
天蓋の欠片EP1-2
Episode 1-2:違和感
薄曇りの空から、朝日の光がぼんやりと街を覆いはじめる頃。天野ユキノは自分の部屋のベッドの上で目を覚ました。
夢から覚める刹那、まだ冷たい朝の空気が頬をかすめる。昨日の記憶が頭の中を渦巻き、混乱と興奮がまだ残っているようだった。探偵を名乗る九堂エリスとの出会い、謎の男――“真理追求の徒”と呼ばれる組織の襲撃、そして自分の中に潜む“特別な力”の可能性。
「……うそみたい。」
ユキノは起き抜けに布団の中で丸くなり、小さくつぶやく。何もなければ、ただの平凡な高校生として新学期を過ごすはずだった。だが昨晩、あの男に命を狙われ、エリスに救われた光景が、どうしても夢だと思えないほど生々しく脳裏によみがえる。空気のにおい、あの赤黒い靄のようなオーラ、リボルバーを構えるエリスの毅然とした姿――全部が現実。
そして、もう一つ気になるのは、自分がいまだに怖さだけではなく、不思議な昂揚感を抱いていることだった。これまでの高校生活では感じたことのない、巨大な運命に巻き込まれているような――それでいて自分が何者かになれるかもしれない予感。
「はぁ……考えても仕方ないよね。とりあえず支度しなきゃ。」
ユキノは寝癖のついた髪を撫でながら、ベッドから体を起こす。足元には雑誌や課題のノートが散らばっており、あわただしい日常を象徴している。洗面台へ向かい、水をすくって顔を洗うと、冷たさが眠気を吹き飛ばしてくれた。鏡に映った自分の表情は、どこか固い。いつもなら「寝癖ひどいなー」とか「今日のメイクどうしよう」と考える程度なのに、今朝はまるで別人になったかのように神経質になっている。
「あ……学校。エリス先生も来るんだよね。補習授業とか言ってたけど、本当は私を探るためって話……どうなるんだろう。」
思わずつぶやいた言葉が、鏡の中の自分に反射して突き刺さる。未知の力、謎の組織。“特別な脳構造”を持つ可能性がある――そんな唐突な告白を受けたばかりで、心の整理などつくわけがない。彼女はふと、鏡に映る自分の瞳を覗き込んだ。瞳の色はヘーゼル。大きく、感情がすぐに表に出やすい自覚はある。でも、それがどうして“特別な脳内マップ”につながるのか。
昨夜、エリスの探偵事務所で見せられた資料は、専門用語だらけで理解しきれなかった。ただ一つ、確かなのは「自分が何かしら注目される存在になりうる」ということ。ユキノは心の中で何度も、それを否定するための理由を探そうとする。しかし何も思いつかない。かえって不安が増すだけだ。
「あー! もう! よくわかんないよ!」
勢いよく鏡から目をそらし、着替えを始める。制服のリボンをいつもよりきつく結んでみたり、スカートの長さをチェックしてみたり――ごく普通の女子高生らしさを取り戻すことで、平静を保とうとする自分がそこにいた。
廊下へ出ると、キッチンからはおいしそうな香りが漂ってくる。母が焼いたトーストと卵料理が食卓に並び、パパッと朝食を済ませられるように準備してくれている。
「おはよう、ユキノ。昨日はずいぶん帰りが遅かったみたいだけど……何かあったの?」
「え、あ……ちょっと予備校で友達と遅くまで残ってたの。うん、それだけ。」
言葉がやけにぎこちなくなる。まさか“謎の組織に襲われて、探偵に救われた”なんて言えるはずもない。母は少し不審そうに眉をひそめるが、特に深追いはしない。
「そう……あんまり夜道は危ないんだから、気をつけてよ。連続行方不明事件とかもあるし……。」
「うん、わかってる。ありがとう、お母さん。」
食欲はあまり湧かなかったが、せっかく作ってくれた卵焼きとトーストを急いで口に運ぶ。甘くてふわふわの卵焼きを噛むと、少しだけ安心できる気がした。自分にとっては当たり前の家庭の味。それはまだ、普通の日常が消えていない証拠のように思えたからだ。
食事を終え、カバンを手に玄関を出る。曇天の下、家を出た途端に肌寒さが体を包む。今日の天気予報は曇り時々雨。心まで灰色に染まっていくような気がする。
家から学校までは、電車を乗り継ぐと約30分ほど。いつもは大した距離だと思わないし、通学路は何度も通い慣れた景色だ。それでも、昨夜の出来事を引きずっているユキノには、一つひとつが違って見えた。マンションの壁、ガードレール、コンビニの看板に至るまで、やけに無機質で固く、冷たく感じる。
(もしかして、あの黒いフードの人影がどこかにいるんじゃないか……)
そんな疑心暗鬼が消えず、何度も周囲を見回してしまう。通りを歩く人々はスマホを見ながら歩いていたり、早足で駅に急いだりと、誰も彼女に特別な関心を寄せているふうには見えない。――少なくとも表面上は。
電車の改札を通る時も、ユキノは後ろに変な人がついてこないかドキドキした。ホームで電車を待っている間も、何となく周りに視線を走らせてしまう。学生服の子もいれば、スーツ姿の会社員や観光客風の若者もいる。彼らはそれぞれ日常を送っているだけだろうに、今のユキノには全員がどこか別世界の人に見える。
電車がホームに滑り込むと、ユキノは人波に流されながら乗り込む。つり革につかまり、車内アナウンスをぼんやりと聞いていると、スマートフォンのニュースアプリがバイブレーションで通知を知らせた。画面を確認すると、“続報:連続消失事件、被害者は都内在住20代男性か”という見出しが目に飛び込んでくる。
(また……増えたんだ。)
ゾッとするような寒気が背筋を駆け上がる。昨日、自分が襲われていたのもまさにこの“連続消失事件”と関係しているとエリスは言っていた。ニュースではあまり詳細が報じられていないが、裏では“真理追求の徒”という過激派が暗躍している。それはユキノの中ではすでに現実だ。
「……やっぱり怖いよ、こんなの。どうなってるの……」
独り言のつもりが声に出かかり、慌てて口を閉じる。周囲の人々は誰も気に留めていない風だ。都会の電車では、他人への無関心がある意味で常識となっている。それが今のユキノには救いでもあり、逆に孤独感を深める要因でもあった。
やがて最寄り駅に着き、車内を降りると、学校へ向かう学生たちの流れに乗って歩き出す。曇り空の下で、校舎の白い壁がぼんやりと反射したような鈍い光を放っている。時計を見るとまだ始業まで10分ほど余裕があった。クラスに向かう前に一度、昨日エリスと話した場所――中庭に行ってみようかという気が湧く。
ユキノが校舎裏を回り込み、中庭へ続く扉を開けた時、そこには誰もいなかった。朝の時間帯にここを利用する生徒はほとんどいない。ベンチと花壇があるだけの、ちょっとした休憩スペースのような場所。昨日、エリスに声をかけられたのは昼休みだったが、今朝の中庭は静寂に包まれている。
