Symphony No. 9 :番外編_3-3
エピソード番外編3-3:名前と未来への期待
季節はずれの小雨が降る午後。砦の外壁に打ちつける雨音が、やわらかなリズムを刻んでいる。
まだ肌寒い空気が廊下に入り込み、歩く兵士たちは肩をすくめながら通り過ぎる。ここ数日は天候が安定せず、抜けるような晴れ間より、曇りや雨の日が続いていた。
一方、砦の一角にある静かな応接室では、プルミエールが窓の外の景色を眺めながら、どこか物思いにふけっていた。
幼い彼女にしては珍しく、じっと椅子に座り動かない。普段なら跳ね回って遊んでいそうな時間帯だが、今日はどうも様子が違う。
雨粒が窓ガラスを斜めに流れ落ち、外の景色をゆらゆらと歪ませる。その向こうに砦の中庭が見えるが、誰もいないためか、どことなく静寂が支配しているようだった。
「……変な天気」
プルミエールが小さくつぶやく。言葉の端には、ほんの少し物憂げな気配が漂っている。彼女は少し前に森の遠足で左足をねんざし、ようやく痛みが落ち着いたところだった。
もう包帯も取れて元気に歩けるのだが、「走り回るのはまだ控えるように」とヌヴィエムやエレノア、医務室のフェリシアから念を押されている。おとなしく椅子に座っているのは、その影響が大きいのかもしれない。
「プルミエール、痛みはもう大丈夫かしら?」
声をかけてきたのはヌヴィエム。柔らかいウェーブのかかった赤髪を一つにまとめ、今日は砦での雑務や書類整理をしていたようだ。ステージ衣装ではなく、落ち着いた普段着姿が、彼女の年相応の若さを感じさせる。
プルミエールは椅子に座ったまま振り返り、控えめに頷く。
「うん、平気だよ。もう走れると思うんだけど、エレノアお姉さまが『油断は禁物』だって……」
「そうね。まだ無理しちゃだめ。焦らなくていいわよ。子どもの怪我は意外と長引くこともあるし」
ヌヴィエムはそっと微笑みながら、プルミエールの隣に腰を下ろす。小さな体が大きな椅子にちょこんと収まっているのを見ると、改めて彼女がまだ幼いのだと感じる。
「お姉さま、今日はステージの練習ないの……?」
「今日はね、雨だし、お客さんも少ないからステージリハーサルはお休み。代わりに書類のチェックや打ち合わせをしてたのよ。……でも、ちょっと疲れちゃったから、あなたの顔を見に来たの」
そう言ってヌヴィエムはプルミエールの赤い髪を軽く撫でる。二人は血のつながりこそ複雑だが、こうして並んでいるとどこか“親子”にも見える。どちらも赤髪という共通点はあるが、ヌヴィエムがふんわりしたウェーブヘアなのに対して、プルミエールはストレートヘア。
その違いが、かえって彼女がヌヴィエムに**「似ているけれど違う個性」**を持っていることを際立たせているようだった。
「そっか……。ねえ、お姉さま……」
「ん?」
「……雨の音って、なんだか寂しいよね。わたし、こうして窓の外を見てると、いろいろ考えちゃう……」
プルミエールは視線を下に落として呟く。その表情はどこか切ない。それを見てヌヴィエムは少し心配そうな顔つきになる。
「いろいろ考える? たとえば……何を?」
「……あとで教えるね」
プルミエールが曖昧に言葉を濁すと、ヌヴィエムは無理には聞かない。彼女が何かを悩んでいるのだとしたら、急かしても仕方がない。そう思い、そっとプルミエールの頭を撫で続けた。雨音が静かに二人を包み込む。
この何気ない午後の時間が、彼女の「名前」の由来について大きく話題になるきっかけになるとは、まだ誰も気づいていなかった。
そんな静かな時間からしばらくして、エレノアが応接室を訪ねてきた。淡い色のローブを纏い、杖を持たないリラックスした姿で、顔には微笑みを浮かべている。
