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Symphony No. 9 :EP1-3

エピソード1-3:エレノアとの出会い

 オート侯家の城は、カンタールの死後わずか数日の間に幾度も混乱に見舞われ、いまやその美しい石造りの壁面は痛々しい傷をあちらこちらに抱えていた。焼け焦げた跡や破損した窓、血の染みが残る床――それらは、新たな支配者を失ったオート侯家が直面する不安定さを、皮肉にもありありと示している。

 朝もやが立ち込める城内の中庭に、少女の歌声がかすかに響いていた。まだ人々が本格的に活動し始める前のひととき、ヌヴィエム・ドラングフォードは一人で小さく声を出し、音術の制御を練習している。
 声を震わせるようにして出す低い音、そして高音へ移行する際に伴う微妙な揺らぎ。そのすべてが、空気を伝わって周囲の石畳や草木をかすかに振動させていた。
 ヌヴィエムは深く息を吸い込む。まだ夜明けの冷たい空気が肺にしみるようだ。いくつかの音階を試すたび、城壁に小さな反響が生まれ、彼女の耳に戻ってくる。
(昨日の賊の襲撃……父の死……ガロード兄上の強硬な姿勢……。すべてが一度に押し寄せてくるようなこの状況で、あたしはちゃんと前を向けているのかな)
 ふと意識が雑念にとらわれ、歌声が乱れそうになる。ヌヴィエムは踏みとどまるように唇を結び、もう一度、穏やかなメロディを紡いだ。音術は感情に左右されやすいがゆえに、彼女は日々の鍛錬を欠かせないでいる。今朝の練習も、その一環だった。

 そんなヌヴィエムの耳に、控えめな足音が聞こえてきた。ふり返れば、羽織を着た侍従長が息を切らしながら彼女へ向かって近づいてくる。
「ヌヴィエム様、早朝よりご苦労さまです。こんな冷える時間にお外で……」
「大丈夫。あたしは少しでも体を動かしていたほうが落ち着くの」
「……そうでございますか。しかし、あまりご無理はなさらぬよう」
 侍従長は少し心配そうな表情を浮かべつつ、ヌヴィエムを見つめる。彼もまた、この数日で疲労が色濃くなり、目の下にはクマができていた。
「ところで、今朝方、客人が一人、城門を訪れられました。旅の魔術師を名乗る女性でして、ここ数日は城内で治療を手伝っておられるとか……」
「治療……? ああ、そういえば数日前の襲撃の時に、怪我をした兵士の手当てをしていた人がいたって聞いたわ。あれが彼女かしら」
「はい。ご存じでしたか。名前はエレノア殿と仰るそうです。どうやら正式にヌヴィエム様にご挨拶をしたいと希望されており……」
「エレノア……」
 聞き慣れない名だが、心当たりが全くないわけではなかった。父の葬儀の場で見かけた金髪の魔術師らしき女性――あれが彼女だったのかもしれない。何かと慌ただしく、まともに言葉を交わす機会すらなかったが、「あとでゆっくり話がしたい」と思っていたのを思い出す。
「わかった。じゃあ、案内していただける?」
「かしこまりました。ちょうど医務室のほうにおられるはず。お連れいたしましょう」

 こうしてヌヴィエムは侍従長に先導され、医務室へ足を運んだ。城の廊下を歩くたびに目に入る傷痕――壁に刻まれた剣の跡や砕け散った柱の破片――が、ここ数日の激しさを物語っている。しかし、その一方で使用人や兵士が懸命に修復を試みている様子も伝わってきた。ヌヴィエムはそれを見て、胸をかすかな希望で満たそうとする。
(少しずつでも前進できるはず……あたしの歌が、人々の力をまとめる助けになるなら……)


