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Symphony No. 9 :EP2-3

エピソード2-3:ネーベルスタン将軍の引き抜き

 オート侯家の城門がゆっくりと開くと、まだ朝靄の残る外の空気がじわりと流れ込んでくる。周囲の景色は淡い灰色に染まり、木々のシルエットがかすかに浮かび上がる。
 そんな薄暗い時刻に、ヌヴィエム・ドラングフォードは数名の護衛兵を伴い、馬車に乗り込む準備をしていた。腰には小さな短剣を佩き、背中には音術を増幅するための簡易装置が装着されている。普段なら華やかなドレスやステージ衣装を纏うこともあるが、今日は動きやすい旅人風の軽装だ。
「ヌヴィエム様、荷物はすべて積み込み完了です。ネーベルスタン閣下の隠居先までの道のりは、だいたい半日の行程になりますが、途中で荒野地帯を抜けるため、警戒が必要かと……」
 護衛兵の一人が報告しながら、周囲を注意深く見回す。最近は城の内外が荒れており、チャールズ派の傭兵や賊が出没する可能性もある。ヌヴィエムは一瞬、緊張に唇を引き結ぶが、それでも小さく微笑みを返した。
「大丈夫。急ぎの旅だからね。さっそく出発しましょう」
 城門前には、ユリウスとエレノアも見送りに立っている。ユリウスはまだ稽古の傷が癒えきらず、腕に包帯を巻いているが、心配そうな眼差しをヌヴィエムに向けていた。
「姉上、本当に一人で行くの? 僕も……」
「ダメ。あなたはまだ剣の修行があるでしょう? それに、ガロード兄上やベルトラン兄上が何を仕掛けるかわからない。城を守っていてほしいの。……安心して、あたしには護衛兵がいるもの」
 ユリウスは歯噛みして言葉を詰まらせたが、最後には「わかりました。気をつけて……」と呟く。エレノアは軽い笑みを浮かべて、馬車に乗り込もうとするヌヴィエムへ声をかけた。
「ネーベルスタンは気難しいところがあるけど、あなたならきっと説得できるわ。彼を正式に“将軍”としてオート侯家に迎え入れることができれば、戦力や兵の統率も一気に安定するはずよ」
「ええ、頑張る。エレノア、城のことは頼んだわ」
「任せてちょうだい。留守中に何かあっても、私とユリウスでうまく対処してみせるわ」

 こうしてヌヴィエムは馬車に乗り、城門がゆっくりと開く。朝日が微かに差し込みはじめる中、車輪の軋む音が静かな城下町に響いた。半日後、彼女はネーベルスタンが隠居しているという山間の小屋へ向かう。そこで、正式に“将軍”として召し抱えたいと願うのだが……道中は一筋縄ではいかないことを、誰もが覚悟していた。


 オート侯家の城下町を抜けると、広大な農地が広がる南部平原へと馬車は進んでいく。朝の光が徐々に強まるにつれ、霧が晴れて景色が見通しやすくなる。遠くには小さな村落が点在し、牛飼いの姿もちらほら。
 しかし、ここから先は道が整っているわけでもなく、奥に進めば荒野地帯だ。賊や野盗が出没しやすい場所でもあり、護衛兵たちは常に周囲を警戒している。
「ヌヴィエム様、山間の小屋まではあと二、三時間といったところです。途中、峡谷を越えねばなりませんので、そこが危険かもしれませんね」
 馬車を走らせながら御者が振り返る。ヌヴィエムは小さく頷き、窓から外を見やる。野草が風に揺れ、青空が美しく広がっているが、心の内にはわずかな不安が残る。
(ネーベルスタンはすでに城でユリウスの指導をしてくれている。でも、それは“半ば恩義で協力している”だけ。彼を正式に将軍として迎え、オート侯家の軍事面を統括してもらうには、いったい何を条件に提示すればいいのか……)
 道中、ヌヴィエムは父カンタールが遺したメモを思い出す。そこにはネーベルスタンに関する記述がある。

