
天蓋の欠片EP1-1
Episode 1-1:出会い
朝の光がゆっくりと校舎に差し込み始める頃、天野ユキノはいつものように目覚まし時計のアラームを聞きながら、ぎりぎりまで布団にくるまっていた。カーテンの隙間から差し込む淡い日差しが、彼女の部屋をうっすらと照らす。まだ半分寝ぼけ眼で、頭の中には夢と現実の境界がぼんやりと漂う。心地良いまどろみの中、今日はいつもと少し違う一日になるかもしれない――そんな予感だけが、かすかな刺激として残っていた。
「……まずい、遅刻かも。」
ユキノはパッと目を開け、枕元のスマートフォンを手に取る。時刻は午前7時10分。普段ならすでに朝食を食べ終わっている時間である。急いでベッドから飛び起き、寝癖のついた髪を適当に撫でながら、制服に着替える。セミロングの明るいブラウンの髪は寝癖がつきやすく、朝のセットにはいつも苦労していた。
「ちょっと、ユキノ! ちゃんと起きてるの?」
階下から母親の声が聞こえてくる。ユキノは慌てて「起きてるよ!」と大声で返事すると、リビングへ向かった。
茶の間に降りると、テーブルには母が用意してくれたトーストと卵焼き、サラダが並んでいる。食欲をそそる香りを感じながら、彼女はぱくりとトーストを咥えた。
「いつもすまないね、ママ。もうちょっと早く起こしてくれたらよかったのに。」
「毎晩夜更かしばかりしてるあんたが悪いでしょ。もう高校二年生なんだから自分で管理しなさい。」
「うー……わかってるってば。」
口の中にトーストをほおばりながら、もぐもぐと咀嚼した後、牛乳で流し込む。エネルギー補給を済ませると、あわただしく靴を履き、母に急ぎ足で見送られながら家を出た。
家を出てすぐの住宅街は、いまだ朝の柔らかい空気に包まれている。コンクリートとアスファルトのにおいに混じって、近所のパン屋から香る焼きたてパンの匂いが鼻をくすぐる。ユキノはカバンを肩にかけ、早足で駅へ向かう道を急ぐ。
街には高層ビルが立ち並び、近未来的なデザインのビルボードがちらほらと目に入る。スマートフォンのような携帯端末はすでに一部の機能がAR(拡張現実)と連動しており、広告や標識が宙に浮かぶように表示される場面も珍しくなくなってきた。もっとも、まだ一般的なレベルではなく、先進的な企業や政府機関が試験導入しているだけにとどまるらしい。
「電車が混む前に、なんとか滑り込まないと……」
ユキノはそう呟きながら、肩で息をしつつ駅へ続く坂道を駆け下りてゆく。日常に潜むわずかな近未来の気配はあるものの、ユキノにとってはそれももう慣れっこだ。高校二年生としての生活は、多少の技術進歩に振り回されながらも、友人とおしゃべりしたり、部活に励んだりと、普通の青春を楽しむことがメインだった。
ぎりぎりで電車に飛び乗り、なんとか遅刻を免れたユキノは、学校の正門を通り抜ける。校舎はまだ築十年ほどだが、少々古いデザインと最新設備が同居している。そのアンバランスさが独特の雰囲気を醸し出していた。
教室に駆け込むと、すでにホームルームが始まる直前。クラスメイトたちがそれぞれ席についており、朝の挨拶やら雑談やらでにぎやかだ。窓際の席に滑り込んだユキノに、隣の席の女の子が声をかけてくる。
「おはよ、ユキノ。今日もギリギリだったね。」
「うん……危うく遅刻。はぁ……朝が苦手すぎるよ、私。」
そんな会話を交わすうち、担任の先生が入ってくる。ホームルームが始まり、出欠確認や連絡事項が次々と読み上げられる。いつもと変わらない、のどかな朝の風景。ユキノは少し気を抜いて窓の外に視線を送りながら、次の授業のことをぼんやり考える。
「さて、今日は予備校から新しく来ていただいた講師の先生が、臨時で授業をすることになっている。数学担当の九堂先生だ。」
