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労働者が生産手段を握ったら既にそれは資本家なのでは
昨日の記事に補論を加えたくなっちゃった。
『欲望の資本主義2024』番組内の
「【資本家】-【生産手段】」-「【労働者】」
という、資本家が生産手段(工場設備など)を所有していた時代から、
「【資本家】」-「【生産手段】-【労働者】」
と、労働者が生産手段を握る時代になった、という話を昨日の記事で紹介したんですけれど、この番組の解釈はぶっちゃけ正確ではないのではという話を書いてなかったのに気づきまして。
今日はその話をしていきます。
番組が言うように「生産手段が労働者のものになった」と言うのもそれはそれでそれっぽいんですが、違う見方もできると思うんですよね。
それは「労働者が資本家でもあるようになった」というものです。
まず、無形資産が主力になりつつある昨今の資本主義経済あるいは知識労働社会において、労働者個人が所有している知識やノウハウが生産手段になってることを前提として、「生産手段が労働者のものになった」と番組は解釈しているわけです。
ですが、そうした労働者が握っている生産手段(知識やノウハウ)、もっと言えば学歴や業績が、その個人の高報酬(利潤)につながるのだとすれば、それは結局は資本の役割を果たしていると言わざるを得ないでしょう。
となると、そうした資本(=生産手段)を所有している労働者は本当にただの労働者なのか。そうではなくて、既にその労働者は資本家の性格も帯びるようになってきていると解釈する方が自然なんじゃないでしょうか。
もちろん、彼らは雇われて働いているので形式的には労働者です。しかし、その上で生産手段を握ったために、形式的に労働者であると同時に質的には資本家であるというアンビバレントな存在に変異しているのです。
実際、人的資本って言葉もあります。
高学歴な人材が高待遇になるのは、その人材が優位な人的資本(知識や経験やノウハウ)を持っているからで、だからこそ高等教育を広く行き渡らせて人的資本を高めることが生産性向上に大事だ云々、という教育の意義についての人的資本仮説で知られています。(ここでシグナリング仮説という対立仮説があって教育の意義を巡る興味深い議論があるところなのですが、本稿の関心から外れるので割愛。下記などを参照ください)
で、このように堂々と「人的資本」って呼ばれてるぐらいですから、「人的資本」すなわち「知識労働社会における生産手段」さらにすなわち「知識や経験、ノウハウ、人脈、学歴、業績、資格などの無形資産」を所有する者は当然資本家とみなすべきでしょう。
多くの方がキャリアアップに余念がない時代です。キャリアとはつまりより高い報酬(利潤)を得るための人的資本です。だから、キャリアアップをみんなが志向するならそれは人的資本主義社会であり、キャリアワーカーは人的資本家と呼ぶべきなのです。
つまり、完全に資本家になったとは言わないまでも、労働者の労働者性が資本家性に押されて、思いのほか多くの人々が質的には(人的)資本家になりつつあるのが今ということになります。
もっと言えば、そうしたキャリアアップして高報酬を得ている人的資本家たち(兼労働者)は、たいがい金融資本も持っていて、投資に余念がないという意味でも資本家です。彼らは高い報酬をタネ銭として新NISAやiDeCoに満額投資できますし、オルカンやS&P500、不動産などの投資商品に高い関心を持っています。
さらにさらに言えば、そういう高報酬の人的資本家たちはふるさと納税の恩恵が大きかったり、(支払額も多いけど)将来の年金の受給額も大きくなります。
結局のところ、こういうのが、キャリアアップして高報酬を得た人材たちがやってること(個人資本の拡大の志向)なのですから、これを資本家と言わないのは難しいでしょう。
で、誰も彼もが資本家になったらどうなるか。
みながみんな資本家らしく自身の資本の増殖を図るとすると、隣もあっちもそっちもみんな資本家だから万人の万人に対する闘争になっちゃうわけです。実態が無形資産であるがために、各自の人的資本(生産手段)の優位性は周りとの相対評価で決まるので、どうしても競争になりがちなんですね。
もちろん、全くのゼロサムゲームというわけではないはずです。それでも、学歴競争やキャリア競争、大きな仕事を引き受けるためのPR合戦、もっと言えばSNSでの注目集め競争なんかを見ていても、各個人が自身の人的資本を高めようとすると互いに衝突する傾向は強いと見る他はありません。
それゆえに(ピュアな存在としての)労働者同士みたいな協働関係になりにくいのが今という時代です(なお、これが労働組合活動が衰退していってる一因と江草は見ています)。
余談ですが、こうした昨今の人的資本主義社会について、生産手段の共有(国有)を訴えてる共産主義は対応できてないんではないかという素朴な直観も抱いています。
怠け者の江草はアンチョコ本ばかり触れていて、マルクス本体を読んだことがないから最終的にはわからないんですけれど、工場機械や土地ならいざ知らず、そもそも人間個人の内部に生産手段があるなら、それを共有するのは相当難しいはずですから。
なので、共産主義思想において、こんなにも労働者自身が資本家とハイブリッドしてしまう社会は想定されてたのかなあというのが江草が最近思ってる疑問です。
「各人はその能力に応じて(働き)、各人はその必要に応じて(受け取る)!」というマルクスの有名なスローガンは、個人の人的資本を基軸にしている能力主義社会を拒んでいるように思えるので、やっぱり現在の状況が容認されてることはないとは思います。でも、団結するはずの労働者たちがみな資本家になってしまったら、その理想の実現はめちゃくちゃ難しいのではないでしょうか。
なお、この辺の疑問は下記の記事でも語っています。
だいぶ脱線してきた気もするので、ここらで〆にします。
そんなわけで、以上、番組の「労働者が生産手段を握った」という解釈はもっと大胆に「労働者が資本家でもあるようになった」と解釈すべきなんじゃないかという話を語ってみました。
なんにせよ、多くの人々が労働者でもあり資本家でもあるという一人二役、いわばプレイングマネージャーをするのが常態化しつつあるからこそ、現代の資本主義を巡る問題はややこしいと言えるでしょう。
この「プレイングマネージャー問題」は、今回のような「資本家ー労働者」の構図に限らず、他の構図でも当てはまる結構面白い切り口と思ってるので、また機会があれば別視点も含めてまとめたいなあと思っています。(多分過去にも部分的には書いたことはありますけれど)
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