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自立依存症

最近読んでたこの自己啓発本『FULL POWER』(何を隠そう、江草に「土日の更新休もうかな」と思わせた犯人がこやつです)で「自立」に対する批判の箇所があったんです。

 世界中で、「自立」への大きな流れが存在する。これは主に、欧米の個人主義への執着からきている。東洋的な視点とは対照的に、欧米の文化では自己を、周囲から切り離された自立したものと見ている。
 この視点は勇気をもらえるものではあるものの、単純すぎるし間違ってもいる。テクノロジーの進化により、世界が互いに持ちつ持たれつの関係であるというのは、これまで以上に明白になってきた。私たちは誰もが、個人、社会、世界のレベルで互いに頼り合っているのだ。
 自立を目標とするべきではない。理由は簡単で、あなた個人の世界観はあまりにも小さく、狭すぎる。あなたの意図は刺激的で利他的かもしれないが、あなた自身の意図だけに限定されている。自分の意図を、他の人たちや他の組織のものと組み合わせれば、それは変化する。今の自分では理解できないような形で、拡大と変化を遂げるだろう。
 というのも、「アイデア」と「人」という組み合わせは、独創的で新しい何かを実際に作り出す唯一の方法だからだ。

 「自立」という蔓延したイデオロギーを乗り越え、「持ちつ持たれつの関係」と「前向きに変化を起こす人間関係」を完全に受け入れる意思があるならば、自分の利益ばかりを優先する考え方の競争相手を打ち負かすのみならず、あなたが今いる場所のルールや枠組みさえも打ち砕くチャンスがある。

ベンジャミン・ハーディ『FULL POWER』

「ですよねえ」と納得するところもあれば、「うーん、それは違うような気がするなあ」と思えるところもある書籍でしたが、この自立主義への批判は前者の「ですよねえ」の方になります。

この書籍はアメリカの邦訳ですが、実際、日本でも普通に自立主義は広がってるように思うんですよね。

たとえば、日本でも(なんなら「ふてほど」より)流行している「FIRE」という言葉。前半部分は"Financial Independence"の略ですから、すなわち「経済的自立(独立)」です。見ての通り明らかに自立主義な思想ですよね。

あるいは「自分の生計を自分で賄ってこそ一人前の社会人だ」という価値観も広く見られるように思います。生活保護受給に強いスティグマがあるとか。これも「誰か他者に依存していない」という状態を良しとする自立主義と言えそうです。

でも、おそらく『FULL POWER』の著者も言う通り、世の中というのはそういう風には出来てないんですよね。実際には社会は人が人に頼り合いながらできあがってるもの。昨日もちょうど「社会が巨大なコミュニティと化してる」という話をしましたけれど、コミュニティだからやはり相互依存性がそこにあると思うんです。

ここでたとえば「お金を貯めたから」とか「出世して高収入になったから」とかいうことをもって「自分は自立してるんだ」というのは幻の自立であって、言ってしまえば勘違いなんですよね。

先の書籍でもそういう指摘がなされてます。

自分がすごいから「出世」するわけではない

 あなたの成功は、あなたの環境なしにはその形で起こることはあり得なかった。あなたを作ってくれたのは状況であり、数え切れないほどの人たちだ。起業家のマイケル・フィッシュマンはこう話す。
『自力での出世』なんて見当違いだ。あなたが今日手にしている人生は、たくさんの人たちが神聖な役割を果たしてくれたおかげだ。どれだけ感謝しているか、その人たちに必ず伝えよう。たとえば、あなたの配偶者やビジネスパートナーを紹介してくれた人を、さらに紹介してくれた人。そこまで遡ろう」
 あなたの成功はあなただけの力ではないため、常に謙遜し、感謝しているべきだ。
 生まれてきたのはあなたの力ではないし、インターネットを作ったのもあなたではない。親やメンターもあなたが作り出したわけではない。
 今あなたが手にしている様々な特権は、あなたが犠牲を払って手に入れたものではない。そしてあなたは、ものすごい数の特権を手にしている。
 こうした特権は、土台として使うためのものだ。利用しよう!  活用しよう!  とはいえ、自分はそれを作っていないということを、決して忘れてはいけない

ベンジャミン・ハーディ『FULL POWER』

また、昔読んだ『給料はあなたの価値なのか』にも似た指摘があったような記憶があります。

タイトルからお分かりの通り、ガッツリ「実際のところ能力や重要性に基づいて給料が決まってるわけではない」と指摘する書籍です。

成功(特にここでは経済的成功)は別にその人の自力のみで実現したものではなくって、(しばしば「成功者」と扱われない)他の数多くの人の手助けがあってこそ。すなわちあくまで「他者に依存した成功である」ということになります。

どこかの有名な標語でも「自立とはたくさんの対象に依存していること」みたいなのがあったような気がしますし(お寺関係だったかなあ?)、「自立とはその実、依存である」というのはあながち変な捉え方ではないわけです。