「なんだか、まるで別の場所みたい……」
空気が少しひんやりしている。花壇の花は、季節が変わりかけているせいで色合いがまばらだ。奥の方にある樹木の陰には、落ち葉が溜まっており、風が吹くとカサカサと音を立てる。昨日の自分は、ここでエリスに話しかけられ、行方不明事件への不安を打ち明けた。それがすべての始まりだった。
(あのときから、何かがおかしくなった。いや、もしかすると最初から私がおかしかったのかも……)
胸の奥に宿る違和感が、再び強まる。自分が“特別”だなんて想像もしなかったけれど、何かしら予感めいたものは、昔からどこかにあった気がするのだ。“平凡だけれど、いつか非日常に巻き込まれるかもしれない”――そんな根拠のない空想を、小学生の頃にぼんやりと考えたことがあった。
しかし、その空想が現実になるのは、決して嬉しいことばかりではない。危険、恐怖、混乱――負の感情が次々と襲ってくる。ユキノは自分の胸に手を当て、深呼吸を繰り返す。心臓の鼓動がいつもより速いのがわかる。
「天野さん?」
不意に声をかけられ、ユキノはハッとして振り返った。そこにいたのは、昨日も一緒に授業を受けたクラスメイトの少女。名前は桐生ナナミ。茶色いセミロングの髪をしっかりと結んだ、活発そうな印象の子だ。
「……あ、ナナミ……おはよう。」
「おはよう。こんなところで何してるの? 朝から珍しいね。」
「う、うん……ちょっと気分転換というか……ね。」
ナナミはユキノの顔を覗き込み、心配そうに眉を下げる。
「昨日もなんか、授業終わってから姿見えなかったし。何かあった? 元気ないように見えるんだけど……。」
「えっ……そう、見えるかな……?」
うまく笑顔を作ろうとしたが、どうにもこわばってしまう。ナナミはさらに踏み込んで聞いてくる。
「家庭の事情とか? それとも、連続行方不明事件のことが怖いとか?」
「いや、そんな大げさじゃないよ。ただ、ちょっと疲れてるだけ。大丈夫、本当に。」
「そう……ならいいんだけど。困ったことがあったら相談してよね。友達でしょ?」
ナナミははにかむように微笑み、ユキノの腕を軽く引いた。
「ほら、そろそろ教室行こう。ホームルーム始まっちゃうよ。」
「うん……ありがとう。行こっか。」
二人は並んで校舎に戻っていく。朝の静かな中庭に微かな風が吹き、落ち葉が舞い上がる。その様子は、どこかユキノの心の中の渦を象徴しているかのように見えた――“違和感”を抱えたまま踏み出す一歩の重みを、風が嘲笑っているような。
教室に入り、ホームルームが始まるまでの短い間、ユキノは自席のテーブルに突っ伏していた。ナナミやほかのクラスメイトは雑談をしているが、ユキノの耳には雑音のようにしか聞こえない。昨日、あれほど衝撃的なことを経験したせいで、普段のクラスメイトとの距離感が妙に遠く感じるのだ。
始業のチャイムが鳴り、担任が入ってくると同時にホームルームが始まる。出欠確認や連絡事項が続き、淡々とした朝の風景が進行する。そんな中、ユキノの心は落ち着かないまま。視線が何度も入り口のドアの方へと向かってしまうのを止められない。
(エリス先生、今日は来るのかな……)
昨日の放課後、確か“明日も補習授業に顔を出す”と言っていた。さらに“あなたを守る”とまで言ってくれた。しかし、本当に学校で再会して、その先どうなるのか。ユキノにはまるで予想がつかない。
ホームルームが終わり、1時間目が始まる。最初の授業は英語。普通の教科担当の先生が入ってきて、黒板に文法事項を書き始める。ユキノはノートを開くが、頭がぼんやりとして文字が追いつかない。教室の空気がやけに重苦しく感じられるのは、彼女の気持ちのせいなのかもしれない。
「天野、どうした? 体調悪いのか?」
英語の先生が不意に声をかける。ユキノが答えに詰まっていると、周囲の視線が一斉に集まってくるのがわかる。心臓がぎゅっと締め付けられ、呼吸が苦しくなる。自分でもどうしてこんなに神経質になっているのか、わからない。
「い、いえ……ちょっと寝不足なだけです。大丈夫です。」
「そうか。無理はするなよ。」
先生はそれ以上は追及せず、板書を続ける。クラスメイトたちは一瞬だけユキノを見て、すぐに元の授業モードに戻る。――助かった、とホッとする反面、再び孤立感を覚える。
(ダメだ、こんなことで参ってちゃ。本当に危険な状況がまた来るかもしれないのに……しっかりしなくちゃ。)
自分を奮い立たせるようにペンを握り直し、ノートを取り始める。授業の内容は頭に入ってこなくても、せめて“普通の学生”としての姿勢だけは崩したくないと思った。
そして1時間目の授業が終わり、休み時間に入ると、ユキノは机に突っ伏して深いため息をつく。どっと疲れが押し寄せてきた。それは精神的なものだろう。
そのとき、廊下から微かな声が聞こえてきた。
「……九堂先生って、補習の人でしょ? もう来てるんだって……」
「へぇ、昨日も来てたみたいだけど、すごい美人とかで話題になってたよね……」
女子生徒たちのひそひそ話が断片的に耳に入る。九堂エリス――間違いない。彼女がすでに校内に来ているらしい事実に、ユキノの心臓は再び高鳴る。
(どうしよう……会いたいような、会うのが怖いような……)
迷いが頭を巡るが、結局、このまま教室にいても落ち着かない。ユキノは短い休み時間を利用して、廊下へ出ることにした。
ドアを開け、ざわめく廊下に足を踏み入れると、すぐに目の端にエリスの姿が入ってきた。ダークブラウンのショートボブにトレンチコート、パンツスタイル。明らかに学校教師とは一線を画す雰囲気。彼女はクラス担任と話しているようで、廊下の一角で立ち止まっている。
ユキノの胸がドキリとする。昨日あれほど危険な目に遭った直後に、「また会おう」と言われ、その通りに再会している。それだけなのに、物語の続きを生きているような不思議な高揚感がこみ上げてくる。そして同時に、言いようのない不安も――彼女はそっと息を整え、エリスの視界に入る位置へ移動した。
するとエリスがクラス担任との会話を切り上げ、スッとユキノに視線を向ける。クールな切れ長の目がこちらを捉え、わずかに微笑むように口元が動いた。
「天野さん、おはよう。具合は大丈夫?」
「え、あ……はい。何とか……。」
エリスはクラス担任に「失礼しますね」と声をかけてから、ユキノの方へ歩み寄ってくる。二人の距離が縮まるほどに、ユキノの心臓はさらに激しく鼓動を刻む。
「昨日は色々あったし、よく眠れなかったでしょう? 顔色が少し悪いわね。」
「確かに……あまり眠れなかったかも。でも、先生こそ大丈夫なんですか? あんな危ないことして……探偵事務所とか……。」
