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天蓋の欠片EP13-1

Episode 13-1:再び訪れる平穏

早朝。街は薄ぼんやりした光を浴びながら、ゆっくりと目を覚ます。アスファルトに柔らかな朝日が差し込み、行き交う車の音がいつもと変わらないリズムを刻んでいる。かつて、真理追求の徒の暗躍や観測者・蒔苗の干渉によって緊張が漂っていたこの街も、今は穏やかな朝の顔を取り戻しつつある。
タスクフォースが警戒を続けているとはいえ、大規模な戦闘の気配はまるで感じられない。降伏派や和解に踏み切った元“徒”の人々は、公的な保護下で生活を再建する動きも始めている。何より、「観測者」という超越的な存在がいなくなった――あるいは消え去った――事実が、空気をゆるやかに変えたのだろう。

「こうして見ると、なんだか嘘みたい」
ビルの屋上から朝の景色を眺めていたカエデは、胸元の傷に手をやりながら小さく呟く。体内にはまだ違和感が残るが、大怪我をしていた頃に比べれば格段に良くなった。何より、毎日何かしらの戦闘や陰謀を心配する日々から解放されつつあるのが信じられない。
「うん、わたしもそう思う」
隣で同じように風を受けているのは、ユキノだ。彼女もまだ完治していないが、包帯の数は大幅に減り、痛みとの付き合い方を学んだことで普通に生活することができている。視線の先には朝の通勤車が並び、学校へ急ぐ生徒たちの姿がある。そこに“恐怖”や“戦闘”の気配はない。


屋上から降りてきた二人は、それぞれの通学カバンを手に持ち、朝の歩道を並んで歩く。すでに春の訪れを感じさせる気候で、桜のつぼみがふくらみ始めている。幹がまだ固いが、近いうちにピンク色の花が街を彩るだろう。
「蒔苗が消えたって事実、みんな知ってるのかな?」
カエデが問いかける。世間にはもともと観測者の存在が大々的に知られていなかったが、真理追求の徒との衝突が続いた期間を思えば、何らかの噂程度には広がっていたかもしれない。
ユキノは首を振って、「さあ……タスクフォースが情報をコントロールしてるんじゃないかな。わたしたちの仲間や一部の降伏派は知ってるかもだけど、一般の人は“大事件が収束した”くらいの認識じゃない?」と推測する。カエデは納得したように頷く。「うん……でも、それでいいと思う。観測者に怯えたり期待したりするより、自分たちの意志で日常を作っていくほうがずっと健全だよね」
ユキノは笑みを浮かべ、「そうだね。あたしたちも、自分の意志でこの道を歩き続けたい」と足を一歩前に進める。通い慣れた学園の門が見えてきたとき、胸にじんとした熱いものが広がる。この“平穏”を守っていくのが、今の自分たちの使命だと、改めて感じる瞬間だった。


教室では友人たちが待ち構えており、「ユキノー! 今日もちゃんと来れたんだね」「もうほとんど怪我は大丈夫?」と口々に声をかけてくる。ユキノは「まだ少し痛むけど大丈夫、みんなと過ごせるだけで元気出るよ」と照れながら答える。
ナナミが笑顔で席を案内し、「ほら、先生がもうすぐホームルーム始めるって」と急かす。何気ないやりとりに、ユキノは心が温かくなる。かつては痛みに耐えながら真理追求の徒と戦い、観測者に翻弄されていた日々。それが嘘のように、いまは普通の学生の一人としてクラスで笑っていられる。
カエデは別のクラスに移動するが、休み時間には訪ねてきてくれるし、友人もいる。戦闘が当たり前だった頃を思い出すと、自分が“普通の学園生活”をこんなにも味わえるなんて――それだけで涙が出るくらい嬉しい。


放課後になると、ユキノはアヤカやエリスから連絡を受け、最近のタスクフォースの状況を簡単に共有してもらうのが日課になっている。学校の校門を出たところで、エリスから電話がかかってきた。
「ユキノ、元気? そっちはどう? 学校復帰は順調?」
電話口から聞こえる探偵エリスの軽妙な声。ユキノは笑みを浮かべ、「うん、なんとかやってる。ありがとう。そっちも忙しそうだけど、スパイはどう?」と尋ねる。
エリスはため息まじりに「いよいよ判明しそうよ。過激派を裏で支援していた数名の幹部に目星がついた。証拠を固めれば、タスクフォース内部の混乱も一気に収まるでしょうね」と楽観的な調子をみせる。ユキノは安堵する。「そっか……よかった。これでまた一歩、平和に近づくんだね」

