Symphony No. 9 :番外編_1-1
エピソード番外編1-1:アイドルの軌跡
砦の朝はいつもひんやりとしている。夜明け前の薄青い空が石壁を照らし、世界をまだ完全には起こしていない。ヌヴィエムは寝室の窓を開け放ち、冷たい空気をひと息に吸い込んだ。ほんの数か月前までは、彼女はこの砦の中心的存在――いや、リーダーとして君臨し、エッグとの死闘を経て世界を救い、分散治世を樹立する要だった。けれどいまや、彼女はもう「退位」した身であり、十八歳の少女として新しい道を踏み出そうとしている。
「さて……今日はいよいよ、本格的なライブ。ちゃんと成功させなきゃね」
ヌヴィエムは自分に言い聞かせるようにつぶやき、小さく伸びをした。部屋の奥で、まだ幼いプルミエールが毛布にくるまって寝息を立てている。思えばこの子――父カンタールと妾のあいだに生まれた小さな命を引き取り、養い始めてから、自分の生活も大きく変化したと感じる。少し前の自分なら「復讐」や「戦闘」が最優先で、こんな穏やかな朝を迎えることは想像できなかっただろう。
退位した今も、この砦で寝起きを続けるのは、ほかならぬ人々の声があったからだ。分散治世が軌道に乗り、指導者としての役割はフィリップ3世や民衆に任せたが、それでも「ヌヴィエムがいると安心する」という想いを持つ者が多い。そこで彼女は思いきって自分のやりたいことを優先してみることにした。――そう、「アイドル」としての活動。戦場で培ったリズム指揮や音術の才能を、いまは平和を支えるエンターテイメントへと転化させるのだ。
「さて、支度をしなきゃ……」
ヌヴィエムはそっとベッドを離れ、プルミエールに起こさないよう注意しつつドレスに着替え始める。彼女の衣装は、戦士らしさをほんの少し残しながらも、可憐な舞台仕様へとアレンジされている。踊りやすいようにスカート部分はやや短めでレースを施し、上半身には軽い装飾が映える。赤い髪を結うためのリボンと、音術を象徴する小さなブローチがワンポイントで添えられていた。
ドアを開けて廊下へ出ると、まだ兵たちは点呼の準備中で、砦はしんと静まっている。遠くから、鍛冶場の小さな金属音がかすかに聞こえてきた。いつもの朝に似ているが、ヌヴィエムが感じる空気はまるで違う。今日は大きなステージを設営し、正式なライブを行う日。観客が集まり、彼女が真ん中に立って歌と踊りを披露するのだ。分散治世の下で、彼女にしかできない新しい道を切り開く――そんな決意が胸にじんわり広がる。
「姉上、ずいぶん早いんだな……」
曲がり角の向こうから現れたのは、弟のユリウスだ。かつてはエッグを砕く剣士として大きな傷を負ったが、今は回復が進み、杖をつきながらも比較的普通に歩けるようになっている。茶髪の毛先はところどころ癖がつき、眠そうな顔をしているが、瞳には生気が戻っていた。
「おはよう、ユリウス。あんたも朝早いわね。身体はどう? 痛んだりしない?」
ヌヴィエムが声をかけると、ユリウスは軽く首を振る。「うん、大丈夫だよ。少し突き刺すような痛みはまだあるけど……普通に歩ける。姉上こそステージの準備があるんだろ? なにか手伝えることはある?」
退位後も、ユリウスは姉の護衛を担うような立場だ。しかし、対大規模戦闘の出番はほとんどなく、このところは姉の舞台の裏方を手伝うのが主な仕事になっている。ヌヴィエムは苦笑しつつ、弟の申し出をありがたく受け取りながら歩き出した。
「ステージの設営はもう職人さんたちがやってくれているわ。あたしはどういうパフォーマンスにするか最終調整がある。ユリウスは音響装置のチェックを手伝ってくれる?」
「わかった。エレノアはもう起きてるかな。魔術でちょっとした演出を加えてくれるって言ってたし……」
