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天蓋の欠片EP8-2

Episode 8-2:観測者の告白

まだ薄暗い早朝。ビル街が朝の通勤ラッシュを迎える前の時間帯は、人の気配がほとんどなく、風が小さく吹き抜けるだけの静けさに包まれていた。その高層ビルの屋上に、一人の少女――煤織蒔苗(ススオリ マキナ)が立っている。

風になびくプラチナブロンドの髪は、月光を受けてうっすらと輝き、虹色の瞳がまるでガラス玉のように無表情な光をたたえている。彼女が「観測者」と呼ばれる存在であり、ユキノやカエデ、そしてエリスたちが巻き込まれている争いを、ずっと遠巻きに見つめていることを知る者は少ない。
今夜も、蒔苗はこのビルの屋上から街を見下ろし、タスクフォースの車の動き、真理追求の徒の暗躍、ユキノやカエデの足跡などを、まるで鳥の目のように俯瞰していた。しかし、しばらく続けてきた観測に対し、彼女の中に小さな揺らぎが生じている――人々の思いや衝突を目にするうちに、完全に無干渉でいられない自分を感じ始めているのだ。
「……この世界の行方は、あなたたち次第」

そう小さくつぶやく声は風にかき消され、夜明けの空に溶け込む。蒔苗の役割はあくまで観測するだけ――本来はそうだったはず。だが、ユキノとカエデ、そしてエリスたちを観察していくうちに、蒔苗の中には微かな感情が芽生えつつある。それが何であるか、彼女自身もよく分かっていない。
もしその感情が“観測”の枠を超えるとき、蒔苗はどう動くのか――今やそれこそが、彼女自身にとっての“疑問”になりつつあった。


薄曇りの朝。ユキノは昇降口から靴を履き替えてクラスに向かい、カエデと合流する。タスクフォースの護衛が校内を巡回するのもすっかり見慣れた光景になってしまったが、ユキノは相変わらず落ち着かない。最近は襲撃がひんぱんになり、さらに謎の“小競り合い”ばかり起こる奇妙な状況で、彼女も嫌でも成長していくしかないと感じている。

「ねえ、ユキノ……朝から悪いけど、ちょっと相談があるの」
カエデが控えめに声をかける。二人はクラスメイトのナナミに軽く挨拶してから、ホームルームが始まる前に廊下の隅へ移動する。
「どうしたの? 顔が少し青いよ……」
「……実は、昨日の夜、蒔苗を見かけた気がするの。私の家の近くのビルの屋上で、こっちを見下ろしてたように感じて……。でも、すぐに消えてしまって。気のせいかもしれないんだけどね」

ユキノは息を呑む。蒔苗がカエデの居場所をわざわざ覗いていたということなら、“観測者”として何かを伝えようとしているのか、それとも彼女自身が何かしらの決定を下す寸前かもしれない。
「そっか……先生(エリス)には言った?」
「まだ。朝も時間がなくて。……観測者が私を見ているなら、何か意味があるんだろうか。それともあの子が単に私たちを監視してるだけ……ちょっと怖い」

カエデの声には不安が混じっているが、同時に何かを期待するような揺らぎもある。ユキノは「わたしも蒔苗を時々見かける。学校や街のビル屋上……あの子はいつも遠くから見てるよね。直接会話したこともあるけど、何を考えてるか分からない……」と思い返す。
そんなとき、教室から「ホームルーム始めるよ」という担任の声が響き、二人はあわてて席に戻る。クラスが落ち着きを取り戻す中で、ユキノとカエデは胸にかすかな疑問を抱えたままだ。「蒔苗――あなたは本当は何をしたいの?」と。


同じ日の午後、探偵エリスは事務所を抜け出して、情報屋が潜む裏通りへ足を運んでいた。朝の路地裏で確信した“タスクフォース内部にスパイがいる”という話をさらに深掘りしなければならない。しかし、情報屋との接触はリスクを伴うため、慎重に動かねばならない。
「よう、また来たのかい、エリスさん」
ボサボサ頭の情報屋が小さく笑い、シャッターの裏にエリスを誘導する。「最近、あんたが色々探ってるって噂が流れ始めてるぜ。気をつけな。真理追求の徒もタスクフォースの上層部も、あんたを警戒してるかも」