思わず問いかけると、エリスは苦笑まじりに肩をすくめる。
「私は慣れてるから平気。心配してくれてありがとう。――それより、周囲にあまり聞かれたくない話もあるし、昼休みか放課後に改めて話しましょう。あなたが落ち着ける場所の方がいいわね。」
「うん、そうですね……私も話したいことあるし……。あの、昨日のこととか、あと私自身のことも、色々聞きたい……。」
ユキノの声には、緊張と期待が入り混じった気配がにじむ。エリスはそれを汲み取ったのか、穏やかに微笑みながら軽く頷いた。
「じゃあ、昼休みが始まったら呼びに行くから、少し付き合ってもらっていい? 場所は……そうね、また中庭か、それとももう少し静かな場所があればそっちでもいい。あなたが選んで。」
「わかりました……じゃあ、また後で……。」
言葉を交わすだけでも、昨日の出来事が鮮明に頭をよぎってドキドキする。エリスは再び担任のもとへ戻り、業務的な相談を続けるらしい。ユキノはそれを見届けることもせず、軽く会釈だけして教室へ戻った。
扉を開けると、さっきから教室にいたナナミやほかのクラスメイトが「あれ? 九堂先生と何話してたの?」と興味津々な顔を向けてくる。ユキノはごまかすように苦笑いを浮かべ、鞄から教科書を取り出しながらこう答えた。
「ちょっと補習の相談してただけ。数学が苦手で……ね。」
自分でも無理のある言い訳だと感じたが、クラスメイトたちは深く追及することなく納得したようだ。――彼らにとって、ユキノがどんな事情を抱えているかは関係なく、ほどほどに興味を満たせればそれでいいのかもしれない。
それがかえってユキノを孤独にさせる。彼女の中で燃え上がる“違和感”は、ほかの誰でもないエリスだけが共有してくれている感覚なのかもしれない、とすら思えるのだ。
午前中の授業が3コマ終わり、昼休みのチャイムが鳴った瞬間。ユキノはノートに書いた文字から目を上げる。窓際から差し込む弱々しい日差しは、曇りがちな空のためにほとんど活気を感じない。クラスメイトたちは昼食を取るために席を立ったり、購買部に走ったりしているが、ユキノの頭には“エリスとの再会”しかない。
すぐに教室の入口のほうをちらりと見ると、案の定、そこにエリスが立っていた。彼女はちらっとユキノの視線を捉え、軽く手を振って合図を送る。スマートな動きにクラスメイトの何人かが釘付けになるが、エリスは気にする様子もなく、「行くわよ」という空気感を放っている。ユキノはバタバタと教科書を片付け、鞄から軽食用のパンを取り出すと、急いで後を追った。
「先生、すみません……お待たせしました。」
「ううん、私も今来たところ。……場所はどうする?」
「えっと……私、あんまり人目の多い場所は……。やっぱり中庭かな……。」
ユキノは、中庭でならある程度話しやすいと考えた。外から聞かれにくい上に、昨日会話をした場所でもあるので落ち着けるかもしれない。エリスは頷き、先を歩き出す。二人は廊下を抜けて校舎の脇道を通り、扉を開けて中庭へ。朝の時間には誰もいなかったそこも、昼休みになると数人の生徒が休憩していることがあるのだが、幸いにも今日は人影がなかった。
「いいタイミング。誰もいないわね。じゃあ、適当にベンチに座ろうか。」
「はい……。」
そう言ってエリスが腰かけたベンチは、花壇を背にして校舎の壁面を遠望できる位置。ユキノも隣に座り、パンの包みを開けつつエリスの顔をうかがう。エリスは少し笑みを浮かべながら、ユキノの緊張をほぐすようなトーンで問いかけた。
「朝は少し元気がないように見えたけど、どう? 落ち着いた?」
「うーん……正直に言うと、まだ混乱してます。昨日のこと思い出したら怖いし、でも先生に助けてもらったから大丈夫って思いたくて……。」
ユキノは視線を落としながら、パンをちぎって口に運ぶ。食欲はないが、無理やりでも食べないと身体がもたないだろう。エリスはそんな彼女を案じているのか、優しい瞳を向けてくれる。
「そうよね……。あなたが受け止めるには重すぎる情報ばかりだったし、時間が必要よ。だけど、もしも昨夜のような危険がまた起きたら、今度は自分の意思で動かなきゃいけないかもしれないわ。」
「自分の……意思?」
「そう。たとえば、あなたの中にある潜在的な力――“精神構造体”を具現化するかどうか、ね。私だけがあなたを守ってあげるのは限界があるし、私もずっとあなたの近くにいられるわけじゃない。」
その言葉を聞くと、ユキノの胸の奥で小さな痛みが生まれる。“自分を守れるのは自分だけ”――わかっているつもりでも、それがどれほど過酷な現実なのか想像すると震えが止まらない。
「……でも、私はまだ、自分がそんな特別な力を持ってるって実感が全然なくて……本当に、できるんでしょうか……? 先生みたいにあんな銃……“射出機”とか?」
「可能性は高いわ。あなたの脳内マップは、生成者に近い特徴を示している。私やタスクフォース、そして“真理追求の徒”が注目しているのもそのせいね。……ただし、あくまで可能性。実際に覚醒するかどうかは、あなたの意志と環境次第になる。」
ユキノは手の中のパンをギュッと握りしめ、視線を下げる。もし、自分が武器を手にすることになったら――それは人を救うためかもしれないが、人を傷つける危険性も孕んでいる。そんな葛藤が頭の中を駆け巡る。
「私、怖いです。でも、逃げたくない気持ちもある。変ですよね……。」
「変じゃないよ。怖いのは当然。でも、あなたがそこから目を背けないというのは、強い証拠でもあるわ。」
エリスがゆっくりと右手を伸ばし、ユキノの肩にそっと触れる。その瞬間、ユキノは不思議な安心感を覚えた。まるで姉か母親に慰められているような、温かい包容力がエリスから伝わってくる。
「私にできることは、あなたが覚悟を決めるまでそばでサポートすること。今すぐ武器を取れなんて言わない。だけど、いざというときのために必要な情報や手段は少しずつ身につけておくといい。……それが、私の正直な気持ち。」
「はい……ありがとうございます。先生がいてくれるだけで、心強いです。」
その言葉を口にしたとき、ユキノは自分が本当に安堵していることに気づく。もし、エリスと出会っていなければ――自分はすでに組織に攫われていただろう。そう思うと、彼女への感謝は尽きない。
だが、そのとき――
中庭の奥、花壇の向こうから、突如として不穏な気配が立ち上る。ユキノは敏感にそれを感じ取り、ハッと顔を上げた。エリスも同じタイミングで肩越しに視線を送り、すぐに表情を引き締める。
「……嫌な感じね。ここでバトルになるのは避けたいところだけど……。」
「せ、先生……また……?」
