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Symphony No. 9 :番外編_2-1

エピソード番外編2-1:火術師の里訪問

退位後、アイドル活動に没頭するヌヴィエムとプルミエールを中心に、多忙な日々を過ごす砦。そこから少し離れた兵舎の一角で、ユリウスは朝早くから剣を振るう訓練をしていた。空は白み始め、夜の冷たい空気がわずかに残る。剣を握った手には汗がにじみ、彼の胸にはまだ残る“激戦の記憶”が疼くように存在している。

「はっ……! はあ、はあ……」
軽く息を乱しながら振り下ろした剣先が、木製の練習台を打ち据える。火花は散らないが、鞘から抜いたままのギュスターヴの剣ほどの重厚感はない。ユリウスはつとめて自分の体を抑えるように、火術で剣先を熱する行為はせず、あくまで力の加減とリハビリを兼ねた訓練を続けている。

「まだ……こんなものか」
息を吐き、鞘をゆっくり下ろした。戦乱が終わってから随分と経つが、彼の右脚の付け根には昔の傷が残り、時折痛む。かつてエッグを砕いた栄光など、今や青春の残像のように思えるほど、彼は日常を穏やかに過ごしているが――それでも、戦士としての誇りは彼の中から消え去ってはいない。

「おはよう、ユリウス。相変わらず熱心ね」
不意に柔らかな声が聞こえた。振り返ると、そこにはエレノアが立っている。空気が冷たい朝には不釣り合いな、肩や脚を少しだけ露出する大胆なローブ姿。しかし派手というよりは魔術師らしい機能美があり、彼女の金髪ショートボブは朝陽を受けて眩しいほどに光っている。
エレノアはにっこり微笑みながら、張り詰めた空気を壊さないよう慎重に近づく。その表情には、ちょっとした照れと、しかし隠しきれない好意が混じっているのを、ユリウスは見逃さない。

「エレノア……おはよう。いつからそこに?」
「さっきから見てたわ。あなたの剣の振り方、まだぎこちないけど、少しずつ力が戻ってるみたいね」
エレノアは魔術師とは思えないほど穏やかな口調で答える。その瞳には優しい光が宿り、ユリウスの体調をまるで自分のことのように気づかっている気配がある。

「うん。だいぶ良くなってはいるけど、まだ満足には走れない。ギュスターヴの剣を本格的に振るには、もう少しかかりそう」
ユリウスが素直に答えると、エレノアは小さく頷いた。「焦らなくていいのよ。大きな戦乱はもうないし、あなたが足を痛めてまで戦わなければならない事態も今のところは見当たらないでしょう? むしろ、姉上――ヌヴィエムのようにアイドル活動に励んでみるとか?」
冗談めかした言い方に、ユリウスは困ったように眉を寄せる。「あれは姉上の特技だろ? ……俺に歌や踊りは無理だよ。火術師としての腕は活かせるかもしれないけど……。まあ、そうだな……戦争がなくなったからこそ“どう生きるか”を考えなきゃいけないのかもしれない」
その言い方には、一種の迷いも見て取れる。大切な姉が退位し、アイドルとして子ども(プルミエール)を育てながら穏やかに暮らす道を選んでいる一方、自分は剣士として何をするべきかまだはっきりとは決められずにいるのだ。

「それで、あなたは今日、何か予定があるの?」
エレノアが小首をかしげると、ユリウスは少し考え、「フィリップ3世から『火術師の里』への使者同行を頼まれている。姉上は、アイドルの活動が詰まっていて行けないって言うし……なんでも火術を伝統的に受け継ぐ一族と分散治世の協定を結ぶ話らしい。町が復興するために、火の術を工芸やインフラに活かせないかって」
その言葉にエレノアは目を輝かせる。「火術師の里、か。面白そうじゃない。魔術師として、そういう在り方には興味あるわ。……もし良かったら私もついて行っていいかしら? 火術は専門外だけど、あなたの役に立つかもしれないし、私自身も学んでみたいと思ってたのよ」
ユリウスはそれを聞いて、思わず顔を赤くする。「あ、ああ……エレノアが来てくれるなら心強いよ。ただ、あなたも忙しくないの? 姉上のステージを手伝うとか……」
エレノアはにやりと笑った。「ヌヴィエムのステージは明日まではオフになったはず。どうせならあなたと一緒に小さな旅に出たほうが面白いわ。それとも、私が来たら迷惑?」
まるで小悪魔のような微笑がユリウスを照れさせるが、嫌ではない。「そ、そんなわけないだろ? むしろ助かるよ。道中の安全も魔術で補ってほしい」
「ふふ、素直に喜んでくれて嬉しいわ。それじゃあ、出発はいつ?」
ユリウスが口を開く。「あ、昼までには砦を出ようと思う。フィリップ3世が馬車を手配してくれてる……火術師の里は砦から丸一日くらいの行程だから、今日中に出ないと明日になっちゃうしな」
エレノアは再び頷き、「わかった。準備するわ。……あ、それと、あなた。剣の練習はほどほどにして、早めに体を休めておきなさいよ。馬車の振動が脚に響くかもしれないし」
ユリウスは苦笑し、「わかった。ありがとう、エレノア。じゃあまた後で」と軽く頷き、彼女は踵を返す。ローブの裾が翻る姿は艶やかで、ユリウスは思わず目で追ってしまう。ここ数か月、二人は忙しく動き回るうちに「恋を自覚しそうな雰囲気」を醸しだしてはいるが、まだはっきりとした告白も無ければ、特別な決定的瞬間もない。「この旅で、何か進展するのかな……」――そう思うと、胸が高鳴るのを感じ、ユリウスはわずかに唇を引き結ぶ。


