社会的「木こりのジレンマ」
とある読んだ本が面白かったので「よーし、お父さん、読書感想文書いちゃうぞー」と意気揚々とnoteを開いたところ、困ったことにnote上でAmazonカードリンクが生成されないという。
たまーにあるバグで数日前から気づいてはいたんですが、まだ直っていない様子。江草だけの現象かな(なんかやらかしたかな)とも心配になったのですが、どうやら他の方にも起きてるようで、全員かどうかは分からないまでも少なくとも江草一人だけの現象ではないようです。
まあ、実のところ、カードリンク形式でなくても読書感想文は書けるのは書けるのですけれど、やっぱりカードリンクじゃないと映えないのでテンション上がらないんですよね。本を紹介するなら書影も見せたいですし、それに文字だけのテキストリンクなんて今の時代だとほとんど誰も踏まないんじゃないでしょうか(テキストだけだと、なんかどこに飛ばされるか分かんない感じしません?)
インターネッツ詳しい星人の方々なら何か対策を思い付かれるのかもしれないのですが、ど素人の江草には手も足も出ず、ただ直る日を他力本願で待つ他ありません。
というわけで、読書感想文を書くのは延期として、結局今日の隙間時間はnoteの原稿でなく、Obsidianでのデジタルノート環境の整備や過去ブログアーカイブのアップロード作業を少しやっておりました。
整備というのは具体的にはObsidian mobileでの執筆やリンク処理などをもうちょっと快適にしたいなと思って、Commander pluginを用いてTab barやRibbonに機能を追加したり、mobile tool barの内容を整理したりしてた感じです。
といっても、Obisidian部なメンバーにしか分からない話になっちゃってると思うので、もうちょっと一般的な表現で言いますと、つまりは執筆環境のケアとメンテナンスなわけです。
毎日書いてるnoteを原稿とするならば、物書きのデスクには原稿の他にもアイディアを書き留めてるノートであったり、参考にするための資料が置いてあるものですよね。そこで、デスクに散らかってるノートや資料を本棚にしまって整理したり、取り出しやすく追記編集しやすくするように工夫をしたり、そうした執筆環境の修復と改善を図った作業が、先ほどごちゃごちゃ横文字だらけで言ってた話なのです。
執筆を快適にするために、そしてより良いものを生み出すために、一旦本番原稿の執筆の手を止めて環境を整備する。こうしたことが重要なのは誰もが知っているはずですが、案外普段忙しくしてると忘れがちなんですよね。現に、江草もたまたま書こうとしていた原稿の内容の梯子を外されて「じゃあデスク整理でもするか」となったに過ぎないわけで。
江草もちょうど昨日書きたいアイディアが溜まり過ぎて書き切れないという「積ん書き」の悩みを吐露したばかりですが、こういう時こそ焦ってケアやメンテナンスを怠りがちです。だから、不意に今日書く予定が吹き飛んだのは不幸中の幸いであったとも言えるかもしれません。
この類で有名なのがいわゆる「木こりのジレンマ」の寓話ですね。
切れ味が悪くなって効率が悪くなってるのに、その手を止めることができない馬鹿馬鹿しさが滑稽に分かりやすく描かれています。こうして寓話で他人事として見せられると笑えるのですが、ふと我が身を振り返ってみると案外「笑ってる自分自身もできてない」という現実に気づいてヒヤッとする方は少なくないのではないでしょうか。
ありがちなのは、睡眠時間削りですね。忙しいと大体犠牲にされるのが睡眠時間です。絶対的に作業時間が足りないと気持ち的に追い詰められてる時、睡眠時間を削れば一定量すぐにエクストラの時間を調達できるので、私たちはついつい睡眠時間を削ることをしてしまうわけですね。
短期的には仕方ない時もありますし、それでなんとか仕事を間に合わせられるというメリットもあるとは思うんですけれど、それに味をしめて睡眠時間削りを日常的に多用すると困ったことになります。なにせ、慢性的な睡眠不足は結局は日中の作業効率の低下につながるので、木こりの斧の切れ味が悪くなるのと同様に、結局作業の所要時間を増やすことになり、それをまかなうためにさらに睡眠時間を削るという悪循環を呼び込むわけです。
「寝た方がいい」と誰もがわかってはいながら、「わかっちゃいるんだけどね、仕事に忙しくて、それどころじゃないよ」と答えてしまう。
完全に現代人「あるある」な話ですよね。(なお人によって忙しい内容は「仕事」以外に置き換えてもらってもOKですよ)
なんなら、「木こりのジレンマ」の寓話以上に厄介なのは、睡眠不足によって判断力が低下してるがために「自分は寝た方がいい」という判断さえも困難になる場合があることです。もうこうなると悪循環も悪循環なので全く止まる気配がない恐ろしい事態となります。
おそらく、ケアとかメンテナンスとかって、現実に何も生んでない気がするのでなんか不安になるんでしょうね。
特に、安易にただ「時間単位の生産量」を測って「生産性が大事だ」などとのたまう風潮が強い昨今ではそうでしょう。「闇雲に時間単位の生産量ばかりを重視する姿勢」というのは、言わば常に微分して傾きが正であることばかりを気にしている姿勢です。すなわちどの「微小な時間」を見ても生産量が増えてることにこだわってしまうことです。