「ネーベルスタンは若いころ戦場を駆け抜け、老境を迎えた今も多くを学ぼうとしない貴族や将校を嫌っている。だが、彼は真に“守るための剣”を求める者には厳しくも協力を惜しまないだろう」
 父の言葉が胸に響く。ユリウスを導いてくれたのも、きっとそうした彼の“守る”という理念に共鳴したからに違いない。では、どうすれば完全にオート侯家の味方になってもらえるのか。
 ヌヴィエムは頭を悩ませつつも、過去の対面を思い出す。大広間での対立をネーベルスタンが制したあの日――彼は「兄弟の争いにうんざりだが、お前の覚悟は見せてもらった」と言っていた。その言葉が鍵になるかもしれないと感じていた。


 午後に差しかかった頃、馬車は山間へ続く峡谷の入り口に差し掛かった。高い岩壁が両側にそびえ立ち、道幅は狭く、昼でも薄暗い。
 御者は警戒心を強め、速度を落として慎重に進む。護衛兵たちも車輪の音に紛れぬよう、周囲の足音や風の音まで聞き逃すまいと息を潜めていた。
「ここで賊に襲われたり、岩陰から弓を射かけられたりする可能性が高い。皆、気を引き締めて……」
 ヌヴィエムが護衛兵にそう指示を出すや否や、岩陰から唐突に矢が飛来した。
「危ないっ……!」
 兵の一人が咄嗟に盾を掲げ、矢を防ぐ。金属が矢尻を弾く高い音が峡谷にこだまする。次の瞬間、岩壁の上部から複数の人影が見えた。黒ずくめの装束に身を包み、弓や短剣を構えている。
「やはり賊か……それとも、ヤーデ伯チャールズの手先か……!」
 護衛兵たちが武器を構え、ヌヴィエムは馬車から降りて岩壁を見上げる。矢の雨が降り注ぐ危険がある以上、このまま進めば馬車は蜂の巣になりかねない。
「ここで引き返すか、それとも突破するか……」
 ヌヴィエムが迷う一瞬のうちに、敵の弓手たちが再度狙いを定める。彼女は思わず音術の装置を手にし、周波数の違う声を出して敵を攪乱しようと試みた。
 柔らかいメロディが峡谷の岩肌に反響し、敵の動きをわずかに乱す。
「ぐっ……何だ、頭がくらくらする……!」
「声が響く……耳が痛い……!」
 賊たちが動揺している隙に、護衛兵が岩壁に向かって弩(クロスボウ)の一斉射を放つ。弩から放たれた矢が上部の賊を牽制し、いくつかの悲鳴が上がった。
「今のうちに……突破します!」
 ヌヴィエムは勇気を振り絞り、馬車に御者を戻すよう指示。護衛兵も二手に分かれて進路を確保するために先導を開始する。
 しかし、峡谷は狭く、岩壁の上からはまだ数名の賊が矢を放ってくる。護衛兵が何人か被弾し、うめき声を上げる中、ヌヴィエムはなんとか前方に進もうとするが、また新手が岩陰から姿を現した。
「ちっ……思ったより数が多い……!」
 ヌヴィエムは短剣を握りしめながら、音術で敵の意識を乱すメロディをさらに高めようとする。しかし、あまりに多くの敵を一度に相手にするのは難しい。


