アメリカ大統領選の右往左往
先日のアメリカ大統領選でトランプが再選勝利したことを受けて、その勝利を分析する論考が色々と出てきています。
江草もちょろちょろとそれらの論考をチェックしてはいるのですが、まあ、なんというか物足りないのですよね。
というのも、論考の大半が、高学歴でアイデンティティポリティクスに基づいた「きれい事」しか言わないリベラル派を、「それ見たことか」と批判するものだからです。日々の生活に苦しむ大衆の苦しみを高学歴エリート達は理解してないんだ、云々。
この見立てが間違ってると言いたいわけではありません。多分実際にそうなんだろうと思います。でも、この構造の指摘って2016年のトランプ勝利の時(あるいはイギリスのブレグジットの時)に既になされてるものなので、見立てとして確かに妥当かもしれませんがあまり新鮮味はないのです。
たとえば、マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』でもリベラルエリートの傲慢さに強い苦言を呈してましたし、ピケティも「バラモン左翼」という表現で同様に警鐘を鳴らしていました。
これ、全然今回の大統領選前から言われてることなんですよね。(というか、江草みたいな素人でさえ以前から指摘してたりするレベルです)
だから、今回の大統領選を受けて同じことを繰り返し言われても、正直、物足りないという。
大統領選前に「もしもトランプが勝ったら」と想像しておこうという意味で「もしトラ」というワードが登場してました。その「もしトラ」を実践していたとして、これ、「もしもトランプが勝ったらリベラルエリートが支持を得なかったということだろう」と全然事前から容易に予想がついてた話でしかないので、いざトランプ再選を果たした今回の結果をそのまま「大衆の苦しみを軽視したリベラルエリートが否定されたんだ!」と鼻息荒く言われても、「あ、はい、そうですね」となっちゃうわけです。
だって、もし逆にハリスが勝ってたらという「もしハリ」を考えたら、それはそれで「横暴なリバタリアンや反知性主義が否定された」と皆こぞってテンション高く言い出してたんじゃないかと正直思っちゃいます。
事前の想像の域を出ないと、なんかちょっとつまらないですよね。
でも、実はこの「つまらなさ」が今回の大統領選での最も重大なポイントなのかもしれないなと思うんですね。
2016年にトランプが勝利したことの衝撃で世界が色々と状況を省みた結果、このリベラルエリートの「バラモン左翼」的な問題点が気づかれた。しかし、実際のトランプの横暴さと品の無さがまた嫌気されて2020年にバイデン勝利に揺り戻しがあった。そして今回2024年にまた「バラモン左翼」がムカつかれてトランプ再選と。
結局、これはピケティの言う「バラモン左翼」と「商人右翼」の間を人々が(まさに文字通り)右往左往してるしてるってことなんじゃないかと。言い換えれば、「リベラリズム左派」と「リバタリアニズム右派」の二項対立の構造にアメリカ社会はずっと囚われているとも言えるわけです。
ちなみに、ハリス側がリベラル派であることは自明として、「テクノ・リバタリアン」たるイーロン・マスクがトランプ陣営に参画してることからしてトランプ側にリバタリアン気質があることは間違いないところでしょう。
早くもマスク氏を起用した、「小さな政府」指向の動きが出てきてますし。
なので、リベラルとリバタリアンの人心掌握ゲームの綱引きにおいて、今回はリバタリアンが勝利したという構造なわけです。
しかし、選挙前から「アメリカはこの二択しかないのか……」と嘆きの声があったことも象徴的であるように、なんか「どっちもどっち感」が出てきてもいるんですよね。
うがった見方をすれば、どっちにしても社会が好転しないから、しばらく(4年間)試してみては「やっぱり違う方にしよ」と言ってすぐに切り替えてる感があるのです。いわば、ポリティカルショッピング。どっちも結局しっくりこないから国民も右往左往してしまってると。
