『溺れるナイフ』と『灰色と青』に見る菅田将暉の宗教性について
映画『溺れるナイフ』を観た。俳優の菅田将暉さんが演じるコウちゃんの宗教性に、同じく菅田将暉さんと米津玄師さんが歌う『灰色と青』の歌詞と似たものを感じたので、ごく個人的な記録として書き留めておこうと思う。
※原作未読です。ネタバレ・個人の解釈を多分に含みます。閲覧は自己責任でお願いいたします。
【溺れるナイフ】
・コウちゃん(菅田将暉):島の土地を守る神主一族の跡取り。金髪で、傍若無人なふるまいが目立つ。
・夏芽(小松菜奈):ティーンモデルとして大人気だったが、家庭の都合で島に越してくる。
①コウちゃんと夏芽の、視線の高さの違い
コウちゃんははじめからずっと、夏芽にとって神のような存在だった。初対面のとき、夏芽を目に留めたコウちゃんは一瞬で間合いを詰める。夏芽は思わず腰を抜かす。
それからたびたび夏芽はコウちゃんの前で膝をついている。
・写真集撮影を邪魔したコウちゃんを森で追いかけたとき
「この島のもんはみんな俺のもんや」というコウちゃんは、森の斜面をものともせず自由に逃げ回る。追いかける夏芽はコウちゃんを捕まえることができず、その場に膝をつく。
・ボートの上で座っているコウちゃんに詰め寄ったとき
はじめは掴みかかる勢いで詰め寄るも、結局座るコウちゃんの膝元にへたり込んでしまう。
夏芽は常に、コウちゃんを見上げる視点にいるのだ。コウちゃんを前にすると、自然と跪いてしまう。何か圧倒的なものが、夏芽から見たコウちゃんにはあったように思う。
②コウちゃんの神格化が決定的になったシーン
島のみんなが信仰する、「神さん」。その神さんを祀った祠の前で、夏芽が手を合わせるシーンがある。
「私の神様に、もう一度会えませんか」
つまり夏芽は、島の神様の前で「あなたは私の神様ではない」と宣言しているのだ。
では、夏芽にとっての神様とは誰なのか。言うまでもなく、コウちゃんである。
祠で手を合わせた後、夏芽は偶然にもコウちゃんと再会する。それは夏芽にとっての神様がコウちゃんであることを暗に示しているだけでなく、夏芽自身に「やはり自分にとっての神様はコウちゃんなのだ」と再認識させた重要なシーンであるように思う。
③神→人への堕落
「なんでやっつけてくれなかったの」
夏芽がレイプ被害に遭い、助けに来たコウちゃんも暴行を受け夏芽を救うことができなかった。その頃のことを、後に夏芽は上述の台詞で責める。
コウちゃんが助けに来てくれた時、夏芽はこれで助かると思った。だがそうではなかった。
背後から襲われたコウちゃんがボロボロになるまで殴られ、咄嗟に逃げたが逃げきれず、夏芽はレイプされたのだ。彼女の台詞や表情からは、唯一絶対の神が目の前で倒れてしまったことによる絶望や憤りが感じられた。
そしてそのことに絶望していたのは、夏芽だけではなかった。
「誇り高くおりたかったわ。お前が望んだみたいに」
「俺はお前に何もしてやれんのじゃ」
コウちゃんもまた、自身の無力感に絶望していた。
夏芽が島に越してくる前から、島の人はコウちゃんを「特別」な存在として見ていた。それは彼の家柄や家庭事情によるところも大きかったが、「この島のもんはみんな俺のもんや」という彼の自尊心の大きさも、その要因の大部分を占めていたように思う。
しかしその後夏芽と出会い、コウちゃんは美しい彼女から崇められるようになる。その、「自分は夏芽にとって『神さん(神様)』のような存在である」という自負心こそが、徐々に彼を「神様」たらしめていったのだということが、この台詞からわかる。
コウちゃんがやられてしまったこと、そしてそれにより夏芽を救えなかったこと。これらの出来事そのものというより神が人へと堕落してしまった事実が、2人を絶望へと突き落とし人生を狂わせたように思う。
④夏芽はなぜ芸能界に戻ったのか
コウちゃんがいれば他に地位も名誉も要らなかった夏芽は、なぜ島を離れて芸能界に戻る決意をしたのか。それは彼女が出演した映画で主演女優賞を獲り、インタビューを受けているシーンの独白で語られている。
「知らないでしょう、みんな」
「コウちゃんはもっと凄いってこと」
「人への堕落」があった後も、夏目の中でコウちゃんは神様であり、いつまでも自分のずっと先を行く存在であることは変わらない。だから夏芽は、自分が芸能人として認められることで、相対的にコウちゃんの地位の高さを実感することにしたのだ。
自分が社会から評価され続ける限り、コウちゃんはあの頃の神様のまま、夏芽の思い出の中で輝き続ける。それが、地に堕とされた者に残された生きる道だったのかもしれない。
【灰色と青】
・君(菅田将暉)
・僕(米津玄師)
※1番、2番で君と僕の入れ替え有
この曲では、僕から見た「君」の圧倒的な力強さが描かれている。君はまるで救世主のように、僕を何度も救ってきた。そしてこれからも君の存在が、僕を救っていくのだろうということがわかる。