「助言ありがとう。だけど私がどんな動きをしようと勝手でしょ。で、何か新情報は?」
エリスが腕を組むと、情報屋は空を仰ぎながら「どうやら“儀式”って言われるものが、そう遠くない時期に行われるらしい。蒔苗の力――あるいは生成者のオーラを最大限利用して次元をこじ開ける、とかさ。まあ半信半疑だけど、連中が本気ならやばい」と言う。
探偵は眉をひそめ、「儀式か……いつ、どこでやるかの情報は?」
「そこまで詳しくは掴めてない。たぶん、あいつらは“大いなる鍵”と呼ぶ何かを揃えなきゃならないらしく、まだ準備段階らしい。これまでの小競り合いはその準備なんだろうな。蒔苗に関しても、どこかで存在を取り込む術を確立しようとしてるとか。まるで狂信的な計画だよ」

エリスは静かにうつむく。「蒔苗の存在は、次元崩壊を招きかねないと言われている。連中が下手に干渉すれば、私たちも巻き添えを食う。……やはり急がなきゃならないわね」
情報屋は鼻を鳴らし、「あんた、命知らずだよな。タスクフォースに全部話して協力してもらえばいいだろうに、なぜ隠して動く?」と尋ねる。エリスは苦い笑みを返す。「タスクフォースにスパイがいるかもしれないからよ。私が信じられるのは、限られた人だけ。……あなただって、完全には信用してないんだからね」

情報屋は肩をすくめ、「まあね。でも俺も生き残りたいから、良い嘘はついてないよ。あんたに協力するしか、生き延びる道がない気がするからさ」と言い、手をひらひらさせて別れの挨拶をする。エリスは深くため息を吐き、「死なないでよ、まだ聞きたいことがあるんだから」とだけ言い残して路地裏を後にする。
頭の中には、スパイの存在、真理追求の徒の儀式、蒔苗の危険性――複数のファクターが絡まり合い、複雑な疑念の渦を巻いている。ユキノやカエデの力がどこまで通用するか、試される日が刻一刻と迫っているとしか思えない。


夕方近く、校舎の廊下でユキノとカエデが顔を合わせる。「今日はエリスさんに会いに行くって話、してたよね」とカエデが切り出し、ユキノも頷く。「うん。あたし、痛みの訓練を続けたいし、カエデさんも“心を殺すんじゃなくて受け止める”やり方を試したいって言ってたし、先生がアドバイスしてくれると思う」

二人は護衛の隊員に声をかけ、「これから探偵事務所へ行きます」と伝える。隊員は「分かりました。すぐ車を回します」といつも通りの対応をするが、ユキノとカエデの心のどこかに“不安の棘”が引っかかっていた。タスクフォース内部のスパイというエリスの推測を知らないわけではないからだ。だが、今はほかに方法がない。

探偵事務所に到着すると、エリスは既に戻っており、書類を眺めながら溜め息をついていた。二人の姿を見て「ちょうどいいタイミングね。あなたたちを待ってたところ」と声をかける。
「先生、すみません。急に来ちゃって……でも、カエデさんが“痛みを受け入れる”訓練を私と同じようにしたいって言うから」
「いいわよ。むしろカエデも来るのが理想。二人いっしょなら成長も早いしね。少し事務所を片付けたら、夜に廃ビルで軽く練習してみる?」

カエデは目を伏せ気味に頷く。「うん、よろしく……私、自分がどう変わるか不安だけど、ユキノを見てるとやり方があるんじゃないかって思ってる」
エリスはソファから立ち上がり、リボルバー型射出機を手に取る。そこへアヤカが突然やって来て、ドアを軽くノックして入室する。「エリスさん、ユキノたちもいるのね……ちょうどよかった。私もそろそろ二人の訓練をサポートしないと、真理追求の徒の本命が来る前に対処が遅れるかも」

