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「無駄」という名の「夢の埋蔵金」
先日、河野太郎氏がXにて医療の無駄の削減を訴えてらっしゃいました。
医療の質を落とさずに無駄な医療費を削っていこうと問題提起したところ、医療費を削れば医療の質になにがしかの影響を及ぼすものだから、慎重にというご意見をいただきました。
— 河野太郎 (@konotarogomame) February 5, 2025
実は、医療の質を落とさずに医療費を削った実績があります。
抗がん剤の残薬問題です。…
「無駄を削っていこう」というのはまさしく正論ですし、提示されてる抗癌剤残薬活用の事例も(専門外でもあり)江草は寡聞にして知らない話だったので、普通になるほどなーと思ったのですが、どうにもこのポストに賛同の声ばかり集まってるのを見て、江草の天邪鬼心がウズウズ。
素晴らしいと思います。
— 津川 友介 (@TsugawaYusuke) February 6, 2025
国民の負担を上げる前に、まずは医療の質を落とさず減らせる医療費、つまり医療の無駄を先に削るべきです。国民に負担をお願いするのはその後であるべきだと思います。 https://t.co/6WgIIiC1qs
つい、いつものごとく「悪魔の代弁者」的にやらしいツッコミポストをしてしまいました。
内容に直接的な異議があるわけではないのですが、「無駄を削ろう」という方針は逆説的にかえって無駄を生じさせる可能性があるのではないかと疑ってます。たとえば、「無駄を削減する」という時に、これまでその無駄分で収入を得てた人がどういう反応をするかを考えれば想像はつくかと。 https://t.co/pRJFar2hVO
— 江草 令 (@exa_ray) February 6, 2025
内容的には、こちらの記事に準ずるものですが、
なんというか、こういう具合に「無駄をなくそう!」で話を進めた感になっちゃう雰囲気は、かねてから違和感があるんですよね。
先ほども言ったように「無駄をなくそう!」というのはもちろん正論なんです。正しい。でも、それがなぜ正しいかというと、そもそも「無駄」という語句自体に「なくすべきもの」につながるネガティブニュアンスが含まれてるからですね。だから、それは事実上、常に成立するトートロジーなわけです。
だから、江草も別に「無駄をなくすべき」という主張に反対してるわけじゃないんですね。常に正しい命題に対しては反論しようもないですから。もちろん、真に無駄があるならなくしましょう。
ただ、問題は「無駄をなくそうという方針だけで本当にうまくいくのか」ってとこだと思うんですね。
たとえば、先の「無駄はなくそうとすると増える」の過去記事は、「無駄認定されると困る人たちが隠蔽したり代償先を探したりするから、無駄探しと無駄隠しのイタチごっこというメタレベルの無駄が発生しうる」という懸念を示したものでした。
他人視点からの「無駄」も、実は誰かにとっての「豊かさ」の場合があるので、簡単に削れると思いきや、思わぬ抵抗に遭うのが「無駄削減」の難しいところなのです。
なお、「無駄」と「豊かさ」は、「腐敗」と「発酵」の関係に似て、見方によって印象が変わるだけの表裏一体なものなのではないかと指摘したのが、こちらの過去記事。
で、今回もうひとつ、世の「無駄をなくそう!」論に対して指摘したい疑問があるんですね。
それは、「削るべき無駄ってそんな言うほど残ってるの?」という疑問です。
河野太郎氏が例示した抗癌剤の残薬問題は、確かにそうした「削るべき無駄」と言える事例だったのかもしれません。
しかし、こういう時に挙がる事例は、往々にして最も上手くいった事例がピックされてるものです。こうしたいわゆる「ブライト・スポット」事例によって、無駄をなくす機運を高める効果がありうることも否定はしません。でも、こうした分かりやすく「削るべき無駄」があって実際に削れたと言える例が、これ以外にどれぐらい残っているかについては、うまくいった事例だけ聞いても実のところ分からないわけです。
もっとも、「分からない」ということは「まだまだ削れる無駄が残ってる」という可能性ももちろんあるということではあります。
ただ、私たちの社会ってもうずーっと前から「無駄をなくそう!」って言い続けてますよね。現に医療界だって、江草が医者になる前レベルの昔からずっと「医療費を抑制しよう」「無駄をなくそう」って言ってたように思います。(かの有名な「医療費亡国論」も1983年だそう)
そんなに長らくみんな揃って「無駄をなくそう!」って言ってきて、今なおまだ無駄が残ってるってどういうことなんでしょう。
それって、「無駄をなくそう!」って言うことがそもそも無駄をなくすことにほとんど貢献しないか、実は世の中の大多数のものはやろうとおもえば好きなだけ「無駄」扱いできるかの、どちらかの可能性しかないないのではないでしょうか。
前者であれば(まさしく今回の河野氏のように)「無駄をなくそう!」と言うことには残念ながら有効性がないという身も蓋もない結論になります。この場合はもう今回の話はおしまいになります。Q.E.D.