これって、江草個人的な所感からすると、要するに「どちらも時代遅れ」ってことなんじゃないのと思うんですよね。「リベラリズム左派」も「リバタリアニズム右派」もどちらももはや現在の社会問題に対応できる適切な思想ではなくなってきているのではないかと。2016年から同じ構造の論考が全くそのまま繰り返されてるのが、その象徴じゃないかと。
となると、今回の大統領選の結果を受けて今後の課題としてみるべきは、この「リベラリズム左派」と「リバタリアニズム右派」の二項対立からどうやって社会がより良い形に抜け出せるかという点ではないでしょうか。
これ、多分、アメリカに限らず日本なりなんなりの多くの西側社会にも当てはまる構造だと思うので、全然他人事ではない気がします。実際、先の衆院選での国民民主党の躍進も従来型の右派(自民)左派(立民)対立構造から抜け出したいという気持ちが表れてるように感じられます(いきなり不倫騒動で出鼻をくじかれてますが)。
「二項対立からの脱却」と言うと、それこそ手垢のついたポストモダンぽい言い回しなのでなんなのですが、まあでも「トランプ再選はリベラルエリートの傲慢さが否定されたんだ!」とただループ言説を唱えるよりはまだ建設的な方向性の発想ではないでしょうか。
さて、ここまでも十分「個人の感想」レベルの話だったのですけど、せっかくなのでここから最後にさらに超絶な私見を述べさせてもらうと、「リベラル」vs「リバタリアン」の二項対立に新たな風を吹かせられるとしたら、それは「脱労働」ではないかと思うんですよね。
すなわち「仕事主義(ワーキズム)からの脱却」です。
リバタリアン右派は「商人右翼」と呼称されることから分かるように、めっちゃビジネスマンなので働き者です。仕事主義です。
他方のリベラル左派も高学歴エリートたちなので、キャリア志向なんですね。つまり、学歴や職歴、仕事の実績を積むことをかなり重視してます。サンデルも批判したリベラルテクノクラートによる「メリトクラシー」は「能力主義」と邦訳されるのが一般的ですが、「業績主義」と訳す方が実際に即してるという話も聞きます。コツコツとキャリアを高めることを重視するこうしたリベラルたちもまた実に仕事主義なんですよね。
すなわち、実はこの二項対立、一見完全なる「水と油」の関係性のように見せて、どちらも「ビジネス」や「キャリア」を通じて「仕事主義」という点では共通しているものがあるんですね。(もっと言えば、文字通りどちらも自由主義なので、本当はその点も共通してますが)
そして、今やこの「仕事主義」の行きすぎこそが、社会のそこかしこで問題を引き起こしてるような気がしてるのです。過労やメンタルヘルスの問題はもちろんのこと、少子化もまさにその象徴ですね。
ちょうど昨日も『静かな働き方』という「ほどよい仕事との付き合い方」を提唱する(それこそアメリカの著者による)書籍を紹介しましたけれど、多分、既にこの「仕事主義」を省みる機運は出てきてるように思います。
COTEN RADIOの深井氏が確かどこかで「社会の制度が公的に変化する時は必ずそれより先に人々の実態の方が変化している」的なことを言われてたように記憶しています。まさにそんな感じで、まだこの「仕事主義」の問題が、選挙戦や社会制度上で公然の争点として取り上げられるまでには至ってないですけど、人々の間では「仕事主義」が徐々に嫌気されてきてるように思うんですよね。今後この水面下の変化が蓄積したら、この「仕事主義」の争点がついに表舞台に出てくるということもありえるのではないでしょうか。
だから、今回のアメリカ大統領選が象徴しているような、結局どちらも「仕事主義」という同じ穴の狢同士での「右往左往」から脱却する道があるとしたら、それは「脱労働派」の躍進にかかってるのではないかと思うわけです。
もっとも、同じく「リベラル」「リバタリアン」両者に共通するもの(自由主義)を否定するという意味では、「反自由主義」というまた逆方向の向きの社会変革もありえるので、それこそ私たち市民は非常に気をつけてこの動向に関心を向ける必要があるでしょう。
この「大変だし難しいしどうなるか分からんけどみなで考えていこう」という感じが、まさに民主主義の醍醐味だと思いますし。