エリスは一瞬、視線を伏せる。情報屋の話を思い出し、アヤカを完全に信用していいのか疑問を抱えつつも、ここではあえて笑顔を返す。「そうね、あなたも力を貸して。二人の痛みを減らすための医療サポートも要るでしょうし」
ユキノとカエデは顔を見合わせ、「アヤカさんも協力してくれるなら、心強いかもね……」と素直に喜ぶ。一方、エリスの胸中には“スパイは別の人物かもしれないが、アヤカの周囲にも怪しい人物がいないとも限らない”という猜疑が燻る。それでも言わない――今は協力が最優先だからだ。


夜になり、ユキノとカエデ、エリス、そしてアヤカが廃ビルの二階フロアに集まった。タスクフォースの隊員も数名が外で警戒しているが、中では主にエリスが指導役になり、アヤカは医療用具や安全対策を担当する。
「ここなら多少騒いでも大丈夫。あらかじめ備品も用意してあるから、思い切りやりなさい」とエリスが促す。ユキノがいつものように胸に射出機を当て、痛みに耐えながら弓を出すところをカエデが見つめる。

「そうか……確かに、こうして“恐怖”から逃げないで受け止めれば、痛みは少し和らぐんだね」
カエデは納得したように頷き、自分の胸に手を当てる。彼女の生成方法はユキノとは少し違い、研究施設で習得した“無理やりの制御”が基本になっている。しかし、ここで初めて、“心の中心”を撃ち抜く方式を試そうとしていた。

「私……いつも自分の心を殺して、刃を作ってた。だから反動が大きくて、あとで意識が混濁することもあった。だけど、ユキノがやっているように“痛みを自分のものとして受け止める”なら、もっと自由に刃を操れるかもしれない」
「うん、私もまだ完全じゃないけど……一緒にやろう」

カエデは目を閉じ、胸の中心を想像する。そこへ射出機を当てるわけではないが、意識の中で“自分自身を撃ち抜く”イメージを作り、紫のオーラを凝縮しようと試みる。すると背筋に激痛が走り、「ぐっ……」と苦しげな声を漏らすが、ユキノが「大丈夫、深呼吸して!」とサポートし、エリスも「痛みに身を預けるのよ」と声をかける。

アヤカが少し離れた位置から見守りつつ、「もし倒れそうなら、私がすぐに処置するわ」と準備を整える。
「うあああ……!」
カエデが思わず叫んだ。紫の光がうねりを起こし、床に歪んだ影を落とす。いつものような鋭い刃の形がなかなか定まらず、激しい乱流となって宙を舞う。ユキノが「頑張れ、カエデさん!」と声を張り上げるが、カエデは顔を歪めて膝を折りそうになる。

(痛い……怖い……どうしてこんなに苦しいの? でも、ユキノができたなら私も……)

内面で渦巻く葛藤。研究施設で刷り込まれた“心を閉ざして強引に刃を出す”やり方とは正反対だ。心をさらけ出し、痛みを受容するのは言葉以上に困難。カエデは呼吸を乱しつつ、それでも引き下がりたくないという意志を奮い起こす。
「くっ……あああっ……!」
絶叫に近い声が夜の廃ビルに響き、紫のオーラが激しく揺らめく。そのとき、ユキノが咄嗟に体を寄せ、手を握る。「落ち着いて……痛みはあなたの一部。閉じ込めるんじゃなくて、受け止めるんだ……! できるよ、カエデさんなら……!」

まるでユキノから力が伝わるかのように、カエデの乱れたオーラが少し落ち着きを取り戻し、紫の影が刃の形へ収束していく。痛みに耐えながら、カエデはようやく腕の先に“紫の光の剣”を作り出し、床を斬りつけるように振り下ろす――凄まじい衝撃がコンクリートを軽く削り、粉塵が舞う。

「成功……した……?」
カエデは膝から崩れ落ちる。ユキノが支えて転倒を防ぎ、アヤカが駆け寄って「大丈夫? 脈拍は……」と確認する。刃の形はすぐにかき消されたが、カエデの表情には達成感と苦痛の入り混じった光が宿っていた。
エリスは腕組みをしながら、「すごいわね……初めてにしては上出来よ。あなた、こんなに素直に心を開いたのは初めてなんじゃない?」と問いかける。カエデは苦笑し、「そ、そうかも……。ユキノと一緒だから、ここまで踏み込めたのかもしれない」と息を吐く。

