見出し画像

第二章エーゲ海戦争とアテヘェネー民帝国(c525~c440 BC) 第一節 パールサ大帝国の拡大 (c525~c500 BC)

 マゴスの偽皇帝と七人のクーデタ (c525~22 BC)

 パールサ(ペルセース、ペルシア)大帝国の暴虐皇帝カムブージヤ(カンビュセース)二世は、エジプト遠征中に発狂してしまいます。そして、同行する弟バルディヤ(スメルディオス)が帝位を奪うという妄想に恐怖して、これを首都スーサ市に送還し、その途中で忠臣プレークサスペースに暗殺させてしまいました。

 パールサでは、その後もマーダー人世襲神官「マゴス」が祭祀や占術によって政治的発言力を保持していました。そして、その一人、パティゼイテヘースは、前五二三年、首都スーサ市で、死んだはずの帝弟バルディヤを皇帝に擁立し、暴虐皇帝カムブージヤ二世に反抗します。また、この混乱に乗じて、小アジア半島リュディア州総督オロイテースは、パールサ大帝国に媚びるサモス島将国暴君将主ポリュクラテースを州都サルディス市に招いて殺し、パールサ大帝国からの独立を図ります。

 暴虐皇帝カムブージヤ二世は、このような混乱を知って、かろうじて正気に戻り、いそいで首都スーサ市へ戻ろうとしますが、エジプトの呪いか、自分の剣が足に刺さり、膿んで死んでしまいました。忠臣プレークサスペースにしても、この場に及んでは、[本物の帝弟は、自分が暗殺した]などと言えるわけがありません。

 一方、謎の皇帝バルディヤは、誰にも疑われることなく、なかなかの善政を行っていきます。しかし、名門貴族オタネースは、皇帝が自分たちにけっして会おうとはしないことを、いぶかるようになります。そして、自分の娘のパイデュメーを使って、皇帝の正体を伺いました。すると、それは、なんと、「マゴス」のパティゼイテヘースの弟であり、かつて暴虐皇帝に耳をそがれた同名異人のバルディヤだったのです。

 これを知った名門貴族オタネースは、翌二二年、信頼できる仲間六人を集めます。その中には、始祖クールシュ二世の祖父の弟の子孫である親衛隊員ダーリャヴァウシュ(ダーレイオス、一世、c558~即位22~486 BC 約三六歳)もいました。しかし、皇帝が偽物であるというウワサは、すでにどこからともなく流れて、不穏な空気が広まっていたため、「マゴス」のパティゼイテヘースは、人々の信用も厚く、真相知る唯一の証人である忠臣プレークサスペースを懐柔し、陰謀に参画させ、人々の前で皇帝が本物であると演説させようとします。

 名門貴族オタネースは、慎重に仲間を増やしてから、と言いますが、親衛隊員ダーリャヴァウシュは、もはや遅れれば誰かが仲間を売るだけだ、と言って、クーデタの即時決行を促します。おりしも、「マゴス」のパティゼイテヘースに頼まれて宮殿のテラスに立った忠臣プレークサスペースは、押しかける人々に対し、「マゴス」たちを裏切って、本物の帝弟は自分が殺したこと、現在の皇帝が「マゴス」の偽者であることを暴き立て、これを打倒するように呼びかけ、そのまま広場へまっさかさまに飛び降りて、死に絶えました。

 この混乱の中、親衛隊員ダーリャヴァウシュら七人は、急いで皇帝を守るかのようなフリをして宮殿に入り込み、偽皇帝を追い詰めます。しかし、偽皇帝は、真っ暗な部屋に逃げ込んでしまいました。ダーリャヴァウシュが仲間を傷つけまいとためらっていると、仲間のゴブリュアスは、「かまわぬ、その剣で私ごと突き刺してしまえ」と叫びます。そこで、やむなく覚悟を決め、えいやと剣を振るったところ、みごとに偽皇帝バルディヤの首が闇の中を跳ね飛んでいきました。そして、宮殿の内外で、人々は、出会うマーダー人の「マゴス」たちをかたっぱしから叩き殺し、この「マゴス殺し(マゴポニア)」は、その日の太陽が沈むまで繰り広げられました。

 ダーリャヴァウシュの登場 (522~17 BC)

 この後、七人は、事態収集策を協議しました。名門貴族オタネースは、この機会に一者独裁の皇帝政を廃止して万人同権の市民政を導入することを提案し、また、メガビュゾスは、市民政が衆愚政に陥ることを危惧して少数貴族の寡頭政を提案します。これに対し、ダーリャヴァウシュは、寡頭政では、善政を為さんとして不和が生まれ、流血の後に結局は独裁政に至り、また、市民政では、たしかに人々は融和するが、それは私利をむさぼるためであり、最後はやはり独裁者が悪人たちを倒さなければならなくなる、と言い、皇帝政の継続を主張します。そして、残りの四人もまた、ダーリャヴァウシュに賛同しました。

 しかし、名門貴族オタネースは、あくまで、自分は皇帝にも、臣下にもなりたくない、と言うので、他の六人は、だれが皇帝になるにせよ、オタネース家の自由独立の特権を認めることにしました。そして、六人は、翌朝、遠乗りをして、日の出の後に最初に嘶いた馬の主を皇帝とすることにしました。すると、はたして、ダーリャヴァウシュの馬が日の出とともに高らかに啼いたので、彼が第三代皇帝ということになったのです。

 協議から帰宅したダーリャヴァウシュは、皇帝の選出の方法を馬丁オイバレスに話しました。すると、オイバレスは、「それなら、私がご主人様を皇帝にしてみせます」と、自信たっぷりに言います。そして、翌朝、ダーリャヴァウシュが仲間とともに朝日が最初に見える丘のところまでやってくると、そこには、馬丁オイバレスが、主人の牡馬が惚れ込んでいる牝馬をつれて、立って待っていました。

 皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、まず、反乱を起こしていたリュディア州総督オロイテースを始末する必要がありました。しかし、即位早々、開戦するわけにもいきません。困っていると、そこに、賢臣バガイオスが名乗り出ました。そして、彼は、皇帝印璽のある三つの書状を捏ち上げ、単身でリュディア州州都サルディス市に乗り込みます。総督オロイテースは、バガイオスが一人だけなので気を許し、入城を認めました。