また、後者であれば「徹底的に無駄を無くしたら人間社会には実質的に何も残らなくなった」という、それはそれで本末転倒な結果になるおそれがあります。先に挙げた過去記事で「無駄」と「豊かさ」は表裏一体という指摘をしました。だから「無駄をなくすぞー」という意識ばかりが先んじると、人間社会にとって大事な「豊かさ」まで削り落とす可能性があるわけです。
たとえば、ちょうど今年の大河ドラマ『べらぼう』でやってる時代の狂歌にこんなものがありますね。(多分、劇中でもいつか出てくるでしょう)
解説付きの記事を発見したので、引用させていただきます。
白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき
江戸中期、白河侯松平定信が行なった「寛政の改革」がわずか6年で幕を閉じたのは、民衆による強い反発によるものだった。厳しい財政改革が経済を停滞させ、文化も廃れさせたことが原因だった。たとえ腐敗政治だったとしても、生活も豊かで文化も花開いた以前の華やかな「田沼時代」が恋しいと、失脚した老中田沼意次を民衆は懐かしんだのだ。そのときに生まれた歌がこれだ。寛政の改革と田沼の腐敗政治をくらべて風刺した狂歌である。
これぞ、「無駄をなくそう!」という厳格な政策が、いつの間にか社会の豊かな文化も削ぎ落としうることの象徴的な例でしょう。これはすなわち、歴史的に見ても「豊かさの裏返し」であったものごとも無駄認定して私たちは削ることをしでかしがちということでもあります。
このように、「純然たる無駄」だけを削ることは非常に難しいし、そもそも、そんなものはさほど残っていないのではという懸念があるわけです。
実際「そんな分かりやすい無駄なんてもう残っていない」という指摘は、しばしば聞かれます。
たとえば、ベストセラーとなったオリバー・バークマン『限りある時間の使い方』では、有名な「瓶に石を詰める逸話(ビッグロックの法則)」をイカサマだと喝破します。
でも、ほとんどのタイムマネジメント術は、その役に立たない。むしろ問題を悪化させる。やりたいことが全部できるという幻想を強化して、火に油を注ぐだけだ。
「ビッグロック(大きな石)の法則」をご存知だろうか。最初に言いだしたのは『7つの習慣』で有名なスティーブン・コヴィーだが、これが生産性オタクのあいだで大人気になり、現在に至るまでさまざまなバージョンでうんざりするほど語り継がれている 。
こんな話だ。教師が教室に入ってくる。大きな石をいくつかと、小石をひと握りと、砂の詰まった袋と、大きめの瓶を持っている。さて、教師は生徒たちに言う。
「ここにある大きな石と小石と砂を、ぜんぶ瓶に入れてみましょう」
生徒たちは、どうやらあまり頭が切れるほうではないらしく、小石や砂からどんどん入れていく。すると大きな石が入らなくなる。教師はそれを満足そうに眺めてから、したり顔でお手本を見せる。まず大きな石を入れ、次に小石を入れて、最後に砂を入れなさい。そうすれば大きな石の隙間に小さな石がきれいに収まりますよ、と。
要するに、もっとも重要なことから手をつければ、重要でないことも含めて全部終わらせられるという意味だ。逆の順番でやろうとすると、重要なことをやる時間がなくなってしまう。
ここで話は終わる。
ただし、これはイカサマだ。
そもそも教師は、瓶に入るだけの量の石しか持ち込んでいない。大きな石は何個入る、と前もって確認していたわけだ。でも時間管理の本当の問題は、大きな石があまりに多すぎることにある。そもそも実生活では、大事なことのほとんどは瓶に入らない。前もって細工されたクイズとはわけが違うのだ。
だから本当の問題は、大事なこととそうでないことを区別することではない。大きな石(大事なこと)がたくさんありすぎるときに、いったいどうするのかということだ。