「痛いよね……私もまだ毎回怖い。けど、二人で支え合えば、もっと強くなれる……気がする」
ユキノは優しくカエデを抱き起こし、アヤカの手伝いを借りて休ませる。確かに痛みは凄まじいが、それを共有し合う仲間がいる――それこそが彼女たちの強みだ。観測者の眼差しがあろうと、真理追求の徒の脅威があろうと、こうして互いに力を高め合う選択をしているのだから。


夜半過ぎ。フロアでの訓練を終え、ユキノやカエデは疲労から仮眠を取っていた。エリスは外で一服しながら、タスクフォースの隊員と連絡を取り合い、警備体制を確認している。アヤカもまた別室でデータを整理していた。
その頃、廃ビルの上階――ほとんど使われていない三階の片隅に、蒔苗がひっそりと姿を現す。誰にも気づかれないように、しかし足音を殺しているわけでもない。彼女はただ、ワンフロア下で眠るユキノたちの気配を感じつつ、窓際に立って夜の街を見下ろす。

「……どうすればいいの、私」

珍しく、自分自身に問いかける独り言。蒔苗はこれまで、観測者として全てを見てきた。しかし、ユキノやカエデが“痛み”を抱えながら力を磨く姿を目にするたび、蒔苗の心が小さく揺れ動いている。彼女たちの努力や絆、それにより生まれる友情――本来なら観測対象に過ぎないはずなのに、なぜか感情がわずかに芽生える。
そのとき、階段から足音が近づくのを察知し、蒔苗は気配を薄めるように隅へ寄る。しかし、慣れていない人間には見つからないレベルの微かな変化――ところが、上がってきたのはカエデだった。
カエデはまだ寝付けなかったのか、ふらりと三階に来て外の空気を吸おうとした様子。夜の薄闇に目が慣れると、視界の端に誰かのシルエットが映った気がする。「……誰……?」と慎重に身構える。

蒔苗はどうするべきか一瞬迷う。隠れてもいいが、何かに突き動かされるように姿を現す。「私よ……」
カエデが目を見開き、「蒔苗……!」と声を詰まらせる。お互いを確認した瞬間、空気が張りつめる。生成者と観測者――一歩間違えば世界の命運を分かつ立場の二人が、夜の廃ビルで対峙している。
「あなた、こんなところで何して……!?」
「……観測していたの。でも、そろそろ私もどうすればいいか分からなくなってきた。あなたたちが力を付ければ付けるほど、私の判断も揺らぐのよ」

カエデは困惑しつつも、刃を出す気配はない。ただ、紫色のオーラがかすかに指先に漂う。「観測者……私たちをただ見てるだけだと思ってたけど、そんなに苦しんでるようには見えないわ。何を迷っているの?」
蒔苗は虹色の瞳を静かにカエデへ向け、「あのね、私はこの世界を潰そうとは思っていない。でも、0次宇宙の秩序を乱す可能性があるなら、私は“観測終了”を選択しなければならない。そうなれば、この世界そのものが崩壊するかもしれないわ」と率直に告げる。

カエデは鳥肌が立つのを感じ、「世界が……崩壊? そんなの……どうして!」と息を飲む。「あなた次第で、私たちの世界は消されるの?」
蒔苗は首を傾げ、「消されるとは限らない。あなたたちが正しい方向へ進むなら、私は観測を続けるし、何もしない。でも、もし真理追求の徒が私を利用し、この世界が危うくなるなら、私は観測を終了して、全てをリセットする可能性がある……」
言葉の節々に寂寥とした響きが混じるが、それはカエデには理解しがたいほどの冷静さを伴う。まるで、“この世界”へ抱く愛着や感情と、“観測者”としての使命がせめぎ合っているかのようだ。

