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天蓋の欠片EP12-3

Episode 12-3:蒔苗の別れ

夜明け前、まだ薄暗い空にぼんやりと橙色の光が広がり始めている。ユキノは、自宅の窓からそんな空模様を見つめていた。戦いの日々から解放され、学校へ戻る決心をし、痛みもかなり和らいだ――そんな束の間の平和のはずなのに、胸の奥には何故か落ち着かない感覚がある。
「……なんだろう、この胸騒ぎ」
小さくつぶやいてみても、応える声はない。観測者・蒔苗の干渉は、もうほとんど感じない。拒絶の決断をしてから、彼女は公の場に現れなくなり、戦闘にも介入してこなかった。まるでこの世界に興味を失ったのか、それともさらなる“終了”を準備しているのか――誰にも分からないまま時が過ぎている。

ユキノは額に触れ、微かな冷や汗を拭う。以前ほどの激痛はないが、身体の内部にはまだ戦いの痕跡が残り、ときどき胸が締めつけられる。もしかしたら、蒔苗の存在を無意識に探しているのかもしれない、とユキノは自嘲する。「あんなに拒絶したのに……まだ気になるなんて、変だよね」と苦笑しながら、窓を開け放つと冷たい朝の風が吹き込んできた。


その同じ日の朝、ユキノはついに学校へ戻る。一部の授業を受けるだけとはいえ、制服に袖を通して登校するのは実に数ヶ月ぶりだ。両親の送り出しを受け、玄関先で深呼吸をして外へ出る。
町並みは柔らかな朝日を浴びて輝き、通学路には制服姿の生徒たちが並んで歩いている。ユキノがその列に混ざると、道行く友人や下級生が「あれ、ユキノじゃん!」「おかえり!」と笑顔を向けてくる。
「みんな、ありがとう……」
ユキノは痛みを抱えながらも笑顔で応じる。その一つひとつが嬉しかった。普通の学園生活――シンプルな通学路がこんなに懐かしく、暖かい場所に感じられるなんて、と感慨深い。

校門を通り抜けると、クラスメイトのナナミが駆け寄ってきた。「ユキノー! 本当に復帰するんだね。ああ、よかった……ずっと心配してたんだよ」と弾む声で抱きしめようとするが、ユキノが「ごめん、まだ痛むからソフトに……」と苦笑し、ナナミは慌てて力を緩める。
ホームルーム前の時間に教室へ行くと、一斉に「久しぶり!」とクラスメイトが声をあげて迎えてくれる。ユキノは胸がいっぱいになり、思わず泣きそうになるが、耐えて笑顔を返す。「わたし……戻ってきたよ、みんな……」


同じクラスではないが、カエデも合間を見てユキノのクラスに顔を出してくれる。昼休みには学食で一緒にランチをとることにした。食堂のざわつき、友人同士の笑い声、それらが戦闘の現場とはまるで違う世界に思える。
「どう? 久々の学校は」
カエデがパスタをすすりながら笑顔を向ける。ユキノはハンバーグ定食を前に、うんと頷く。「わたし、こんなに普通の学食が愛おしいなんて……思わなかった。戦いばかりの時は、当たり前が一番遠いものに感じたから」
カエデは顔をほころばせ、「そうだよね。わたしも最初は不思議だったけど、人とふれあうってこんなに暖かいんだね。ユキノがいないあいだ、クラスのみんなも寂しがってたんだよ」と教えてくれる。

ユキノははにかみ、「あたしもみんなに会えなくて寂しかった。でも、まだちょっと怖い。戦いがまた起きて、わたしが巻き込まれるんじゃないかって……」と目を伏せる。カエデは手を伸ばしてそっと手を重ね、「もう大丈夫。降伏派もいるし、過激派は弱体化してる。観測者も動かない。もし何かあっても、わたしたちとタスクフォースで守るよ」と笑いかける。ユキノは小さく「ありがとう」と返す。


その日の夕方、授業を終えたユキノは、校舎の屋上へ行ってみた。人気のない場所で風が吹き抜ける。以前はよくここで朝焼けを見ては決意を新たにしたり、痛みに苦しんだりしていた。
金色の夕日がグラウンドを照らし、見下ろすと野球部やサッカー部が練習している。ユキノはフェンスにもたれ、ゆっくり呼吸を整える。(ここが……わたしの大切な場所だ。もう戦わなくていいなら、ずっとここで平穏を味わえるのに)
ふと、風に乗ってわずかな“虹色”が視界をかすめた気がする。ドキッとして振り返るが、そこには誰もいない。夕日に映えた薄雲がそれっぽく見えただけかもしれない。