 城内の医務室は負傷兵や病人の治療に使われる場所で、最近は賊の襲撃が相次いでいるせいか、ほとんど休む間もなく人が出入りしている。さほど広くはない空間にベッドがずらりと並び、その間を医師や治癒術師が行き来していた。
 そこに一人、金髪の女性が立ち働いている。まるでドレスのように美しいローブを身にまとい、ショートボブの髪が動くたびに軽やかに揺れる。微笑みを浮かべながら、包帯を巻いている衛生兵に言葉をかける姿は、華やかで落ち着きがある。
「あら、ヌヴィエム様。お初にお目にかかるわけではないけれど、こうしてきちんとご挨拶するのは初めてね」
 女性はヌヴィエムが入室したのに気づくと、軽妙な口調で言いながら、小さく会釈をした。ゴールドの瞳がヌヴィエムを捉え、その奥には親しみと知性が同居する印象を与える。
「あなたがエレノア……よね? 治癒魔術などで兵士たちを助けてくれていると聞いたわ。ありがとうございます」
 ヌヴィエムは一瞬、彼女の美貌に圧倒されながらも、丁寧に言葉を返す。エレノアはにこりと笑って首を振る。
「いいのよ。私が滞在している間に襲撃があったから、自然と手を貸す流れになっただけ。もともとは旅の途中だったのだけれど、こんなに混乱していると聞いて放ってはおけなかったの。私も因縁浅からぬ土地なのよ」
「因縁……? あなたはどこかで父上やオート侯家と繋がりがあったのかしら」
 ヌヴィエムが尋ねると、エレノアは軽やかに笑みを浮かべる。それはどこかはぐらかすようでもあり、興味をそそる仕草でもあった。
「さあ、どうかしら。いずれお話しする機会があるかもしれないわ。とにかく、今は私が多少なりとも手助けできることがあれば嬉しいの。それに、あなたの歌声……噂で少し聞いたけれど、興味があるのよね」
「歌声に……興味?」
「ええ。あなたの“音術”っていうのかしら? 私も火術や幻術を扱う身だけれど、音を介して感情や場の“リズム”を支配する力というのは、すごく珍しいと思うわ。うまく活かせれば、兵士の士気を高めたり、相手の心を揺さぶったりできる。戦わずに勝つ方法のヒントにもなるかもしれない。そう思わない?」

 エレノアは言葉を選ぶように唇を動かし、その整った顔立ちに強かな自信をのぞかせる。ヌヴィエムは、彼女がたんなる“お節介好きの魔術師”ではなく、相応の知識や経験を積んだ人物だと感じ取った。
(火術や幻術を扱っているのか……。しかも、私の音術にまで詳しそう。旅人って言うけれど、ただ者ではないわね)
 ヌヴィエムは内心でそう思いながら、素直に礼を述べる。
「確かに、あたしは音術を使えます。でも、まだ完全には制御しきれていないんです。戦闘で使うことはあっても、もっと大きな規模で……たとえば、民衆をまとめたり、敵対する勢力に一種の“交渉”として作用させたりするには、まだまだ至らないところが多くて」
「そこは私にも協力できるかもしれないわ。火術だけじゃなく、幻術などで場の雰囲気をコントロールする戦略なら、多少の経験がある。もしよければ、あなたと一緒に試行錯誤させてちょうだい?」

 エレノアの提案に、ヌヴィエムは驚き半分、嬉しさ半分といった表情になった。オート侯家の中には魔術師もいるが、ヌヴィエムほどの音術を扱う者はいないし、ましてやそれを活かす戦術となると未知の領域だ。
「ええ、ぜひお願いします。今のあたしは、父を失い、兄弟との対立もあって、何をどうしていいかわからない状態……。そんなときにあなたみたいな人がいてくれると、とっても心強いわ」
「いいわよ。私もこの混乱のなか、あなたがどうやって前へ進んでいくのか見てみたいの。もちろん、時にはちょっとした悪戯心で幻術を使って、あなたをからかうかもしれないけど……そこはご容赦ね」
「ふふ、了解。……からかうのは、ほどほどにね」

 二人は軽い冗談を交わし合いながら、互いの存在を確かめるように笑みを交わす。医務室の周囲には負傷兵や医師たちが忙しなく動き回る様子があり、決して穏やかな状況ではない。だが、その喧噪の中で芽生えつつある協力関係は、ヌヴィエムにとって何よりも貴重な希望の光となりそうだった。


 医務室を出た後、エレノアは小休憩を取るために庭園に向かうという。ヌヴィエムもそのまま一緒に足を運ぶことにした。かつては美しい花と噴水で彩られ、父カンタールが散策を好んだというこの庭園も、最近の混乱で手入れが行き届かず、枯れかけた草や折れた枝が目につく。
 それでも、優しい日差しを浴びた庭にはまだ彩りが残っている。雑草の間から咲く白い小花や、石像の周りを飛び回る小鳥の姿――そんな小さな生命を見つけるたびに、ヌヴィエムは思わず胸をほころばせる。
「ここは……お父様が好きだった場所なの?」
 エレノアが噴水の縁に腰かけながら問う。
「ええ。父上は統治の合間によく散歩をして、ここで考え事をしていたみたい。あたしも幼い頃、何度か手を引かれて歩いた記憶があるわ。その頃は花がもっと咲き乱れていたの」
「そう……。きっと、平和な時代だったのね。あなたも、もう少しゆっくりと子どもでいられたはずなのに」
 エレノアの言葉には、一瞬だけ悲しみの色が混じる。ヌヴィエムは「子どもでいられたはず」というフレーズに胸が苦しくなる。現実には、父が亡くなった時点で少女の時間は半ば強制的に終わりを告げたようなものだ。
「でも、あたしは後ろばかり見ていられない。父上が守ろうとしたものを……守りたい。この家がどうなっていくのか、あたし自身が見届けたいの」
「そうね。それがあなたの強さ。私もそんなあなたに興味があるの」

