
R-Type Requiem of Bifröst:EP-6
EP-6:ヘイムダル構想
朝焼けが荒れ地の地平線を染め上げる頃、特務B班の仮設拠点にはまだ静かな空気が漂っていた。広大な土地のどこを見渡しても、乾いた土と枯れかけた植物、そしてところどころに転がる戦闘の残骸。少し前までは農場や町があった場所も、今や廃墟のように荒れ果てている。
そんな光景を見つめながら、一人の軍人風の男性――大尉クラスだろうか――が、疲れた様子で焚き火のそばに座っていた。制服は血や泥に汚れ、片腕に包帯を巻いている。隻腕のようにも見える。
「……あんたたちは、まだ“怪物”に希望を抱いてるのか?」
掠れた声で問いかけるその視線の先には、特務B班の副長・如月、そしてメカニックのダニーが控えている。彼らはこの大尉を保護し、治療を施したあと、ひとまず拠点に連れてきたのだ。
「ええ。というより、私たちは“すべての怪物を無差別に処分”するのが正解だとは思っていないんです」
如月が静かに答える。大尉は薄く笑い、ひどくやつれた顔を歪める。
「なら、あんたらは甘い。怪物は殺さなきゃこっちが殺される。それを理解するまでに、俺は大勢の仲間を失ったんだ……どこかで妥協すれば、被害はさらに広がるぞ」
その言葉には血の滲むような現実がある。実際、怪物と呼ばれる存在は圧倒的な身体能力で人間を殺し、時には都市を破壊する。軍や警察ですら対応しきれないほど凶悪な例も多い。
「でも、大尉。怪物がすべて凶行に及ぶわけでもないでしょう。中には“意志を保ったまま”人類と共存を望む者だっているはずですよ」
ダニーが声を低めて反論する。大尉は苛立つように顔を背け、焚き火に視線を向ける。
「……俺だって、バイド係数の高い仲間がいたよ。最初は何も問題なかったが、ある日急に怪物化した。そいつの暴走で俺は片腕を失い、部下の何人もが死んだ。結局、その仲間の遺体を見つけたときには、人間の形をしてなかった……」
彼の独白に、如月とダニーは黙り込むしかなかった。怪物化の悲劇は、一夜にして周囲の人々を破滅に追いやる。それは紛れもない現実であり、多くの人間が怪物を忌み嫌う一因でもある。
「でも、だからこそ……」
大尉は嘆息混じりに呟く。
「“怪物”を排除する以外に手がないと思っていたが、もうそれも限界だ。あまりにも多くの者が怪物化している。おまけに“プロメテウス”とかいう化け物まで現れちまった……」
そこまで言って、彼は小さく咳き込み、一瞬うなだれる。ダニーが毛布をかけてやりながら、優しく言葉をかける。
「安心して下さい。あんたはもう俺たちが守るし、治療もきちんと受けられる。あんたみたいに“怪物を一律で敵”とは考えないで、共存の道があるかを探すのが俺たち特務B班のスタンスだから」
「特務B班……ああ、そうか。あんたらが“怪物とも戦うが、人類も守る”っていう、妙な組織か。まるで掴みどころがないな……」
大尉は自嘲気味に笑うが、その笑顔にはかすかな期待も混ざっているかもしれない。絶望の中で、一筋の光を求めている人間にとって、特務B班の中途半端にも見える立ち位置こそが、実は希望になりうるのだから。
この日、特務B班の指揮車テントでは重要なミーティングが予定されていた。班長や如月、ダニー、ドクター・L、コンサルタントのクラウス、そして特務B執行官・アリシアも集まる。ここ最近、高まっている意見の一つ――“バイド係数の高い者を無理に排除せず、棲み分けを行う”という案が本格的に議題として取り上げられることになったのだ。
「皆さん、集まってくれてありがとう。早速、議題に入りましょうか」
班長が口火を切り、持っている資料を机上に並べる。そこには“バイド係数が高い人々の居住区域”や“怪物化した者を安全に監視下に置く方法”などが箇条書きでまとめられている。
「既にご存知の通り、バイド係数の高い者――怪物化のリスクを抱えた人々を“危険人物”として無差別に処分する考え方が一部で支持され始めている。軍や強硬派の議員、そして一部の企業がそうした極端な政策を押し進めようとしているの」
