「顔」を持てない人 ―アメリカの孤立主義から見る「私」の中心化― (1)

 先日、アメリカが国連人権理事会 (United Nations Human Rights Council=UNHRC) からの離脱 withdrawal を表明した。しかし、随分と皮肉なタイミングで、だ。というのも、離脱を表明したのが、メキシコとの国境で移民家族からその子どもを隔離 separate/segregate する政策を実施した直後のことだったからだ(注1)。あたかも自分たちは人権「非」擁護国だと言うような離脱。アメリカの国連大使ニッキー・ヘイリー Nikki Haley は19日、「長い間、国連人権理事会は人権を侵害する国々の擁護者 protector となっている」(注2)、と発言したことはこの皮肉を強調している (注3)。人権を侵害する国=アメリカが、「人権を侵害する国々の擁護者」であるというUNHRCから離脱するのだから。
 離脱の一つの理由=言い訳 pretext としてヘイリーは、UNHRCの反イスラエルの偏見 anti-Isreal bias を挙げている。ちなみに、このアメリカの離脱表明を支持した唯一とも言っていい公人はイスラエルのネタニヤフ首相である。アメリカはイスラエルのパレスチナに対する侵略行為をシオニズムとして支持しており、先日、在イスラエル米国大使館をエルサレムに移したばかりだ(注4)。
 アメリカのUNHRCからの離脱、アメリカが支援するイスラエル軍がパレスチナへの攻撃を続けていること。このような、アメリカが人権侵害を公然と繰り返している状況は、9.11以後のアメリカを想起させる。
 アメリカの哲学者のジュディス・バトラーは論文「解釈と免責」(注5)において、9.11という出来事の原因や攻撃の理由を探究しようとした人が攻撃を「免責」しているとみなされた、と言う。アメリカは、自身に向けられた攻撃を実行した者を「テロリスト」と呼び、自分たちの暴力行為には見向きもしない。9.11においては、「九月一一日の攻撃のような出来事だけに『テロ行為』という用語を用い、それによってこのような暴力行為を外交政策による決定や公的な宣戦布告によって正当化された暴力から区別する」(「解釈と免責」、p.23)。したがって、ブッシュ政権による「対テロ戦争 War on Terror」は9.11と同様の暴力行為なのにもかかわらず、「正当な自衛行為として位置づけられ」(同、p.23) た 。イスラエル-パレスチナ問題で言えば、「『テロリスト』という語が、イスラエル国家によってあらゆるパレスチナ側の抵抗行為を表すのに使われる一方で、自らの国家による暴力行為にはまったく適用されない」(同、p.23)。9.11やパレスチナ人の抵抗運動は「テロ行為」でそれらの実行者は「テロリスト」だが、米政府の「正当化された」軍事的報復やイスラエルの暴力行為はテロではない。このようなアメリカの偏った=他者を鑑みない視点をバトラーは「『第一世界』の自己満足」(同、p.29)と表現する。
 9.11のみを「テロ行為」とみることと、9.11とそれに対する報復が同等に暴力行為であるとみること。この視点の違いは暴力を解釈する枠組みの違いであるとバトラーは指摘する。そして、「このような解釈の枠組みには物語の次元も関わっている」(同、p.24)という。9.11以後のアメリカでよく使用されたのは一人称の語りだ。なぜ一人称かというと、バトラー曰く「こうした話〔一人称から語られた話〕は、個人的な心理が関わっていると示唆されている点で、ある程度までは興味深い。それが信憑性がありそうで面白い物語なのは、ある意味でそうした話が出来事を引き起こした行為主を、私たちの理解可能なひとりの主体として位置づけなおし、私たちの考える個人的な責任とか、... 人びとにわかりやすい発想で把握させようとするからだ。」(同、p.25、〔〕は引用者注)。現代では、こうした一人称の話のような分かりやすいものが面白いものとして消費され(注6)、他方でより複雑で絡み合った (complex and intertwined) 「分かりにくい」歴史的・政治的・文化的・社会的な背景が考慮されていない。バトラーはこのような「無知性主義」的潮流を問題視しているのだ。「たしかにアル・カーイダだって〔一人称の語りの〕『主体』にはなりうるけれども、これがいったいどこからやってきたかを私たちは本当に考えているだろうか? 個人を特定することで、私たちは出来事を広い視点から解釈する必要から解放される。」(同、p25, 26、〔〕は引用者注)。この「解放」が習慣化され、人びとがドゥルーズのいう「受動的総合という至福」(注7)の中にたたずむことを望めば、人はいっさいの積極的な思考を停止する(注8)。
 ここで、哲学者の國分功一郎が「物語」の必要性を指摘していたことを想起されたい。彼は、人々が「何にも信じていないから、すぐに何でも信じ」てしまう時代に、「信じる」ことが重要で、物語が人々に確信を与えると指摘する(注9)。だが、もし人々が強力な一人称の「物語」に吸い込まれれば、「信じる」といっても間違った方向に信じてしまうのではないか。國分は、何を信じればいいかという信じることの対象を明確に提示していない。かといって、信じる対象は何でもいいとも言っていない。結局、アメリカの一人称の語りは「私」の身体的脆弱性 vulnerability =「巨大でナルシスティックな傷を癒す」(「解釈と免責」、p.27)物語だったのだ。この物語を「信じる」ということは「私」の脱中心化を孕む解釈の前持った排除であり、それはまさに「私」の再中心化である。ブッシュ元大統領の「我々の方か、それともテロリストの方につくのか」という二項対立的友敵理論を「リーダーシップ」として評価する声が響く。
 脱中心化による再中心化。「アメリカを中心に世界が回っている」という価値観をどう破壊すればよいのか。バトラーの論文「暴力、哀悼、政治」(注10)はこの問いに直面するのに重要な示唆を与えてくれる。バトラーはここで、自己における他者の重要性を、喪を通じて指摘している。この論文を通しての問いは「何が生をして悲しまれるのに値するものとなるのか?」(「暴力、哀悼、政治」、p.48)という道徳上の不平等性についてのものだ。フロイトは、喪はある対象が他の対象と交換されたときに完成すると示唆していたが、これは喪が新たな愛着を贈与するとともに、今までの愛着を忘却することを意味することにもなる。この考え方は、なくしてしまった大事な人のことを忘れるという危険なものだ。フロイトはのちに、喪をメランコリーと結びつけられている体内化だと指摘する。言い換えれば、大事な人をなくした自分が永久にもとの自分に戻れないことを受容する=「変化に屈服する」(同、p.50)ことが喪だと言う。「あなた」を失うと、「私」も失われてしまう。「あなた」への愛着は「私」を形成する一部だから。だとすると、他者との関係性=絆を「もつ」ことは、自分が「自分が他者と築く関係についての冷静な語り手」(同、p.53)になってしまうということである。本来、絆は運命的でかつ反論できないような関係性である。だから、絆は「もつ」=所有するものではなく、所有されるものである。自分は、他者のおかげで存在するのだ。「私たちの闘う根拠である身体そのものが、実は私たちだけのものであったためしはないのだ。」(同、p.58)
 バトラー曰く、権利は、自分が複数の他者と関係があるときにはじめて主張することができる。女性としての共同体、障害者としての共同体、ある人種としての共同体。自分を共同体の中にいる「私」として提示することで、差別に対する庇護を求めることが可能となる。だから、バトラーは「自律」は欺瞞であると切り捨てる。「他者が近くにいるという根本的で自分の意志によらない事実を、もし私自身が否定することによって自分が『自律している』という概念を築き上げるのなら、私は自律という名のもとに自らの身体を形づくっている社会的条件を否定していることになるのではないだろうか?」(同、p.59)。
 国連やUNHRCという共同体の中ではじめて人権を主張できる国がたくさんある。アメリカはその共同体から離脱した。それは、自分たちの人権は自分で守れるという「自律」ではなく、自分たちの人権の能動的放棄だ。なぜなら、アメリカが否定した「他者が近くにいるという根本的」な事実が、人権を成り立たせているから。「人は一人では生きていけない。」子供の頃から何度も聞かされてきた文句だ。今、改めてその重要性を実感する。