彼らは並んで歩きながら砦の中庭へ向かう。朝の光が石畳に射し込み、昨日から設置されている木製のステージがぼんやりと浮かび上がっていた。兵士や職人が数名いて、幕を張る作業をしている。ロープの張り方や耐久性、客席の位置などを確認しながら、今日はきちんとライブができるよう細心の注意を払っているようだ。
「おお、ヌヴィエム殿。準備は整いつつあるぞ。あとは音響装置の調整と、幕の装飾だな」
一人の職人風の男が挨拶してくる。ヌヴィエムは「おはようございます。夜明け前からありがとうございます」とぺこりと頭を下げた。本編の最終決戦が終わってから数か月、砦にはこうした新しい職人や文化人が出入りするようになり、彼女のアイドルライブは一大イベントになる可能性が高い。
「姉上、じゃあおれは……あれ? エレノアは……」
不意にユリウスが視線を巡らせると、ステージ脇の暗がりから軽妙な足音が聞こえてきた。そこには金髪を揺らすエレノアが、魔術用のローブをはおりながら小さくウインクを送ってくる。
「おはよう、二人とも。こんな朝早くからご苦労さまね。わたしも音響や舞台演出の最後の仕上げをしようと思ってたところ。火と幻術を合わせてちょっとした照明マジックを試したいのだけど、邪魔しないかしら?」
エレノアが涼やかな声で尋ねると、ヌヴィエムは手を叩いて嬉しそうに笑う。「それいいじゃない! あたしのダンスに合わせて、そこだけ少し光や幻想の波を重ねられたら最高よ。戦場での幻術とは違う“華やかさ”にしてほしいな」
「そうそう、もう戦場の幻惑とはぜんぜん違うわよ。平和なステージに合う、キラキラした火花や光の帯みたいな演出にするわ。任せてちょうだい」
エレノアが誇らしげに微笑み、ユリウスはそばで二人の会話を見守りながら、少し照れた様子を浮かべている。以前なら魔術は戦闘か人を惑わすために使われたものだが、いまはエレノアが堂々と「舞台演出」として活用しているところに時代の変化が感じられた。
午前中、ヌヴィエムたちは慌ただしくステージ周りを駆け回った。思ったより舞台の床板が軋んでおり、「激しいダンスをすると板が割れかねない」などと職人が警告する場面もあって、補強に少し時間がかかったりもする。さらに幕の色味や配置が難航し、ヌヴィエムが「この色は暗すぎない?」と悩んだり、エレノアが「いやいや逆に映えるわよ」と言い合ったり、ユリウスが「姉上、難しく考えすぎじゃ……」と口を挟んだり。
その横では、プルミエールがほとほと退屈そうにしていた。保護者役の兵士が相手をしてやろうとするも、少女はヌヴィエムの様子が気になるらしく、服の裾を引っ張って離れない。
「お姉ちゃんがんばってるから……うた、たのしみ……」
拙い言葉でそう言う少女に、ヌヴィエムはハッと目を細め、額に軽く手を当ててやる。「ありがとう、プルミエール。ちゃんと見ててね。あたし、がんばるから」
戦士や指導者ではなく「アイドル」としての自分を見てもらう――その期待が、ヌヴィエムの胸に柔らかな熱を宿す。プルミエールにとっても初めて観る本格ライブ。子どもの笑顔のために曲を届けることが何よりの動機付けだ。
昼前には舞台の基本的な調整が終わり、音響の最終チェックに移る。エレノアが火と幻術を混ぜた「小型の光の飛沫」をテストし、ユリウスが機材をつなぎ、職人が響き具合を確かめる。その様子をヌヴィエムは舞台中央で待ち、デモンストレーション用にリズムを刻み、試し歌をしてみせた。
――試し歌と言っても、かつて戦場で兵の動きをまとめ上げた力を秘めた「音術」がベースなので、一瞬だけその残響が客席の空間を振動させる。
「すごい、身体が揺れるような感覚がある……」
