「風呂なし物件」を選ぶ若者の報道に怒り出す人たち
「風呂なし物件」をあえて選ぶ若者が増えているんだそう。
常識的には必要とされてるものをあえて個人的には外してしまう、いわゆるミニマリスト的な発想を感じますね。
まあ、これだけなら「へー」で過ぎ去るだけのトピックなのですが、真に興味深かったのはこの報道に寄せられてるコメントたちです。
たとえば目についたのをピックアップすると。
このように「本当は誰だって風呂は欲しいはずなのだから、これは要するに貧乏ってことだ。それをポジティブな雰囲気で報道するなんてけしからん」とお怒りのコメントが見受けられるんですね。
しかも、時々混ざってるというレベルではなく、こういうお怒りコメントの方がむしろ優勢にあふれているのです。
確かに、ご指摘は一理あるんです。
人には自分が選択可能な現実的な範囲内で幸福を追求しようとする「適応的選好」という傾向があることが知られています。つまり、人は貧乏ならば貧乏なりに幸福を求めて工夫をするというわけです。だからこそ客観的に見て過酷な条件下においても時に人は「幸福だ」「満足だ」と言うことがある。「すっぱい葡萄」の話も似ています。
それゆえに、本人が「幸福です」「満足しています」と言っているからといってその人の貧困問題を放置していいのかという問いがなされることになります。これは「最大多数の最大幸福」を目指す功利主義の実践でしばしば議論になります。
だから、今回の「風呂なし物件」の話においても、本人が「僕は風呂なしでいいんです」と言ってるとしても、それは彼らが無意識のうちに貧困状態に適応したからであって、そうした「適応的選好」の状況に彼らを追い詰めた社会に問題があるのではないか、と問うことはまこともっともで重要な問題提起と言えます。
ただ、そうした指摘がちらほら混ざってるという程度だったら健全かなとも思うのですが、こうも「そんなはずはない、本当は本人たちも風呂が欲しいはずだ」というコメントが量で圧倒しているのは、ちょっとおかしいんじゃないかと江草は思うんですよ。
似たような光景は、他の場面でも時々みたことがありまして。
自分の服を数着しか持っていないようなミニマリストに対して「要するに貧乏ってことだろ」と切り捨てたり、ランニングを趣味にしている人に対して「ま、ランニングってお金がなくてもできる安上がりの趣味だしな」と腐したり。
どうも、あまり多くを求めず、あまり多くを使わないライフスタイルの人に対して、妙に攻撃的になる空気が世の中にはあるように感じるんですよね。
で、これは書籍『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』でも示唆されていたところですが、ミニマリズムというのは上から「こうしましょう」とか「こうすべきだ」とイデオロギー的な指示が降りてくるようなトップダウン型の活動ではなく、各個人でそれぞれの「ミニマム」を目指した実践が拡がっていくボトムアップ型の活動なんですよね。
たとえば、かの有名な「こんまりメソッド」だって、「自分にとってときめくものを残して他を捨てましょう」と言ってるのであって、「ブランドバッグなんて無駄です。捨てましょう!」などのようには言ってないですよね。
あるいは、がらんどうの部屋に住んでるミニマリストたちだって「モノをこれぐらい捨てないやつらは愚かだ」と言ってはいないでしょう(もしかしたら一部にはそんな過激なミニマリストもいるかもしれませんが)。あくまで「自分のミニマムを突き詰めたらこうなりました」と語っているだけです。
つまり、せいぜいがさほど押し付けがましくない形で「それぞれの個性に合わせたミニマムを追求してみては」と提案してるに過ぎません。
だから、仮にあなたが客観的に見て散らかってる部屋に住んでいたとしても、本気でそれが必要不可欠な最低限度のモノが詰まった部屋だと思っているのであれば、別にそれ以上捨てろとミニマリズムは言わないわけです。
同様に、「風呂なし物件」に住む若者たちも、別に何も「みんな風呂あり物件に住んでるなんてアホだなあ」とか「風呂あり物件は悪だ」なんて言ってるわけではありません。