 峡谷内での戦いは、狭い足場と上下差を利用した立体的な攻防となった。賊の一部は岩壁の上から弓や投石を投げ下ろし、別の者は峡谷の道に飛び出して白兵戦を仕掛ける。
 護衛兵たちは盾と槍で対抗し、ヌヴィエムの音術で士気を保ちながら応戦するが、確実に消耗していく。
「くそっ、弓矢を封じないと……! 誰か岩壁の上へ回り込めないか?」
「無理です、こちらも人数が限られていますし……!」
 護衛兵の焦燥した声が響く。馬車は途中で大きく揺れて停止し、御者が「馬が怯えて動きません!」と叫んでいる。これでは先へ進めず、背後から他の賊が回り込んでくる可能性もある。
 ヌヴィエムはぎりぎりの状況に追い込まれたと感じた。音術で賊の動きを鈍らせるにも限度があるし、周囲の地形を生かして奇襲をかけられている状態では、いくら士気を上げても押し切られるかもしれない。
(こんなところで倒れてしまうなんて……ネーベルスタンに会う前に終わっちゃうの……?)
 弱音が頭をかすめる。しかし、折れかけた心を叱咤するように、ヌヴィエムは必死に唇を震わせ、新たなメロディを紡ごうとする。
「みんな……負けないで……あたしの声に合わせて……!」
 歌うようなトーンでか細い声を出し、そこに振動を乗せて拡散させる。護衛兵の耳にはヌヴィエムの歌が鮮明に届き、痛みや恐怖で鈍りかけていた動きが再び活性化される。
「ヌヴィエム様の歌声だ……まだ、まだ戦える……!」
「そうだ、こんな賊に負けてたまるか!」
 音術は味方の士気を高め、短時間ながら身体的な協調性を引き出す効果がある。兵たちの動きがわずかに連携を増し、敵に対する反撃を強めていく。

 しかし、賊も数で優位に立っているわけではないとはいえ、地形を活かして執拗に襲いかかってくる。上から投下される石や矢、そして至近距離での短剣の応酬が容赦なく護衛兵を追い詰める。
「あっ……!」
 ついにヌヴィエムのすぐそばに敵が飛び降りてきた。黒装束の大柄な男が短剣を構え、彼女の背後を狙っているのが見える。
「ヌヴィエム様、危ない……!」
 一人の護衛兵が声を上げるが、男は素早い動きでヌヴィエムに肉薄し、短剣を振り下ろそうとする。彼女は必死に身を捻って回避しようとするが、かすり傷は免れそうにない。
 刹那、鋭い金属音が響いた。目にも止まらぬ速度で誰かが剣を差し込み、男の短剣を弾き飛ばす。ヌヴィエムは驚いたように顔を上げた。
 そこに立っていたのは、灰色のマントを羽織った壮年の剣士――いや、槍を手にした男。
「大丈夫か、ヌヴィエム!」
 この声に、ヌヴィエムの胸が熱くなる。
「ネーベルスタン……!? どうしてここに……!」
 そう、今まさに彼女が会いに行こうとしていた本人、隠居中の剣士ネーベルスタンが突如現れ、賊を強烈な一撃で吹き飛ばしたのだ。


 ネーベルスタンが槍を振るうや、空気が切り裂かれるような音がし、敵の数名があっという間に地面に叩きつけられた。稽古で見せていた厳かで重厚な動きとは違い、実戦ではまるで隙のない連続攻撃を披露する。
「退け、無能ども。オート侯家の客人を襲うとは……さしずめヤーデ伯の差し金か?」
 賊の一人が悲鳴を上げながら後退し、岩壁の上にいる仲間に合図を送る。だが、ネーベルスタンはその様子を見逃さず、槍の石突きを地面に叩きつけて大きく跳躍。岩壁の上へ一瞬にして飛び移ると、弓を構えた敵を次々に薙ぎ払っていく。
「ひ……化け物め……!」
 上から矢を射かけていた者たちは、あまりの早業に対応しきれず次々に倒れ込み、慌てて撤退の態勢を取る。峡谷の狭い足場でネーベルスタンの猛攻を受けるのは命懸けだと判断したのだろう。
 一方、下ではヌヴィエムと護衛兵が残った数名の賊を追い詰めていた。ネーベルスタンの出現に動揺している敵は、音術の影響を受けて連携を失い、次々に捕縛される。
 数分もしないうちに、峡谷全体から賊の姿が消えるか降伏するかの状態に陥った。馬車も辛うじて破壊を免れ、御者が怯える馬をなだめている。
(助かった……でも、どうしてネーベルスタンがここに……)
 ほっと胸を撫で下ろしながら、ヌヴィエムは岩壁から軽やかに降りてきた彼を見上げた。ネーベルスタンは汗一つかいていないような涼しい顔で、槍を収める。
「いつまでも来ないから、何かあったのではと見に来たら案の定だ。まったく、お前らは危なっかしい」
「ありがとう、ネーベルスタン。あなたが来てくれなかったら、あたしたちはどうなっていたか……」
 ヌヴィエムは震える声で礼を言う。ネーベルスタンは照れるでもなく、淡々とした口調で返した。
「感謝なら要らん。どうせお前は、この先も幾度となく窮地に陥るだろう。今日だけ助けても意味はない。……しかし、わざわざこんな危険な峡谷を通ってきたということは、私を訪ねに来たんだろう?」
「ええ、その通り。あなたと話がしたくて……ここを抜けて、あなたの隠居先に向かうつもりだったの」
「ふむ、なるほどな」
 ネーベルスタンは辺りの護衛兵をぐるりと見渡し、被害の程度を確認するように目を細めた。数名が矢傷を負っているが、致命傷ではないようだ。
「とにかく、ここで立ち話もなんだ。お前たちが動けるなら、私の小屋まで来い。多少の医薬品と休憩場所くらいはある」
「助かります……! すぐに兵を整えて、向かいます」