 バガイオスは、多くの兵士たちのいる謁見の間で、携えてきた皇帝印璽のある書状を読み上げます。まず、最初の書状には、こうありました、「皇帝の名よって命じる、兵士諸君、立ち上がれ」。すると、兵士たちはみな、立ち上がりました。そこで、バガイオスは、次の書状を読み上げました。これには、こうありました、「皇帝の名によって命じる、兵士諸君、剣を抜け」。すると、兵士たちはみな、剣を抜きました。このように兵士たちが皇帝に忠実であるのを見届けると、バガイオスは、満足そうに最後の書状を読み上げました。これには、こうありました、「皇帝の名によって命じる、兵士諸君、オロイテースを殺せ」。こうして、バガイオスは、たった一人で反乱総督を始末してしまいました。

 このころ、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、落馬して足首を捻挫したうえに、下手なエジプト人侍医の治療で苦悶していました。ここにリュディア州から、オロイテースが所有していた財宝や奴隷が送られてきます。すると、これらの中に、ちょうど暴君将主ポリュクラテースのサモス島将国に招聘されていて奴隷にされてしまったクロトーン市ピュータハゴラース政治教団医学校出身の名医デーモスケデースもいました。そして、彼の治療によって、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、ようやく快復へ向かい、名医デーモスケデースは、その後、優雅な待遇を与えられることになります。

 この後、皇帝ダーリャヴァウシュ一世(約三八歳)は、帝国を二〇州に分け、それぞれに勅任の総督(フシャトラパー、サトラペス)を送って、その防衛と統治と徴税に当たらせました。首都はスシアナ州スーサ市とされましたが、マーダー州ハグマターナ市には夏の離宮、カルディア州バーブ=イラーニ市には冬の離宮が建てられ、さらに、前五二〇年頃には、本拠地であるザクロス山脈山中、標高一七七〇メートルもの高地に、数百メートル四方の壮麗堅固な要塞都市タクホテ=ジャムシヒード(ペルセポリス)市も作られました。また、皇帝は、表の監察官として「王の目(スパダク)」、裏の密偵官として「王の耳(ガウサク)」を地方各州に派遣し、また、小アジア半島から首都スーサ市まで一五〇〇キロもの「王の道」を建設し、広大な帝国の支配を確立していきます。

 ヘッラス人は、その名前を知らず、安易に「パールサの都(ペルセポリス)」と呼んでいました。「タクホテ=ジャムシヒード」とは、[英雄ジャムシヒードの玉座]という意味です。実際、この都市は、東のラハマト山を背として、西のマルヴ平原を下ろす玉座の形をしていました。英雄ジャムシヒードについては、ウマル=クハイヤーム(1048~1122)の『四行詩集(ルバイヤート)』にも登場してきます。
 「王の目/王の耳」は、その原型がすでにアッシリア時代にあり、「告知の子(マル=シプリ)/親しき者(クルブティ)」と呼ばれていました。同様に、「王の道」も、すでに数十キロごとの宿駅制としては整備されていました。

 また、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、反乱鎮圧や辺境偵察を行います。ここにおいて、小アジア半島西岸出身のヘッラス人冒険家スキュラクスが、東方探検を請け負い、また、帰国の念を断ちがたいヘッラス人侍医デーモスケデースが、西方探検を買って出ました。 冒険家スキュラクスは、皇帝の東南部アラコシア州の反乱鎮圧に同行し、そこからヒンドゥークシュ山脈のカーブル(カスパピュロス、コペン)市を経て、インダス河を下り、海岸線に沿ってアラビア半島東南岸を回って、数年後にスエズに着きました。そして、その記録『周遊記』を書きます。

 一方、西方探検を命じられた侍医デーモスケデースは、途中のイタリア半島南部ターラント湾東北岸のタラース市将国において、将主アリストプヒリデースの助けで逃げ、ようやくその南のカラブリア半島東部の故国クロトーン市教国へ帰ってしまいます。パールサ大帝国偵察隊は、名医デーモスケデースを追って行ったものの、市民にむちゃくちゃに殴りつけられ、逃げ戻るしかありませんでした。

 なお、このこのころ、アテヘェネー将国では、一四年、同性愛問題で、美少年ハルモディオスとその愛人アリストゲイトーンが、弟将主ヒッパルコホス(約四六歳)を襲撃して殺害してしまいます。これに対し、兄将主ヒッピアース(約五一歳)は、この二人を処刑した後、ますます暴君となっていき、アルクマイオーン家のクレイステヘネース(約五一歳)は、追放、プヒライオス家のミルティアデース(約三六歳)は、エーゲ海北岸トホラーキア地方東南ケルソス半島へ転出してしまいます。

 ハルモディオスとアリストゲイトーンは、アテヘェネー市の反将主政の象徴的英雄とされ、後に同市の広場(アゴラ)に青銅像が立てられることになります。
 ケルソス半島は、同名の伯父ミルティアデース以来、名門プヒライオス家を将主としており、彼は、同家からその反乱鎮圧に派遣されたのです。

 サモス島とバーブ=イラーニ市の攻撃 (517~15 BC)

 アラコシア州から戻った皇帝ダーリャヴァウシュ一世(約四一歳)の下に、以前の恩義を返してほしい、という妙な男がやってきました。話を聞けば、その男は、以前、皇帝がまだ無名だったころ、着ていた真っ赤なマントをタダでくれた人物でした。彼は、じつは、サモス島将国の暴君将主ポリュクラテースの弟シュロソーンでした。小アジア半島西岸中部のサモス島は、暴君将主ポリュクラテースが二三年にリュディア州総督オロイテースに殺害されて後、その秘書マイアンドリオスが代わって将主となって統治しましたが、シュロソーンは、その支配の回復を皇帝に願いにやってきたのです。これを聞いた皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、一七年、名門貴族オタネースを指揮官とする遠征軍をつけて、シュロソーンをサモス島へ送りました。

 その直後、こんどはバビロニア人が、反乱を蜂起させます。彼らは、かなり以前からこの反乱を準備しており、バーブ=イラーニ市城は、たいへんに頑丈でした。そのうえ、彼らは、食糧の浪費を防ぐべく、母親と主婦を除いた女という女をすべて殺して、長期籠城戦の体制を固めます。皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、残る全軍を投入して攻撃しますが、どうにもなりません。城壁のバビロニア人は、「ラバが子でも産まないかぎり、市城は陥ちまい」と、パールサ軍を笑いました。