「……そんなの納得いかない。あなた一人の判断で、私たち全員が勝手に消されるかもしれないなんて」
カエデが声を震わせると、蒔苗は少し目を伏せ、「私も納得してるわけじゃない。でも、それが私の“在り方”だから。……ただ、あなたたちがあまりにも面白い存在だから、もっと見ていたいとは思う」と静かに言う。
「面白い……私たちが痛みや恐怖に立ち向かうさまを、あなたは“面白い”と感じるの?」
「そうよ。あなたたちは苦しみを共有し、成長してる。私にはできないことだから。……だけど、それがこの世界を破滅に導くなら、私は止めるしかない。きっとあなたたちも、そんな私を憎むでしょうね」

「ふざけないで……憎むとかじゃ済まないよ、世界が滅ぶなんて」
カエデは思わず震える。蒔苗の冷静な口調は、ある意味で真理追求の徒よりも恐ろしい。だが、蒔苗も内面に葛藤を抱えているのが目に見えて、カエデは言葉を失う。これが“観測者の告白”なのだろうか――世界を左右する権能を持ち、ユキノやカエデの奮闘を見守る、その理由を初めて語った瞬間。

「あなたたちがどう選ぶか、私はまだ見届ける。ユキノもあなたも、面白い存在だから。……ただ、それだけ伝えておくわ。もし私が“観測終了”を決めたら、容赦しない」
蒔苗が一歩後退すると、その身体は薄い光に溶け込むように消えていく。カエデが「待って、蒔苗……!」と呼び止めるが、もはやそこに人影はない。月明かりだけが床を照らし、夜の廃ビルに静寂が戻る。
「そ、そんな……世界が消えるかもしれないって……何それ……」
カエデは膝をつき、立ち尽くす。脳裏をかすめるのは、かつて研究施設で“生成者”の力を奪い合った地獄絵図と、今のユキノやクラスメイトの笑顔。どちらが蒔苗にとっても“興味深い”対象なのか。その狭間で息が苦しくなる。


翌朝、カエデはほとんど寝付けなかったせいで、教室に来ても生気がない。ユキノが「おはよう、カエデさん……何かあったの?」と心配そうに声をかけると、カエデは前を向いたまま無表情に「ううん、大丈夫」とだけ答える。だが、その声音には明らかに力がない。

「ほんとに? 顔、真っ青だよ……」
「……昨日、蒔苗と会ったの。ここで話すとややこしいから、少し場所を変えていい?」

二人は休み時間を利用して、校舎裏の人気のない通路へ向かう。ドアの向こうでカエデが低く息を吐き、「蒔苗が告白したの。“もし真理追求の徒の行動がこの世界を脅かすなら、観測を終了するかもしれない”って……」と震える声で話す。
ユキノの目が見開き、「観測終了……それって、世界が壊されるってこと……?」と青ざめる。カエデは頷き、「ええ。彼女いわく、消されるかもしれないって。私たちがどう頑張っても、蒔苗がそう決めたら終わるって……そんなの……」と苦しげにうつむく。

「まさか、蒔苗がそこまで大きな権能を持ってるなんて。確かに先生は、蒔苗が次元を超えた存在だって言ってたけど……嘘みたい」
「私も、信じられない。でも、あの子は本気で言ってる。私たちの世界ごと消す可能性を持ってるって。……どうするの、ユキノ」

ユキノは言葉を失いかけるが、やがて歯を食いしばって「それでも、まだ決まったわけじゃない。蒔苗は“私たちがどう選ぶか見届ける”って言ってたんでしょ? なら、一緒に戦おうよ。世界を滅ぼすかどうかを蒔苗に決めさせないで、私たちが真理追求の徒を止めて、未来を選ぶんだ」と強い声を出す。
「……そうね。私も、諦めたくない。たとえ蒔苗が冷静に観測してても、私たちがこの世界を守れば、彼女も“終了”なんてしないかもしれない」とカエデはほんのわずかに希望を取り戻す。確かに、蒔苗の眼差しには完全な無関心だけではない何かが宿っているようにも思えた。