見学していた兵士が思わず驚きの声を上げる。劇的に強いわけではないが、ほのかに心が落ち着くような波が伝わってくるのだ。まさに戦いではなく、癒やしや楽しみへ転じた音術。彼らは拍手しながら、「これは拍手だけでなく、コインを払ってもいいレベルだ!」などと口々に褒めたたえる。
しかし、絶賛の声と同時に、一人のスタッフが「あの、音響の魔術石が少し不安定で、途中で雑音が入るかもしれない」と困り顔をしていた。どうやら古い装置を改修して使っているため、出力が不安定らしい。
「うーん、それは困ったわね。でも、まだ本番まで時間あるから、どうにかならない?」
ヌヴィエムが眉を寄せると、スタッフは「うまく魔術石を再調整すれば大丈夫だと思います。でも本番直前までひやひやするかも。エレノアさんの手を借りられれば……」とちらりと視線を投げる。エレノアが苦笑しつつ、「任せて。火術を微量に流し込んで接続を安定させる魔術式を組めば、いけるはずよ」と自信ありげに応じる。
「ありがと、エレノア。これでライブがスムーズにいくといいな」
ヌヴィエムは胸をなでおろしながらも、若干の不安を拭えない。初の大規模ステージに、トラブルはつきものだ。戦場のマニュアルならある程度慣れたが、こうした舞台周りの問題は新しい試練とも言える。
昼食を手早く済ませると、砦の中庭には続々と観客が押し寄せ始めている。今回のライブは完全無料で、ヌヴィエムの「退位後の初フルステージ」ということで、人々の注目を集めていた。大陸の各地で散らばっていた仲間がわざわざ砦へ足を運んでくれる場合もあり、たとえばネーベルスタン将軍や火術師・幻術師の旧戦友がすでに姿を見せている。
ネーベルスタン将軍は少し離れた場所で腕組みをし、かつての教え子を思うような眼差しでステージを眺めている。「まったく……ヌヴィエムが歌手とは、世も変わったものだな」とつぶやいては、周囲の兵が苦笑いで相づちを打っていた。
ヌヴィエムはその視線に気づいて手を振り、「将軍、今日は楽しんでいってくださいね!」と声をかける。将軍は照れ隠しに口をむぐりと結ぶが、まんざらでもない様子だ。
「ヌヴィエム、リハーサルしておきなさいよ。あんまり時間がないわよ」
エレノアの声に促され、ヌヴィエムは笑顔で頷く。「うん、お願い。音響装置、問題ない?」
「火術を少し流し込みながら結界を組んでるから、多分いけると思うわ。あとはあなたの歌と動きの微調整が必要よ。光の効果を出すタイミングを合わせたいから、合図の音をちょっと早めに発してほしいの」
舞台袖で交わされるやりとりは、まるで戦場での作戦会議のように綿密だ。リズム指揮をベースにしたヌヴィエムの動きと、エレノアの魔術演出をシンクロさせる必要があるから、タイミングのズレがあれば違和感が生まれる。ユリウスはそんな二人を眺めて、「俺にできることは少ないけど、必要なら火術を補助で使うよ?」と提案。エレノアは「ありがたいけど、今回の演出は私が一人で十分だから安心して」と頼もしく答えた。
やがて、周囲の観客がさらに増えてくるなか、ヌヴィエムは舞台に上がり、リハーサル用に一曲をざっくり通してみた。もちろん客席にはもう人がいて、なんだかミニライブみたいな形になっているが、彼女のアイドル姿に「かわいい!」「すごく華やか!」と早くも声援が飛び、拍手が起こる。
“なんだか恥ずかしいな……”と心の中で思いながらも、ヌヴィエムは覚悟を固める。戦場のリズム指揮では胸を張れたくせに、こうして人前で歌うときの緊張はまた別物だ。けれど、今日という日は、彼女が「戦わない道」で人を救う一歩――戦闘でなく“歌”を通じて人々を幸せにするのが自分の新しい使命だと信じている。
「うん、緊張しちゃうけど……プルミエールや皆にいいステージを届けるんだ」