陽が高くなり始める頃、砦の正門には小さな馬車が一台、用意されていた。粗末なものではないが、豪華でもない。分散治世になった後、統一された“王の馬車”のようなものは廃止され、必要最低限の公用馬車しか残っていないという。護衛として、兵士が数名同行する形。火術師の里で合意を得るため、フィリップ3世から命を受けた使者もいる。
ユリウスが軽装の旅支度を整えて門へ行くと、そこにはヌヴィエム、プルミエール、そしてエレノアが待っていた。ヌヴィエムはアイドルの衣装ではなく、普段着風のドレスを着ており、子どもを抱きかかえている。
「ユリウス、気をつけて行ってきてね。火術師の里は気難しい人が多いと聞くから……あんたが変に剣を振り回さないように」
「わかってるよ、姉上。大丈夫だって。それにエレノアが同行するし、護衛の兵もいるから」
ヌヴィエムはエレノアのほうを見て笑みを浮かべる。「あなたも彼をよろしく頼むわ。戦闘になったら仕方ないけど、ケガを増やさないでね」
エレノアは軽く肩をすくめ、「ええ、お任せあれ。私も興味津々なのよ、その里の火術文化に。でも本当に、あなたはいいの? アイドル活動のスケジュールは?」
ヌヴィエムはにこりと笑ってから、「明日の朝までフリーよ。プルミエールの世話をしながら、わたしも少しリフレッシュするつもり。そろそろライブ続きで体が悲鳴あげそうだし。……楽しんできなさい。何かあったらフィリップ3世にも連絡してね」と言葉を添える。
プルミエールはユリウスの腕をそっと掴んで、「にーに、あたしもいきたかった……」と拗ねたような口調を出す。ユリウスは苦笑して、その頭を撫でる。「ごめんな、プルミエール。今回は大人だけの用事なんだ。帰ってきたらお土産持ってくるから、姉上(ヌヴィエム)の歌を聞いて待っててくれよ」
その台詞に子どもは少し顔を明るくして、「おみやげ……うん、まってる!」と言ってヌヴィエムの腕に戻っていく。小さな手を振る姿が、ユリウスの心を温かくしつつ、同時に「ちゃんと帰ってこなきゃな」と思わせる。

「じゃあ、行ってくるわ」
エレノアが鞄を肩に掛け、ユリウスに視線を投げる。まるで「さあ、あなたも早く」と言わんばかりだ。ユリウスは短く頷き、兵士たちを確認して馬車へ乗りこむ。エレノアもその隣に腰かけると、ヌヴィエムとプルミエールに軽く手を振り、御者が馬を叱咤してゆっくりと動き出す。
砦の門が開き、まだ半日の陽光が残る中、二人を乗せた馬車は緩やかに進んでいく。ヌヴィエムは微笑みながらその背を見送り、「気をつけて……」と心の中で繰り返す。プルミエールが「ばいばーい」と短い言葉を叫び、やがて馬車は遠くへ消えていく。


砦から火術師の里までは、およそ一日の行程だ。途中、小さな村をいくつか通り、山すそを回り込むように進むことになる。分散治世になって道路整備こそ進んでいるが、まだ完全ではない。馬車も結構揺れる。
馬車にはユリウスとエレノア、使者二名、それから兵士数名が乗り込んでいる。といっても小型の馬車なので、ゆったりと座るスペースはなく、皆で譲り合いながらの乗車だ。
最初の村に立ち寄るまでの道中は、のどかな牧草地帯が広がっており、羊や牛が草をはむ姿が目に入る。その光景に、エレノアは窓から身を乗り出し、「こういう平和な風景を見ると、あの戦争時代が本当に終わったんだなって実感するわね」としみじみ呟く。
ユリウスは頷きつつ、「うん……戦場を駆け回ったころは、こんな田園はすぐに焼かれたり、怪物に襲われたりしてた。それがもう見られないなんて、良かったよね」と返す。

「あら、口調が少し柔らかくなったわね。昔はもっと尖ってた気がするけど?」
エレノアが茶化すように言い、ユリウスはちょっと顔を赤らめる。「え、そ、そうかな……まあ、いろいろあったし」
「姉上の影響かしら? それとも、私のおかげって言ってもいいわよ?」
ここぞとばかりにからかうエレノアに、ユリウスは照れ混じりに言い返そうとするが、言葉が見つからない。「い、いや、そりゃエレノアも色々アドバイスしてくれたし、助かってるけど……」
兵士たちがそのやり取りを耳にし、くすくすと笑っている。使者は使者で「あの二人、いい雰囲気ですよね」と囁きあい、ユリウスはそれに気づき「ちょっと皆、黙っててくれ」と顔を伏せる。
それでもエレノアはまったく動じず、ユリウスの横顔を見て「ふふ、かわいい……」と小さく呟く。そもそも彼女は恋愛には自由奔放と見られがちだが、本気になると案外不器用な部分もある。だからこそ、ユリウスが戸惑う姿に愛しさを募らせているのだろう。