 エレノアはローブのポケットから小さな水晶玉を取り出すと、それを手のひらで転がしながら言う。金色の瞳が妖しく光り、彼女の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「あなたは私に“からかわないで”と言ったけれど、ちょっとだけ魔術を使わせて。あなたがどんな可能性を持っているのか、少し見てみたいから」
「どういうこと……?」
 ヌヴィエムが問い返すより先に、エレノアは水晶玉をクルリと回転させ、その表面に淡い光を走らせる。すると水晶玉の中に、瞬くような星の光が生じ、そこから細い光の線がヌヴィエムへ向かって伸びた。
 一見、何の害もなさそうだが、ヌヴィエムは体がふわりと軽くなるような、不思議な感覚に包まれる。まるで夢の中にいるような感覚だ。
「これは……幻術の一種?」
「ええ。あなたの心に直接作用はしないから、恐れなくても大丈夫。あくまで周囲の風景を少し歪ませて、イメージを可視化するの。さあ、目を閉じて。頭の中に思い浮かぶ景色を……あなたの“音”で表現してみて」
「音で表現……?」

 ヌヴィエムは言われるがままに目を閉じる。冷たい風が頬を撫で、庭園の小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。その上で、自分の呼吸と胸の鼓動に意識を集中した。
(心に浮かぶ景色……あたしは何を思っているの……?)
 まず浮かんできたのは、父カンタールの笑顔。しかし、それはすぐに夜襲で傷ついた城の姿や、ガロードの怒り、チャールズの冷笑に塗り替えられる。
 かすかな痛みと苦しみが胸を締めつけるが、ヌヴィエムは踏みとどまるように息を整える。思い浮かぶのは絶望だけではない。数日前に見た兵士たちの必死の戦い、そしてユリウスの優しさ、エレノアの温かい言葉。それらが心の中で渦巻き、混ざり合って何かの旋律を生み出しそうになる。
(あたしは、希望が欲しい……。誰もが生きられる世界がいい。戦いをなくすことはできないかもしれないけれど、戦わずに勝つ方法だってあるはず。音術が、その手がかりになるなら……)
 ヌヴィエムは小さく口を開き、ハミングのような声を出し始める。それは最初、不安定で、どこか掠れた音色。けれど、一息ごとにクリアになり、次第に彼女自身の感情を吐露するかのような柔らかいメロディへと変わっていく。
 気づけば、周囲の空気がまるでゆったりとした波紋を描くように震え始めていた。エレノアの幻術が微妙に共鳴し、庭の景色が淡くぼやける。その隙間に、花の幻影や光の粒子が漂い出し、現実とイメージの境界を曖昧にしていく。
「ふふ……きれい」
 エレノアの囁きが聞こえる。ヌヴィエムは歌いながら目を薄く開け、宙に舞う光の帯を見つめた。自分の声が作り出した波長と、エレノアの幻術が融合して、夢のような情景を生み出している。
(こんなふうに戦場や人々の心を包み込めたら……きっと、争いよりも協力や絆を引き出せるかもしれない)
 ヌヴィエムはそう思いながら、さらに声を高めてゆく。だが、そのとき突然、頭に鋭い痛みが走った。
「あ……っ!」
 意識が一瞬飛びそうになり、メロディが途切れる。幻影がゆらりと崩れ、光の帯がかき消えるように消失していった。エレノアが慌てて水晶玉を手のひらで押さえる。
「ヌヴィエム、大丈夫?」
「ごめんなさい……うまく制御できなくて……」
 ヌヴィエムは息を切らしながら膝をつく。頭痛はしばらく治まらない。どうやら、音術と幻術の相乗効果を試みた結果、負荷がかかりすぎたようだ。
 エレノアは苦笑いしながら、そっと彼女の背に手を当てた。
「やっぱり、少し焦りすぎたわね。あなたは音術そのものを使いこなすにはまだ慣れていないし、私の術と合わせるならもっと段階を踏まなきゃ」
「うん……そうだね。でも、なんとなくわかった。あたしとあなたの術を合わせれば、ただでさえ強い影響力を持つ音術を、もっと大きく、いろんな形で活かせるんだって……」
「そうね。慣れていけば、これが戦争を止める手段になるかもしれない。もちろん、そのためには乗り越えなきゃいけない障害がたくさんあるだろうけど」