 ラバは、牡ロバと牝ウマの雑種であり、ロバより強健で、ウマより従順なので、労作用に好んで飼育されれますが、もともとムリな雑種であるため、交配しても、第二代が誕生することは、ごくまれです。
 物語では、こういう一見ありえなさそうな捨てゼリフが、展開のキーワードになっていることがしばしばあります。たとえば、シェィクスピア(1564~1616)の『マクベス』(1611)では、主人公マクベスが、魔女たちに「女の産み落とした者は、マクベスは倒せない」とか、「バーナムの森が動かぬかぎり、マクベスは滅びない」とか、予言されて、いい気になっていると、帝王切開で誕生したマクダフが、切った森の枝に隠れた軍隊とともに攻めてきます。

 さて、サモス島では、シュロソーンが強力なパールサ大帝国遠征軍とともに帰還すると知るや、将主マイアンドリオスは、地位を返上することに決め、条約を結びます。ところが、マイアンドリオスの弟のカッリラーオスは、徹底抗戦を唱えており、島の引き渡しを受けるために無防備で市城内に入ってきたパールサ大帝国遠征軍を突然に襲って、大損害を与えます。

 シュロソーンの希望も、皇帝ダーリャヴァウシュ一世の命令も、サモス島を無傷で奪還することでした。しかし、遠征軍指揮官の名門貴族オタネースは、もともと帝国と皇帝からの自由独立の特権を保持しており、この卑怯な奇襲に激怒し、全力で攻撃して、市城を破壊し市民を殲滅し、サモス島を無人の島にしてしまいます。

 一方、バビロニアでは、パールサ大帝国軍がバーブ=イラーニ市を攻囲して、むなしく二年がすぎようとしていました。しかし、一五年、クーデタ仲間のメガビュゾスの息子のゾープヒュロスの家で、ラバが子を産みます。これを見たゾープヒュロスは、みずから自分の鼻と両耳を削ぎ落し、全身をむち打ち、頭髪を毟り取って、皇帝ダーリャヴァウシュ一世のもとに駆けつけました。

 そのあまりの無惨な姿に、皇帝ダーリャヴァウシュ一世(約四三歳)は驚愕し、犯人に激怒します。しかし、ゾープヒュロスが言うには、「皇帝こそ犯人だ」とのこと、意味がわからずうろたえる皇帝に、「一〇日後に失っても惜しくない無防備の兵士千名を西門に、一七日後に二千名を北門に、三七日後に四千名を南門に置いて下さい、そして、五七日後には、四方から本気で総攻撃をかけて下さい、東門が開いているはずです」と言い残して、去っていきました。

 一〇日、一七日、三七日、五七日という、この中途半端な日程は、おそらくオリエントの太陰暦との関係によるものでしょうが、詳しいことは、よくわかりません。かりに今日が新月(月のない夜)の暗闇だとすると、一〇日後は夕方の上弦の月、一七日後は夜中の満月、三七日後はまた夕方の上弦の月、五七日後はふたたび新月の暗闇ということになります。

 醜く哀れな姿のゾープヒュロスは、この後、皇帝にやられた、と叫びながら、バーブ=イラーニ市の城門に入れてもらいます。そして、復讐のために兵士を貸してくれ、と頼んで、一〇日後には、西門のパールサ兵千名を倒し、一七日後には北門のパールサ兵二千名を倒し、三七日後には南門のパールサ兵四千名を倒しました。これらのみごとな功績に、バビロニア人たちも、すっかりゾープヒュロスを信じ、彼を市城防衛の総指揮官に任じました。

 しかし、五七日後、皇帝ダーリャヴァウシュ一世が本気で総攻撃をかけてくるや、ゾープヒュロスは、ついに本性を現します。すなわち、彼は東門を開け、パールサ軍を入れ、城壁を壊し、バビロニア人の反乱首謀者三千名を串刺にして殺したのです。こうして、三年に渡ったバビロニア人の反乱も鎮圧され、ようやくパールサ大帝国は、国内を平定することができたのです。

 西北スキュトヒアへの遠征 (514 BC)

 オリエントは、以前からカフカス山脈北方の「スキュトヒア人」の侵攻掠奪に悩まされていました。それゆえ、皇帝ダーリャヴァウシュ一世も、年来、なんとかこの正体不明の「スキュトヒア人」を制圧しようと腐心し、黒海西岸を北上して背後からその本拠地を攻撃するルートを計画していました。おりしも、サモア島のすざまじい破壊殲滅を知って、ミーレートス将国をはじめとする小アジア半島西岸のヘッラス人諸国も、早々にパールサ大帝国に服従し、このスキュトヒア遠征に協力することを誓約しています。そこで、バビロニア人を制圧して国内を平定した後の翌一四年、皇帝ダーリャヴァウシュ一世(約四四歳)は、いよいよこの長大な遠征を開始します。

 オリエント~ヘッラス人にとって、黒海~カスピ海~ウラル海の北方諸民族は、遊牧民も農耕民も、みな「スキュトヒア人」であり、パールサ大帝国の東北も真北も西北も、いずれも「スキュトヒア」でした。ヘーロドトスは、スキュトヒアの本拠地を黒海の北と考えていますが、先述のように、当時、ユーラシア大陸のシベリア~中央アジアの広大な地帯に、イラン系・トルコ系・モンゴル系など、民族を越える共通の一大遊牧文化が成立していたのです。そこでは、貿易の財宝と、採掘の黄金が、繁栄を輝かしいものとしていました。そして、皇帝ダーリャヴァウシュ一世もまた、じつのところ、この財宝や黄金に目がくらみ、粗雑な世界観のまま、無謀にも、その攻撃制圧の遠征に出発したのでした。
 高官オイバゾスは、息子の一人くらいは国元に残してほしい、と皇帝に願いました。すると、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、みんな置いていってやる、と言ったので、オイバゾスは、大いに喜び帰りましたが、家に着くと、そこには、惨殺された息子たちの死体が置いてありました。

 皇帝ダーリャヴァウシュ一世のスキュトヒア遠征軍は、首都スーサ市を出発、また、黒海入口のボスプホラス海峡には、先の名門貴族オタネースの遠征で降伏したサモス島の棟梁マンドロクレェスに、あらかじめ船橋を建造しておくように命令しました。そして、同海峡の小アジア半島側のカルケへードーン市では、ミーレートス将国将主ヒスティアイオスをはじめとする同半島西岸中部イオーニア地方ヘッラス人将兵を加え、兵士七〇万、艦船六百が揃いました。

 皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、ヘッラス人海軍には、イストロス(現ドナウ)河河口に先に行って、そこに架橋するように命じます。そして、彼は、本隊とともに、ボスプホラス海峡の船橋を渡り、ヨーロッパに入りました。ここにおいて、ケルソス半島の将主であるアテヘェネー市名門プヒライオス家のミルティアデース(約三六歳)もまた、この遠征に協力し同行することになりました。この後、遠征軍は、黒海西岸を北上し、原住のトホラーキア人諸部族を帰順させ、また、抵抗したゲティア(ゲタイ)族を屈服させ、いずれも遠征に参加させます。