午後になって最初の村へ到着。ここで食事と馬の休憩を取ることになった。村人が小さな食堂を貸してくれ、ユリウスやエレノアたちは簡単な昼食をいただく。
「すみません、大したものはないんですが……」と差し出されたのは、パンと野菜スープ、そしてハーブで味付けした羊の焼き肉。戦時中に比べれば格段に豪華に見える。
「いや、ありがたいです。むしろ助かります」とユリウスが頭を下げると、村の人が「あの火術師の里へ行くって聞いたけど、お気をつけなさい。あそこは保守的で、外部の人間をあまり好きじゃないって話ですから」と忠告してくる。
「うん、ありがとうございます。そう聞いてるんですよ。でも、できるだけ友好的に話してみるつもりで……」
エレノアは微笑んで、フォークで羊肉をほぐしながら口に運び、「ん、おいしい……確かに保守的なのは聞くわね。火術を神聖視しているとか。まあ、私たちだって敬意を払うつもりよ。争うつもりはないし」と軽く肩をすくめる。

使者の一人が「実はこの村でも、何年か前に火術師の里と物の貸し借りを巡っていざこざがあったそうです。以来、あまり積極的な付き合いはなかったみたいで……」と補足説明をする。
ユリウスは唇を噛み、「そりゃちょっと心配だな……でも、分散治世を目指すなら、いずれは彼らも外と連携しないといけないはず。俺たちはその橋渡しをしに行くんだ」と意気込む。
エレノアはそれを聞いて柔らかく笑み、「あなた、結構乗り気じゃない? 火術の本場で何か学べることもあるし、きっと有意義になるわよ」とポンと肩を叩く。
ユリウスは思わずドキッとしながら、「そ、そうだな……。でも、無理して取り込もうとかじゃなくて、話をしてみたいだけだよ。どう火術を活かしてるのか、興味あるし……」と少し視線を逸らす。その様子を、周囲は微笑ましく見守っている。


昼食後、さらに山あいへと向かう道は、緩やかな丘からじわじわと標高を上げていく。馬車の振動も増え、エレノアが小さく身震いするほどの冷たい風が吹き始める。
「うう、寒い……。火術が使える人って、こういう寒さに強いのかしら?」と冗談めかすエレノアに、ユリウスは「そんなに強いわけでもないけど、実際使おうと思えば体温を上げられるかもしれない」と答える。
兵士が「でも道中で火術を大きく使うと、馬が驚くかもしれませんから控えてくださいね」と忠告する。ユリウスは苦笑いで「わかってます」と返す。
エレノアは少し拗ねたように「じゃあ、私の炎の幻術で暖を取るわけにもいかないわね。むむ……困ったものだわ」とあざとく呟く。ユリウスは思わず、「俺のマント使うか?」と提案し、エレノアは嬉しそうに「いいの? じゃあ甘えようかしら」と素直に腕を差し出す。
その様子を兵士たちや使者が見ると、ほのぼのした空気が車内に漂う。あからさまにラブコメ調で、互いの肩が触れ合う距離で暖を取りながらの移動になり、ユリウスの心拍数は上がりっぱなし。しかしエレノアはそれを楽しむように微笑み、彼の胸にそっと寄り添うように身を落ち着ける。周囲にはやや照れた笑いが起きるが、二人ともあえて何も言わない。

しばらく無言の時間が過ぎ、ユリウスは視線を外の景色に向ける。針葉樹が増え、空気が薄く感じられるほど山岳が近い。「火術師の里って、こんな高地にあるんだな……」と呟くと、エレノアが思い出したように言う。
「聞いた話では、火術を扱うと熱量の問題でトレーニングがきついんですって。でも高地なら体への負荷も増すし、研鑽には最適かも。そういうストイックな思想が残ってるらしいわ」
「ストイック、か。俺も少しだけわかる気がする。火術って、自分も熱でやられるリスクがあるから、精神修行みたいに扱う人もいるんだよな」
エレノアは軽く頷きつつ、「ええ、戦時中は火術師が前衛に立つことも多かったみたいだけど、いまは役割が変わってきてる。分散治世で争いが減った分、工芸や生活向上のために火術を活かす道が開けてるらしいわ。でも、伝統派はそういう“俗世への応用”を嫌う人もいて……あなたたちの目的は、そこを説得することなのかしらね」
ユリウスは「うん、多分ね。俺としては、火術の里がもっと外の世界とつながってくれたら嬉しいけど、押し付けたくはない。誇りを傷つけないように話せたらいいな」と願うような言葉をこぼす。
「あなた、意外と優しいのね。昔はもうちょっと自信なさそうに‘姉上に任せるしか……’なんて言ってたのに」
「……それは、まあ……姉上がああやってアイドルとして自立してくれたし、俺もいつまでも引っ込み思案じゃいられないんだよ」
そう言ったユリウスの瞳は真っ直ぐで、エレノアの心をくすぐる。彼はまだ若く、身体に古傷はあるが、その内面は着実に成熟してきているのを感じる。エレノアは思わず「いいじゃない……」と口の端に笑みを宿し、二人の間に柔らかな空気が漂う。


夕方近くになり、険しい山道の入口へ差しかかったころ、御者が「今日はここまでですね。日が沈む前に野営地を整えましょう」と提案する。どうやら火術師の里まで、あと数時間かかるが、夜道を進むのは危険すぎるらしい。
「仕方ないね。野宿……いや、近くに宿はないのか?」とユリウスが尋ねると、兵士が肩をすくめる。「この道沿いには、商業宿もほとんどありません。小屋の跡地があるくらいです。そこを借りて野営することになるでしょう」
エレノアはローブをきゅっと締め、「じゃあ私の魔術でテントの補強でもしようかしら。うーん、寒いわね……火術が使えれば薪に火をつけられるけど」
ユリウスは静かに立ち上がり、「そうだな。ここは魔術で火を起こして、夜の冷えをしのぐのがいい。馬を驚かさない程度の火力に抑えよう。そっちの兵士さんたちは馬を繋いで、水場を探してきてもらえますか」と、自然と指示を出している。
エレノアはその様子を見て、くすっと笑う。「やっぱり、あなたってリーダーの気質あるんじゃない?」
ユリウスは「そ、そうかな……昔は姉上が何でも仕切ってたから、俺が前に出る機会なかったけど」と照れくさそうだ。