 ネーベルスタンが先導してくれたおかげで、ヌヴィエムたちは峡谷を脱出し、山間の小道をしばらく進んだ。しばらく行くと、木立に囲まれた場所に小さな石造りの小屋が見えてくる。
 岩肌の中腹に建てられたその小屋は、質素だが要塞のように頑丈に見える。周囲には熊や狼の襲撃を防ぐための柵もあり、物静かな隠居生活を送るにはちょうどよい場所だ。
「ここが私の隠れ家だ。まぁ、物好きには居心地が良いかもしれんが、貴族にとっては不便極まりないだろう」
 ネーベルスタンが扉を開けると、中には薪の暖炉があり、壁には古びた槍や剣が何本か掛けられている。棚には薬草や干し肉が整然と並び、奥の部屋からは寝台らしきものが覗ける。
「すごい……意外と生活感がありますね」
 ヌヴィエムは小屋の内部を一瞥しながら、何とか微笑みを返す。護衛兵たちも傷ついた仲間を連れ、ネーベルスタンの指示で治療や応急処置を始める。
 ネーベルスタンは暖炉に火を起こし、湯を沸かし始めた。
「疲れただろう。少し休め。それから本題とやらを聞こうじゃないか」
「……はい、すみません、お言葉に甘えさせてもらいます」

 ヌヴィエムは小さな椅子に腰を下ろし、音術装置を外して肩のこわばりをほぐす。一方、ネーベルスタンは棚から薬草を取り出し、簡単な治癒薬を調合し始めた。
「お前たち、山道でよく賊に遭ったな。最近、チャールズ側の動きが活発だ。オート侯家が内輪揉めしているのを見透かしたように、兵や傭兵を雇ってあちこちで襲撃させているらしい」
「やっぱり、ヤーデ伯チャールズが関わっているんですね……。城のほうも度重なる賊の侵入で疲弊しています。あたしがここへ来たのも、その状況を少しでも変えたくて……」
 ヌヴィエムは視線を落とし、言葉を探しながら続ける。
「ネーベルスタン、お願いがあるの。あなたを正式にオート侯家の将軍としてお迎えしたい。今まではユリウスの剣の指導や、時々城を手伝っていただいただけだったけれど……あなたのような実戦経験豊富な人が、軍事面を統括してくだされば、きっと領地の防衛も安定するわ」
 その言葉に、ネーベルスタンは薬草を調合する手を止め、ゆっくりと顔を上げる。彼の瞳には鋭い光が宿り、ヌヴィエムをまっすぐ射抜いた。
「……将軍、ね。かつて私は他の君主や領主に仕えたことがあるが、いずれも“対立”や“陰謀”に巻き込まれ、戦場を渡り歩くうちに失望してきた。だから隠居したのだぞ」
「知っています。でも、あたしはどうしてもあなたの力が必要なんです。父カンタールも、あなたを深く信頼していた……」
 ヌヴィエムは懸命に言葉を紡ぐ。
「オート侯家は今、ガロード兄上とベルトラン兄上の対立が激しく、ヤーデ伯チャールズの暗躍もあって不安定です。でも、だからこそあなたのように“守る剣”を真に理解し、実戦で指揮できる人が不可欠なんです。どうか、力を貸してください……!」