担任の先生がそう言った瞬間、教室のドアがノックされる。そこに現れたのは、ショートボブの髪型にトレンチコートという、学校教師とは少し違う雰囲気をまとった女性だった。瞳はダークグレーで切れ長。その視線は冷静さを感じさせる一方で、奥底に何か深みをたたえているように見える。
「皆さん、おはようございます。私は九堂エリスといいます。予備校講師兼、心理カウンセラーも務めています。今日は数学の補習授業を担当させていただきます。よろしくお願いします。」
落ち着いたトーンの声が教室に響いた。柔らかい口調でありながら、どこか隙がない。それが初対面の印象だった。
「九堂先生は、午前中だけこちらのクラスをお手伝いくださる予定です。では、先生、お願いします。」
担任がそう告げると、エリスは軽く会釈してから黒板へと歩み寄り、簡単な自己紹介を続ける。
「普段は予備校で受験指導をしていますが、縁あって今日はこちらのお手伝いに。数学の苦手意識がある子もいると思いますが、少しでも理解が進むように一緒に頑張りましょう。何か困っていることがあれば、ぜひ遠慮なく質問してくださいね。」
その言葉に対して、クラスは一瞬静まり、次の瞬間には「なんだか綺麗な先生だね」「雰囲気が大人っぽい」という小さな囁きが飛び交う。ユキノはまじまじとエリスを見つめた。トレンチコートにパンツスタイルというのは、学校の教師としては珍しい。それに、まるでモデルのようにスタイルが良い。
(先生……って雰囲気ではないような。何だろう、この感じ。)
ユキノは不思議な既視感を覚えた。しかし、思い当たる節はない。少なくとも、この人と会うのは初めてだ。彼女は首をかしげながら、ノートを開き、そのまま授業が始まった。
「それでは、問題集の例題をやってみましょう。まずは二次関数のグラフに関する基本問題です。」
エリスの淡々とした解説を聞きながら、ユキノはペンを走らせる。まだ眠気が残っている頭に数学の公式を詰め込むのは大変だが、彼女は教えるのがうまいようで、例題の意図がわかりやすく説明される。途中で詰まると、エリスがスッとやって来て、さりげなくヒントを与えてくれる。
「天野さん、こういう問題は、頂点の座標を先に求めると理解しやすいですよ。」
「え、あ……そうか、確かに……」
びっくりするくらいに的を射たアドバイスだった。ユキノは思わず感心しながら、エリスを見上げる。その瞳がユキノを覗き込むように捉え、柔らかい微笑みを浮かべていた。
「うまくできたら教えてね。」
ユキノはドキリとする。教師というより、同年代の先輩に指導されているような不思議な感覚。単に“綺麗な先生”というだけでなく、どこか垢抜けた空気をまとい、親しみやすい笑顔を持っている。そして、どこか冷静すぎるほどに客観的な視線――彼女の真意は何なのだろう、とユキノは感じずにいられない。
午前中の授業が終わり、昼休みになると、エリスは職員室でのミーティングを終えたあと、校舎の廊下をふらりと歩いていた。長い廊下の先には、少し開け放たれた中庭が見える。そこでは何人かの生徒が弁当を広げて話していた。のどかな昼下がり。けれど、エリスの目つきには何かを探るような鋭さが混じっている。
「ふむ……このあたりは監視カメラが少ないのかな。」
彼女は呟くように独り言をこぼした。教師の仕事をしながらも、どこか“別の任務”を同時に進めているかのようだった。
ちょうどそのとき、中庭の花壇の近くで座っていたユキノに目が留まる。ユキノは友人と並んでお弁当を食べていたが、ふとした表情が曇り、何か考え込んでいる様子だった。
「天野さん、ちょっといいかな?」
エリスは校舎の影から声をかけると、ユキノは驚いたように顔を上げる。友人は「なんか呼ばれてるよ?」と目で合図を送る。ユキノは申し訳なさそうに頷き、エリスのもとへ駆け寄った。
「先生、どうしたんですか?」
「ちょっと個人的に話したいことがあって。今、時間ある?」
「えっと……あ、はい。大丈夫です。」
