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仕事vs家事vs学びvs遊び

世の中というのは色んな見方で見ることができます。

この色んな見方をあれこれ試すのが江草は好きなのですが、今回もその中の視点を一つご紹介しましょう。

それは「仕事と家事と学びと遊びがそれぞれ対抗しあってる」という見方です。

この4つを江草は略して「事事びび」と個人的に呼んでるのですが、これらが社会の中で覇権を競いあってるところがあるように思うんですね。

その争いにより、「事事びび」の中でヒエラルキー(あるいはカースト)が生まれ、時とともに変動しているのです。

今日はそんなテーマでいっちょやってみましょう。(ライトな口ぶりですがあっさり10000字超えましたのでご注意ください)




世は「仕事帝国」最盛期

たとえば、今現在の社会で最大勢力と言えるのが「仕事」です。

実際、面倒な誘いもたいがい「あー、その日仕事があるんだよね」と言ったら断れますし、「仕事のために必要なんだ」と言ったら無駄遣いも許されちゃう雰囲気があるじゃないですか(なんと下手したらキャバクラ代でさえ経費で落ちますからね)。重要行事の象徴たる冠婚葬祭でさえ、仕事を盾にしたら「それならしょうがないなあ」感が漂います。

完全無欠ではないまでも、このように私たちの社会で最優先レベルで重視されてるのがこの「仕事」です。

昭和時代の「男は仕事、女は家事」の固定的役割分担と「男尊女卑」の組み合わせを経て、それを継いだ平成時代に世を席巻した思想であるリベラリズムとリバタリアニズムがともに仕事中心主義であったことが(「男も女も平等に仕事」の時代になった)、現在の「仕事」の隆盛につながっていると江草は見ています。

しかし、「驕れる者久しからず」「盛者必衰の理」と言いますように、永遠に続くかのように見えた覇権がさっくり曲がり角を迎えるというのは、歴史的にはよくあることです。

たとえばオスマン帝国の最盛期はウィーン包囲の時と言われてます。そんな遠方の土地までノリノリで攻め込んでる当時、攻めてる側も攻められてる側も「オスマンつええ、もう止まらねえ」と思っていたことでしょう。ですが、そんな風に自他共に勢いが最大と思える時にこそ、往々にして権勢は静かにピークアウトし始めるものなんですね。(まあ「最盛期」という語は原理的に「それ以後下り坂」という意味になるのでトートロジー的な話ではあるのですが)

なので、これはあくまで江草の推測に過ぎませんが、「仕事」の栄華も今が最盛期で、ちょうど私たちはその最大版図の瞬間に立ち会ってる可能性があります。

というのも、「事事びび」の中で仕事以外のとある勢力が急伸を見せているからです。


「家事」勢力の台頭

その急伸勢力というのは「家事」です。

「仕事vs家事」の情勢はたとえばこの過去記事でも書きましたけれど、昨今では、「家事」がけっこう急速にその地位を上げてる感じがあるんですね。

今までは仕事をして稼いでお金を家庭に入れていればそれで許されていたのが、そうではなくって実際の家事貢献を見せろ(ショー・ザ・フラッグ)と言われるようになってきたと。

先ほど「仕事優位」の象徴として提示した、「仕事だから」で許される雰囲気が減退してきているわけですね。

これまでの常識が「長い時間働いてエラい!」だったのが「長い時間働いてズルい!」に変わりつつさえあるように思います。

そんなわけで、「家事」の急速な巻き返しに伴って、最大最強を誇った「仕事」の権勢にもどうも陰りが見えつつあるんですね。


まあ、「仕事vs家事」の対立構造は江草のnoteでは前々から頻出のテーマでもありますから、今回はこの辺にしておきましょう。

で、せっかくの今回のトピックで取り上げたいのが、その裏にいる「学び」と「遊び」という二勢力の状況についてです。


「学び」について

たとえば、「学び」。けっこう面白い立ち位置です。

新参者だけど強い「学び」

今でこそ「教育は大事だー」と声高に叫ぶのが常識となっていますけれど、「仕事」「家事」「遊び」はけっこう古来からあったのに対して、「学び」って近代以降の新参者なんですよね。