小さな小屋の跡地は、囲いが壊れかけた納屋のようで、壁が一部崩れている。ここに布や板を当てがって即席のテントとして活用するしかない。幸い、風よけにはなるし、火の気をある程度確保できれば、一夜をしのげそうだ。
エレノアがさっそく風除けの幻術を展開し、冷たい風をある程度ブロックする。ユリウスは火術で木の切れ端に小さな火をつけ、兵士たちが持ち寄った薪を燃やすことで小さな焚き火が完成。使者の一人はお湯を沸かし、もう一人は簡単なスープを作り始める。
「寒い……でも、思ったより快適になったわね」とエレノアが焚き火の前で手をこすり合わせる。ユリウスもその向かい側に腰を下ろし、「姉上たちが居たらどうなってただろうな……ヌヴィエムなら音術で温められるかな?」と冗談を飛ばす。
エレノアは「音術で温度は上げられないわよ。せいぜい雰囲気を良くするだけ。それに、彼女はアイドル活動で忙しいでしょ?」と笑う。
兵士の一人が、「確かにヌヴィエム殿のライブなら、ここで聴けたら寒さも吹き飛びそうですけどねえ」と微笑ましそうに付け加える。皆が笑い合い、和やかな空気が広がる。

やがてスープが煮立ち、少しだけ塩と香草を加えた簡単な食事が完成する。エレノアが「ああ、いい匂い……」と感嘆し、ユリウスが「こういう素朴な夕飯も悪くないね」と頬を緩める。
「はい、どうぞ」と使者が椀を手渡す。エレノアがそれを受け取り、ふうっと息を吹きかけながらスープをすすり、「あったまるわ……。こういう旅も久しぶりかも。かつてはいつもバタバタと戦場だったしね」と言う。
ユリウスは記憶をたどり、「ああ……昔はこんなふうに焚き火を囲んでも、血や傷の処置をしながら飯を食ってた。いまはまったく、違う世界になったよ。争いがないって、ありがたいな……」と静かに話す。その声にはどこか懐かしさとほっとした解放感が混じる。

ふと、兵士たちがそれぞれ雑談に興じ始め、ユリウスとエレノアの周囲に余裕ができる。エレノアはスープを飲み終わってから、ちらりとユリウスに視線を向ける。「ねえ、あなたは……火術師の里がどんな場所だと思う?」
ユリウスは言葉を選ぶように一拍置いて、「うーん、正直わからない。でも、火術を極めてきた人たちがいるなら、俺よりずっと深い理解があるんじゃないかと思う。……エレノアはどうなの? 魔術師として興味あるんでしょ?」
エレノアは小さく頷く。「ええ、火術は私の専門とは違うけど、魔術と似た部分もあれば全然違う思想もありそうだし。それに、あなたが火術の一端を身につけてる姿を見ると、その里ではもっと“純粋な火術”が学べるかも、なんて思って」
「なるほど……。でも、あまり外部を受け入れないんだろ? 俺たちがどう受け止められるか……」
「そこはあなたの人柄でなんとかするのよ。私も援護するけど、最後はあなたの誠実さ次第じゃない?」
冗談半分の言い方だが、エレノアの瞳は真剣。ユリウスはどこか照れながら「わかった……期待に応えられるよう頑張るよ」と返す。ふたりの距離が自然に近くなり、彼女の体温が伝わってくる。

いつの間にか周囲は闇に包まれ、焚き火の明かりだけが揺れている。兵士たちは交代で見張りにつく準備をし、使者たちは明日の交渉に備えてメモを読み返している。エレノアとユリウスだけが、焚き火に照らされて微妙にロマンチックなムードに陥っている。
エレノアはスプーンを置き、ちょっとだけ身を寄せて、「ユリウス……」と名前を呼ぶ。ドキリとする彼に、「もし、里で揉め事が起きて危なくなったら、あなた、剣を使える状態じゃないかもしれないけど大丈夫?」と真剣に聞く。その言葉に、ユリウスははっとする。
「あ……確かに、地形によっては脚が痛むかもしれない。でも、いざというとき火術だけでも何とかするつもりさ。……それでも危なかったら、エレノアにも助けてもらう。頼りすぎるかな」
エレノアは首を振り、やわらかな笑みを浮かべる。「頼ってほしい。私もあなたに頼るし……そういうのが、私たちじゃない?」
二人の視線が交わる。ユリウスはかすかに頷き、「……そうかもね。ありがとう」と静かに言う。まるで告白のような雰囲気が漂い、兵士たちが遠目に「おお……」と囁くのを感じるが、誰も水を差そうとはしない。
結局、そのまま二人は一歩先へ踏み出すでもなく、曖昧な距離を楽しむかのように夜を過ごしていく。恋というには未熟かもしれないが、確かに深まっていく感情がそこにはある。