二人は校舎裏の静かな場所へと移動した。そこは花壇やベンチがあるが、人通りが少ないため、落ち着いて話ができる。
「午前中の授業、よく頑張ってたね。でも、何か気になることでもあるのかな? 心ここにあらずって感じだったけど。」
「……あはは、バレちゃいましたか。実は、今朝のニュースでやってた行方不明事件のこと、ちょっと怖くて。友達と話してたんです。私の家の近所でも、人が急にいなくなったっていう噂があって……」
ユキノは伏し目がちに語る。彼女の声のトーンからは、単なる怖い話というよりも、不安と疑問が重なっているようだった。エリスは軽く頷きながら、ユキノの言葉を受け止める。
「そう……。ニュースでも話題になっているけれど、あまり表立っては公表されていない事件も多いみたいね。」
「先生は、そういう話に詳しいんですか……?」
「まぁ、少しね。私は探偵でもあるから。」
探偵――その言葉を聞いた瞬間、ユキノの瞳が驚きに見開かれる。普通に“講師”という肩書きで学校に来ている人が、探偵を名乗るとは思わなかった。
「九堂先生、探偵……なんですね?」
「うん。表向きは予備校講師と心理カウンセラーだけど、裏の仕事として探偵もしてる。変わった仕事だよね、確かに。」
「え、じゃあ、その……行方不明事件のこととかも、先生が調べてたりするんですか?」
「ま、それはおいおい。……とにかく、あんまり不用意に夜道を歩かないようにね。あなたには――そう、特に気をつけてほしい。」
エリスの言い回しに、ユキノは疑問を抱く。「特に気をつけてほしい?」それはどういう意味なのか。しかし、エリスはそれ以上の言及を避けるように、そっと微笑んだだけだった。
(この人、何か知ってるんだ。私に対して、ただの教師って感じじゃない。まるで私を調べているような……)
ユキノは内心にざわめきを抱えながら、昼休みを終えるチャイムの音を聞いた。
放課後、クラスメイトと軽く立ち話をしてから、ユキノは今日も予備校の自習室に向かう予定で校舎を出る。夕日の赤い光がグラウンドを照らし、野球部や陸上部が練習に励む姿が遠目に見えた。
街は少しずつ夕暮れの色に染まっていく。先ほどまでの温かい日差しが、夜の帳へと溶けていくように感じられる。
「よし、今日も数学の復習を頑張らないと。九堂先生の言ってた頂点の座標の問題、ちゃんと理解しとかないとね……」
ユキノはそんな独り言を漏らしながら、予備校へ向かう道を歩き始める。しかし、ふと視線の先で見慣れない光景が目に入る。近くの電柱の陰に、黒いフードを被った人影がじっと立っているのだ。
(何だろう……あれ?)
その人影は動かず、遠巻きに彼女を見ているようだ。通りを行き交う人々も、その存在に気づいてはいるが、誰も近づこうとはしない。まるで“何か”を感じ取って避けているかのようだ。
ユキノは少し胸騒ぎを覚えながら、その場を通り過ぎようと足を速める。だが、その人影はふいに動き出し、ユキノの後ろをつけ始める。足音はほとんどしないが、確実に距離を詰めようとしている気配がある。
「……えっ、ちょっと……」
鼓動が高鳴り、冷や汗が背中にじっとりと浮かぶ。夕方の通りには、まだ人通りがまったく絶えたわけではないものの、どこか不気味な緊張感が漂う。ユキノは思わず振り向き、相手の顔を確かめようとしたが、黒いフードの奥は闇のように見えず、何か異様な存在感を放っていた。
「ちょっと、あなた誰ですか……? 何か用があるなら……」
ユキノが勇気を振り絞って声をかけようとした瞬間、相手の影がすうっと伸び、まるで人ならざる動きで距離を詰めてくる。思わず悲鳴をあげそうになったが、声が出ない。背筋が凍りつく感覚に囚われる。フード男の背後には、微かに赤黒いオーラのようなものが揺らめいているように見えた。
「怖がる必要はない……我々は“研究”の対象を探しているだけだ。」
