
天蓋の欠片EP6-2
Episode 6-2:探偵と公務員の衝突
夕暮れの光が窓ガラスを淡く染めるなか、探偵として名を馳せる九堂エリスは、書類の束を睨んだまま小さく息を吐いていた。頭の中では先ほどまでのやり取りが渦巻き、胸に生まれた苛立ちが静まらない。
大きなデスクの向こうには、少しだけ落ち着かなさを宿したまま立ち尽くす柊アヤカがいる。国際公務員としてタスクフォースに所属し、真理追求の徒の動向を監視する立場の彼女は、最近になって学校周辺や街での監視体制を強化しているらしい。今日も朝から幾度となくエリスと接触を試み、情報共有を求めてきたのだが、ここへ来て何かが噛み合わないまま、二人の間に衝突の火種が生まれていた。
「――だから言ってるでしょ。私はあなたたちタスクフォースの犬じゃない。好き勝手に指示されるいわれはないわ」
そう言い放つエリスの声には、どこか鋭いトゲが混じる。彼女の手元には“ある事件”に関する内部資料が置かれているが、タスクフォースがこれをどう扱いたいかについて、そもそも意見が対立しているのだ。
「我々だって、あなたを指図したいわけじゃない。ただ、事態がこれだけ深刻化している以上、最低限の協力関係を築く必要があるはずです」
アヤカも一歩も引かず、静かだが強い調子で言葉を返す。長い髪を後ろでまとめ、ピンと背筋を伸ばした姿勢は、エリスの奔放さとは対照的だ。
探偵事務所は、夕暮れの光が差し込むだけで照明はつけていない。人影が伸びるフロアの上で、ふたりは薄暗い空気をまとって向き合っていた。まるで一触即発のように、しばらく沈黙が流れる。
エリスはソファに腰かけると、大きく足を組みかえて書類を指先で軽く弾き、「……タスクフォースが知りたい情報は、私が苦労して手に入れたものばかり。あなたの上層部がどう使うかも分からないのに、はいどうぞと渡す気にはなれないわ」と口を開く。
「そんなことは分かってます。でも、真理追求の徒の動きは活発で、カエデさんやユキノさんのような生成者が危険にさらされている。あなたも、そろそろ本腰を入れて協力を――」
「危険にさらされているのは分かってる。だからこそ私が勝手に動いてるの。それに、あなたたちが“保護”と称して少々強引な手段をとることも知ってるわ。カエデが怖がっている原因でもあるもの、あなたの組織がね」
エリスの言葉には、鋭く冷えた怒りが混じる。アヤカは拳を握りしめるが、反論するより先に息を整えて落ち着きを取り戻そうとする。
「確かにタスクフォース内部にも強引な者がいるのは事実です。けれど、それが全てじゃない。私たちはいま、街で起きている連続的な襲撃を阻止したいだけで……」
「だったら私たちを脅すようなやり方はやめてちょうだい。少なくとも私は、あなたの都合で動くつもりはない。ユキノやカエデが安全に生きられる世界を作りたいだけよ」
そう言ってエリスは立ち上がり、机の脇を回ってアヤカの正面に歩み寄る。二人の間に漂う空気が重く変化していくのを、遠くから見守るように小さな影――天野ユキノがドアの隙間から覗いていた。
ユキノは息を呑み、探偵と公務員の激しい議論に胸を締めつけられている。いつも頼りになるエリスが、こんなに怒りをむき出しにするのは珍しい。アヤカも真面目ゆえに強硬な姿勢を崩さない。両者ともに悪意があるわけではないのに、すれ違いだけが際立っているように見えた。
彼女は迷いながらも、そっと部屋に入っていく。
「……ちょっと待って。二人とも落ち着いて」
小さな声でそう呼びかけると、エリスとアヤカの視線が一斉にユキノへ向く。
「ユキノ、いつからそこにいたの?」
「ご、ごめん、ノックするタイミングを逃しちゃって……あの……争っても仕方ないよ。二人とも、本当は同じ方向を向いてるんじゃないの?」
ユキノはそう言いながらエリスとアヤカの間に入ろうとするが、エリスが短く舌打ちして目を逸らす。「私とアヤカさんが同じ方向? ふん、言ってくれるわね……」
一方、アヤカも小さく首を振り、「同じ方向なら本来歓迎すべきですけど、私たちにはアプローチが違いすぎるのよ」と苛立ちをにじませる。
ユキノは二人を交互に見やり、心の中で(こんな衝突は望んでないのに……)と苦しくなる。とはいえ、どう説得すればいいかも分からない。タスクフォースの立場からすれば、一刻も早く真理追求の徒を制圧するために、エリスの情報や技術が欲しいだろう。逆にエリスは、自分の流儀を曲げたくないし、タスクフォースのやり方を100%信じられない。
「あなたたちが衝突しても、結局その隙をついて真理追求の徒が暗躍するだけ。こんなのおかしいよ……」
