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天蓋の欠片EP1-3

Episode 1-3:予感
灰色の雲が低くたれこめる朝。天野ユキノは、自室のベッドで横になったまま、ぼんやりと天井を見上げていた。窓の外では時折、小雨がアスファルトを叩き、遠くからは車のクラクションや人々のざわめきがかすかに聞こえる。

昨夜、九堂エリスの探偵事務所で情報を共有し合い、「これから訓練を始める」という覚悟を固めて帰宅したユキノは、眠っている間も断片的な悪夢にうなされていた。真理追求の徒の黒い触手や、不気味な仮面、エリスが肩を傷つけられながらも必死に応戦する姿――そうしたイメージが頭から離れない。

「……はぁ……今日も学校かぁ。」

小さなため息とともに、ユキノはゆっくりとベッドから体を起こす。これまでなら「普通」に過ごせたはずの朝が、今はどこか違和感に満ちている。自分が“生成者の候補”であり、いつ再び狙われてもおかしくないという恐怖。そして、自分なりに“力を手に入れたい”と決心した不安が入り混じり、頭の中がまとまらない。

それでも――前に進むしかない。エリスが言っていたように、何もしなければ再び事件に巻き込まれたとき取り返しがつかないかもしれない。それがユキノの抱く、かすかな焦燥感の正体だった。

「よし、がんばるぞ……」

自分を奮い立たせるようにつぶやき、制服に着替える。鏡を覗き込むと、寝不足のせいか目の下にうっすらクマができていたが、無理に笑顔を作ってみる。――空元気でもいい。自分は弱いままでいるわけにはいかないのだから。

ダイニングへ降りると、母が簡単な朝食を用意していた。食パンをトーストして、オムレツを焼き、サラダを添える。最近は忙しいらしく、母もあまり会話が弾まない。ユキノはいつもなら何気なく「おはよう」と言って席につくところだが、今朝はどこか緊張した面持ちで母の後ろ姿を見つめた。

「あら、ユキノ。昨日は遅かったわね。ちゃんと寝られたの?」
「うん……ちょっと夜更かししちゃったけど、大丈夫だよ。心配しないで。」
「そう。あんまり無理しないでよ。学校、ちゃんと行けるんでしょうね?」
「行く行く……ありがとう、お母さん。」

短いやりとりの中にも、不安がにじむ。母には“真理追求の徒”のことも、“生成者”という話もできない。知ればどれだけ心配をかけてしまうだろう。その隠し事が胸をチクリと痛ませるが、仕方ない。

食欲は相変わらずあまりないが、オムレツを口に運んで牛乳で流し込む。どこか味気なく感じるのは、気のせいではないだろう。昨夜の“戦い”の余韻や、エリスの傷を思い返すと胸がざわめく。――けれど、腹ごしらえは重要だ。今日はまた何が起こるか分からない。それを考えると、なるべくエネルギーをとっておきたいという意識が湧いてくる。

「じゃ、行ってきます。」
「ああ、気をつけてね。」

背後で母の声を聞きながら、玄関を出る。曇天の空、街には小雨が舞っている。傘をさして歩きながら、ユキノはまた不安になる。雨の日は人通りが少ないときがあるし、傘を差していると視界が狭くなる――もしまた“敵”が現れたらすぐに気づけるだろうか、と。

「……こんなにビクビクしてるなんて、私らしくない。もっとしっかりしなきゃ。」

そう自分に言い聞かせる。探偵事務所で見せてもらった“射出機”や“精神構造体”についての資料が脳裏に浮かんでくる。いつか自分もあれを使いこなさなければならないかもしれない。そのためには、日常に戻って安心している場合ではない、と強く思う。

駅へ向かう坂道を下り、電車に乗る。車内は雨の日にしてはそこそこ混んでいるが、妙に静かな雰囲気がユキノを包む。肩が少しこわばっているのがわかる。昨日の戦闘で学校中庭が一部破損した件は“事故”として処理されたが、生徒間では何かと噂になっているかもしれない。今日、教室に行ったらどんな空気になっているのだろう。

小さな緊張感を抱えつつ、ユキノはイヤホンを耳に当て、音楽を流して無理やり気をそらす。メロディに身を委ねながら、窓の外に広がる雨粒の景色を見つめる。車両が線路を揺れながら走り、やがて最寄り駅へ到着した。

「……行こう。」

駅を出る頃には雨が少し強まっていた。傘を少し強く握り、学校までの道のりを早足で進む。雨の日は視界が悪く、道ゆく人々も急ぎ足だ。誰も彼女に気を留めていない――それが普段なら気楽でいいのかもしれないが、今のユキノには却って不安を煽る材料にもなった。もし“真理追求の徒”のメンバーが紛れていても、気づきようがないのではないか、と。

しかし、今のところ襲撃の気配はない。校門の前にたどり着くと、普段通りに学生たちが傘をたたみ、玄関へ向かっている。通学カバンやスマートフォンを弄りながら、友達同士で談笑する光景は“平和”そのものだ。ユキノは少しだけ安堵し、心の中でため息をつく。

(よかった……何事もないみたい。)

教室へ向かう昇降口で靴を履き替え、廊下を歩いていると、クラスメイトの桐生ナナミが待ち構えていたように声をかけてきた。

「ユキノ、おはよー。昨日、花壇の事故のとき、あんたも現場にいたんだって? 大丈夫だったの?」
「あ、うん……ちょっと転んだくらいだけどケガはしてないから平気。」
「そっか……でもさ、あの事故、なんか変じゃない? ベンチが割れて土がえぐれてたとか……地盤沈下にしちゃ不自然って皆言ってるよ。ユキノは何か見た?」