 こうして、遠征軍は、イストロス河河口に到着し、先行したヘッラス人が建造した船橋で渡河します。そして、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、ミュティレーネー市士国軍隊長コーエースの献策を入れ、六〇日間は船橋を警備するように命じてヘッラス人たちを残し、さらに北へ進んでいきます。

 スキュトヒア人は、単独での撃退は不可能と考え、周辺諸民族に協力を求めました。しかし、もともとスキュトヒア人がパールサ人を挑発したのだから、パールサ人が自分たちを攻撃してこないかぎり、傍観する、との民族も、少なからずありました。このため、スキュトヒア人は、パールサ遠征軍との正面衝突を避けることにしました。

 やがて、スキュトヒア人騎兵部隊は、黒海西岸に向かい、パールサ遠征軍に姿を見せます。これを見たパールサ遠征軍は、ただちに追っていきました。しかし、歩兵中心なので、どうしてもすぐに逃げられてしまいます。ところが、この後も、スキュトヒア人騎兵部隊は、パールサ遠征軍に対し、繰り返し挑発と逃亡を行うのです。そして、これを追えば、その逃げた後には、少々の家畜や穀物が置き去りにされており、このような戦利品で、パールサ遠征軍の志気はいつまでも下がることなく、スキュトヒアの奥地へどんどんと進んでいってしまいます。

 しかし、これは、すべてスキュトヒア人の巧妙な戦略でした。彼らは、わざと少々の家畜や穀物を置き去りにしていっていたのであり、彼らを追っていった先は、傍観を決め込んでいた周辺民族の領域であって、パールサ遠征軍の追撃は、彼らをも激怒させ、知らぬ間に戦争を大きくしてしまっていたのです。そして、スキュトヒア人は、この間に、背後の泉を埋め、草を焼き、パールサ遠征軍の退路を断っていたのです。

 ヘーロドトスのこの地方の説明は、もともと伝聞によるもので、あまりはっきりしていません。しかし、その謎を解けば、邪馬台国どころではないスキュトヒアの財宝と黄金が眠っているはずです。
 どうにか辻褄が合うように読むと、地図のように、遠征軍は、スキュトヒアの本拠地である中央ロシア大地の周辺をぐるっと一周、モスクワ市のあたりまで引き回されていってしまったようです。
 歴史から学ない者は、同じ罠にはまります。ナポレオンは、アッリアーノスはよく読んでいたようですが、ヘーロドトスは読まなかったのでしょうか。ヒットラーも、ノストラダムスなどより、ヘーロドトスをよく読んでおくべきでした。そして、歴史を知らぬナポレオンも、ヒットラーも、歴史的な巨大遠征軍を、同じロシアの同じ焦土作戦で失う歴史的な敗北によって滅びます。

 パールサ遠征軍は、スキュトヒア人とまともに戦うこともできないまま、数十日にも渡って草原を引き回され、ようやくその本拠地(現キエフ市郊外?)に近づいたと思ったころには、もはやすでに食糧の余裕もなくなりかかっていました。皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、とうとう頭にきて、スキュトヒア人に使者を送ります。「勝つ自信があるなら戦え、ないなら従え」と。しかし、スキュトヒア人の王の一人であるイダントフュルソスの答は、こうでした。「我々は、いまだかって敵を恐れて逃げたことはない。ただ守るべき町も畑もないだけのことだ。どうしても戦いたいなら、この広い平原から、我々が守るべき我々の祖先の墓でも見いだしてみるがよい」と。

 そして、スキュトヒア人から、鳥と鼠と蛙、そして、三本の矢が送られてきます。皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、意味を判じかねて、評定を開きました。「天も地も河も武器も引き渡す、ということだろうか」と言う皇帝に、クーデタ仲間のゴブリュアスは、「天空に飛ぼうと、地下に密もうと、河中に潜ろうと、鳥や蛙や鼠のように射殺してやる、ということでしょう」と答えました。外を見れば、敵のスキュトヒア人たちは、遠征軍を前にウサギを追っています。それゆえ、「この民族が手に負えぬとは、話に聞いていましたが、この場に及んでは、一刻も早く戻りましょう、イストロス河の船橋が心配です」と進言しました。

 皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、ただちに兵士を呼び集め、足手まといになる老兵や弱兵や傷病兵には、「奇襲を行うから、気づかれぬように、平静を装え」と言いくるめて置き去りにし、全速でイストロス河をめざします。はたして、このころ、スキュトヒア人は、すでに河に達し、船橋を警護するヘッラス人に、こう言っていました。「おまえたちは、船橋を警護するように命ぜられたそうだが、規定の六〇日は過ぎた、パールサ人は、我々が屈服させ、おまえたちを解放してやる、ただちにここを去れ」と。

 ヘッラス人たちは、ただちに協議しました。アテヘェネー市名門のケルソス半島将主ミルティアデースは、「スキュトヒア人とともに、小アジア半島西岸を解放しよう」と主張しますが、ヒスティアイオスをはじめとする肝心の西岸諸都市の将主たちは、「自分が将主でいられるのは、パールサ大帝国があればこそだ」と反対しました。そして、彼らは、スキュトヒア人の前で、みずから船橋を壊し始めました。しかし、これは、じつはスキュトヒア人の追撃を防ぐため、船橋の北岸側だけを切っていたのです。

 そうとは知らぬスキュトヒア人は、これを見ると安心し、退却してくるパールサ遠征軍を迎撃しようと、黒海西岸を北上していきます。ところが、このあたりは、先にスキュトヒア人自身がパールサ遠征軍の退路を断つべく、泉を埋め、草を焼いてしまったところで、彼らは、馬を食わすために、しばしば西の草原に出なければなりませんでした。一方、パールサ遠征軍は、渡河点を見失って背水に追い詰められることを案じ恐れ、懸命に自分たちの足跡通りに駆け戻ったのです。

 こうして、遠征軍がイストロス河に至り着くや、ヘッラス人は、ただちに船橋を北岸に繋ぎ、遠征軍が船橋を渡り終えるや、ヘッラス人は、ただちに船橋を河口に流してしまいました。気づいたスキュトヒア人が河岸に駆けつけますが、もはや船橋は渡れません。そして、スキュトヒア人は、悔し紛れに、こう評しました。「ヘッラス人は、自由人としては、じつに卑怯で未練だが、奴隷民としては、じつに忠実で正直だ」と。