 エレノアは微笑みながらヌヴィエムの手を取り、噴水の縁に座るよう促した。優しい視線に導かれ、ヌヴィエムは深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
「ありがとう、エレノア。すごく不思議な体験だったわ。あたしの頭の中のイメージが、あんなふうに具現化するなんて……少し恥ずかしいけど、きれいだった」
「ふふ、もっと慣れれば“演出”としても使えるかもしれないわよ? 例えば、大きなステージで歌を歌うとき、観客を一瞬で魅了できるような」
「ステージ……? あたしは貴族として、領地をまとめる方法が欲しいだけで……」
「いいじゃない。アイドル活動でも何でも、民衆の前に立って歌を歌い、人々を一つにまとめる。政治の場で演説するだけがリーダーシップじゃないでしょう?」
 エレノアの言葉は軽妙でセクシーな響きを帯びつつも、そこに含まれるアイディアは明確だ。ヌヴィエムの音術を、単なる戦闘技能や儀式の道具としてだけではなく、人々の心を動かす“舞台パフォーマンス”へと昇華させるビジョン。
(アイドル……そういえば、先日あたしが城下の酒場で見た人々の一体感も、歌や踊りが作り出していた。あれって、すごい力だよね。あたしの音術と結びつけられたら……)
 ヌヴィエムは一瞬、照れ混じりの興奮を覚えながら、将来の展望を思い浮かべる。チャールズやガロードのように武力を誇示するだけでなく、人々の心を結集し、対立を解かせる手段――それこそが彼女の理想かもしれない。
 そっと噴水に手を伸ばすと、冷たい水が肌を刺すように感じる。けれど、それは気持ちを引き締める効果もあった。
「わかった。あたし、あなたの提案を本気で検討してみる。きっと、父上だったらこんなやり方を“面白いじゃないか”と笑ってくれそうな気がするわ」
「そうそう。それでこそ私も協力のしがいがあるわ」
 エレノアは楽しげに笑ってみせる。そんな彼女の姿を見て、ヌヴィエムは心が少し軽くなる思いがした。


 その日の午後、ヌヴィエムとエレノアは城下町の様子を見に行くことにした。父カンタールの死後、たび重なる襲撃で人々は怯え、商店は店を閉じ、通りを行き交う人影もまばらであると聞く。実情を自分の目で確かめなければ、何も始まらない。
 ヌヴィエムは護衛の兵士を連れて行くのを最初は嫌がったが、万が一のことを考え、最終的には侍従長の説得を受け入れた。
「護衛が多いと、かえって民衆に威圧感を与えるかもしれないけど……仕方ないよね」
「ええ、私もあまり物々しいのは好きじゃないけれど、今の状況なら仕方がないわね」
 エレノアが苦笑いしながら答える。金髪のショートボブが風に揺れ、ローブの裾が通りの砂ぼこりを払う。

 城下町へ足を踏み入れると、やはりそこは閑散としていた。かつては賑わいを見せた露店や宿屋も、シャッターが下ろされていたり、主人が店先で不安げに外を眺めていたりする。行き交う人々も、その顔には疲労と警戒が滲んでいた。
「……皆、怯えているのがよくわかるね」
 ヌヴィエムは心苦しそうに呟く。自分たちの行列が通ると、人々はさっと距離を取り、路地裏に隠れてしまう者すらいる。まるで、偉い人間が通ること自体に恐怖を感じているかのようだ。
「カンタール様が生きていた頃は、もっと活気があったと聞いたけれど……。やはり死後、何もかもが崩れかけているのかも」
「そう簡単には戻らないわ。だからこそ、あなたがどうやって民衆に“安心”を与えられるかが鍵になるの。ガロードのように武力で押さえつけるんじゃなくて、心を掴むやり方……探してみましょう?」
 エレノアの言葉に、ヌヴィエムは静かに頷く。心を掴む。確かに、敵対者をもねじ伏せるほどの武力や術力があれば簡単に支配はできるかもしれない。しかし、それでは父の目指した世界とは遠い。
「……ねえ、あそこの宿屋、まだやってるみたいだよ」
 ヌヴィエムが指差した先には、小さな木造の建物があった。扉が半開きになっており、窓からちらりと明かりが漏れている。兵士たちが周囲を警戒しながら、ヌヴィエムとエレノアを先導する。
 扉を開けて中に入ると、宿屋の主人と思しき中年の女性が驚いた顔で立ち上がった。店内にはほとんど客がおらず、テーブルや椅子は埃をかぶりかけている。
「お、お嬢さま方……城の方でございますか……?」
「はい、ヌヴィエム・ドラングフォードと申します。少しお話を伺いたくて」
 ヌヴィエムが丁寧に頭を下げると、女性は慌てた様子でお辞儀を返す。
「こんな辺鄙な宿にまで……恐れ多い。じつは、ヤーデ伯領から最近、ならず者の一団が流れ込んでくるとかで……お客さんが来ないうえに、皆が怯えて店も開けられないんです」
「やはり、そうなんですね……。父が亡くなってから、城下に襲撃をかけてくる賊も増えたみたい。領地が弱っているのを見て、色々と入り込んでくるのかもしれない」
 ヌヴィエムは胸を痛めながら、主人の話に耳を傾ける。傍らでエレノアが優しい声をかける。
「あなたも怖いでしょうけど、どうにか踏みとどまっているのね。偉いわ。今は物資の流通も滞りがちでしょう? 何か困っていることはある?」
「あ、ありがとうございます……そうですね、米や薬の在庫が心許なくて……。それに、うちの宿屋には旅人が集まることで町が賑わったのですが、今は……」
 女性は暗い表情で言葉を詰まらせる。ヌヴィエムはそこで思い立ち、護衛兵の一人に指示を出した。
「城の倉にある余剰の米袋や薬草を、こちらに分配することはできないかしら。もちろん、大量とはいかないだろうけど、必要最低限でもお渡ししたいの」
「わかりました、ヌヴィエム様。ただ、今の城内もあまり余裕があるわけでは……」
「それでもいい。多少なりとも助け合わなければ、街は再生しないわ。それに、今は何より人の心を少しでも落ち着かせることが大事……」
 ヌヴィエムの言葉に、兵士は複雑そうな顔で一礼する。確かに城の物資も潤沢とは言いがたいが、少なくともできる範囲でやっていかなければ、領民の信頼は得られないだろう。