花壇の向こう側、背の高い樹木の陰に、人影のようなものが見える。昨日目にした黒いフードや赤黒いオーラこそないものの、間違いなくただの一般人とは違う雰囲気だ。教室でランチをとっている生徒たちには、この気配は届いていないようだが――
「ここで騒ぎを起こす気? まったく、しつこい連中……」
エリスは小声でつぶやきながら、トレンチコートの内側に手をやる。そこには“射出機”が仕込まれている。ユキノは動揺で声が出ないまま、立ち上がりかけた。
「先生、逃げたほうが……周りの人を巻き込んじゃ……」
「そうね、本当はそうしたいけど、相手がこちらを見つけてる以上、迂闊に動くと追撃される可能性があるわ。……ユキノ、落ち着いて。私が合図したら校舎の中に走って。」
二人は会話を交わしながら、ちらちらと人影の様子を伺う。その影は一度、こちらをうかがうような素振りを見せたが、すぐにスッと後退して樹木の裏へ隠れる。もしかすると何かを探っている段階で、まだ攻撃に移るつもりはないのか――しかし、油断はできない。
「先生、あれ、こっちに来てる……!」
ユキノの叫び声に近い声が漏れた瞬間、人影はスッと姿を現した。黒い服装だがフードは被っていない。男性のようにも女性のようにも見える、やや細身のシルエット。顔には白い仮面のようなものをつけており、感情が読み取りづらい。
「やはり……生成者の素質を持つ娘がいると聞いていたが、ここにいたか。」
仮面の人物が低い声でそう呟いた。エリスはゆっくりと立ち上がり、ユキノを守るようにベンチの前に立ちふさがる。
「あなたたちは“真理追求の徒”の下部組織か何か? あるいは新手? 学校内にまで堂々と姿を見せるなんて、度胸があるわね。」
「度胸ではない。使命感だ。生成者の力――EMを安定的に抽出するため、我々はあらゆる手段を尽くす。たとえ学校であろうと、目的を遂行するのみ。」
言葉が終わらぬうちに、仮面の人物が懐から何かの装置を取り出す。金属質の筒のような形状で、先端に青い結晶が埋め込まれている――それは、エリスが言っていた“擬似EM(P-EM)”かもしれない。嫌なオーラがその結晶からにじみ出ているように感じる。
「先生……!」
「大丈夫。動きがあれば即座に対応する。」
エリスはコートの内側からリボルバー型の射出機を抜き取る。カチリと小さな音がして、青い光が微かに宿ったように見える。ユキノの心臓は爆発しそうなほど鼓動し、手汗がにじむ。もしここで戦闘になったら、周りの生徒に迷惑がかかる。そう思うと恐怖で体が硬直する。
「話が通じないなら仕方ない。私たちも“真実”を手に入れるために行動している。あなたには退いてもらう。」
仮面の人物が筒を掲げると、そこから黒い光が漏れ出すように形を変える。空気がビリビリと震え、花壇の草花が風に煽られるように揺れた。嫌な低周波音のような振動が、ユキノの耳にじわりと響いてくる。
「やめて! ここは学校なのよ……生徒や先生たちに被害が出るかもしれない……!」
「だからこそ、あなたをここで確保する。周囲の人間には手を出す必要はない。君さえ大人しく応じれば――」
「応じるわけないでしょ。」
エリスが言葉をさえぎるようにリボルバーを構え、仮面の人物の手元を狙う。次の瞬間、閃光とともに青い弾丸が放たれた。銃声というより、空間が裂けるような音が響く。ユキノは思わず目をそらしそうになるが、必死で耐える。
弾丸は仮面の人物の左肩をかすめ、後方の地面を削り取る。土埃が舞い上がり、花壇の一部が崩れ落ちた。仮面の人物は驚いたように一歩後退しながら、手に持った筒を振りかざす。
「ちっ……動きが早い。だが、次は私の番だ。」
黒い光がさらに濃度を増し、筒の先から触手のような形状のエネルギーが伸びる。そこに赤黒いスパークが走り、樹木の枝に触れた瞬間、焦げたような煙が立ち上った。周囲の温度が急上昇するかのような錯覚を覚える。これは単なる物理的な攻撃ではなく、精神エネルギーに干渉する特殊な武器なのだと、ユキノは肌で感じ取る。
「ユキノ、離れて……!」
エリスが叫ぶが、そのときには既に仮面の人物が腕を振りかぶり、黒い触手のエネルギーを鞭のようにしならせてエリスめがけて打ち下ろした。エリスは地を滑るようにして回避するが、その衝撃が地面を抉り、ベンチを破壊してしまう。バキッという耳障りな音が響き、木製のベンチが派手に割れ、破片があたりに散乱する。
「くっ……ここは本当に学校よ! 静かにやるつもりはないの……?」
エリスが言い放つと、仮面の人物は鼻で笑ったような仕草を見せる。
「相手が抵抗するならば、周囲の状況は関係ない。こちらも本気で取りに行くだけだ。」
まるで人形のような冷たさと割り切りを感じさせる声。ユキノは逃げるべきか、エリスを助けるべきか、思考が一瞬グルグルと回り混乱している。けれど、エリスは確かに自分を守るために動いてくれている。自分だって、ただ見ているだけでいいのだろうか――そんな葛藤が胸を突き刺す。
(でも……私にはまだ武器なんて使えない。どうしたら……)
「エリス先生、私……私、何かできること……!」
「ユキノ、来なくていい! 危ないから下がってて!」
言い終わらないうちに、仮面の人物が再び触手を振り下ろす。今度は二方向に枝分かれし、鞭のような軌道を描いてエリスとユキノの間を裂こうとする。エリスは咄嗟にリボルバーを連射し、青い光弾をいくつも叩き込む。激しい閃光と衝撃波が弾け、花壇が大きく破壊される。土や破片が宙を舞い、視界が一瞬真っ白になるほどの埃が立ち上る。
(やばい……こんなに派手にやったら、絶対ほかの生徒にも気づかれる。)
ユキノは顔を覆いながら思わず後ずさる。埃の向こうで金属音とも爆発音ともつかない奇怪な衝撃が連続し、エリスと仮面の人物の攻防が続いているのがわかる。
(私も……何かしなくちゃ。でも、怖い……)
体が震える。先ほどの埃が少し晴れ、わずかに視界が戻ってきたとき、エリスが一瞬だけこちらを振り返った。その表情は焦りを滲ませながらも、「大丈夫」という意思表示にも見えた。きっとエリスは慣れているのだろう。けれど、今の自分にはただの傍観者しかできない。歯がゆさと恐怖が同時に湧き上がる。
「くそっ……この女、射出機の扱いが上手い……!」
仮面の人物が苦渋の声を漏らす。どうやらエリスの連射に翻弄され、踏み込みきれない状況らしい。エリスは体を低く構え、リボルバーを素早くリロードしている。青い光が装填されるたびに、かすかな機械音が響く。
「さっさと引いてくれるなら助かるんだけど……あなた、ここで強行する気?」
「我々に撤退の選択肢はない。生成者の候補を一目見たからには、必ず確保する――!」