ナナミの問いに、ユキノは一瞬言葉に詰まる。実際のところ、あれは事故ではなく“戦闘”の爪痕。けれど、本当のことなど言えはしない。

「えっと……本当に何も分からないの。気づいたら先生に助けられてて……何が起きたか全然わからなくて……」
「そっかぁ。まぁ、仕方ないか……。」

ナナミは少し物足りなさそうな表情を浮かべるが、それ以上追及はしなかった。むしろユキノを気遣うように「とにかくケガなくてよかったよ」と肩に手を置いてくれる。ユキノはその優しさに一瞬救われる思いだったが、隠し事をしているという後ろめたさが再び胸を締め付けた。

「ごめんね、心配かけて。ありがとう。」
「いいのいいの。何かあったら言ってよ。あ、ホームルーム始まるから急がなきゃ。」

二人は駆け足で教室へ向かう。廊下の窓から外を見ると、雨脚がさらに強くなっているようだった。まるで外の天気がこの先の不穏を象徴しているかのように感じ、ユキノは頬の内側を噛む。――自分の心の中にも、雨雲が漂っているようで晴れないのだ。

教室に入り、席につくと、ナナミだけでなく他のクラスメイトや隣の席の子も「大丈夫だった?」と口々に聞いてきた。花壇周りの事故が相当な話題になっているのだろう。ユキノは笑顔をつくって「平気だよ」と答えるが、内心は落ち着かない。どうやら同じクラスには目撃者がいないらしく、不可解な事故として話題が沸騰しているようだった。

「結構大きな音したらしいじゃん。爆発したんじゃないの?」
「まさか爆発なんて……工事用の機材があったわけでもないし……」
「でも、地面がえぐれたって話だし、普通の事故とは思えないよね……」

そんな会話があちこちで交わされている。ユキノは聞きたくなくても耳に入ってきてしまう。そのたびに胃がキリキリと痛む。真相を知っているのはエリスと自分だけ(正確には、何人かの教師も薄々感づいているかもしれないが、表向きには黙殺しているのだろう)。

始業のチャイムが鳴り、担任の先生が入ってくると、ホームルームが始まる。先生はすぐに昨日の事故に触れた。

「昨日、中庭の花壇付近で一部地面が崩落する事故がありました。幸い大きなケガ人は出ませんでしたが、今後校庭や中庭の使用に関しては注意が必要です。むやみに立ち入らないようにしてください。また、施設の安全点検を行うので、皆さんも見つけた異常があったらすぐに報告を……。」

当たり障りのない説明で、詳細は伏せられている様子。クラスメイトたちは「うーん、やっぱりそんな感じか」という納得とも不満ともつかない表情を浮かべて、雑音のようにざわつく。担任は「以上」と締めくくり、ホームルームを終わらせようとするが、その時ふと誰かが手を挙げた。

「先生、九堂エリス先生って補習の先生、昨日あの近くにいたんですよね? その後はどうなったんですか?」

女子生徒の質問に、担任は顔をこわばらせる。どうやらエリスも巻き込まれたと知っている者がいるらしい。ユキノは一瞬にして心臓が高鳴り始める。――まずい、変に掘り下げられたらどうなる?

「九堂先生……ええ、少し巻き込まれたらしいけど、幸い軽い打撲程度とのことです。もう大丈夫みたいですよ。本人も『少し休んでまた来る』と言ってました。ご安心ください。」

そう言いながら、担任はわざとらしく笑顔を見せる。生徒たちは「ふーん」と納得したような、まだ不満があるような反応を示すが、最終的には深く突っ込まずに話題を切り上げる。――事なきを得たようで、ユキノも胸を撫で下ろす。

(エリス先生、今日も来るのかな……痛む肩は大丈夫だろうか。)

胸の内で、気づけばエリスのことを心配している。自分とは昨日の放課後に別れたきり連絡を取っていない。彼女はまだ完治していないはずだが、強行して来るのかもしれない。――もし来たら、また人目を盗んで話す時間を作れるだろうか。今後の訓練のことも気になるし、何より昨日の件を改めて話したい。

「ユキノー、聞いてる?」

不意に隣の席から肘で小突かれ、ハッとする。どうやら担任の話が終わり、クラスメイトたちは各自の雑談に戻っているらしい。ナナミが不思議そうに首をかしげる。

「ぼーっとしてるけど、本当に大丈夫?」
「あ、うん……ちょっと頭痛がしてて……大丈夫だから。」
「そっか。無理しないでね。保健室行く?」

その優しさはありがたいが、保健室に行っても何を言えばいいのか分からない。結局は「大丈夫だから」と笑って済ませる。

(このままじゃいけない……何だかずっと落ち着かない。エリス先生が来るなら、何かしら合図があるかも。とりあえず今日の授業を乗り切ろう……。)

そう自分に言い聞かせる。――しかし、ユキノはまだ気づいていなかった。この日の“違和感”はそれだけにとどまらないことを。思いがけず“第3の存在”が、彼女たちを揺るがす出来事をもたらそうとしていることを。