 宿屋の主人は目を潤ませながら、「ありがとうございます……」と繰り返した。ヌヴィエムはそれを聞きながらも、まだまだ物資支援だけでは根本的な解決にならないと感じていた。
 エレノアが後ろで微笑みながら、そっとヌヴィエムの肩を叩く。
「いいのよ、それで。あなたは優しさだけで動いているわけじゃない。確かな計算と信念があるはず。これからも地道にやっていきましょう」
「うん……。ありがとう、エレノア」


 宿屋を出て、通りをさらに奥へ進もうとしたそのとき、突然激しい悲鳴と怒号が町の一角から沸き起こった。
「火事か!?」
 護衛兵たちが慌てて駆け出し、ヌヴィエムとエレノアも後に続く。町の大通りを曲がった先、やや広場になっている場所に差し掛かると、そこには混沌とした光景が待ち受けていた。
 複数の黒ずくめの男たちが、武器を手に住民たちを脅しつけている。男たちの足元には、明らかに術で焼かれた痕跡や倒れた兵士の姿があった。どうやら城下を守る兵が少人数で巡回していたところを急襲されたようだ。
「ひいっ……助けて……!」
「大人しくしろ! こいつを斬り殺されたくなかったらな!」
 男の一人が、捕らえた住民の首元に剣を当てがっている。恐怖に震える住民たちの眼差しが、絶望の色を帯びていた。
「許せない……また賊の仕業……!」
 ヌヴィエムの護衛兵たちは武器を構えて一斉に突撃しようとするが、人数が足りないことと、人質がいることが行動を阻む。
 すると、黒ずくめの男の中に一人、杖を持った術士らしき人物が前へ進み出た。杖の先から火の玉が浮かび上がり、周囲に殺気を漂わせる。
「城の兵が来たか。かまうもんか、ぶち殺せ!」
 術士が火球を放ち、護衛兵たちはとっさに身をかわすが、広場の石畳が割れ、炎が激しく舞い上がる。思わず周囲の住民が悲鳴を上げ、逃げ惑おうとするが、人質を取られているため満足に動けない。
(どうすれば……)
 ヌヴィエムは焦りのあまり足がすくみそうになる。下手に音術を放てば、人質まで巻き込む危険がある。しかも火の術士がいる以上、こちらが近づくのも容易ではない。
 だが、その横をスタスタと歩いていく人影があった。エレノアだ。まるで相手を挑発するように堂々と歩み寄り、腰に手を当てながら口を開く。
「あらあら、ずいぶんと荒っぽいわね。ここはオート侯家の領地よ。勝手に暴れられちゃ困るんだけど?」
「は? 何者だ、お前」
 火の術士が敵意むき出しの目でエレノアを睨む。彼女はまったく動じる気配なく、妖艶な笑みを浮かべながらそっと杖を取り出した。杖というよりは宝石をあしらった短いロッドに近い形状だ。
「私? ただの旅の魔術師よ。あなたたちみたいに、人を傷つけるための術は好きじゃないんだけど……まぁ、仕方ないわね。あなたがそういうなら、私もちょっと……“遊んで”あげる」
 エレノアがロッドを一振りすると、空気がざわめき、光の粒子が舞い始める。火の術士は警戒し、「先に攻撃しろ!」と仲間たちに合図する。黒ずくめの男たちが一斉にエレノアへ斬りかかろうとした瞬間、視界が一変した。
「ぐあっ!? なんだ……目が、目がチカチカする……!」
 突如として広場全体が白い霧のような光に包まれる。霧の中から鮮やかな花や蝶の幻影が飛び回り、男たちの判断を狂わせる。
「やばい、こいつは幻術か……!?」
「冷静になれ! 斬りかかれっ……が、どこだ!?」