(……蒔苗。あの子は今、どこで何を見てるんだろう)

ユキノは胸に小さく突き刺さるような痛みを感じる。かつては“観測者”として翻弄され、干渉を拒絶した。今も不安と隣り合わせだが、それでも彼女は“人間の手で世界を守る”と決意している――そして、その道を歩み始めた以上、もう後戻りはない。
「もし、もう一度会えるなら……話したい。わたしはまだ、蒔苗と本当の意味で分かり合えてない気がするから……」
声に出してみても、返事はなく、ただ風が背中を押すだけ。


翌朝、ユキノが登校しようとしているところに、アヤカから緊急の連絡が入る。「ユキノさん、朝早くごめんなさい。実は、観測者・蒔苗の反応が急激に弱まっているとのデータが出たの。タスクフォースの分析班が“観測崩壊”の可能性を指摘していて……」
ユキノは胸がざわつく。「観測崩壊……それって、蒔苗が“観測者”としての存在を消そうとしてるってこと? まさか“世界終了”じゃなくて、自分がこの世界から去るって意味……?」と息を飲む。
アヤカは苦い口調で言葉を続ける。「そうかもしれない。過去の理論では、観測者は干渉を維持するために一定の『関心』が必要だとされてる。ユキノさんが拒絶し、真理追求の徒も弱体化した今、蒔苗の“興味”がなくなっているとすれば、彼女が存在を消す可能性がある、と」

ユキノは学校に行く足を止め、「自ら……消滅するの? 観測者が……? それで世界への干渉はなくなるの?」と戸惑いの声を上げる。アヤカは曖昧に息を吐き、「分からないわ。もし“存在の消滅”が正しいなら、蒔苗がこの世界を捨てるという選択になる。それは嬉しい反面、何か別の影響があるかも……。わたしも詳しいことは把握できてない。とにかく、エリスさんと情報を集めてるところ」と言う。


それから夕刻、ユキノはアヤカやエリス、カエデと合流し、タスクフォース本部の分析班から詳細を聞く場が設けられる。部屋にはモニターがあり、蒔苗の観測波形とされるデータが映し出されていたが、確かに徐々に弱まっているというグラフが表示されている。
分析官が淡々と説明する。「観測者である蒔苗は、世界を“終了”できる力を持つ一方、自らも“干渉”を続けるためのある種の『観察行為』が必要と推測されていました。しかし、ここ数日でその行為が激減しており、あたかも『この世界に興味を失った』状態に見えます。もしこのまま進めば、蒔苗の存在は自然消滅へ向かうかもしれません」
エリスは腕を組んで難しい顔をする。「存在を消すというのは、本人的には“自分の意志”でそうしているの? それとも単に“観測の意義がなくなった”からか?」
分析官は肩をすくめ、「理論上はどちらとも言えますが、恐らく蒔苗が自ら選んでいる可能性が高い。彼女が興味を失い、世界終了も行わず、自ら干渉を断って“帰ろう”としてるとしか……」

ユキノは顔を伏せ、複雑な思いを噛みしめる。「蒔苗が……この世界からいなくなるの……? そんな……」と呟く。カエデが不思議そうに「あなた、拒絶したとはいえ、いなくなるのが嫌なの?」と尋ねる。ユキノは「……分からない。憎いはずの存在だったのに、完全に消えちゃうのは……なんだか切ない」と唇を噛む。


タスクフォース側からは「このまま蒔苗が消滅すれば、“世界終了”のリスクはゼロになる」という安堵の声が上がるが、ユキノは納得できず、「ちゃんと顔を合わせて話したい。なぜこの世界を見捨てるのか、最後に聞きたい……」と主張する。
エリスは苦笑しつつ、「まあ、あなたがそう言うなら、わたしも協力する。観測者を探すのは容易じゃないけど……もし本当に消える寸前なら、波動の乱れがどこかに出るかも」と賛同する。アヤカも「そうね。最後に一度会って、きちんと別れをするというのも悪くないかもしれない。タスクフォースとしても、消滅が危害を及ぼさないか確認したいし」と同意する。
カエデも「わたしも行くよ。ユキノひとりに負担かけたくない」と笑顔を見せる。こうして、四人で“蒔苗の最後の行方”を捜すことになった。かつては観測者に翻弄され続けた日々、今度は自分たちの意志で彼女を追いかけようというのだ。


