Symphony No. 9 :番外編_3-1
エピソード番外編3-1:砦でのイタズラ大騒動
砦の朝はいつも少し早い。まだ太陽が低い位置にあるうちから衛兵たちは動き始め、正面ゲートの見張り台には夜勤から交代する兵士が続々と集まる。けれど、この砦の日常はかつてのように切迫した空気には包まれてはいない。大規模な戦争は終わり、分散治世が徐々に根づきつつある世界では、ここで暮らす人々もおおむね平和で、和やかな雰囲気を享受していた。
そんな砦の中心的存在となっているのは、かつて政治的リーダーだったヌヴィエム――今では“アイドル”として民衆を励ます活動をしている女性だ。十八歳とは思えない包容力と、柔らかいウェーブがかかった赤髪が印象的で、その歌声と踊りによって多くの人の心をとらえている。
そして、彼女が養女として引き取ったプルミエールもまた、この砦のアイドル的存在……というにはまだ少し幼い。彼女はヌヴィエムと同じ赤い髪を持ち、歳は三〜四歳くらい。幼いながらも、どこか凛とした面差しを垣間見せる。
しかし同時に、とびきりの好奇心と体力を持て余している子どもでもある。朝の光が差し込む砦の廊下で、彼女はちいさな靴音をペタペタと鳴らしながら、キョロキョロと新しい何かを探し回っていた。
朝の砦は静かだが、まったく無音というわけではない。食堂近くからは大鍋をかき混ぜる音が聞こえ、兵士のトレーニング場からは掛け声が遠くにかすかに響いている。
そんな中、プルミエールは自分の小さな部屋からこっそり抜け出した。まだヌヴィエムはアイドルとしての朝のウォーミングアップに行っていて、部屋にはいない。扉を開けたとき、廊下をくるっと見回して人影が少ないのを確認すると、まるで小動物のようにススス……と移動を開始する。
「今日は何しよっかなぁ……」
小さくつぶやいた声はとても可愛らしい。その大きな瞳には、どこか冒険への期待がにじんでいる。昨日、ヌヴィエムがステージ用のアイドル衣装を“ある場所”に直していたのを思い出し、プルミエールは唇を尖らせながら考えた。
(あのきれいなドレス……絶対に着てみたい。でも、また怒られちゃうかな?)
昔ほど厳しくはないにせよ、ヌヴィエムはプルミエールが「大事なものを勝手に触った」りすると、ちゃんと叱るようにしている。もっとも、ヌヴィエムの叱り方は厳しい言葉というより「ダメよ」「もうしないでね」といった優しい諭し方が多く、プルミエールとしては「そこまで恐ろしくはない」と感じている。それでも怒られたくはない。
しかし――
(ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ。触るだけならいい……よね?)
プルミエールの中でふつふつと湧いてくる好奇心は、いつも慎重さを上回る。彼女はそっと笑みを浮かべると、まだ大人たちの目が行き届かないうちに目指す場所へと足を向けた。
砦の奥には、ヌヴィエムがステージ衣装や小物を管理する専用の部屋がある。もともとは武器庫の一部を改装した場所であり、今ではステージ小道具や魔術道具、音響装置などが収納されている。かつて戦争に使われていたスペースが、平和の象徴ともいえる“アイドル活動”のための物置に生まれ変わっているのだ。
プルミエールは扉の前に到着すると、まだ周囲に人がいないことを確認し、小さな指先を伸ばしてドアノブに手をかける。
幸い――あるいは不幸――にもドアのカギはかかっていなかった。
「よいしょ……っと」
背伸びをしてガチャリと扉を開くと、ほんのり甘い匂いが鼻をくすぐる。これはおそらくヌヴィエムがステージで使う香料や、衣装に染みついた洗剤の香りだ。プルミエールにとってはどこか心をくすぐる匂いで、部屋に足を一歩踏み入れると、そこにはずらりと並んだ衣装やアクセサリーが目に飛び込んできた。
「わぁ……キラキラしてる……!」