 日本のサラリーマンも、同じ評が当たっているように思えます。連中は、なに一つ自分では決められず、上司の顔色を伺い、会社の発展などより自分の保身ばかり考えています。会社の奴隷ではないのだから、それが当たり前だ、と言うかもしれませんが、自由人が自由人であるのは、まず、自分が自分自身の人生の主人であればこそのことです。そこで守るべきは、会社の中での体裁ではなく、自分自身の面目でしょう。
 これに対し、奴隷が奴隷であるのは、心底まで他人の価値観が染み着いてしまっていて、それが他人に植え付けられたものにすぎない、ということすら、考えてみることもできないからです。たとえば、社内では、部長や課長の地位を競争して求め、保身して守ろうしますが、社外からすれば、部長も課長も、しょせんは会社の雇われ人にすぎません。
 こんなことになってしまうのは、生まれて以来、家庭・学校・会社と、いつも他人の王国内に間借りばかりしていて、どこにも自分の世界を作っておらず、王国を追い出されては行き場がない、生きていけない、と本気で信じ恐れているからです。そして、それが、奴隷だというのです。人間、乞食になっても、山人になっても、生きていけます。ひとりでは生きていけない、などというのは、もともと生きていないのです。
 その覚悟もないなら、奴隷は奴隷らしく、せいぜい生きているとも死んでいるともつかないうたかたの時間をかってに過ごせばいいでしょう。それはそれで、奴隷の「幸福(降伏?)」な「生き方(死に方?)」かもしれません。しかし、奴隷の困ったことは、自分ばかりか周囲までも奴隷仲間に引き摺り込まずにはいられないところでしょう。

 トホラーキアとリビアへの勢力拡大 (c513~c10 BC)

 この後、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、ヨーロッパ総司令官としてメガバゾスをトホラーキアに残し、小アジア半島西部リュディア州サルディス市に戻ります。そして、恩賞として、イストロス河の船橋を守ったヘッラス人のミーレートス将国将主ヒスティアイオスに、トホラーキア西部植民地ミュルキノス市の建設を認め、また、その船橋を守ることを勧めたミュティレーネー市士国軍隊長コーエースに、同市の将主の地位を許しました。

 ところで、スパルター士国のアギアース王家には、王子クレオメネース(c540~即位c13~488 BC 約二七歳)と王子ドリエウスがいました。王アナクサンドリデスは、正妻に子ができなかったので、側女を採りましたが、側女が妊娠するや、正妻も妊娠し、側女の子クレオメネースと正妻の子ドリエウスとが誕生してしまったのです。そして、一三年、王アナクサンドリデスが死んだ後、側女の第一王子クレオメネースが王位を継ぎます。正妻の第二王子ドリエウスは、これに怒り、同志と祖国を去り、リビア(アフリカ北岸中部)のキーニュプス河岸に新たな植民市を建てることにしました。

 しかし、このころ、その東のヘッラス人植民地キューレーネー市で、復古反乱が勃発していました。先に同市では、ペロプス半島マンティネイアー市のデーモナクスが国政を改革し、市民政を導入し国王政を制限しましたが、新王アルケヘシラーオスがこれに反発して蜂起したのです。この反乱は、最初、失敗しましたが、アルケヘシラーオスは、いまだ荒廃しているサモス島で兵士を募集し、キューレーネー市を奪取してしまいます。

 しかし、王アルケヘシラーオスは、同市植民地バルケー市で暗殺されてしまいました。母妃ペレティメーは、エジプトに逃げ、支援を求めます。パールサ大帝国エジプト総督アリュアンデスは、これに乗じ、リビア遠征を行うことにしました。けれども、バルケー市の防備は固く、パールサ遠征軍は、地下道での侵入を企てますが、バルケー市民は、青銅の楯を地面に当てて掘削の音を探り、逆に地下道を掘って、穴中のパールサ兵を倒したのです。

 攻囲九ヶ月に及んで、パールサ遠征軍は、和平を求め、「この大地があるかぎり、バルケー市を攻めぬ」と誓います。喜んでバルケー市民がこれに応じ、城門を開くや、パールサ遠征軍が誓った場所は、大きく凹んで無くなってしまいました。じつは、そこには穴が掘ってあり、板を渡し土で覆ってあっただけだったのです。そして、これを合図に、パールサ遠征軍は、市城内に突入します。

 母妃ペレティメーは、反乱首謀者たちを城壁に張り付け、その妻たちの乳房も切り取って城壁に貼り付けました。残りの市民は、パールサ遠征軍が奴隷として本国に送致し、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、これをバクトリアに植民してしまいました。しかし、母妃ペレティメーもまた、その後まもなく、全身をウジに喰い破られて、死に果てました。

 このころ、ヨーロッパ総司令官メガバゾスは、まずマルマラ海北岸中央のヘッラス人植民地ペリントホス市を陥落させ、残るトホラーキアの諸民族を服属させていっていました。これを知ったトホラーキアの西のパイオニアのピグレース・マステュエース兄弟は、同地の独裁を望み、サルディス市を訪れ、皇帝にパイオニア遠征を唆します。そこで、皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、ヨーロッパ総司令官メガバゾスに指令を書いて、パイオニア遠征を命じました。パイオニア人たちは、沿岸を防備しますが、メガバゾスの遠征軍は、山道から彼らの集落を直撃し、勝利します。そして、メガバゾスは、さらにその南のマケドニアにも使節団を送って、帰順を勧めますが、使節団は、みな殺されてしまいました。

 メガバゾス本人は、この後、パイオニア人捕虜を連れ、サルディス市に戻ります。そして、ヘッラス人のミーレートス将国将主ヒスティアイオスに、トホラーキア西部植民地ミュルキノス市の建設を認めたことを諫めます。というのも、この地方は、木材を豊富に産出し、ヘッラス人が艦船を建造して反抗する危険があったからです。皇帝ダーリャヴァウシュ一世は、この諫言を聞き入れ、ヒスティアイオスを呼び戻し、相談役として首都スーサ市へ連れ帰りました。そして、リュディア州には、異母弟アルタプフレネースを総督として残しました。

 ミーレートス共国の復興とクロトーン市教国の最期 (c510 BC)