捜索の末、タスクフォース分析班があるビル街の上空に“微弱な観測波”を察知したと報告が入る。ユキノたちは急ぎ現場へ向かい、かつて大きな戦闘が繰り広げられた廃ビル群の一角に車を止める。日が沈みかけ、街に夜の帳が下りようとしているころだ。
屋上へ上がると、予想した通り、虹色の光が薄く漂っていた。これは蒔苗が干渉している証拠――しかし、その輝きは以前のように強烈ではなく、消え入りそうにかすかなものだ。
「蒔苗……!」ユキノが息を飲みながら呼びかけると、虹色の輪郭が少しずつ人の姿をとり、プラチナブロンドの髪と虹色の瞳を持つ少女のシルエットが浮かび上がる。かつての力強さは感じられず、今にも崩れ落ちそうなほど不安定だ。
カエデ、エリス、アヤカも身構えるが、敵意はまったく感じられない。蒔苗の瞳は虚ろで、かすかな笑みを浮かべているようにも見える。「……あなたたち、来たのね」


ユキノは慎重に歩み寄り、蒔苗をまっすぐ見つめる。「蒔苗……あなた、本当に世界を捨ててしまうの?」と静かに尋ねる。蒔苗は無表情のまま瞳を伏せ、「捨てるというか、必要がなくなったのよ。この世界は私の観測がなくても、十分に“先”へ進むだろうから」と答える。
「観測者としてのあなたは……わたしたちをリセットしようと考えたこともあったよね。でも、結局しなかった。どうして?」ユキノがさらに問うと、蒔苗は少しだけ口元を歪める。「あなたたちが、思いのほか面白かったから。苦しみを背負い、痛みを抱えて、それでも自らの意志で戦い、和解を探す姿……。私は最後まで見届けた。でも、もうそれは十分に楽しませてもらったし、私が干渉しなくてもあなたたちはこの世界を切り開くのが分かったから……」
ユキノは歯を食いしばり、「楽しむって……勝手すぎるよ。わたしはあんたに翻弄されて、痛みも苦しみも味わって……でも、もうそれすら終わりってこと?」と絞り出す。蒔苗は瞼を閉じ、「ええ、終わり。私はあなたたちに興味を失ったわけじゃないけど、“観測”は終わりにする。だってもう、私が関わらなくても……あなたたち、人間は歩けるでしょう?」


エリスやカエデ、アヤカも息をのむように聞き入る。蒔苗の姿が薄れていくたびに、空気中の虹色の輝きが消えかけているようだ。
「あなたたちは私を拒絶して、自分たちの道を進んだ。痛みを乗り越え、真理追求の徒の暴走を止めようとし、和解を生んだ。……それがあなたたちの答えね。なら、私はもう不必要。私が干渉して、世界を終了する理由もない。……そういう意味では、“おめでとう”と言うべきかしら」
蒔苗が淡々と語る言葉は、厳しくも優しい響きを伴っていた。カエデは思わず涙を浮かべ、「そんな……それなら、あなたがいてくれたっていいじゃない。消えなくたって……」と訴える。蒔苗は微かに笑い、「それはあなたたちのエゴよ。私にとってはもう、ここに存在する意味がない。私は私の世界に戻るわ。0次宇宙……あなたたちの理解を超える場所に」

ユキノは胸の奥が締めつけられる。「……待って。それでも、わたしたち、まだあなたと分かり合えてない。もっと話せば……」と手を伸ばすが、蒔苗は首を左右に振り、「必要ないわ。あなたはすでに自らの意志で生きる道を示した。私があなたたちを終了しないのは、ただ“面白い”からとか、興味が薄れたから。それが観測者としての私の気まぐれだと、あなたは嫌がったでしょう?」と静かに反問する。
ユキノは何も言い返せず、苦しそうに目を伏せる。「でも、あたしは……あたしはあなたにただの道具扱いされたくなかった。でも、消えないでほしいなんて思うのも勝手かもしれないよ。でも……」と声を震わせる。