1時間目が始まる直前、クラスの数名が「え、嘘でしょ?」と騒ぎ始めた。どうやら廊下の掲示板に、新たな転入生についての連絡が貼り出されているらしい。今の時期に転入なんて珍しい――その事実だけでもちょっとした話題になるのに、さらに「本日から登校」と書かれているとあって、クラスメイトたちはやや興奮気味だ。

「転入生? そういうの、ドラマとかアニメみたいだね。どんな子だろう。男の子? 女の子?」
「掲示には『煤織蒔苗(すおり まきな)』って名前が書いてあったって。読み方合ってるか微妙だけど、女の子かな?」
「苗字も名前も珍しい感じじゃない? 海外帰りとか?」

クラス中がざわつく。ユキノもその話を初めて耳にして「ふーん」と興味半分で耳を傾けるが、すぐに自分とはあまり関係ないと思い直す。ところが、担任が入ってきて曰く、「今日からうちのクラスに転入生が来る」というのだから、一気に注目度が上がる。

ホームルームが終わり、1時間目の授業が始まるときも、その転入生はまだ姿を見せない。先生が「諸手続きがあるから遅れてくる」と説明しているが、クラスメイトたちは早く顔を拝みたいとそわそわしている。

ユキノは窓際の席で教科書を開きながら、心ここにあらず。――正直、転入生などに注意を向けている余裕はない。昨日の中庭の戦闘や、エリスの肩の怪我、そして自分が抱えている問題のほうが遥かに重大に思える。

しかし、運命というものは往々にして皮肉な巡り合わせをもたらす。1時間目が終わり、休み時間に入った瞬間に、その転入生が担任に連れられて教室へ入ってきた。その姿を見たとき、ユキノの胸は無性にざわつき、言葉にできない胸騒ぎに襲われる。

「え……?」

そこに立っていたのは、プラチナブロンドのセミロングの髪を持つ少女。虹色の瞳は見る角度によって色合いが微妙に変わり、肌は雪のように白く、薄く儚げな雰囲気を漂わせている。制服を着こなしてはいるが、どこかしら非現実的な美しさをまとい、教室にいる全員の目を一瞬で引きつけた。

「えーっと、紹介します。今日からこちらのクラスに転入する煤織蒔苗さんです。まあ……難しい読み方だけど、覚えて仲良くしてあげてください。」
「煤織……蒔苗、です。よろしくお願いします。」

少女――蒔苗はあまり感情を表に出さないまま、落ち着いた声でそう言う。軽くお辞儀をする姿は品があるが、教科書的な挨拶とは少し違う硬さが感じられた。クラスメイトたちは「美人だ……」という視線を送っているが、彼女はそれに対して何も反応しないようだ。まるで人々の興味を観測するかのように、瞳だけがわずかに動いている。

「じゃあ、えー……どこに座ってもらおうかな。空いてる席は……あ、そこか。」

担任が指し示したのは、ちょうどユキノの近く。窓際から二つ隣の席が空いている。蒔苗は静かに頷き、無言で席に向かう。その歩き方は滑らかで、足音すら感じさせない不思議な軽さがあった。

(なんだろう、あの人……すごく綺麗なのに、近寄りがたい雰囲気がある。)

ユキノは思わず息を飲んだ。心の中では、何かが“引っかかる”ような感覚がある。以前、エリスと初めて会ったときとはまた違う、底知れない“特別感”。――まさか、彼女もEM絡みの存在なのだろうか? と、一瞬疑念が脳裏をかすめるが、ただの考えすぎかもしれない。転入初日にそんな決めつけをするのは失礼だと自分に言い聞かせる。

「……はぁ。」

気づけばため息が漏れる。昨夜の睡眠不足も重なって、集中力が途切れそうだ。蒔苗が席につくと、周囲の生徒たちが興味津々に話しかける。

「煤織さんって、どこから転校してきたの?」
「髪すごく綺麗だけど、ハーフだったりするの?」
「わからないことあったら教えてね!」

蒔苗はその問いかけに対して「ありがとう」「そうですね」と短く返すだけで、詳細は語らない。どこか上の空というか、あくまで“観察”しているような応対に見えた。

ユキノも隣の席とは言え、すぐには声をかける気になれない。――何かに飲み込まれそうな、不思議な圧を感じるからだ。蒔苗の瞳が一瞬こちらを向いたとき、ユキノはゾクリとするような感覚に襲われた。

(この子、何か……普通じゃない。そんな気がする……。)

直感だが、そう確信してしまう。このエピソードが“ただの転入生イベント”で終わるはずがない、と胸の中のセンサーが告げている。
それが、すでに“伏線”だった。

午前中の授業が終わり、昼休みになると、クラスメイトの何人かが蒔苗をランチに誘っていた。彼女は「少し校内を散策したいので、後から合流する」と答え、教室を出ていく。その様子を見送った生徒たちは「ミステリアスだね」と言い合うが、ユキノは妙に気になってしまう。

(私もどこかで話をしてみたいけど、なんて声をかけたらいいのかな……)

心の中でそう考えていると、意外にも蒔苗のほうからユキノに視線を送ってきた気がした。そのときは一瞬だけで、すぐに蒔苗はドアを閉めて姿を消す。――何だったのだろう。ユキノは立ち上がり、昼食のパンを持って廊下へ出ようとする。

「ユキノ、どこ行くの? 一緒に食べようよ。」
「ごめん、ちょっと……探し物をするから、後で合流するね。」

ナナミに適当な言い訳をして廊下へ出る。どうしても蒔苗が気になって仕方ない。あの転入生が単なる偶然で自分のクラスに来たとは思えないし、もし仮にEMや真理追求の徒に関係があるなら、放っておくわけにはいかない。