どの「微小な時間」を取ってみても生産量が増えてることが大事と思ってしまうと、それはつまり「手を止めるな」と言ってることに他なりません。一見何もしてなさそうに見えただけで怒られたり、休憩時間も短めに切り上げることが勤勉であるとして奨励されたり。そうした文化の中では「生産し続けてること」ばかりが偏重されて、ケアやメンテナンスは軽視されることになるわけです。
もっとも、この「木こりのジレンマ」が世の中に知られるようにもなってますし、流石にここまでの「微小な時間」のスパンで生産性を語る人は少なくなってるとは思います。時々、ケアやメンテナンスをした方が、結果的には生産性は上がるんだとね。
ところが、確かにさすがに微分レベルの「微小時間単位」でなかったとしても、私たちが十分に長い期間を想定できてるかどうかは別問題です。
例えば「時々ケアやメンテナンスは要るだろう。でも週単位の生産性は測るぜ」だったら適切なのでしょうか。もしくは「いやそれでも短すぎる。月単位がいいだろう」となるのでしょうか。ひいては「いや四半期だ」「年単位だ」「10年単位だ」「世紀単位だ」などとどこまでもいけます。
つまり、どれぐらいの時間的スパンで生産性を測るべきかという感覚の違いによっても、想定される適切な生産とケア・メンテナンスのバランスは変わってきうるのではないか、そういう問題がここに控えているわけです。
実際、資本主義経済の反省点として、視野が短期的すぎることは指摘されつつあります。企業で一般的な四半期決算の慣習が、短期の利益確保を追い求めることにつながり、長期的な社会の厚生や、なんなら(資本主義の売りであるはずの)経済成長をも阻害しているのではないかと。
あるいは、株主のキャピタルゲイン(株式売買益)も、短期で投機的に売買する株主でも、長期にずっと企業と寄り添ってきた株主でも、同じような扱いで本当にいいのかという疑問も出ています。短期的な株式売買にデメリットがないために、長期的視点を欠いた雑な人員削減などの利益確保行為によって短期的な株価吊り上げを図る(正確に言えばそれを経営陣に圧力をかけて促す)株主が数多く出現し、それが企業や経済の長期的な繁栄を損なったのではないかという批判です。この現象自体が、長期的に企業のリスクを皆で分担するという株式会社本来のビジョンに反しているだろうと。
そんなわけで、もはや四半期単位でさえも、評価スパンとしては短いかもしれないのです。
そうなると、どうでしょう。もっと踏み込んで、年単位でケアやメンテナンスを行うということだってさほど変ではないかもしれません。いや、もっともっと言っちゃえば10年単位だっておかしくないかもかもかも。
ここで江草が想定してるのは(長年のフォロワーさんたちにはもう予想がついてるかもしれませんが)少子化問題です。つまり、育児や教育というケアやメンテナンスを私たちの社会はどう扱う気なのかということです。
確かに、妊娠・出産・育児・教育というのは、ほんと苦労や手ばっかりかかりますし、働き盛りの人間が直接的生産活動でない活動にガッツリ取られるわけですから短中期的な生産量に対してはマイナス因子となります。
ところが、新たに人が生まれ育つというのは長期的な視点で言えば明らかに社会に不可欠な要素です。あえてドライな言い方をしますけれど、経済での生産力の基礎であるはずの「人間」を維持するためのケアやメンテナンスをすることなく、生産性が大事だと言って現役の「人間」を直接的な生産活動にばかり従事させてるのだとすれば、それは社会全体が壮大な「木こりのジレンマ」に陥ってることに他ならないでしょう。(ましてや、それが「直接的な生産活動」ですらない「生産活動もどき」への従事だとしたら目も当てられないわけですが、この話は長くなるので今回は割愛しましょう)
で、育児や教育というのはまさしく10年単位で時間を要するものです。ところが、世の中はようやく「うーん、四半期決算はちょっと近視眼的過ぎたか……?」と言ってるレベル。育児休業も原則1年、長くて2年です。要するに社会はまだまだ育児に臨むレベルの長期的視野に至れてないと言わざるを得ないわけです。
言ってみれば「確かにケアやメンテナンスも大事だよね。でもそれでも四半期や年単位では手を止めずに生産の結果出してね」という感じでしょう。
それが本当に十分にケアやメンテナンスを大事だと思えていると言えるのか。
「木こりのジレンマ」の寓話が広く流布してなお私たちはまだこの問いに真剣に向き合えてないのかもしれません。
……とまあ、なんか今日やったことの日記を書き始めたと思ったら、結構熱くて重い感じの論考が書き下ろされてしまって、江草自身びっくりしております。どうしてこうなった。
なんやかんや言いつつ、江草自身「note毎日更新」とかいう紛れもない日単位の生産性で規定されてる活動をしてるのもありますし、なんならそれで睡眠時間削ってる日もあったりするので、恥ずかしながらめちゃくちゃ説得力がないですね。
これじゃ「木こりのジレンマ」の木こりも「お前には言われたくねえ」と木を切る手を止めて斧をぶん投げてくるレベルでしょう(切れ味が悪い斧なのが救いですね)。
いやはや、申し訳なし。
ま、というわけで、早くnoteのAmazonリンクカード生成が直るといいですね。(まさかのこの結論)