身体としての日本語を探し求める:ふたつの切断をめぐって(岡田拓郎 『Morning Sun』論(4))
岡田拓郎がすべての曲の作詞と作曲を担当したアルバム『Morning Sun』では多くの曲を通して「過ぎゆくものや失われゆくもの」に対する「抗えなさとか無力感」が描かれている。そして、その「過ぎゆくもの」とはこのアルバムでははっきりしている。そう、時間だ。それは3曲目の「Birds」でも「水のように時間は溶けて」と明らかにされている。だが、それを打ち消すようにアルバムの各所で「ハッ」という岡田の息継ぎの音が聴こえる。その音はこれから溺れることに抗うかのような息継ぎで、「水のように」溶ける時間を引き止めようとする。
息継ぎは音楽用語では「ブレス」と呼ばれ、声楽や管楽器の演奏において呼吸することを指す。ブレスが必要とされるはそれが音楽技法ではなく単純に息を吸わないと息を吐くことができないからだ。音楽にはブレスの音は必要ないということで、ポストプロダクションで除去される場合がおおい。『Morning Sun』ではあえてブレスの音を残すことによってさまざまな効果を生み出している。たとえば「Birds」では意識的に歌詞のあいだにブレスを入れることによって、意味の二重性をつくりだしている。歌詞中の「覗けばわからなくなる」という部分で、ブレスが「覗けばわから/なくなる」(ブレスは斜線で表す)と「わからなくなる」という単語のなかに入ることによって、どこに意味の強調点をおけばよいかわからなくなる。ブレスにしたがって「なくなる」を切り離されたひとつのかたまりとすると、「わからなくなる」は「わからなく」+「なる」というふたつの動詞で構成されている複合動詞ではなく、「わから」+「なくなる」という複合同士として「なくなる」という言葉の意味が強調される。「Shades」でも同様に、「ここがどこだかわからなくなる」という歌詞はブレスによって「わから」と「なくなる」に切り離される。
「わからない」という無知・無理解を意味する単語から「なくなる」という消失を意味する単語にシフトチェンジするとき、X がわからないということが X が存在しないということとして捉えられるようになる。その瞬間、その X をわからない主体も X と同時に存在しなくなる。それはアルバムの主題である「過ぎゆくものに対する無力感」を象徴している。どうすればいいか「わからない」という無力感は過ぎゆくものという「なくなる」時間に収束していく。このようにブレスによって切り離された言葉はその意味を変える。このブレスを「意味的切断」と呼ぶことにしよう。意味的切断は歌詞の意味に対する解釈を増やすことによって、異なる意味を同時に伝える。たとえば『Morning Sun』ではアルバム全体を貫く消失感というテーマが意味的切断によって強調されるわけだ。
その反面、『Morning Sun』の大半の曲では、ブレスは言葉の意味を無効にするかのように言葉を無慈悲に切り離す。「No Way」では「甘い誘惑のように」、「優しい誘惑のように」の「誘惑」という名詞のあいだに「ゆうわ/く」とブレスが入っている。そのほかにも「Morning Sun」では冒頭の歌詞「溶けてゆく滑らか/な眠りと同じこと」と文節とはちがうところにブレスの区切りが入っていたり、「Shades」では「目がさ/めて掬い取られるように」と「覚めて」という動詞が切断される。
文節を無視して単語のあいだにブレスが入ることは意味的切断のように歌詞の文節に応じて切断することで意味を増幅したり強調したりするのとは異なり、ただ単語を引き裂くだけで意味を変化することはしない。これを意味的切断と対比して、「非意味的切断」と呼ぶことにする。ここで重要なのは、けっして非意味的切断は「無意味的切断」ではないということだ。無意味的切断は徹底的に無意味であるのに対して、非意味的切断は意味の解釈を増やすことはしないものの、切断があることによって意味をつくりだすことができる。先の例を用いると、「ゆうわ/く」というブレスの入り方はたんに「誘惑」という単語を引き裂く切断であるとともに、「誘惑」というものが機能していないことをしめすものでもあるのではないか。また、「なめらか/なねむり」という切断も文節を無視しているからこそ、「滑らかな眠り」の滑らかさを打ち消している。そういう意味で非意味的切断は意味的切断のひとつ上の次元で意味をつくりだしているともいえる。