仮面の人物は最後の一撃を狙うように、高く腕を掲げた。黒い触手がぐにゃりと屈曲しながら伸び、まるで鎌のように鋭い先端が形成される。その刃がエリスを狙うのが見えた瞬間――ユキノは体が勝手に動いていた。
「先生、危ない……!」
何か叫んだが、自分でも何を言ったのかわからない。エリスが身を翻して回避しようとするが、相手の鞭が想像以上に速い。これまでとは段違いの殺気を帯びて迫る。その一瞬、ユキノは咄嗟に身を投げ出し、エリスの腕を引いて引き寄せる。結果的に、刃の一撃はふたりの身体の間をすり抜けて地面を深く抉った。
「っ……!? ユキノ……危な……!」
「だ、大丈夫……先生を助けたかっただけ……!」
自分でも驚くくらい勇気を振り絞った瞬間だった。しかし、仮面の人物の攻撃はまだ終わっていない。鎌が地面を抉った勢いで軌道を変え、弧を描いて再度狙いを定める。逃げ場がない――ユキノは息をのんだ。
その時、エリスが不自然な動きをして背中のコートを翻し、ユキノをかばうように覆いかぶさる。轟音と閃光――そして焦げるような臭いが一瞬広がり、視界が揺れる。時間が止まったような感覚に囚われる中、ユキノはエリスの体温を感じていた。
「先生……!」
「っ……平気……少し、かすっただけ……!」
エリスの肩口が少し焦げている。どうやら鞭の一撃がかすめたらしい。エリスは苦痛に顔を歪めながらも、なおリボルバーを離さない。すぐに体勢を整え、仮面の人物に向かって射撃体勢を取る。
「…………もう終わりにするわ。」
乾いた声でそう言い放つと、エリスはまるで舞うようにステップを踏み、仮面の人物の死角へ回り込む。ユキノの目には、一瞬何が起きたかわからなかった。次の瞬間、リボルバーの弾丸が連続して放たれ、青い閃光が仮面の人物の周囲を包み込む。人知を超えた速度と正確性――これがエリスの本気なのだろうか。
「っ……ぐああああ!」
仮面の人物が悲鳴をあげ、筒を取り落とした。黒い触手のようなエネルギーが霧散し、地面に吸い込まれる。白い仮面がひび割れ、その下からは凶悪な表情がのぞいているが、もう戦意を失っているようだった。
「今のうちに……どこかで拘束する……」
エリスはフラフラとした足取りで仮面の人物に近づき、携帯端末を取り出す。タスクフォースではない独自の通報先かもしれない。昨日の闇の路地で倒した男を回収したのと同じ筋だろうか。ユキノは思わずエリスに駆け寄り、肩を貸そうとする。
「先生、肩……だ、大丈夫……? 痛そう……」
「平気……深手じゃないから。あの人、たぶんもう動けない……から……」
エリスが言いかけたところで、仮面の人物が何かを呟いた。“撤退命令”か、“次なる計画”か――定かではない。が、突然あたりを紫色の煙が覆い始め、視界が遮られる。化学的な煙幕か、あるいはP-EMの応用かもしれない。
「くっ……煙幕! 逃げられる……!」
「ごほっ、ごほっ……!」
ユキノは煙を吸い込まないよう手で口元を押さえる。しかし濃い煙で前が見えない。エリスもかすれた声で「ユキノ、そっちに行かないで!」と叫ぶが、もはや仮面の人物の姿は確認できない。風が流れ、煙がわずかに晴れたときには――そこには荒れ果てた花壇と割れたベンチ、崩れた地面だけが残されていた。
「逃げられた……」
「っ……申し訳ない、先生。私が、もっと早く……」
「いいの。私も万全じゃなかったし、こんなところで大規模な戦闘をやるつもりもなかった。あの人がここまで本気で来るとは予想外だった……。」
エリスは地面に片膝をつき、肩を押さえながら苦笑する。ユキノはその表情に、強がっているのが見え透いていて胸が痛む。
(私……守られるだけじゃダメだ。先生がこんなに傷ついて、それでも私を守ろうとしてくれた。なのに私は何もできない……。)
ユキノは唇を強く噛み締める。恐怖や混乱ばかりに囚われていて、どうして行動できないのか。そんな自分が情けなくて、悔しさがこみ上げる。
「……ごめんね、ユキノ。危なかったね。あなたまでケガしなくて本当によかった。」
「先生が庇ってくれたから……。私、何もできなくて……。」
「そんなことない。あなたは私を助けようとして、身を投げ出した。あれがなければ私がもっとひどい傷を負ったかもしれない。でも……。」
エリスは言葉を切り、一瞬だけ目を伏せる。そこには、ユキノが今感じているのと同じような“無力感”が垣間見えた。
「これから先、もっと強大な敵が現れる可能性がある。そのとき、私もあなたも、どう戦うか考えなきゃいけないわね。」
「はい……先生、私……ちゃんと考えます。自分がどうするか……。」
そう言いながら、ユキノは小さく拳を握りしめる。恐怖を克服しろ、とはまだ言わないでほしい。それでも、痛感してしまった。
――“何もできない弱い自分”のままでは、守ることなど不可能だと。
二人が心の整理をつけようとしているところに、複数の生徒たちが騒ぎながら駆けつけてきた。外から聞こえた衝撃音に驚いて様子を見に来たらしい。割れたベンチと崩れた花壇を目の当たりにし、口々に「地震?」「何があったの?」とざわめく。
「まずい……人が集まってきたわね。」
「先生、どうするんですか……?」
「適当に取り繕うしかない。『設備の老朽化が原因で崩れた』っていうのは……無理があるかしら。」
苦笑しながらも、エリスは素早く射出機をコートの内側にしまい、何事もなかったかのように立ち上がる。その動作が痛々しく見えるが、プロ意識というものなのだろうか。ユキノはエリスの腕を支えつつ、集まってきた生徒を見渡す。皆が一斉に疑問の視線を向けているのがわかる。
「あの……ちょっと花壇のそばを歩いてたら、急に足元の地面が崩れちゃって……先生が助けてくれたんです。それで、私たちも転んじゃって……えへへ……。」
ユキノは半ば無理やりな言い訳を口にする。しかし、周囲の生徒たちが現場を見れば、ただの“足元の陥没”ではないことは明らかだ。少なくとも大掛かりな事故があったのは伝わるから、あちこちでスマートフォンを取り出す者もいる。
「あー、ごめん。怪我人はいないから大丈夫。けがをしてるように見えるかもしれないけど、かすり傷だから心配しないで。あとは教職員に報告して、速やかに修繕してもらうわね。」
エリスはそう言って微笑みかけ、生徒たちをなだめにかかる。特に驚いた様子でこちらを見ている生徒には「ほら、昼休みももう終わるし、教室に戻って」と優しく諭すように言う。その大人の対応ぶりに、不審を抱きながらも従う生徒が多かった。
“綺麗で謎めいた補習の先生”というイメージが先行しているのか、クラスメイトたちもあまり強い追及はしない。その微妙な距離感が、ユキノにとっては有り難い反面、どこかもやもやするものだった。――この事態の重大さに、彼らは全く気づいていないのだから。