 男たちは斬りかかろうとするが、足元が揺らぐような錯覚に陥って思うように進めない。さらに光の蝶が彼らの周囲を飛び回り、身体感覚を混乱させる。火の術士が再び火球を生み出すが、幻影のせいでターゲットが定まらないのか、むやみに空を焼くだけに終わった。
「すごい……これがエレノアの幻術……!」
 ヌヴィエムは思わず息を呑む。先ほど庭園で体験したものより格段に強力だ。エレノアは光の蝶を自在に操りながら、悠然と男たちの懐へ近づいていく。
「さて、ここからはちょっとだけ火も使わせてもらうわね」
 そう言うと、ロッドの宝石が赤く光り、エレノアの掌に小さな火の球が生じる。それは火の術士ほど大きな威力はないかもしれないが、相手の顔面に直撃するには十分だ。
「うわっ……あ、熱い!」
 火の術士が慌てて顔を覆った隙に、エレノアは素早く横へ回り込み、体のバランスを崩させるようにロッドを叩きつける。華奢に見える体つきだが、その動きは実戦慣れしたものだ。
「まだまだよ。仲間を呼ぶ余裕はないんじゃない?」
 エレノアは男の腕を捕まえ、ロッドから放たれる小さな閃光で視界を奪いながら、そのまま地面へと投げ飛ばす。
「ぐあっ……お前、ただの女じゃ……!」
「ええ、ただの女じゃないわよ」

 その一方で、残りの黒ずくめの男たちも幻術の霧の中で方向を見失い、手探り状態になっている。ここでヌヴィエムがようやく“自分の役割”に気づいた。
(エレノアが動きを封じてくれている間に、あたしの音術でさらに混乱させれば……)
 ヌヴィエムは腹の底から声を出し、小さく歌い始める。広場の構造が音を反響させ、男たちの耳に錯乱を与えるような揺らぎを注ぎ込む。
「う、うわ……頭が……!」
「なんだ……この声は……!」

 黒ずくめの男たちがふらつき、人質を離して耳を塞ぐような仕草を見せる。その隙に、ヌヴィエムに付き従う護衛兵たちが駆け寄り、人質を解放して安全な場所へ誘導した。
「今よ! 一気に取り押さえろ!」
 護衛兵の掛け声に応えるように、兵たちが男たちを取り囲む。エレノアの幻術が少し薄れ、現実の景色が戻り始めると同時に、黒ずくめの集団は完全に包囲されてしまった。慌てた男たちが剣を振り回すが、護衛兵たちは訓練された動きで相手を制圧する。
 やがて、息も絶え絶えになった火の術士が、「ちっ……ヤーデ伯様が……オート侯家はもう……」と悔しそうに呟くが、その言葉の続きを言う前に護衛兵に口を塞がれる。
「ヤーデ伯……やはり、チャールズの差し金かもしれないわね」
 エレノアが呟くのを聞きながら、ヌヴィエムは心の底に怒りと悲しみが湧き上がるのを感じる。もし本当にチャールズが関わっているのだとすれば、オート侯家を完全に潰そうとしているのだろうか。
(でも、あたしたちだってやられっぱなしじゃない。こうして力を合わせれば、まだ勝機はある)
 息を整え、ヌヴィエムは広場の中央に立った。解放された住民たちが、安堵の表情で彼女を見つめている。
「皆さん、もう大丈夫です。ごめんなさい、もっと早く駆けつけられれば……。これ以上こんなことが起こらないように、あたしも努力します」
 短い言葉ではあるが、その声には芯の強さがこもっていた。住民たちの一部から、「ありがとうございます……」という声が自然と漏れ、ヌヴィエムの胸を熱くする。
 エレノアはそんなヌヴィエムの姿を横目で見やり、ロッドを片手にふっと笑みを浮かべる。
(なるほどね。これなら、本当に“新しい可能性”を切り開けるかも)