アヤカも通話に加わり、「ええ、降伏派のナナセさんたちからの情報協力が大きいわ。過激派を野放しにせず、タスクフォース側の黒幕も炙り出せそう。あなたは心配しないで学業に専念して。戦闘はもう私たちに任せて」と励ます。ユキノは素直に「ありがとう。わたし、みんなに頼ってばかりだよね……」と照れ笑いするが、エリスとアヤカは口を揃えて「今度は私たちが守る番よ」と冗談めかして語る。


週末、ユキノとカエデはタスクフォース主催の“小規模親睦会”に招かれる。場所は公民館のような小さな施設だが、そこに降伏派として保護されている数名の元真理追求の徒が顔を揃えている。ナナセをはじめとする若いメンバーが中心で、タスクフォースの若手隊員と一緒にテーブルを囲んでいる。
「ユキノさん、来てくれたんですね……!」
ナナセが明るい笑顔を見せる。ユキノは「うん、ありがとう、呼んでくれて」と返す。周りには、かつて敵対関係にあった者たちも混在しているが、今では皆が一緒になって食事を楽しむような雰囲気だ。
料理はタスクフォースの簡易キッチンで隊員が作った家庭的なもの。スパイの影も警戒されているため警備は厳重だが、それでも会場には和やかな談笑が広がっている。

ナナセが微笑みながら「私も以前は観測者の力を盲信してた。けど、ユキノさんたちが痛みを抱えながら、必死で自分たちの道を選ぶ姿を見て……考えが変わったんです。観測者がいなくても、人間ってこんなに強くて優しいんだなって」と打ち明ける。
ユキノは謙遜しつつ、「わたしもみんなに守られてここまで来た。決して一人じゃなかったんだよ……。だから和解を選んでくれて、ほんとに嬉しい」と皿を手にして微笑む。カエデも「まだ全部が解決じゃないけど、少しずつ前に進めたらいいよね」と同意する。


親睦会が終わりに近づいた頃、会場の外で騒ぎが起きる。見ると、数名の残党が建物前で抗議のように騒いでいる。「裏切り者にやる食事なんてないぞ!」「蒔苗を味方にし損ねたからって、へらへら和解か!?」といった声が飛び交う。タスクフォースの隊員が制止するが、暴力的な行動には至っていないらしく、にらみ合い状態が続いている。
ユキノは思わず外へ出ようとするが、カエデが「行かなくていいよ、危ない」と止めに入る。しかし、ユキノは首を振り、「わたし、もう戦えないわけじゃないし、もしあの人たちが本気で攻撃してくるなら止めないと……でも、できるなら話し合いたい」と言って足を進める。
外に出てみると、男たちがユキノを見つけ、「おい、あんたが生成者のユキノか? 蒔苗を拒絶しただと? そんなことして世界はどうなる!?」と罵声を浴びせる。ユキノは苦い表情で「世界は人間が作っていくんだよ……観測者がいなくても、自分たちで守れるって信じたいの。あなたたちも、わたしたちと話し合おうよ」と呼びかける。

男は怒りに任せて近づくが、隊員が割って入り、衝突にはならない。男は「フン……観測者がいないなら、いずれお前らが痛い目を見るんだよ。世界なんざ人間ごときが守れるわけない!」と捨て台詞を残して去っていく。
ユキノは苦しげな顔をしながら、「やっぱりまだ……こういう人もいるんだ」と身震いする。カエデがそっと肩に手を置き、「大丈夫、もう蒔苗はいないんだから、あの人たちも大規模な力は得られない」と励ます。ユキノは小さく頷き、「うん……でも、いつか分かり合える日が来るといいな」と呟く。


蒔苗が消滅してから、タスクフォースの活動は急速に落ち着きを取り戻し始める。観測者対策部門が事実上縮小され、組織全体が「人間同士の問題解決」に専念できるようになったからだ。真理追求の徒の“降伏派”が協力して過激派を抑え込むプロセスも進行し、実質的な大乱は起こりそうにない。
街には以前のような警戒線や警備隊の姿が減り、住民もほっとした表情で普段の生活を取り戻している。ユキノやカエデ、エリス、アヤカは、まだ油断できないとはいえ、笑顔が増えた社会の風景を目にして安堵する。