如月が腕を組み、忌々しげにため息をつく。
「実際に、怪物化で甚大な被害が出ている以上、それを肯定する声もある。それでも、俺たち特務B班としては何とか被害を抑えたいし、無辜の人々を殺したくない」
「無辜の人々……バイド係数が高いだけで怪物になってない人も含めて処分するなんて、そんなの間違ってます」
アリシアが強い調子で言葉を発する。視線は班長に向けられ、賛同を求めるようだ。すると班長は頷き返す。
「そこで、私たちは“棲み分け”のアイデアを提案したい。“怪物化のリスク”を抱えた人や、すでに怪物化しているが意志を保っている個体と、普通の人々が互いの安全を守るために一定の地域を区分する。もちろん、むやみに隔離するのではなく、必要な援助や管理を行った上で――」
「それが“ヘイムダル構想”……ですね」
アリシアは小声で繰り返す。この言葉は、近頃一部で囁かれ始めた構想の名称だった。北欧神話の番人“ヘイムダル”にちなんだネーミングで、バイド係数の高い者たちを含む“橋渡し”の象徴となる場所を作ろうという考え方だ。
ドクター・Lがメモを見ながら口を開く。
「私も医療・研究の立場から賛同したいわ。怪物化のメカニズムはまだ解明されていないけれど、適切な環境を整えて安定させられれば、怪物化のリスクを減らせる可能性がある。棲み分けは、そのための有効なステップになるかもしれない」
「ただし、問題は資金と設備だろう」
クラウスが冷ややかな口調で続ける。
「まともな“共存区域”を作るには莫大な費用がかかる。インフラ、警備、研究施設、医療……バイド係数の高い者が集まるなら、怪物化の大規模リスクも抱えるわけで、政府や軍がそう簡単に了承するとは思えない。反発も必至だ」
「それでもやらなければ、いずれ“無差別処分”が現実になりかねないわ。今のままでは戦闘が続き、社会全体が疲弊するだけ。私たち特務B班としては、何とか段階的にでも“棲み分け”を推し進めたい」
班長の声には強い決意がこもる。まさに本日の会議は、その実現に向けた具体案を詰める場でもあるのだ。
アリシアは、かつて怪物と呼ばれる存在が“元は人間”だったことを知り、その苦悩に胸を痛めていた。もし“ヘイムダル構想”が成功すれば、安易な処分ではなく、彼らが少しでも平和に暮らせる場所が築けるかもしれない。彼女にとっては大きな希望だ。
「私は賛成です。怪物化した人々が安心して過ごせる場所があれば、無意味な戦いを減らせるかもしれない。もちろん簡単にはいかないと思いますけど、少しでも可能性があるなら……」
そう言うアリシアの瞳には、強い意志が宿っている。ダニーも微笑んで頷く。
「そうだな。怪物化した奴が暴れ出すリスクはあるけど、逆に安全な環境を提供すれば暴走を防げるかもしれない。俺はエンジニアとして、そのインフラ整備に協力したい」
話はまとまりかけているが、クラウスが一つ咳払いをして切り出す。
「分かりました。では、私のほうでいくつかの企業や政府関係者へ根回しを進めてみます。ただし、“純人類の優越”を唱える勢力からは大きな反対が予想されます。彼らはすでに軍内部や国会にも強い影響力を持っているので、注意が必要です」
“純人類の優越”――バイドの血が混じった人々を“穢れ”と断じ、旧人類のみが正統だと主張する思想。最近、こうした主張を掲げる過激派が増えているという噂もあった。怪物による被害を目の当たりにして、差別意識を助長される人々が多いのだろう。
「そこにうまく攻撃されれば、“ヘイムダル構想”は足をすくわれる。でも、やらないわけにはいかないわね。アリシア、これから大変だけど、頑張ってくれる?」
班長がやや申し訳なさそうに聞く。アリシアは即座に頷く。
「もちろんです。私も、そのためなら何でも協力します。人を無駄に殺さずに済むなら、どんな手間も惜しまない……」
そう言い切る表情には、このところの戦いやプロメテウスとの敗北を経てもなお揺るがない優しさと、決意がはっきりと見て取れた。
