~No九州,No Life~ 九州パンケーキの生みの親 村岡さんの今昔
こんにちは。エクサコードの清水です。
今回は、「九州パンケーキ」の生みの親であり、「九州バカ 世界とつながる地元創生起業論」の著者である、村岡さんにお話をお聞きしました。
地元への愛が止まらない村岡さんですが、いったい、どのような学生だったのでしょうか。
パンケーキが大好きな人も、甘いものが苦手な人も。ぜひ最後まで読んでみてください。
※「九州パンケーキとは?」「九州バカって何?」という人は、ぜひ、下のリンクから、村岡さんの自己紹介をを見てみてください!!
01.人と群れるのが好きではなかった
幼いころから、サウナに連れていかれていたという、村岡さん。ついついサウナの話題で盛り上がってしまいました。
そんな村岡さんの幼少期は、人と群れるのが好きではなかったようで、
「僕は吃音症があって、それが激しかったので。だから、仲のいいふりをして、くっついてたりしてましたよね。笑って、朗らかな感じでないと、生きていけないというか。自分の身を守るためにみんなと仲良くしてたような気がするかなぁ」
いきなり、意外な一面を知ることが出来ました。現在は、九州各地で、仲間と共に、様々な活動を行っている村岡さん。てっきり、小さいころから、そうだと思っていましたが、かなり内向的だったそうです。
02.漫画・アニメ・酢飯
村岡さんのご実家は、「一平寿司」という、県内でも有名なお寿司屋さんです。こちらのお寿司屋さんは、宮崎の郷土料理である、「レタス巻き」発祥のお店でもあります。そんなお寿司屋さんならではの記憶もあるそうです。
「一回の厨房にカレーが準備してあって、勝手に下りて行って、カレーを食べる。夕方『サザエさん』があって、『ギャラクティカ』ってのがあって、それを見てましたね。だから、漫画の記憶と、アニメの記憶と、酢飯の記憶と…そんな感じですかね。」
お寿司屋さんで見る『サザエさん』は、なんだか複雑な気持ちになりそうです。
03.そしてアメリカへ
現在は、自他ともに認める「九州バカ」であり、地元を愛してやまない村岡さん。しかし、学生の頃は、宮崎があまり好きでは無く、アメリカに行くことになります。
「僕の記憶って、漫画とかアニメとか、そういう引きこもってた感じ、内側に閉じこもってた感じなんですよね。だから、外の広い世界にあこがれてたのかも知れないですね。」
「あとまあ、寿司屋の息子なので、『このまま寿司屋になるんだろうか』っていうのもあって」
ずっと内側にこもりがちだった、当時の村岡さん。アメリカに行くには相当大きなのきっかけがあったように思いますが、
「すごいあこがれてましたね。僕らの時代は、映画とかが体感するメディアだったと思うんですけど、入ってくるものは、圧倒的にアメリカのものが多かったですね。」
「友達といるときは、みんなに合わせてたんですけど、実は自分は(アメリカ)の映画を見てて、自由な感じに憧れてたんじゃないかなって思うんですよね。でも、当時のことはっきり分かんないんだよな(笑)」
こうして、アメリカに渡った村岡さんを待ち受けていたのは、圧倒的「自由」と「多様性」でした。
「例えば、パーティーみたいなのあって。日本だったらさ、外国人が来て一人で座ってたら、みんな優しいから、引っ張って行ってくれるじゃん。アメリカで一人ぼっちで座ってたら、変な奴だからね。それはそれで、別に一人でもいいし、自分でアクション起こさないと、道は開けないし。」
なんとなく持っている、アメリカの「Wellcome!!」のイメージとは違っていて、常に責任が伴う「自由」がそこにはありました。。
04.1980
お話していくうちに、村岡さんがアメリカに発った1980年代という時代間についての話題に。
村岡さん曰く、1980年代というのは、とても「面白い」時代だったそうです。
「70年代を経て、80年代というのは、国の中に閉じてたものが、国境を越えてつながり始めた時代の、ちょうど最初ぐらいだったんですよね。ファッションも、日本独自のモノから、アメリカのカルチャーを日本に輸入していって、日本的解釈で再編集していった『裏原宿』みたいなものが生まれたり。そういったものが、同時多発的に世界中に生まれて、世界中の文化とか、情報が解け始めたのが80年代。」
「90年代から00年代っていうのは、みんながインターネットに接続し始めるので、その手前ぐらいの。めちゃくちゃアナログだけど、情報が混ざり始めた、そういう時代。」
グローバル化が叫ばれて久しい現代ですが、その走りであり、最も混沌としていた時代に、アメリカで様々なものを目にし、吸収していたということですね。
05.初のビジネスで大渋滞!?