 襲撃の賊たちは護衛兵によって捕縛され、城へと連行されることになった。広場に残った住民たちは、恐怖から解放された安堵と、ヌヴィエムとエレノアへの感謝の気持ちが入り混じった表情を見せる。
 ヌヴィエムは近くの馬車に乗せられた負傷兵を見送り、再びエレノアの隣に戻ってきた。陽光が傾きかける町の通りは、少しずつ活気を取り戻しつつあるように見える。
「ありがとう、エレノア。あなたがいなかったら、きっともっと被害が大きくなっていたわ」
 ヌヴィエムが素直に感謝を伝えると、エレノアは肩をすくめて笑う。
「そんなに大したことしてないわよ。あれくらい、私の術なら朝飯前……と、言いたいところだけど、実際は結構体力使うのよ? あとで甘いお菓子が欲しいかも」
「ふふ、わかったわ。城に戻ったら用意させる。……でも、本当にあなたが来てくれてよかった。あたし一人じゃ、とても無理だったもの」
 そう言ってヌヴィエムはしみじみと息をつく。彼女が音術を駆使しても、相手に火の術士がいればどうしても限界がある。だが、エレノアの幻術や臨機応変な立ち回りが加わることで、戦況を一気に引き寄せることができたのだ。
「こうやって実際にコンビを組んでみてわかったでしょう? あなたの音術と私の幻術は相性がいいの。お互いの弱点をカバーできるし、それぞれが狙う効果も違う。統率力を高める音、視界や知覚を攪乱する幻。組み合わせれば相当強力になるわ」
「うん、そう思う。……あたし、この先もあなたと一緒にやっていきたい」
 ヌヴィエムの率直な言葉に、エレノアは満足げに微笑む。その瞳には、軽妙な雰囲気の奥に熱い知性が宿っていた。
「もちろん。私もあなたに興味があるし、あなたが“戦わずに勝つ”道を見つけるなら、ぜひ立ち会ってみたいわ。とはいえ、私自身も火や幻術で派手に戦うのは嫌いじゃないのよ? ここぞというときは存分に力を使わせてもらうわ」
「頼もしい。あたしも、あなたの力をもっと理解したい。どういうふうに幻術を扱えば、戦場以外にも役立てられるかとか。将来的には、大勢の前でパフォーマンスをする機会もあるかもしれないから……」
「あら、それこそ私の得意分野かもしれないわ。“魅せる”戦術や舞台演出は大歓迎よ。ちょっとセクシーな演出も入れちゃうかもしれないけど、そこのところは……ふふ、期待してね」
「そ、そっちの領域はあまり得意じゃないかも……」
 ヌヴィエムは顔を赤らめながら笑い、エレノアも「うふふ」と柔らかい声を立てる。物々しい護衛兵たちに囲まれてはいるが、二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。


 城へ戻る途中、夕焼けに染まる空を見上げながら、ヌヴィエムは今日の一連の出来事を振り返っていた。エレノアとの出会いと共闘、そして賊の襲撃の排除。ほんの少しではあるが、城下町に安堵を取り戻すことができた実感がある。
(ガロード兄上やベルトラン兄上は、あたしのやり方を“甘い”と笑うかもしれない。でも、あたしはこうやって少しずつ信頼を積み重ねたい。チャールズや偽ギュスターヴ……エッグの暗躍にも対処していかなきゃいけないし、まだまだ課題は山積み)
 それでも、音術を活用して人々の心を結ぶ道がきっとあるはず。父カンタールがそれを感じ取っていたように、ヌヴィエムも今、その可能性を確かに肌で感じていた。
 エレノアが「ねえ、ヌヴィエム」と声をかける。
「何?」
「あなたがもし当主になる道を選ぶなら、政治や外交も勉強しなきゃいけないわ。でも、それだけじゃだめ。“犬の子”と呼ばれてきた過去の蔑称を、あなた自身が超えなくちゃいけない。音術を使って、あなたがどんな未来を描くのか、みんなに示す必要があるの」
「わかってる……。あたし、実はずっと“犬の子”という言葉に囚われていたんだ。父上がいてくれた頃は守ってくれたから、何とかやっていけたけど、今はもう自力で乗り越えなきゃいけない」
「そう。あなたは強い子よ。だからこそ、私もついていく価値があると思ってる」

