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天蓋の欠片EP4-1

Episode 4-1:襲撃

朝の7時過ぎ。雨上がりの曇天が街を包んでいる。天野ユキノは、マンションの自室のベッドに腰掛け、スマートフォンの画面をただ眺めていた。前夜、エリスから再び「話したい」とメッセージが来ていたが、結局返信できずにいる。

(先生、あれからどうしているんだろう……。私も、どうすればいいの……。)

エリスとの衝突後、ユキノは心の整理がつかないまま数日を過ごしている。タスクフォースの監視は相変わらず続き、朝には必ず柊(ひいらぎ)か別の隊員が迎えに来るのが日課になってしまった。
自分がもっと力を付けていれば、こんなに苦しまなくて済むのか――そんな焦りと苛立ちが、まだ胸に渦巻いていた。エリスがあの日、なぜあれほど苛立ちをぶつけてきたのか。頭では理解しようとするが、心がどうしても受け付けてくれない。

「……行かなきゃ。」

結局、重い体を動かして起き上がる。少し早めに身支度を済ませ、朝食はほとんど喉を通らずにマンションのエントランスへ向かう。そこにはやはり柊が待っている。

「おはよう、天野ユキノ。調子はどうだ?」
「……変わりないです。行きましょう。」

短い言葉を交わし、柊の車に乗り込む。車内でもほとんど会話はなく、淡々と学校へ向かう。曇り空からはまた細かい雨粒が落ちてきそうな気配だ。

(先生……事務所には行きたいけど、あの人と会うのが怖い……。でも、私だって、このままでいいわけない……。)

そんな葛藤を抱えながら、ユキノは窓の外に視線を投げる。雨粒が車のウィンドウを流れ落ち、ビルの街並みがぼやけて見える。何かが大きく動く予感がしてならない――それは真理追求の徒の暗躍か、あるいはタスクフォースのさらなる介入か。それとも自分とエリスの関係性か。
やがて車が学校に到着し、ユキノは柊に「ありがとう」とだけ呟いて降りる。校門をくぐってから振り返ると、柊が少しだけ頷いて車を走らせ去っていった。


朝のHR(ホームルーム)が始まる前、クラスメイトたちの会話がいつにも増して騒がしい。廊下や隣のクラスでもざわついている。

「また不審者が出たらしいよ……今度は校舎裏に変なものが置かれてたって……。」
「やばいよね……もう何回目? あれ、マジでテロとかじゃないの?」

ユキノも嫌な胸騒ぎを覚えつつ、ナナミに問いかける。

「校舎裏って……詳しくは分からないの?」
「うん、私も人づてに聞いただけなんだけど。何かの液体入りの瓶みたいなのがあったとかで、警備員が片付けてたって。もう怖いったらないよ……。」

数週間前から続く不審物騒ぎは、いまだに収束していない。タスクフォースや警備員が校内を巡回しているというのに、こんなにも頻繁に怪しいものが置かれているのは異常だ。まるで内部に協力者がいるかのように、管理の目をかいくぐっているかのようだ――そんな噂も飛び交っている。

(真理追求の徒が学校を狙ってるのは間違いないんだろうけど……いつまでこんな状態が続くのかな。)

気分が沈むユキノを見て、ナナミは気遣うように肩に手を置く。「ユキノ、大丈夫? 最近ますます元気ないよね……。無理しないでね。」
「……ありがとう、ナナミ。なんとか頑張るよ……。」

そう答えつつも、心は重い。ユキノ自身も自分が“生成者の候補”だからこそ、学校を巻き込む事態を回避したいと思っている。だが、射出機の訓練は行き詰まり、エリスとの衝突がさらに精神的ダメージをもたらしている。

(もし先生とちゃんと向き合えてたら、今ごろ少しは進展してたのかな……。)

教壇に担任の先生が入り、ホームルームが始まる。先生も疲れた顔をしており、まずは昨夜起きたビル内騒動(真理追求の徒の襲撃未遂)が新聞にも載ったことに触れ、「注意喚起」を促す。生徒たちは大きなため息をつき、陰鬱な空気がさらに漂う。


午前中の授業をなんとかやり過ごし、昼休みと放課後が近づく頃、ユキノの耳に気になる話が飛び込んでくる。クラスの男子生徒が「先生が昼過ぎに、保護者会議があるって言ってた」と話しているのだ。

「保護者会議……また学校側が不審者対策を強化するんだろうけど、何か大きな発表があるのかな……。」
「うわあ……親を巻き込むのか。ユキノの家も大変だね。」

周囲の会話を聞き、ユキノはハッとする。母親にはあまり詳しく話していないとはいえ、こうした会合で事実が知られてしまう可能性がある。自分がタスクフォースの監視を受けていることも、いずれ知られてしまうかもしれない。

(それまでに……先生と話しておかないと……でも、今はまだ顔を合わせるのが怖い……。)

思案に暮れるユキノのスマホが振動した。画面を見ると、なんと蒔苗(まきなえ)からのメッセージが届いているのが分かる。普段、彼女はあまりSNSやメッセージを使わないのに、珍しいことだ。

