様々な路線が集まる場所、台東区上野。 日々沢山の人が訪れ、そして自分の帰るべき場所へ去って行く。 かく言う私もその一人だ。学生から社会人になっても頻繁に利用している。流動性の高い街だが下町風情も漂っているため静と動を感じる。 それらが交錯するからか、上野という場所は何も拒まない気がする。 人も物も何事も全て。ここに居るだけで自分が社会の輪の中に入れたようなそんな気持ちになれる。 私はアセクシャルというセクシュアルマイノリティだ。 異性同性関係なく他者に恋愛感情や性
今年は高校入学から丁度10年の節目を迎える年です。 高校時代の友人とは徐々に連絡を取らなくなりポツリ、ポツリと友の数が減っていきました。元来私は人付き合いを得意としていませんし連絡も受け身なので不思議はありません。人間は声から他人を忘れていくと言いますが、確かに私は高校時代に仲が良かった友人の声を忘れかけています。 そんな私にも一人関係が続いている高校の友人がいます。一度だけ同じクラスになり、2年間は別のクラスでした。 出会いは入学式から教室に移動した時に席が分からず私
お久しぶりです。 少し前に日本撤退するクレアーズをテーマにnote初投稿しました。 きっと日本での経営を存続させたかった沢山の人が居たと思います。そんな方々が力を尽くしても防げなかった「撤退」という選択。それに対して一個人が残された数ヶ月間に出来ることは勿論ありませんでした。私に出来たことといえば一つの時代の終わりを惜しむ様に店舗に駆け込むことだけです。 宣言通りクレアーズは惜しまれながらも2020年のハロウィンを最後に日本撤退してしまいました。 あれから約半年と少し
私には人にわざわざ言わない「好きなこと」や「好きなもの」がたくさんある。 「隠しごと」とまではいかない。そして「趣味」でもない。ただ「好き」なのだ。 例えば茶碗を机に置く音とか、米びつの中に手を入れる時の感覚とか。 自室を出てトイレに向かう時五歩で行くというのもある。変なルールを決めて実行して成功するとちょっと嬉しい。あと映画を見ている時に画面に偶然写り込んだ虫や鳥が居ないか探してしまう。 きっと誰も言葉にはしない、そして気にも留めないであろうことを一人で楽しむのが大
東京の人って白波のように刹那的なイメージがある。 泡のように掴めなくてしゅわしゅわとすぐに消えてしまう。 崩れるか崩れないかの危うい均衡を保ちながら人間関係を作り上げていそう。 都会の人ってきっと日本以外の国でもそうだと思う。 何に反応して何に反応しないかの線引きがすごく上手いんだろうな。 私も東京生まれのフリがしたい時がある。 いい人でいることに疲れた時、とか。 人に優しくできない自分に理由が欲しい。 でも「その人が嫌いだから」という理由は嫌だ。 「嫌い」と
必要なものよりいらないものが欲しくなることがある。 なんだか可愛く見えてしまうのだ。 不要なものを集めることは自分をデコレーションしていく感覚に似ている。一昔前のギャルのケータイとか、スクールバッグとか。あの類と同じだ。自分が思う「可愛い」をカスタムして自分自身を形成している感じ。最高に可愛い生き方じゃないか。 「必要なものだけを残して生きる」なんて私には無理だ。生きることを深刻に受け止めてしまう気がする。断捨離ができる人ってすごい。 そう言えば学生の頃友人とたくさん
高速を運転していると毎回気になることがある。 車の窓から見えるあのマンションに住んでいる人はどんな人なんだろうか。 勿論全く知らない人である。この先私の人生においてきっと交わることのない人間のことが気になるなんて不思議な話だ。 ちなみに私は人が好きな方ではない。友達も少ないし新たな出会いはあまり求めていない。だが、なぜか気になる。 知ってる人よりも知らない人の日常に興味がある。 あの部屋に住んでいる人は、今日をどんな風に過ごすのだろう。 何を食べて、何を感じ、何を
みなさんは思い出とどのような付き合い方をしているだろうか。 これについて私は少し特殊かもしれない。 「忘れる」ということは私にとって自分を失うことと同義なのだ。 人が誰かを認識する要素は顔、声、体型、様々であるが、所詮周囲の状況から「その人らしい何か」を見て脳が良い具合に判断しているのだと思う。反対に、自分を認識するためには「思い出」が一番重要ではないだろうか。自分しか知り得ないことを思い出として自身と共有しているから「これは私である」と断言できるのだ。 冒頭でも述べ