低い声が、ゴムを引き伸ばしたように響く。男の輪郭が少しずつゆがむかのように見える。その異様な光景に、ユキノは本能的な恐怖を感じると同時に、“研究”という言葉に不吉なものを感じ取った。ニュースで話題になっていた行方不明事件――そして、エリスが警戒していた何か――すべてが繋がり始める。
「いや……近づかないで! 私、何も知らないし……」
ユキノは後ずさりしつつ、周囲を見渡して助けを求めようとする。しかし、夕暮れで薄暗くなりつつある歩道には、人影がほとんどなくなっている。電柱の街灯が点灯し始めたばかりだというのに、まるで時空の歪みに囚われたかのような静寂が漂う。
「大人しく、ついてきてもらうよ。君の脳内マップ――特別な構造を持つ個体を研究するのは、我々“真理追求の徒”の使命だからね。」
“真理追求の徒”――聞きなれないその単語は、まるで呪いの言葉のようにユキノの耳にこびりつく。男の足元には赤黒い靄のようなものが渦巻いており、普通の人間の姿とはかけ離れた異様な威圧感を放っていた。
その時、乾いた空気を裂くような鋭い声が響く。
「彼女に手を出すつもりなら、あなた方の計画もそこで終わりになるかもしれないわよ。」
ユキノが視線を向けると、そこにはトレンチコート姿の九堂エリスが立っていた。先ほどまでの穏やかな教師の雰囲気は微塵もない。手には銀色のリボルバー型の銃を握っているように見える。しかし、よく見るとそれは通常の銃火器とは異なり、微かな青い光が脈打つ独特の装置だ。
「先生……なんで、ここに……?」
「後で話すわ。今は逃げる準備をして。」
エリスがリボルバーをかまえ、黒いフードの男に狙いを定める。その動きはまるで軍人のように洗練されていた。男も気配に気づき、赤黒いオーラをさらに濃くして構えを取る。
「フン……タスクフォースの手先か。いや、違うな……お前は独自に動いている。探偵、だったか?」
「細かいことはどうでもいいわ。あなたたち“真理追求の徒”って呼ばれる組織が、こんな市街地で暴れるなら、私も本気で止めるしかない。」
エリスの眼差しは冷静だ。彼女が引き金に指をかけると、リボルバー型装置の内部で何かが光り、わずかな振動が伝わる。ユキノは近くにいるだけで、心臓が早鐘を打つような高揚感と緊張感を覚えた。
(先生、銃なんて持って……どういうこと? 一体何が起きてるの……?)
頭の中が混乱するユキノ。それでも、エリスが自分を守ろうとしていることだけははっきりわかる。フードの男は舌打ちするかのように低く唸ると、両手を上げて異形の力を示す。赤黒い靄が腕の周りを螺旋状に包み込み、その闇がグニャリと伸びて杭のような形状になっていく。
「彼女は重要なサンプルだ。……邪魔をするな!」
男が振り下ろした腕から放たれた黒い杭が、音を置き去りにする速度でエリスに襲いかかる。エリスは身を捻るようにして回避するが、アスファルトの地面が杭の衝撃で砕け、砂埃が舞い上がる。その威力は尋常ではない。
「くっ……!」
エリスは一瞬体勢を崩すが、すぐにリボルバーを構え直し、男の胸元に狙いを定める。彼女は引き金を引く寸前、低く呟いた。
「“精神構造体”を使わずとも、あなた程度なら押さえ込めるはず。だけど、ここは一瞬で決着をつけるわ。」
リボルバーの照準が正確に男の頭部を射線に捉えた。しかし、男は咄嗟に赤黒い靄を盾のように集束させ、弾丸の軌道をそらそうと試みる。
銃口から閃光が走り、青いエネルギーの弾丸が空気を裂く。轟音とともに、弾道の先でねじ曲がるような波紋が広がった。男のシールドが弾丸を減衰させるものの、衝撃が凄まじく、男の体が斜め後方へ吹き飛ばされる。
「ぐあっ……!」
男は数メートル先の壁に衝突し、倒れ込む。まだ動こうとしているが、足元に力が入らない様子だ。エリスはすかさず距離を詰め、リボルバーを男の顔面へ突きつける。
「大人しくして。さもないと、次は的確に無力化する弾丸を撃ち込むわよ。」
