デジタルデータの諸行無常
ウェブ上のコンテンツの保存性の低さを指摘する記事を読みまして。
前々からしばしば指摘されてることではありますが、ウェブサイト自身が閉鎖したり、古いコンテンツをがっさり消去したりして、昔の記事はあっさり読めなくなりがちなんですよね。
たとえばYahoo!ニュースやNHKニュースの記事を江草もちょくちょく引用するのですが、コンテンツの更新が早くて、数月、下手すると数週間後程度でリンク切れになってしまってることがあります。上の記事もちょうどYahoo!ニュースのコンテンツなので、しばらくしてこの記事がリンク切れになってたら最高な皮肉ですけれど。
今この瞬間もすさまじい勢いで生産され、すさまじい勢いで消費されてるウェブ上のコンテンツも、5年10年もしたらほとんどアクセスできなくなってしまってるかもしれない。あまりに刹那的な、保存性の無さに改めてしみじみ考えてしまいます。
一見すると、デジタルデータの方が保存には強い気はしちゃうんですよね。紙媒体だと破けたり、濡れてふやけたり、燃えたり、風化して文字がかすれたり、どっかとんでっちゃったりしそうですもん。デジタルならそういう物理的損傷や逸失には強い(HDDがやられると別ですが)。検索も容易だからいっぱいちゃんと保存してるように思える。
でも、意外とデジタルデータの方が、規格が変わったり、運営管理者が消えると、一瞬で大量消失する性格があるんですよね。紙以上に、気づかぬうちに勝手に大量に消えてしまうはかなさがあるわけです。
このはかなさ、いわゆるウェブコンテンツにも限らないんですよね。
今やYouTubeやらTikTokやらなんやらで華やかな動画文化が花開いてますが、これもこれらのサービスが消失した途端に、全然再度参照することができなくなるかもしれません。
最近気づいたんですが、一昔前の映画なんかも場合によっては観れなくなってるんですよね。各種サブスクサービスに登録されてる作品はいいんですけれど、どこのサブスクサービスにも登録されてない映画旧作はもはや観ることが困難となってます。世の中でレンタルビデオ屋さんももう消滅してますから、ほんとに観れない。古典的名作なんかはそれでももちろん残ると思いますけれど、ちょっとニッチな旧作は本当に文字通り世の中から消滅していってる印象があります。
ゲームもそうですね。レトロゲーム機のゲームソフトって、ゲーム機本体が生産終了してしまってるので、エミュレーターをちゃんと用意でもしないと、全くプレイすることができなくなります。過去のゲーム文化史を追跡できなくなる恐れがある。実際、その文化的損失はもったいないとして、過去のゲーム文化を後世に遺そうとするプロジェクトも立ち上がってると聞いたことがあります。それだけ、ゲームというのはほっといたら消えてしまう存在なんですね。
写真だって、今やみんなスマホに大量に保存してると思いますけれど、個人アカウントに紐付いていて実写真として紙のアルバムに保存してるわけでもないそれらの写真データは、自分の死後誰もアクセスできなくなりうるわけです。遺された家族が思い出にふけったり、子供たちが自分たちの幼少期の写真を結婚式のムービーで使うことができなくなったりするかもしれません(まあ、もうその頃にはそういう結婚式ムービー文化もなくなってるかもですが)。
このように、デジタルデータは思った以上に、儚く刹那的な存在なんですね。
そう考えると、江草がこうして毎日書き記してるnoteだっていつかは消えてしまうのだろうということになるでしょう。もちろん江草の記事だけでなくいつもフォローして読ませていただいてるみなさんのコンテンツも未来永劫ずっと保存されてアクセスできるという保証はないし、むしろいつの日かあっさり消えてしまう可能性の方がずっと高いわけです。
諸行無常という意味では自然なことではあるのですけれど、やっぱり消え去ってしまうことに寂しさを抱かないのは難しい。
そういう意味では、何かしら残せる形で残してみたくなるのもまた人情というものでしょう。
テキストコンテンツで言えば、保存性が高い媒体として有力なのはやはり書籍でしょうか。出版すれば一応は国会図書館に所蔵されるらしいですし。(実際にアクセスしようという人がいるかどうかはさておき)全く辿れないコンテンツにはならないという強みが書籍にはあります。
デジタルコンテンツをこうして日々紡ぎ出していると、こういう意味で、書籍出版に憧れてしまう気持ちがついつい湧き上がってしまうのですよね。
これはこれで諸行無常の原則に逆らって「不死」に憧れる人間の悲しいサガの一つに過ぎないのですが、悲しいサガだからこそ人間らしくて良いとも言えましょう。
……と言いながら、出版不況と書籍離れが盛んに言われてる中で、書籍の方もだいぶピンチとなってるのが世の中の現状です。
みんなが便利なデジタルコンテンツを消費することに移行した結果、結局は後世に私たちの記録がほとんど残らないという皮肉なことになるのかもしれません。