翌朝、簡単な朝食を済ませたあと、馬車はさらに山道を進む。途中、切り立った崖沿いの道や樹木が鬱蒼と生い茂る森を通り抜け、昼過ぎになってようやく火術師の里らしき集落が姿を現した。岩肌を背に、山間にひっそりと家屋が並んでいる。煙突が多く、あちこちで煤の匂いが漂う感じ。
使者が「ここですね……。意外と静かですね」とつぶやく。兵士も「うん、人の姿が見えない……どこにいるんだろう?」ときょろきょろしている。
馬車を入り口に止めると、やがて整然と並んだ十数名の男女が姿を見せた。彼らは濃いレンガ色や黒を基調とした衣服をまとい、腰には独特の火打ち石の道具を差している者もいる。年長者と思しき男性が一歩前に進み、低く深い声で言った。
「よく来たな、外の者たち……我らは火術を神聖視する一族。そなたらが何用でここに参ったのか、まずは話を聞かせてもらおうか」
視線には鋭さがあり、周囲の人々も同じく厳しい眼差し。ユリウスは少し緊張しながら馬車から降り立ち、手を上げて「自分はユリウスと申します。分散治世を敷いている砦から参りました。こちらはエレノア、魔術師です。あとは護衛と、交渉の使者が二名……」と名乗る。
「分散治世、か。外の国を信用しきれんが……話くらいは聞こう。ついてこい」
そう言ってその男は無表情のまま踵を返し、里の奥へ続く道を指し示す。

エレノアが小声で「ちょっと怖いわね」と呟き、ユリウスは「だ、大丈夫。誠意を示せば分かってくれるはず」と返す。兵士たちも緊張しているが、争うつもりはないので、武器は鞘に収めたままついていく。
道端を歩けば、石造りの炉があちこちにあり、何らかの金属加工や鍛冶作業が行われているのがわかる。大きな煙突から黒煙が立ち上り、熱い空気が漂う場所もあれば、溶けた金属を扱う場面も。人々は皆、火術を小規模に使って炉の温度を調節しているように見える。その技術にエレノアが思わず目を見張っていると、里の住民が警戒の視線を投げ返す。
「へぇ……火を操り、鍛冶や工芸を極める場所、というわけね」とエレノアが感嘆しつつ呟く。ユリウスも「すごいな……。これは確かに神聖な力と思ってしまうのも無理はない」と思わず納得する。

やがて、集落中央にある古い大きな建物へ案内される。火術師の総意を取りまとめる長が待っているらしい。外観は石造りで重々しく、入り口には簡素な紋様――炎を象ったシンボルが刻まれていた。
ユリウスたちが中へ入ると、そこには先ほどの男を含め、5~6人の年長者が座っている。中央の席に最も威厳を感じさせる白髪の女性がい、彼女が里の代表なのだろう。
「遠方よりご苦労だな……私がこの里の長、ファエルスと言う。なんでも、分散治世とかいう統治体制を広めたいとのことだが、われらは外の価値観にすぐ従うつもりはないぞ。火術は神の贈り物……乱用や商売道具にはしたくない」
彼女はそう切り出し、厳しい視線をユリウスたちに向ける。使者は慌てつつも、交渉を切り出す。


「わたくしどもは、無理強いしに来たわけではありません。火術を実際に工芸や医療、インフラ整備に役立てたいという外の国々の希望をお伝えし、そのために技術交流の場を設けられないか、とご提案に上がりました」
使者がそう述べると、ファエルスは険しい顔で聞き流す。「火術が、外の者たちの利益のために利用される? われらはそんな俗世的な協力は好まない。火術は神聖な修行の産物……安易に公開すれば、乱用される恐れがある」
ユリウスが心の中で(まずい、やはり壁が厚い……)と感じながら、「ですが、実際にすでに闇雲な使われ方は減っています。分散治世は、術や技術を共有し、争いをなくすための仕組みです。あなたがたの尊厳を傷つけるつもりは全くありません……」と割って入る。
すると、ファエルスの横にいた中年の男が「言葉だけなら何とでも言える。おまえは誰だ? 火術を少しは扱えるらしいが、外の世界でどう育てられた?」と問いかける。ユリウスは少し緊張しながら「俺はユリウス。姉がヌヴィエムという者で、昔エッグとの戦いに加わった。火術を独学で覚えたわけじゃないけど……戦闘での使い方が多かった」と正直に答える。
「ふん、戦争の道具として使うなど、火術への冒涜だ!」とその男は激昂気味に言う。里の者たちも同調するように騒ぎ始める。
エレノアが耐えかねて声を上げる。「彼を責めないで。争いの時代だったからこそ仕方なかったのよ。もし今の平和な時代なら、火術を違う形で活かせるはず。それを見せてほしいんです。私たちも乱用しないよう誓いますから……」
だが、ファエルスは冷ややかに、「平和とはいえ、いつかまた欲望が肥大すれば、火術を武器に転用しない保証などない。われらはそれを恐れるからこそ外部を拒むのだ」と述べ、議論は平行線に陥りそうな気配。


小一時間ほど、使者とファエルスたちの話し合いが続くが、ほとんどかみ合わない。ユリウスとエレノアは傍らで静かに聞くしかない。火術師の里の人々は「外界は常に術を利用して権力争いをしてきた」という考えを根強く持ち、それを認めようとしない。
ユリウスは胸が苦しくなる。自分自身がエッグの時代に火術を使った戦士として、確かに彼らの言うとおり“武器として”使った過去がある。それを否定できないからこそ、説得もままならない。
エレノアがそっと彼の腕に触れ、「大丈夫?」と小声で問いかける。ユリウスは苦い顔で「俺が何か言えば言うほど、逆効果かもしれない。どうしよう……」と返す。
するとエレノアは小さく息を吸い、「それでも、言わなきゃ進まないことがあるんじゃない?」と囁く。彼女の瞳は優しくも強い。ユリウスは少し意を決して、再び発言の機会を求めた。