「くっ、覚えていろ……“真理追求の徒”はまだ終わらない……!」
男はどこからか通信機のようなものを取り出そうとするが、エリスが即座に蹴り飛ばし、制止する。辺りに漂う砂埃が、電灯の薄明かりに浮かび上がって幻想的に見える。その一方で、ユキノは呆然としていた。激しい衝突の衝撃が、現実味を奪い去るほど強かったからだ。
「天野さん、大丈夫? ケガはない?」
「え、あ……はい。私は大丈夫……だけど、先生こそ、そんな……銃なんか持って……どうして……」
声が震え、頭の中が混乱しているのが自分でもわかる。エリスはリボルバーを男に向けたまま、ちらりとユキノを振り返った。その瞳は、どこか優しげな光を宿しつつも、鋭さを失っていない。
「ごめんね、驚かせちゃったね。あなたのことは、今朝からずっと追跡しているヤツがいるのを感じていたから。少し尾行してみたら、やっぱりあなたが狙われていた。」
「どういうこと……? 私はただの高校生で、こんな事件に巻き込まれるような理由なんてないのに……」
ユキノは喉の奥が詰まるような感覚を抱えながら、必死に言葉を絞り出す。エリスは倒れた男を見下ろし、苦い表情を浮かべる。男は悔しげにうめき声をあげているが、もはや反撃の余力はなさそうだ。
「あなたが“ただの高校生”ではない可能性がある――そう、私は睨んでる。多分、この男たちもそう考えているんでしょうね。“真理追求の徒”という危険な組織が、あなたを狙っている。理由は、いずれあなた自身が知る必要があると思う。」
「なんで……私が……?」
ユキノの瞳は揺れている。そんな彼女に対して、エリスは真摯な眼差しを向け、わずかに笑みを浮かべる。
「落ち着いて。全部、私がきちんと説明するから。でも、今はここで話すべきじゃない。別の連中が来る前に移動しないと、また面倒になるわ。」
「う、うん……わかった。」
ユキノは言われるがまま、エリスと共にその場を後にする。倒れた男をどうするのか気にかかったが、エリスは何やら通信端末で通報のような操作を行い、「適切な機関が回収してくれる」と呟いた。タスクフォースなのか、もしくはそれに準ずる組織なのか――そのあたりも謎だ。だが、ユキノにとっては知りたいことが山ほどある。今夜の出来事だけでも、すでに世界がひっくり返るような衝撃を与えていた。
二人が足早に立ち去ると、闇に包まれた街の片隅に、ひっそりと複数の人影が姿を現す。先ほどのフードの男と似た雰囲気を纏いながらも、まだ動けるだけの状態らしい。彼らは倒れた男を抱え起こし、苦々しげに言葉を交わす。
「まさか、あそこにタスクフォースでもない探偵が潜んでいるとは……不測の事態だ。」
「“彼女”の脳構造を解析すれば、我々の研究は大きく進むはず……。今回の失敗は一時的なものだ。次のチャンスを狙うまでだな。」
「このまま引き下がるわけにはいかない。準生成者やP-EMの実験も、急いで進めなければならない……。」
重苦しい沈黙があたりを支配し、やがて彼らは闇の中へ消えていく。夕刻の街は、さっきまでの穏やかさを失い、何か不穏な幕開けを予感させる静寂に閉ざされていた。
一方――
ユキノはエリスと並んで歩きながらも、頭の中が整理しきれず、ただただ現実についていくしかなかった。普通の高校生活を送っていたはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。銃を持った探偵、謎の組織――すべてが非現実的で、呼吸が乱れるほどの恐怖と混乱を抱えつつ、ユキノは夜の街を駆け抜ける。
しかし、彼女の鼓動の奥底には、不思議な直感が芽生え始めていた。
自分は、どこかでこうなる運命だったのではないか……。
そう思わせるだけの、説明しがたい“確信”のようなものが、微かに胸の奥で脈打っている。
(私が、普通じゃない……? いったい何を指しているの? 先生、教えて……!)