「校内を散策すると言ってたから……中庭とか、図書室とか……」

頭の中でいくつかの候補を考え、まずは中庭に行ってみることにした。昨日、事故(戦闘)のあった場所でもあるし、何かを感じ取るかもしれないと思ったからだ。雨は相変わらず降ったり止んだりを繰り返しているが、中庭には屋根付きの通路があるので一応移動はできる。

しかし、中庭に出てみると、そこには誰もいなかった。事故の影響で立ち入り禁止のテープが貼られており、花壇とベンチがある一帯は完全に封鎖されている。ユキノは黄色いテープを見つめながら、昨日の激しい戦闘を思い出す。

「……エリス先生、今日は来てないのかな……?」

そう呟きかけたとき、背後でかすかに足音がした。振り返ると、そこには蒔苗が立っている。雨の湿気を含んだ空気の中、プラチナブロンドの髪が淡く光を反射していた。

「え……煤織さん?」
「……観察しているの?」

蒔苗が静かに尋ねる。ユキノはドキリとしてしまう。まるで心を見透かされているような鋭さを感じる。

「あ、えっと……ここ、昨日事故があった場所で、ちょっと気になって……。」
「そう……。壊れたベンチや掘り起こされた土……これはただの事故じゃないように見えるけど、みんなは事故だと信じてるのね?」

さらりと放たれた言葉に、ユキノは言い返すことができない。普通の生徒なら「どうしてそう思うの?」と問いただすだろうに、蒔苗は確信めいた口調でそう言ってのける。――まるで真相を知っているのか、あるいは“こういう事態”に慣れているかのようだ。

「煤織さん、もしかして何か知ってるの?」
「ううん、確信はない。けれど……私には『これは単なる事故ではない』と感じ取るだけの情報がある。だから、こうして確かめに来たの。」

ユキノは一瞬言葉を失う。彼女の言う“情報”とは一体何なのか。EMに関連することなのか――考えるほどに疑問は膨らんでいく。

「あなたは、どう思うの?」

蒔苗の虹色の瞳がじっとユキノを見つめる。その瞳に射すくめられそうな圧力を感じつつ、ユキノはやや震えた声で答える。

「……私も、事故じゃないと思う。ここで……なにか、あったんだと思う。」
「そう。じゃあ、あなたは知っているの? 何が起こったのかを。」

まるで“試す”ような問いかけ。ユキノは思わず口を噤む。昨日の戦闘を詳細に語るわけにはいかないし、そもそも相手がどんな立場かも分からない。けれど、その沈黙が答えになったのか、蒔苗は軽く頷いて微笑み――いや、“笑み”というより、唇の端を少しだけ上げたように見える。

「安心して。私も好奇心で聞いただけ。あなたの事情を知るつもりはないわ。ただ、あなたが何かに巻き込まれているらしいことはわかった。」
「え……?」
「隠そうとしてるけど、目を見ればわかる。怯えているようでいて、どこかに強い決意が宿っている。それは普通の高校生にはないもの。」

その分析に、ユキノは心臓が大きく跳ねる。短い会話の間に、ここまで見抜かれてしまうのか――まるでエリス並みの洞察力だ。いや、それ以上かもしれない。

「そっ……そんなこと……」
「気を悪くしたならごめんなさい。でも、私にとってはあなたも興味深い“観察対象”なの。……変な言い方かもしれないけど。」

蒔苗はどこか神秘的な表情を浮かべつつ、雨に濡れた中庭のテープを眺める。雨粒がパラパラと地面を叩き、テープが揺れている。その光景に言葉にならない静寂が漂う。

「もし、あなたが本当に“事故”だと思っているなら、こんな場所に一人で来ないはず。――そうでしょ? この先、もし何かあったら、私も協力できるかもしれないわ。」
「協力……? どうして……?」
「あなたに興味があるから。それだけの理由じゃ不足かしら。」

蒔苗の言葉は淡々としているが、そこには確固たる意志のようなものが感じられる。ユキノはどう答えたらいいのか分からない。EMに関わる組織のスパイかもしれないし、単なる好奇心かもしれない。しかし、この雰囲気は普通ではない。彼女が“何者か”であることは間違いないだろう。

「……ありがとう。でも、私は大丈夫だから。」

結局、それが精一杯の返答だった。蒔苗はそれ以上追及せず、「そう。じゃあ、またね」と呟いて踵を返す。

「ちょっと……待って!」
「ん?」
「あ、えっと……お昼一緒に食べない? 私、あんまり友達が多いタイプでもないし……よかったら。」

思わず声をかけていた。自分でも驚く。蒔苗が気になって仕方ないのだ。もしかしたら、今後事件に巻き込まれるかもしれないし、逆に彼女が味方になってくれる可能性もある。何より、孤立感を覚えている自分にとっては、同じ“非日常”を感じる人間が傍にいてほしいという思いもあるのかもしれない。

しかし、蒔苗は小さく首を横に振る。

「ごめんなさい。今日はもう少し校内を見て回りたいの。今は誰かと一緒に行動するより、一人で観察したい気分。」
「そっか……わかった。」

さびしい気持ちがこみ上げるが、無理に誘い続けるのも悪い。ユキノはそこで引き下がる。蒔苗は再び静かな足取りで去っていく。その背中が校舎の陰に消えた瞬間、ユキノは大きく息を吐いた。