誰にともなく小声で呟き、リハーサルを終える。音響に多少のノイズが混じったが、エレノアの即座のフォローで大事には至らない。ユリウスがステージ下から見上げ、「姉上、ばっちりだな。ほんと、堂に入ってるよ」と声をかけてくれたとき、ヌヴィエムは少し照れくさそうに微笑んだ。
太陽が傾き、砦の中庭にオレンジの光が差し込む頃、客席にはすでに大勢の人が集まっていた。農民から商人、旅人、そしてかつての戦友や領主関係者まで、実に多様な顔ぶれだ。彼らは分散治世が進んだこの世界で、“かつての英雄”がどんなパフォーマンスを見せるのか興味津々なのだ。
砦の内壁には警備の兵士たちが配置され、念のための警戒を怠らないが、当の兵士たちの表情もどこかウキウキしている。戦闘モードではなく、今日はお祭りのような雰囲気を楽しむ場面なのだ。
舞台裏でヌヴィエムはコスチュームの微調整を行い、エレノアが「光の演出」の魔術式を再度確認している。ユリウスは杖を片手に音響装置を気にして、「ノイズ、鳴ってないか……」と何度もチェックを繰り返す。その近くでプルミエールが小さく跳ねながら「おねえ、がんばるー?」と期待に満ちた顔をしている。
「さて、行こうか。ファーストソングはどれにするの?」
エレノアがきらりと目を光らせ、ヌヴィエムは少し考えてから「そうね……“花咲く未来”にしようと思う。これがあたしの代表曲になればいいなっていう曲」と答える。戦場でリズム指揮を用い、恐怖を超えた激しいリズムではなく、今は優しいメロディを中心に人々の心を揺らすイメージを描いているのだ。
エレノアは納得した様子で頷く。「了解。最初の曲が始まって15秒くらい後に、私が火術と幻術を合わせて光の帯をステージ中央から噴き出すから、そのときに大きく踊りの動作をとってね。リズム指揮で踏み込んだら、観客はきっと息を呑むわよ」
「わかった。じゃあ、あたしが合図の音を出すから、その瞬間にやってちょうだい。ユリウス、ぐれぐれも音響の方、よろしくね!」
「了解。なんか、姉上が本当にアイドルらしくなったな……変な感じ」
ユリウスの冗談めかした一言に、ヌヴィエムは照れ混じりの笑みをこぼす。けれど、もう覚悟はできていた。自分が目指すのは、剣ではなく歌と踊りで世界を支える存在――戦わずに人々を救う形があるのだと信じて。
陽が橙色に染まった空を背に、ヌヴィエムがステージの上手(かみて)から姿を現すと、砦の中庭は大きなどよめきに包まれた。客席は急増し、立ち見まで出ている。何百人もの視線を浴びるのは戦場と違った緊張があるが、彼女は一歩ずつ真ん中へ進む。
ドレスは戦闘服よりも身軽で、しかし繊細なレースが揺れるたびに華やかな印象を与える。赤い髪を軽く束ねたリボンが、夕陽に照らされて朱金色にきらめき、観客からは「うおお……」「まぶしい……!」という感嘆が漏れる。
マイクの前に立ったヌヴィエムは、一拍の間をとり、深呼吸。そして、満面の笑みを見せる。かつて血塗られた道を歩んだ少女の笑みとは思えないほど、柔らかく澄んだ笑顔だった。
「皆さん、ようこそ! ヌヴィエム・ドランフォード……です。えーと、あたしをまだ“殿”とか“様”とか呼んでくれる人もいるけど、もう退位しましたからね。今日はただのヌヴィエムとして、皆さんの前で歌を届けたいと思います!」
声を張り上げると、客席から大きな拍手が起こる。ネーベルスタン将軍や火術師の旧戦友らしき面々も、控えめながら口元に笑みをたたえているのが見える。ヌヴィエムはこの光景を胸に刻みつつ、続けた。
「いま、世界は分散治世のおかげで戦争こそ減ったけど、小さなトラブルや悩みは尽きないかもしれません。だけど、あたしは信じています――人は笑うほどに強くなれるって! だから、今日はみんなで笑顔になりましょう。まずは一曲目、“花咲く未来”……聴いてください!」
