゃうんですよね。
たとえば、大都会では、通りすがりの誰かにぶつかって転ばせてしまった時、たとえ顔を見られていたとしても、ダッシュで逃げれば、もうその人がどこの誰かが被害者には分からないので、追跡しようがないということがありえますでしょ。これが互いに互いの顔を見知ってる小集団とは異なるわけです。互いによく知ってる間柄であれば、「逃げて責任を回避する」という作戦はまず難しいわけです。
なので、集団からの離脱が容易であったり、大集団になりすぎて互いを把握できてなかったりすると、「お互い様」文化が崩壊しやすくなるわけですね。
もちろん、理論上不可能というわけではないので、大集団であっても、いえ大集団だからこそ、改めて「お互い様」文化を取り戻し大切にしていこう、という運動が無意味とは言えません。
しかし、事実として、その文化の綻びが出てしまってる場面が多々あるのは否めません。それゆえ、監視カメラを各所に配置したり、ひき逃げの責任逃れを許さないために自動車ナンバーが登録制になってたりと、大きな社会は「お互い様」文化に頼らずに、責任逃れのフリーライダーを防止する策を取るようになってきたという感じがいたします。
パフォーマンスを無限にする「天国」
さて、「無限責任問題」に人類が取ってきた対応策。「お互い様」とは別のアプローチとして「天国」もあると思います。
これは無限責任を社会の内部での責任の割り振りでどうこうするのではなく、パフォーマンスの方に注目することでその重圧を霧消させるという手法と言えます。
一昨日「セキパ」という概念を紹介しました。「責任に対するパフォーマンスの良し悪し」を意味する江草の勝手な造語でしたね。ここで、分母となる責任が「無限責任」のように重たくなるとセキパ感が悪くなりすぎてマズいという話だったわけですが、分子となるパフォーマンスの方も同時に無限大になってくれたら、無限÷無限で何かもうよく分からなくなると思いませんか。そう、「無限」をどうにかしたいなら対抗する「無限」を用意しちゃえばいいのです。
「天国」ってまさにそうじゃないですか。とにかく最高の幸福な環境が永遠の生とともにもたらされる。文句ない、無限大のパフォーマンスです。
だから、これを、現世でしっかり責任を果たしたら、天国に行けることが約束されるよとすると、重責を担うのも「これも運命か」と割り切れるようになりえるわけです。極論、それが無限責任であっても、「これも神の導きなのだろう」と納得しうる。この時、むしろ神に与えられた責任から逃れることの方が、天国に行ける資格を失いそうで危険に感じられることでしょう。
こうなると、自分の故意や過失で犯した罪を償うのはもちろんのこと、理不尽に自分にふっかかってきた責任さえも、運命として引き受ける覚悟ができるわけです。
まあ、正直ちょっと雑な宗教観での説明なのでアレなんですけれど、でも、意識的に狙われてたかどうかはさておき、実際「天国」のような「死後の永遠の祝福を描く文化」には「無限責任」の重圧を緩和する効果はあったんじゃないかとは思います。
ところが、お分かりの通り、この手法にも弱点があります。それは人々に「死後の世界」の存在を信じてもらえないと成り立たないということです。
ちょっとこの辺もナーバスな話なのでアレですが、科学主義が進んだ現代社会ではやっぱり「天国」や「死後の世界」を素朴に信じてる人は少なくなったと思われます。そうすると、現世での責任が重すぎたとしても「天国」で無限のパフォーマンスがあるから大丈夫、という人々の納得は得られがたいわけです。
「天国」が信じられなくなれば、この手法はもちろん機能しません。だからその場合結局、現世での有限な人生において無限責任がふっかかることを皆が嫌がるという「無限責任問題」も残るということになります。
各自それぞれで対応させる「自己責任」
そして最後に紹介するのが「自己責任」という手法です。
社会の中でどうしても生じてしまう無限責任部分を誰が背負うのかというのが「無限責任問題」でした。既述の通り、「みんなで一緒に背負う」というのが一つの対応策でしたけれど、実はもっと一般的に普及しているのは「各自で背負う」という対応策の方かもしれません。もちろん、お気づきの通りこれが「自己責任」です。
無限責任から有限責任をどう切り出しても絶対に無限部分が残るから無限責任問題は厄介なのでした。しかし、各自に起こる物事の責任は最終的にその当人にあるとしてしまえば、各自が各自の無限責任を背負う形で、割り振りが成立します。有限責任を切り出すのではなく、無限責任を切り出すのなら割り振りは可能なんですね。
誰かが酷い境遇に置かれてたしても、それは本人の努力不足か能力不足か人望不足か、はたまた「運がなかった」か。いずれにしても、それは本人の責任でしかないとしてしまうわけです。
もっとも、他者が誰かの責任を一緒に負担することを制限しているわけではありません。しかしそれは、あくまで基本的には「有限な負担」です。契約やらなんやらで「ここからここまでの有限な範囲の責任を請け負いますよ」という形式で人々の間での責任の委託がなされます。
これが「自己責任」の原則と矛盾しないのは、契約の成立には契約主体である双方に責任があるからで、「あなたの責任を負いますよ」と自発的に契約した者が、その契約の結果困ったことになったとしても、その契約を結んだ「自己責任」だからです。
こんな感じで、各自が各自の無限責任を原則抱えつつ、その一部の有限責任部分を、双方の責任で交わされる契約を介して委託し合うことで社会の中での責任分担を成り立たせるという仕組みができあがるわけです。