蒔苗
「放課後、屋上に来て。話したいことがある。」

短い文面。何の話だろうかと怪訝に思いながらも、蒔苗が自分から呼び出すのは初めてかもしれない。ユキノは「わかった」と返信し、放課後に屋上へ向かうことを決める。


放課後。タスクフォースの護衛――今日は柊ではなく別の隊員が来ているらしいが、「帰るまで校内で待ちますよ」と言われている。ユキノは「少し用事があるから……」と断って、ほんの短時間だけ屋上に行くことを伝える。隊員は渋い顔をするが、校内ならと一応了承してくれた。
廊下の階段を上り、屋上へのドアを開けると、そこに蒔苗が立っている。プラチナブロンドの髪が風に揺れ、虹色の瞳が薄暗い空の光を映している。

「ユキノ、来てくれたのね。……ありがとう。」
「どうしたの、蒔苗……。何かあったの?」

蒔苗は静かに首を振ると、フェンス越しに曇り空を見やりながら口を開く。

「最近、あなたがすごく苦しんでいるのは分かる。エリスとの関係もぎくしゃくしてるのよね。」
「……うん……。どうして知ってるの?」
「あなたを観察しているから。――私も学校であなたを見かけるたびに思うけど、あなたのオーラが弱くなっている。まるで心が折れかかっているみたい。」

言い方は端的だが、そこに滲むのは蒔苗なりの心配なのだろう。ユキノは目を伏せながら肩を落とす。

「先生とは、激しくケンカしちゃって……。あのときの先生、本当に怖かったんだ。私のためを思ってるのは分かるんだけど、私が追いつけなくて……。」
「そう……。エリスはあなたに“力”を付けさせたいんでしょう。強くなることが、あなたを守る唯一の手段だと考えている。……でも、やり方が強引すぎた。」

ユキノは頷き、「あれ以来、先生と連絡はとってない。あっちはメッセージくれるけど、まだ返事をしてないの……」と打ち明ける。蒔苗は小さく息をつき、ユキノの目を見つめる。

「あなたが焦らなくてもいいと思うなら、そんなに急ぐ必要はない。それでも周囲が焦りを強いるなら、それをどう受け止めるかはあなた次第。――私はあなたが壊れなければ、それでいいと思ってる。」
「壊れる……。そうだよね……。監視とか、先生の厳しい訓練とか、いろいろ耐えてるけど、私……本当に限界なのかな……。」

蒔苗は首を振り、「限界かどうかは私には分からない。けど、あなたが限界に近いことは確かね。でも、ここで逃げ続けたら、あなたが望む未来からどんどん遠ざかるのも事実」と言う。
その正論にユキノは何も言えなくなる。結局、周囲に動かされているようでいて、自分の意志でどうしたいのか、まだ定まっていない。
――そんなとき、校舎の放送用スピーカーから緊急のアナウンスが流れ始めた。

「校内放送です。生徒の皆さんは速やかに教室へ戻ってください。繰り返します、速やかに教室へ戻ってください。職員室付近で不審な人物が侵入したとの報告が……。」

その瞬間、蒔苗の瞳に警戒の色が浮かぶ。ユキノの心もまた緊張でざわめく。

「また……不審者……。」
「それだけじゃないかもしれない。これは嫌な予感がする。」

屋上のドアを開けたまま、急ぎ足で階段を下りようとした矢先、校舎全体にけたたましいサイレンの音が響き渡った。非常ベルのようだが、いつもの火災報知器とは違う緊急モードらしく、嫌な耳障りな高音が走る。
ユキノは思わず手で耳を塞ぎ、「なに、これ……!?」と叫ぶ。蒔苗は口を結び、階段を駆け下りていく。

「分からない。だけど、ただのイタズラじゃないわね。校舎の中に、真理追求の徒がいる可能性が高い……。」

二人が廊下に降りると、スーツ姿のタスクフォース隊員が数名走り回っているのが見える。生徒たちは悲鳴を上げながら教室に閉じこもるか、あるいは避難経路を探して右往左往している。騒然とした雰囲気の中で、ユキノは蒔苗の後ろを追いかけつつ、階段を下りる。


「ユキノ、危ないから下手に動かないほうがいいわよ。あなたを守りたいけど、私も人間の戦いには慣れてないから……。」
蒔苗が真面目な顔で警告する。ユキノも渋々頷くものの、心の中で“あの光景”がよみがえる。エリスが自分を急かし、痛みに耐えさせようとした理由――こうして襲撃が起こるかもしれないと分かっていたからこそ、エリスは焦っていたのではないか、と。
廊下の角を曲がると、そこにはタスクフォース隊員が数名、警戒態勢を取りながら立っている。ユキノはどこか安心するが、同時に“教師やクラスメイトは大丈夫なのか”という不安も湧いてくる。

「ユキノ、ここにいたか……。蒔苗さんも一緒か。君たち、教室に戻って施錠しろ。真理追求の徒らしき人物が、校内に潜んでいるのが確定したんだ……!」
隊員の一人が切羽詰まった様子で言う。
「そんな……どうして……学校まで?」
「分からん。だが、連中は生成者候補を狙っている可能性が高い。君が標的かもしれない。だから急いで安全を確保するんだ!」