数日後、特務B班はある小さな町の区役所跡地に赴いていた。ここはかつて5千人ほどの住民が暮らしていたが、怪物の襲撃や経済混乱で多くが避難し、今は人口数百人程度の寂れた町となっている。しかし、この町にはバイド係数の高い住民が相当数残っているという情報があった。いわば“棲み分け”の先駆けとなり得る場所だ。
区役所跡の会議室では、町の自治会長や地元有力者が集まり、特務B班の班長やクラウスと面談している。アリシアはオブザーバー的な立場で話を聞くことになっていた。
「で、あなた方の提案は“ヘイムダル構想”とやらか……。怪物化のリスクを抱えた住民を、他地域よりも優先的に保護しろというのかね?」
自治会長と名乗る老人が、疑わしげな目を向けている。彼自身もバイド係数の高い孫を抱え、怪物化の可能性を恐れつつ町に留まっているという。
「ええ、ここに住む住民の中にはバイド係数が極めて高い人が多いと聞きました。今後、怪物化のリスクがある以上、その人たちが安心して暮らし、かつ周囲も安全を確保できるようにしたい。棲み分けはその一つの手段です」
班長が丁寧に説明する。しかし自治会長は渋面を浮かべ、机を叩く。
「あなた方、分かっているのか? ここで実際に怪物化した奴がどれだけ惨いことをやらかしたか。家族を失った人も多い。いくら棲み分けだと言ったって、また怪物が現れれば、すべてが台無しになるじゃないか」
部屋の空気がピリリと張り詰める。クラウスが冷静な調子で口を開く。
「承知しています。ですから、我々は“監視と防御”をセットで提案するのです。例えば、一定の区域内に監視システムを導入し、万一怪物化が起きた際には瞬時に鎮圧できるようにする。必要があれば特務B班を派遣し、可能な限り被害を抑える」
「それじゃ結局、“怪物が出たら殺せ”という話になるんじゃないのか!」
自治会長の額に汗が浮かぶ。隣の席にいた若い男性も声を荒らげて詰め寄る。
「棲み分けって名目で、結局は囲い込みと同じだろ! 俺たちだって殺されたくないが、家族を監視されたくはないんだ!」
感情的になる町民たち。アリシアは胸を痛めながら、何とか介入を試みる。
「すみません、気分を害させたならお詫びします。でも、私たちも“怪物化した人を無条件で殺す”なんて考えは持っていません。万が一暴走が起きたら、できるだけ無力化して鎮める方法を確立したいんです。それが難しいのは承知ですが、やらないと更なる惨劇が続くだけで……」
「君は……特務B執行官か? 女の子なのに、怪物と戦ってるという……」
若い男性がアリシアを睨む。その目には怒りと、不安、そしてかすかな期待が入り混じっている。
「ええ……私も、怪物と戦ってきました。でも、そのたびに“怪物だってもとは人間だった”と痛感しています。できるだけ殺さずに済む方法を探しているんです。棲み分けは、その第一歩だと考えています」
アリシアの真摯な言葉に、男性は視線を外しつつ呟く。
「……俺の妹が、いつか怪物になるんじゃないかって不安で仕方がない。だから、別の町へ連れて行こうかとも思ったけど、どこも受け入れてくれないんだ。バイド係数が高いってだけで……」
そうした悲痛な声が町の各所から上がっているのだろう。この町は行き場を失った高バイド係数者たちの半ば集合体となっている。だからこそ、怪物化の発生率も高く、過去に幾度か悲劇が起きているのだ。
(こんな状況を放置してたら、いずれ本当に大虐殺が正当化されてしまう……)
アリシアは唇を噛む。棲み分けは完全解決には程遠いが、少なくとも人々が生き延びる選択肢を増やす可能性があるのだ。
何とか説得を続けていると、やがて自治会長が溜息をついて椅子にもたれかかる。
「……分かったよ。すぐには納得できないが、可能性があるなら検討してもいい。どのみち、このままでは立ち行かない。あんたたち、ちゃんと責任もってフォローしてくれるんだろうな?」
「もちろんです。私たちも、この町をモデルケースにして“ヘイムダル構想”を進められればと思っています」