そんな本当は誰もが他者に依存してる状況にもかかわらず、「自分は自立してるんだ」と思い込んだり、あるいは「自分は自立しなきゃ」という強迫観念に駆られてるとしたら、それは「自立依存症」なのではないでしょうか。「自立に依存する」とはなかなかに変な言葉ですが、でもそう表現できてしまうなと。

「依存症」という言葉は本当はけっこう繊細な用語なのでアレなのですが、ここでは「特定の物事に執着することによって本人や周りが苦悩している状態」みたいな意味で扱ってます。

実際、先にも挙げた「自分の生計を自分で賄ってこそ一人前の社会人だ」という価値観が象徴するように、経済的な自立を「善」として、万人がそれを目指す自立主義社会になると、どうも変なことになるんですよね。

というのも、「自立」がお金基準だと誰が誰に貸しがあるか明瞭になってしまうからです。

まず、お金ってのは一円単位で計算できます。なんなら計算する行為自体がそもそもお金の本質です。で、上に挙げた「経済的自立」って要するに計算の結果、収入が支出を上回ってる黒字の状況なわけですよね。

しかし、全員が黒字になるってあり得る状況でしょうか。自分の支出は誰かの収入なわけですから、誰かが多く黒字になったら、巡り巡ってどこかで誰かが帳尻を合わせて赤字になるはずです。つまり、あなたが黒字になって「経済的自立」を獲得した時、他の誰かが「経済的依存」状態に陥るということになります。

ここで「経済的自立こそが善」という世の中であればどうなるかと言えば、人々の間で「経済的依存」状態から脱して「経済的自立」を獲得するための競争が始まることになります。「善」なのだからそれを希求せざるを得ません。

しかしまあ、その競争の激化でみんなが互いに疲弊して苦悩してるというのが、現状皆様もご承知の通りです。

で、勘の良い方は「それはゼロサムゲームの想定であって、プラスサムゲームであれば成り立たないんじゃないか」ってお気づきのことと思います。まさにそうなんです。先の「誰かが黒字になれば誰かが赤字になる」という法則が成り立つのは「市場にあるお金が有限固定量であるならば」という条件付きになります。つまり、お金が場に次々に供給されるなら、必ずしも誰かが赤字にならなくても済む可能性があるわけです。

ただ、そうなると今度は「市場にお金を供給してるの誰なの」ってことになります。これは、日本銀行券としてお金を発行してる日銀であったり、国債で予算を賄ってる政府ですよね(信用創造してる諸銀行を含めてもいいでしょう)。これらの機関がお金を次々に投入してくれるから「黒字」が人々の間に行き渡りうるというわけです。

ところが、ここでの想定が「自立主義社会」であることを忘れてはいけません。この社会では「経済的自立が善」なのだから、政府にも例外なくそれを求めるわけです。「こらこら、そんなに大量に赤字国債発行して経済的に自立してない政府じゃ困るなあ。ちゃんと財政を均衡して黒字化してくれなきゃ」などと。

まあ、これはもちろん別テーマとして一考しなければいけない指摘ではあるのですけど、今はあくまで本稿の文脈で話を進めますと、こうして市場外部の機関にさえ「経済的自立」を求めるようになってしまうと、それは結局事実上のゼロサムゲームなんですよね。やっぱり誰かが黒字になったら誰かが赤字になる閉鎖空間になってしまうわけです。

これでもう政府機関も含めて、万人が経済的自立を獲得するための争いになるので、より一層過酷な競争が巻き起こることになります。昨今巷でも常に議論の的になっている、税金を増やすかどうかとか社会保険料を上げるかどうかとかは、政府機関や公的制度自身が自身の経済的自立を求める競争的努力によるものと考えると理解できるでしょう。

(ちなみに、本稿ではもう詳細に立ち入りませんが、この社会的苦境に対する逃げ道として世の中で立ち現れてるのが「経済成長」信仰と将来世代人口の前借りと思ってます)

つまるところ、お金が依拠している交換原理だと、どちらがどちらに貸しがあるのかすぐ分かってしまうんですよね(実際には文字通りの意味ではないのですが簿記でも「貸方」「借方」という表記があるのも象徴的かもですね)。この交換原理の下で「経済的自立(黒字)こそ善」としてしまうと、一円でも多く「黒字」の貸し手になろうと、互いに永遠に自立を求めることができてしまうわけです。

こんな感じで「自立主義社会」はどうにも変な事態になってしまいます。

色々考えられるとは思いますが、やはり、まずもって「自立」を崇め奉り過ぎてるのが問題ではないかと。先にも述べたように、そもそも「人は自立なんてしてない」のですから、万人が「自立」を希求するのは土台無理な話なんですよね。

にもかかわらず、誰もが強迫的に自立を求めて苦悩してるのだとすれば、また、誰か「自立してる者」が「自立してない者」を下に見るような態度を示してるのだとすれば、それはやはり「自立依存症」と称すべき困った社会状況のように思われるわけです。



余談ですが、今回のテーマである「自立依存症」は、先日読んだ『投資依存症』という書籍のタイトルにインスパイアされて思いつきました。


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江草 令
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