「やっほう、二人とも。こんなところに籠もって、何をしているの?」
「エレノアお姉さま……!」
プルミエールは少しだけ表情を明るくして振り向く。ヌヴィエムもにこりと笑い、「あなたこそ、こんな雨の中どこへ行ってたの?」と尋ねた。
エレノアはローブの端をつまみ、わずかに湿った生地を見せる。
「ちょっと外の様子を見てたのよ。分散治世のことでフィリップ3世に伝える簡単なメッセージがあってね。けれど雨が強くて、馬車を出すのも億劫になっちゃったわ。あたしも今日はのんびりしようかと思って」
「そう……ってことは、あなたも暇なのね」
「ひどい言い方しないでちょうだい。久々にお茶でもどう? 砦の厨房からいいハーブをもらったの」
エレノアがクスクスと笑いながら、持参してきた小さな包みを掲げる。そこには乾燥させたハーブや花びらが詰められており、ふわりとした甘い香りが漂っていた。
プルミエールはその香りに引き寄せられるように椅子を降り、「わぁ、いい匂い……」と顔をほころばせる。
「美味しいお茶になるわよ。プルミエールも飲んでみる?」
「うん、飲みたい……!」
こうして、三人は応接室の小さなテーブルに移動し、エレノアが淹れてくれたハーブティーを味わう。白い湯気がポットから立ち上り、ほんのりとした甘みと花の香りが部屋に満ちると、さっきまでの雨音が優しくBGMのように感じられた。
ヌヴィエムはティーカップを手にしながら、何気なくプルミエールを見る。すると、先ほどとは打って変わって楽しそうな笑顔になっている。子どもらしい無邪気さが戻ったようで、エレノアの話に興味津々だ。
「エレノアお姉さま、さっき外に出てたって言ったけど、変なものとか見つけなかった?」
「変なものって……例えば?」
「うーん、森から出てきたモンスターとか、謎の足跡とか……」
プルミエールが不安そうに尋ねるのは、先日森で遭遇した小型モンスターの記憶がまだ残っているからだろう。あのときの突進は危機一髪だった。怖かったけれど、同時に仲間を守った達成感もある。複雑な思いが入り混じった表情を見せる。
エレノアは優しく笑いながら、「大丈夫よ。砦の周辺は兵士たちが見回りしているし、特に大きな被害の報告はなかったわ」と安心させる。
「そっか……よかった」
「ま、もし何かあったら、ヌヴィエムとユリウス、それからラルフたちがすぐに対処してくれるわよ。あなたはまだおとなしくねんざを完治させなさい」
「うん……」
プルミエールは目を伏せながら頷く。その瞳に、ほんの少し複雑な光が宿るのを、ヌヴィエムは見逃さなかった。
何かを言いたげな仕草。しかし、口を開こうとした瞬間、廊下の方からバタバタと急ぎ足の音が聞こえてきた。
応接室の扉がノックもなく勢いよく開かれ、中からユリウスが顔を出した。
焦った表情をしていたが、部屋の中の三人を見つけると、少し安心した様子を見せる。
「姉さん、エレノア……それからプルミエールも。ちょうどみんな集まっててよかった」
「どうしたの、急に慌てて」
ヌヴィエムが声を掛けると、ユリウスは深呼吸をしてから、「いや、大したことじゃないんだけど……」と前置きしつつ言葉を続ける。
「砦の門番から報告があって、ヤーデ伯領方面の商人が数名、ここを訪ねてきたらしいんだ。さっきの雨の中を強行して来たみたいで、疲れてる様子だって。姉さんにぜひ会いたいって言うんだが……どうする?」
「ヤーデ伯領……か。でも今はフィリップ3世が協議中じゃなかったっけ?」
「そう、その話し合いの使者だって言ってた。姉さんに直接伝えたい要件があるそうだ。だから……」