やがて、騒ぎを聞きつけた他の教師が現場に駆けつける。エリスは上手く事情を説明するフリをしながら、「私の不注意で生徒を転ばせてしまいました」とか「元々この花壇の裏が老朽化していたのかもしれませんね」など、耳障りのいい言葉を並べる。周囲の教師たちは戸惑いながらも、「まぁ怪我人がいないのなら……」と面倒を避けるような空気でその場を収める形となった。
ユキノも流れに乗って頭を下げ、「すみませんでした」と謝罪を繰り返す。罪悪感が胸に湧き上がるが、今はこれしか方法がない。結局、日常の表層ではこの一件は「学校設備の一部が事故で損傷した事件」という扱いになるに違いない。
(こんな形でうやむやになるのが正解なのかな……私たち、今すごい危ない戦いをしてたんだよ……)
違和感――それは、ユキノの胸にずっと居座り続けている。自分だけが知るこの非日常。エリスや“真理追求の徒”たちがうごめく裏の世界。誰にも言えない秘密が、日常を歪ませていくような感覚。それが恐ろしい。
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴り、残った生徒もちらほらと教室へ戻っていく。教師たちも“事故処理”として現場の写真を撮ったり、メモを取りながら立ち去った。エリスとユキノはその場にわずかに残されたが、なるべく怪しまれないように注意しながら会話を交わす。
「ごめんね、ユキノ。私のせいで、また怖い目に遭わせちゃった。」
「先生が謝ることじゃないです。私こそ、もっとどうにかできれば……」
ユキノは拳を握りしめるが、力が入らない。膝が震えている自覚もある。今の自分には、何もできない――その事実が突きつけられた痛みに耐えるしかない。
「……放課後、また話せる? あなたの気持ちも聞きたいし、私自身、ちょっと手当が必要だから……。タスクフォースの施設には行きたくないし、私の探偵事務所に寄っていってほしい。ダメかな?」
「もちろん大丈夫……私も先生と一緒に行きたいです。帰りが遅くなるかもしれないけど、家に連絡すれば大丈夫だと思うし……。」
「わかった。じゃあ、授業が終わったら連絡する。今日はそこまで補習授業は入ってないし、少し自由に動けそうだから。」
エリスは微かな微笑みを見せるが、肩の痛みで顔がゆがむ。それを見て、ユキノは痛々しい気持ちになる。自分を庇って傷を負ったエリス――こんな事件に巻き込まれなければ、彼女だって普通に教師の仕事をしていたはずだ。
(普通、なんて言葉が通用するのかわからないけど……。)
思わず視線を伏せる。エリスはそんなユキノの頭にポンと手を乗せ、かすれた声で優しく囁いた。
「あなたのせいじゃない。私が勝手に守っただけ。……後悔はしてないから、そんな顔しないで。」
「先生……」
「放課後にまた会いましょう。それまで学校ではおとなしくしててね。怪我しちゃいやだから。」
そう言い残し、エリスはトレンチコートの襟を正し、足早に立ち去っていく。昼休みはもう終わり、すぐに次の授業が始まる。ユキノも教室へ戻る必要があったが、体が重く感じられる。心の中の“違和感”がさらに大きく広がっていくのをひしひしと感じた。
「……私、どうしたらいいんだろう。」
誰にも聞こえないような小さな声でつぶやく。その言葉が風に乗って消え去ると同時に、ユキノはふらつく足取りで教室へ向かう。廊下に戻った彼女を待ち受けるのは、クラスメイトの何気ない視線と、次の授業開始を告げる淡々とした空気だった。
午後の授業が始まっても、ユキノはノートをとる気力が湧かず、窓の外をぼんやり眺めることが多かった。ナナミが「さっきの花壇の事故、やっぱり地盤沈下っぽいよねー」などと話しかけてくるが、生返事でやり過ごす。教師たちが「怪我をしないよう校庭の危険な場所には近づかないこと」と注意喚起しているのも聞いているような聞いていないような状態。
(あんな大きな戦闘をして……誰も本当のことを知らない。先生と私だけが知ってるなんて……。)
教科書の文字が頭に入らず、意識はずっと先ほどの戦闘場面を反芻している。狂ったようなエネルギーの鞭、ひび割れた仮面、エリスの痛む肩。それらが脳裏に焼き付き、脈拍を早める。
「天野! ここ解いてみろ!」
教師の鋭い声が響き、ユキノは一瞬で現実に引き戻される。慌てて立ち上がるが、問題も把握していない。クラスメイトがクスクスと笑い、教師が呆れた表情を浮かべる。
「あ、すみません……ちょっと考え中でした……。」
「考え中? なら仕方ないな。手を挙げたくなかったら最初から言えばいいのに。」
教師の嫌味な言い方に、余計に心が塞がる。本来ならこんな指名なんて軽く対応できる程度の学力はあったユキノだが、今は集中力が完全に欠如している。仕方なく教師が他の生徒を指名し、ユキノはほっとしたように腰を下ろす。
(やっぱり、このまま普通に授業を受けるのは無理があるよ……どうして誰も何も気づいてくれないんだろう。)
もちろん、普通のクラスメイトが事件の裏側を知るはずもない。なのに、ユキノは自分が“別の世界”に足を突っ込んでしまったことで、まるで周りと壁ができてしまったように感じていた。孤立する痛みと、非日常の恐怖。まさに“違和感”の正体はそこにあると悟る。
それでも時間は容赦なく進み、午後の授業が終了する。チャイムが鳴った瞬間、ユキノは疲労感から机に突っ伏した。ナナミが「カラオケ行く?」と誘ってくるが、「ごめん、用事があるの」と断る。理由を聞かれないのが、せめてもの救いだった。
10.放課後――エリスとの合流
放課後、校内は部活動で残る生徒たちや、帰宅する生徒で混在している。ユキノは鞄を持って昇降口へ向かう途中、何人かのクラスメイトに声をかけられたりするが、やはりうまく対応できず、早足で通り過ぎる。頭の中では“エリスの肩は大丈夫だろうか”という思いが渦巻いていた。
昇降口を出ると、外には夕陽が薄く差し始めている。曇り空の切れ間から西日が斜めに射し込み、校舎の壁にオレンジ色のグラデーションが広がっている。そんな夕景の中、エリスは待っていた。まだトレンチコートを着ており、腕を動かすたびに痛むのか、微かに顔をしかめているのがわかる。
「ユキノ、こっち。ごめんね、遅くなった?」
「いえ、私も今来たところです。先生、肩……痛そうですね……。」
「平気平気、何とか動くよ。さあ、行こうか。タクシーでも拾って事務所に向かおう。電車だと混んじゃうから。」