一瞬の静寂を挟んで、イントロがゆっくり流れ出す。エレノアが魔術で調整した音響装置が、澄んだギターのような弦楽の音色を響かせ、ヌヴィエムの鼻先を通り過ぎていく。ユリウスが小さく「よし……ノイズなし」とつぶやき、胸をなでおろした。
ヌヴィエムは目を閉じ、戦場でリズム指揮を振るった記憶を思い出す。あのときは兵を恐怖から解放し、団結させるために刻んだリズム。今は逆で、人々を楽しませ、心を弾ませるためのリズムだ。細く喉を震わせ、最初のメロディを口に乗せる。
歌い始めた途端、空気が変わるように静寂が客席を包む。戦士としての気迫を宿した歌声とは違い、今回は透き通るような優しさと包容力がある。まるで頑なだった土壌をふわりと耕すかのように、音の粒が舞い散って人々の心に溶け込んでいく。
かつて、彼女の声は心理操作や士気高揚のために用いられた。それは戦闘のために発揮された力だったが、今はまったく異なる形で“人を笑顔にする力”となったのだ。夕陽が舞台を赤く染め、ドレスのレースが風に揺れる。その動きに合わせて曲が盛り上がると、エレノアが合図を受けて魔術を発動する。
「ここだわ……!」
小さく呟いたエレノアの両手から、ほのかな光の帯がふわりと湧き上がり、ステージの上空へ舞う。観客が「あ……!」と声を飲む間に、ユリウスが音響装置のボリュームを微調整し、ヌヴィエムの声がさらにクリアに響きわたる。火の帯が舞うというよりは、黄金色のラインがゆるやかに伸びて花火のように弧を描く演出だ。
ヌヴィエムもタイミングを合わせて踊りのステップを一段と大きく踏む。かつてのリズム指揮で培った下半身の安定感がここで生きている。くるりとターンするとスカートのレースがふわりと舞い、同時に光の帯が彼女の周囲を円弧を描きながら囲む。観客席からは大きな歓声が湧き起こり、「なんだこれは……!」「まるで奇跡のステージだ!」と興奮する声が飛び交う。
歌詞はとてもシンプルだ。「過去の苦しみを乗り越え、花が咲くように新しい未来を築こう」というメッセージが込められている。戦場の悲惨さを匂わせるフレーズもあるが、それを優しく受け止め、笑顔に変えるように歌い上げるのがヌヴィエムらしさだ。曲の中盤では、緩やかなサビが繰り返され、観客が自然と手拍子を打ち始める。
エレノアは幻術の火花を弱め、今度は風の残響を加えるようにして爽やかな演出へ切り替え、観客が手拍子を続けやすいようにリズムを盛り立てている。ユリウスも控えめに目を伏せつつ、「本当に姉上は、ここまでやれるようになったんだな……」と感慨深げに微笑む。
曲の終盤、ヌヴィエムが最後のサビを歌い切った瞬間、光の帯が一気に舞台後方へ流れ、まるで花びらが宙を舞うかのような煌めきを生む。彼女は肩で息をしながら手を挙げ、「ありがとう、皆さん……!」と声を張り上げた。歓声と拍手が砦の壁に反響し、観客の興奮が一気に爆発する。
ネーベルスタン将軍らしき姿も見え、「ブラボー……!」と控えめに拍手しているのがわかる。観衆のなかには涙を浮かべる人もいるほどで、かつて苦しい戦争をともにくぐり抜けた仲間は特に胸を打たれているようだ。戦場でのリズム指揮を知る者にとって、これが「戦闘ではなく人を笑顔にする力」として生かされている事実が嬉しくて仕方ないのだろう。
だが、ライブは一曲だけで終わるものではない。このあと数曲続ける予定だ。ヌヴィエムは呼吸を整え、司会進行役の兵士が次の曲紹介を挟もうとしたとき、突如として音響装置から耳障りなノイズが爆音で響き渡った。
「ギイイイイイッ……!」