ヌヴィエムは困ったようにエレノアと目を合わせる。自分はもう退位してアイドル活動をメインにしており、政治的な責務は最小限にしている。フィリップ3世が中心的に分散治世を動かしているのだから、本来なら彼が対応すべき話だ。
「でも、せっかくはるばる来てくれたんだから、顔くらいは出した方がいいかしらね……。アイドルとはいえ、一応、前リーダーとして無下にはできないし」
「そうね。あとでフィリップ3世に連絡すればいいわ。彼もきっとわかってくれるでしょう」
エレノアが助言し、ヌヴィエムもうなずく。ユリウスは少し安堵したように微笑んだ。
「よかった。じゃあ、姉さん、準備をお願い。場所は砦の会談室にしてもいいかな?」
「ええ、そうしましょう。プルミエール、悪いけど……」
「うん、わたしはここでエレノアお姉さまと待ってるよ。大丈夫」
プルミエールは自分の足が完全でないこともあり、大人の政治的な場に同席するつもりはないようだ。ヌヴィエムは軽く微笑みながら「ありがとう」と言い、エレノアと共に部屋を出る準備をし始める。
ユリウスはプルミエールの方をちらりと見やり、「ごめんな、後でまた話し相手になってやるから」と声をかけた。プルミエールは素直に「うん、行ってらっしゃい」と返事し、そのまま椅子に腰を戻す。
こうして、急遽予定が入り、ヌヴィエムとエレノアは砦の会談室へ向かった。プルミエールは一人残される形となったが、先ほどまで感じていた「何か言いたそうな雰囲気」は、彼女の心にくすぶったままだ。
応接室に静寂が戻る。雨音は相変わらず続き、時折強い風が吹いて窓を叩く。
プルミエールは一人になった椅子の上で、さっきまで飲んでいたハーブティーに目を落とす。湯気はもう消えかけているが、ほんのり甘い香りが残っていて、少しだけ心が落ち着く感じがする。
(……わたし、“プルミエール”っていう名前だ。お姉さまたちが付けてくれた……それは知ってる。でも、どうしてこんな名前なんだろう)
先日、森でモンスターと遭遇したとき、それを撃退してくれたヌヴィエムやユリウス、エレノアの姿を見ていたら、自分もいつかああいうふうに強くなれるのかな、と思った。それと同時に、自分が“何者”なのかも気になってくる。
砦の人々は皆優しくて、「プルミエールちゃん」と呼んで可愛がってくれる。けれど、同じ赤髪を持つヌヴィエムとの関係や、“カンタールの血”というよくわからない言葉がひっかかる。
「お姉さまも、ユリウスお兄さまも、『カンタールの血を継ぐ子』って言うけど、具体的にどういう意味なのかな。カンタールって誰……?」
幼いプルミエールは、以前から漠然とした疑問を抱いていた。ヌヴィエムは時々“父の存在”に言及することがあるが、あまり詳しくは話してくれない。
そもそも、自分がどうしてヌヴィエムの養女になったのか、はっきり覚えているわけではない。自分がまだ赤ん坊の頃、ヌヴィエムによって引き取られたらしい――それくらいの断片的な話しか聞いていない。
(名前の由来を聞けば、何かわかるのかもしれない。だけど、どうやって聞けばいいんだろう……)
プルミエールは両手でほお杖をつき、窓の外を眺めながら、言いようのない不安を感じる。このまま成長していくうちに、もしかしたらみんなから疎まれてしまうんじゃないか。なぜかそんな考えが頭をもたげてくる。
「……嫌われたくないな。お姉さまにも、お兄さまにも、エレノアお姉さまにも……」
思わず声に出してつぶやく。先日のイタズラ大騒動でも、怖がったけれど最終的に優しく受け止めてもらった。森でモンスターに襲われたときも、ちゃんと守ってくれた。自分は本当に幸せ者だ。
それでも、何かが足りないような感覚が拭えない。この名前の意味を知らないままでは、本当に“自分”の未来が描けない気がして仕方がないのだ。