「……ひとつだけ。俺自身の体験を話してもいいでしょうか?」
ファエルスが怪訝そうにまぶたを閉じる。「なんだね? くだらぬ弁明なら聞きたくないが」
ユリウスは意を決して、脚の痛みをこらえながら一歩進む。「あのエッグとの戦争で、俺は火術を武器として振るってきました。でも、いまこの世界が平和になってから思うんです。火術は殺すためだけの力じゃなく、もっと人を助けるために使えたらいいって……俺、最近までずっとリハビリ中で、姉上のアイドル活動を見てきた。皆が歌を通じて笑顔になるように、火術にも同じ可能性があるんじゃないかと」
エレノアがそっと後押しするように袖を握り、ユリウスはさらに声を上げる。「ここに鍛冶や工芸で火術を使っている里があるって聞いて、すごく期待してた。砦のみんなも、ここから学んで、いろんな人々を助けたいって。それだけなんです。俺がまた火術を戦争に使うつもりはない」
言い終わると、里の人たちはしばし沈黙する。ファエルスは眉をひそめ、やがて厳かな声で尋ねた。「……では、もし貴様たちの砦がまた敵に攻められたら、火術を使わずに守るのか? 結局、戦闘に使う可能性が残るのではないか?」
ユリウスは言葉に詰まる。そんなとき、エレノアが口を開く。「たしかに可能性はゼロじゃありません。でも――私たちの目的は、そんな戦闘を起こさないための分散治世なんです。少なくとも、火術師の里を利用しようという考えはありません。互いに教え、学び、生活を便利にできる関係を築きたいだけ……。それでもあなた方は受け入れられませんか?」
ファエルスは苦い顔で長老たちを見渡し、小声で話し合う。すると、最初に対応した男が「ともかく、外部からの突然の要望には応じられん。しばらく里で様子を見させてもらう。挨拶に来ただけかと思ったが、これほど話を持ち込むなら、何日か滞在してもらおうか」と提案した。
使者はほっと息をつき、「ありがとうございます。では、しばらくこの里に滞在して、お互いを知る機会を持ちましょう」と申し出る。ファエルスは渋々頷き、「ただし、余計な行動はするな。鍛冶場へ勝手に入るのは禁じる。外の者には見せたくない火術もある」と釘を刺す。

ユリウスとエレノアは顔を見合わせる。「とりあえず、門前払いは免れた、かな……」と安堵しつつ、まだ前途多難であることを感じていた。


そうして、ユリウス一行は火術師の里で簡易的な宿泊施設を案内される。といっても質素な石造りの小屋で、暖炉はあるが布団は硬く、まるで修行僧のような環境だ。
「……外の客人には過分なもてなしは不要、という考えかもしれないわね」とエレノアが苦笑する。ユリウスは「しょうがない。嫌われてないだけマシだよ」と肩をすくめる。
翌日から、使者たちは日中に里の有力者と顔合わせをしたり、軽い質問を行ったりするが、なかなか議論が進まない。火術師の里の者は外部との技術共有を頑なに拒む者が多く、表面上は対応してくれても奥底に警戒心があるように見える。
ユリウスとエレノアは多少フリーに動けるが、鍛冶場などの重要施設には入れてもらえない。里の若者とも接触しづらい雰囲気。そんななか、ちらほらと興味本位で外の人間を見にくる子どもや中年層が話しかけてくることもあり、雑談程度ならできる状況だ。
「あなたが火術を使えるって、本当? どうやって学んだの?」と聞かれたり、「外の世界の火術使いは、戦闘だけに命を賭けるの?」など、偏見や素朴な疑問が飛び交う。ユリウスは根気強く答えて回るが、大きな成果には繋がらない。

一方、エレノアも外から来た魔術師として里の人々に好奇の目で見られている。「魔術と火術は同じなのか?」「違いますよ。火術は身体に宿る炎の力を高める術理で、魔術は外部のマナを操作する行為で……」など、一応噛み砕いて説明するが、相手は眉を顰めることも多い。
夜には宿舎に戻り、ユリウスとエレノアが「うーん、今日も進展なしだね」とため息をつく日々が続く。
「こうなったら一週間くらい粘るしかないわ。里の若者と仲良くなれば、もしかしたら火術を工芸に活かす考え方に共感してくれる人もいるかもしれない」とエレノアが言うと、ユリウスは「ああ……でも、どうやって打ち解ければいいんだろう?」と首を傾げる。
そのタイミングで、彼女はニヤリと微笑む。「簡単な話じゃない? 火術って、鍛冶や調理にも使ってるんでしょ? そこに参加させてもらえれば、交流しやすいんじゃない?」
ユリウスは「なるほど……工芸や調理なら、危険な使い方じゃないし。けど許可をもらわなきゃな」とうなずく。


翌朝、ユリウスは意を決して例のファエルスのもとへ行き、「火術を使った工芸や調理を学ばせてもらえませんか?」と頼んでみる。ファエルスは眉を吊り上げるが、「何が狙いだ?」と警戒を解かない。ユリウスは真摯に答える。
「自分は、戦闘以外の用途で火術が活かせるなら、その有用性を外の世界にも示せると思うんです。火術を神聖視するあなたがたには不快かもしれませんが、見学でもいいので、やらせてもらえませんか?」
ファエルスはしばらく沈黙し、周囲の里人と視線を交わし合う。やがて渋々と、「なら、里の調理場でパン焼きを手伝ってみるといい。火術師としての基礎ができていない者がどこまで操作できるか見せてもらおう」と提案する。どうやら試すつもりらしい。
エレノアは「それ、私も同行していいの?」と聞くと、ファエルスは「好きにしろ。だが下手に手出しをするな。彼の火術を確かめたいのだから」ときっぱり言う。
「わかったわ。じゃあ私は見てるだけにするわね、ユリウス」
ユリウスは少し緊張しつつも決意を込めて「ありがとう。頑張ってみるよ」と答え、二人は調理場へ向かうことになった。