 ネーベルスタンはしばらく沈黙を保ち、暖炉の炎をじっと見つめる。湯気が立ち上る鉄のポットからは薬草の香りが漂い、小屋の中はかすかに暖かい空気に包まれる。
 やがて、彼は口を開いた。
「ヌヴィエム、お前はガロードやベルトランが起こす内紛をどうやって止めるつもりだ? 私が将軍になったところで、兄弟同士が刃を向け合うなら意味がない。むしろ、私が彼らのどちらかを弾圧するのか? それともお前は、自分が当主になってすべてをまとめたいのか?」
 問われたヌヴィエムは視線を揺らしながら答える。
「正直、あたしは当主の資格があるとは思っていません。でも、父上の遺志を継ぎたい。ガロード兄上もベルトラン兄上も、オート侯家を愛していることに違いはないと信じたいんです。だから、対話や和解の道を模索して……」
「甘い考えだと言われるかもしれんぞ」
 ネーベルスタンが厳しい調子で続ける。
「何より、お前はまだ若い。“犬の子”と侮られている。実力も政治経験も未熟な状態で、どうやって彼らを説得し、まとめ上げるのか。私が口を挟めば、それは圧力にしかならないだろう」
「それでも、あたしは諦めない。あたしには音術があるし、エレノアもユリウスもいる。家臣だって、平和を望んでいる人は大勢います。術や力だけがすべてじゃない……“戦わずに勝つ”という信念を、あたしは捨てたくないんです」
 ヌヴィエムの瞳には涙にも似た熱い思いが浮かんでいた。ネーベルスタンはその表情を見つめ、低く息を吐く。
「……“戦わずに勝つ”か。お前は若いのに、面白い夢を語る。しかし、私は現実主義者だ。戦場を渡り歩き、仲間の死も多く見てきた。戦わずに済むなら、それが一番だと心底思うが、そううまくはいかんことも学んだ」
「はい、それはわかっています。でも……もし戦いになったときこそ、あなたの力が必要なんです。あたしの理想を現実に引き戻してくれるのも、あなたのような経験者だと思うし……」

 ヌヴィエムの声が震え、熱を帯びていく。ネーベルスタンは再度黙り込み、暖炉の前で膝をついて薬草の湯を注いだ。湯気があたりをふわりと包み込み、小屋に穏やかな時間が流れる。
「……なるほど。ユリウスがお前のもとで剣を振るう理由も、少しだけ理解できる気がするな」
「ユリウスは術が使えなくても、必死に頑張っています。あなたの教えを支えにして……あたしも彼を誇りに思っている。だから、あなたにもオート侯家に本格的に戻ってきてほしい。どうか――」


 その時、小屋の外で物音がした。護衛兵の叫び声が聞こえ、ヌヴィエムは驚いて立ち上がる。ネーベルスタンも槍を手にし、扉のほうへ足早に向かった。
「また賊か……? さっきの峡谷の連中が追ってきたのかもしれん」
 扉を開けると、そこには先ほどの賊とは違う雰囲気の一団がいた。黒ずくめなのは同じだが、より統制の取れた動きをしており、刀剣の質も上等そうだ。
 護衛兵が応戦しようとしているが、数で圧倒されそうな気配がある。賊のリーダー格と思しき男が片手に火の玉を生み出し、威嚇するように周囲へ熱気を放っていた。
「おいおい、こんな山の奥まで逃げ込むとは手間をかけさせるな。ヌヴィエム様、あんたの首をいただけば、ヤーデ伯様からたっぷり報酬が出るって話だ」
「ヤーデ伯チャールズ……やはりあなたたちも、あの方の差し金ね」
 ヌヴィエムは護衛兵の脇に立ち、音術装置を再装着する。ネーベルスタンが槍を構え、低く唸るように言った。
「どいつもこいつも、よほどオート侯家を追い詰めたいらしい。貴様ら、私を知らんのか?」
「へっ、ネーベルスタン将軍だろう? 知ってるさ。あんたがいるからこそ、わざわざ多めの人員を連れてきた。引退した老剣士の腕とやら、確かめさせてもらうぞ!」

