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社会における「無限責任」問題

昨日紹介した「セキパ(責任パフォーマンス)」という概念。

実はこれ、社会における「無限責任」の問題を語りたくって、紹介したところもあったりします。

「セキパ」とは「責任に比してパフォーマンスが良いかどうか」を考える概念でした。

ところがここで、責任が無限だったらどうでしょう。そんなのセキパ算出不能というか、極限的に言えばゼロに収束しちゃうんじゃないかってなりますよね。

端的に言えば、無限責任のケースではセキパ的には最悪、少なくとも劣悪ってことになります。

これ無限大の責任を負わないといけないというケースでなくても十分問題になります。「万が一の時、場合によっては青天井で責任が釣り上がる可能性がある」ってだけでも人を恐れさせるには十分です。「もしかしたら無限に責任を取らされるかも」ってだけで、人はそのセキパの微妙さに顔をしかめるわけです。

とはいえ、みなさん「そんな無限責任のケースってあるの」って思われるかもしれません。話が抽象的なのでちょっと分かりにくいですよね。

順を追って説明していきますが、まずは逆の「有限責任」を見ていくと分かりやすいかと思います。私たちの社会はけっこう普通に「責任の有限化」の仕組みを導入しているのです。

典型的なのは自動車保険ですね。任意の方。あれ、対人保障とか対物保障とか「無制限」ってなってるのが一般的ですけど、これこそ、保険会社が「無制限に負担を負いますよ」って言ってくれてるおかげで、加入者は無限責任におびえることなく安心できるという仕組みです。「無限に賠償責任が問われるかも」って思うと怖くて自動車を運転したくなくなるので、保険金(コスト)を払って責任を有限化しているわけです。つまりコスパを犠牲にセキパを調整してると言えますね。

あとは株式会社もそうです。株式会社の株主は有限責任であることで知られてます。その会社がえらいこっちゃな大負債とかを抱えて破綻したとしても、株主は自分の出資分以上に責任を問われることがない有限責任なんですね。やっぱり、関係者として会社の失敗に無限に責任を問われるかもって思うと怖くて出資したくなくなるので「有限責任なのでぜひ出資してください!」ってやることで、出資のハードルを下げる仕組みなわけです。この責任の有限化の仕掛けが見事大ヒットして、株式会社が社会の主役となる資本主義社会が隆盛に至ったことは、皆様もご存じの通りです。

他にも、労働者が労働中に過失で引き起こしてしまった損害を無制限に賠償させるのは禁止されてるとかもありますね。自己破産とか、生活保護とかの制度も、人が無限に追い詰められるのを防ぐ仕組みと言えそうです。

このように、ひょっとしたことで責任を無限に背負わされることを防ぐ仕組みは割と普通に私たちの社会に実装されてるわけです。

それだけやはり「無限責任」というのは人にとって「セキパ」的に恐ろしすぎる代物なので嫌ということなのでしょう。だから人々にぜひ促したい行動については「ほら責任は有限化しておいたから」とその不安を和らげる仕組みが有効な策として人気を博しているというわけです。


さて、社会に責任の有限化の仕組みが数多く導入されてると言ってきましたが、今回の話の切り出し方から皆様もお気づきのように、責任の有限化が及んでない物事がこの社会にはあるわけです。つまり、この世には無限責任の分野が残されてる。これが、今回の問題なんですね。

たとえば、無限責任の問題が重くのしかかるのが「家族のケア」の分野です。

先日も医療ケアが必要な子どもを死亡させた疑いで母親が逮捕された事件が大きな話題になってました。

この個別事例ではどうかは詳細が不明なので分かりませんが、こうした家庭内ケアに関連して悲劇が起きる背景には、子どものケアの責任が保護者(特に母親)に無限に背負わされることがあると言われます。

なお、育児に限らず、介護でもありますね。

先に有限責任化の象徴として紹介した「生活保護」も、家族や親族の支援が得られないかどうかを確認されてからようやく支給されることで知られています。

つまり、この社会では、「家族は家族の面倒をどこまでも引き受けるのが当然」ということになっているわけですが、これぞまさに「無限責任」ですよね。どれぐらい担当者が負担をすべきかの上限の線引きがないのです。上限がないなら無限です。

もちろん、人は何もかも「セキパ」計算のみに頼って行動判断をしているわけではありませんから、「無限責任」であろうとも引き受ける人は引き受けます。しかし、それが全体として人々の選好にネガティブな反応を引き起こしうることは、それこそ「有限責任化」の効果によって栄華を極めている経済社会と対比すると、明らかでありましょう。

「無限責任」よりも「有限責任」の活動の方が、セキパが良いから人々が惹かれてしまうということが、十分にありえるわけです。

介護ももちろん大きな課題なのですが、この選好の偏り(「無限責任」の忌避)がより明瞭に出やすいのが出産育児ではないかと思います。介護は既にこの世に生きてる高齢者(やその予備軍)の方々が対象ですけれど、育児はまだ産まれてない未来の子ども達が対象の話なので「ハナから産まない」という選択ができてしまうわけです。

