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剥き出しの生から「優しい生」へ:生政治における優生に抵抗するために

 新型コロナウイルスにおける政治体制を「生政治」(biopolitics) と形容し、それに伴ってフーコーやアガンベンといった哲学者の名前が出てくる。「生政治」とは文字通り、生きる政治、生かされる政治であり、そこで生きて、生かされるのは権力ではなく、私たちのほうなのである。権力によって生きていれる、生かされるのだからいいのではないか、と思う人がいて当然だが、フーコーやアガンベンはそれこそがほんとうに危険な権力のありかただと考える。それはどういうことか。

フーコーについては、まえ少し書いた(「生権力と恐怖についての端書」)ので(もちろんそれだけでは足りないのだが)、ここではイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンについて、アガンベンの書いたものについて見てみることにしよう。なぜアガンベンが生政治、つまり権力に生かされる私たちのいる社会、が危険であると言うかというと、その社会で私たちが生かされているのは「剥き出しの生」(ゾーエー)だというからだ。生が剥き出しというと、野生の動物を思い浮かべるように、剥き出しの生を送る人たちはただ単に自分の生存のみを考えているような人たちだ。つまり、剥き出しの生の枠組みのなかでは、人間は生存だけのために生きている。

新型コロナウイルスなどの感染症に対する疫学的な対応として、人間を人口として、その様々なラベル(健康状態、年齢、性別、人種、病歴など)によって振り分けされる。ニュースでは、前日比で何人の感染者が増減したという人口、人の数に基づいた報道がなされ、感染者は何県在住、何十代の何性、というプライバシー保護を無視した報道が日々なされている。プライバシーの侵害はもちろん倫理的に糾弾されるべきであるが、ここでは人を個人としてではなく、ある集団として、数学的な値として表明されていることを問題にしたい。このような人を人口として扱う社会においての唯一の目標は感染者の人口を、数字を減らす、なくす、という点にある。つまり、値をゼロにすればよい。数字のみで表象される人間は生存以外の価値がないことは確かだ。生存してほしいから隔離する、生存してほしいから外出禁止令を出すのであって、「人間らしい生活」(ここでは「剥き出しでない生」=生の形式、ビオスのこと)をしてほしいために隔離するのではない。生政治における権力にとって、人々が「人間らしい生活」をしようがしまいが関係ない。人口がないと権力じたいが成立しないので、彼らの生存しか問題ではない。

生権力にとって人間は生存以外価値がないので、死んでしまった人々は気にする必要がない。アガンベンは2020年3月17日に書いた、新型コロナウイルスについての論考(Giorgio Agamben, “Chairimenti,” Quodlibet, http://www.quodlibet.it/giorgio-agamben-chiarimenti)において、彼は新型コロナウイルスによる死者が葬儀されず、親族も死体を見ることもできないことに対して強い危機感を抱いている。「死者—私たちの死者—は葬儀を執りおこなわれる権利がないし、愛しい人の死骸がどうなるのかはっきりしない。私たちの隣人なるものは抹消された。… 生き延び以外の価値を持たない社会とはどのようなものか?」(ジョルジョ・アガンベン、「説明」、高桑和巳訳、『現代思想 2020年5月号 48:7』、2020年、p.20)。

哲学者の國分功一郎は、NHK BS1の番組(2020年5月23日放送「コロナ新時代への提言~変容する人間・社会・倫理~」)で、このアガンベンの発言を紹介しながら、この「死者の権利」(または死者の周りの生存者の権利)が保障されない社会において、死者が築き上げてきた過去は無視され、ぺらっとした現在のみが残る、と語る。そういう社会においては、過去から続くルールや価値観は無視される。そして、國分は、こうした死者の権利が無視された疫学的な生政治が蔓延しているこの社会に少しも違和感を持たない人々、それを可能にしている社会に、違和感を持っている。

生権力は人口を生かすことによって成立し、死んだ人たちは人口から排除されると言ったものの、現在の新型コロナウイルスの対応にあたっている政治権力が人口を十分に生かしているかといえば、そうとはいえない。各地で特定の人々がとくにウイルスに対して脆弱である。それはホームレスの人や貧困層にいる人、有色人種や外国人居住者、移民や難民、妊婦、LGBTQの人、障害者など、「社会的弱者」とくくられる人たちである。生政治の話は置いておいて、いま、彼らが権力によって十分に生かされているとは言えないばかりか、権力の不手際によって死ぬかもしれない状況に追いやられている。これはもともとあった格差や差別が新型コロナウイルスによって顕在化された、と言うことはできる。が、もう一歩進むと、生政治が機能していない、とも言える。生政治が機能していることが良いことだとは言わないが、みなに生きる権利、社会的な基盤がないことはおかしい。では、みなに生きる権利が与えられている社会とみなが生かされている生政治の社会とはなにがちがうのか。みなが生かされているのであれば、それで良いのではないか。

ここで社会学者の立岩真也の安楽死の議論を参考にしたい。なぜ安楽死か、というのは置いておくとして、彼の安楽死(積極的安楽死)に反対する主張の論理を見ていく。立岩は、安楽死する人、すると決めた人は、間違った社会の価値を教えこまれた、と言う。