ある日の午後、ユキノはカエデと一緒に商店街を歩いていた。アヤカから「外出制限ももう解いていい」と許可されているため、気ままにショッピングを楽しむ。久しぶりに見る賑やかな街並み、店員や客の笑顔、まるで蒔苗との戦いが夢だったかのようだ。
「ねえ、ユキノ。久々にカラオケとか行ってみない?」
カエデが楽しそうに提案する。ユキノは笑い、「戦闘ばかりの日々が長すぎて、そういう発想なかったよ。行こう行こう!」と即答する。二人は無邪気に笑いあい、小走りでカラオケ店のネオンへ向かう。その姿は、どこにでもいる普通の高校生そのものだ。


ところが、その帰り道、わずかなトラブルが起きる。真理追求の徒の残党かと思われる男が、ユキノとカエデを尾行しているのをカエデが気づき、警戒を強める。
「ユキノ、気をつけて。後ろに変な視線がある……」
カエデが声を潜めると、ユキノは胸を抑えて「またか……わたしが標的にされやすいのかな」と苦い顔をする。ひょっとすると、観測者の消滅を許さなかった過激派の一部が仕返しを狙っているのかもしれない。
二人が曲がり角で待ち伏せしようとすると、男が姿を現し、刃を取り出す仕草を見せる。「ユキノ……! お前が観測者を拒絶したせいで、我々の真理が……!」と怒声を上げる。カエデが即座に刃型の武器を構え、「やめて! ユキノを傷つけるなら容赦しないよ」と一喝する。

戦闘は一瞬で決着する。カエデが鋭い動きで相手のナイフを弾き飛ばし、ユキノが弓を作るまでもなく相手は両手を上げて怯む。
「くっ……ここで終わりじゃない。蒔苗が消えたくらいで、我々の思想が揺るぐわけが……!」
男は最後まで過激な言葉を吐くが、カエデがその手首を掴み、「あなただけで何ができるの? 大規模な術式は全部失敗して、降伏派も増えてるのよ。まだ戦うつもりなら、タスクフォースがあなたを拘束するわ」と低く警告する。
男は顔を歪めるが、結局何もできずに逃げ出すようにその場を去る。ユキノは肩を落とし、「小さなトラブルはまだあるんだね。でも、こうやって大きな戦闘にならずに済むなら、平和に近いのかな……」と複雑そうに言う。
カエデは「うん、昔みたいに大規模な戦闘になる気配はないね。わたしたちも無理せず対応できるし」と同意し、二人は少し胸をなで下ろす。


後日、ユキノたちはこの小競り合いをエリスやアヤカに報告する。「過激派がまだ少し動いてるけど、以前のように大きな組織力はないみたい。今のところ単独行動ばかり」と。エリスは「わたしも調べてるけど、大きな計画は完全に崩壊したみたいね。“外部解放術式”が失敗に終わったのが致命傷だったわ」とコメントする。
アヤカは笑みを浮かべ、「そうなると、タスクフォースも大規模警戒の必要性が減って、内紛もかなり落ち着いてきた。今はスパイを追い詰めるための作業がメインだけど、それも時間の問題ね。ユキノさん、あなたはもう学校に専念していいわよ」と声をかける。
ユキノは恐縮しつつも、「あたし、まだ何かあったときに呼んでほしい。カエデさんと一緒に動けるよう、身体を慣らしてるから」と伝える。エリスは苦笑して「あなた、ほんとに働き者ね。平和な日々をエンジョイしてもいいのに」とからかうが、ユキノは照れ笑いするだけ。


時が流れ、街の雰囲気はさらに明るさを増していく。降伏派の人々もタスクフォースの監視下で生活の再建を進め、かつて観測者の力に翻弄された研究施設の被験者もリハビリを続けながら社会復帰を目指している。公園には子どもたちの笑い声が戻り、商店街には活気が戻りつつある。
「なんだか夢みたいだね。観測者がいなくても、こんなに平和が成り立つなんて……」とカエデが言い、ユキノは「うん、わたしもびっくりしてる。ほんとに蒔苗がいなくなったんだな……」と薄く笑う。
「もしかしたら、蒔苗が“世界終了”をやめてくれたのは、わたしたちが頑張ったからかも……ね?」
カエデがつぶやくと、ユキノはうなずく。「あの子は最後、少しだけ優しさを見せてくれたんだと思う。だから、わたしたちも自分の力でこの平和を守って、蒔苗に“ありがとう”を証明したい。もういないけど……きっと見ててくれる気がするんだ」