ユキノはエリスの背中を追いながら、無意識に唇を噛む。エリスが振り向きざまに、「大丈夫?」と聞けば、ユキノは少しだけ頷いてみせる。強がりかもしれないが、恐怖だけでは済まされない何かが、彼女の中で燃え上がりつつあったのだ。
夜のネオンがともり始めた大通りに出ると、さすがに人通りが増える。エリスは拳銃(リボルバー型の装置)をコートの内側にしまい込み、まるで何事もなかったかのように歩き出す。ユキノも息を整え、周囲の目を気にしつつ、自然に振る舞おうと必死だ。
「先生、さっきの話、もう少し聞かせてください。私、何がなんだかわからないんです。」
「そうね……。あなたが自宅へ戻る前に、少し静かなところで話そうか。私の探偵事務所に案内するから。」
「探偵事務所……本当に先生、探偵だったんだ。」
「ふふ、驚くのも無理はないわね。実は、こういう危険な事件を調べるのが仕事の一部。だから、今日の講師の仕事も“あの場所”にあなたがいることを知るための手段だったの。」
エリスの言葉に、ユキノはさらに驚く。つまり、エリスは最初から自分を“特別な存在”としてマークしていたということになる。思わず足を止め、エリスの横顔を見る。
「先生……私が一体、何だっていうんですか?」
「ここでは言えない。人通りがある場所で大声で話すことじゃないから。落ち着いて話せる場所で話そう。」
エリスの声は穏やかだが、その瞳には断固とした決意が滲んでいる。ユキノは無数の疑問を抱えながらも、言われるがままにエリスの後をついて歩く。
街灯やビルの明かりが映し出す人々のシルエットが、どこか深い闇を連れているかのようだ。ユキノの鼓動が速まるのは、先ほどの恐怖が残っているからだけではない。まるで、新しい世界に足を踏み入れた緊張感にも似ていた。
「天野さん……いや、ユキノさん。あなたは、自分でも気づいていない力を秘めている。私がこうして近づいたのは、あなた自身を守るためでもあるし、世界にとって重要な任務でもあるの。」
「世界……? そんな大げさな……」
「大げさじゃない。この事件は、ただの行方不明とは訳が違うの。あなたが持つ特異性を狙う連中がいて、そして、それを放置すればあなたの命も危ういし、もっと大きな問題にも発展しかねない。」
エリスの語気が強まるたびに、ユキノの中で奇妙な覚悟が芽吹いていく。自分の知らない“世界の闇”が、すぐ傍にまで迫っている。あの男の一撃の凄まじさ――まるで悪夢のような光景――すべてが現実に起きていることなのだ。
そして、それに真正面から立ち向かおうとするエリスの背中。そこには、教師という“仮面”の奥に潜む、確固たる意思が存在する。
「……わかりました。先生の言う通り、まずは落ち着いて話を聞きたいです。」
「ありがとう。きっと、あなたも驚くような事実が山ほどある。でも、あなたの意思がなければ、私も何もできない。それだけは覚えておいて。」
「私の……意思。はい。」
二人は幾つかの路地を抜け、やがて落ち着いたビル街の一角へと差しかかる。そこにあるビルの二階部分が、どうやらエリスの探偵事務所らしい。控えめな看板しか出ていないが、よく見ると“九堂探偵事務所”の文字が照らし出されている。
「さぁ、入りましょう。あなたがここへ来たことは、きっと今夜のうちに何らかの形で連中にも知られるわ。だけど、この場所は私が独自に防御を固めてる。安全なはずよ。」
「は、はい……。あ、あの……先生、すごいですね、こんな場所で探偵事務所を……。」
「ふふ、ありがと。褒められると照れるわね。ここは私が唯一“自分のやり方”で世界を救おうとしている拠点だからね。」
エリスの言葉に、ユキノは胸の高鳴りを抑えきれない。世界を救う――大げさな物言いかもしれないが、今の彼女には、その重みを実感し始めていた。先ほどの戦闘や“真理追求の徒”の謎、それらすべてが、自分の運命に絡みついてくる予感がする。