非意味的切断は歌詞の意味をきれいに(文法的に)わけることよりも、曲のリズムやメロディーに合わせることを優先する。それが如実に現れているのは「Stay」における冒頭の歌詞だ。
ここでは「急ぐ」や「紙」、「ように」、「逃れられない」といった文節がブレスで非意味的切断されていることがみてとれる。この歌詞とともに曲を聴いてみると、この切断が曲のリズムと一致していることがわかるだろう。つまり曲のリズムを一定に保つために、不自然なまでに歌詞の文節が引き裂かれているということだ。
『Morning Sun』というアルバムは意味的切断と非意味的切断によって構成されている。さきほどは「Stay」における非意味的切断に着目したが、より着目しなければならない部分は、引用した歌詞のなかで唯一「溶けていく快感に抗えない」という部分だけが文節にしたがってブレスが入っているという点だ。歌詞と曲のリズムが合致しているこの歌詞の意味は一意に定まる。それが非意味的切断にかこまれたとき、はじめてこの部分が前景化される。なおかつその部分が「溶けていく快感に抗えない」であることも象徴的だ。まるで歌詞と曲のリズムが合っていることが「溶けていく快感」とでも言うかのようである。だがそう簡単にはいかない。「Stay」の歌詞をブレスの位置とともに一通りみてみよう。
曲中に4回うたわれる「溶けていく快感に抗えない」という歌詞は、それぞれでブレスの入る位置が微妙に異なる。①では意味的切断として文節をわけるようにしてブレスが歌詞を切断している。②も同様にブレスが文節にそって入っているものの、「快感に」「抗えない」とのあいだのブレスが①にくらべて小さくなっている(その小ささが括弧つきの斜線で表されている)。③になると完全にそのブレスは消える。そして、④にいたっては最初のブレスは「溶けていく」という動詞を切断する非意味的切断として機能する。「溶けていく」と「快感に」のあいだのブレスは意味的切断から非意味的切断へと変化し、「快感に」と「抗えない」との間のブレスは消える。
「溶けていく快感に抗えない」という歌詞じたいは、自分では制御できない夢のなかにいるようなトランス状態を意味している。トランス状態に移行していくなかで、ブレスという切断あるいは斜線が、意識/無意識の斜線を表しているとしたら。曲が進むにつれ、ブレスが消えてなくなり、「溶けていく」という言葉を切断するとき、わたしたちは意識と無意識とのあいだの境界線が曖昧になっていく様子をとらえることができる。ブレスが途切れ始めるとき、つまり呼吸が途切れ始めるとき、ブレスする身体は無意識へと向かっていく。このように「Stay」ではたんにブレスが歌詞を局所的に切断するだけでなく、ブレスする身体が快楽に浸っていくさまが描かれる。快楽は歌詞の意味の次元だけでなく、それをうたう身体の次元に書き込まれる。そのとき、はじめて快楽は身体に宿る。
意味的切断から非意味的切断への移行が意識から無意識的な快楽へのトランジションを示しているのあれば、『Morning Sun』の美しさはその身体が味わう快楽であるといえるだろう。だがしかし、身体的な快楽だけを追求するような音楽にもはや歌詞など必要ないともいえる。むしろ身体的な快楽を求めるのに意味の次元は邪魔である。事実、岡田は『Morning Sun』の発売にあわせておこなわれたインタビューでも、日本語という歌詞を自身の音楽に乗せることを「意識」的におこなっていると答えている。
「メロディーや歌詞も何回も書き直して」『Morning Sun』をつくりあげたという岡田は、彼が必ずしも主戦場としていないボーカルやポストプロダクションにいたってまで意識をめぐらせた。それと同時にさまざまな部分に意識をめぐらせたとしても、「結局、即興的に生まれた断片を自分の持っているロジックと共に行き先を決めずに発展させたもの」を中心にしてこのアルバムを完成させた。岡田の身体はロジックという「意識」と即興という「無意識」のはざまで揺れ動き、それはまるで歌詞世界で快楽に浸るかのように自分のつくる音楽を楽しむ。