あるいは、こちら『エッセンシャル思考』のグレッグ・マキューン氏。「無駄なことをやってる場合じゃないから自分にとってやりたい度が90点以上のものだけやるべき!」という主旨の提言をして、これまた大ヒットした書籍が『エッセンシャル思考』でした。
ところが、そんな彼自身が次作『エフォートレス思考』でエッセンシャル思考の実践でぶち当たった壁を告白しています。
その時間を捻出するために、私は優先順位の低い仕事をどんどん削った。すぐに次の本を書いてほしいと何度も言われたが、断った。スタンフォード大学の講師の仕事も少し休むことにした。ワークショップのビジネスを始める計画も、いったん保留にした。
これ以上削れないというところまで削った。
ところが問題は、それでも忙しすぎることだった。
私はエッセンシャル思考を体現しようと、頑張っていた。自分の言ったことを実行していた。
だが、それだけでは足りないのだ。
絶対やりたいことだけに「イエス」と言い、その他のすべてに「ノー」と言う。
そうすれば、忙しさに押しつぶされることなく大事なことを達成できるはずだった。
けれど、今では別の問いに直面していた。
本質的なことだけに人生を絞り込み、しかしそれでも多すぎるときには、どうしたらいいのだろう?
また、奇しくも、バークマン氏と同じくマキューン氏も「ビッグロックの法則」にこの後言及して
もしも大きな石が多すぎたら、どうするのか。もし絶対やりたいことが、瓶の大きさにまったく収まらないとしたら?
と自問自答してる姿を記述しています。
そう、彼らが指摘しているのは「無駄なことを削りきってもなおそれだけでは足りず、私たちは大事なもの同士の中から取捨選択しなくてはならなくなる」という、厳しい現実です。
「無駄を削って大事なものだけを残す」というフェーズなんて早々に終わるもので、「一方の大事なものを捨てて、他方の大事なものを残す」というフェーズに入ることに向き合わないといけないと。
もとより生産性オタクであったバークマン氏や、まさしく無駄を省く人生哲学を提言していたマキューン氏が、揃ってこのことを指摘してる事実は重く受け止めるべきでしょう。
彼らの指摘を見た後だと、「無駄をなくそう!」というスローガンが長年にわたって延々と残り続けていることは、随分とナイーブなものに映ります。まるで、「純然たる無駄」だけを削れるフェーズがとうに過ぎ去ったことを認めたくなくって、ずっと「どこかに無駄が残っているはずだ」とモラトリアムな幻想を見ているようです。
それはあたかも埋蔵金のようでもあります。かつて一世を風靡した「霞ヶ関に埋蔵金があるはずだ」とか「徳川が残した埋蔵金があるはずだ」のように、「それさえ見つければ大丈夫なんだ」「今ある大事なものを何も諦めなくていいんだ」という夢を私たちに見させ続けてくれるものです。「無駄さえ見つけて削除すればそれで私たちは安泰なんだ」と。
さらに換言すれば、「無駄がまだあるはず」は難しい選択から逃れるために信仰される「神話」です。無駄がもう完全になくなったことを証明するのはいわゆる「悪魔の証明」となります。その不在が証明困難であるからこそ、いつまでも「無駄の存在」を信じ続けることができる。神の不在を証明できないのと同様です。だから、これまでどれほど大量に無駄を削減していたとしても、これまでどんな長い年月「無駄を無くそう」と言い続けていたとしても、いつまでも永遠に「無駄をなくそう」とは言い続けられるのです。
まあ、気持ちは分かります。そりゃ大事なものの中から何かを捨てないといけないというのは苦渋の決断ですからね。江草だって、正直したくないですし、できるとも申しません。