客席が一瞬「うわっ」と悲鳴に包まれる。どうやら、魔術石が負荷に耐えきれず不安定になり、過剰出力を起こしたようだった。ユリウスは慌てて装置を操作し、エレノアが火術でエネルギーの流れを抑えようとするが、なかなか歯止めがきかない。
「しまった、やはり危険だったか!」
エレノアの額に汗がにじむ。観客がざわついているなか、ヌヴィエムは即座に対応を決めた。「エレノア、ユリウス、ここはあたしが生声で歌うから、機材を落とし切って!」
生声……つまり音響機材を完全に停止し、彼女自身の音術と地声だけで観客に届けるということだ。巨大な砦の中庭で数百人を相手にするライブとしては前代未聞だが、緊急事態ゆえやむを得ない。ユリウスは戸惑いながらも「わかった、電源落とす……! でも本当に大丈夫か?」と確認する。ヌヴィエムは真剣な眼差しでうなずいた。
「戦場をまとめ上げた音術を、あたしは持ってるのよ。アイドルでも同じことができるはず。信じて!」
ユリウスは短く頷き、装置を強制遮断する。ノイズがピタリと止まると同時に、舞台からは妙な静寂が降りてくる。観客も驚き、「どうした?」「故障か……?」とざわついているが、ヌヴィエムはマイクを外してそっと舞台の中央へ歩む。砦の壁に風が吹き抜け、ドレスのレースが舞う。
「皆さん、すみません。機材がちょっと壊れちゃったみたいで……でも、あたしはあきらめないわ。生声で届けたい曲があるから……聴いてくれる?」
不安そうにしていた観客たちから、ぽつりぽつりと拍手や「頑張って!」という声援が届く。ヌヴィエムは心を落ち着けるように深呼吸し、かつての戦場で兵士を鼓舞した感覚を思い出す。エレノアとユリウスが袖で見守るなか、彼女はゆっくりと両足を踏みしめてリズムを刻み始めた。
二曲目の曲は「希望の炎」というタイトルで、明るくアップテンポなナンバーだが、装置がないため伴奏も小さくしか聞こえない。むしろほとんどアカペラに近い状態と言える。それでもヌヴィエムは臆することなく歌い出す。
リズム指揮の応用、戦場で人の心を一つにした技術を、ここで最大限に発揮するのだ。微かな足踏みと手拍子で観客に合図を送る。かすかに音術の力が働いて、客席の一部に自然と拍子が伝わりはじめた。
「タン……タン……タン……」
舞台にはドラムもないが、観客が自発的に手や膝を叩いてリズムを作り出す。ヌヴィエムの生声は遠くまで届かないかと思われたが、砦の独特な構造と音術の残響が相まって、意外と後方にもはっきり伝わるようだ。兵士たちがそれぞれ声を合わせ、「ヌヴィエム……!」「がんばれ!」と合いの手を入れることで、観客が一気に巻き込まれていく。
「燃える火の粉じゃなく、皆の希望が……心に火を灯す……」
伸びやかな声が石壁に反射し、観客が笑顔で手拍子を重ねる。エレノアは魔術こそ使わないものの、手拍子に合わせてほんの少しだけ空気の流れを良くして、音が伝わりやすいようサポートしているらしい。ユリウスはその隣で立ち尽くし、「ああ、姉上……すごいな……」と思わずつぶやく。戦場で多くの人を導いた力が、こうして平和の場で発揮されることに、胸が震える。
客席ではネーベルスタン将軍が「なるほど……これがあの時のリズム指揮か。あのころは死地を越えるためだったが、今や人を笑顔にするための力になっている……」と感慨深そうに言い、周囲の仲間がうなずき合う。
まるで魔術にかかったように、すべての観客がリズムを共有し、ヌヴィエムの歌声をしっかり受け止めている。子どもたちは無邪気にステップを踏み、大人たちも疲れや苦労を忘れて心を躍らせる。夕焼けに染まる砦の中庭は、ほんの数十分前に突発的なノイズで騒然としたとは思えないほどの一体感に包まれていた。
