社会常識を教えるということ
最近たまたま立て続けに「最近の新人は社会常識が無いからそれを身につけさせる教育や研修をしないと」という話を聞きまして。医療界におけるそれぞれ別組織、別職種です。
単発だったら「まあそういうこともあるかな」と聞き流す話なんですが、別方向から複数出てくるとソワソワしてきます。なんかこれ業界として怖い方向性に向かってないかって。
確かに社会常識というのは色々言われつつも一定必要ではあると思います。基本的に対人関係の衝突を防ぐ社会の「潤滑油」として常識やマナーというのはあります。なので互いにそれらを欠いて衝突しっぱなしになってしまうと、組織としてまともに仕事にならないでしょう。社会常識を身につけさせることによってそうした不要な衝突を防ぎたいという気持ちは分からないでもありません。
ただ、こと医療界でそういうことが言われ始めると正直不安が拭えないんですよね。
たとえば、特段理由はないけど余らせるのももったいないということで消化目的で有給休暇を取ろうとしたら「特に理由もないのに有給休暇を取るなんて常識がないね」とため息をつかれたという話を聞いたことがあります。
皆様はすぐお気づきの通り完全に色々アウトな発言なのですが、法的にアウトなのもさることながら「有給を消化しない方が社会常識」という認識が普通になされてる点がより恐ろしいわけです。
あるいは「月50時間超えの残業時間は申請しないように」と部長から直々に申し伝えられたりとか(超過分は公然のサービス残業)いう話もありました。
いずれもあくまでもはや過去の話で(あと江草自身の話でももちろんありません)、今さらどうこうするものではないのですが、しかし、こういう雰囲気の業界で教えられる「社会常識」ってそれこそ本当に大丈夫なやつなのかと心配にはなっちゃいますよね。
なんなら「最近の新人は社会常識がない」というのも、本当にそうなのか疑問が湧いてきます。むしろ社会常識を身につけてるのは新人の方で、それを変な方向に矯正されようとしてるという可能性はないのかと。
もちろん、これはちょっと露悪的、悲観的に言っちゃってる面がありまして、実際に「有休消化するな」とか「サービス残業しろ」とかいう教育指導が堂々と公になされることはないでしょう。
ただ、それでも「既に内部に居るベテランは社会常識があって、若い新人は社会常識が無いはず」という認識は、けっこう偏ったものではないかと思うんですよね。しかし、その認識の上でスルリと「社会常識をベテランが若者に教える」という構図に至ると。
まあ、江草も医療界以外のことはあまり知らないので、ひょっとするとこの問題は業界を超えて存在してるのかもしれません。
そういえば、ちょっと前に、「優秀な人間を認定する者こそが優秀と評価される」という逆説を描いた記事を書きました。
今回の話はこの変形版で「社会常識を教える者こそが常識があると評価される」という構造なのではないかと。
常識って結局はつかみ所がないよく分からないものじゃないですか。先ほど「潤滑油」と表現しましたけれど、あくまで人と人の間隙に挟まって存在しているもので、誰かのものでもない、人の間に自然と生まれ出てくるものというイメージです。隙間にあって不定形でヌルッとしてる。本来はウナギのように掴もうとしてもつるりと逃げるはずのもの。
しかしここで、「常識を教える側」という名目を手に入れると、我が物顔で「常識」を使えるようになるんですよね。「常識を教える側」はなにせ「教える側」なのだから「その者に常識があること」は保証されてるということになるわけです。(次々に新しいマナーを編み出す「マナー講師」を想像してみると分かりやすいかもしれません)
こうなると、本来、流体であったはずの「常識」が「常識を教える側」に固定されて、彼らと一体化します。「常識」が固定化されるのでその「潤滑油」としての役割は果たせなくなるのですが、固定化されることで「教えられる側」をがっちり束縛できるので、それはそれで衝突が起きなくなるんです。つまり、「教えられる側」が「支配され囚われる側」としてピタッと固定されることで、人間関係の衝突もなくなると。
このせいで常識が「潤滑油」としての役割を失ったことが気づかれにくいんですよね。「いやあ、ちゃんと我々が新人に社会常識を教え込んだから人間関係の衝突がなくなったなあ」などと。
本来「潤滑油」というのは互いが動きながらもその衝突や摩擦を防ぐことに意義があるわけですが、ここを「動きを束縛する」という方向性で解決しちゃってるのです。これは似て非なる状況なはずなのですが、結果として衝突がなくなるので(「教えられる側」が「教える側」にただ従順になっただけなのですが)、常識が本来の役割を果たせなくなってることが分かりにくくなってしまう。
だから、江草としては「新人に社会常識を教えないと」みたいな話には身構えてしまうんですよね。それって要するに「我々の所有する常識に従ってもらうぞ」すなわち「我々の言うとおりにしろ」と言ってるように聞こえるからです。
なんか怖いですよね。
もっとも、「常識は社会の潤滑油である」という認識がそもそも江草の誤解にすぎないのかもしれません。
そうではなく、「常識とは人を支配するための道具だ」というのが正しい社会常識なのだとしたら、いやあすみません、なにぶん、江草はそうした常識が身についてない人間なものでして。
でも、そんな常識は教えていただかなくてけっこうです。