「最後に、“ありがとう”って言わせて。あんたがいたから、わたしはここまで強くなれた。拒絶したけど、それでもあなたに……ありがとうって言いたいんだ」
ユキノは涙をこぼしながらそう告げる。蒔苗は一瞬だけ驚いたように虹色の瞳を見開き、「……ありがとう、ね。私にはよく分からないけど」と微かに口元をゆるめる。そして、ユキノに背を向けるようにして、空を見上げる。「もう時間がない。私の存在はこの世界から消える。さようなら、ユキノ――カエデ、エリス、アヤカ、そしてすべての人間たち」


蒔苗が言葉を終えると同時に、その輪郭が虹色に淡く光り始め、ぼやけたシルエットが空気に溶け込むように消えかける。エリスが思わず「ちょっと待って、そんな突然!」と叫ぶが、蒔苗の姿はすでに透明度を増し、ほとんど見えない。
カエデも「蒔苗……!」と声を上げるが、何の返事もない。彼女の姿が完全に消え、跡にはわずかな虹色の残滓が漂うだけ。アヤカが乾いた息を呑み、「本当に……いなくなったんだね」と呟く。戦闘は起きなかった――蒔苗はただ静かに去った。
ユキノは突風に煽られ、立ち尽くす。「さよなら……蒔苗。わたしは、あんたにありがとうを言えてよかったよ……」と唇を噛みながら涙を流す。カエデが寄り添い、そっと手を握る。エリスは唇を噛み、「観測者が、わたしたちの世界を本当に捨てるなんて……」と呆然とする。アヤカも悲しげに目を伏せ、「世界終了もせず、助けもせず、干渉をやめるだけ……“彼女”なりの決断だったのね」と呟く。


蒔苗の消滅後、タスクフォース分析班が確認したところ、観測者に関する波形は完全にゼロになっていた。真理追求の徒が狙っていた“観測者の力”も、もはや存在しない。世界終了の危機は消滅し、人類は観測者に頼ることも怯えることもない時代へ移行しようとしている。
ユキノは痛む胸を押さえながら、それでも晴れやかな顔でエリスやアヤカ、カエデに言う。「わたし……戦わなくてもいい世界が来たんだね。もう二度と、蒔苗に翻弄されることもない。痛みも、わたしの力でどうにかしてみせる。あの子が去っても、わたしたちはわたしたちの未来を歩いていいって、そう思えるから……」
カエデは微笑み、「そうだよ。きっとこれから先、真理追求の徒の残党がどう動いても、蒔苗の力は得られないんだもの。わたしたち人間の問題は、人間同士で解決できる」と答える。エリスは肩をすくめ、「わたしはスパイ探しと探偵仕事に専念できるわけね。退屈しない日々になるでしょう」と冗談めかす。アヤカは苦笑しながら、「タスクフォースも、ようやく『観測者対策』に追われなくて済む。今度こそ降伏派との和解を進めて、組織改革に踏み切りたいわ」と意欲を見せる。

ユキノは一同を見回し、静かに決意を固める。「じゃあ……わたしたち、これから先は本当に、自分たちの力で世界を平和にしていくんだね。蒔苗がいなくなったってことは、そういうことだよね」
四人は交差するように視線を交わし、それぞれが微笑んで肯定する。「ああ、そうだ」とエリス。「ええ、そうなるわね」とアヤカ。「うん、わたしも協力する」とカエデ。ユキノは深く頷いて、「わたしも、もっと強くなる。戦うためじゃなくて、人を守るために。そして自分の痛みも、ちゃんと受け止めて生きるよ」と宣言する。

蒔苗の“別れ”――それは、圧倒的な力を振るう観測者が消え去り、人間の意志が主役になる世界へと移行する合図とも言える。過去の争いを引きずりながらも、ユキノたちは互いに手を取り合い、自分たちの未来を作り上げる覚悟を新たにした。まだ乗り越えなければならない問題は山積みだが、もはや観測者に翻弄される必要はない。

観測者・蒔苗が自ら“消滅”を選んだことで、世界終了の脅威は消え、真理追求の徒の野望も道を失った。
一方で、ユキノたちは痛みを乗り越えながら、学校生活と仲間たちとの絆を再構築し、タスクフォースは過激派の残党や内部改革と向き合い続ける。
“神のような存在”が去ったあとに残るのは、人間が自分たちの意志で未来を切り開くという重責。
そしてそこには、きっと穏やかな“平和な日常”が広がるだろう。ユキノ、カエデ、エリス、アヤカ――彼女たちは観測者の消滅に複雑な感情を抱きつつも、前へ進む。痛みや葛藤を抱えながら、それでも確かな明日へ向かう足音を響かせて……。


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