
FFT_律する者たちの剣_EP:2-3
EP2-3:オヴェリア救出作戦
深夜の森を抜け出し、かすかな月明かりの下――。
ミルウーダとオヴェリアは、どうにか城の追っ手を振り切って小さな廃屋へと辿り着いていた。そこは荒れ果てた農場の一角にある古い納屋で、今では人が住んでいる形跡はない。代わりに、屋根や壁は雨風を凌げる程度には残っており、一夜の休息をとるには充分だった。
納屋の中には、朽ちかけた木箱や壊れた農具が散乱している。幸いにも野生動物の棲み家にはなっていないらしく、埃っぽさはあるものの大きな害はなさそうだ。
ミルウーダは慎重に扉や窓を確認し、外からの視線を遮るように破れた布を張り巡らせる。もし追っ手が近づいても、すぐには姿を見られないように工夫しているのだ。
「……ここなら、一晩は凌げると思う。あんまり居心地は良くないけど。」
そう呟く彼女は、王女オヴェリアに向き直る。まだ夜は明けきっておらず、外はほの暗い。オヴェリアは薄くなったドレスを覆い抱くようにして、震える肩を小さく上下させていた。
夜通し逃げ回った疲労、そして襲われる恐怖が重なり、精神的にも肉体的にも限界に近いのだろう。その顔には青白さが宿り、瞳もどこか虚ろな色を帯びている。
「……ありがとう。助けてくれて……本当に……ありがとう。」
オヴェリアがか細い声で礼を言う。口元にはぎこちない笑みが浮かんでいるが、その瞳には涙の痕がにじんでいた。きっと気を張り詰めていたものが、ここへ来て一気に崩れかけているのだろう。
ミルウーダは一瞬、どう返事すればいいのか迷ったが、素っ気なく言い放つように応じる。
「礼はいらない。あなたが生きることが大事だから。私も、ただそれだけで動いてる。……落ち着いたら、眠ってもいい。もう夜も深いし、体力を回復しないと先へ進めないから。」
確かに、彼女自身も背に打撲の痛みを抱えており、休息が欲しい。だが、王女オヴェリアの身を一度守ると決めた以上、警戒を解いて眠り込むわけにはいかない。納屋の扉付近に腰を下ろし、ミルウーダはそっと目を半眼にした。
(もし追っ手が来れば、すぐに察知できるように……休めるのは片目だけだな。)
頭の中でそんな警戒を繰り返す一方、オヴェリアがそばの干草に身体を沈め、ゆっくりと横になるのを感じ取る。ドレスの裾が泥だらけで申し訳なさそうにしている王女に向けて、ミルウーダは淡い苦笑を浮かべる。
「ドレスが汚れるのを気にしてるの? 王女なのに……ずいぶんと気遣いが多いね。」
軽い皮肉交じりの口調。しかし、オヴェリアは恥じらうように目を伏せ、ゆるく首を振る。
「……気遣いというより、これしか着るものがないのです。私、城を出るとは思っていなかったから……。」
実際、彼女が目の前で着替えられるような服もなく、せいぜいミルウーダが持っていた黒いマントを肩にかける程度だ。昼になれば暑いかもしれないが、夜の冷気をしのぐには役立つだろう。
「じゃあ、そのまま休んで。私が見張ってるから、少しは寝られると思う。」
オヴェリアははいと小さく頷く。ミルウーダにしては珍しく、優しい言葉をかけたかもしれない。その表情には微かに穏やかさが芽生えていた。王女が安らかに眠れるよう、この場を安全に保つことこそ、自分にできる最低限の務めだと自覚する。
オヴェリアがうとうととまどろむ中、ミルウーダは納屋の扉に寄りかかりながら、半覚半眠の状態を続けていた。脳裏には先ほどの出来事が幾度もよみがえる。
――騎士団同士の内紛。
――そして、若き貴族騎士ラムザの叫び。
「王女は守る! それが俺の役目だ!」
あの熱を帯びた声が、心に焼きついて離れない。
ミルウーダは革命家として生きてきた。貴族こそが諸悪の根源であり、平民を踏みつけにしていると憎悪していた。だから、貴族に属する者すべてを同じ穴の狢だと思っていたわけだ。
だが、ラムザは違った。ベオルブ家の出身――名門中の名門にも関わらず、王女の命を大切に考え、己の仲間であるはずの騎士団とも衝突してまで“守る”姿勢を示した。打算や権力闘争ではなく、純粋に使命感に駆られているように見えた。
(貴族にはあり得ないはずの“誠実さ”が、あいつにはあった。まるで……まるで私が目指したかった“守る革命”みたいに……。)
そんな思いが頭を巡るたび、自分自身が混乱していく。
――もし、ああいう貴族がもっと増えたら?