ユキノは震える声で訴えるが、エリスもアヤカも視線を交わさない。
そのとき、扉がふいに開いてカタンという音がした。探偵事務所の入り口から、不安そうに顔を出すのはタスクフォースの隊員。アヤカの部下らしい男性で、彼もまた事情を聞きに来たのかもしれない。「失礼します……すみません、いま入って大丈夫でしょうか?」と声を小さくかけるが、エリスの目が一瞬鋭く光って「勝手に入ってこないで」と冷たく返される。
隊員は縮こまりながら、「あ……そうですよね、失礼しました……」と下がろうとするが、アヤカがすかさず「待って。せっかく来たなら、あなたもエリスさんに説明して」と呼び止める。エリスはしぶしぶ腕を組み、「何の話?」と隊員を睨みつける。
隊員は困り顔で資料を取り出しながら、「実は先ほどの続報で、真理追求の徒が“蒔苗”という存在を積極的に探し回っているそうなんです。どうやら“隠れた観測者”という噂まで流れていて、このままだと……」と説明を始める。
ユキノは肩を強張らせる。“蒔苗”――観測者であり、この世界を俯瞰している謎の存在。カエデの苦悩やユキノ自身の命運にも深く絡む可能性がある。もし真理追求の徒が蒔苗を捕まえたり、干渉したりすれば、想像以上に危険な事態を引き起こすかもしれない。
エリスが机に手をついてうつむく。「蒔苗……あの子が動くなら、私も好きにさせておけないわ。ユキノが傷つくかもしれないし、カエデがどうなるか分からない。……でも、タスクフォースに情報を開示するのはまだ気が乗らない」
アヤカは一歩前に踏み出して反論する。「だから、あなた一人が全部抱え込むのは無謀なんです。蒔苗がどれほど危険か、私たちだって把握してきている。もし真理追求の徒が蒔苗を利用すれば……次元的な崩壊まで視野に入るかもしれないのよ!」
次元崩壊――その言葉だけでユキノの背に冷たい汗が流れる。いままで漠然と感じていた不安が、アヤカの口からはっきり述べられた。蒔苗が“観測を止めるとき”が来れば、この世界ごと破壊される可能性すらあるという話は聞いている。
「……だから私は早く対策を講じたい。このまま放置すれば、蒔苗を追う真理追求の徒との衝突がさらに激化するだけ。エリスさん、あなたも“観測者”のリスクは分かってるんじゃないの?」
アヤカの問いかけに、エリスは無言のまま視線をそらし、机の上の資料を指先で叩いた。「分かってる。けど、私が今持っている蒔苗に関する情報は、あの子自身が私に託してくれたものではない。それを勝手に公表するのは抵抗があるし、タスクフォースのトップがどう使うかも不安。……あなたは信頼できても、あなたの組織全体を信じられるわけじゃない」
互いの主張はどれも筋が通っているのが厄介だ。ユキノは二人のやり取りを聴きながら、どうにか折衷案はないかと思案するが、難しい。アヤカが嘘をついているわけでもなく、エリスが頑固に意地を張っているわけでもない。立場の違いが大きすぎるのだ。
隊員も所在なさげに立ち尽くしている。ユキノは思い切って割り込む。「私……どうしたらいいかな。エリスさんに情報を全部開示するのは不安、タスクフォースに渡すのはもっと不安。私たちって、同じゴールに向かってるはずなのに……こんな争い方はおかしいよ」
エリスは一瞬沈黙し、アヤカは小さく息を吐く。二人の険悪な雰囲気がほんの少しだけ揺らぐ気配がある。探偵と公務員、それぞれが正義を抱えているからこそ衝突する――それが痛いほど伝わってくる。
「……じゃあ、どうすればいいの?」
アヤカが呟くように言うと、エリスは額に手を当てて目を閉じる。おそらく頭をフル回転させているのだろう。「私が持っている蒔苗に関する情報は、あの子の起源や力の詳細、接点を断つ方法の仮説……確かにどれも、真理追求の徒が入手すれば最悪の結果をもたらすかもしれない。タスクフォースが管理するなら、少なくとも闇に流れるよりは安全かもしれないわね」
アヤカが期待の眼差しで「では……」と口を開くが、エリスは続ける。「ただし、私にも条件がある。まずあなたたちの組織の全員がこの情報を共有するんじゃなく、一定の信頼できるメンバーだけに絞ること。それから、ユキノやカエデが巻き込まれる形での強制保護はしないこと。これが私の最低限の譲れないライン」
アヤカは唇を引き結ぶ。組織としては、情報を有効に使うために多くの部署と共有したいだろうし、生成者の保護を強化するためなら強制的に動くこともあるかもしれない。しかし、今この場でエリスが歩み寄らなければ、何も進まない。
「……分かりました。私としてはその条件を認めたいですが、上層部を説得するのに時間がかかるかもしれません。実現させるにはあなたの協力も必要になる」