もちろん昔でも一握りいたエリート知識層は「学び」を大事にしていたと思いますけれど、今みたいに「学び」が大々的な勢力となったのは、やはり学校が広く整備されて大衆教育が始まってからでしょう。

そんな新参者にもかかわらず、「高等教育は無償化すべきかどうか」が選挙の争点にもなるぐらい、「学び」は存在感を示すようになったわけですから、なかなかなものですよね。

「学び」vs「遊び」

で、この「学び」。
「遊んでないで勉強しなさい」というどこからともしれない叱りの言葉が誰もが脳裏に焼き付いてるように、「遊び」とは永遠のライバル感があります。

「学び」vs「遊び」は特に子どもにとっては死活問題ですね。

うまいこと「わしゃあ勉強が好きでたまらんぜ」と、「学び=遊び」になれた人はこのコンフリクトに悩まされずに済みますが、そうはならなかった人は多いでしょう。

「学び」vs「仕事」

そして、「学び」は「仕事」とも複雑な関係性を有しています。

というのも、「仕事のために勉強してる」という意識が世の中に強くあり、それゆえ「学び」が「仕事」に完全に隷属する存在にたちまちなりかねない微妙なバランスの上にあるんですね。

実際そうですよね。
世間では、「学び」を通じて、(仕事上の概念にすぎない)「人的資本」が高まることがなんとなく期待されています。「大学に行ったら高等教育を通じて優秀な人材になるから生産性が高くなって高報酬に値する」みたいな感じです。
もっと極端な態度である「単純に学歴がある方が良い仕事に就けるから大学に行く」みたいなのも全然珍しくないでしょう。

また、「大学で人文系の学問や教養課程を教えるのは役に立たないから止めてしまって役に立つ理系学問や職業訓練に専念するべき」という意見もよくありますよね。

これはあくまで「学び」そのものよりも「仕事」目的の目線であって、「学び」はただの道具として扱われてるわけです。「学び」は「仕事」に資するべきもの。言わば「仕事帝国」の属国のような立場です。

これに対して「学び」の純粋なる価値と独立を訴える派閥が存在し、「仕事」支配に抗い続けています。「学びは仕事のためにあるのではない」「学びはそれのみで価値があるのだ」と。

教育の意義として「人格的涵養」や「リベラルアーツ」を掲げるのは、だいたいこうした純粋「学び」志向の動きですね。

よく、「選択と集中」として知られる「仕事」目線の学術政策(将来芽が出そうな学問研究に集中的に教育予算を配分するよという政策)が問題になるのも、こうした「仕事帝国」の支配から独立しようとする「学び」の抵抗の姿と考えると、なかなか感慨深いのではないでしょうか。

※「選択と集中」に対する江草の私見は過去記事に書いてたりします。

「学び」vs「家事」

さて、先ほど、ここに来て「家事」が急伸してきたと言いましたが、これは「仕事」に対してだけでなく、「家事」と「学び」とのコンフリクトも生じさせています。

「仕事帝国」の属国風味がないではないものの、「学び」はやっぱりこれまでの社会ではスムーズに肯定されやすい比較的強い立場ではありました。

子どもたちや大学生などの若者が「学んでます」という名目で色んな社会的義務を免除されたり、学割等々で優遇されてるのは、皆様もご存じの通りです。これは「学び」が社会の中で一定の地位を誇っている証拠です。

ところが、特に大人では、そう簡単に「学び」カードで許されるということがなくなってきます。それは、「家事」相手でも。

「勉強という大事な行為のためなんだから家事は免除してもらえる」。そのようにさらっと考えてしまうと、「家事」側からの猛反発を受けるようになってきたわけです。

まあ、これは先ほどの「ショー・ザ・フラッグ」の記事のところで指摘したように、最大最強勢力の「仕事」でさえ「家事」に押されつつある時勢ですから、「学び」もやすやすと許されなくなるのは自然な流れではあると言えるかもしれません。(ちなみにこのポストでは世間での「遊び」の地位の低さが見事に表れていてその点でも興味深いです)