 将主ヒスティアイオスを失ったミーレートス将国は、すでにパールサ大帝国の脅威で多くの市民がイタリア半島南部などに移住していってしまっていたこともあって、さらに衰退していました。そこで、市民たちは、エーゲ海キュクラデス諸島中央のパロス島から賢人たちを呼び、国家再建を願います。パロス島の賢人たちは、到着するとまず国内全土を視察して、荒廃した田畑ばかりの中にあってまれによく管理されているものを探索しました。そして、その所有者たちに国政を集権一任するように助言したのです。こうして、優良地主たちの管理によって、ミーレートス共国は、急速に国力を回復していきます。

 その後、同国は、優良地主たちの管理によって、パールサ大帝国に服属しつつも、かつての将主トホラシュブーロス(c660~即位c25~600 BC)~賢人タハレェス(624~546 BC)の時代にも劣らぬ繁栄を回復しました。ここにおいては、ヘッラス文化とオリエント文化の融合と合理化に努める「イオーニア開化」が起こり、記録作家ヘカタイオス(c550~490 BC 約四〇歳)が、大いに活躍します。

 すなわち、彼は、「ヘッラス人に物語は多いが、みなバカげている」という有名な一句で始まる『系図学』においてヘッラス神話伝説を整理し、また、『周遊記(ペリエーゲーシス)』においてヘッラス~オリエント世界の地誌歴史を研究したのです。そして、彼は、また、アナクシマンドロスの考えを踏まえて、ヘッラス最初の世界地図を作りました。そこにおいては、[世界は東西に長い楕円の円盤であり、周囲を海洋(オケアノス)が囲っている]とされていました。

 これまでヘッラス世界には、「創作詩人(ポイエーテース)」は多くいましたが、それは、詩歌で物語を抒情的に朗唱しようとするものであり、あくまで情感に訴えるために、その内容は、劇的に誇張されたものとなっていました。これに対して、「記録作家(ロゴポイオス)」は、散文で言論を合理的に構成しようとするものであり、情感の興味ではなく、世界を知ろうとする好知家の知性の欲求に応えるためのものです。したがって、ここでは、劇的であることより、理的であることが求められました。このような意味で、タハレェスが自然科学の祖であるのと並んで、ヘカタイオスは人文科学の祖である、と言えるでしょう。そして、彼がいればこそ、この後にヘーロドトスも登場してきます。

 ところで、一三年にドーリア人のスパルター士国の王子ドリエウスが建てたリビアの新植民地キーニュプス市は、その後、原住民やプホエニーカ人に追われ、一行はペロプス半島に戻らざるをえませんでした。しかし、一〇年、王子ドリエウス一行は、ふたたび新植民市を建てようと、こんどはシチリア島西部へ向かいました。というのも、このころ、シチリア島では、西南岸のドーリア人植民地のアクラガス市士国が、対岸のプホエニーカ人のカルト=アダシュト士国の侵略と戦っていたからです。この戦争には、イタリア半島南部のクロトーン市教国のピュータハゴラース政治教団も協力し、老教祖ピュータハゴラース(約八〇歳)本人も参戦していました。

 しかし、クロトーン市教国は、一七年にサモス島が滅亡して以来、母市である同島とのイオーニア貿易も衰退し、困窮しつつありました。そして、同一〇年、老教祖ピュータハゴラースがシチリア島で戦死するや、勢力を回復するミーレートス士国を母市とするライヴァルのシュバリス市王国は、この機会にクロトーン市教国を叩きつぶそうとします。これを知ったクロトーン市教国の市民たちも、あまりに禁欲的な教団の宗教独裁に反対して蜂起、教団はターラント湾北のメタポンティオン市士国に逃亡、しかし、その残党もタラース市士国で火刑とされました。そして、クロトーン市士国は、おりしもシチリア島へ向かう途中であったスパルター士国の王子ドリエウスの協力を得て、同一〇年、逆にシュバリス市王国に徹底的な攻撃をかけ、同市王国を壊滅させてしまいます。しかし、この戦争で、スパルター士国王子ドリエウスは、戦死してしまいました。

 破壊されたシュバリス市士国は、前四四四年、トフーリオス市民国として復興されることになります。
 ピュータハゴラースの理論は、その後も発展し、何度も復興し、時代を越えて教義を伝承させました。[世界は数学法則に支配されている]と考える近代科学のドグマ(思いこみ)もまた、このピュータハゴラースの影響にほかなりません。
 ピュータハゴラース政治教団は、ミーレートス学派に引き続いて〈原点(アルケヘー)〉を問題としたという意味では、おおいに哲学性を持っていますが、しかし、《ミーレートス学派》のように見解を仮説として弟子たちと自由に議論したわけではなく、むしろ教義を真理として教徒たちに信仰を強制したという意味で、本質的には《哲学》ではなく、あくまで《宗教》です。
 その後の《哲学》の歴史においても、しばしば教育に名を借りて教義の信仰を強制しようとする《宗教》への堕落が起ってしまいます。しかし、教育に名を借りて強制しなければ信仰されないような教義は、《宗教》としても出来そこないです。

 アテヘェネー・ローマの政変 (c510~c05 BC)

 アテヘェネー将国では、一四年に暴君将主ヒッピアースに追放された名門アルクマイオーン家のクレイステヘネース(約五五歳)が、その後、他の亡命アテヘェネー人たちと協力してピッピアース(約五五歳)の打倒を強行しますが、失敗してしまいます。そこで、クレイステヘネースは、こんどは、神殿新設を条件に、デルプホス神託所を買収してしまいました。そして、彼は、誰でもスパルター人が神託を聞きに来たら、アテヘェネー将国の暴君将主ピッピアースを倒せ、と言うようにと、巫女たちに命じたのです。

 スパルター士国は、アテヘェネー将国のペイシストラトス家のピッピアースとは友好関係にありましたが、あいつぐ同じ神託を不信ともせず、「神意は私事に優先する」として、一〇年、アギアース王家王クレオメネース(約三〇歳)を指揮官として進撃していきます。暴君将主ピッピアースをはじめとするペイシストラトス家の一党は、アクロポリスに籠城しますが、スパルター士国軍は、ちょうど避難しようとしていたその子女たちを逮捕してしまいました。このため、やくなく、ペイシストラトス家の一党は、子女の解放を条件に、小アジア半島西岸北部の植民地シーゲイオン市への追放を受け入れました。そして、アテヘェネー市民は、将主政打倒を記念して、一四年に弟将主ヒッパルコホスを倒したハルモディオスとアリストゲイトーンの青銅像を広場(アゴラ)に立てました。