班長が頭を下げる。クラウスも微笑みながら、政治的・行政的サポートをちらつかせ、町民の不安を和らげるよう努める。
「実行には資金が要るが、私が企業や政府を動かして、インフラと警備システムを整えましょう。賛否はあれど、現実的に動き出せば協力するところはあるはずです」
少しずつ、町側も前向きに考え始める。アリシアはほっと胸を撫で下ろした。しかし同時に、彼女の心には不安が残っていた。これが軌道に乗るまでに、どれだけの敵対勢力が動くのだろうか。軍の中にも“強硬派”は多く、純人類の優越を掲げる過激派が sabotage を仕掛けてくる可能性もある。それでも、これこそが新しい一歩だと信じたかった。
会議が一段落し、町の人々も少しは安堵した様子だった。しかし、その夜遅く、事件は起こる。町外れの廃工場に“異常な音”がするとの通報が入り、特務B班のパトロール隊が出動したのだ。
廃工場は昔、農機具を製造していたらしく、巨大な機械の残骸や鉄骨が散乱している。月明かりが薄く差し込むだけで、足元は暗く不気味な雰囲気だ。
「アリシア、周囲をスキャンして。怪物の反応があれば分かるはず」
班長が低い声で指示を出す。アリシアはΩを起動し、バイド係数を探知しながら工場内を覗き込む。
「……あそこに、ちょっと高めの反応が……!」
指差す先には、金属機械の山の陰で、うずくまっている人影が見えた。よく見ると、人間大の体躯だが、背中にはうっすらと鱗のような突起が浮き出ている。
「間違いない、怪物化寸前の個体だ……急いで保護しなければ!」
如月が拳銃を握りしめ、慎重に近づく。アリシアもスラッシュゼロを持ち、万一に備える。
工場内のコンクリート壁に反響する足音がやけに響き、冷たい夜風が背中を刺すようだ。
「大丈夫ですか? 聞こえますか?」
アリシアが声をかける。すると、人影がびくりと身体を震わせ、振り向いた。その瞳は血走っており、苦痛にゆがんだ表情が浮かんでいる。どう見ても正気を保てていないようだ。
「……あ、あぁ……おれは……化け物になりたくない、でも、抑えられない……!」
男の声が擦れ、苦しげに何かを訴える。見れば、腕や背中が徐々に肥大化し、硬質の皮膚へ変異しかけているのがわかる。
「落ち着いて……私たちが助けます!」
アリシアはΩの画面を見ながら男のバイド係数を確認する。なんと 95% に達している。ここまで来ると暴走は時間の問題だが、まだ完全には変身しきっていない。
「しっかりして! もうすぐ医療班が来ますから!」
彼女は必死に声をかけるが、男は目を乱暴に見開き、明らかに痛みに堪えられなくなっているようだ。
「がぁっ……ぁあああ……!」
嗚咽混じりの叫びとともに、男の身体が急激に膨張を始める。背中の突起が鋭く伸び、皮膚は濃い赤紫に変色し、筋肉が裂けたように盛り上がる。いよいよ怪物化が始まった――万が一暴走すれば廃工場が崩壊するほどの大惨事にもなりかねない。
「まずい……間に合わない……?」
アリシアは歯を食いしばる。投薬が届くのに時間がかかり、このままでは彼が完全に怪物化してしまう。そんなとき、彼女は先日の戦闘で学んだ方法を思い出す。怪物化しかけの兵士を“波動斬”で一時的に鎮めることができた。あれを再現すれば、もしかしたら変異を遅らせられるかもしれない。
「ごめんなさい、でも、私はあなたを助けたい! 少し痛いけど耐えて……!」
叫ぶやいなや、アリシアはスラッシュゼロに微量の波動エネルギーを込め、男の硬質化する腕へ一閃。完全に切り落とすのではなく、あくまで衝撃を与える程度の“軽い斬撃”だ。
「ぁあああっ!」
男は痛みにのたうつ。しかし、その痛みで変異の進行が一瞬だけ鈍る。アリシアはすかさずΩの防御壁を展開し、彼が暴走しても破壊が最小限になるよう周囲を囲む。
「もうすぐ! もうすぐ投薬できるから……!」
如月が通信機で医療班を急かす。応急治療薬があれば、変異の進行を一時的に抑え込める可能性があるのだ。闇の中、金属の山が軋む音と、男の苦悶の声がこだまする。
(耐えて……! まだ助けられる……!)