 二人は城門の前で足を止め、少しのあいだ互いの顔を見つめ合う。日が暮れかけているが、空はまだうっすらと赤紫色に染まっており、石造りの城壁に長い影が伸びている。
 ヌヴィエムは静かな声で言った。
「あなたと出会えてよかった。もし、よろしければ城に滞在してほしい。何かあったらすぐに助け合えるように……。もちろん、あなたの自由は尊重するから」
「いいわよ。しばらくはここで過ごしましょう。魔術師の私としても、オート侯家には興味深い術や記録が残っていそうだし、何よりあなたの音術をもっと間近で見たいもの」
 エレノアはウインクを一つ送り、軽やかに笑う。その仕草にはどこか妖艶な魅力があり、ヌヴィエムは一瞬ドキリと胸が高鳴る。こんなにも堂々としていて、自分とはまったく違うタイプの女性が傍にいてくれるのは、心強さと刺激の両方を与えてくれそうだ。
「じゃあ、これからよろしくね。エレノア――私の大切な“参謀”になってほしい」
 ヌヴィエムがそう言葉を紡ぎ、手を差し出す。エレノアはその手を握り返し、薄く微笑んだ。
「ええ、喜んで。私はあなたの“自称・最高の参謀”になってあげる。ま、恋愛相談から戦闘プランまで、何でも引き受けるわよ」
「あはは……それは頼もしいわ」

 夕暮れの城門を潜り抜け、二人は仲間として、友人として、そして師弟のような絆を結び始める。暗い現実の中にも確かな灯火がある――ヌヴィエムは今、その光をしっかりと掴もうとしていた。


 翌日、エレノアは自室として与えられた城の一角に落ち着き、荷物を整理していた。旅を続ける身なので荷物は多くないが、魔術の研究に使う書物や各種の道具は並々ならぬ量である。
「さて、しばらくここで骨を埋めるのも悪くないかもしれないわね。ヌヴィエムがどんな道を切り拓くのか、間近で見届けるのも面白そう」
 広げた本の一冊には、火術と幻術を組み合わせた高度な術式が書かれている。エレノアはそれにさらりと目を通しながら、ふと微笑んだ。
「“戦わずに勝つ”……そんなうまい話があるのかどうか。でも、この子なら本当にやりそうな気もするわ」

 一方、ヌヴィエムは自室の机で書簡を広げていた。父カンタールが残したメモの断片を改めて読み返し、そこに記された「音術による未来の可能性」という言葉に思いを馳せる。
(あたしは父上の言葉を継いで、戦いが絶えないこの世界を何とか変えたい。エレノアが加わってくれた今、心強い。一緒に模索していけば、いつか必ず道が見えてくるはず)
 ドアをノックする音がして、ヌヴィエムの末弟ユリウスが恐る恐る顔を覗かせた。
「姉上、少しよろしいですか……?」
「ユリウス、どうしたの?」
「その……昨日のことなんですけど、エレノアさんの幻術、すごかったですね。僕、ただ呆然と見ていました。あんなふうに華麗に戦えるなら、姉上も安心……」
「あなたはあなたで、剣術を極めているじゃない。ネーベルスタンのところに行って、もっと修行をしてくるといい。あの人なら、あなたに“守るための剣”を教えてくれるって、父も言っていたわ」
「はい……でも、僕は本当に姉上の力になれるんでしょうか。術が使えないし、ガロード兄上やベルトラン兄上みたいに政治も得意じゃないし……」
 ユリウスの声は弱々しい。まだ十三歳の少年には重すぎる現実なのかもしれない。だが、ヌヴィエムは優しく微笑んで弟の頭を撫でた。
「大丈夫。あなたはあなたの道を歩けばいい。剣を極めて、いざというときに私たちを支えてくれれば。それに、エレノアもいるから安心して」
「……はい。僕、頑張ります。姉上を守れるくらい強くなってみせます」
 ユリウスの瞳にわずかな決意の色が宿る。それを見守るヌヴィエムも、弟の存在が自分の支えになることをはっきりと感じていた。


 こうして、エレノアという新たな魔術師の協力を得たヌヴィエムは、まだ幼く未熟ながらも、一歩ずつ前進を始める。闇を抱えるヤーデ伯チャールズとの対立や、異母兄ガロードとの確執、そしてエッグの暗躍という大きな脅威。
 不安要素は山ほどあるものの、“犬の子”と呼ばれた少女は、父が遺した可能性――音術による未来を紡ごうと決意を固める。エレノアとの出会いは、その第一歩となる大きな転機だった。

 誰もが知り得ない未来が待ち受けるなか、ヌヴィエムの歌声とエレノアの幻術が交わることで、新たな風がオート侯家に吹き始めていた。いつかこの風が嵐を巻き起こすのか、それとも穏やかに新時代を運んでくるのか――それは、まだ誰にもわからない。しかし、ひとつだけ確かなことがある。
 ヌヴィエムの心にはもう、絶望と復讐心だけが渦巻く空洞ではなく、仲間を得た喜びと希望の光が差し込んでいるのだ。

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