 男が火の玉をさらに大きくし、投げ放つ。周囲が一気に熱気を帯び、地面が焦げる。護衛兵が悲鳴を上げて転がり、ネーベルスタンはすかさず槍でその兵を守るように弾き飛ばす。
「ヌヴィエム、部下を無駄に死なせるな。ここは私が前に出る」
「でも……あなた一人では!」
「心配するな。お前は音術で援護しろ。兵には指示を出して建物周辺を固めさせろ。短期決戦でケリをつける」
 ネーベルスタンはそう言うと、一気に外へ飛び出した。槍の先端が陽光を反射し、鋭い閃光を放つ。その背中は隠居していた時の穏やかな雰囲気とはまるで別人――まさに“将軍”と呼ぶにふさわしい威圧感が漂う。


 小屋の前の空き地で、ネーベルスタンと賊のリーダー格が火花を散らす。火の玉が連続して放たれるが、ネーベルスタンは冷静に見極めて槍を振るい、ある時は地面を抉り、ある時は空中に跳躍して攻撃をかわしつつ、確実に間合いを詰めていく。
 一方、周囲の賊も護衛兵たちに襲いかかるが、ヌヴィエムが音術で援護する。美しくも力強い旋律が夜風に乗り、兵たちの疲弊した身体と心を奮い立たせる。
「くそっ、またあの歌か……!」
 賊の一人が耳を塞ごうとするが、逆に視界が疎かになり、護衛兵が突きを繰り出して倒す。メロディに込められた心理干渉が、敵の連携を乱すのだ。
 火の術を操るリーダー格はネーベルスタンの槍が届く距離を察知し、詠唱速度を上げて火球を乱発する。ネーベルスタンは黙々と槍を回しながら回避と防御を繰り返し、ゆっくりと距離を詰める。
「フン、老いてなおこの動きとは……だが、火の術に勝てると思うなよ!」
 男が両手で大きな火の渦を作り出す。周囲の温度が瞬時に上昇し、木々の枝がはじける音が聞こえた。
「まずい! あれは……!」
 ヌヴィエムが察知して警戒する。大規模な火炎放射のような攻撃で、一度発動すれば広範囲を焼き尽くす可能性がある。このまま放っておけば小屋や護衛兵がまとめて被害を受けるかもしれない。
 ネーベルスタンはわずかに眉をひそめ、槍を両手で握り直す。
「これ以上、好きにはさせん!」
 立ち止まるやいなや、槍の石突きを地面に叩きつけて身体を捻る。そして驚くほどの跳躍で男の頭上へ躍り出た。炎の渦が完成する一瞬手前、槍の先端がリーダー格の胸元を突き下ろす。
「ぐあっ……!」
 突きは完全には深く刺さっていないが、男の詠唱を乱すには十分だった。火の渦が乱れ、周囲に飛び散りながら消滅していく。
「くっ……こんな……化け物め……!」
 男は苦悶の声を上げつつも短剣を抜き、ネーベルスタンの胸を狙おうとするが、次の瞬間、槍の石突きで手首を強打され、短剣を取り落とす。
「……終わりだ」
 ネーベルスタンが静かに言い放つ。男は恐怖に顔を歪め、血を吐きながら膝をついた。周囲の賊はすでに護衛兵とヌヴィエムの音術でほぼ制圧されており、逃げ出す者も続出している。こうして、一瞬にして形勢は逆転した。