アリシアは全身全霊をかけ、スラッシュゼロで男の激しい動きを牽制しつつ、防御壁を調整する。もし彼が完全に怪物化し、凶暴化してしまえば、やむを得ず対処せねばならなくなる。その瞬間を想像するだけで胸が痛むが、ここで逃げたら彼を殺すしかなくなる。後悔だけはしたくないという思いが彼女を支えていた。
やがて医療班が駆けつけ、ドクター・Lがすかさず注射器を手にする。男の脇腹に特殊抑制剤を打ち込むと、その身体の暴走が徐々に落ち着き、金属のように変質していた皮膚がわずかに柔らかく戻り始めた。
「間に合ったわね。こんな状況で抑え込めたのは奇跡に近い」
ドクター・Lは素早く点滴を準備し、怪物化の進行を停止させるための複数の薬剤を投与していく。男は苦しげに息をしているが、完全な怪物化は免れたようだ。
「ああ……助かった……の……?」
男の意識は朦朧としつつ、アリシアの姿を視界に収める。彼女は肩で息をしながら微笑む。
「うん、まだ生きられます。大丈夫……」
こうして、ギリギリのところで一人のバイド係数が高い人間が怪物化せずに済んだ。棲み分けエリアが整えば、こうした駆け込み対応ももっと早期にできるはず――そうアリシアは確信を深める。人を救う手段は必ずある。簡単じゃないが、絶対に不可能じゃないのだ。
翌朝、町の中心広場で、意識を取り戻した男が特務B班の医療チームに支えられながら歩いていた。怪物化しかけたことを自覚し、まだ動揺が激しいようだが、少しずつ落ち着きを取り戻している。
町の人々はそんな光景を見て、衝撃とともに僅かな希望を感じていた。もし本当に、怪物化しても助かる道があるなら――そのために町全体が協力する意義はあると。
「ありがとう……。もう、俺は終わりかと思った……」
男はアリシアに深く頭を下げる。アリシアは「私だけの力じゃないです」と返しつつ、小さく微笑む。
「医療班の皆さんや、副長や班長が駆けつけてくれたからこそです。私ができるのは微々たるものですよ」
「それでも……命の恩人だ。あんたみたいな人がいるなら、俺たちも捨てたもんじゃないと思える……」
感謝に満ちた言葉に、アリシアは心が温かくなる。これこそ、ヘイムダル構想が目指す一場面なのかもしれない――怪物化の危機に瀕した人を無駄に殺さず救う、そんな未来が形になるならどんなに素晴らしいことか。
しかし、その背後にはもう一つの影が忍び寄っていた。
その日の午後、町の外れで何台かの黒塗り車両が停車し、複数の男たちが出てくる。統一された軍服や警察の制服ではなく、私服やスーツ姿が混在している。彼らは戸惑う町民を押しのけるように、堂々と町の中心に進んできた。
先頭に立つのは長身で痩せぎすの男、鋭い眼光を持ち、口元に冷たい笑みを浮かべている。
「なんだ……? 新手の企業か?」
町の人々がざわつく。すると、男は声高に名乗りを上げる。
「我々は“純人類の秩序”を守るために動く団体だ。ここの住民の中に、“危険因子”が潜んでいると聞いて来た。最近、怪物化の事例もあったそうじゃないか。ここはもう隔離対象となるエリアなんじゃないのかな?」
その威圧的な態度に、町民が反発しようとするが、周囲の連中が銃をチラつかせて脅してくるため、誰も声を上げられない。
アリシアと如月が駆けつけて様子を見守ると、男たちが“純人類の優越”を唱える過激派であることが推測できた。
「何のつもりだ? 我々がこの町を管理してるわけじゃないが、ここは特務B班が保護してる地域でもある。勝手に踏み込んでもらっては困るね」
如月が割って入るが、男は鼻で笑う。
「特務B班? ああ、噂には聞いている。バイドの混血も人間扱いしようとしている、甘ちゃん連中か。ここには危険人物が多数いる。それを排除するのが、我々の使命だよ」
「排除……?」
アリシアが愕然とする。男は下卑た笑みを浮かべ、
「バイド係数の高い者は、いずれ怪物になる可能性がある。“まだ人間”などというのは詭弁にすぎない。我々は純人類の生存を脅かす連中を、未然に取り除く。それが秩序というものさ。安心してくれ、特務B班なんて小物に妨害されるつもりはないが、もし邪魔をするなら君たちも敵とみなす」
