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祖父の話

 先日、祖父の葬儀があった。白寿も間近という大往生であった。今日はそんな祖父と祖父の葬儀の話を書いていこうと思う。

 大正11年生まれ、もはや歴史の教科書に載って久しい時代に祖父は生まれた。その当時は珍しくもない5人兄弟の長男で、荒くれ者の曽祖父の元育った。(ちなみにこの曽祖父は私が生まれるずっと以前に亡くなっているため全く覚えはないが、それなりに裕福であった実家の財産を全て酒で流したとか、亡くなったときに一族全員全く悲しまなかったとか逸話が色々ある。)比較的に頭は良かったのに、この曽祖父に学校から呼び出されては仕事をさせられ、まともに学問に励むことはできなかったという。出兵の折、曽祖父のやらかしや借金を全て精算して、向かったというのだから、長男の鏡のような人間である。

 戦争時代は通信士をしていたということをうっすらと聞いた。若い時の祖父がその役職につけたということはそれなりに、頭脳を買われたのかも知れない。そんな祖父にまともに勉学をさせなかったのだから、つくづく曽祖父には呆れるばかりである。しかしそれもまた、その時代の生き方でしかなかったのだ。そして、すでに亡くなった祖母と結婚して、父をはじめ3人を成人まで育て上げた。父は通信制に通い、資格を取り、叔父たちはしっかりと大学まで通い、今ではそれなりにお偉いさんにまでなることができた。戦争から帰ってきた人というのは強い。祖父の遺品を確認していたら、大日本帝国政府発行のペソまで出てきた。なんとも歴史を生きた人物なのだなぁという感慨しかない。

 私の幼少期の祖父はかなり早起きな働き者というイメージが強い。朝早く起きて、仕事を済ませ、帳簿を作り昼寝をして、趣味のグランドゴルフを楽しみつつ、店番をして、また仕事の仕込みをする。70代半ばでありながらそれだけ働いていたのだ。30そこそこでぜーぜーいっている私とは比べ物にもならない。そんな祖父もなかなか体が動かなくなり、運転もままならなくなったくらいに、父に店を引き継いだ。それなりにうまくいっていたが、父の大病を機に、その店も閉めた。もともと私の代の前には閉める予定ではあったが、それなりに対抗して、悲しんだようだった。

 晩年は大きな病気も見つかり、ほとんど病院併設の介護施設にいた。祖父の人生最後の楽しみは町が作っている長寿番付の横綱になることだった。実家に帰り、長寿番付を見たが、祖父は立派に横綱になっていた。あと一歩でトップに立つくらいのものであった。(ちなみに男女に別れた番付になっていて、女性側では祖父の年齢は関脇か番付にものらない程度になる)祖父は最後の目標もしっかりとクリアしてその一生を終えたのである。大正、昭和、平成、令和。変わりゆく世界の中で生き抜いてきた祖父を私は心から尊敬する。諸々の事情があり、最後に会えたのが2年以上前であったことが悔やまれる。最晩年は近くに住んでいる家族ですら面会することはほとんどできなかった。コロナによるものではなかったため、死に目はしっかり見ることはできたが、祖父にとっては寂しかったかも知れない。なんともいえないご時世である。

 祖父の訃報を聞き、実家に帰るかどうかはかなり迷った。けれども、緊急事態もとれた中、父も母も高齢で葬儀の準備や後始末のことを考えると実家に帰ることが最適解と考えたため、帰省した。家に着いても常にマスクをつけながら過ごす日々は少ししんどかったが、仕事の忙しさを考えれば帰って良かったとは思っている。全身疲労には包まれてしまったけれども。

 そして、これで実家に住んでいる家族は両親のみとなった。広い家に70前後の両親をただ2人にしておくのは心許なく、悩ましいが私の性格上あの田舎で過ごし続けるということは難しい。そのうちに、うちに呼び寄せるか、このまま比較的近くに住んでいるきょうだいに任せて行くか難しい選択を行うことになるのであろう。そして田舎は少しずつ人が減っていく。寂しいが、それが世の常というものだ。そして、私はそんな懐かしい実家にきっとあと20回も帰らないのだ。一回一回を大事に帰りたいと思う。まぁ、うちの家計は基本90以上まで生きる長寿家系なので20回じゃ済まない気もするが、それはそれでいいことだろうから気にしないでおく。

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