しばらくして、ユキノが通う学校では学園祭の準備が始まる。以前のように戦闘や謀略に振り回されず、仲間と普通にクラスの出し物を考え、飾り付けをする――そんな光景が現実のものとなり、ユキノの胸は高揚感でいっぱいになる。
「ユキノ、こっちのポスターはどう? デザイン考えてみたんだけど」
ナナミがカラフルなイラストを広げて見せる。ユキノは「かわいい! これならみんな喜んでくれると思う!」と歓声を上げる。クラスメイトたちが手分けして模造紙にペンを走らせ、いつも通りの学園祭準備の賑やかさが教室を満たす。
(……こんな日常がわたしには遠かった。観測者や戦闘に引き戻される前は、これが当たり前だったんだよね)

ふと思いを巡らせると、ユキノは涙が出そうになるが、必死にこらえて微笑む。もう戻らないと思っていた当たり前が、こうして戻ってきたのだ。そして、この“平和”を誓ったからこそ、観測者は消える選択をしたのかもしれない――そんな考えが胸を過る。


学園祭が成功裡に終わった後、夕暮れの校舎で片付けを手伝いながら、ユキノはカエデと窓際に並ぶ。遠くの空がオレンジ色に染まり、グラウンドには部活動の生徒たちが最後の練習を続けている。
「どうだった? 久々の大きなイベント」
カエデが楽しそうに問うと、ユキノは「最高だったよ……みんなの笑顔が眩しくて、わたし幸せでお腹いっぱい」と誇張して笑う。二人は視線を交わし、しみじみと安堵を感じる。もう、戦う必要がない――少なくとも大規模な脅威は消えた。痛みは残るが、それも受け止めて生きる覚悟がある。
「これから先、わたしは普通に卒業して、大学に行くか、就職するか、まだ考え中だけど……。蒔苗がくれた時間だと思えば、頑張ろうって思えるんだよね」とユキノは告白する。カエデは頷き、「うん、わたしも考えてる。研究や医療の道に進めば、同じように痛みを抱えた人を救えるかもって……。あの研究施設での経験を、今度は誰かを救うために活かしたい」と語る。

そして、夕焼けを背に、二人は黙って手をつなぐ。“普通の学生”として歩んでいく未来へ向けて――それは観測者なしで得た平和の証明でもある。たとえ真理追求の徒の残党がまだ小さな動きを見せたり、タスクフォースの内部改革が続いたりしても、人々が笑顔で暮らす“日常”は確かに戻ってきたのだ。
観測者が消えた世界で、ユキノやカエデ、エリス、アヤカ――そして仲間たちは、それぞれの未来を見据える。 戦闘がなくても、痛みはまだ完全になくならないが、彼らはそれを自分の意志で克服し、平穏な日々を大切に守り続けるのだろう。


観測者・蒔苗の消滅から幾ばくかの時を経て、街も人々も新しい段階へと進み始める。真理追求の徒の過激派は一部残っているが、その脅威はかつてほど強大ではなく、タスクフォースや降伏派の協力によって対処が可能になっている。スパイ問題も解決に向かい、戦いに明け暮れた日々から、少しずつ“日常”を取り戻す時間が長くなる。

ユキノは学園生活の一部に復帰し、痛みを抱えながらも笑顔でクラスメイトと過ごす。カエデも同様に学校へ通いながらタスクフォースやユキノと連携し、エリスとアヤカは組織内外の問題を解決しつつ、彼女たちを温かく見守る。

もう観測者はいない。世界を終了する権能は消え、人間同士が自分たちで未来を切り開く時代が訪れた――それは決して“完全な平和”を約束するわけではないが、過去のように大いなる力に翻弄される恐怖からは解放されたと言える。ユキノや仲間たちは、この束の間の平穏を愛し、いつか本当の意味での“平和”にたどり着くと信じて、笑顔を交わしているのである。

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