その言葉に蒔苗は一歩前へ出て、虹色の瞳で隊員を見つめる。

「教室に戻っても、そこが安全とは限らないわ。私たちが一堂に集まるほど狙いやすいし……。あなたたちはどうするの?」
「校舎を捜索する。非常階段や裏口は封鎖したが、相手が何かしらの手段を持っていれば簡単に突破されるかもしれない。とにかく見つけ出して制圧しなきゃいけないんだ……。」

隊員の必死な口調に、蒔苗が小さく息をつく。「なら、私とユキノは少し離れた場所に避難するわ。教室に留まっても危険があるなら、私は自由に動けるほうが対処できる。」
「ま、待って……! あなたはただの生徒じゃないのか……?」
「さあ、どうかしら。あなたたちタスクフォースには私の素性を知られる筋合いはないわよ。」

不思議な威圧感が漂い、隊員は言葉に詰まる。ユキノは心の中で(さすが蒔苗、相変わらず超然としてる……)と複雑な感嘆を抱く。
結局、隊員たちは満足に反論できず、「分かった、動くなら十分注意しろ」とだけ警告し、校舎の奥へ走り去っていく。残されたユキノと蒔苗は顔を見合わせ、廊下に漂うサイレンの音を聞きながら決断を急ぐ。

「蒔苗……どうするの? 本当に、私たちで行動して大丈夫かな……。」
「大丈夫かどうかは分からない。でも、あなたを教室に閉じ込めたとして、安全じゃない可能性も高い。私の力で守ってあげられるかどうかは未知だけど、とにかくあなたを連れて安全な場所を探すわ。」

そう言って、蒔苗はユキノの腕をそっと掴む。微かに温もりを感じるが、その手はどこか非現実的な存在感を持つ。二人は廊下を駆け、階段を利用して校舎の離れたフロアへ移動を試みる。
途中、何人かの生徒や教師とすれ違い、「今すぐ避難しろ」「ここに留まれ」と口々に言われるが、統制が取れていないらしく情報がバラバラだ。真理追求の徒がどこに潜んでいるのか、複数いるのかどうかも不明で、生徒も教師も混乱の極みにある。


突如、階段下のフロアから爆発に似た衝撃音が聞こえ、火花のような閃光が廊下を照らす。ユキノと蒔苗は咄嗟に壁際へ身を寄せる。心臓が高鳴り、体が震える。

「な、何……!? 今の……!」
「おそらくP-EMを使った小規模な暴発か、衝突が起きたのね。タスクフォースが交戦してるのかもしれない。」

蒔苗が冷静に状況を分析するが、その虹色の瞳にいつもとは違う揺らぎが見える。普段は“観察者”の立ち位置を崩さない彼女も、さすがにここまで物騒な場面では気が休まらないのだろう。
廊下に焦げたような臭いが漂い始める。悲鳴や怒声が遠くで交錯し、校舎全体が戦場化しているかのようだ。ユキノは恐怖に支配されつつも、どこかで“エリス”の姿を探してしまう。

(先生……先生は来てくれるのかな。でも、私、あんな風に飛び出して……。)

そんな感情が胸をかき乱すなか、突然、階段を上ってきた黒いローブの男が現れた。フードを深く被り、右手には小型の端末のような物を握っている。見た目からして真理追求の徒の構成員だろう。男は蒔苗とユキノに気づくと、嘲笑するように口元を歪めた。

「へえ、こんなところに“生成者”候補がいるとは……。P-EMの供物にちょうどいい……!」

その瞬間、男が端末を操作し、赤黒いオーラが手から溢れ出す。ユキノは背筋が凍りつくが、蒔苗は一歩前へ出て身体を盾にするような構えをとる。

「ユキノ、下がってて。」
「で、でも……蒔苗……あ、あなた大丈夫……?」
「分からない。でも、あなたを傷つけさせるわけにはいかない。……観察者としても、私自身の意志としても、ここで引けないのよ。」

珍しく感情的な響きが混ざる蒔苗の声。男はオーラをうねらせ、床を裂くように衝撃波を放ってくる。
階段の壁が大きくひび割れ、コンクリート片が飛び散る。ユキノは目を見開き、反射的に頭を抱えるが、蒔苗が無音の力場のようなもので衝撃を弾いているのを感じる。

(蒔苗、こんな力が……。)

以前も見せた防御のような技だろうか。虹色の光がかすかに蒔苗の周囲を包み、男の赤黒いオーラを弾き返している。とはいえ、戦闘経験が豊富というわけでもない彼女が、どこまで対抗できるのか――ユキノは不安で足が竦む。
男は苛立ちを表すように「なんだ、その力は……こっちは真理を追求する団だぞ! お前のような正体不明の化け物に負けるわけにはいかない……!」と叫び、また端末を操作する。