――私のような革命家は必要なくなるのか?
いまだに答えは出ない。むしろ、新たな疑問だけが生まれる。
「……黙っていても、うるさいな……頭の中が。」
そうひとりごちて、ミルウーダは自嘲的な笑みを浮かべる。こんな夜更けに、王女を背に守りながら、貴族騎士のことを考え込むなんて自分でもおかしな話だと感じる。
とはいえ、今は何をしても結論は出ない。せめて王女が無事に目覚めるまで、ゆっくりと時間をやり過ごそう……その程度に考え、少しだけ身体を休ませる。
うとうとと浅い眠りを繰り返していると、やがて外の空が白み始めてきた。鳥のさえずりが微かに聞こえ、朝の冷たさが肌を突き刺す。ミルウーダは体を震わせつつ、納屋の扉の隙間から外を覗いて確認する。
どうやら追っ手の姿はない。夜通し走ったおかげで、城から相当距離を稼いだようだ。もしかすると、あの城自体が内部混乱で振り回されていて、捜索網を満足に敷けていないのかもしれない。
(あの騎士たちが大揉めに揉めていれば、追撃が薄くなるだろう。これは助かる。……ラムザの衝突が大きい騒ぎを引き起こしているのかもしれないね。)
薄暗い空を見上げながら、ミルウーダはつかの間の安堵を噛みしめる。
背を預けていた扉を離れ、奥の干草にうずくまるオヴェリアを見やる。王女はまだ深い眠りの中にいるようで、かすかにまつげを震わせている。目の周りには疲れの色が濃いが、苦悶の表情は見当たらない。
数時間前まで牢や塔で怯えていたと思えば、これも仕方のないことだろう。
「さて……どうするかな、この先。」
心中でつぶやき、ミルウーダは作戦を立て直す。王女をただ救い出しただけでは、何も解決していない。いずれ新たな脅威が襲ってくる可能性もあるし、王国側からすれば“拉致犯”扱いを受けるかもしれない。
しかも、王女自身も行き場がない。城を出たはいいが、どこへ向かう? 革命軍の拠点に連れて行くなんて、到底受け入れられないだろうし、そもそも王女を政治利用する意図はミルウーダにはない。
(……自分が守らないと、また誰かに狙われるかもしれない。あの暗殺者も、何者かの命令で動いている可能性が高いし……。)
頭を抱えたくなるほどに複雑な未来が待っている。それでも、最悪の事態――つまり王女が処刑される未来だけは回避したい。それだけはミルウーダが明確に“守るべき目標”としている。
ドアの外に視線を移すと、朝の陽射しが薄く森を照らし始めている。夜通しの疲れは大きいが、これからどこへ向かうか考えるには、オヴェリアが起きるのを待つしかない。彼女の希望も聞かずに一方的に引き回すわけにはいかないだろう。
しばらくして、納屋の入口から差し込む光が明るくなる頃、オヴェリアがゆっくりとまぶたを開ける。顔を上げると、ボロボロになったドレスの袖を見つめ、しばし呆然とした表情を浮かべていたが、次第に記憶を取り戻していくようだ。
「……私……ここは……。」
やや焦点の定まらない瞳で周囲を見回し、そして隅に座るミルウーダの姿を見つけると、小さく息を吐く。
「ミルウーダ……。あの、夜の出来事は夢じゃないんですね……。」
「残念だけど、現実。あなたは無事、城から脱出した。けど、まだ安心はできない。気分はどう? 体は痛まない?」
問いかけにオヴェリアは胸元を抑え、少し首を傾げる。
「頭が少し重たいくらいで……でも、大丈夫です。昨夜はちゃんと寝たのでしょうか、私……あまり覚えていないんです。」
「それだけ疲れてたってことよ。よかった、少しは休めたみたいで。あれだけ走り回ったんだから、当たり前かもね。」
王女はゆっくり立ち上がると、ドレスの裾を整えつつ、改めてミルウーダへ向き直る。深々と頭を下げるその姿は、思わずミルウーダが戸惑うほどに丁寧だった。
「改めて……ありがとうございます、ミルウーダ。あなたが助けてくれたおかげで、私は……生きています。もし、あのまま城に囚われていたら……きっと……。」