(すごく不思議な子……。でも、なんだか嫌いじゃない。)

胸の奥に芽生える、うまく言葉にできない感情。警戒感もあるが、どこか惹かれるものもある。――昨日、エリスと話し合った“力”とは別のベクトルで、何か大きなうねりが迫っているような予感がした。

(伏線、なのかな……私の物語において……。)

自嘲めいてそう考えたとき、チャイムが鳴った。昼休みがもうすぐ終わる。慌てて教室へ戻り、パンをかじりながら席に着くと、ナナミが「どこ行ってたの?」と聞いてくるが、適当に話を合わせてごまかすしかなかった。

午後の授業が続く中、ユキノは蒔苗のことが頭から離れなかった。あれほど強烈な存在感を放つ転入生は初めてだし、何より“事故”を否定するような言動や、ユキノの内面を見抜く洞察が普通ではない。彼女は何者なのだろうか。

一方で、エリスが今日来る気配はない。休み時間に廊下を見ても、探偵であり臨時講師である彼女の姿はどこにもなかった。肩の怪我を考えれば当然かもしれないが、少し寂しい気持ちもある。――と、そのときスマートフォンが微かに振動し、通知が入った。

授業中だったが、教師が板書に集中している隙を見て、ユキノはそっと画面をチェックする。すると「エリス」からのメッセージが届いていた。表向きは“予備校講師”としての名刺に書かれた連絡先だが、今は命綱のような存在である。

エリス「今日は行けそうにない。肩がまだ動かしづらくて、タスクフォースにも顔を出さなきゃならない用事があるの。放課後、時間あるなら事務所に来る? 無理はしなくていいけど、昨日から話したいことがあったら聞くわよ。」

このメッセージを見た途端、ユキノの顔がほころぶ。エリスの安否が確認できただけでも少し安心だ。それに、放課後に探偵事務所を訪ねれば“射出機”や“精神構造体”の話をさらに詰められるかもしれない。自分の中で複雑に揺れる感情を吐き出せる相手がいるのは大きい。

ユキノはこっそり返信する。

ユキノ「今日も行きたいです。放課後、直接事務所に向かいますね。先生は無理しないでください。」

数分後に、エリスから短い「了解!」という返信が返ってくる。ユキノは思わずほっと息をついたが、その視線の端で担任が「天野、授業中だぞ」と睨んでいるのに気づき、慌ててスマホを鞄にしまう。次の瞬間、教室がクスクスと笑いに包まれ、ユキノは赤面したままペンを握った。

(午後の授業……早く終わってほしい。そしたらエリス先生と話せるのに。)

そんな焦りとも期待ともつかない思いを抱えながら、半ば上の空で授業が進んでいく。教室の中は平和そのもの。外の雨は小康状態に入ったようだ。――しかし、ユキノにとっては放課後に待つ探偵事務所での会話、そして新たに現れた蒔苗の謎が、頭を離れないまま時間が過ぎていくのだった。

最後のチャイムが鳴り、クラスメイトたちが部活動や帰宅、塾などへ向けて動き出す。ユキノはカバンを手に教室を出ようとしたが、廊下で声をかけられた。

「天野ユキノさん、だよね。」

振り返ると、そこには蒔苗が立っていた。昼休みに中庭で会ったときと同じ、涼やかな瞳でこちらを見つめている。クラスメイトたちが行き交う中、周囲の視線も若干集まるが、蒔苗は全く気にしていないようだ。

「え……煤織さん? どうしたの?」
「ちょっと話がしたいの。今、時間ある?」
「え、あ……ごめん、今日はこの後用事があって……。」

ユキノは探偵事務所に行く予定だ。下手に遅れるとエリスを待たせることになるし、蒔苗の正体が分からない以上、深く関わりすぎるのも危険かもしれない。そんな迷いが一瞬にして頭を駆け巡る。

「……そう。でも、私も早めに聞いておきたいことがあるの。」
「聞いておきたい、って……何を?」
「たぶん、あなたが私に隠しているであろうこと。それが何かは言わなくていい。けれど、私は“あなたが気にしている対象”に心当たりがあるから――」

蒔苗の言葉はそこで途切れる。しかし、その瞳には明確な意志が宿っているのがわかる。“あなたが気にしている対象”――ユキノにとってそれはEMや真理追求の徒、エリスなど、いくつも思い当たるが、蒔苗がどこまで把握しているのかは不明だ。

「……もう少しだけ、待ってくれる? 今は急いでて……後日でもいい?」
「わかった。急ぎでもないし、無理に聞き出すつもりもないから。ただ、あまり時間をかけすぎると、あなた自身が危なくなるかもしれないわよ。」

警告とも取れる言葉に、ユキノは思わず息を呑む。まるで彼女が自分の運命を見通しているかのようだ。

「……ありがとう。煤織さんも、何か気をつけてね。」
「ふふ……そういう言い方ができるのは、やはりあなたも“知ってる”からなのね。」

それだけ言い残すと、蒔苗は踵を返して廊下の奥へ進んでいく。近づきがたいオーラを漂わせながら、まるで“観測者”のように周囲を一瞥し、姿を消した。

ユキノは心拍数が上がるのを感じつつ、慌てて昇降口へ向かう。胸の中で何かがざわつき、嫌な汗が背中を伝う。――いったい、蒔苗は何を知っているのか。もしかして、エリスや自分が戦っている“真理追求の徒”に対する情報を持っているのではないか。考えるほどに疑問は深まるばかりだ。