「くっ……ユキノ、下がりなさい!」
蒔苗が声を張り上げると同時に、男の手元から赤黒い衝撃波が放たれる。床にうねりが走り、壁に激しい亀裂が走った。階段脇のガラス窓が砕け散り、突風が廊下を抜ける。
その爆風でユキノは吹き飛びそうになるが、蒔苗が素早く腕を取って引き寄せる。だが、二人ともバランスを崩し、床に転倒する形となる。

「ぐあっ……!」
ユキノが肩を打ち付けて痛みを感じる。蒔苗も「くっ……」と低く呻き声を上げ、さすがに防御が破られかけていることが分かる。男は勝ち誇ったように笑いながら、再度端末を掲げる。

「ははは……おしまいだ。生成者候補をここで仕留めれば、我々の計画は一歩進む……!」

絶望が頭をよぎるユキノ。しかし、そのとき急激に廊下の空気が変わった気がした。踏みしめる足音――もう一人の人物が階段の上から姿を現す。


「そこまでよ……!」

聞き慣れた声。ユキノの心が一瞬で跳ね上がる。振り返ると、そこにはエリスがリボルバー型の射出機を構えて立っていた。雨で濡れた髪を払いながら、男を鋭く睨みつける。その表情は冷静というより、明確な怒りが宿っている。
男が驚きつつも「探偵……また邪魔に入るか……!」と叫ぶが、エリスは黙ってトリガーを引く。青い閃光が走り、男の腕を掠める。男はよろけるが、端末を落とさないように必死で耐えた。

「蒔苗、ユキノを守って……そいつは私が止める!」
「……分かったわ……。」

蒔苗は奮起するように体を起こし、ユキノを抱き寄せる。ユキノは戸惑いながらも、エリスの姿に思わず心が揺れる。先日あんなに衝突したばかりなのに、こうして危機に際して真っ先に駆けつけてくれたことが嬉しいのか、複雑な感情がこみ上げる。

(先生……やっぱり来てくれたんだ……。)

しかし、戦闘状況は甘いものではない。男が歯ぎしりをしながら再度衝撃波を放とうとするが、エリスも負けじと射出機を自分の胸に向ける仕草をする――「心の中心」を撃ち抜き、精神構造体を完全展開しようという意思表示だ。
(あの痛みを伴う行為……先生は迷わずやるんだ……。)

ユキノは改めてエリスの覚悟を思い知らされる。同時に、自分がその道を受け入れきれずに逃げているという事実が胸を刺す。
エリスがトリガーを引くと、胸に走る痛みに耐えながら青い光が広がり、周囲の空気を震わせる。男の赤黒いオーラが相殺されるようにかき消されていく。爆発にも似た圧力が階段を揺らし、窓が一枚ビリビリと割れ落ちる。

「ぐおっ……!! なんだ、この力は……!」

男が苦悶の声を上げ、端末を落としそうになるが踏みとどまる。しかし、既に攻撃の勢いは殺がれ、オーラが細くなっている。エリスは苦しそうに肩で息をしながらも、容赦なく二発目の光弾を放つ。
青い閃光が階段全体を満たし、衝撃に耐えきれなくなった男は端末を床に落としてしまう。端末から赤黒い煙が漏れ出すが、装置が完全に作動する前にエリスが射出機を向けると、その煙をかき消すように青い波紋が散らばる。

「ここまでよ……君たちの企みは失敗したわ。」

男は膝をついてうずくまり、うめき声を上げる。「くそっ……お前、ほんとにただの探偵じゃ……ない……。」
言葉を続ける前に、その体がガクッと倒れ込む。どうやら意識を失ったようだ。床には割れた端末や赤黒い液体の跡が残り、悪臭が立ち込めている。
エリスは構造体をゆっくり解除しようとするが、痛みに表情を歪め、その場で片手を床につく。先ほどの激しい戦闘で相当な精神力と体力を消耗したらしい。

「はぁ……はぁ……ぎりぎり……間に合った……。」

呼吸を荒くするエリス。ユキノは思わず駆け寄りたい気持ちに駆られるが、蒔苗が腕を掴んで制止する。

「待って。今、近づくとあなたも巻き込まれるかもしれない。彼女が構造体を解除しきるまで、待ったほうがいいわ。」
「で、でも、先生、苦しそう……!」
「あなたが行っても助けになるかは分からない。……でも、そうね……気持ちは分かるわ。行ってあげて。」

蒔苗が微妙にトーンを変える。ユキノは迷ったが、すぐにエリスのもとへ駆け寄る。膝をつき、うずくまるエリスの肩に手を置く。

「先生……ありがとう……私……。」
「ユキノ……。ごめん、あの日のこと……。」

二人の視線が交わり、しかし言葉を交わす時間はなかった。突如、校舎裏の方でまた大きな爆発音が響き、窓ガラスが震える。エリスがハッと顔を上げ、周囲を見回す。

「まだ仲間がいるの!? ここだけじゃなかったのか……。」

蒔苗が眉をひそめ、「やっぱり複数で動いていたのね……」と呟く。タスクフォースの隊員が廊下の奥から走ってくるのが見え、「爆発! 校舎裏の物置が吹き飛ばされた!」と叫んでいる。
ユキノは驚きと恐怖で立ちすくむ。先ほどの男だけではなく、他の真理追求の徒も別の場所で破壊工作を行っている。それなら、あちこちで衝突が起きているに違いない。