ややあって、会談室での打ち合わせを終えたのか、ユリウスが先に応接室へ戻ってきた。ヌヴィエムはまだ残って商人たちと話をしているらしい。
扉を開けたユリウスは、まだ椅子に座り込んでいるプルミエールの姿に少し驚いたようだ。
「……プルミエール、ずいぶん静かにしてるね。調子でも悪いのかい?」
「ううん、そうじゃないんだけど……」
プルミエールは言葉を濁す。ユリウスは気を使ってか、テーブルの向かい側に腰を下ろし、エレノアが入れていったハーブティーの残りをコップに注いで飲む。
「ふー……冷めても美味しいな、これ。エレノアは魔術も料理も上手いんだから、たいしたもんだ」
「……」
ユリウスはプルミエールの反応が薄いのを感じ取り、やや困った顔をする。最近、彼女がときどき落ち込んだような顔をしているのは気づいていたが、うまく声をかけられずにいたのだ。
思い切って切り出すことにした。
「……プルミエール、何か心配事があるなら言ってくれていいんだぞ? 俺に話せることなら、力になりたい」
「本当……?」
「もちろん。姉さんだって、話してくれたら喜ぶと思う。けど、もし言いづらいなら俺にだけでもいい」
ユリウスの言葉に、プルミエールは少しだけうつむいた。迷っている様子が伝わってくるが、やがて決心がついたのか、小さな声で答えはじめる。
「ねえ……お兄さまは、どうしてわたしの名前が“プルミエール”なのか、知ってる……?」
「名前? どうしてって……そりゃあ、姉さんがそう名づけたんじゃ……」
「うん、そうらしいんだけど……。わたしがどうしてそう呼ばれるようになったのか、ちゃんと聞いたことがなくて。お兄さまは何か知ってる?」
ユリウスは少し戸惑った表情を浮かべながら、おもむろに思い出すように目を伏せる。そして、声を低くして口を開いた。
「……そういえば、姉さんが退位する前後の頃、あなたを引き取った直後に『この子は新しい時代の始まりになる存在だから、プルミエールと呼ぶ』みたいなことを言ってたのを聞いたことがある」
「新しい時代……?」
プルミエールは首をかしげる。まだ幼い彼女には、大きな歴史的流れや政治的な変革という概念はピンと来ない。しかし、“新しい時代を象徴する名前”というフレーズには、不思議な重みを感じた。
「そう。“はじまり”とか“最初”という意味があるらしいんだ。姉さんは、かつて強い復讐心を抱いて戦っていたけれど、エッグ崩壊によって大きな戦争が終わったあと、『もう誰もが争わなくていい未来』を作ろうと決めたんだ。それが新しい時代の始まり……その象徴に、あなたがなると」
「……わたし、そんな大層な存在じゃないのに」
「姉さんの気持ちは、きっとそういう意味だったんだと思う。血筋の話もあるけど、それ以上に……あなた自身が“新しい世界”を照らしてくれる存在になるって」
ユリウスが懸命に言葉を探しながら説明する。プルミエールは真剣に耳を傾け、時々小さく頷いた。自分の名前にそんな大義名分のようなものが込められていたなんて、まったく想像していなかったのだ。
「でも……大きくなったら、わたしが何かをしなきゃいけないの?」
「強制はされないと思うよ。姉さんが言う“新しい時代”っていうのは、誰かがひとりで作るもんじゃないし」
「……そうだよね」
プルミエールの顔にはまだどこか複雑な戸惑いがある。自分がそんな期待を背負っている存在だというのは、嬉しいような、重いような不思議な感覚だ。
ユリウスはそれ以上深く踏み込むことができず、「詳しいことは姉さんに直接聞いてみるといい」と優しく促すにとどめた。
一方、その頃、ヌヴィエムはヤーデ伯領の商人たちとの打ち合わせを終え、エレノアと共に廊下を歩いていた。