自分でなにかを決めること(自己決定)は、通常、他人に負担がかかるので、他人にとって都合が悪い(「都合の悪い自己決定」)。例えば、足が動かない人がどこかに行きたいという自己決定をした場合、その自己決定は必然的に他人を巻き込む。だれかがその人をどこかに動かす(例えば、車いすを押す、など)必要がある。他人に負担がかかるとはいえ、その人の自己決定は認められるべきだ。足が動く人が自分でどこかに行けるのに、足の動かない人は他人がいないとどこかに行けないから、行けない、というのはおかしい。まず、だれかがその人を手伝えば済むことで、社会全体がその人を手伝ってもいい。立岩のテーゼである「決定権は存在の一部である」はここからくる。「決定は存在の一部である。決定することが決定しないことよりも価値が高いのではない。このことと、自己決定が、その人の存在を尊重することの一部に、しかし重要な一部として位置づくこととはまったく矛盾しない」(立岩真也、『弱くある自由へ 増補新版』、青土社、2020年、p.27)。

しかし、安楽死における自己決定は、他人にとって都合がいい。他人にとって、例えば体が動かない人が決めた安楽死は、その人を手伝わなくて済むようになるので、負担が減り、都合がいい。とくに家族にとっては、その人が生き続けていれば、負担になる(医療費がかさむ、という経済的な負担や身体的な負担)。よって、家族はその人が安楽死したければ認めたい、という優しさを口実に、自分たちの負担をもっとも減らすことのできる人たちである。つまり、自己決定された安楽死(積極的安楽死) は「都合のいい自己決定」である。

このとき、人を安楽死に向かわせるのは、他人に負担をかけたくないという気持ちである。この気持ちは優しさではなく、間違った社会の価値である、と立岩は言う。その間違った価値とは、自分のことは自分でコントロールするのが善い、という私的所有の原理(「自分でつくったものは自分のものである」という価値)である(立岩真也、『私的所有論 第2版』、生活書院、2013年、p.69, 70)。安楽死すると決めた人たちの多くは、自分のことを自分で制御できないから、それが悪いと思って、安楽死を決める。最期だけは自分のことを自分で制御したいと、自分の死を自分でコントロールする。しかし、私的所有の価値は間違っている。自分でつくったものが自分のものであるという因果関係は恣意的なものであって、成り立たない。ここまでが、立岩の議論の簡単な説明だ。

このような状況に置かれる人たちの多くは先ほどあげた「社会的弱者」という人たちである。例えば、障害者は社会に自分たちの自己決定を認めさせる運動(社会モデルに基づいたバリアフリーの整備など)を行う一方で、安楽死における自己決定には反対を示してきたし、今もしている。例えば、体が徐々に動かなくなるALS患者(松本茂 http://www.arsvi.com/w/ms08.htm、など)は安楽死を拒否し、人工呼吸器をつけて、長く生きようとする/した。これは「都合の良い自己決定」=優生への抵抗である。「できない」から、「異なる」から、存在しないべき、という価値への反抗。障害者だけでなく、ほかの社会的弱者も「できない」や「異なる」といった意味で同じである。

そして、この優生は新型コロナウイルスの渦中でも起こっている。それは障害者などの「社会的弱者」への不十分な対応である。しかし、この不十分な対応は人口を生かせたい生権力のありかたと矛盾する。だれであれ、生存していれば、権力が成り立つ要素、数字となる生政治において、「社会的弱者」であれ、そうでないであれ、関係ないはずだ。しかし、生政治は「社会的弱者」を人口の一部に組み込まない。彼らはもともとその存在を否定されている。では、彼らはどうするか。彼らは、彼ら自身が人口の一部に組み込まれることを望まない。人口の一部に組み込まれれば、最初にその生をぞんざいに扱われるのはわかっているからだ。生政治の価値を拒否する。彼らは、生きることを希望するのである。

立岩は、存在すること、生存することを肯定する。これは人口を生かそうとする生権力との親和性が高いようにみえる。しかし、立岩は「剥き出しでない生」、アガンベンのいう「生の形式」、ビオスのほうを肯定する。そして、その「生の形式」における存在の形は決定権を含む。基本的に、自己決定は認められるべきである。だから、移動の自由も認められるべきである。彼らは人口の一部ではないので、生政治のコントロール圏外である。だからこそ、足の動く人は生権力によって移動の自由を制限させられ、生権力の及ばない足の動かない人は好きなところに行ける。ある意味で、優生は失敗したのだ。ここで、生政治の弱点が露呈される。生政治における人口の管理、監視はすでに破綻している。だからこそ、私たちは「優秀な生のみを選りすぐり、あとは淘汰する」優生から、「優しい生」へと進まなければならない。人の自己決定を「優しさ」で手伝ったり、あるときは手伝わなかったりする。そして、その「優しさ」に必要な、社会的、経済的な基盤をおく。すれば、生政治における優生から身を引くことができる。

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