人を極限まで追い詰めると「悪」が現れる
「人間なんて極限まで追い詰めたら本性を現すんだ!ほらこれを見ろ、現に互いに争い合ってるじゃないか、ふはははは」みたいなセリフよくあるじゃないですか。
デスゲームもののフィクション作品とかでありがちですけれど、性悪説派の論者は時に、現実世界についても説いてる印象があります。
「人の本性は善か悪か」というのは「お菓子で選ぶべきはきのこの山か、たけのこの里か」に匹敵するほどの伝統的な論争でありまして、折に触れ議論されては決着がつかずに繰り返してるところがあります。
それぐらい白黒付けがたい人類永遠の難題である以上、「人を追い詰めたらその本性たる悪が出てくるのだ」という主張も、あながち間違いではないのかもしれません。
でも、江草はいつも不思議なんです。
だって「人を追い詰めたら人間の本性である悪が出てくる」という命題。仮にそれが本当にそうだとしてですよ。だとしても別にそんな極限まで人を追い詰めなかったらいいんじゃないでしょうか?
「人間の本性が悪であること」を実証するのに、わざわざデスゲームみたいな壮大で壮絶で鬼畜な介入実験をしないといけない。それは裏を返せば、そんな極限的な状況でもなければ人間の本性が悪いかどうか見分けがつかない。つまり、普段はたいして人間が悪には見えないってことじゃないですか。
じゃあ、もうそれでいいんじゃないでしょうか。極限まで追い詰めない限り「人間のげに恐ろしき悪の本性」とやらが発揮されないなら、最初から追い詰めなかったらいいじゃないですか。それで、みんな善人になる(善人として振る舞う)んだから、みんなハッピーです。何が問題なのでしょうか。
まあ、学究的な文脈でただ知的好奇心にのっとって「極限状態での人間の本性を暴いてみたい」という目的であれば(倫理的にはどうあれ)まだ意図は分からないでもありません。
ただ、単純に人間社会全体の利益を考えるならば「その仮説がたとえ真だとしても人を追い詰めなかったら良くない?」というのが妥当な結論になる気がします。
そもそも、仮に「人を極限まで追い詰めた時に悪事を働きまくる」という事象が観測されるとしてですよ。それは「人を極限まで追い詰める」という介入や要因暴露が人をそうさせてるわけじゃないですか。つまり、「人を追い詰めたこと」が原因で悪事が誘発されてるわけです。
これって、「人間の本性が悪」と解するよりも「人を追い詰めることが悪」ととらえるほうがすっきりしませんかね。
デスゲームはもちろんのこと、貧困とか、戦争とか、人を追い詰めるものはたくさんあります。そういう明らかに特別に目立ってる要因がそこで影響を発揮してるにもかかわらず、「ほら人は悪なんだ」と人間に内在する要素(本性)の方に原因を求めるのはどうも不思議な感じがします。むしろ悪いのはデスゲームとか貧困とか戦争みたいな人を追い詰める要素の方ではないでしょうか?
少なくとも、「悪」は避けるべきものという共通認識があるのであれば、「人は追い詰めたら悪の本性が出る」という信念を持っている者にとっても「人を追い詰めるのは善くないね」という話になるでしょう。
そういう共通認識がなく、「俺は『悪』が大好きでこの世で『悪』をもっともっと現出させたいんだ」という欲求を元に人々を追い詰めようとするのであれば、それはただそうして「悪」を誘発しようとしてる「あなたが悪」なんじゃないでしょうか。
決して「人々の本性が悪」なんじゃなくって、「そういうあなただけが悪」なんですよ。
もっとも、それはそれで「悪」好きの悪人にとっては「自身が悪になれたこと」はうれしい事態なのかもしれませんけれど。