小雨が止みかけ、窓から差し込む夕陽が薄いオレンジ色の光を砦の石壁に染めている。長い会話で疲れたのか、ヌヴィエムは軽く伸びをした。
「ふう……なんとか話がまとまってよかった。あの人たち、最初は固い表情だったけど、最後は納得して帰ってくれたわね」
「あなたが誠実に対応してたからよ。やっぱり、元リーダーとしての威厳があるわね」
「やめてよ、今はただのアイドルなんだから」
ヌヴィエムは冗談めかして笑う。エレノアも微笑みながら、ふと懐かしそうに窓の外を見やる。
「ねえ、ヌヴィエム。あなたが“プルミエール”を引き取ったときのこと、覚えてる?」
「……もちろん。あのときは必死だったわ。カンタールの血を巡る争いがようやく収束して、わたし自身も権力を手放すことを決めた頃だった。そんなとき、あの子を引き取ると聞いて、周囲からはかなり反対されたわ」
「ええ、私も少し心配したわよ。傷ついているあなたが、さらに子育てなんて大丈夫なの? って。ユリウスもリハビリ中だったし」
エレノアは苦笑しながら回想する。当時のヌヴィエムは“エッグ崩壊”直後の混乱の中で、リーダーの座を降りる決断をしていた。分散治世の芽が出始めたばかりで、まだまだ社会の情勢が不透明だったのだ。
「でも、プルミエールを見たときに思ったの。――この子が、新しい時代の象徴になるかもしれないって」
「そう、あなたは言ってたわね。『いつかこの子が笑って育つ世界を作りたい』って」
「それを聞いたとき、私も少し感動しちゃったわ。あなたが復讐心を手放して、“未来”を信じるようになってたから」
ヌヴィエムは少し照れくさそうに微笑む。過去の自分がどれほど激しい闘争心に駆られていたか、自覚しているからこそ、今の平穏を尊く思えるのだ。
「だからこそ、わたしはプルミエールに『最初』『はじまり』という意味を込めた。あの子が戦乱ではなく、平和の象徴として成長してくれたら、それだけで救われる人がたくさんいると思うから」
「そうね……プルミエール本人はまだその意味を理解していないと思うけど」
「きっと、近いうちに問いかけてくるでしょうね。『どうしてプルミエールって名前なの?』って」
ヌヴィエムは思わず笑みを漏らすが、内心はどこか切なさも混じっている。自分の過去や父カンタールのこと、血縁の複雑さ……どこまで話すべきなのか。幼いプルミエールにはまだ重いかもしれない。
エレノアはヌヴィエムの肩に軽く手を置いて、やわらかい声で話す。
「あなたはあの子を愛している。それだけで充分じゃない? 大人になったらいずれ、ちゃんと話す機会が来るでしょう」
「そうね……。あの子が『聞きたい』と思ったときに、わたしは隠さずに伝えようと思う。自分の名前の意味も、カンタールのことも、わたしの過去も……全部ね」
決意を滲ませたヌヴィエムの横顔には、かつてのリーダーとしての強さがわずかに宿っているようだった。
二人はそう言葉を交わしながら、プルミエールが待つ応接室へと足を速める。
夕方の雨は完全に止み、雲間からは夜の帳がゆっくりと降りてこようとしていた。廊下の灯りがともされ、砦の一部はすでに柔らかなランプの光に包まれている。
ヌヴィエムとエレノアが応接室に戻ると、そこにはユリウスとプルミエールの姿。二人は向かい合って静かに話していたが、ヌヴィエムたちが入ってくるのを察知し、すぐに顔を上げた。
「おかえり、お姉さま。商人さんたちとはうまくいった?」
プルミエールは少し緊張気味に尋ねる。ヌヴィエムは微笑んで頷く。
「ええ、大丈夫。あなたはどうしてたの? ユリウスと何か話してたのかな」
「……うん。お兄さまが、わたしの名前の意味を少し教えてくれたの」
