ポエミーという揶揄について
エッセイを書いたり、詩をしたためたりするひとのことを「ポエミー」と揶揄するのを、たまに見かける。幸いなことに自分は面と向かってそう言われたことはないけれど、そこは大人だ、直接言わないだけで陰では私も言われることがあるのだろうと思っている。
ことばを紡ぐとき、私は特段ポエミーであろうとしているわけではない。
カメラが回っているときだけいいことを言おうとしているわけでも、文章の最後を必ず美しく締め括ろうとしているわけでもなく、ただ自分が見たもの、感じたこと、想像したことをことばにしたくて、こうして紡いでいる。だから自分は「創作者」というより「表現者」という方が適切かもしれないと思う。
何かをことばにしようと思ったとき、(私にかんして言えば)表現したい対象へのある程度の「陶酔」は必要だと思っている。
それはたとえるなら、楽器を演奏するひとの身体がメロディに合わせて揺れるような感覚で、風景や感情への強い思いがあるからこそ起こる現象だと思う。こうした陶酔を「ポエミー」と呼んでいるのだとすれば、なるほど確かに私はポエミーだと言えるだろう。
揶揄されてしまうのはあまり好ましいことではないけれど、自分自身の執筆スタンスとしてこの陶酔状態は必要なことなので、そこは甘んじて受けようと思っている。
・・・
それから、よく聞かれるのは「自分自身のことを赤裸々にエッセイにするのは恥ずかしくないのか?」ということだ。
これにかんしては、はじめ大きな抵抗があった。知人に読まれることよりも、自分が何かを公開する、ということに。自身の自己顕示欲と向き合っているようで恥ずかしかった。
だけど知人に読まれることを恥ずかしいとは思っていないと、断言できる。きっと読んでないだろう、という気持ちもあるけれど。
そう思うことができるのは、自分の公開したものに対して思いがけずたくさんのやさしいことばをもらっているから。
久々に会った友人から「えみの文章好きだよ」と伝えてもらったり。
もうずっと会っていない友人や後輩から「noteを読んでえみに会いたくなった」と連絡をもらえたり。
会ったことのない方から「noteを読んでずっと会ってみたいと思ってました」と言ってもらえたり。
今はなかなか会えない母から「読んでるよ。いいね」とことばをもらえたり。
こうしたあたたかいことばたちが、私のちっぽけな自己肯定感をつぶさずに、今まで大切に育ててくれていると感じる。
だからこれからも私はことばを紡ぎ続ける。うつくしいものも、醜いものも。時折、ポエミーになりながら。
それは決して恥ずかしいことではないと、たとえ今は思えなくても
40年後、50年後の私が胸を張ってそう思ってくれたら、私はそれでいい。