そう言ってエリスはタクシーを手配し、ユキノを促す。校門の前で少し待つと、すぐに車が来て二人は乗り込んだ。運転手は明るい笑顔で「どちらまで?」と尋ねるが、エリスがビルの所在地を告げると、それ以上は特に雑談をすることもなく、スムーズに発進する。
車内でエリスは時折肩をさすりながら、ユキノに簡単に説明してくれた。
「花壇のアレが何だったか、ある程度推測はつくわ。擬似EMを武器化した装置を使ってたし、あの仮面の感じからして、やっぱり真理追求の徒の末端か、関連組織ね。昨日倒した男とは別の系統の可能性もあるわね。」
「……関連組織って、そんなにいっぱいあるんですか……?」
「ええ、彼らはテロリストのように散発的に活動しているから、いくつかの派閥がある。目的は同じかもしれないけど、手段や思想が微妙に違うって感じかしら。」
ユキノはぞっとする。昨日と今日だけで二度も襲われたということは、今後も同じようなことが繰り返される危険性があるということだ。自分が生成者の候補である限り、命を狙われ続けるのだろうか。
「……もし、これから先も私が狙われるなら、もう普通に学校に通うのも難しくなっちゃう気がして……」
「まだ完全に諦めなくていいわ。タスクフォースも“真理追求の徒”が大々的に動くのは警戒してるし、彼らだって、そうそう毎日学校を襲うなんて無茶はしない。だけど、何かしらの対策は必要ね。」
「対策……私の力、ですよね。」
その言葉を口にするのは怖かった。しかし逃げるわけにはいかない、と改めて思う。エリスは苦笑しながら頷いた。
「私があなたに提供できるのは、情報と訓練。それから、いざというときの逃げ道やサポート。でも、最終的にどうするかはあなた自身が決めること。――心の準備はできてる?」
「できてないけど……やらなきゃ、ですよね。今日みたいに、先生がまた傷つくのは嫌だから……。」
ユキノの言葉に、エリスは少しだけ目を見開き、それから柔らかい笑顔を作った。
「ありがとう。その気持ちは嬉しいわ。私も、あなたが危険な目に遭うのは見たくないもの。」
淡い夕日の光が車内に射し込み、ユキノとエリスの横顔を照らす。運転手は特に会話に加わらず、黙々とハンドルを握っている。こうして会話する時間は、ユキノにとって束の間の安らぎでもあった。戦闘の喧噪から解放され、普通の“移動時間”を過ごしている――ただ、それは一時的な平和にすぎないのかもしれない。
「……あ、もう着きますね。」
エリスが窓の外を見やると、ビルの街並みにぽつんと紛れた、やや年季の入ったビルが見えてきた。ここが九堂探偵事務所の入っている建物だ。昨日も訪れたはずなのに、ユキノはなんだか懐かしいような安心感を覚える。車を降り、エリスが運転手に料金を支払った後、二人はビルの入口へ歩み寄った。
エレベーターに乗り、二階で降りる。扉を開けると、そこは昨日と同じ、書類や地図、情報端末が整然と並ぶ空間――九堂エリスの探偵事務所。すぐに埃っぽい匂いが鼻をくすぐるが、どこか懐かしい気持ちすら湧いてくる。
「さ、入って入って。ドア閉めて鍵かけてくれる?」
「はい。」
ユキノはドアを閉め、施錠を済ませる。これで外部から簡単には侵入されないはずだ。エリスは慣れた手つきでコートを脱ぎ、肩の傷を確かめるようにシャツの袖をめくる。布が焦げていたり、肌が赤く爛れたようになっていたりして痛々しい。
「わわ……先生、やっぱり痛そう……! 病院に行ったほうが……」
「病院だと面倒が増えるから、ここに応急処置の道具があるの。ちょっと自分でやるから……って、もしよかったら手伝ってくれる?」
「もちろん手伝います。……どれを使えばいいんですか?」
エリスが指示したのは医療用の消毒液や包帯、それから軟膏などの応急セット。ユキノは消毒液を湿らせたガーゼでそっと傷周辺を拭き、軟膏を塗り込む。エリスは時折顔をしかめるが、痛みに耐えるように落ち着いた声で「大丈夫、続けて」と言う。
「先生……昨日も私を助けてくれて、今日もまた……本当に、ありがとうございます。私、恩返しがしたいのに、まだ何もできない……」
「ゆっくりでいいのよ。焦りは禁物。……ただ、あなたが本気で力を得たいと思うなら、今夜からでも簡単なトレーニングを始められるけど、どうする?」
その問いかけは、ユキノにとってある種の“宣戦布告”でもあった。つまり、自分が“生成者”として戦う意志を持つのかどうか、その選択をせまられているのだ。
ユキノは包帯を巻き終えると、深呼吸してから真剣な眼差しをエリスに向ける。
「私、覚悟を決めます。怖いし、まだ混乱してるけど、先生や自分を守るための力を持ちたい。――昨日と今日で痛感しました。何もしないままじゃ、また誰かが傷つく。私だって、もう逃げられないから……。」
「そう……。わかった。じゃあ、今日は私のケガもあるし、軽い理論の説明と簡単な体験ぐらいにしておきましょう。体力を使う本格的な訓練は別の日にでも。」
「はい、お願いします!」
ユキノは意を決したように小さく拳を握り、エリスの目を見つめる。エリスは微笑み返し、満足そうに頷いた。
「まず、あなたに知ってもらいたいのは“射出機”の原理よ。これは疑似EMをカートリッジに封入して、そのエネルギーを心の中心――いわゆる精神コアに撃ち込むことで、あなた自身の精神構造体を実体化させる装置。……言葉だけだとわかりづらいわね。」
「うん……昨日、話だけは聞いたけど、イメージがわかない。精神コアってどこにあるの……?」
「体内の特定部位にあるわけじゃなく、もっと抽象的な概念。強い意志や感情が集約されるポイントと思えばいいかな。そこを正確に“撃ち抜く”ことで力を引き出すんだけど、失敗すれば暴走したり、苦痛が伴ったりもする。」
エリスは引き出しから小さな教本のようなものを取り出す。そこには図解や専門用語が並び、ユキノは興味深そうにページをめくっていく。
「私のリボルバー型射出機は特注品で、命中精度が高い代わりに扱いが難しい。あなたが使うなら、もう少し初心者向けの射出機を用意してあげるわ。タスクフォースが開発したモデルとかね。」
「タスクフォース……先生は彼らと協力関係にあるわけじゃないんですよね?」
「基本的には独立してる。でも、必要に応じて多少の情報や装備を借りる程度のパイプは持ってるの。彼らにも思惑があるし、一枚岩じゃないから信用はできないけどね。」
そんな微妙な関係性の中で、エリスは自分なりの戦い方を貫こうとしているらしい。ユキノはページをめくりながら、改めてエリスの行動力と胆力に驚嘆する。
「先生は、どうしてそこまで……?」
「ん?」
「昨日も今日も、私のために体を張ってくれる。探偵としての仕事……ってだけじゃない気がするんです。もしかして、先生にも何か大きな目的が……」