日本語の歌詞をメロディーに乗せるという意味で第一人者として頻繁に語られるのがはっぴいえんどだろう。岡田自身も大きな影響を受けているはっぴいえんどというバンドは1971年にリリースされた『風街ろまん』で日本語の歌詞をロックのリズムとメロディーに合わせて演奏したとして記念碑的アルバムとして評されている。このとき、その対比として語られるのがフラワー・トラベリン・バンドの内田裕也だろう。
小倉エージや中村とうようといった名だたる評論家、そしてはっぴいえんどの松本隆と大滝詠一が一堂に会した座談会(「ニューミュージック・マガジン 1971年5月号」)に、内田裕也は遅れて姿を現し、はっぴいえんどの「日本語ロック」に対する違和感をこう表明した。ここで内田が問題にしているのは「日本語」という言語だ。日本語という言語が欧米のロック音楽と本質的に相性が悪いというのが内田の主張だった。だから、彼は欧米のロックミュージシャンと同じように英語で “ロックンロール” をする。
内田に対して、はっぴいえんどの松本と大滝は弱腰だ。内田が問題にしている言語とロックとの関係を「趣味の問題」として退けている松本は、サングラスをかけたいじめっ子がふっかけてきた喧嘩を受け流す細身の若者といった感じだろう。そんな細身の若者4人から構成される「はっぴいえんど」というバンドは欧米のロックミュージックを用いて、日本語という言語の美しさを引き立てることに成功した。
ここでいう「日本語の美しさ」とはなんなのか。アメリカの音楽レビューサイト・ピッチフォークの『風街ろまん』レビューは日本語ロック論争の話から始まる。日本のミュージシャンが使用する「言語」はつねに西洋との距離によって測られながら選択されるものだった。
はっぴいえんどはどちらにも属さず、あくまでも西洋という概念に無関心でいようとした。そうしないと真に西洋から距離をとることはできないと彼らは考えたからだ。ここでレビュアーのタル・ローゼンバーグが注目するのが「歴史」だ。終戦直後のアメリカ軍による占領、高度経済成長、そして64年の東京五輪。東京五輪による大規模な開発によって松本隆の生家が立ち退きを命じられたことをきっかけに、彼は都市への嫌悪、日本と西欧との関係をはっぴいえんどの音楽に投影する。
日本の音楽における美しさというものが西欧という物差しで測られていたとき、はっぴいえんどは自らの物差しをつくろうと必死だった。皮肉のこもったユーモアやダブルミーニングといった松本のレトリックは西欧との距離をとりながらも、独自の美しさを形づくった。とくにローゼンバーグが例として挙げる「はいからはくち」における「ハイカラ白痴」と「肺から吐く血」というダブルミーニングは日本語という同音異義語が多い日本語でうたうからこそできる技法だ。です・ます調で終わる歌詞も日本語特有だといえよう。はっぴいえんどが「自分自身の日本を探し求める」ために掴んだ藁は日本語という言語だった。そういう意味で、はっぴいえんどはたとえ日本語ロック論争が内田裕也からふっかけられた喧嘩だとしても、それから逃れることはできなかった。
はっぴいえんどが発掘した日本語の美しさはどこからきたのかといえば、それは英語には少ない同音異義語やそれによって生まれる西欧に対する皮肉だった。つまり、日本語の美しさは日本語がつくりだす意味、そしてなにより英語という「西欧」の言語との意味形成の過程のちがいによって現れる。「自分自身の日本(の美しさ)を探し求める」ということは日本語が意味を形成する過程の特殊さを探し求めるということでもある。
はっぴいえんどは日本語の意味の豊かさに美しさを求めたが、岡田は身体が意味をつくりだす、あるいは破壊する過程に着目する。岡田にとって意味的切断も非意味的切断もあくまでブレスという身体的な運動によって事後的に発生したものであって、それは身体における意識と無意識の次元に存在するものだ。そのうえで日本語という言語は身体に染み込んでしまっているものだ。日本語という母国語は頑張っても身体からは離れてくれない。だからはっぴいえんどが執着した日本語の意味の豊かさはあくまでも身体からくるものだと岡田は主張する。そのとき、日本は西欧という物差しによって測られるものではなくなる。身体としての日本語は自分自身の物差しで測ることしかできないのだ。
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