 同一〇年、ローマ王国でも、革命により、第七代国王である暴君タルクィウスは追放されてしまいます。そして、翌〇九年、「公共政(レース=プーブリカ)」が発足しました。すなわち、市民の承認なく政権を奪取しようとする者は死刑と規定され、国王の代わりに一年任期二名無給の「総裁(コーンスル)」を選出したのです。そして、これを補佐する政治経験者集団「元老院(セナートゥス)」の定員も、三百名に増加させました。

 古代ローマにおいて、エトルーリア系王朝以前の第四代までの原住民ウィラノーウァ系の国王では、もともと選挙で決定されていました。この意味で、公共政は、じつは復古にすぎません。
 一般に、「公共政(レース=プーブリカ)」は「共和政」、「市民政(デーモクラティアー)」は「民主政」と訳されますが、これでは、何のことやら。原理的には、「国王政(キングダム)」「公共政(レパブリック、共和政)」「市民政(デモクラシー、民主政)」の三つが対立概念であり、国王政は、国王が世襲所有する政体、公共政は、国家利害を優先して、官僚(大統領)に集権一任する政体、市民政は、個別利害を優先して、市民や区会(地方体)が分権自治する政体です。
 アメリカにおいて、中央集権を強化しようとする「公共党(レパブリカン、共和党)」と、地方分権を強化しようとする「市民党(デモクラート、民主党)」とが対立するのも、このためです。一般に、商工業者は、国内統一市場を要求して公共政を支持し、農民は、地域特性配慮を要求して市民政を支持する傾向があります。
 なお、「将主政」は、軍隊や官僚を所有する将主に集権一任するものであり、国王政と公共政の中間的形態です。
 正確に言えば、[市民の承認なく政権を奪取しようとする者は死刑]という規定は、この公共政の成立後に追加されたものですが、しかし、これこそ公共政の本質を規定するものです。というのは、公共政において、総裁は、王朝世襲ではなく、市民投票で選出されてこそ、集権一任だからです。後の百人隊会においては、つねに、先導官が公共政の象徴として、権力を意味する斧の柄に人民を意味する小枝を束ねた「ファスケース」を持参し、[権力は市民から委任されている]ということを公示しました。さらに後に、二〇世紀前半、ムッソリーニがこれを流用して、ファシズム運動を展開しますが、それはとんだ茶番です。
 [選挙さえやれば市民(民主)主義]なのではなく、[議員は議論だけ、評決は、あくまで市民みずから]であってこそ、「市民(民主)政」です。この意味で、現在の日本は、けっして「市民(民主)政」ではありません。かと言って、日本の議員たちは、公的な国家利害より、私的な党利党略を優先させてしまうのですから、「公共(共和)政」でもありません。[政治は、言葉を正すことである]と言われますが、「共和」だの「民主」だの、よくわからない言葉を弄んでいるうちは、こんな「私物政(レース=プリーウァータ)」がはびこり続けてしまうことでしょう。
 ローマ市内を歩くと、マンホールの蓋やゴミ箱など、そこら中に「SPQR」と書かれています。これは、現在では、「ローマ市」と同義ですが、もともとは、「元老院(セナートゥス)とローマ大衆(ポプルス=クェ=ロマーヌス)」という意味でした。

 一方、アテヘェネー士国では、その後、クレイステヘネースとイーサゴラースとが政権を争うことになってしまいました。そして、劣勢となったクレイステヘネースは、一般市民を味方に付けて革命を企てたので、イーサゴラースは、ふたたび王クレオメネースのスパルター士国軍を入れます。しかし、一般市民は、これに抵抗し、アクロポリスに籠城したイーサゴラースと王クレオメネースを攻囲し、交渉の後、ともに国外に退去させます。

 スパルター士国アギアース王家王クレオメネースは、この屈辱に報復せんと、ペロプス半島同盟を動員します。こうして、スパルター士国を中心とするペロプス半島軍は、西のエレウシース市に侵入、テヘェベー士国を中心とするボイオーティア軍は東北部を占領、カハルキス市士国を中心とするエウボイア島軍は北部を略奪、ところが、やがて、半島軍のコリントホス市士国軍がかってに帰国、肝心のスパルター士国軍内でも、アギアース王家王クレオメネースとエウリュプホーン王家王デーマラトスが対立して分裂、こうして、ペロプス半島同盟軍は崩壊してしまいました。

 この後、クレイステヘネースを中心とするアテヘェネー民国は、ボイオーティアおよびエウボイア島に報復遠征し、覇権確立します。一方、スパルター士国は、このころになってようやくデルプホス神託所の買収の事実を知り、再度、報復するために、シーゲイオン市から元将主ピッピアースを呼びます。しかし、コリントホス市士国をはじめとするペロプス半島同盟国は、自分たちも望まない将主政をアテヘェネー民国で立て直させることに賛同せず、そのまま解散となってしまいました。また、アテヘェネー民国自体でも、〇八年、市民指導者クレイステヘネース(約五七歳)が、政治的危険人物を投票で十年間国外に追放する「陶片追放制(オストラキスモス)」を導入し、将主の登場を防止します。

 また、彼は、市民を住所で再編して従来の部族を寸断し、政治権力を市民個人および各区に分散させてしまう「市民政(デーモクラティアー)」を創始しました。すなわち、アテヘェネー市は、市内・内陸・沿岸の三部(トリットュス(三分の一))に分けられ、その三部のそれぞれがさらに十区(デェモス)に分けられ、市内・内陸・沿岸の三区一セットで新たに十の「地区部族(トピケー=ビューレー)」が決められました。そして、政治権力は、全員直接参加の「民会(エックレーシアー)」を最高機関とし、その実質的な運営は、十「地区部族」代表各五十人からなる五百人の「評議会(ブーレー)」で執行するようにしました。しかし、この時点ではまだ、完全な市民政ではなく、古い貴士政の残滓である「元老院(アーレイオスパゴス)」も強い権限を残しています。