言葉の終わりが震えている。恐怖の記憶が蘇るのだろう。ミルウーダは目を伏せ、短い息を吐くように応じる。
「礼はいらないって言ったでしょ。あなたが生きてて、私は別に損してないし……むしろ、こうして達成感があるのは悪くないわ。」
実際のところ、彼女の心中はもっと複雑だが、表面上は素っ気ない言い方しかできない。革命家らしさが抜けきらないのかもしれない。しかし、オヴェリアは微笑みつつ首を振る。
「でも……私はお礼を言わないと駄目なの。あなたが私を救ったという事実は、私にとってとても大きな意味があるから……本当にありがとう。」
ミルウーダはその真摯な眼差しから目を逸らし、少し照れるように咳払いをする。
――暗殺ではなく、救出。
――平民を救うだけでなく、貴族や王女でも命を守るべき対象としている今の自分。
こんな自分がいることに、まだ慣れない。
その後、二人は簡単な身支度を整える。納屋には飲める水もなく、食料も皆無だから、早めに立ち去って別の場所を探さねばならない。
木箱の裏に残されていた古い毛布を見つけ、オヴェリアのドレスを少し拭き取って泥を落とす。その間、オヴェリアが話を振ってきた。
「ねえ……ミルウーダ。昨夜、あの城で見かけた若い騎士、ラムザ様のことを知っているの……?」
不意に名を出され、ミルウーダはドキリとする。
「……どうして、そんな話を?」
「実は、私、彼と面識があるんです。城でお会いしたことはないけれど、評判は聞いていました。貴族にしては珍しく、身分差をあまり気にしない方だと……。」
かすかな期待と戸惑いが入り混じった声。王女として、日頃から貴族たちの思惑にうんざりしてきたのだろう。だからこそ、ラムザのような“理想的な騎士”に対しては関心があるようだ。
ミルウーダは眉をひそめつつ、昨夜の記憶を呼び起こす。
「……騎士団と口論していたあの男だろ? “王女は守る”って大声で叫んで、仲間割れを起こしてた。私もちらっと見たよ。」
「そう……。彼は本当に、私を守りたいと思っていたのですね。……でも、どうして騎士団と争う形になったのかしら。」
オヴェリアの小さな声には、騎士団への裏切りにも等しい行動をとるラムザへの不安が滲む。貴族社会では従順に従うことこそ美徳とされる面もあり、彼のように正義や理想を貫く者は珍しい。
ミルウーダは視線を落とし、苦い表情を浮かべる。
「さあね……私の立場からすれば、どうでもいい話だけど。あいつは貴族でありながら、自分の信念を優先したみたい。……まあ、あんな貴族が他にいるかは知らないけど。」
言いながら、心の中では“貴族の癖に騎士らしい理想を持つ”ということが不可解でならない。そして、なぜかそれが“心を惹かれる”ような不思議な感覚を与える。
王女はその言葉に、小さく頷く。
「……ラムザ様は、昔から『ベオルブ家』という名のせいで多くを期待されていたそうです。それでも自分の正義を曲げずに生きようと、必死だった……と聞きました。もしかしたら……彼も私と同じように、身分という檻の中で苦しんでいるのかもしれません。」
そんな王女の推測を耳にし、ミルウーダは思わず鼻を鳴らす。
「ふん、貴族が苦しんでるって? 平民に比べればずっと楽なはずだろう。……ただ、あいつが普通の貴族と違うことだけは確かかもしれないね。私には分からないけど……。」
そう言葉を締めくくると、なぜか胸の奥にチクリとした違和感が残る。自分でもよくわからないが、軽蔑や嫌悪の対象だった“貴族”のはずが、ラムザに限ってはどうにも悪く言いづらい。
もしかすると、それが彼の“騎士らしさ”に共鳴してしまったからかもしれない。ミルウーダ自身、かつては革命の名の下に血を浴びてきたが、本来の理想は“守るための戦い”にあったはずなのだから……。