ユキノが核心をつくように問いかけると、エリスの表情がわずかに曇る。しかしすぐに柔らかな微笑みを浮かべ、応えるように口を開いた。
「確かに、私には目的がある。真理追求の徒の企みを止めることが第一。でも、その背景には色々あるの。私の過去とか、守れなかった人とか……あなたに話すにはもう少し時間が必要かな。」
「……そっか。ごめんなさい、変なこと聞いちゃって……」
「いいの。いつか話す日が来るわ。」
エリスはどこか遠い目をして、視線を机に落とす。ユキノはそれ以上踏み込むことはせず、ただ静かに資料をめくる音だけが事務所に響いた。
しばらくして、エリスが立ち上がると、小さな金属のケースを持ってきた。ケースを開けると、中にはスティック状の器具が数本並んでいる。カプセルの先端に青白い光を帯びた液体が入っているのがわかる。
「これが初心者向けの“射出機”カートリッジ。厳密には試作段階みたいだけど、訓練用にはなるはず。撃つ対象は自分の胸――心臓付近ではなく、もう少し中央寄り。この辺りかな……」
エリスは自分の胸の上あたりを軽く叩いて示す。ユキノは息を呑む。まさか自分で自分を撃ち抜くなんて、想像するだけで怖い。表情に出てしまったのか、エリスは苦笑いしながら続ける。
「もちろん、いきなり撃たせはしないよ。今日はどんな感じか、手に取って実物を見るだけ。慣れないうちは危険だし、私も肩が万全じゃないからサポートが難しいからね。」
「そ、そうですよね……よかった……。」
思わず安堵の声を漏らす。エリスがケースから一本のカートリッジを取り出し、ユキノに渡す。重さはあまり感じないが、どこか不気味な緊張感が手に伝わってくる。中の青白い液体――疑似EMが淡く揺れているようにも見える。
「これを本当に使う日は、あなたが『覚悟ができた』とき。ただし、状況が逼迫すれば、迷う時間はないかもしれない。今はそれを理解しておいて。」
「はい……わかりました。」
ユキノはカートリッジを両手で包み込むように握りしめる。自分の未来――もしかすると命運を握る鍵かもしれない。心臓がまたドキドキと速くなり、手汗がにじむ。
時間が経つのは早いもので、気づけば窓の外はすっかり夕闇に包まれていた。ビルのネオンがともり、冷たい夜風がガラスを揺らす。ユキノは長くなった説明をなんとか頭に詰め込み、エリスに肩の処置を手伝ったり、資料を確認したりして過ごした。
「もうこんな時間……。ユキノ、家の人に連絡しなくて大丈夫?」
「あ、はい。もうちょっと遅くなるかもって伝えてます。『友達の家で勉強してる』ってごまかしちゃった……。」
「そっか……帰りは私が送るよ。危険があるかもしれないしね。」
エリスはそう言いながら、痛む肩を抑える。ユキノは「大丈夫?」と心配そうに顔を寄せるが、エリスは「これくらい平気」と笑みを作る。――それでも、その笑顔が少し疲れて見えるのは気のせいではないだろう。
ふと、事務所の壁に貼られた地図に目が留まる。都内の各エリアに赤や青、黄色のピンが差し込まれていて、さらにその横にはメモがびっしり。連続消失事件やEM関連のキーワードが書かれている。それを見ていると、改めて恐ろしくなる。こんなに広範囲にわたって危険が迫っているなんて――。
「先生……これ、全部“真理追求の徒”の関連事件なんですか?」
「一部はね。ほかにもタスクフォースや軍事企業の動きなんかも記録している。EMに関わる情報は膨大だから、整理するだけでも一苦労。……でも、あなたみたいに生成者の素質がある人間はかなり希少。そのぶん注目度も高い。」
「……私がいきなり有名人になっちゃったってこと、かな。」
自嘲気味に笑いながらも、その重大さがユキノの肩を重くする。エリスはそんな様子を見て、励ますように声をかける。
「あなたが重荷に感じるのも当然。でも、もしあなたが力を使いこなせるようになったら、それは世界にとって大きな希望にもなりうるのよ。過激派を止めるだけでなく、EMの力を正しく使う可能性を開くかもしれない。……覚悟はいるけど、決して無意味な道じゃないわ。」
その言葉に、ユキノは少し目を潤ませる。自分が世界にとっての希望――そんな重い使命を負えるのか疑問だが、少なくともここにいるエリスは信じてくれている。自分の可能性を。
「先生、私……もっと強くなって、先生やみんなを守りたいんです。今日の昼みたいなことがあって、何もできない自分がすごく歯がゆくて……。だから、訓練、頑張ります。」
「うん、期待してる。私もあなたが心折れないようにサポートするから、一緒に頑張ろう。」
エリスの右手とユキノの両手が重なり合う。その瞬間、ユキノは小さく覚悟を固めるように唇を噛み締めた。違和感を抱えながらも、この道を進むと決めたからには、もう逃げない。自分の中の恐れや不安と向き合い、いつか必ず超えてみせる――。
「……そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、お母さんが心配するでしょ。」
「そうですね。今日は色々ありがとうございました。」
二人は立ち上がり、部屋の照明を落とす。エリスが書類を整理している間、ユキノはもう一度だけカートリッジのケースを眺める。青白く光る疑似EMが不気味なようで、それでもどこか神秘的な魅力を放っているようにも見える。――自分の運命を象徴する光かもしれない。
「よし、行こうか。今日はタクシーであなたの家の近くまで送るわ。私もまだ肩が痛いから、早めに休みたいし……。」
エリスがそんな冗談めいた口調で言うと、ユキノは思わず笑みを浮かべる。たとえどんなに不安でも、彼女と一緒なら少しは乗り越えられるかもしれない。そんな淡い希望が胸に灯る。
――こうして、二人は探偵事務所を後にした。夕闇のビル街をタクシーで移動しながら、ユキノは窓の外に広がる街の灯りを見つめる。あちこちに人々の暮らしがあり、笑顔があるはず。その光景の裏に暗躍する組織や未知の物質があるなんて、多くの人は知りもしないのだ。
(私はその“裏側”に足を踏み入れてしまった。もう戻れない。でも……戻りたくない気もする。私にしかできないことがあるなら、逃げちゃダメだよね。)
自分の意志で決めたのだから。エリスが自分を信じてくれるのだから。胸の中の違和感はまだ消えないが、それでも前に進もうとする決意だけは揺るがない。
タクシーの振動が心地よい子守唄のように感じられるころ、ユキノの家が近づいてくる。夜風がガラスの向こうで歌い、街の雑踏が遠のいていく。明日はまた学校へ行く日常が待っている。でも、その日常はもう昨日までとは違う。
――こうして、ユキノは“違和感”を抱えつつも、非日常への第一歩を大きく踏み出していくのだった。