 戦いが終わり、小屋の前には倒れた賊と捕縛された者が転がる。護衛兵が怪我人を手当てし、ヌヴィエムはほっと胸を撫で下ろす。
 ネーベルスタンは槍を静かに収め、男の横に立つ。男は怯えながら顔を上げ、口汚く罵る。
「くそっ……チャールズ様が必ず報復してやる……覚えていろ……!」
「好きに言うがいい。お前のような卑怯者には、明日など来ないかもしれんがな」
 冷徹な視線でネーベルスタンが言うと、男は黙り込む。ヌヴィエムの指示で、捕虜は護衛兵によって拘束され、あとで城へ連行することになった。
「……これだけの人数を送り込んでくるなんて、ヤーデ伯は本気であたしたちを潰す気なのね」
 ヌヴィエムは険しい表情で呟く。ネーベルスタンは槍を置き、再び彼女のほうへ向き直った。
「いいか、ヌヴィエム。今の戦いでわかっただろう。ヤーデ伯が本腰を入れてきた以上、オート侯家は一枚岩でなければ対抗は難しい。お前が言う“和解”や“分散的な統治”という理想だけでは、どうにもならぬ時が必ず来る」
「……わかってます。でも、それでもあたしは、兄弟や民を見捨てたくない」
 ヌヴィエムの瞳には迷いもあるが、その奥にはゆるぎない意志の光が見える。ネーベルスタンは苦笑のような微かな笑みを浮かべ、暖炉のほうへ戻って行く。
「ならば、私ももう一度だけ賭けてみよう。この老骨がどれほど役に立つかわからんが……。“将軍”という肩書きを背負って、再び戦場に立ってやる」
「え……それって……!」
「お前の依頼を受けよう、ヌヴィエム。私を正式にオート侯家の将軍として迎えたいのだろう? だが条件がある。私には“絶対の指揮権”を与えてもらう。兄弟間の争いには口を出したくないが、軍事に関しては私が許可しない限り、誰も勝手に兵を動かせないという約束だ」
 その言葉にヌヴィエムは一瞬戸惑う。ガロードやベルトランがそんな条件を受け入れるかどうか――想像するだけでも大きな火種になるのは明らかだ。
 しかし、ネーベルスタンの表情から揺るぎない決意が感じ取れた。今まで彼が“半ば協力”に留まっていた理由こそ、こうした曖昧な体制では再び無駄な争いに巻き込まれると分かっていたからなのだ。
「……わかりました。難しい交渉になると思いますが、あたしはあなたのその条件を尊重する方向で進めます。もしガロード兄上やベルトラン兄上が納得しなくても、説得する努力はします」
「フン、無理なら無理で構わん。私はお前の言葉を信じよう。お前が和解を目指すと言うなら、私も一肌脱いでやるまでだ」
 ネーベルスタンは視線を暖炉に落とし、火の揺らめきを見つめる。その横顔はどこか哀愁を帯び、長い戦場人生を物語っているようだった。


 小屋の中に戻り、護衛兵が簡単に傷の処置を済ませると、ヌヴィエムとネーベルスタンは向かい合って座る。まだ外では兵たちが賊の死骸や捕虜の処理に追われているが、とりあえず大きな脅威は去った。
「さて、正式な話を聞こうじゃないか。私が将軍になったとして、具体的に何をすればいい?」
 ネーベルスタンが静かに問う。ヌヴィエムは深呼吸してから答える。
「まずは城へ戻り、ガロード兄上とベルトラン兄上にこの決定を伝えたいです。正式な場を設けて、あなたを“オート侯家総軍司令官”──通称“将軍”の地位に就ける。軍事の統括と、ヤーデ伯への備えを主導してほしいんです」
「ガロードが黙って従うとは思えんがな。奴はすぐに力を振るうタイプだし、ベルトランは暗躍を好むタイプだ。どちらも『なぜ今さら隠居した老人に権威を渡す』と文句を言うだろう」
「ええ、ですが……あたしが当主代理として二人に説得を試みます。父上の遺言にも、“ネーベルスタンを敬え”といった旨の文言が残されているんです。少なくとも、二人が正面切って反対するのは難しいと思います」
 ヌヴィエムはそう説明しながら、内心では大丈夫かと自問している。ガロードとベルトランがあっさり受け入れるとは到底思えない。しかし、ヤーデ伯の暗躍がここまで顕在化している以上、今こそ一枚岩になる必要があるという論理は説得材料になりうる。
「ふむ、つまりお前は当主の座を明確に宣言するつもりか? それとも“代理”のまま通すのか」
「正直、そこはまだ迷っています。あたしは父上の娘だけど、異母兄弟たちのほうが年長ですし、政治経験も長い。反発されるでしょう。でも、統一的な指令系統をまとめるには、誰かがトップに立つ必要がある」
「ならば、お前が堂々と名乗れ。それでこそ、私も動きやすい。私の条件は先ほど言ったが、ここに一つ加えておく。お前が当主としての責任を負い、私が将軍として軍を預かる。二重権力はごめんだ」
「……わかりました。腹を括ります。あたしが当主になると言って、兄たちを説得してみせます」