また、こうした家庭内の衝突のみならず、社会的にも「学び」vs「家事」の構図はしばしば議論になります。

たとえば、「育児休業中に自己研鑽するのは良いのかどうか問題」ですね。

「育休中に資格勉強していまーす!」とアピールしてる人が炎上したり、国が「育休中にリスキリングしてちょ」と言って炎上したり、「家事に専念すべき時に勉強しちゃダメでしょ」という反応は広く見られます。

これ実際にはけっこう複雑な問題で、江草も過去に複数記事でこの問題を語ってますが、

ともかくも「家事(ここでは育児がメイン)」vs「学び」のコンフリクトが現に起きているということはご理解いただけたのでは無いかと思います。

なお、江草も個人的に「学び」の肩を持ってるところがあるので、こういう提案をしてたりもします。


「遊び」について

さてさて、「学び」を一通り見たところで、忘れちゃいけない、最後の勢力「遊び」について。

立場最弱だけど人気者の「遊び」

「遊び」の最大の特徴はとにかく「公的な社会的地位が低い」って点にあります。

「仕事」中にガッツリ遊んでたら「サボってんじゃねえっ」と怒られるし、下手したら懲戒食らうかもしれません。

「学び」に対しても「遊んでばかりいないで勉強しなさい」とすぐ叱られるのは先述の通り。

「家事」に対しても、パートナーが目の前で家事育児に忙しそうに走り回ってるところで、素知らぬ顔でソファに転がってスマホでYouTubeを見て笑っていたら、次の日には包丁か離婚届が飛び出すやもしれません。

こんな感じで「遊び」は他と公的に比較される時にとにかく立場が弱くって、「優先すべきでないもの」にされがちなんですね。

にもかかわらず、「遊び」が「事事びび」四天王の一角を占めているのは何故か。

それは、公的には優先されなくても、みなの心の中での人気が絶大だからです。すなわち、外見上は激弱でも、隠れ支持がものすごく強力なのが「遊び」なんですね。

みんな色々建前上は言いながらも、なんだかんだ遊びたいんですよ。

「遊び」のゲリラ戦

「仕事」や「家事」や「学び」が、互いにがっぷりよつでぶつかりあって覇権を競い合ってるとすれば、「遊び」の持ち味が発揮されるのはゲリラ戦と言えます。正面から衝突したら勝ち目が少ないから、陰から侵略する感じです。

先ほどもちらっと、「勉強するのが楽しくてしょうがない」という状態になったら「学び」と「遊び」がコンフリクトしなくなる、という話を出しましたね。本人としては実質「遊び」なんだけど、外見上は「学び」をしていることになる。

こういう当人にとっての「遊び」が他の「ガワ」を被るシチュエーションを達成できれば、誰かから「こら!遊んでんじゃない!真面目にやれ!」と怒られるようなことがなくなるわけです。このムーブが実は強いんですね。

「遊び」に浸食される王者「仕事」

実際、今や王者である「仕事」さえも「遊び」に浸食されてる気配があるんです。

たとえば、「好きなことを仕事にする」「やりたいことを仕事にする」的な派閥が自己啓発系で隆盛です。

本音は「遊び」たいけれど、堂々と遊ぶのは社会的地位が低いので許されにくい。ならば、実質「遊び」ながら、最強カーストたる「仕事」の機能が達成できるなら最高じゃん、という発想が出てくるわけです。

これ、いわゆるブルーカラー系の仕事が主流の時代にはなかなか難易度が高かったのが、ホワイトカラー系(特にクリエイティブ系)の仕事が社会の中で増加するにつれて、もちろん依然として容易でもないものの、だいぶハードルが下がってきたんですね。

なぜなら、ブルーカラーと違ってホワイトカラー系の仕事はパッと見では遊んでるのか働いてるのか区別が付きにくいからです。近年、一気に社会に浸透したリモートワークスタイル(ホワイトカラージョブの専売特許ですね)であれば、なおさらその実態は本人しか知るよしもありません。

パッと見では仕事内容が分からないので、「利益」等の客観的成果さえ出せば細かいことを言わずに許されるようになってきました。つまり、個人に働き方や仕事内容の裁量権が渡るようになったんですね。仕事の裁量権が増えれば、それだけそこに当人の工夫次第で「遊び」の要素を仕込むこともできるようになります。