 「陶片追放制」は、小さな陶器に政治的危険人物の名前を刻み付けて投票するものですが、市民がみな文字を読み書きできるわけもなく、実際は、すでに政敵の名前を刻んだ陶片を、政治家たちが人々に配布して投票してもらっただけのようです。
 正確に言えば、各「地区部族」の中に、市内・内陸・沿岸の三部があり、各部一区ではなく、複数区を含んでいました。というのは、アテヘェネー市は、全部で一三九区もあったからです。しかし、いずれにせよ、「地区部族」は、「部族」とは名ばかりで、実際は、アテヘェネー市民を均質の十班に分けただけのものです。しかし、これによって、どの地区部族も多様な階層や職業を含むようになったのであり、国家的な階級対立や職業利害は分断され、国政以下の地区部族内に密閉されてしまったのです。当時、もはや「将主」の私的傭兵部隊だけでは強力なパールサ大帝国に対抗することは不可能であり、この総力戦において、ローマ共国のように階級対立や職業利害で争っている場合ではなく、装甲歩兵となる市民それぞれに権限を分与し、自己責任において自発的に国家防衛に参加させる必要があったのでしょう。
 ほぼ同じ時期に、ローマ共国は、集権一任の「公共政」を、それと反対に、アテヘェネー民国は、分権自治の「市民政」を導入したのです。この相違は、もともとの古い政体の相違によりますが、また、国民総力戦を前にしたアテヘェネー民国と、対外的な問題のないローマ共国の状況の相違によるところも大きいでしょう。そしてまた、このことは、後々、市民政を選好するヘッラス諸都市の限界となり、一方、公共政を選好するローマ共国の繁栄の契機となります。もっとも、先述のように、ローマ共国もまた、「百人隊会」として、兵士および兵役経験者による市民総会を持っており、後には、一般住民による「大衆部民会」も勢力をつけてきます。逆に、アテヘェネー民国もまた、後には「戦争主導官」による独裁的「公共政」へと変質していきます。

 エトルーリア・ローマ戦争 (c505~c495 BC)

 ローマ共国では、追放された国王タルクィウスが北約百キロのエトルーリアのクルシウム(現キゥージ)市に亡命し、同市王国王ポルセンナを中心とするエトルーリア系十二市王国連合軍とともに南下してきます。これに対し、ローマ共国は、ヘッラス人撃退でむしろエトルーリアと協力関係にあったカルト=アダシュト士国に、海上覇権を献上し、保護を求めましたが、このエトルーリア・ローマ戦争に乗じて、南のラテン人やヘッラス人も、北上して侵略してきます。そして、この両面戦争に、政治の中心は、住区代表による「市民(クリア)会」から、全兵役者による「百人隊(ケントゥリア)会」に移行します。

 「市民会」は、やがて戸籍管理しか行わないようになっていきます。これに代わった「百人隊(ケントゥリア)会」は、もともとは、各住区ごとに装甲歩兵百人の部隊を出したことに由来する戦時の兵士総会のことですが、この後、周辺部族紛争が継続したため、事実上の恒久機関に変化し、兵士および兵役経験者というローマ市民の総会となります。そして、この機関が「総裁」を選出したということは、「総裁」は、政治的元首というより軍事的将軍であったということを意味しています。それが二人であるのは、スパルター士国を模範としたのかもしれません。

 「総裁」は、「元老院」が補佐することになっていましたが、しかし、実際は、むしろ「元老院」が「総裁」を支配していました。というのも、たしかに「総裁」の選出は市民総会である「百人隊会」が行いましたが、「元老院」は、前夜の占星によって事実上の総裁拒否権を持ち、また、任期中もその後の「元老院」入席を条件に「総裁」の意向を左右することができたからです。
 こうして、ローマ共国は、「元老院」を中心に、年功序列で保守硬直していきます。このため、追放された国王タルクィウスに内応したのは、なんとむしろ革新抜擢を希求した名門元老院議員の若手子弟でした。しかし、このクーデタは、事前発覚して彼らは処刑されたので、いよいよ「元老院」による老人政治は保守硬直していってしまいます。
 エトルーリア人は、いかにも小アジア半島出身らしく、ワインを大いに好み、戦闘でもまず一杯含んで景気付けていました。このように、地中海世界のエトルーリア人も、ヘッラス人も、プホエニーカ人も、大いにワインを好んだというのに、なぜかローマ人だけは、建国王ロムルス以来の禁止として、けっして飲んでみようとはしませんでした。現在でも、しばしば「北イタリア人は陽気で粗雑だが、南イタリア人は陰気で頑迷である」と言われます。

 この南北の対外的な両面戦争に加え、国家内部でも、一般住民の不満が高まってきました。というのも、総裁、また、それを実質的に補佐管理する元老院も百人隊会も、ローマ王国建国以来の「父祖族(パトリキ)」が支配しており、外来の商工業経営者の富裕市民は、「父祖族」に対する貢献貢納によって、父祖族の「盟友者(コンスクリプトゥス)」としてかろうじて政治的にほぼ同等に処遇されましたが、その他の大多数の外来の一般住民は、あくまで「大衆民(プレーブス)」として、税金も兵役も免除軽減された代わりに、政治的な権限も皆無微小だったのです。くわえて、ここにおいて、保守硬直して貨幣経済を理解できない元老院は、両面戦争の負担を捻出するため、極端な緊縮財政に転換し、恐慌的な不況が発生して、一般住民は急激に困窮しました。

 当時のローマ共国の政治は、「百人隊会」を権力の根拠としていました。この「百人隊会」は、建国以来の古い市民政の習慣を残存させており、その投票は、各百人隊に一票だったのです。しかし、各百人隊は、かならずしもちょうど百人というわけではなく、第一階級(地主貴族)騎士一八隊、第一階級(自作農民)歩兵八〇隊、第二~第四階級(小作農民)歩兵各二〇隊、第五階級(商工業者)歩兵三〇隊、工兵楽隊他四隊、階級外無財者足軽一隊の計一九三隊のいずれかに全兵役者が所属していたのであり、このため、上位隊ほど一隊の実際の所属人数は少なく、下位隊ほど一隊の実際の所属人数は多くなっていました。
 その投票においては、総裁が議案を問い、まず最上位隊に所属する全員が総裁の前の「橋」を通り、質問者に是非を答えていきます。これは、後の二世紀ごろには、現代の日本の国会のように、箱に木札を入れていく形式になります。いずれにせよ、こうして一隊の全員が質問者に是非を答えると、その是非が集計され、多い方がその隊としての一票となります。そして、次の隊も同様に全員が答えて、その隊としての一票を決めます。こうして、是非のいずれかが一九三隊の過半数である九七票を得た時点で投票は終了。したがって、実際は、第一階級の騎士一八隊と歩兵八〇隊の計九八票で、たいていのことは決まってしまったのであり、第二階級以下は、およそ質問に答える機会すらありませんでした。たとえ投票したとしても、少人数で一票の地主貴族と、多人数で一票の商工業者では、一人の政治的影響力がまったく違っていました。もっとも、戦争は、すべて自弁で上位隊から召集されたのであり、下位隊が召集されることはまずありませんでした。

いいなと思ったら応援しよう!