そう、世の空前の少子化の背景には、こうした「無限責任の問題」が潜んでるのではないかと、江草は考えてるということになります。

もちろん、これが少子化の全ての要因ということまではないと思いますが、この「無限責任の問題」を考えることは、やはり少子化対策において必要なプロセスではないでしょうか。


とはいえ、ここからさらに厄介なことを指摘してしまうので申し訳ないのですけれど、社会は究極的にはこの「無限責任」からは逃れられないのだと思います。

というのも、結局のところ、世の中「何が起こるか分からない」ので、将来生じるネガティブな事象について全て誰かの有限責任として事前に割り振るのは不可能だからです。そうした「不確実性」(「リスク」ではない)は、計画的な処理が不可能というところがこの問題の根深く厄介なところなわけです。

※「不確実性」の厄介さについては、過去この記事などでも書いてます

つまり、社会はもともとからして全体として「無限責任」を抱えている。そこからいくらうまく保険やら株式やら契約やらで「有限な責任」として切り分けたとしても、その割り振った外部に必ず「無限責任」の領域が残ってしまうわけです。有限化して割り振れないからこそ無限なわけですから。それゆえ「この無限責任分を誰が担うんだ」という問題がずっと私たちにつきまとってしまうのです。

これは科学についての話なので文脈は違いますが、ニュートンが「私は所詮自然の大海の浜辺で遊ぶ子どものようなものだ」と語った名言がありますよね。これと似たようなもので、私たちは責任の無限の大海の中において、浜辺でちょっと責任を有限化して喜んでいるだけなのかもしれません。

少なくとも、有限責任化の仕組みの保護下で回ってる経済社会は、実はその外部で無限責任を担っている人たちにフリーライドしてるだけなのではないかという問いは立てられるでしょう。

事実、介護や育児などの家庭内ケアの問題が昨今盛んに叫ばれるようになったのは、その「無限責任性」の理不尽さが「有限責任文化」の経済社会と衝突してることを反映したものでしょうし、ますます進む少子化は「無限責任担当者」にフリーライドしすぎた私たちの社会への警鐘であると言えましょう。

巷では、経済社会で働いて金を稼いで税金を納めてる人たちがそうでない人たちを「フリーライドしている!」と責め立てるのが一般的ですけど、こと、責任の観点から見てみると、むしろ真逆の光景さえ見えてくるわけです。社会が抱える「無限責任」から逃れるフリーライドをしているのはどちらなのかと。

このように、経済社会の十八番である「有限責任化の囲い込み」の論理が、その外部にある「無限責任社会」と本来的に摩擦があり、その社会的な齟齬がついに限界に達しつつあるというのが、おそらく現状の大問題の構図なのです。

しかし、根本的に「不確実性」とそれにより生じる「無限責任」から私たちが解放される可能性がないとすれば、なかなか厄介です。

悩ましいところですが、それでもせめて私たちが出来ることは、誰かだけがその不確実性の無限責任を担わされるのではなく、みんなで背負おうと示す矜持ではないでしょうか。



本題は一応これで終わりで、以下余談ですが、自動車保険の例で、保険会社が無制限に保障をするのは「無限責任」を引き受けてるのではないかという疑問が湧く人もいるかもしれないと思い、補足します。

確かに、それは一見無限に責任を負ってるように見えるかもしれませんが、ここで重要なのは保険会社が加入者を先に審査していることです。また、どういった事象に対して保険金が支払われるかを、細かーい字で厳密に指定してる点も重要です。つまり、対象者や対象事象を規定し「有限化」してることで、保険会社が背負う責任を、計量不能な「不確実性」ではなく、計算可能な「リスク」として切り出してるのですね。(人が自身の親や子どもを選べないことと対照的でしょう)

もちろん、保険会社にとって全く予想外の事態が絶対に起こらないとは言えませんが、そうした危険性を最小限にするように非常に厳密に精査設計するのが、保険会社の特技ですしビジネスたるゆえんなので、やっぱり「有限責任化」の論理の下にあると言えます。

むしろ、保険において問題なのは、社会保険の方ですね。今や、常に議論の的になってる社会保険の問題ですけれど、これは要するに、社会保険が民間保険と異なり対象を選ばずに全員加入の原則であるがゆえに、社会保険の内部に自ずと「無限責任」を内包してしまうから揉めやすいのですね。

現状では社会保険の負担が大きすぎて、社会保険を縮小したり、民間保険の導入で補完すべきという意見が強い情勢ですけれど、今後私たちがどうするにしても、この社会のどこかに「無限責任」の領域が残ることには変わらない点には留意しておくべきでしょう。つまるところ社会保険の問題は「誰がこの無限責任を引き受けるのか」という非常に困った問題であるわけです。

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江草 令
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