これ、別にただ一般に想像されるような「仕事をこっそりサボって遊んでる」という意味でもありません(もっとも、そのタイプもあるでしょうが)。むしろ、この現象は、当人にとっては「遊び」に近いような「仕事」を次々とクリエイトできる時代になった、という点の方がより特徴的でしょう(サボりという行為は古来からあったでしょうしね)。

だから、実は今の時代、「仕事」の内部に「遊び」が侵食しつつあるんですね。定量評価できるようなものではないので、これをどの程度と見るかは各自の主観的な評価に頼らざるを得ませんが、江草個人的にはけっこう侵食は進んでると見ています。

「仕事」の威を借る「遊び」

もちろん「ガワ」はあくまで「仕事」で、わざわざ「遊んでまーす」とアピールする人はいません。なんなら本人自身も「遊んでる」という認識ではなく「働いている」という認識であるでしょう。

だって、ひとたび、うまいこと「仕事=遊び」という方程式を成立させることができたなら、どちらでも都合のいい方を名乗れるのです。そして「遊び」の社会的地位が低く、「仕事」の地位が高いなら、選ばれるものは自ずと決まります。

そうして、他人に対してだけでなく自分に対しても「これは仕事だ」とおおっぴらに言うことができるようになってきたわけです。

このように、本音では誰もが希求してやまない「遊び」が、最強権威の「仕事」の顔をまとえるならそれに越したことはありません。

これが昨今の世の中で「好きなことを仕事にしよう」「やりたいことを見つけて仕事にしよう」が一大ブームになってる理由でしょう。

「ガワ」が「仕事」なのに、内容が「遊び」ならば、もはや傀儡政権と言うべき状況です。天皇を差し置いて摂政関白が実権を握ったり、将軍を差し置いて執権が実権を握ったりした史実のように、実は「仕事」の内部で「遊び」がひそかに天下を取りつつある可能性があるのです。

「仕事」のような「遊び」の副作用

「でも仕事が事実上、遊びになるならいいことじゃん」と思われるかもしれません。それはほんとその通りで、遊びのように働けるというのは1つの理想形であることに違いないでしょう。

ただ、これは深追いするとどんどん本稿の主題から離れてしまうので細かい点の詳述まではしませんが、やはり何事にも副作用というものがあります。

まず、あくまで「仕事ですよ」という体を保たないといけないという制約が、人々の努力を仕事の本質的内容よりも仕事の体裁(ガワ)を取り繕う方ばかりに向かわせうる点です。
「遊びたい」という人間の根源的欲求の一つにとってはそれで良くても、「働いて貢献したい」というまたもう一つの根源的欲求、あるいは「嘘をつかず誠実に生きたい」という欲求にとってはこれは悪夢となりえます。
「ああ、私働いてるなあ」と自身で実感をもって言える具体的作業がほとんどなく、「私はちゃんと働いてるんですよ」と他人に証明するための作業が多い時、人は「自分の仕事は役に立ってるんだろうか……」と思い悩むわけです。

あるいは、裁量権の有無がこの理想形の実現しやすさを左右するために、裁量権の乏しい仕事が相対的に人気を落とすという現象を生みます。
すなわち、ホワイトカラージョブが人気になりブルーカラージョブが忌避されるということですね。
得てして、ブルーカラージョブの方がエッセンシャルワークであることが多く、この「人気の不均衡」は社会のバランスを揺るがす問題となってます。

※「遊び」化する「仕事」の問題については、こちらの過去記事でも深掘りして語ってます。今の世の「仕事」は果たして「アリ」なのか「キリギリス」なのかを問うてます。

「遊び」扱いから「仕事」扱いになる「家事」

さて、「遊び」に関連して、「家事」の扱いの変質も注目すべき点でしょう。

というのも、「家事」は従来「遊び」のように語られてた傾向があったのですが、今や「仕事」扱いになりつつあるんですね。

「主婦なんて遊んでるようなもんだ」「どうせ家でゴロゴロしてワイドショーでも見てるんだろ」のような言葉は誰もがどこかで目にしたことはあるかと思います。過去の長い「仕事」時代では、「家事」は所詮「遊び」のようなものとして、下に見られてたんですね。

ところが今や雰囲気が一変しています。「育児休業」を「育業」と呼び直そうというキャンペーンがまさに象徴的だと思うんですが、「家事(育児)」は「もはや仕事である」という扱いが色濃くなってるのです。

実際、先ほどからちょいちょい例に挙げてる「家事」派のポスト。なんとなく「家事は事実上もはや仕事なんだ」という語調に見えませんか?