錆びついた金属製の扉を開けると、そこには意外にも整頓されたオフィス空間が広がっていた。本棚には様々な分野の資料やファイルがぎっしり詰まっており、壁には事件に関するスクラップや地図が貼られている。机の上にはパソコンや端末が並び、まるで警察の捜査本部か研究室のような印象すら受ける。
「ここが、私の拠点。さ、そこに座って。何か飲む?」
「いえ、大丈夫です……。あの、今日は本当にありがとうございます。危ないところを助けてもらって……。」
「礼なんていいのよ。あれは私の仕事みたいなものだから。ただ、これから先はあなた自身が選択しないといけない時が来る。そのとき私は助けてあげられないかもしれない。」
「え……?」
エリスの声にはわずかに寂しげな響きがある。彼女はリボルバーを机の上に置き、少しだけ思案するように沈黙した。その姿は、さきほど路上で見せた戦闘的な面影を消し去り、まるで優秀な教師に戻ったかのようでもあり、同時に人生の酸いも甘いも噛み分けてきた大人の女性のようでもある。
「まずは、あなたがどうして狙われているのか。――この写真を見て。」
エリスがファイルから取り出した数枚の写真やコピー資料をユキノに見せる。そこには“脳内マップ”という見出しと、科学的な画像解析のようなものが並んでいた。記号や数値がびっしりと記され、素人目には理解しがたいが、いくつかの注釈に“エキゾチックマテリアル”“P-EM生成テスト”などの単語が見える。
「あなたの脳内構造は、ある特定のパターンと強く一致している。そのパターンの持ち主は、極めて稀な能力――つまり、EMの生成に深く関わる可能性を秘めているの。」
「EM……って、聞いたことはあるんです。ニュースとかで。エキゾチックマテリアルとかいう、未知の物質ですよね? あれって、研究が進められてるって聞いたような……。」
「そう。国家やタスクフォース、軍事企業、いろんな団体が注目してる。それは、EMがエネルギーや次元技術の鍵を握る存在だから。でも、EMを安定的に生成するには特別な人間――“生成者”が必要なの。」
エリスは資料を指差しながら、続ける。
「あなたが狙われる理由は、まさにその脳内マップ。真理追求の徒という過激派組織は、人を強制的に実験台にしてEMを引き出そうとしている。あのフードの男は、あなたを攫って研究素材にしたかったんでしょうね。」
「……そんな……私はただ普通に暮らしてるだけで……。」
「でも、あなたは普通じゃないということ。私があなたを“特別”だと感じたのは、すでにいくつかの情報からあなたが有力な“生成者候補”だとわかっていたから。」
ユキノは震える声で問う。
「じゃあ、私は……その、EMを自由に扱えるってことなんですか? 普通の女の子じゃないなんて、そんなこと……どう受け止めればいいのか……。」
「混乱するのは当たり前だよね。でも、あなたがどうするかは、あなた自身が決めていいの。力を拒絶して平凡に生きるのか、それとも、受け入れて自分の道を切り開くのか。」
エリスの言葉を聞きながら、ユキノは自分の胸に手を当てる。心臓がドクドクと大きく鳴り、先ほどの恐怖とは違う昂ぶりを感じている。それは、未知への恐れかもしれないが、同時に“自分が変わるかもしれない”という期待にも似た感覚。
「……正直、すごく怖い。でも、私、何も知らないまま巻き込まれて終わるのは嫌です。少なくとも、戦うかどうかは自分で決めたい。そうじゃないと、先生に助けてもらった意味がないから……。」
「そう。その意志があるなら、私は協力できる。タスクフォースみたいに大がかりな組織じゃないけど、あなたを守る方法はあるから。」
エリスはリボルバー型の装置を手に取り、そっと撫でるように指先を走らせる。その動作は武器を愛でるというより、まるで自分の一部として扱っているように見えた。
「これは“射出機”。疑似EMを充填して、人の“心の中心”を撃ち抜くことで、精神構造体を具現化するための装置。私の精神構造体はリボルバーの形を取っているけど、あなたはまだ自分の形を知らないわね。」
「精神構造体……心を撃ち抜く……?」
「ええ。いずれ、あなたにも必要なときが来るかもしれない。そのときは私が使い方を教える。怖いかもしれないけど、あなたは一人じゃない。」