曲の最後、ヌヴィエムが高音域を伸ばしきり、手を広げてフィニッシュポーズを決めると、客席からは嵐のような拍手と歓声が巻き起こる。彼女は肩で息をし、汗がこめかみを流れるのを感じながら、静かに瞳を閉じる。
「……ありがとう。あたし、一人じゃできなかったけど、みんながリズムを合わせてくれて嬉しい。これがあたしの新しいステージ――戦わずに、みんなの心をひとつにしたい……!」
もう一度、大きな拍手に包まれながら、ヌヴィエムは胸の奥でそう呟いた。
その後、観客が「もう一曲!」「Encore(アンコール)!」と声を上げる。エレノアが機材を直してくれてもいいし、このままアカペラでもいい。ヌヴィエムは一息ついてからマイクを握り、嬉しそうに宣言した。
「じゃあ、もう一曲だけ歌いますね。装置を直すには時間がかかりそうだから……また生声で失礼します。でも、皆さんと一緒に歌う形にしたいです。よかったら手拍子と簡単なコーラスをお願いします。合図したら“ラララー”って声を出してほしいの。……いい、かな?」
客席から「いいともー!」という明るい返事。ヌヴィエムは思わず笑い、心強さを感じる。この一体感は戦場とは違う優しさだ。先ほどの曲とはまた別の、さらにシンプルなメロディを始める。
あちこちで子どもや大人が「ラララー」とぎこちなくコーラスを口にする。声がバラついていても構わない。それが一緒に歌う喜びとなり、いつしか会場全体がひとつの合唱になる。ネーベルスタン将軍や火術師、幻術師の仲間まで顔を赤らめながら低く声を出している様子が微笑ましい。
ヌヴィエムは心底幸せを噛みしめるように歌い続ける。かつては血を流し、恐怖や復讐に駆られた日々が嘘のようだ。いま目の前にあるのは、音と笑顔が織りなす“戦わない世界”の一つの姿。誰かが声を合わせるだけで、人間はこんなにも温かくなれる――リズム指揮を憎しみで使うのではなく、こうして平和のために使えるのだ。
最終曲を終え、ステージから礼をして退くとき、プルミエールが舞台袖で待っていて、小さな手を振って迎えてくれた。「おねえ、すごかった……!」と目を輝かせる姿に、ヌヴィエムはほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとう、プルミエール。見守ってくれてたんだね。……さあ、一緒に行こうか」
そのまま、姉弟のように手をつないでステージを降りていく後ろ姿を、観客が惜しそうな視線で見つめる。拍手はなおも鳴り止まず、大歓声が砦の壁にこだまする。ユリウスとエレノアがステージ下で出迎え、「ナイスファイト……いや、ナイスステージだ」と口々に称え、ヌヴィエムは苦笑しながら「わたし、もう汗だく……」と額の汗を拭った。
観客の盛り上がりは想像以上で、兵士や職人が整列しながら誘導している。やがて、彼らもステージに近寄り、「ヌヴィエム殿、ありがとう!」「こんなにも元気をもらえるなんて」と感謝の言葉を伝える人が絶えない。戦う英雄ではなく、アイドルとして世界を照らそうと決めた彼女の新しい姿が、多くの人の心に届いたのだ。
夜が更け、砦の空には星が瞬いている。ライブを終えたヌヴィエムは舞台裏で衣装を脱ぎ、普段着に着替えてからスタッフにお礼を言いに回っていた。ユリウスやエレノアも含め、皆が疲労と達成感を味わっている。
「本当によかった。途中ノイズにやられたときはどうなるかと思ったけど、姉上の生声がこんなに届くなんてね……」
ユリウスがしみじみ言うと、エレノアがくすりと笑う。「戦場であれだけの軍勢をまとめた声よ。これくらい朝飯前なんじゃない? 本人には悪いけどね、もう機材要らないんじゃないかと思うほど」