(とにかく今は、エリス先生に報告しよう。あの子……絶対に普通じゃない。)

昇降口を出て、校門を通り雨上がりの街へ出る。雲の隙間から少し陽が射してきて、アスファルトが反射する光が眩しい。ユキノはスマートフォンを取り出し、タクシーアプリで車を呼ぶかどうか迷う。エリスは「暗くなる前に事務所へ来て」と言っていたし、電車で行くかタクシーで行くか――とにかく急ぎたい。

「……よし、電車でいいや。」

タクシーを待つより電車のほうが速いかもしれない。そう判断して駅へ向かい、久しぶりに足早に通学路を逆戻りする。雨上がりの冷気がまだ空気に残っており、頬を撫でる風がひんやりと感じる。少しだけ走りながら、自然と呼吸が荒くなってくる。

(エリス先生、私、いろんなことが頭の中をぐるぐるしてるよ……蒔苗の存在、真理追求の徒、訓練……全部、ちゃんと話さなきゃ。)

そう思いながら駅へ到着すると、ちょうど電車が到着するタイミングだった。大急ぎで乗り込み、シートに腰を下ろすと、一気に疲労感が襲ってくる。しかし今は休む間もない。頭の中でエリスとの会話をシミュレーションしつつ、電車がビルの谷間を抜けていくのを眺める。

電車を降りてビル街へ出る頃には、日はすっかり傾いていた。夕暮れというほど明るくはないが、空には雲が切れてオレンジ色の光が混じり始めている。人通りがそこそこ多い大通りを抜け、エリスの探偵事務所が入るビルへ。2階へ続く階段を昇ると、ドアのところに“九堂探偵事務所”の小さな看板が貼ってある。
ノックをすると、エリスの声が聞こえる。

「どうぞ。」

ドアを開けると、部屋の中は書類やファイル、端末が散乱しているが、昨日よりは少し整理されている印象。エリスはデスクに座り、肩には包帯を巻いたままパソコンのモニターを睨んでいた。こちらを見て、やや疲れた笑みを浮かべる。

「来てくれてありがとう、ユキノ。ちょっと仕事が立て込んでて散らかってるけど、そこに座って。」
「失礼します……先生、肩、大丈夫ですか?」
「まあ、なんとかね。今日もタスクフォースと色々連絡を取ってたら、雑用が増えちゃって。あなたこそ、昨日のことで疲れてるんじゃない? 大丈夫?」

エリスの言葉に、ユキノは素直に「正直しんどいです」と返したい気持ちをこらえ、「なんとかやってます」とだけ答える。コート掛けに制服の上着をかけ、椅子に腰を下ろすと、エリスはファイルの束を脇にどけて、テーブルの上を少し片づけてくれる。

「……飲み物はどうする? コーヒーかお茶くらいなら出せるけど。」
「あ、じゃあ、お茶をお願いします。」

エリスは小さな給湯器でお湯を沸かし、ティーバッグを入れたマグカップをユキノに差し出す。その手つきに余裕はないが、優しさを感じる。ユキノは一口すすって気持ちを落ち着けると、まず“蒔苗”のことから話し始めた。

「先生、今日は学校に変な転入生が来たんですよ。煤織蒔苗(すおり まきな)っていう子。すごく綺麗で、不思議な雰囲気で……どこか普通じゃない気がして……。」
「ふむ……それで?」
「中庭のことを、ただの事故じゃないって言い切ったり、私が何か隠してるのを見抜いてたり……もう、ゾワッとするくらい鋭かった。あの子、私たちが戦ってること知ってるんじゃないかって思うくらい。」

エリスは顎に手を当て、考え込むように視線を落とす。

「煤織蒔苗、ね……初耳。タスクフォースの情報にそんな名前は出てきてないけど、過激派とも限らないかもしれない。もしくは、まったく別の存在か。……今の時点では推測しかできないわ。」
「そうですよね……でも、あの子は確実に何かを知ってると思うんです。私と会話しただけで、こっちの心を読み取るような言葉をかけてきて……。先生、もし余裕があるなら、調べられませんか? あの子がどこから転入してきたのかとか……。」
「そうね、手段を考えてみる。……タスクフォース経由は信用ならないし、学校側の名簿を調べるくらいかもしれないけど、私が教師の立場を利用すれば、ある程度の転校書類を閲覧できるかも。」

エリスがキーボードを叩きながら、何かメモを取り始める。肩の痛みで顔が歪むのを隠しきれないが、それでも動作は流れるようにテキパキしている。

「先生、無理しないで……私も何か手伝えることがあれば……」
「ありがとう。でも、あなたにはまだ基礎訓練が待ってるから、それに専念してほしいな。――そうだ、昨日言った通り、まずは射出機の実物に慣れるところから始めない?」

そう言ってエリスは机の引き出しから小型の射出機を取り出す。前回見せられた初心者向けのモデルだろう。銀色のボディに青いラインが走り、グリップ部分はレバー式になっている。見るだけでユキノは少し緊張を感じるが、ここで逃げるわけにはいかない。

「はい……やりたいです。でも、ここで撃ったらまた壁とか壊れちゃわないかな……」
「大丈夫。空砲モードもあるし、あなたが本当に“心の中心”を撃たなければ、力は発動しない。ただし、一度でも本気で撃てば精神構造体が出現するかもしれないから、慎重にね。」