「先生やアヤカさんにも話す……?」
「……うーん、どうしよう。でも、先生なら分かってくれるかも。アヤカさんは組織に報告したら大変なことになりそう……」
二人は思案しながら廊下を戻る。ホームルームのチャイムが鳴り、クラスメイトが行き交う中、彼女たちの胸中に新たな“恐怖”と“覚悟”が併存している。観測者の告白――世界の命運が一人の少女(蒔苗)に委ねられているという衝撃が、今後の行動を大きく左右するだろう。


放課後、ユキノとカエデはエリスの探偵事務所へ足を運び、蒔苗の言葉を打ち明ける。エリスは深い衝撃を受けつつ、静かに頷く。「やっぱりね……。観測者が“観測終了”と言えば、この世界が崩壊するかもしれない。私もどこかで聞いていたけど、はっきり告げられると恐ろしいわ」
アヤカも横にいて、じっと考え込む。「タスクフォースの上層部に報告すれば、蒔苗を排除しようと考える人も出てくるかもしれない。でも、そんなことが可能なのか分からないし、下手をすれば彼女を刺激して本当に観測終了をされかねない……」

ユキノは苦しげに「じゃあ、どうしたら……」と問いかけ、エリスは腕組みを解きながら「答えはないわね。蒔苗が見ているのは、私たちの姿勢よ。“この世界に価値があるかどうか”を測っている。なら、私たちは価値を証明するしかない。この世界が消されるには惜しいと思わせる方法を探るの」と提案する。
カエデは視線を伏せて考え込む。「価値……私たちが成長して、何かを成し遂げれば、蒔苗の心を動かせるかもしれない。痛みを乗り越えて、生きることに意味があるって、観測者に示すのか……」

そんな希望的観測を口にするが、背後にはエリスの抱える“疑念”――真理追求の徒の大いなる儀式と、タスクフォース内部のスパイ――という問題がなお絡み合っている。いくらユキノたちが成長しても、真理追求の徒が蒔苗を利用すれば、あっという間に世界は崩壊の危機に陥る。

「私には別の問題もある。真理追求の徒がわざと捕まってる事実――あれを突き止めないと、私たちの動きが読まれて逆手に取られる可能性が高い。観測者の告白どころか、私たちが蒔苗を説得する前に、真理追求の徒が蒔苗を取り込むかもしれない」
エリスの言葉に、アヤカも同意する。「そう、いま私たちが自由に動けるのは、彼らがまだ本気を出してないからかもしれない。でも、本番が迫れば、生成者たち――ユキノ、カエデを一瞬で連れ去るくらいの兵力を送り込む可能性だってある」

ユキノは拳を握りしめ、「……私、負けないよ。成長したし、痛みだって以前より怖くない。カエデさんも一緒なら、もっと頑張れる。でも……何が起きても、“観測終了”はさせない。私たちがこの世界を守るんだから」と声を強める。
カエデも意を決したように顔を上げる。「私も賛成。蒔苗が何と言おうと、世界をそう簡単に諦めさせたくないし、真理追求の徒に好き勝手させたくない。もう、研究施設に戻るのは二度と嫌だしね」

そんな二人の決意に、エリスとアヤカは目を見合わせ、苦笑まじりに心の底で安心する。彼女たちが揺るぎない意志を持っているのは心強い。あとは大人側がどう動くか――そこが問題だ。


夜。日中の談合を経て、エリスは単独でビルの屋上に立ち、夜風を受けながら静かに思案していた。探偵としての勘が「今夜、蒔苗が出てくるかもしれない」と告げるのだ。実際、蒔苗が夜の屋上で現れるのは珍しいことではないが、最近は特に観測を活発化させている様子がうかがえる。
すると、まるでエリスの思惑を読んだかのように、風の音もなく蒔苗が姿を現す。ロングヘアを揺らし、虹色の瞳がエリスを映し出す。探偵の横顔がうっすらと街の光に浮かび、蒔苗はそっと口を開く。

「あなた、ここで何をしているの? こんな夜に風を浴びて……」
エリスは肩をすくめ、「蒔苗こそ、いつも夜にうろついてるじゃない。それを観測って言うんでしょ?」と返す。
蒔苗はわずかに微笑んだ気配を見せる。「ええ、観測している。ユキノやカエデの行動、あなたとタスクフォースの動き……いろいろ面白いわ。だから、まだ“終了”は先送りにしているの」