エリスが必死に立ち上がろうとするが、精神構造体を展開した反動で足が震えている。それを見かねて、蒔苗が珍しくエリスの腕を支える形をとる。

「大丈夫? あなた、さっきから相当無理をしてる……。」
「……平気よ。ここでへたばったら、真理追求の徒の思うツボだわ……。」

ツンとした口調だが、目の奥には明らかな疲労が見える。ユキノは「あまり無理しないで……」と声をかけるが、エリスは軽く首を振るだけ。
そこへタスクフォース隊員が息を切らして走り寄る。顔には焦りが浮かんでいる。

「九堂さん、応援を……! 校舎裏からもう一人、生成者候補――いや、おそらくは天野ユキノを名指しで探している男が……。校庭で生徒たちを人質に取っている可能性も……!」
「何ですって……!?」

ユキノの表情が一気に青ざめる。蒔苗がまっすぐに隊員を見据え、「ユキノがここにいることは隠してたんじゃないの?」と問いかけるが、隊員は悔しそうに唇を噛む。

「連絡不足か、あるいは内通者がいる可能性がある……。とにかく急いで校舎裏を制圧しないと、下手をすれば生徒を巻き込んだ大惨事になる……!」

エリスは苦しそうに息を吐き、すぐに射出機のグリップを握り直す。しかし、明らかに体力が限界に近い。蒔苗もそれを察して目を伏せるが、「私が行くわ」と言い出すには自分も負担が大きい。
ユキノがそのやりとりを見つめながら、胸の内で何かが突き動かされる感覚を覚える。――これまでずっと守られるだけの存在だった自分。先生を苦しめ、蒔苗にも負担をかけて、タスクフォースにも監視されながら助けられてばかり。

(私も……何かしなきゃ。あの日、先生があんなに焦ってたのは、こういう最悪の事態を想定してたから……。だったら、ここで私が逃げたら何も変わらない……!)

震える手を握りしめ、ユキノは小さく決意を固める。

「私、行く……。校舎裏に……。だって、私が狙いなら、私が行かなきゃ人質がどうなるか分からないし……。先生、蒔苗……手伝って……。」
二人は驚いたように目を見開く。隊員も「馬鹿な……危険だ……」と止めようとするが、ユキノは揺るぎない目つきでエリスを見つめる。

「先生、私、怖いけど……今しかないと思う。私も一歩を踏み出さないと、いつまでも逃げてるだけじゃ何も変わらない……。先生がやりたかったことって、きっとこういうときに必要になるはずなんだよね……?」

エリスの胸に電流のような衝撃が走る。先日までのユキノは怯えて逃げていたのに、今こうして自ら危険を恐れずに立ち向かおうとしている。その姿に、エリスは自分の焦燥や行き過ぎた厳しさが報われる部分もあると同時に、後悔もこみ上げてくる。

「ユキノ……でも、まだ痛みに耐えられるとは限らないわよ……。もし途中で壊れたらどうするの……?」
「……分かんない。でも、先生がいてくれるなら大丈夫だって思う。そっちこそ、無理しないで……私だって、先生を支えたい……。」

言葉にならない思いが込み上げ、二人の視線が深く絡む。周りの隊員が動揺して「あの、こっちは危険すぎる……」と口を挟むが、エリスが「私たちならやれる。隊員は周囲を固めてくれ。絶対に人質を救い出すわ」と言い切る。
蒔苗は黙って見守り、虹色の瞳に微かな安堵を浮かべているようにも見える。――こうして、ユキノとエリスは再び力を合わせて校舎裏の危機に立ち向かうことになった。


爆音で壊れかけた窓から外を覗くと、中庭を抜けた先の校舎裏に人影が集まっているのが見える。タスクフォース隊員や教師らしき姿が取り囲むように配置され、その中心には黒い衣を纏った二人組が生徒数名を囲んでいるらしい。
ユキノとエリスが廊下を駆け抜け、裏口に到着すると、そこにはタスクフォースのリーダー格らしき人が指揮を執っていた。彼は二人が来たことに驚くが、状況が緊迫しているために大きく止めようとはしない。

「九堂さん、ユキノさん……相手は生徒を盾に取っていて、油断できない状況だ。P-EMを使った脅迫の形跡がある。何でも、“生成者を差し出せ”と要求しているそうだ……。」
「やっぱり……私を狙ってる……。」

ユキノの顔が青ざめるが、エリスが彼女の肩に手を置く。

「ここで逃げたら、あなたの仲間が危険に晒される。……無理はさせたくないけど、行くのね?」
「うん……行く……。私しかいないなら……。」

エリスは微かに微笑んで「ありがとう」と囁く。二人はタスクフォースの指揮官に指示されながら、校舎裏の茂みを縫うように接近する。どうやら男たちは中庭と裏口の間あたりに陣取り、生徒三人を地面に膝をつかせているようだ。緊張で生徒たちの顔が青ざめているのが遠目にも分かる。

