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「得意」は時に「呪い」となる

最近知った『ダイヤモンドの功罪』という野球漫画がなかなか面白かったんですね。

主人公は運動神経抜群でスポーツ万能の少年。どんなスポーツでもすぐに神懸かり的に目覚ましい上達をするがために、地道に努力してる周りの平凡な子どもたちの心を折ってしまうレベルなんです。「最近始めたあの子(主人公)はもうあんなに上手くなってるのに、それに引き換えたいして上達しない自分なんて才能がないんだ……」とショックを受けてしまうわけです。

当の主人公自身はむしろ心優しい少年で、そうして自分が上手くなりすぎるがために周りの子が自信を喪失してしまうことに常に罪悪感を抱えてる。本人は全然ガチ勢でもなんでもなく、ただ「みんなでスポーツを楽しみたいな」と願ってるエンジョイ勢なんですね。にもかかわらず、あまりにも天賦の才に恵まれすぎてるために、あえて手加減しないと友達と一緒にスポーツを楽しめないし、大人たちもその神童っぷりを放っておけずに日本代表やプロの道を勧めるという、どうにも本人の希望通りにいかない、なんとも切ないストーリーです。

そんな主人公が野球と出会い、町の弱小少年野球チームから図らずもU-12日本代表に抜擢されちゃうのが物語の導入なんですが、軽くネタバレしちゃうと、日本代表レベルの舞台ですら、その絶大な才能が周りをかき乱しちゃいます。その過程での主人公本人の苦悩と、そして他のメンバーの怒りと嫉妬と失意の描写がとても見事で、そのままならなさ、やるせなさが不思議な読後感を呼び起こす作品です。野球漫画でありつつ、なんかあんまり野球が主役ではないというか、天賦の才を得てしまった主人公やその周囲の心理を味わうのがメインな感じですね。常に立ちこめる不穏な空気が癖になりそう。

連載中の作品なので、今後どうなるかハラハラします。

(↓もうちょっとちゃんとした紹介を知りたい方はこちらなども)


しかし、この作品の主人公もそうなんですが、「得意」というのは時に「呪縛」になるよなあと思うんですね。

本人はエンジョイ勢としてゆるく楽しみたいだけでも、「得意」であるがゆえに、それが許されないということがあるわけです。そして、「得意なこと」をこそ、各個人はぜひやって、そうでないことをわざわざするな、という社会からの空気圧もありましょう。

「せっかくそんなに才能があるんだからそれを活かさないなんてもったいない」とか、「せっかくここまで努力もして経験を積んで実力をつけたんだからそれをしないなんてもったいない」とか。そんな感じの雰囲気が世の中ありますよね。

漫画はあくまでフィクションであるがために現実離れと言えるほど先天性の「得意」(才能)が大きな要因になってましたけれど、現実世界では後天的な「得意」(努力・経験)も重要な要因となります。

その成り立ちが先天性か後天性かにかかわらず、「何かが得意なら、あなたはそれを活かさないといけない」という強迫観念が現代社会にはあるんですね。

この背景には、社会的に「得意」が強く求められ、もてはやされてることがあると思われます。

たとえば、世の専門家志向が象徴的でしょう。
誰かに仕事を頼むときには、やはりそれが得意な人にやってもらいたいというのが人情です。だからこそ、私たちはその道のプロを探し依頼します。何か事件があった時にコメンテーターとして呼ばれるのも「その分野の専門家」ですね。「あなたは何のプロフェッショナル(専門家)なのか」という問いは、すなわち「あなたは何が得意なのか」と問うてることと同義です。

そして、世のキャリアアップも「自分は何が得意だと世間にPRできるか」を意識してそのコース戦略が組まれてることは否定できないでしょう。「こうした経験や実績を積んできました」というアピールは、すなわち「経験豊富なので私はこれが得意なんです」と訴えてるわけです。