①僕の見てきた君のすがた
「君は今もあの頃みたいにいるのだろうか 靴を片方茂みに落として探し回った」
これは私の解釈だが、靴を落としたのは僕で、探して走り回ったのが君であるように思う。もしかしたら日が暮れていたかもしれない。心細さで僕は泣いていたかもしれない。それでもきっと、君は僕を先導して茂みに入っていく。そんな光景が浮かんだ。僕はそんな君の、頼もしい背中をずっと覚えているのだろう。
②君と感じた無敵感と、無敵ではなくなった今
「『何があろうと僕らはきっと上手くいく』と無邪気に笑えた」
幼い頃の友人関係にはよくある、無敵感や全能感。それらが、君と僕のあいだにもあった。そうした記憶は、往々にして無敵ではなくなった後も人を救う。僕もおそらく、これまでに何度か救われてきたのだろう。君との記憶に。そして同時に、君がそばにいない今を思い、空虚な気持ちになるのだろう。それが「今はなんだかひどく虚しい」という歌詞に表れているように思う。
③落としたつぶやきと救済
「今更悲しいと叫ぶには あまりに全てが遅すぎたかな
もう一度初めから歩けるなら すれ違うように君に会いたい」
Cメロで、僕はひとりブランコに腰かけて歌い出す。徐々に伴奏が消えていき、後ろで鳴るのは時を刻み続けるメトロノームの音だけになる。静かな僕の声が「君に会いたい」と漏らした本音。そこから拍を置かずに君の渾身の叫びが入る。
「どれだけ背丈が変わろうとも 変わらない何かがありますように」
それはまるで、僕の沈黙や孤独、闇を切り裂いて差し込む一筋の光のように、離れている僕のもとまで力強く届く。「変わらない何か」は確かにあるぞ、と。こうして僕はまた、君に救済されるのだろう。
④「灰色」と「青」
「始まりは青い色」
この曲の最後のフレーズだ。曲を通して、僕と君とは常に対比されているように思う。陰と陽。電車とタクシー。灰色と、青。
何が灰色で何が青か、曲中で明確に語られてはいない。それでもなんとなく、灰色が僕で、青が君であるように聞こえてくる。
だとすれば、僕の歌う「始まりは青い色」という歌詞の指す青は、明けゆく空だけでなく君の比喩でもあると言えるだろう。いつだって何かを始める時、僕にとってその道を切り開いて手を引いてくれるのは、君の存在なのだ。
⑤僕から見た君と、君から見た僕
MVの中で、君と僕の対比は実はもう一点ある。君が喫煙している、という点だ。曲中、君はやさぐれたような表情で煙草を吸いながら左側のブランコに座っている。おそらく今の君は、僕の記憶のままのキラキラして無敵な存在ではではなくなっているのだろう。ちょうど、『溺れるナイフ』の作中でコウちゃんが神から人に堕落してしまったように。それでも僕は、記憶の中のかっこいい君を追い続けている。それもまた、夏芽が過去のコウちゃんのかっこいい姿を追い続けているように。
③で書いた通り、Cメロで君は僕の落とした呟きから拍を置かずに叫ぶ。
「どれだけ背丈が変わろうとも 変わらない何かがありますように」
それは1番と同じ歌詞でありながらメロディにはアレンジがなされており、曲中で最もメッセージ性の強い叫びに感じられる。そう、実は「変わらない何か」を強く信じたいのは君の方なのだ。
おそらく、僕が君との記憶に救われていた時、君もまた僕との記憶に救われていたのだろう。僕が君の中に「始まりや変化の青」を感じているのだとすれば、君は僕の中に「不変の灰色」を感じている。それぞれ、互いには持ち得ない色で、意図せず互いを救済しているのだろう。
【結論:菅田将暉さんのもつ表現力】
『溺れるナイフ』と『灰色と青』。この2つの作品に共通しているのは、菅田将暉さんが演じるキャラクターが主人公にとって「救済」の意味をもつということだ。それも本人の意図しないところで。
現実のキャラクターはもちろん普通の人間で、主人公を必ず助けるヒーローでもなければかっこいい救世主でもない。主人公も、おそらくそれはわかっているはずだ。しかし彼女/彼の記憶の中で菅田将暉さん演じるキャラクターはいつまでも色褪せないままで、その姿を彼女/彼は尊く思っている。まるで信仰の対象であるかのように。
そんな人間離れした宗教性を表現できるのが、菅田将暉さんという俳優のもつ魅力なのだと思う。
役者として生きる彼の、役の手前にある力強さ。そこに高い演技力・表現力が加わって、あの雰囲気が生まれているのだろう。私が灰色と青を聴くたび胸が揺さぶられて泣きそうになるのは、きっとそういう雰囲気にある。
不思議な魅力をもつ菅田将暉さんの他の作品も、これからチェックしてみたい。みなさんももし、おすすめがあれば教えてください。
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