「家事」勢力が急進してる今や、「家事」は「遊び」ではなく「仕事」とみなされてるようになってきていると。でもこれ、おそらく本当のところは理屈としては逆で、「家事」を「仕事」として扱うようになったからこそ勢力が伸びてる、というのが妥当な気がしています。

「仕事」全盛の時代だからこそ、「家事」も「遊び」ではなく「仕事」なんだとするロジックが効くんですね。「遊び」が「仕事」という「ガワ」をこっそり狙ってるように、「家事」も「仕事」という「ガワ」を(こちらは堂々と)狙い、見事成功したと。

「家事」の「脱遊び」「仕事化」の弊害

こうした「家事」の「仕事化」は、「家事」の価値を社会的に見直してもらうための戦略として確かに優れたものであったのでしょう。見てきたように実際かなり効いてそうですからね。

とはいえ、これはこれで例に漏れず副作用があったことも否めません。

家事(特に育児)が「これは遊びではなく仕事と言えるほど大変な活動なんだ」とアピールされればされるほど、その本来持ってる楽しさや遊び心の側面が覆い隠されて、とかく重苦しい活動かのようなネガティブイメージが強まってしまったのではないでしょうか。

「家事」が「所詮遊びだ」などとして下に見られることが不当であったのはもちろんその通りだと思うのです。しかし、その呪縛から逃れようとするあまりに「家事」が昨今では「極めてストイックな活動」として描かれすぎてるきらいがあるのです。それが本来持ってたはずの「遊び心」を抑圧して、いかに合理的に効率的にこなすべきかにばかり注目するようになってしまった。

江草も下記の過去記事で触れたことがありますけれど。
最近はどこを見ても「育児が大変だ大変だ」というコメントばかり、もっとその楽しさも伝えていってもいいのでは、という意見があります。

ほんともっともだと思うんですね。

ただ、おそらくこうした大変さの要素が「家事」イメージの前景に出るようになってるのは、「家事」が「脱遊び戦略」かつ「仕事化戦略」を取ったことの副作用と言えるでしょう。


革命の時は来るのか

「仕事」はまだまだ最強

さて、こうして全体を俯瞰して見ると、やはりなんだかんだ「仕事」の権威が圧倒的であることが分かります。

「家事」は、「自分も実質的に仕事だ」とアピールすることで勢力を急拡大させています。

「学び」は、「教育は仕事に役立ちます」とアピールすることで予算獲得と生き残りを図ってます。

「遊び」も、「いかに仕事という体裁の中で遊べるか」という試みを進めてます。

三者三様に見えつつも、結局いずれも強大なる「仕事」の権威にあやかろうとしてる仕草と言うことができるでしょう。だからこそ、それぞれが抱えている悩みもまた、このどうしても「仕事」の傘下から逃れられないところに根っこがあります。

「家事」は「仕事」の体裁を取るために「遊び心」を喪失し、「学び」は「仕事」の属国的振る舞いが余儀なくされ純粋な学究に没頭できなくなり、「遊び」はガワだけ「仕事」という欺瞞性に耐えられなくなってきた、と。

権勢に陰りが出てきた兆候があるとは言え、やはり依然として世の中では「仕事」が強大であるがために、このように他の三勢力からするとまだまだ不本意な状況に止まってると言えます。

求められる「遊び」革命

この状況を打破するには、根本から変えねばならないでしょう。

すなわち「遊び」による革命です。

つまるところ、上記の通り誰もが「仕事」におもねらないといけないのは、「仕事」がこの社会で最強の地位にあり、そしてその対極たる「遊び」が最下位に置かれてるからです。

このヒエラルキーを所与の前提とするから、「これは遊びじゃないですよ」「これは仕事ですよ」といちいち前置きしなきゃいけなくなるのです。

だから革命です。トランプゲームの「大富豪」で最弱のカードが一転最強になるアクションを「革命」って呼びますよね。まさにあの「革命」です。

「遊び」の地位をここらで急激に上げて、「仕事」の地位を脅かしましょう。本当に革命ばりに完全に引っくり返すまでいかなくとも、地位を肉薄させるだけでも相当に状況は変わるはずです。