二人がそんな会話を交わしていると、納屋の外で小鳥のさえずりが増え、朝日が差し込んでくる。ミルウーダは扉を少しだけ開き、外の様子を確かめる。森の木漏れ日が落ちる静かな景色が広がっている。
これからの行動を決めるため、ミルウーダは頭を巡らせる。どこに隠れれば追っ手を避けられ、王女を安全に保てるのか――。
「オヴェリア、質問がある。あなたに危害を加えようとしてたのは、ゴルターナ派の誰かだと思うか?」
唐突な質問に、王女は目を見開いて少し躊躇する。
「え……。えっと、私には確信がありません。ただ……ゴルターナ公は、王位継承を巡って大きく動いていると聞きます。私がその邪魔になると考える人もいるかもしれません。でも……ラーグ派や教会も動いているから、一概には……。」
歯切れが悪いが、仕方ない。王女は権力闘争の最中、ただの駒として扱われており、誰に狙われているか分からない状況だ。ミルウーダは腕を組み、唸るように思考を凝らす。
(つまり、王女を殺したい奴は複数勢力にわたって存在するわけだ。私がいくらこの娘を守ろうと、次から次へと暗殺者が現れるかもしれない。今後どう動くべきか……。)
そこで、ふとある考えが浮かぶ。もし、オヴェリアを協力者に預けるなら、シデロスやバルトロという革命仲間の中でも比較的穏健な立場の人間が思い当たる。だが、彼らが王女をどう扱うかわからないし、政治利用される可能性も否定できない。
逆に言えば、もし“ラムザ”や“真に王女を守る意志を持つ者”がいれば、そちらに預けるほうが王女にとって安全なのでは……と、頭をよぎる。
だが、それを言葉にするのは簡単ではない。ミルウーダ自身がラムザに直接会ったわけでもないし、あくまで“一方的に観察しただけ”なのだから。
「ゴルターナ公だけじゃなく、教会の思惑もあるなら、あなたを狙う連中は少なくないだろうね。」
「はい……。私、本当は王家に生まれて何か大きな役割があるのなら、それを全うしたいと思っていました。けれど、こうして命を狙われると……もう何が何だか……。」
オヴェリアの声はどこか悲壮感を帯びている。ミルウーダはそれを聞くと胸が痛む。自分も革命家として血を流し、国を変えたいと願っていたが、当の王女自身がこんなにも追いつめられているとは皮肉なものだ。
「……とにかく、あなたを安全に守る方法を考えなくちゃ。ゴルターナ派だけじゃなく、他の貴族や教会までも敵なら、簡単なことじゃないね。」
そう口にしながら、彼女の中で小さな希望が芽生える。
もしかすると、ラムザなら何か力になれるかもしれない。王女が慕っているわけではないが、少なくとも“守る”という点では彼の行動が信用できそうだ。革命という視点からはあまりにも遠い話だが、もしオヴェリアが再び狙われるなら、貴族の内情に詳しいラムザの支援が望ましいだろう……。
しかし、今はどうやって彼と連絡を取るのかもわからない。昨夜のあの城で別れてしまったし、敵対していた騎士団も多いはず。下手に近づけば、また捕まるリスクもある。
(……まさか、自分から貴族に協力を願うことになるとはね。)
ミルウーダは苦笑しつつ、納屋の土床を踏みしめて立ち上がる。王女に軽く視線を投げかけた。
「さあ、もう少し体を休めたら、この場所を離れよう。午前中に移動を始めれば、夕方までに次の町まで行けるかもしれない。途中で何か情報を集めて、今後の道筋を考えよう。」
オヴェリアは戸惑いながらも「はい……」と応じる。彼女にとってはミルウーダが唯一の頼みの綱なのだ。王女らしい自尊心を捨てて、革命家の女に人生を預ける――それはどれほどの不安と葛藤があることか。
それでも、オヴェリアの瞳には今、小さな決意の光が見える。自分で選んだ道ではないが、少なくとも“生きる”選択をミルウーダとともにしているのだ。
納屋で簡単な朝食(と言っても水と干草の隙間にあった乾燥した果実)をとり、二人は森を出て小道に足を踏み入れた。朝日が差し込むころには、空が明るくなり、遠くに山の稜線が見える。