エリスはそう前置きして、射出機の操作方法を説明する。実弾のようなカートリッジではなく、EMの疑似エネルギーが充填された小型のカプセルをはめ込み、トリガーを引く――ただし、“心の中心”を撃ち抜くためには、銃口を自分の胸元に当て、覚悟をもって引き金を引く必要があるという。

「理屈は分かったけど、想像すると怖いですね……自分で自分を撃つなんて……」
「怖いのは当然よ。でも、そこに打ち勝つ意志が必要なの。私が実際に使うリボルバーはカートリッジ式で、同じ原理だけど、少し違う弾道補正が入ってる。……あなたがこれを扱うときは、必ず私か、安全な場所で訓練を受けてからにして。」
「わかりました……。」

ユキノは射出機を手に取り、軽くグリップを握ってみる。ひんやりとした金属の感触が手の平に伝わり、心臓が早鐘を打つ。引き金に指をかけるだけでも薄い恐怖が湧いてくるが、同時に不思議な高揚感もあった。

(これが……私の未来を左右するかもしれない装置……)

そう思うと、自然に喉が渇いたように感じ、マグカップの茶を一口飲む。エリスが微笑むように頷いた。

「ゆっくりでいいからね。最初の一撃を撃つのは、あなたが本当に心を決めたときでいい。ただ、私としては早めに慣れておいてほしい。敵は待ってくれないかもしれないから。」
「はい……覚悟します。先生、改めてよろしくお願いします。」

小さく頭を下げたユキノを見て、エリスも真剣な表情で頷く。探偵事務所の薄暗い照明の下、二人はまるで誓いを交わすように互いの決意を確かめ合う。――その瞬間、事務所の窓ガラスに何かが当たる音がした。

カツン……。

「……ん?」

エリスが怪訝そうに窓の外を見る。ビルの2階だが、非常階段や隣の建物との距離などを考えれば、何者かが接近する可能性もゼロではない。ユキノも不安に駆られ、射出機をテーブルの上に置き、そっと立ち上がる。

「また敵……?」
「わからない。でも警戒はしておいて。」

エリスはリボルバー型の射出機を軽く構え、窓辺へ忍び足で近づく。ユキノも、その後ろに続き、窓の外をそっとのぞく。――しかし、そこに人影はない。ただ、雨上がりの夜風がビルの隙間を吹き抜ける音がするだけ。

「……気のせいかな。」
「かもね……でも、一応用心はしとこう。」

エリスがカーテンを少し閉じ、部屋の照明を落とす。すると、窓ガラスにうっすらと街の光が反射し、部屋は薄暗い中にも怪しい静寂に包まれる。ユキノは息を呑みながら窓を見つめるが、特にこれ以上の動きは感じられない。

「先生……大丈夫でしょうか……?」
「今のところは何もないみたい。もしかしたら小石か何かが飛んできたのか、外れた配線が当たったのかも。」

そう言いながらも、エリスの表情にわずかな緊張が残っている。真理追求の徒がいつ襲ってくるか分からない状況だし、転入生・蒔苗の存在も気になる。伏線がいくつも重なり合い、不安定な夜が幕を開けようとしていた。

(何もなければいいけど……私たち、いつまでこんなふうに怯え続けるんだろう。)

ユキノは射出機に視線を戻す。あの奇妙な音が敵の動きでないならいいが、もしそうだとしたらまた戦闘になるかもしれない。自分は戦えないまま、この部屋に閉じこもっているしかないのか――そんな不安が膨らむ。

「ねぇ先生、もしまた敵が来たら……私はどうすればいい? 今、訓練も何もしてなくて、射出機を撃つ勇気もない。」
「……逃げて。私が時間を稼ぐ。外に出ても危険だから、ビルの非常階段を使って下へ降りて、裏通りから安全な場所を確保するの。あなたが捕まったら元も子もないからね。」

エリスは断固とした口調で言い切る。ユキノはそれが“最善策”であることは分かっているが、また彼女を一人で戦わせることになるかもしれないと思うと、心が苦しくなる。

「分かりました……先生の言う通りにします。できるだけ――先生の邪魔はしないように。」
「邪魔じゃないわ。あなたが無事でいてくれることが、私にとっては一番大事。」

その言葉に、ユキノの目がかすかに潤む。エリスの優しさと責任感が混ざり合った響きが、胸に痛いほど染み渡る。――この人を失いたくない。その思いが強くなるほど、自分も早く強くならなきゃ、という焦りが募るのだ。

そんな空気が流れる中、突然エリスの携帯が振動し、着信を告げる。発信元はタスクフォースのエージェント名だろうか。エリスは渋い顔で受話器を取り、「ああ、どうした?」と低い声で応対する。

通話の内容は端的で、どうやら真理追求の徒の動きに関する新情報が入ったらしい。断片的に聞こえてくる単語――「別件の連続消失事件との関連性」「生成者の脳内マップ」「次の標的」――それらがユキノの耳に届くたびに心臓が縮むようだ。