個人に本来は責任がある税務作業を税理士さんに外注したり、育児の一部をベビーシッターさんなり保育園なりに委託するのもそうでしょう。
本来自分に責任があるところを契約をもって他者に委託するという仕草は、私たちの社会ですごく当たり前のように行われているわけです。
「お互い様」が苦手としてた離脱や大規模集団にも対応しやすいですし、「天国」ほど空想的でもないという点で、大ヒットしたやり方なのですが、この「自己責任」にもやはり弱点があるわけですね。
それは、重すぎる「責任」、すなわち「セキパが悪い責任」は、他者が引き受けてくれないということが起きる点です。
昨日も紹介したポストですけれど、これがまさにそういう問題を示してるので再掲しましょう。
重すぎる責任を抱えてしまった場合は、その一部を他者に委託する契約さえ容易にできない。すなわち、その責任を誰も一緒に分担しようとしてくれなくって、「無限の自己責任」の中で苦しむ人が多数出てくるということが起きるわけです。
特にこの問題が大きいのが、何度も繰り返し提示してることから分かるように育児の分野なんですね。「妊娠し子どもを産み育てることを決めたのは親である自分自身なのだからその子どもをなんとかするのは親の自己責任だろう」というロジックで、親(特に母親)に子どもに関する無限責任をそのまま担わせるということで現代社会は片付けてしまってるわけです。確かに自己責任原則で行くとそうなっちゃいます。
そしたら子どもがどんどん減っていってしまって、社会が慌てふためいてると。
でも、考えてみればそりゃ、そのように「その育児の無限責任の引き受けは自己責任だぞ」と迫ってたら、躊躇う人が増えるのは無理もないでしょう。少なくとも相当にハードルを上げてしまってはいるでしょう。
「自己責任」の考え方の死角は、人がそもそも契約に依らずに産まれてくるということや、責任を果たしようがないステージがあることを忘れてしまってることです。
親と子は「この子が産まれてくることに同意して契約しますか」とか「この親から産まれることに同意して契約しますか」みたいな契約を交わすわけではなく、ただお互いがお互いを初めて知る関係性として、白紙の契約書のもとで生じるわけです。なんなら、その後だって両者の関係性に契約書なんて不要でしょう。
また、子どもたちに「自己責任だぞ」と言ったならば、誰かに助けてもらわないと生きられない彼らはたちまち生きていけなくなるでしょう。契約だって当然できようがないですから、誰かに契約を介して自身の世話を外注することもできません。つまり、自己責任論が想定していない「当人以外の無限責任の引き受け手」を自然と必要とするステージが人にはあるということです。
だから結局、「自己責任」は「自発的に契約を結べるような独立した成人」を暗黙の基本モデルにしちゃってるんですよね。これが普遍的人間像としては偏ってるために、現実との齟齬を生じさせてしまってるわけです。そうではない段階や性質の個人が生じたときに、「自己責任」では無限責任の処理がバグり始めてしまうのです。
「自己責任」はその性質上、セキパ志向にもつながりがちです。「お互い様」でもないから、できるだけ自身が背負う責任は小さく、得られる利益は大きい方が良いとなるからです。
だから、セキパが良い活動同士、セキパが良い仕事の外注ができる個人同士でのみ、実は「自己責任」は回ってると言えます。その外部にある、育児のような無限責任の領域をほっぽり出したままで。
なぜなら、無限責任領域のような「セキパが悪い物事」はその契約サイクルの仲間に入れてもらえない(少なくともあまり歓迎されない)からです。
これからどうするか
というわけで、人類が既に実践している各種の無限責任対応策を概観してみました。
それぞれなるほどと思う点がありつつも、一方でそれぞれ問題点もあって、悩まされる情勢ですよね。
特に江草が注目してる育児の問題に関して言うと、「お互い様」や「天国」ロジックの場合はまあまあスムーズに行ってたのかもしれませんが、こと「自己責任」の社会に移行した時に、成人目線のその論理との相性が悪くなっておかしくなってきちゃったのかなと。
さて、これから無限責任問題をどうしたものでしょう。
現行は「自己責任」が主体であるとして、ひとつ考えられるのは、「お互い様」や「天国」ロジックへの回帰というところでしょうか。それはそれで悪くはないと思うのですが、やっぱり一度勢力が衰退したのであれば、旧来通りの形式では、再度の普及は難しいように思います。回帰を図るにせよ何かしら新しい形式を取り入れることは必要じゃないでしょうか。
あるいは他で考えられる方向性は、何かもっと他の新しいアイディアでの「無限責任への対応」です。江草も別に今回の紹介でMECE出来てるとも思いませんし、何かしらの良い感じの対応策のアイディアがおそらく残されてるのではないかと思います。
でも、とりあえずキモになるのは、こうやって「社会における無限責任をどうするか」とみんなで考えることだと思うんですよね。
というのも、「無限責任をどう対応しようか」と皆で考えること自体が既に「皆で無限責任を背負おうとしてる活動」だからです。「責任」とはそもそもそうして対象の物事に対応するために努めることですから、社会における無限責任をどうするか考えることはまさに無限責任を果たしていると言えます。
だから、まあ不思議な話ですけど、こうやって本稿のようなことを考えてるならば、それだけで無限責任問題に対応してるとも言えるわけです。面白いですよね。
もっとも、「無限」なだけあって、これからもずっと解消はされません。「無限責任問題」は私たちが常に考えないといけない問題であり、そして、背負い続ける責任なのです。