このあたりは貴族の領地の端に位置しており、近くに小さな村や町が点在している。ミルウーダはかつて革命運動の際に通った道を思い返し、最寄りの町まで半日ほどと踏んでいた。
「人が多いところに行くのは危険かもしれないけど、逆に紛れ込めば追っ手がそう簡単には見つけられない。」
ミルウーダの言葉に、オヴェリアは少し不安げな面持ちで「はい」と頷く。城から逃げるだけでなく、その後の行動も命懸けなのだと改めて実感しているようだ。
半日は長い道のりだが、焦って駆けても体が持たないので、ゆっくり歩を進める。途中、何度か足を止めては、草むらに隠れるように休憩をとる。昼過ぎには、遠くに一本の大きな街道が見えてきた。
「これが、南北を結ぶ街道か……。この道を町に向かって進めば、夕方には着くだろう。」
そう言いながらも、街道を堂々と歩くのは危険だ。もし騎士団が検問を張っていれば、一網打尽にされる可能性がある。ミルウーダは街道の少し奥を並行するように進み、森の隙間から往来の様子を観察する。
通りを行くのは馬車や商人、農民らしき人々も見える。ほとんどがゴルターナ派に所属する領地の民だろうが、今のところ騎士団らしき姿は見えない。
「大丈夫そうかな……。もう少し町の近くまで行けば、情報が手に入るかもしれない。」
王女に声をかけると、オヴェリアは微笑みを返す。
「はい……こうして見ると、平和に見えますね。城の中での騒ぎが嘘みたい……。」
「それがこの世界の現実よ。上の者たちが争っていても、下の者たちは日々の暮らしを続けている。まあ、そこに大きく割を食うのはいつだって平民だけどね。」
革命家としての苦い思いが口を突く。オヴェリアはその言葉に沈黙し、表情を曇らせる。彼女もまた、王家に生まれたとはいえ、それが本当の幸せとは限らなかったのだろう。
二人は黙々と歩調を合わせ、森の中から街道沿いの風景を遠巻きに眺めつつ、町へ向けて脚を進めていく。
夕刻、町の入り口を見下ろす丘に差しかかると、白壁の家々が夕日を受けて金色に輝いていた。石畳の通りを人々が行き交い、商人の屋台からは活気のある呼び声が聞こえる。
幸いにも、町の周辺に厳重な警備の形跡はない。城から多少距離があるため、騎士団が検問を張るほどの重要地点ではないらしい。ミルウーダは王女を連れて町中に入り込むのは危険と判断し、町の端にある宿屋か民家を探してみるつもりだった。
「ただ、あなたの身分がバレたら厄介だ。変装らしきものがないけど、ドレスを隠すために黒いマントで体を覆うしかないね。」
オヴェリアは素直に頷き、マントで身体を包み込むようにすると、見た目は少し怪しいが、王女とわかるほど華やかでもない。
二人は町の外れに入ると、古い小屋が目についた。どうやらかつては店だったかもしれないが、今は誰も使っていないようだ。瓦礫と埃まみれの入り口だが、扉はちゃんと閉まる。ここを仮の隠れ家にできるかもしれない。
「……少し待って。中を確認してくる。」
ミルウーダは短刀を手に、小屋の扉を開ける。室内には古い棚やテーブルが残されているが、人が住んでいる形跡はない。大きな蜘蛛の巣や剥がれかけた壁紙が痛々しいが、雨露は凌げそうだ。
オヴェリアを呼び入れ、扉を軽く閉めると、二人はほっと息をつく。町からそう遠くない場所なので、食料や水を買い出しに行ける利点がある。
「ここなら一晩くらいは大丈夫そう。明日は……私が町へ行って情報を仕入れてくる。あなたはここで待機してて。」
「わかりました……ありがとうございます。」
王女は遠慮がちに頭を下げ、またしても感謝の言葉を口にする。ミルウーダは少し照れ臭い気分になりつつ、「礼はいらない」と手を振って制する。
こうして、ひとまず二人は最低限の“安全地帯”を得ることになった。