あるいは、大学受験で学部を選ぶ時も、(完全に予定通りにはいかないまでも)将来やりたいことにつながる「得意」が得られるかどうかを意識して選ばれてるでしょう。

このように、適切に自身の「得意」を磨き上げて武器にすることは、競争社会を生き延びるための暗黙の生存戦略になってるわけです。「得意」が求められてるからこそ、個々人もそれに適応していると。

しかし、それほど「得意」を社会が求めているならば、「そのニーズを満たさないと(自分が十分に得意でないと)自分は選んでもらえないかもしれない」という不安も出てきます。

それゆえ、人は自分の「得意」を捨てられずに、自分の「得意」をひたすら伸ばし続け、ついには自分の「得意」以外のことでは自分を売れなくなります。つまり、気づいたらいつの間にか自分の専門分野(得意)から降りれなくなってるわけですね。

生存戦略としては一応の成功と言えますけれど、得意から降りたくても降りられなくなってるという点では、これはまさに「得意」にとらわれているわけです。これは「得意の呪縛」と言うべき状況でしょう。


そして、「得意」には自然と「責任」もまとわりついてきます。「できる人がそれをしない」というのは一種の社会悪として語られがちなのです。

これは経済志向の考え方だと特に起こりやすいと考えられます。
リカードの比較優位の原理のように、各個人が自身の「得意なこと」に集中し分業することが全体の富を最大化するという意識が経済志向にはあります。だから、言ってしまえば、わざわざ自身の「得意なこと」を控える者は、全体の富の最大化という「経済志向的共通善」に反する罪深い存在なのです。
そして、ご承知の通り、現代社会はかなりの経済志向社会です。この点も「あなたはなんで自分の得意なことに集中しないの?」という空気感が世を覆っている一因と思われます。


また、「全体の富」みたいな大きな視点だけでなく、ローカルな局面でも「できる人がそれをしない」というのは責められがちです。

典型的な例は「医師の応召義務」ですね。応召義務とは患者の受診の求めがあった時には医師はその患者を診察する義務があるという、れっきとした法的義務です。確かに、たとえば医師がその時の気分とかで気まぐれに診察を拒否することが許されるならば、その医師が診療を行えば助かったはずの患者が助からずに命を落とすという悲劇が発生しうるわけですから、医師に診察する義務を付与するというのは理にかなってるルールです。

これはすなわち、「人の命を救える」という「得意」を有してる個人がそれが実行できるにもかかわらず、しないということは許されない、という構造です。ここに、「得意ならそれを最大限実行すべき」という、「得意」が「責任」につながる規範が生じているわけです。

医師職に限らず、一般的な会社内などでも、何か対応すべき問題が発生した時に、それを対処できる能力を持った者(得意な者)が「何とか解決してくれ」と頼まれることはままあるでしょう。

ここで自分以外にそれに対処できそうな人間がいないなら、おそらく「これは自分が対処するしかないな……」という責任感をもって、(時に渋々)その対応を引き受けることになるかと思います。

もしそれを引き受けなかったとしたら、「あの人が解決できる能力を持っているのになぜか断られて対応してくれなかったから大惨事になった」などと(理不尽な)後ろ指を指されるかもしれないという不安が生じます。また、時には自分自身でも「もしかしたら自分があの時断らずに対応していればこんな大変なことにはならなかったのかな……」と後から罪悪感にさいなまれることでしょう。

こうしたローカル局面での「最も得意な者がぜひ対応した方が合理的」という原理は、しばしば聞かれる「優秀な者にばかり仕事が集中する問題」にもつながってると思われます。

以上のように、個人の生存戦略的合理性や、社会の富の最大化という経済志向、ローカルでの責任問題といった側面から、社会に「得意なことをすべき」という空気感が醸造されてるのではないかと考えられるわけですね。それが、「せっかく得意なんだからやるべき」という共通感覚に現れてると。

「得意」はまさしく「呪い」になりえるのです。

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江草 令
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