ヌヴィエムは「それは困るわ、ちゃんと機材があったほうが楽だし、演出もできるし。でも、確かに今日の経験で自信がついたかも」と照れた様子で返した。プルミエールは相変わらず瞳を輝かせ、「おねえ、またうたう?」と期待を示すので、ヌヴィエムは苦笑しつつ、「明日はちょっと休ませて……」と答える。
兵士たちもそれぞれ笑顔で「いやあ、いいもの観た。まさか英雄のヌヴィエム殿があんなにかわいらしい歌を歌うなんて」とささやき合っている。昔の彼女を知る者にとっては感慨深く、また新しく知った者にとってはただ素敵なアイドルに映ったことだろう。
ネーベルスタン将軍までが「……悪くないな。あの戦場のリズム指揮が、こうして娯楽に形を変えるとは。時代が変わったものだ」と小さく呟いていたと聞き、ヌヴィエムは心の底で少し嬉しくなる。分散治世による平和が本物だと信じてもらえている気がしたからだ。
「ありがとう、将軍」と心の中で言いながら、ヌヴィエムは砦の廊下を歩く。途中、客席で飲み食いしていた人々が帰路につく姿が見え、そこかしこで「素晴らしかった」「あれが分散治世のシンボルか」など、まるで彼女のライブを“革命的イベント”と評する声が耳に入った。はたから聞けば大げさだが、それだけ多くの人が感動したらしい。
エレノアが「ヌヴィエム、舞台袖の荷物を片付けるわよ」と声をかける。ユリウスも杖をつきながら手伝おうとするが、兵士が「ご自分は怪我があるんですから、休んでいて」と気遣ってくれる。そんな平和な押し問答を見ていると、昔の血なまぐさい光景が嘘のようだ。
荷物をまとめ終え、最後に舞台を振り返るヌヴィエムの瞳には、燃え尽きない熱が灯っていた。「今日が始まりだ……まだまだやっていける」という思いが涌いてくる。あのノイズ騒ぎでさえ、自分のアイドル活動に欠かせない“試練”だったのだろう。
プルミエールが眠そうにあくびをしながら、「おねえ、すごかった。もっと、みたい……」とつぶやくので、ヌヴィエムは微笑んで「また今度ね。今日はゆっくり休もう。あなたも疲れたでしょ?」と、少女を抱きしめる。その小さな身体からは、未来そのものの匂いがする。カンタールの血を引く子が、こうして笑顔で育てる平和な時代を築けたことに、感謝しかない。戦わずに済む未来が、ここにある――とヌヴィエムは心の中でかみしめる。
こうしてヌヴィエムの初フルステージは大成功を収め、砦の人々や遠方から集まった観客たちは夜遅くまで祭りの余韻を味わった。ノイズなどのトラブルはあったものの、逆に彼女の“生声”や“音術”の真価を知るきっかけになり、多くの者に強い印象を残した。そして、ヌヴィエム自身は「まだ未熟だ」と感じながらも、かつての戦闘技術をアイドルに応用できる手応えを得て、心地よい疲れのなか眠りにつく。
翌朝には、そのライブの評判が砦のみならず近隣の村や町にも伝わり、「ヌヴィエムは政治の座を捨て、歌で人々を導いている」と話題になった。その噂を聞きつけ、旅人や芸術家が砦を訪れたり、分散治世を学びたい領主が見学に来ることも増えてゆく。彼女が退位後の人生を、**“剣ではなく歌で人々を救う”**形で歩み出したことが、この“新しいステージ”の幕開けだった。
一方でユリウスは、まだ完治していない身体に無理のない範囲で姉を支え、エレノアは魔術で華やかな演出を追求する日々が続く。プルミエールはその姿を眺めながら、いつか自分も姉と同じ舞台に立ちたいと、小さな胸に火を灯すかもしれない。分散治世が形作る穏やかな時代のなかで、次なる物語がゆっくりと育っていくのだろう。
こうして、戦火を越えたヌヴィエムの“アイドルの軌跡”は始動した――。
まだまだ先は長い。けれど、戦いのない世界に希望の声を響かせる彼女の旅が、誰もの心に優しい音として刻まれるのは、間違いないだろう。