夜も更け、町外れの小屋に灯りはない。暗闇の中で、ミルウーダは石床に背を預け、疲れた身体を伸ばしていた。今日一日は、恐怖や緊張ではなく、純粋な疲労との戦いだった。
横にはオヴェリアが丸まって眠っている。呼吸が安定しているので、それなりに落ち着いているのだろう。体力的にはまだ回復が追いつかないかもしれないが、とにかく無事であることが何よりだ。
「……そういえば、ラムザって男と、すれ違っただけだったな。」
不意に小さく呟く。城の中では騎士団がごたついている最中に、遠目で見ただけだった。もし直接言葉を交わしていれば、何か変わった可能性はあるのだろうか。
貴族嫌いの自分がそう考えるのは妙な話だが、あの場面でラムザもまた王女を守ろうとしていた。ひょっとして、協力すればもっとスムーズに脱出できたかもしれない。
(いや、考えすぎだ。結局、あっちも騎士団の一人だし、私が革命家だと知れば敵対していたかもしれない……。)
それでも、彼が示した「守る」という強い信念が瞼の裏に焼きついている。自分が望む“守る革命”――それを貴族の側から実践しようとしているのが彼なのかもしれない、という漠然とした思いが湧くのだ。
だが、今は会いに行く術もなく、そもそも自分たちを追っている騎士団の一員かもしれないわけで。何ともやり場のない感情だけが残る。
「……すれ違いか。でも、どこかで、また会うことがあったら……。」
未完の想いを抱えながら、ミルウーダは天井を仰ぐ。かすかな月の光が小窓から漏れてくる。夜の静寂に包まれた小屋で、王女の寝息を聞きながら、新たな決意を胸に抱いた。
同じ頃、町の少し先――ゴルターナ公の影響が強い領地では、貴族たちがひそかに集まり、何やら密談を行っているという情報があった。城の内紛に乗じて、王女オヴェリアを巡る政治取引を進めようとしている者たちがいるらしい。
それは王女の帰還を求める者とは異なる、“王女排除”や“王女を傀儡にする”方向の動きだ。もしそんな動きが具体化すれば、ミルウーダやオヴェリアの努力は無に帰す可能性がある。
(ゴルターナ公の手の者が、また暗殺者を送り込むかもしれない。あるいはラーグ派や教会が先手を打つかも――。)
混沌の爪痕が迫っている。イヴァリース全体の覇権争いに巻き込まれた王女は、いつ再び命を狙われるか分からない。納屋での安息など、束の間の休息にすぎないのだ。
この伏線は、まだ二人が知る由もないが、遠からず直面せざるを得ないだろう。
夜が更け、再び深い闇が小屋を包む頃、ミルウーダはうとうととまどろみながらも、時折目覚めては扉の外を警戒した。町の方からは人々の寝静まる気配が感じられ、時折狗の吠える声が遠くで響くだけで、特に異常はなさそうだ。
オヴェリアは時々眠りの中でうなされるような息を漏らすが、ミルウーダがそっと肩に手を置くと落ち着く。夢の中で追ってくる暗殺者や、城での恐怖が蘇っているのかもしれない。それでも、彼女がここに生きているという事実だけで、ミルウーダは少しの満足を得ていた。
(私がこんな気持ちになるなんて、思いもしなかった……。)
革命家として、敵を倒すことが生き甲斐だった自分が、いまは人を“救う”ことに手応えを感じている。そして、貴族の騎士ラムザに対してさえ、嫌悪ではなく微かな興味を覚えている――。
それは、自分の中での大きな変化を意味していた。かつてなら貴族はすべて打倒すべき対象としか見なかったのに、今は「もし再び会うことがあれば、話をしてみたい」と思ってしまっている。
「もし、あいつがここにいれば、王女の護衛は任せられるか……? いや、私と一緒に行動するはずもないし……。」
声にならない独白を、真っ暗な空間に投げかける。
オヴェリアを守るためには、己だけでは力不足かもしれない――そんな不安も頭をもたげる。しかし、かといって革命軍の仲間を頼れば、政治的に利用される危険もある。結局、どこへ行っても王女は駒として扱われるのではないか……?