ユキノはその言葉に、わずかに胸の奥が熱くなるのを感じる。今日初めて出会ったはずの“先生”――九堂エリス。その人から放たれる安心感と、底知れない冷静さが、奇妙な混合で彼女の心に響いていた。
(私、一体どうなっちゃうんだろう。けど、何もしなければ、あの男たちに捕まって……そんなのは絶対に嫌。先生は私を守ってくれるって言ったけど、それだけじゃなくて、私自身が何かを成し遂げる力を持っているのかもしれない……。)
ユキノは震える拳を握りしめ、自分の気持ちを言葉にする。
「先生、私……まだ上手く言えないけど、怖いだけじゃないんです。もし、この力で誰かを守れるのなら、私も自分の力を確かめたい。誰かを傷つけるためじゃなくて、守るために……。」
「そう思えるのは素晴らしいこと。あなたがその意志を持ち続ける限り、私は全面的にサポートするわ。――ようこそ、天野ユキノ。あなたはここから先、普通の高校生活だけでは終わらない道を歩むことになるわね。」
「はい……。ありがとうございます、先生。よろしくお願いします。」
探偵事務所の時計が、夜の10時を示す。窓の外を見ると、ビルの谷間に浮かぶ月が雲に隠れたり覗いたりを繰り返している。遠くからパトカーのサイレンがかすかに聞こえる。治安が完全に乱れているわけではないが、どこかしら街全体が不穏な空気を孕んでいる。
ユキノはエリスの事務所でお茶を一口すすりながら、改めて深呼吸をする。今日一日、あまりに色々なことがありすぎた。朝は単なる寝坊でバタバタしていただけなのに、今や自分が未知の能力を狙う組織に目をつけられ、目の前にいる“先生”は探偵であり、謎めいた装置を使いこなし、危険な連中と戦っていた。
(これが、私の“出会い”の始まり。きっと、もう後戻りはできない。――でも、私は逃げない。)
胸の奥に宿る決意が、少しずつ形を帯び始める。恐怖と混乱を抱えながらも、ユキノはこう思うのだ。これまでの普通の生活だけでは感じられなかった何かを、エリスから学べるかもしれない――と。
「先生、明日の授業も……来てくれますよね?」
「ええ、学校の補習授業はしばらく担当する予定だから、安心して。明日もまたあなたの顔を見るわ。……天野さん、今夜はもう遅いし、安全に帰れるよう私が送るから。」
エリスはコートを羽織り直し、リボルバーをホルスターに収め、事務所の灯りを最小限残して消灯する。二人は並んで扉を出て、静かなビルの廊下を歩き始めた。
階段を下りながら、ユキノは最後に思い切ってエリスに問いかける。
「先生……最後にひとつ聞いていいですか? 先生が私に近づいたのは、私を守るためだけじゃないんですよね。先生もきっと、何か大きな使命を抱えてる……そう感じます。」
「……どうしてそう思うの?」
「先生の目が、私だけじゃなくて、もっと先――世界か何かを見ている感じがするんです。」
エリスは足を止め、少し驚いたように目を見開く。それから、ふっと笑みを浮かべて、ユキノの頭を軽く撫でるように手を置いた。
「さすがね、もう鋭い感が働き始めてる。そう、私はこの世界で起きている“何か”を止めようとしている。それが、私の……自分なりの生き方。いつかあなたも、それに関わる日が来るかもしれない。」
「そう、なんですね……わかりました。私も、先生に協力したいです……!」
「ありがと。君なら、きっと大丈夫。」
そう言って、エリスは再び足を進める。やがてビルを出た二人を待ち受けるのは、静かな夜の街――だが、その闇の向こうには、確かに見えない脅威と未知の運命が渦巻いていた。
ユキノの中で、何かが変わり始める音がする。それは“ただの高校生”には踏み込めない世界への入り口。明日からの生活がもう二度と同じには戻らないことを、彼女は薄々感じ始めていた。
エリスの背中を見上げながら、ユキノはそっと口元に微笑みを浮かべる。自分でも理解できないほどの不安と期待、そして――少しだけワクワクするような胸の高鳴り。
これが、すべての始まり。