その言葉に、ヌヴィエムとエレノアは顔を見合わせる。やはり、そのときが来たのだと悟った。
プルミエールは軽く息をのみ、視線をヌヴィエムへ向ける。
「お姉さま……聞きたいことがあるの。わたしの名前、どうして“プルミエール”なの? “はじまり”とか“最初”とか、そういう意味って、お兄さまが言ってたけど……」
「……そう。ユリウスが話したのね」
ヌヴィエムは一瞬だけ目を伏せる。まるで覚悟を決めるように、意を決してプルミエールのそばに膝をつき、目線を合わせた。エレノアとユリウスも近くで見守っている。
「あなたにはね、わたしが抱いていた……いえ、今も抱いている『未来への願い』が込められているの。たくさんの戦いを乗り越えて、もう誰もが争わずに済む時代を作りたいって、わたしが心から願った。――その“始まり”を象徴してほしかったの」
「戦い……? お姉さまは、昔……?」
「ええ、わたしは復讐心に囚われていたことがあるの。父カンタールの一族やエッグ崩壊の混乱……大きな戦争を通じて、たくさんの人が傷ついた。でも、わたしはその争いを終わらせ、新しい時代を築きたかった」
ヌヴィエムの瞳には、一瞬過去の哀しみが宿る。だが、その奥底には決意の炎も揺らめいている。
プルミエールは自分がうまく言葉にできない何かを感じ取り、ただ黙って聞き入る。
「だから、あなたを迎えたとき、わたしは決めたの。――“この子が、平和な世界で笑っていてくれるなら、わたしの戦いにも意味があったはず”ってね。赤ちゃんだったあなたを見て、あなたこそが“はじまり”だと思ったのよ」
「……じゃあ、わたしにそういう期待をしているの? わたしが、みんなを平和にする……とか、そういうこと……?」
プルミエールの声は弱々しく、戸惑いがにじむ。ヌヴィエムはかぶりを振り、優しく手を握った。
「いいえ、あなたに何か大きな責任を押し付けたいわけじゃない。あくまで“願い”よ。あなたが今の世界で自由に生きて笑ってくれることが、わたしや多くの人にとって希望になる。――それだけでいいの」
「それだけで……いいの……?」
「ええ。もちろん、あなたが成長して何を目指すかは自由。アイドルになってもいいし、別の道を選んでもいい。大事なのは、あなたがあなた自身の人生を楽しんで生きてほしいってこと」
ヌヴィエムの声は真剣だった。プルミエールはその言葉をかみしめるように胸に刻み、やがて少し震える声で呟く。
「……よかった。なんだか、わたし、すごく大事な使命を背負ってるのかと思って、怖かったんだ。もし失敗したら、みんなががっかりするんじゃないかって……」
「そう感じさせてしまったなら、ごめんなさい。でも安心して。わたしはあなたを見守るだけ。いつでもあなたの味方よ」
プルミエールはそっとヌヴィエムの胸に抱きしめられ、安堵の涙をぽろぽろとこぼす。ユリウスとエレノアは静かにその様子を見守り、暖かい空気が応接室を満たしていく。
しばらくして、プルミエールは涙をぬぐい、笑顔を取り戻した。
「ありがとう、お姉さま……。もうちょっと大きくなったら、カンタールのこととか、お姉さまの戦いのこととか……いろいろ聞いてもいい?」
「ええ、もちろん。聞きたいと思ったら、いつでも言ってちょうだい」
その言葉に、プルミエールは大きく頷く。まだ幼いながら、名前の意味を知ったことで、自分がこの砦にいる理由の一端がわかった気がした。
その晩、砦の広場では簡単な夕食会のような集まりが行われていた。ヤーデ伯領の商人たちが滞在しているので、歓迎の意味を込めてささやかな宴を開くのだ。