先ほど「遊び」の生存戦略として「仕事」の「ガワ」をかぶる策を紹介しました。これはこれで確かに賢いやり方であるとは言え、やはりちょっと姑息な手段であったのも事実でしょう。

この「事事びび」コンフリクトの中にあっては、「仕事」の独占的な権威を削ぎ、「遊び」そのものの地位を直接的に復権させることが本来「遊び」にとっての正攻法のはずです。

実際、「遊び」を直接的に支持する動きはあるんですよね。

先ほども挙げたような「家事」における「楽しさ」や「遊び心」をもっと打ち出そうという意見。「遊び」の中からこそイノベーティブな発見や発明が生まれるのだという声。そして、「そもそも人間は遊ぶ生き物だ」という「ホモ・ルーデンス」的な認識。

そう、「遊び」は堂々と「遊び」自身としてありながら他勢力と十分に渡り合える伝統と実力を有する「眠れる獅子」であるはずです。

目下の「仕事帝国」全盛期にあっては、低い地位に鳴りを潜めていますが、今後「仕事」の権勢が衰えてくるなら、「遊び」勢力が一挙に伸びる目も出てくるやもしれません。

江草のnoter友だちのホモ・ネーモ氏が謳う「アンチワーク哲学」なんて、まさに「仕事」に宣戦布告をし「遊び」を前面に打ち出す真っ向勝負の先駆けでしょう。

このように、今後の社会を占う上で「遊び」の動向は要注目ポイントではないかと思います。


「事事びび」はどれも大切だからこそ

というわけで、だいぶ長くなりましたが(おかしいなあ2000字ぐらいでざっくり書こうと思ってたのになあ)、「事事びび」の勢力争いについて概観してみました。

この方が面白いと思って、本稿ではあえて対立構図にフォーカスを置きましたが、ほんというと必ずしもこれら「事事びび」四者は対立ばかりしてるものでもありません。

「仕事」が「学び」にニーズを与えたり、「学び」が「仕事」にヒントを与えたり。あるいは、他者の「家事」や「遊び」に資するための「仕事」というのも山ほどあるわけです。

常にこれらがいがみ合ってるというわけではもちろんないのです。三国志でも戦国時代でもそうであったように、合従連衡は世の常ですからね。

結局のところ、「事事びび」は四者いずれも人類にとって非常に大切な営みなんですよね。どれも人類我が身から出た大事な"子"であり、どれかが絶対悪ということは決してありません。

ただ、どれも大切だからこそ、、、、、、、、、、衝突するというところがあるんですね。どれかがより勢力を拡大しようとすると、その時他のどれかが割を食う。だからぶつかる。

特に現代社会では「仕事」が強くなりすぎて、他のものを圧倒してしまった。でも、これは「仕事」が大切ではないなどという意味ではなく、「仕事」も大切なんだけれどしかし過度に他の大切なものを追いやってしまってるという悩みなのです。

「悪者がいる」なら話が早い。それを排除すればいいだけですから。
でもそうではなく「どれも大切であるがそのバランスが崩れてる」という繊細な状況だからこそ難しい。

こういう時、簡単にスッキリする答えは出ません。
しかし、どれも大切であるからこそ、その答えを求めて「考える」のです。

私たちが私たちの大切なものを諦めず、私たち自身の意志と手でもって大切にしたいなら、それがいかに大変でもそうするしかないのです。



余談

ところで、今回主題にした「事事びび」の分類は過去に書いたこの「WLLLPバランス」の記事と発想はかなりそっくりです。

ただ、こちらの「WLLLPバランス」では「P(政治)」も大切な一要素として立ててるのが異なる点ですね。

今回の「事事びび」も、「政治」を加えて「事事治びび」にしても良かったのですが、なんか語呂や見た目が悪いので外しました。要素が増えると、一通り概観するのも複雑になりそうでしたし。

ええ、非道です。
言ってる端から、大切なものを大切にしてない江草、ほんま悪いやっちゃですね。

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江草 令
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