「さて、どうしたものか……。正面突破すれば人質に危害を加える可能性があるし……。」
エリスが射出機を握りしめ、作戦を考える。ユキノは心臓が早鐘を打つまま、覚悟を決める。

「私が行く。先生は隠れてサポートして。……彼らは私が出て行けば、多少は動揺するんじゃないかな……。」
「馬鹿言わないで、そんなリスクの高い……!」
「大丈夫、先生がいれば……。あの日の訓練だって……私、少しだけど痛みに慣れてきたから。今こそ使わなきゃいけないんだよね……。」

揺れ動く感情を必死に抑え、ユキノは笑みとも言えない表情でエリスを見つめる。エリスは戸惑いながらも、「あなたを見殺しにするわけがない」と強い眼差しを返す。二人の間に、先日までの溝を超えた通じ合いが生まれつつある。

「分かった……危険だけど、一か八かやるしかない。……私が狙撃の位置からカバーする。あなたが奴らの気を引く間に、私が隙を突いて仕留める。」
「うん……先生、信じてる……。」

そう言い合い、二人は視線を交わす。エリスの瞳には決意が宿り、ユキノもまた恐怖を抱えながら踏み出す勇気を奮い立たせる。タスクフォース隊員が怪訝そうに見ているが、もはや止める術はない。


校舎裏の空き地には、生徒三人が震えながら地面に座り込み、黒いローブの男たちが端末と注射器らしき物を手に威嚇している。いずれも真理追求の徒の構成員と見られ、P-EMを使った犯罪に手慣れている可能性が高い。
ユキノが茂みから姿を現すと、男たちの視線が一斉に集中する。狙い通り、一瞬の動揺が走ったらしく、男の一人が「あの女か……生成者の候補……!」と呟く。

「おい、お前ら……近づくな! こいつらを殺すぞ!」
男が生徒の一人に凶器を突きつけながら叫ぶ。生徒は顔面蒼白で声も出ない。ユキノはその光景を見て身が竦みそうになるが、どうにか耐える。

「私が……天野ユキノ。あなたたちが探してる“生成者”かもしれないけど……そんなことして何の得になるの?」

声を震わせながら問うユキノ。男たちは口元を歪めて笑う。

「得? 我々が得たいのは“真のEM”だ。お前ら適性者を利用すれば、P-EMの暴走をコントロールし、次のステージに進める。ここでお前が来るなら、人質を解放してやってもいいが……どうする?」
「や、やめて……彼らは関係ない……。」

ユキノがそう訴えるが、男たちは嘲笑を止めない。もう一人が「じゃあこちらへ来い」と手招きする。ユキノの足が竦みかけるが、背後でエリスが見守っているはずだと信じ、恐怖を押し殺す。

「ゆ、ユキノ……行かないで……!」
人質となっている生徒の一人――クラスメイトの今井が声を振り絞る。だが、ユキノは「大丈夫、必ず助けるから」としか言えない。

ゆっくりと距離を詰めるユキノに向け、男たちは怪しげな装置を構える。赤黒い液体が揺れ、P-EMの独特の腐臭が漂ってくる。――ここでほんの少しでも躊躇したら、また痛みや恐怖に押し潰されてしまうかもしれない。
(先生……お願い……私を守って……。)

心の中で祈るように叫ぶと同時に、ユキノは射出機のグリップを胸元にあてがう。先日までの訓練で、まだ完全には具現化できなくとも、少しずつ耐える力が育っているはずだ。男たちが余所見している隙を作り出し、その一瞬でエリスが狙撃できれば……。

「おい、こっちへ来い。もう少し……。怖がってるのか?」
「……怖いに決まってるじゃない。でも、あなたたちだって、ここでこんなことして何を得られるの……!?」

声を上げながら、ユキノはさらに数歩前へ進む。その背後では、エリスが茂みから銃口を狙い定めているはず。男たちの注意を引き付けるなら、今が勝負……。
――しかし、状況はそう甘くはなかった。男の一人が怪しんだのか、突然、別の方向へ視線を飛ばして「くそ、茂みだ!」と叫ぶ。もう一人が「待て、狙撃手がいる!」と警戒を強める。

(バレた……先生……!)

一瞬の沈黙。男たちが先手を打つように、生徒の一人の首元に刃を当て、「撃てるものなら撃ってみろ!」と挑発する。ユキノは心臓が凍るような思いで、しかし踏みとどまる。

「やめて……人質を傷つけたら、私……絶対に許さない……!」

震える声で宣言するユキノ。その姿に、男たちが「ふん、口先だけ……」と嗤う。だが、そのとき茂みから一筋の青い光弾が飛び出し、男の腕を掠める。エリスだ――!


「ぐっ……!!」

男の腕に浅い傷ができ、刃を落としそうになる。仲間が慌てて補助するが、そこへ再度エリスが狙いをつける。男たちはオーラを身にまとって守ろうとするが、先ほどほど強力な防御ではないらしい。

(今なら……人質を離れさせられるかもしれない……!)