そこは大きな石の窯があり、パンや煮込み料理を作る施設。若い火術師の女性が数名働いている。彼女らがファエルスからの伝言を聞き、「外の火術使いがパン焼きを……面白いじゃない」と半ば冷やかしつつ迎え入れる。
ユリウスが「よろしくお願いします」と頭を下げると、「ここで炭火や薪に火をつけ、窯の温度を安定させるのが一番難しいのよ。戦いのように一気に強い火を出しても、パンは焦げるだけ」と説明される。
「確かに……繊細な火力調整が大事ってことですね……うまくやります」とユリウスは苦笑いしながら答え、実際に手をかざして小さな火術を起動させる。
するとエレノアは、後ろで見守りながら「がんばれ……」と小声で応援。里の女性たちは「ふん、とりあえずやってみな」と手を組む。
炭火を少しずつ赤熱化させ、窯の中の温度を理想的に維持するために火力を上げ下げする作業は、戦闘とはまるで違う神経を使う。ユリウスは火術で一瞬に火を大きくしすぎて、窯内部が過度に熱くなりかける。
「あ、しまった……」と焦るが、女性たちが素早く水を注ぎ、「加減が下手ね。最初はこんなものか」と笑う。ユリウスは悔しそうに「すみません……」と謝りつつ、また挑戦する。エレノアが心配そうに見つめるが、ここは彼が自力でやり遂げるしかない。

何度か失敗と修正を繰り返すうち、ユリウスは火術で炭を温める手際を掴み始める。戦闘で使う炎の爆発的な力ではなく、じんわりとした熱をコントロールする――これが想像以上に難しいことに気づき、彼は痛感する。
「……でも、何とか安定した……かな」
窯の温度が一定に近づくと、女性たちはそっと生地の乗ったトレーを入れていく。「焦げ過ぎないよう、こまめに火加減を見てね。そこが本番よ」
ユリウスは汗をかきながら火術を維持する。エレノアがタオルで彼の額を拭い、こっそり「ファイト」と囁く。その声に鼓舞され、彼は火術の力を細かく微調整する――燃焼エネルギーを小出しに送り込み、窯の温度が上昇しすぎないように抑えるのだ。

最初の生地はわずかに焦げたが、二つ目、三つ目は上々の焼き具合となり、里の女性たちが「やるじゃない」と驚き混じりに評価してくれる。ユリウスは安堵の息をつきながら、「ありがとうございます……結構きついけど、面白いかも」と苦笑いする。
エレノアは嬉しそうに拍手し、「すごいわね、ユリウス! 魔術でもこんなに繊細な火加減は難しいわ。あなたの才能が活きてるんじゃない?」と言葉をかける。ユリウスは照れて「ああ、いい先生がいるといいんだけど。……この里にはすごい人がたくさんいそうだ」と返した。
火術師の若い女性の一人が「まあ、外から来たにしては頑張ったよ。戦闘に使うよりこっちの方が疲れない?」と笑う。ユリウスは正直に頷く。「すごく疲れる。でも、誰かを殺すためじゃなく、こうしてパンを焼くために火術を使うって……不思議だけど、心が軽くなる気がするんだ」
その言葉に女性は驚いたように目を丸くし、「……あんた、良い目をしてるわね」と低く呟く。どうやら少しずつ、里の人々の心が開き始めているのかもしれない。エレノアがその様子を微笑ましく見守る。


作業を終え、焼きたてのパンが出来上がると、辺りに香ばしい香りが漂う。「これはなかなか良い仕上がりだな」と年長の火術師がひとつ割って味見し、「悪くないぞ……」と唸る。ユリウスはほっと胸を撫で下ろし、エレノアは嬉しそうに「私もいただこうかしら」とかじってみる。「うん、美味しい……」と笑顔を見せる。
周囲の空気が和らぐ中、ファエルスが現れ、「ふむ。外の者が火術をこういう形で扱うか……一応、認めてやろう。だが、これで全てを許すわけじゃない。数日間、里に滞在して火術の正しい使い方を学び、そしておまえらの分散治世というものが本当に里を脅かさないかを見定めさせてもらう」と厳かに言い放つ。
ユリウスは真摯に「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」と頭を下げ、エレノアもそれに倣う。こうして、表面的には不承不承ながらも、火術師の里での滞在をある程度歓迎してくれる方向に進み始めた。
エレノアがこっそり肩を寄せ、「ね、少し突破口が開いたわね」と囁く。ユリウスは「うん、よかった……」と返し、二人の視線が絡む。ささやかな達成感と、お互いの存在をより近くに感じる幸福感がそこにはあった。


火術師の里での日々は、最初の冷たい対応から一歩前進し、ユリウスとエレノアはじわじわと人々との交流を深め始めている。火術の伝統を守る立場の者たちも、彼らが単なる「戦闘の道具としての火術」ではなく「生活に根差した平和利用」を模索していると知り、警戒を少しずつ解き始めているのだ。
使者も喜び、「これなら正式な合意まではいかなくても、相互理解は進むでしょう。分散治世を押しつけるんじゃなく、里の文化を尊重しながら交流を続けられますね」と兵士たちと話し合っている。ユリウスは「姉上もこれを喜んでくれるかな……」と呟き、エレノアは「ええ、きっとね」と微笑む。