「……聞いたわよ、カエデから。あなたが世界を壊すかもしれないって話。大きく出たわね」
エリスの鋭い問いかけに、蒔苗は静かに瞳を伏せる。「彼女に告げたのは事実。私は0次宇宙の基層――つまり、全ての次元を支える深層と繋がっている。もしこの世界が取り返しのつかない混乱を起こすなら、私は観測を終了して次元を再編するかもしれない」

エリスは夜風を受けながら、はっきりと言い返す。「好きにさせないわよ。ユキノやカエデは、あなたに世界を壊されてたまるかって、本気で信じてる。あなたは観測者かもしれないけど、干渉しないとは限らないんでしょう? だったら、わざわざ壊すなんて馬鹿な真似はやめてちょうだい」

蒔苗は虹色の瞳をエリスに向け、「あなたたち次第、って何度も言ってるでしょう。もし真理追求の徒が私を取り込み、この世界を乱すようなことがあれば、私は一度リセットするのが最善かもしれない。でも、あなたたちがそれを阻止できるなら、私は観測を続けるだけ」と淡々と述べる。
「ふん……勝手な理屈ね。でも、理解できなくはないわ。ユキノやカエデが懸命に成長してるのは、あなたの観測を乗り越えるためでもある。覚えてなさい、彼女たちはきっとあなたが思う以上の力を発揮する」
エリスは余裕めかして言うが、その胸中では大きな不安が渦巻いている。**もし真理追求の徒が蒔苗に干渉し、世界の均衡を崩してしまったら……**あまりにも危険すぎる賭けだ。

蒔苗は静かに笑みをこぼしたように見える。「そう。その“力”が私を動かすかもしれない。私が干渉しないのは、あなたたちにチャンスを与えるためとも言えるの。さあ、どうするのか、じっくり拝見させてもらうわ」
その言葉を最後に、蒔苗の姿が薄らぎ、ビルの屋上から消えていく。エリスは拳を握り込み、「まったく……くせ者ね、本当に」と呟く。観測者の告白――それはまるで“全知全能”のような力を示唆する脅威であり、一方で“ちょっとだけ手を貸したくなる感情”も滲んでいた。どっちが彼女の本心なのか、探偵としての嗅覚ではまだ断定できない。


翌朝の明るい空気がビルを染めるころ、エリスは事務所で仮眠をとった後、タスクフォースのアヤカに電話をかける。
「……ええ、蒔苗と話したわ。世界を消すかもしれないって、本気で言ってる。だから真理追求の徒が本格的に彼女を取り込もうとすれば、取り返しのつかない事態になるでしょうね」
アヤカの向こうから、深刻な沈黙が返ってくる。「やはりそうなのね……上層部に報告すると大騒ぎになるでしょうし、内通者がいる以上リスクも大きい。でも早く何とかしないと」

エリスは慎重に言葉を選びながら、「そう。ただ、私はユキノやカエデがこの世界を守る力を磨ききるまで、蒔苗が“終了”を宣言しないことに賭けるわ。その間に真理追求の徒を食い止め、スパイを洗い出す。それしかない」と言い切る。
「分かった。私も協力する。……エリスさん、どうか気をつけて。あなたの行動が読まれれば、相手に先手を打たれるかもしれないから」

電話を切ったあと、エリスは歯を磨きながら自嘲気味に笑う。「まったく……こんな大きな事件を相手に、よくもまあやってられるわ。面白いけどね、私の探偵魂に火がついてる」
窓を開けると、朝日が眩しく射し込み、外のビル群が黄金色に染まっている――その中のどこかで、真理追求の徒が動き、蒔苗が観測を続けているのだ。と同時に、ユキノやカエデが眠い目をこすりながら学校へ向かうのだろう。痛みと戦い、友情を築く少女たち……観測者の告白に打ち勝つには、まだ困難が多いけれど、確かな意志が生まれている。

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