プルミエールはヌヴィエムと一緒に挨拶にまわり、いろんな人から「プルミエールちゃん、怪我はもう大丈夫?」「君はヌヴィエム様のかわいい娘だね」などと声をかけられる。砦の兵士やスタッフも「ご苦労様」と商人たちをもてなしていた。
「プルミエールちゃん、名前が素敵だね。初めて聞いたよ」
「そうなんですよ。『最初』って意味で、ヌヴィエム様が付けられたんですって」
「へえ……なんだか未来を感じさせる響きだなあ」
そんな言葉があちこちで交わされる。プルミエールは嬉し恥ずかしそうに笑みを浮かべる。昼間まで感じていた重圧は消えて、今は名前を褒められると素直に誇らしい気持ちになった。
「いいじゃない、プルミエール。あなたはあなたらしく、その名前を大切にしていけばいいわ」
エレノアが軽く酒杯を傾けながら、にこやかに言う。プルミエールはこくりと頷き、「うん、そうする」と笑顔を返した。
少し離れたところではユリウスが商人たちと言葉を交わし、ラルフが警備の確認をしている。その視線の隅に、いつもプルミエールの姿を追いかけるように配慮があるのがわかる。彼女の安全を守ろうとする意識が伝わってくるのだ。
「お姉さま、明日は何か予定あるの?」
宴の合間にプルミエールがヌヴィエムに尋ねる。ヌヴィエムは微笑んで肩をすくめる。
「うーん、特に大きなステージはないし、午前中は砦の事務仕事かな。午後は空いてるかも。どうして?」
「もし空いてたら……わたし、少しだけ、ダンスの練習がしたいなって。まだ足は完全じゃないけど、お姉さまみたいにステージで踊れるようになりたい……」
プルミエールは照れ笑いを浮かべながら言う。ヌヴィエムは目を見開き、すぐににこりと笑った。
「それは嬉しいわ。じゃあ、足に負担をかけない程度に、簡単なステップを練習しましょう。アイドルにはリズム感が大切だからね」
「うん……! がんばる……!」
プルミエールの頬にはほんのり赤みが差して、輝く赤い髪が一層美しく見えた。名前の秘密を知り、自分は“新しい時代の始まり”という願いを込められた存在なのだと認識したことで、彼女の心には微かな自信が芽生え始めているのかもしれない。
歓迎の宴が終わる頃には、砦の広場もすっかり夜の闇に包まれていた。雨が上がった空には星がうっすらと輝き、しっとりとした風が心地よい。
プルミエールはヌヴィエムと部屋に戻る途中、ふと立ち止まり、中庭の夜空を見上げる。
「星が……きれい……」
「そうね。雨上がりだから、空気が澄んでるのかも」
ヌヴィエムは足を止めて、プルミエールの横に立つ。二人の赤髪が夜風に揺れ、かすかなランプの光を受けて神秘的な光沢を放つ。
プルミエールはそっと目を閉じ、胸の奥に眠っていた疑問や不安が、今日の出来事で少しだけ晴れたのを感じていた。もう名前の意味を知らないままで悶々とすることはない。自分がここにいる理由を、なんとなくだけれど確信できた気がする。
「……いつか、大きくなったら、わたし、もっとみんなの笑顔を見たい。お姉さまみたいに歌って踊って……みんなに元気をあげられるようになれたら、嬉しいな」
「そう思ってくれるなら、わたしは大歓迎よ。あなたは“プルミエール”なんだから、世界に新しいステップを踏み出してみせて」
「うん……。いつか、わたしもステージに立って、みんなに見てもらう日が来るといいな」
ヌヴィエムはプルミエールの頭を優しく撫でて微笑み、部屋へと戻るように促す。これから先、どんな未来が待っているのか、誰にもわからない。けれど、少なくとも今は、二人の間に温かな親子のような絆が存在していた。
プルミエールはその絆に守られながら、ゆっくりと成長し、新たな一歩を踏み出すだろう。――そう、**“プルミエール”**という名に込められた“はじまり”の力を信じながら。