背筋が凍るような宣言。まさかここまで露骨に“皆殺し”を匂わせるとは。アリシアは怒りで震えそうになるが、如月が「落ち着け」と目で合図してくる。衝動的に動けば、町の人々が巻き添えになる可能性がある。
(こんな連中が動き出したら、ヘイムダル構想どころか、大量の血が流れてしまう……)
男たちはさらに続ける。
「今日のところは下見だ。いずれ政府と交渉して、この地域を“バイド汚染区域”として隔離させる。君たちはさっさと荷物をまとめて退散しろ。今のうちなら、怪物どもを皆殺しにする前に逃げる時間はある」
「なにを……!」
アリシアは怒りを露わにしかけるが、班長とダニーが彼女の肩を抑える。ここで戦闘になれば、町民がひとたまりもないのは明白だ。相手は既に複数の銃や重火器を用意している。
男たちは町をざっと一巡し、“危険な臭いがする場所だ”と嘲笑しながら車に戻っていく。その背中を見つめながら、特務B班の面々は無念の思いを噛みしめるしかなかった。
「彼らは……確実に次はもっと大勢を連れてくる。軍内部の強硬派や私設武装組織と組んでいる可能性もあるわ」
班長は唇を噛む。まさに“純人類の優越”を傘に着て、ハッキリと殺戮を予告しているようなものだ。このままでは町が火の海になるのは時間の問題かもしれない。
「ヘイムダル構想を進めるにしても、もう時間がない……。棲み分けを整備する前に、こうした連中が大量虐殺を起こしかねない」
如月の言葉に、アリシアは拳を握りしめる。町の人々は悲鳴と不安で混乱しかけている。せっかく一歩前進しそうだった矢先の脅威。これが現実だ――。
その晩、町の自治会長や代表たちは、特務B班と協議して“純人類の優越”一派から町を守る方針を探り始めた。軍や政府がどう動くかわからない以上、いきなり大規模な攻撃を受ける可能性もある。そうなれば、バイド係数の高い住民たちはまた逃亡せざるを得なくなり、結局彼らを守る計画は崩壊してしまう。
「こんなことになるなんて……。特務B班の皆さん、どうか私たちを見捨てないで下さい」
自治会長が切実に訴える。班長は頷きつつも、今ある戦力では全面防衛は厳しいと認めざるを得ない。
「私たちだけでは心許ない。せめて政府軍の一部でも協力を取り付けられればいいのですが……。彼らが強硬派に与する可能性もありますし、慎重に交渉しないと」
「クラウスさんがいま手を尽くしているけど、時間がかかりそう。下手をすれば、政治的な駆け引きに巻き込まれるわね」
アリシアは医療テントで負傷者の様子を見回りながら考えていた。怪物化の危機にある人々も安全に守りたいし、純人類の優越を叫ぶ武装集団と戦わなければならないかもしれない。さらには、プロメテウスという脅威もいつどこに現れるかわからない。
(あまりにも課題が多すぎる……私に何ができるんだろう)
彼女は思わず空を見上げる。夜空に星はなく、漆黒の雲がどこまでも広がっている。明日は嵐の予感がする。そんな気配に、不安と焦燥が募る。
すると、そのとき通信端末に着信が入った。相手はクラウスだ。聞けば、政府の一部と接触し、“この町をヘイムダル構想のモデル区として保護する”方針を進めたいという。しかし、強硬派や一部の軍部と衝突することは避けられない。早ければ明日にも動きがあるという。
(明日……大きな転機が訪れるってことか……)
アリシアは胸を叩いて自分に言い聞かせる。この町の運命が、そしてヘイムダル構想の未来が、明日にかかっているのかもしれない。準備するしかない。自分にできることをやるしかない。
夜が深まる中、特務B班のメンバーは最後の打ち合わせを始めていた。町で結成された自衛団も加わり、いつ武装集団が来ても対抗できるように備える。
「まずは、町のバイド係数が高い住民を中心に一時避難所を作る。そこへ防御壁を展開し、怪物化が起きても最小限に抑える仕組みを整えたい」