 ヌヴィエムは決意を固める。父の死後、いずれはこうなるだろうと思っていたが、いざその時が来ると不安は大きい。しかし、ネーベルスタンが力を貸してくれるなら、きっと大きな後ろ盾になるはずだ。


 賊の処理が一段落し、傷ついた兵たちにも応急手当が行き届くと、ヌヴィエムたちはネーベルスタンとともに城へ戻る準備を始めた。
 護衛兵たちの表情には安堵の色が浮かんでいる。危機的状況を乗り越えたうえ、ネーベルスタンという強力な味方を得られたことへの期待感が感じ取れた。
 馬車に乗る前、ヌヴィエムは改めてネーベルスタンに向き合う。
「ありがとう、ネーベルスタン。あなたが来てくれなかったら、あたしはもう二度と城に戻れなかったかもしれない」
「礼はいい。どうせ、お前はこの先も戦火の中に飛び込むのだろう? 一度助けた程度では済まない」
 ネーベルスタンはそっけない口調だが、その目にはどこか優しさが宿っているようにも見える。
「では、行こうか。ガロードとベルトラン、そしてユリウスがどう出るか楽しみだ」
 そう言って、ネーベルスタンは馬の手綱を握り、先導するように歩き出す。ヌヴィエムは彼の背中を見つめながら、自分が進むべき道を改めて見据えた。

 ――こうして、ヌヴィエムはネーベルスタンを正式にオート侯家の将軍として迎えるための第一歩を踏み出す。
 もちろん、この先はガロードとベルトランの反発が予想されるし、ヤーデ伯チャールズの動きもなお一層活発化するだろう。しかし、老将ネーベルスタンの剣がオート侯家を新たな局面へ導くと信じて、ヌヴィエムは馬車の窓から差し込む陽光を顔に受け、目を閉じる。
 音術を紡ぐ唇が微かに動き、誰にも聞こえないほど小さく“未来への調べ”を口ずさむ。そのメロディはどこか儚く、けれど確かに力強い響きを宿していた。


 夕暮れ時、再び城門が開くと、見張り台の兵たちが目を丸くする。帰ってきたヌヴィエムの馬車には、老練の剣士ネーベルスタンが並んで歩いているのだ。
 城内ではユリウスが待ちわびたように駆け寄り、エレノアや侍従長、その他の家臣たちも興味津々に集まる。ガロード派やベルトラン派の兵も遠巻きにその光景を見守り、静かな熱気が漂う。
「ヌヴィエム様……無事で何よりです! ネーベルスタン閣下まで……」
「ご報告があります。近々、正式な場を設けます。ネーベルスタンをオート侯家の将軍として迎えることになりました!」
 ヌヴィエムが城壁に向かって声を張り上げると、家臣や兵の間にざわめきが広がる。ユリウスは目を輝かせ、エレノアは面白そうに口元をほころばせる。
 一方、ガロードやベルトランの動きはまだ見えない。二人は各々の派閥を率いており、この知らせをどう受け止めるのか。それは今後の大きな試練となるだろう。
 しかし、ヌヴィエムは自分の決断を後悔しなかった。父の遺志を継ぎ、家族をまとめるためには、剣と実戦経験を極めたネーベルスタンの存在が欠かせない――そう信じている。
 こうして、“ネーベルスタン将軍の引き抜き”は成功した。だが、真の波乱はこれから始まる。オート侯家を一つにまとめるための説得と、ヤーデ伯チャールズが仕掛けてくるさらなる陰謀が、ヌヴィエムたちを待ち受けているのだ。

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