(頭がこんがらがる……。でも、守るって決めたのは私だ。中途半端にはできないね。)
そう決意を胸に抱き直し、扉に体をあずけてまぶたを閉じる。まだ不安定ではあるが、王女を助けたいと思う気持ちだけは揺るぎない。
遠く、思考の片隅にラムザの姿がちらつく。「王女は守る!」と叫んだあの熱い声が耳に残り、心をざわつかせる。その声にどこか共鳴した自分を否定しきれないのが、何とも言えない落ち着かなさを生むのだ。
「……いつか、あんたと直接話す機会があれば……革命家としての私と、貴族の騎士としてのあんた……一体どうなるかね。」
誰に向けるでもなく、ミルウーダは呟き、闇に溶けるように瞼を閉じる。夢とも現ともつかないまどろみの中で、城でのすれ違いと共闘の記憶が幾度となく交錯していた。
翌朝、まだ陽が昇る前。小屋の外では風がそよぎ、乾いた土埃が舞っていた。ミルウーダは軽く身体をほぐし、今日の行動を計画する。オヴェリアは寝不足のまま目を覚まし、やや疲労が残る顔つきでいるが、昨夜よりは安心しているのかもしれない。
“救出”は終わった。だが、これから先の道が始まったばかりである。もし再び王女の命を狙う勢力が動いたら、そして教会やゴルターナ派が本格的に動き出したら――。自分たちはどう対処すべきか。頭を抱えたいほど問題が山積みだ。
(少なくとも、まずは安全な隠れ家を確保しなきゃな。町の中に潜むか、それとも森の奥へ篭るか……。)
ミルウーダは愛用の短刀を再度点検し、魔銃の残弾(正確には自分の魔力)にも気を配る。何が起きても即対応できる準備が必要だ。
すると、オヴェリアがそっと近づいてきて、まばたきを繰り返しながら口を開く。
「ミルウーダ……これから、私たちはどうするのでしょう。もし、私が戻るべき場所がないのなら……ずっと流浪の身になってしまうの……?」
「……私にもわからない。少なくとも、あの城へ帰るのは自殺行為だし、他の勢力に渡っても政治利用されるだけだろう。あなたが王女である限り、どこに行っても大なり小なり危険は伴う。」
躊躇いがちにそう告げると、オヴェリアは視線を落として唇を噛む。まるで自分の存在が災いそのものだと責めるようにも見えるが、ミルウーダはそれを否定しようとはしない。これが王女として背負う宿命でもある。
ただし、彼女がそれを望んだわけではないのだ。だからこそ、ミルウーダはこうして救い出したのだとも言える。
(私は革命家。そもそも貴族や王女なんか大嫌いだった。でも、あんたを見殺しにするわけにはいかない。……少なくとも、あの若い騎士と同じくらいには、私も守る気があるんだ。)
心中で自嘲ぎみに微笑みながら、ミルウーダはオヴェリアに向き合う。
「わからないことが多すぎる。だから、私は一つずつ確かめる。ゴルターナが本当にあんたを殺そうとしているのか、ラーグ派はどう動いてるのか、教会は何を企んでいるのか――全部確かめて、それからどうするか決めたいの。だから、もう少しだけ、一緒にいてくれる?」
オヴェリアは驚いたように目を丸くし、すぐに笑みを返す。
「もちろん……私には、それしか道がないから。でも、ミルウーダ、あなたは“革命家”なんですよね……? 王女である私と行動を共にするなんて、本当にいいの……?」
「いいとか悪いとかじゃない。私は、あんたが死ぬのは嫌だと思ってる。それだけさ。」
素直とは言いがたいが、これがミルウーダなりの心情表現だ。王女はその言葉にこくりと頷き、瞳を潤ませるように応じる。おそらく、これまで貴族や騎士たちの“上から目線”しか知らなかった彼女には、ミルウーダのぶっきらぼうな優しさが新鮮なのだろう。
「私も……あなたと一緒なら、きっと生き延びられる気がする……。」
そうして二人は、また新たな一日を歩き出す。
頭の片隅には、あの騎士――ラムザの姿が霞のように残っている。もし、いつか再会できれば、そのときはどういう形になるのか。敵か味方か、あるいは同じ“守る”意志を共有する仲間となるのか――。
見えない未来にわずかな期待と不安を抱え、ミルウーダとオヴェリアは小屋を出て、静かに町へ向かう。朝の光が彼女たちの行く道を照らし、ゴルターナ公や教会の影が、いまだ暗くうごめいていることに気づかないまま……。