ただ、彼らの選好として「風呂は優先順位が低かったので省略しました」と語ってるだけなのです。
これに対して、大の大人たちがいきなり「いやいや、君たちはほんとは風呂が欲しいはずだ!」とか「ただ君たちは貧乏なだけなんだよ!」と押し寄せるのは、なんと言いますか、シンプルに下品だと思うんですよ。
言うなれば、
「ユミはぁ、最近もうスイーツとかいいかなぁって思ってぇ……。ダイエット始めたんだぁ……」と語ってる子に対して、「いやいや何いってんの、ユミ!ほんとはあなたもケーキ食べたいでしょ。ほらここにケーキバイキング券あるから今から一緒に行こうよ♪」と誘う悪友のような、
ペリカを貯めるためにここは柿ピーで耐えようとしている某ギャンブラーに対して「フフ......へただなあ、カイジくん。へたっぴさ........!欲望の解放のさせ方がへた....。カイジくんが本当に欲しいのは...焼き鳥こっち......これを下のレンジでチンして....ホッカホッカにしてさ......冷えたビールで飲やりたい......!だろ....?」と煽る某班長のような、
そんな「本当にほしいのはこっちだろ」といきなり他人が決めつける無礼さを感じるのです。
このような、別にミニマリスト側が「こうしろ」とか「こうすべき」とか押し付けてきてるわけでもないのに、むしろ彼らのライフスタイルを目撃した者たちの側が急に怒り出す様は、書籍『何もしない』に出てきたピルヴィ・タカラの「何もしない研修生」のパフォーマンスアートの事例を思い起こさせます。
「ほんとに全く何もしない研修生」という常識外の存在がオフィスに登場しただけで、通常の職場秩序に対する脅威と受け止められ社内に動揺が広がったという大変興味深い事例です。
この事例でも研修生はただ自身のスタイルを貫いているだけで、周囲に対して「あなたたちも何もしないべきだ」と押し付けがましく説いて回ったわけではありません。
しかし、それでも十分大きな衝撃を周囲に与えたわけです。「常に何かするべきだ」という自分たちが無意識のうちに信じ込んでいた常識が揺るがされてしまったから。
今回の「風呂なし物件」の若者に対して妙に批判的なコメントの数々が集まったことや、あるいはミニマリストの生き様を見て妙に否定的反応を示す人たちが少なからず居ることも、実は同様の現象ではないかと思うんですよね。
普通なら「最低限コレは必要」と誰しもが思うはずだ、という自分たちの常識を彼らが揺るがしてしまった。その得体の知れなさ、日常の秩序への脅威の感覚から、つい「そんなはずはない」と彼らの存在そのものを否認しようとしてしまっているのではないかと。
最初にも述べたように、確かに「適応的選好」の可能性はあります。
でも今回の「風呂なし物件」記事でもわざわざ「家賃の安さだけでない魅力」と注記されてるにもかかわらず、それを無視していきなり「それは貧乏だからだ!」と突撃してくるのは、乱暴だし品がないと言わざるを得ないでしょう。
むしろ、そうした攻撃的な反応を衝動的にしてしまう自分たちの中になにか潜んでるモヤモヤがあるのではと省みるべきではないでしょうか。
本当は「普通ならこうすべき」「最低限コレぐらいは持ってないと恥ずかしい」などの強迫観念にとらわれてしまっている自分たちにこそ怒っているのでは?
それにとらわれずにいられる人たちが居ると、そうできない自分がもどかしくて嫌になってしまうから、その存在を否定したくなるのでは?
もっとも、これこそまさしく「本当はあなたはこうしたいんでしょう」と問う、全くもって無礼な問いかけではあります。本稿で語ってきた内容からすると完全なるブーメランかもしれません。
でも、今回は、他人に対していきなり「本当はこうなんでしょう?」と突撃している人に「本当はこうなんでしょう?」と問い直してるだけですから、ある意味そのスタイルを尊重しているだけということで、ここはひとつお許しいただければ。
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おまけとして、本稿で言及した書籍それぞれの書評記事を付記しておきます。