ただ、だからといって、実情を見て見ぬふりしていいかどうかはまた別の話でしょう。特に、リーダーシップが期待されるはずの為政者や専門家が「無駄をなくしましょう!」だけ言って人心地ついちゃうというのは、いかがなものでしょう。
実際、グレッグ・ボグナーとイワオ・ヒロセによる『誰の健康が優先されるのか——医療資源の倫理学』の中で、倫理学の観点からも医療資源の問題について「厳しい選択の議論を要する」という指摘がされています。
治療技術や治療薬がないならまだしも、多くの医療資源を必要とするという理由だけで、治療を受けられない患者を選別するというのは考えただけでもゾッとする。にもかかわらず我々は、誰も議論したくないような問題をあえてオープンに議論すべきだと考える。これには二つの理由がある。第一に、臭いものに蓋をしても臭いものはそこに存在する。つまり、医療資源の人為的配分の決定に関する議論を回避したところで、現実にはどこかで誰かがその決定を行っている。それならば、いっそのことすべて表に出して意思決定の公正性をみんなでチェックする方が望ましい。我々はこれに対して反論できる倫理的理由は存在しないと考える。第二に、医療資源配分の決定は丸く収まることは絶対なく、異なるタイプの患者間の利益の対立を裁定するには明確かつ不偏的な判断基準が示されなければならない。究極的に患者の生死につながるかもしれない問題について、明確かつ不偏的な判断基準がないということがそもそもおかしい。
(中略)
これに対し、次のような批判をすぐさま受けるのは予想がつく。その批判とは、医療資源の配分は「患者の切り捨て」だというものである。この批判に対しては、短い返答と長い返答がある。短い返答は「まさにそのとおり」である。医療資源の配分および優先順位設定とは、究極には断腸の思いで患者を切り捨てることにほかならない。長い返答は 「患者の切り捨てが倫理的に不正であるという結論に至るための正当な理由が示されなければならな い」である。「患者の切り捨てが不正だ」というのは結論であり、なぜそれが不正なのかの倫理的理由が示されなければならない。さもなければ「患者の切り捨ては不正だ」という主張は、単なる政治的スローガンにすぎない。
(太字は引用者)
従って、「質を保ちながら無駄をなくそう」とだけ言うのは、こうした厳しい倫理的議論からの逃避であり、言わば「万人受けする聞こえが良い主張」に過ぎません。臭いものに蓋をする先送りに過ぎないがゆえに(多少の姑息的な効果はあるかもしれませんが)残念ながら、これが本質的に事態を好転させる保証はないのです。
というわけで、「無駄をなくそう!」というスローガンがいつまでも唱えられ続け、その度喝采を受けるのは、それがトートロジー的に「常に正しい」がゆえにそれを支持しても決して間違える可能性がないという点と、そうして「無駄はまだまだ残ってる」と信じることによって「大事なものの中から選別しないといけない」という厳しい議論を先送りできる点が理由としてあるのではないか、というのが本稿を通しての江草の意見になります。
いやあ、ほんと我ながら空気読まないことを言っちゃって申し訳ないです。一方的に支持が集まってる意見にはついケチをつけたくなる「悪魔の代弁者」性格なもので、すんません。
ちなみに、江草的には医療費削減の文脈で「大事なものを諦める」という点で言うと「医療技術の進歩の休止」というまあまあ過激な案を以前提示しています。
これこそもう断腸の想いの選択肢ですが、この選択肢を社会が実際に採るかどうかは置いておいても、本気で医療費削減に取り組むなら、これぐらいの厳しいラインでの議論が要るんじゃないかなあとは思います。
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