やがて通話が終わり、エリスは思い切りため息をつく。机に携帯を置き、眉間にシワを寄せながらユキノを見つめる。

「……何かあったんですか?」
「どうやら、やつらが次の段階に移行し始めたって情報があった。詳細はまだ掴めてないけど、これまでとは違う『準生成者』を量産する実験を強化しているらしい。……つまり、あなた以外にも狙われる可能性のある人が増えたってこと。」
「じゃあ、事件がさらに大きく……」
「そう。表向きにはまだ連続消失事件として扱われるかもしれないけど、その裏には彼らの暗躍がある。タスクフォースも全容をつかめていないのが現状。」

戦慄がユキノの背筋を駆け上がる。自分ひとりの問題ではなく、他にも命の危険にさらされる人が増えているということだ。――このまま放っておいていいはずがない。

「私、何かできないかな……まだ何も力になれないけど、誰かが危険に晒されるなら……黙っていられない……!」

思わず声を荒げる。エリスは少し驚いたような表情を浮かべ、すぐに落ち着いた声で諭すように言った。

「その気持ちは尊いと思う。でも、今のあなたは危険を増すだけ。訓練を急いで進めることはできるけど、慌てても心を壊すだけだし、精神構造体が暴走する可能性もある。――焦らないで。あなたにはあなたのペースがある。」
「……でも……」

ユキノは悔しさで唇を噛む。自分がもっと早く強ければ、過激派による被害を少しでも食い止められるかもしれないのに――もどかしい気持ちが募り、目頭が熱くなる。その様子を見て、エリスは椅子を立ち、そっとユキノの肩に手を置く。

「気持ちは痛いほど分かる。私だって同じだから。でも、ここであなたが無理をして壊れたら、元も子もない。私に守らせてちょうだい。あなたが本当に戦えるようになるまで。」
「先生……」
「だから、あなたがもっと強くなるという伏線は、もう張られてるのよ。焦らず、一歩ずつ進んでほしい。――大丈夫、あなたには素質がある。私はそれを信じてるわ。」

その言葉に、ユキノは涙をこぼしそうになるが必死で堪え、射出機を見つめる。その中には青白い疑似EMが揺らめいているかのように感じられる。これが、いつか自分の“武器”になる日が来るのか。

(もう一つの伏線は、あの転入生・蒔苗……彼女が持つ謎と、私への興味。そこにも何か重大な意味があるはず。私にはまだわからないけど……。)

頭の中で、いくつもの糸が絡み合うように未来が描かれていく感覚がある。真理追求の徒、タスクフォース、エリス、そして自分……さらに蒔苗という新しい存在。まるで大きな舞台が用意され、その上で何かが動き出しているのだろう。

ユキノは固く拳を握りしめ、深く呼吸をする。

「わかりました。私、先生を信じて訓練を続けます。焦らずに、一歩ずつ。でも、いざというときは……私も戦います。それが私の意思だから。」
「うん。覚悟を決めたのね。じゃあ、一緒に頑張りましょう。まずは体力面や精神面を鍛える基礎から始めるわよ。――近いうちに安全な場所を用意するから、そこで実戦形式も体験させたいしね。」

エリスの目にも、確かな決意が宿っている。肩の痛みを抱えながらも、彼女はユキノを後押しするために全力を尽くそうとしているのが伝わる。その姿を見るだけで、ユキノは自分も弱音を吐いていられないと奮い立たされた。

「はい……お願いします、先生。」

言葉少なにそう答えたユキノの瞳には、もう恐怖だけでなく、僅かながら“使命感”が生まれていた。いつ来るかわからない次の脅威に向けて――伏線は着々と張り巡らされている。

その後、エリスから簡単な体力トレーニングや心のメンタルワークについて説明を受けたユキノは、夜も更けた頃に探偵事務所を出る。エリスがタクシーを呼んでくれ、自宅近くまで送ってもらう形になった。車内で「また連絡するね」と言われ、少し名残惜しさを感じながら別れる。――家へ帰ってからも、頭の中は激しく動揺していた。

自室のベッドに腰を下ろし、カーテンの外の夜空を見上げる。星は雲に隠れて見えないが、わずかに月の輪郭が浮かんでいるようにも思える。あの空の下にエリスがいて、蒔苗がいて、真理追求の徒がいる。果てしなく広い世界の中で、今、自分は確かに“非日常”の中心に近づいている。

(でも、私は普通の女子高生だったんだよ……こんなこと、想像もしなかった。――それでも、もう戻れない。)

寂しさと決意が綯い交ぜになった複雑な感情が胸を締めつける。携帯を手にして、蒔苗に何か連絡できないかと考えたが、そもそも連絡先を知らない。クラスメイトに聞けばすぐに分かるかもしれないが、彼女がそれを望むかどうか……。

(そういえば、あの子は私を“観察対象”と言った。まるでこの世界がどう動くかを見定める……観測者みたいだったな。)

寝転がりながら、射出機のミニチュアのような資料を眺める。あの金属の感触が手に残っている気がする。心の中心を“撃ち抜く”怖さは消えないが、同時にそれこそが自分の運命を切り開く鍵になるのかもしれないと思うと、不思議な感覚が湧いてくる。

「よし……明日は少し早起きして、ランニングとかしてみようかな。先生に言われたし、体力づくりから始めなきゃ。」

誰に聞かせるわけでもなくつぶやき、目を閉じる。瞬きをするたびに頭を過ぎる映像――蒔苗の虹色の瞳、エリスのリボルバー、真理追求の徒の黒い触手……すべてが今後の伏線であるかのように思えてならない。自分がどのような道筋を辿るのか、答えはまだ分からない。

だが、確実に物語は動き始めている。

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