アメリカに渡った村岡さんは、そこでビジネスを始めることになります。実際にどのようにして、実行に移したのでしょう。
「今の学生は、社会課題の解決に、どんな手段で取り組んでいくかっていうことを、体系的に学ぶ手段って、たくさんあると思うんですよ。僕はそういうものは無かったですね。とにかくアメリカに行って、一人ぼっちで、貯金もなくなっていく中でどうやって稼ごうか、っていうのが原点。」
「古道具屋さんとか、アンティーク屋さんが好きで、そこにしょっちゅう行ってたんですよ。(当時は)フリーマーケットみたいに、自分の家の前でそういうのを販売するのが流行ってて。僕がやり始めたのは、土曜日の新聞を買って、ありったけの現金100ドルぐらいを持って、一個ずつチェックしながら買えるものを買って、土曜の夜に徹夜しながら磨いたり、ペンキ塗ったりして。今度は日曜日に、自分のところのアパートの前で売るみたいな。値段の付け方わかんないんで、買った値段の倍で売るっていう。それを単純にやり始めました。」
自分の好きが高じて、商売を始めた村岡さん。そのうち、思いもよらない方法で、お店が大繁盛することになります。
「地元の大学生の友達が、ラジオのDJをやっていて、僕を読んでくれたんですよ。そしたら、全然しゃべれないじゃん。なんか一緒についてきた友達が、ブースの外でケラケラ笑ってるのみて、メチャクチャ腹立って。そこで「ふざけんなよ!」みたいなのを、覚えたてのスラングで叫んだんですよ、ラジオの前で。そしたら、それがなんか大ウケで。『わけわかんないアジア人が叫んでる』みたいな。それで最後に僕の住所を言って、宣伝したら、その週に人がめっちゃ来て、大渋滞になっちゃって。」
こうしたラッキーを活かしながら、「モノを右から左に動かす」「必要ない人から、必要な人にモノを動かす」「そこで価値を生み出す」。こうしたビジネスの基本を、実践で学び取っていったそうです。
06.実は宮崎初!○○○マーケット
続いて、帰国後のお話へ。ここで、とても面白いお話を聞くことが出来ました。実は、村岡さん、宮崎で初めてのフリーマーケットを開催したそうです。
「フリマって、当時なくって。宮崎では僕が初めてやったんですね。宮日新聞(宮崎日日新聞)に『フリーマーケットとは』っていう今見ると訳わかんないだろうタイトルの記事が出て(笑)。当時は目新しかったので。二十歳ぐらいのときに駐車場借りて。そこで出店料取って。僕も、友達のいらない車を真ん中において、10万円ぐらいで売って。」
こうして、新たなビジネスへの挑戦を続けた、村岡さん。しかし、全てが順風満帆とはいきませんでした。
07.逃げたい
大学を卒業後、アメリカでの経験も活かしながら、古着のバイヤーを行っていましたが、事業に失敗し、28歳で実家を継ぎ、寿司屋として働くことになりました。この時の心境は「逃げたい」だったと村岡さんは語ります。
「18歳の時に一回『逃げたい』と思ってアメリカに逃げて。28歳で商売失敗して、また『逃げたい』と思って寿司屋になって。誰とも会いたくない。商売失敗してるわけだから。実際はそうではなくても、誰か悪い噂話をしているような気がするし。」
誰にも会わなくて済むよう、逃げるように飛び込んだ板場ですが、そこで「食」という新たな価値に巡り合います。アメリカでも、帰国しても色々なことを切り開いてきた村岡さん。「食」という価値と融合させることで、まだまだ新しいことが出来るのでは、と思うようになり、32歳で九州一号店となるタリーズコーヒーをオープン。そこから10年間、様々なキャリアを重ねて、後に九州パンケーキを始めることになります。
08.新しい挑戦へ
挫折を乗り越えて、挑戦を続ける村岡さん。こうした行動を起こす際に「怖い」「失敗したらどうしよう」という感情とは、どのように付き合っているのでしょうか。
「物事には、後戻りできないポイントがあると思っているんです。そのポイントを越えた瞬間に、急に恐怖が湧いてくることがあって。正直、やっぱりやめれば良かったと怖くなることもあります。しかし、それを越える前の準備の段階では、恐怖は感じないですね。それを言っていたら何も新しいものは生まれないので。例えば、契約をした日の夜とかは、急に怖くなって眠れないこととかありますよね。」
村岡さんでも、どうしても恐怖は感じるもの。なかなか挑戦できない人は、まずは村岡さんの言う「後戻りできないポイント」を自覚すること、そしてその時の恐怖を、思い切って飛び越えてみることを目指してみてはどうでしょうか?
09.最後に
今回は、「九州パンケーキ」の生みの親、村岡さんの現在に至るまでをインタビューしました。九州に対する熱い思いに加えて、深い洞察を併せ持っている方だと感じました。
地方創生に興味がある人はもちろん、チャレンジしたいことがある人は、是非、村岡さんの著書や商品を除いてみてください!