夜、再び野営用の部屋を借りて二人が会話をしていると、エレノアが唐突に「ねえ、今回あなたが行こうって決めた理由は何?」と尋ねる。ユリウスは一瞬戸惑うが、正直に言う。「火術師の里に興味があったのはもちろんだけど……姉上が退位してアイドル活動で忙しい今、俺も自分の居場所を探したいんだ。火術が生活に役立つ方法を学べたら、砦や姉上のサポートができるかと思って」
エレノアはその言葉に嬉しそうにうなずき、「そっか……あなた、随分変わったわね。昔は“姉上の影”みたいに自信がなかったのに、いまは自分の道を探してる」と穏やかに言う。
ユリウスはわずかに照れ、「ああ……エレノアだって、姉上の参謀だったけど、いまは自由に魔術を楽しんでるじゃないか。あなたを見てると、世界が平和になるってこういうことなんだなって、実感するんだ」と返すと、エレノアが頰を赤らめて「も、もう……そんな褒め言葉。ありがと」と言い下を向く。
二人はそれ以上言葉を紡げないまま、微妙に暖かい空気に包まれて夜を迎える。兵士らは察して遠巻きにしてくれるし、使者は「この二人、絶対いい感じだよね……」と笑い合う。里の人々も不思議そうに眺めるが、いまは干渉しない。


その夜、山の月明かりが石の壁を照らす頃、ユリウスは火の残り火をチェックしに外へ出る。外の空気は冷たく、頬が痛くなるほどだが、星が綺麗に瞬いている。
「やっぱり、この里は空気が澄んでるな……」と呟くと、隣にエレノアの気配が。彼女もこっそり外に出てきたようで、「ほんとね、綺麗……」と肩を並べて立つ。
少し震えるエレノアに、ユリウスは無言で自分のマントをそっと掛ける。エレノアが驚きながらも「ありがとう」と微笑み、「ねえ……火術で少しだけ温まれないの?」と冗談交じりに言う。ユリウスはちょっと苦笑して、掌にわずかな炎を灯す。
「これくらいの火なら、馬も驚かないし、大丈夫かな」
ほのかな赤い光が二人の間を照らし、やや寒さを和らげる。エレノアがクスリと笑い、「いい感じじゃない……。さながら恋人同士が暖を分かち合うみたい」と小声で囁く。ユリウスは動揺しながらも、「そ、そうだな……」と唇を引き結ぶ。だが、まんざらでもない気持ちが伝わってくる。

エレノアはそのまま、彼の肩に頭を預ける。「この旅が終わったら、また砦で日常に戻るのよね……。ちょっと寂しい気もするわ。こうしてあなたと二人きりの時間、悪くないと思ってるのよ」
ユリウスは心臓がどきどきと高鳴り、しかしその言葉を否定できない。「……俺も、エレノアと話すの、好きだよ。姉上には言えないことも話せるし」
そのまましばし、言葉が止まってしまう。馬の鳴き声が遠くからかすかに聞こえ、山の風が木々を揺らす音が二人の耳を満たす。小さな炎がユリウスの掌の上で揺れ、エレノアはそっとその炎を愛しそうに見つめる。「暖かい……。あなたは、ほんとに優しいのね」
「……ありがとう」
お互い照れ臭さを感じつつ、ほんの数秒だけ寄り添う。恋が芽生え始めた二人にとって、今が一番甘酸っぱい瞬間かもしれない。大仰な告白も、激しい愛の言葉もないが、それでも心が近づいている実感があった。


夜が更け、各々が眠りにつく頃、ユリウスはテントに入り横になる。隣には兵士がもう鼾をかき始め、使者もくたびれて横になっている。エレノアは別の女性陣の部屋を与えられているらしい。
「やれやれ……まだ先は長いか」
ぼんやりと天井の石を見つめながら、明日以降も火術師の里でいろいろ試練が待っているだろうと想像する。戦闘じゃなくても、人の心を動かすのは難しい。そこに介在するのは、火術の神聖か、それとも分散治世への疑念か――いずれにせよ、地道に交流を重ねるしかない。
(でも、エレノアが一緒にいてくれる。そのおかげで俺も頑張れる。……姉上とは違う、落ち着いた優しさがあるっていうのかな……)
胸の奥で小さな炎が灯るような感覚を抱きつつ、ユリウスは瞼を閉じる。**“恋”**というほど確信はないが、それに近い高揚感と安心感。そして、火術を平和に使う道を模索する新たな冒険が始まったばかりだ。

翌朝、里の長であるファエルスから「鍛冶の仕事を見学させてもいい」という連絡が入る。さらに使者のほうから「そちらの工芸品や金属加工と交流できるなら、経済協定を模索できるかもしれない」と希望が見えてきた。ユリウスとエレノアは顔を見合わせ、微笑む。
「この旅、もう少し続けることになりそうね」とエレノアが茶化すように言い、ユリウスは「うん、ちゃんと最後まで成果を出そう」と強い意志を示す。その姿にエレノアは心を打たれつつ、「よろしく、火術師殿」と軽く抱擁する仕草を見せ、周囲が「あらら……」と苦笑する。
それでも、誰も止めやしない。この二人の関係が微笑ましく映っているのだ。火術師の里にも、緩やかな春風が吹きはじめたような気配がある。

こうして、火術師の里訪問という小さな冒険が、ユリウスとエレノアの距離をぐっと近づけ、分散治世の一環として穏やかな協力関係を築く下地を作り出す。大規模な戦いこそないが、こうした地道な対話と交流こそが“戦わずに済む未来”を支える土台になっていることを、二人は改めて実感するのだった。

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