注1. その後、米政府はこの政策を停止するという大統領令を出したが、隔離された家族どうしは未だ再会を果たせていない。大統領令発令前の移民家族の隔離政策についての詳細については、Garance Burke and Martha Mendoza、"APNewsBreak: Youngest migrants held in 'tender age' shelters "、Associated Press、2018/6/20、https://apnews.com/dc0c9a5134d14862ba7c7ad9a811160e、アクセス日:2018/6/20、発令後の状況については、Tal Kopan、"6 children in 6 days, thousands left: Inside the family reunifications"、CNN、2018/6/27、
https://edition.cnn.com/2018/06/27/politics/six-children-families-separated-reunifications/index.html、アクセス日:2018/6/28。
注2. 原文は"For too long, the Human Rights Council has been a protector of human rights abusers."(引用者訳)、ヘイリーの引用はCNNの記事内の動画 "Haley: Human Rights Council a cesspool of bias"より、http://edition.cnn.com/2018/06/19/politics/haley-pompeo-human-rights-bias/index.html、アクセス日:2018/6/20、以下のものもこれから引用。
注3. ヘイリーが皮肉的な発言をしているのはこれだけにはとどまらない。例えば、ヘイリーは「我々の献身的な貢献は偽善的で利己的な組織の一員として留まることを可能にさせない」 (原文は、"our commitment does not allow us to remain a part of a hypocritical and self-serving organization that makes a mockery of human rights."(引用者訳))と発言している。「偽善的で利己的な」のは誰なのでしょうか。
注4. 詳しくは、拙ブログ「政治と死の覚悟 ―ナクバから70年―」を参照されたい。
注5. ジュディス・バトラー、『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』、本橋哲也訳、以文社、2007年、所収。
注6. ロックバンド・サカナクションのフロントマンである山口一郎 (Vo/Gt)は、ツイッターで「難しい=面白くない、になりつつある今の時代では、難しくて美しい物は知られ難い。でもいつかそれも逆転するだろうから、エンターテインメント側もその瞬間の準備するべきだと思う。個人的な意見です。」とつぶやいた(Twitter、@SAKANAICHIRO、2016/3/13 11:21 ツイート)。音楽業界にも存在する「分かりやすい=面白い」の風潮に逆行した音楽を制作し、音楽以外のアンダーグラウンドな文化にも積極的に接触する山口のスタンスを反映しているツイートだ。
注7. ジル・ドゥルーズ『差異と反復(上)』、財津理訳、河出書房新社、2007年、p.209。
注8. 詳しくは、國分功一郎、『ドゥルーズの哲学原理』、岩波現代全書、2013年、p.92。
注9. 詳しくは、拙ブログ「『第6回 哲学の夕べ』レポ」を参照にされたい。
注10. 注5を参照。

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