「いいわよ。そのくらいは私もやる。あなたが変な嘘をつかなければ、私も誠意を見せる。それでどう?」
そこでアヤカは深く息を吸い、「交渉成立、ですね」と息をつく。険悪だった空気が少しだけ和らぎ、エリスの方も「ふん……まぁ、一歩前進かしら」と形ばかりの軽蔑を含んだ調子で呟くが、その目には先ほどまでの強烈な怒りはない。
ユキノは胸を撫でおろし、「よかった……」と安堵する。衝突しかけた二人が、辛うじて共通の利益に気づき、手を取り合おうとする――完全に和解したわけではないだろうが、互いに歩み寄ったのは確かだ。
隊員が「よかったですね……」と緊張を解くように笑みを浮かべ、「ではその条件で、我々としても上層部に報告を……」と言いかけたとき、窓の外が突然大きな閃光で染まった。ビルの谷間に一瞬光が走るのが見え、時間差でドンという爆発音が耳を打つ。
「何……!?」
アヤカが反応し、エリスも条件反射的に窓へ駆け寄ってカーテンを開く。外の街区で煙が上がり、遠くの方で警備車両のサイレンが鳴り始めるのが感じられる。ユキノは青ざめて身を乗り出し、「また真理追求の徒……?」と声を震わせる。
エリスがすぐさまリボルバー型射出機をコートの内ポケットに突っ込み、アヤカも「タスクフォース本部へ連絡を……急ぎましょう!」と通信機を取り出す。
「何が起きてもおかしくないとは思っていたけど、こんなタイミングで……!」
エリスが焦りを口にする。ユキノは自分の胸のあたりを押さえ、「私も行く……カエデさんや他のみんなが巻き込まれたら大変だし……!」と叫ぶが、アヤカが鋭く制止する。「あなたはまず落ち着いて。護衛と一緒に安全を確保しなさい。私とエリスさんが現地へ向かうから……」
しかし、エリスは首を横に振り、「ユキノも来るわよ。あの子だって立派に戦える。どうせ現場でカエデや蒔苗が絡んでいる可能性だってあるんだから、何かあってから呼びに戻るよりマシだわ」と言う。ユキノはわずかにホッと胸を撫で下ろすが、アヤカは「危険すぎる……!」と声を荒らげる。
「またその衝突? 今は非常時なのよ。あなた、自分の勝手でユキノを巻き込むつもり?」
「非常時ならなおさら、ユキノの力が必要になるかもしれない。あの子は、痛みに耐えながらも弓を扱えるのよ。あなたも知ってるでしょう」
「でも、傷ついたらどうするの!」
その言い合いが加速しそうになるが、ユキノが必死に割って入り、涙目で「私は行く……行かせてください。もう、カエデさんを放っておけないし……蒔苗が何か企んでるなら、私が見届けたいの……!」と声を張り上げる。
そうしてようやく、エリスとアヤカは視線を交わし、短く頷き合う。そこに先ほどまでの激しい衝突はない。あるのは、一致団結して事件に立ち向かう必要性――暗黙の了解だ。
「ああもう……好きにして。でも無茶はしないでね、ユキノ」
「うん、ありがとう。アヤカさんもごめんなさい……」
アヤカは無言で通信機のスイッチを入れ、タスクフォース本部に現場へ急行する旨を伝える。エリスはいつものトレンチコートを羽織り、ユキノに小さくウインク。「さぁ、行くわよ。衝突してる場合じゃない。探偵と公務員が手を組んで、最速で収束させるのが私たちのやり方ってわけね」
ユキノは頷き、「わたしも全力で手伝う……!」と顔を上げる。アヤカも最後に静かに「よろしくお願いします」と低く返して、入口へ駆けていった。
――こうして、探偵と公務員、それぞれに違う立場でありながら同じ目標を持つ二人が、短い衝突を乗り越えて再び行動を共にすることとなる。街で起きた爆発音は、ただの予兆に過ぎないのかもしれない。真理追求の徒、蒔苗、カエデ、そしてユキノ――全てが絡み合う大きな事件の幕開けを告げているのだろう。
痛みや恐怖をこらえながらも、ユキノは心の奥でこう誓う。**「カエデさんとの友達を守り、蒔苗の動向も見極めて、こんな衝突に意味を与えるんだ」**と。探偵と公務員の対立はあくまで通過点にすぎない。この世界を覆う闇は、まだ深い――だが、それでも希望は消えてはいないと信じたい。
(……絶対に守る。エリスさんも、アヤカさんも、カエデさんも、そしてこの街も……!)
呼応するようにエリスが鍵を回して事務所のドアを閉め、アヤカがタスクフォースの車のエンジンをかける音が響く。闇の中に燃え上がる爆発の余波は、これから訪れる激戦を暗示している――それでも、彼らは前を向くしかない。探偵として、国際公務員として、そして生成者の力を持つ者として――今こそ、それぞれの信念が試される。