ユキノは意を決して走り出す。地面に伏せさせられている生徒たちを救い出すため、男たちとの間に割って入ろうとするが、痛みの恐怖がよみがえる――それでも、ここで自分が動かないと誰も救えない。

「やめろ……!!」
男の一人がオーラを纏った拳を振りかぶる。ユキノは胸に射出機を押し当てるようにセットし、意を決してトリガーを引く。指先が震え、頭が割れるような衝撃が走るが、なんとか踏みとどまる。

「っ……ああ……!!」

悲鳴にも似た声が上がる。青い光がユキノの胸元から波紋を作り、周囲の空気をかすかに歪めている。完全な具現化ではないかもしれないが、先ほどより少し強い閃光が地面に揺らぎを走らせ、男の拳を弾く程度の勢いを発揮する。
「なっ……!?」
男は驚き、「こいつ、まだ不完全な生成者のはず……!」と叫ぶが、攻撃は完全に阻止される。

(私、できた……ほんの少しだけど、痛みを超えて……防げたんだ……!)

ユキノは震えながらもう一度トリガーを引きそうになるが、体力が続かない。視界がぐらりと歪み、足に力が入らなくなっていく――しかし、それでも十分だった。エリスがその瞬間を逃さず、二発目の弾丸を正確に撃ち込み、男を床へねじ伏せる。

「があっ……!!」

響き渡るうめき声。もう一人の男も動揺してオーラの制御を失いかけ、チャンスとばかりにタスクフォース隊員が突入し、人質の生徒たちを引き離すことに成功する。
隙をついたエリスが素早く駆け寄り、「ここで終わりよ……」と冷たく呟き、男に追撃の光弾を撃ち込む。男の身体から赤黒いオーラが散り、意識を失って倒れ込む。これで人質は解放された形だ。

「はぁ……はぁ……。」

ユキノは肩で息をしながら、膝をつきそうになる。頭が痛み、胸も焼けるような感覚に包まれているが、不思議と「やり遂げた」という実感がある。数週間にわたる訓練と苦悩の末、ついにこの場でほんの少しだが力を出せたのだ。


タスクフォース隊員が男たちを拘束し、生徒たちを救出する。校舎裏に漂っていた殺伐とした空気が、ようやく緩み始める。まだ校舎内に他の仲間がいる可能性はあるが、少なくともこの場の脅威は去ったようだ。
ユキノは腕を支えにして立ち上がり、痛む身体をこらえながらエリスの方へ歩み寄る。エリスもまた大きく息を吐き、ヘトヘトになっているが、ユキノの姿を認めると笑みを浮かべる。

「ユキノ……よくやったわ。あなた、本当に頑張ったのね……。」
「先生……私……痛かったけど、でも……守りたかったから……。」

二人の目が合い、あの日以来のぎこちない沈黙が流れる。どちらからともなく、そっと手を伸ばし合い、指先が触れ合う。それは言葉にしなくても伝わる和解のサインかもしれない。エリスの瞳には涙が光り、ユキノも唇を震わせる。

「先生、あのときはごめん……あたしも、ちゃんと先生と気持ちを通わせないで……逃げてたんだよね……。」
「ううん、私こそ追い詰めすぎた。あなたを守らなきゃって焦ってばかりで……ごめんね。痛い思いばかりさせて……でも、あなたがここまで来てくれて、本当に嬉しい……。」

ユキノの胸に、温かい感情が広がる。戦闘の疲労と痛みが体を軋ませるが、心は少しだけ軽くなる。
蒔苗が少し離れたところで静かに二人を見つめている。その瞳には淡い安堵の光。タスクフォース隊員の一人が近づき、「九堂さん、ユキノさん、よくやってくれた。これで人質も無事だ。」と感謝の言葉をかける。

「これで……この場はなんとか収束ね。でも、まだ校舎の中に仲間がいる可能性はある……。引き続き警戒を強化するわ。」
エリスは弱々しく頷き、「私も手伝う……」と言おうとするが、さすがに立ち上がるだけでも精一杯だ。ユキノが心配そうに支える。

「先生、もう休んで。私……今は先生を無理させたくないから……。」
「でも……」
「私だって、ちゃんと考えて行動する。もし他の仲間が現れても、先生が戦いきれないほど消耗してるなら、無理しないで……。」

その言葉にエリスは苦笑しつつも、嬉しそうに「ありがとう」と返す。二人の間にあった冷たい壁が崩れ、先ほどまでの衝突が嘘のように通じ合っている気がした。
タスクフォースの隊員が通信を受け、「校舎内の他の不審者は既に制圧した」と報告してくる。どうやら今回の襲撃の中心人物は校舎裏での人質作戦だったらしく、他の箇所は囮か補助役だったらしい。多くの生徒たちが怖い思いをしたが、幸いにも大怪我は出ていないようだ。