班長が地図を指し示しながら説明する。地図には町の中心部を赤いマーカーで囲み、そこに複数の監視ポイントやシールド発生装置の配置が描かれている。
「同時に、純人類の優越を掲げる武装集団が来る場合に備え、外周を警戒する。どうやって防ぐか、戦うかはケースバイケースだが、下手に戦闘が拡大すると住民が巻き込まれる。最悪の場合、避難経路を確保して町民を逃がすことも考えないと」
アリシアは隅の席でじっと地図を見つめる。Ωを使えば、敵の動きやバイド係数の変化を早期に察知できるが、一度に複数箇所を見るのは難しい。全てをカバーするには仲間との連携が不可欠だ。
「私も、もし怪物化が起きそうな人がいれば、すぐ駆けつけて波動斬で押さえ込みます。医療班が投薬できるまでの時間稼ぎが大事ですし……」
ドクター・Lが小さく頷く。
「ええ。あなたがいれば、怪物化した人を殺さずに抑止できる可能性が高い。命を救うために頑張りましょう」
「ただ、一度に何人も怪物化したらどうするんだ? そんな場合に手は回らないぞ」
ダニーが心配げに言うが、誰も明確な答えを持っていない。最悪の事態は想定しておくしかないのだ。
そして、班長が大きく息をつく。
「これは大きな賭けになる。“無差別処分”か“棲み分け”か。私たちが勝てば、ここがヘイムダル構想の最初の成功例になるわ。負ければ、多くの血が流れて何もかも崩壊する。私たちはその重圧を背負っている」
指揮車テントの灯りが揺らめき、アリシアは意を決したように拳を握る。
「私は、どんなことがあっても人を殺す道は選びたくない。怪物にされた人にも、生きる権利はある。ヘイムダル構想はその一歩です。……私も本気で守ります。皆さんも力を貸してください!」
その言葉に、特務B班の面々は一斉に頷く。こんなに難しい戦いは初めてかもしれないが、誰も諦めるつもりはなかった。もし成功すれば、多くの生命が救われる希望が生まれるのだから。
夜半を過ぎ、テントの外では風が強まっていた。砂塵が舞い上がり、遠くで雷鳴のような音が聞こえる。ちぎれた雲が月光を遮り、闇が町を覆っている。まるで大嵐の前触れだ。
アリシアは独り、町の高台に立って夜空を見上げていた。左目の奥でΩが淡く輝く。何か巨大なうねりが近づいている気がしてならない。それは、純人類の優越派との衝突か、プロメテウスの乱入か、あるいはさらに別の脅威か……。
「明日は、どんな一日になるんだろう……」
呟いた声は風に消され、誰にも届かない。彼女は砂を踏みしめ、スラッシュゼロの柄をそっと撫でる。守るための剣、そして苦しむ者を救うための波動斬。これらを使って、どこまでやれるのか。
夜空には、雷光が一瞬だけ走り、雲に反射して眩く光る。ゴロゴロ……と地鳴りのような低い音が響いた。大気が震え、冷たい雨の予感さえ感じられる。アリシアは目を細め、まるで自分がこの町の守護者になったかのような責任感に、胸が押しつぶされそうになりながらも、こらえる。
(棲み分け……ヘイムダル構想……それが光となるか、絶望の種となるか。私にできるのは、明日を待つことじゃない。今できる準備を全力でやって、絶対に失敗させないように……)
ざわつく夜風が、その決意を嘲笑うかのように吹きすさぶ。しかし、その冷たい風を受けても、アリシアの瞳から灯火は消えない。怪物化の宿命を背負う者も、人類の中にある偏見の闇も、全てひっくるめて背負い、歩いていく覚悟を彼女は抱き始めているのだから。
――こうして、“ヘイムダル構想”の産声が上がった。
人類とバイド係数の高い者、ひいては怪物化した者までも安全に暮らせる環境の構築。それは夢物語にも思える。しかし、特務B班は、そしてアリシアは、その一歩を踏み出した。大きな嵐を予感しながらも、決して後戻りしないために。
夜空に閃く雷光が、まるで新たな世界の序曲を高らかに告げるかのように、荒野を煌めかせる。明日こそは決断のとき――“ヘイムダル構想”という名の希望が、どこまで人々を救えるのか。その答えは、まだ誰にもわからない。