襲撃が終わり、学校はしばらく休校になるという話がちらほら上がっている。真理追求の徒がこれほど大胆に学校をターゲットにした以上、安全策を徹底しなければならない。
ユキノは担任の先生や生徒たちから「ありがとう」と言われる。自分が特別な力を持っていることは詳しく知られていないが、「不審者に立ち向かった」という情報は断片的に伝わっているようだ。胸の奥で罪悪感と誇らしさが入り混じる。不自由で苦しかった監視や訓練も、こうして誰かを救う形で花開いたのかもしれない、と。

夕暮れ時、雨がようやく上がり、空には雲の隙間からわずかな夕日が射している。校内の混乱が一段落し、ユキノはエリスとともに校門付近まで移動する。通りかかったタスクフォース隊員が「病院で検査を受けてもいいですよ」と勧めるが、ユキノは「大丈夫、家に帰りたい……」と答える。何より心身を休めたいのだ。
エリスが弱々しく微笑み、「私も送っていくわ……。ケンカしたまま放っておいたら、また拗れちゃうし……。」と冗談混じりに声をかける。ユキノも微笑み返しながら、ほんの少し照れくさそうに頷く。

「先生、ありがとう。今日は……すごく助かったよ。」
「こちらこそ、あなたが決意してくれてなかったら、人質はどうなってたか分からない。……偉かったわ。」

そこには以前のような師弟関係の温もりが戻りつつあった。ユキノもまだ痛みを完全に克服したわけではないが、少なくとも「自分にもできることがある」と実感できた。
蒔苗は少し離れた場所で立ち尽くし、虹色の瞳で二人を見守っている。いつも超然とした彼女が、どこか安堵の表情を見せたように見えたのは気のせいだろうか。最後に一言だけ、「じゃあ、私は先に失礼する」と告げ、スッと風のように立ち去っていく。その姿はあまりに静かで、ユキノは何度見ても不思議な存在感を感じずにいられない。


襲撃が終わり、ユキノとエリスは学校を後にする。タスクフォースの護衛車両は待機しているが、エリスは「今日くらい私に送らせて」と頼み、隊員も渋々了承する。事務所のバイクではなく、タクシーを拾ってユキノのマンションへ向かうことにした。
タクシーの後部座席に並んで座り、ユキノは曇り空を見上げる。心配そうにエリスが「大丈夫?」と尋ねるが、ユキノは静かに笑う。

「うん……なんだかやっと、少しだけど分かった気がする。先生が焦ってた理由も、私にやさしくするだけじゃなくて厳しかった理由も……今日のことで、痛感したよ……。自分が動かなきゃ、誰も助けられないんだなって。」
「私こそごめんね。あなたを傷つけてまで急かしたのは……本当は正解かどうか分からないわ。でも、あなたのおかげで今日、たくさんの人を救えた……。」
「うん……先生がいたから、私も思い切れたんだと思う。痛みに負けないって決められたのは、先生の訓練のおかげだし……。」

二人はぎこちなく視線を交わし、軽く笑い合う。まだ完全にわだかまりが消えたわけではないが、互いに謝罪の気持ちを伝え合い、新たな一歩を踏み出したように感じられる。
タクシーがマンションの前に着くと、エリスは「お疲れさま」と微笑む。ユキノも降り際に「先生も今日は休んで……本当にありがとう」と小さく手を振る。夜風が少し冷たいが、心はやっと落ち着きを取り戻した。

「またね、ユキノ。困ったらすぐに連絡するのよ。」
「うん……先生も、無理しないで……。」

ドアが閉まり、タクシーが走り去る。ユキノはマンションのエントランスを抜け、エレベーターで自室へ戻る。いつもなら監視の隊員が待ち構えていたりするが、今日はエリスの特別な配慮で一日自由にさせてもらうよう話をつけてくれたらしい。部屋に入ると、重い身体をベッドに投げ出して深いため息をつく。

(色々あったけど、これで少しは前進したのかな。先生も、私も、もう少しゆっくり話したい……。)

思考が薄れていく中、スマホを確認すると、蒔苗から短いメッセージが届いていた。

蒔苗
「あなたが壊れなくて、よかった。これからも大変だろうけど、頑張って。」

たったそれだけの言葉だが、蒔苗なりの優しさを感じさせる。ユキノは思わずほほえみ、小さな声でつぶやく。「ありがとう、私、頑張る……。」
――こうして一日の“襲撃”は終わりを告げる。校舎は大きなダメージを受け、一部が破損したが、人質を含め大きな被害は出ずに済んだ。エリスとユキノの間には傷つきながらも新たな絆が芽生え、蒔苗は相変わらず不思議な距離を保ちながらも二人を見守っている。タスクフォースの監視が止む気配はなく、真理追求の徒の脅威も続いているが――少なくとも、ユキノはもう逃げるだけの自分に戻らないと誓った。

明日、どんな試練が待ち受けるのかは分からない。でも、そのときはまた痛みに耐え、恐怖を超え、エリスと一緒に立ち向かえるだろう。部屋の暗闇の中で、ユキノは瞳を閉じながらそっと笑みを浮かべる。昨夜の絶望が嘘のように、今はほんの少し未来を信じられる気がしていた。


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