反射的に声を漏らしながら、プルミエールは部屋の中を物色する。ドレススタンドの上には、鮮やかな宝石風の飾りがついたコスチューム。ヌヴィエムがダンスを踊るときに、舞台の光を反射してきらきら光るデザインが施されている。子どもの視点では、まるでおとぎ話に出てくるお姫様の服のように見えるだろう。
「わたしも着たいなぁ……でも……大きすぎるかな?」
でも、着てみるだけならいいかもしれない。少しだけ羽織って鏡を覗いてみれば、きっと気分はヌヴィエム。プルミエールは躊躇しつつも、小さな手を伸ばしてドレススタンドの一部を引っ張ろうとした。
そのとき、スタンドの足元に何やら紐のようなものが絡まっているのに気づかず、つま先が引っかかってしまう。
「あ、あれ……? うわっ……!」
ドレススタンドがぐらりと傾き、ドサリと倒れかかる。プルミエールは慌てて支えようとするものの、子どもの力ではどうにもならない。ドレススタンドと衣装が床に倒れて大きな音を立て、それに驚いたプルミエールは思わず目をぎゅっとつむる。
――しかし不思議なことに、その衝撃音とほぼ同時に、どこからか小さな魔力の光がぱっと漏れ出したかのように感じた。
「な、なに……?」
プルミエールが薄目を開けると、倒れたドレススタンドの裏側に、古い魔術装置が置いてあるのが目に入った。よく見ると、これもヌヴィエムやエレノアがコンサートで特殊演出をするときに使う装置のようだ。しかし、どうやら少し古いタイプらしく、カバーが外れかけていて、中の魔術結晶がむき出しになっていた。
「……なんだか、きれい……」
赤や青の光がかすかに揺らぎ、幻想的な輝きを放っている。プルミエールは恐る恐る手を伸ばしかけたが、さすがに幼いながらも「これは危ないかも」という直感が働いた。
大人たちが魔術アイテムに触れるときは、必ず何かを操作したり、魔術の扱いに長けたエレノアが管理しているのを見ている。自分みたいな子どもが触っていいものじゃない。
「これ……どうしたらいいのかな……? 早くなおさなきゃ……」
ふと、ヌヴィエムの優しい顔が脳裏に浮かぶ。ちゃんと報告すれば怒られずにすむかもしれない。そう思って部屋を出ようとした瞬間、部屋の入り口から足音が聞こえてきた。どうやら誰かが近づいてくるようだ。
「まずい……見つかったら叱られる……!」
プルミエールはとっさにドレススタンドを起こし、部屋の隅の陰に隠れた。扉が開く音がして、部屋に誰かが入ってくる気配がする。
「おかしいなぁ……確か、ここにカバーがあったはずだけど……」
男性の声がした。砦のスタッフの一人だろう。音響や魔術装置の管理をしている技術班の青年かもしれない。プルミエールは息をひそめながら、部屋の隅で小さくなって様子をうかがう。
「ん? ドレススタンドが倒れてる……おいおい、誰だ、こんな荒っぽい真似をしたのは……」
男性はため息をついて、倒れかかったドレススタンドを直そうとしているようだ。プルミエールは心臓をドキドキさせながら(見つからないように……)と祈った。
が、恐れていたことが起きる。ドレスを元に戻そうとした男性が、倒れた衝撃で外れかけていた魔術結晶を見つけたのだ。
「あれ? カバーが外れてる……おいおい、これ下手したら暴走するかもしれないじゃないか。誰がこんな危なっかしいことを……?」
彼の声は明らかに怒りを含んだものになった。プルミエールは(うう……やっぱり触っちゃダメだった……)と心の中で反省して少し涙目になる。だけど、ここで飛び出して謝ったらどうなるだろう。怒られるのは確実だし、ヌヴィエムお姉さまにも知られたらどうしよう、と頭が真っ白になる。
男性が何やらブツブツ言いながら魔術結晶を手に取り、慎重に装置を点検し始める。プルミエールはその間にどうにか部屋から逃げ出そうと決心した。
――幸い、彼の視線は完全に装置に向いている。廊下側に近い扉は開いたまま。プルミエールは静かに立ち上がり、足音を忍ばせて部屋を出ようと……
が、勢いあまってドレスの裾を踏んでしまい、わずかに布が引きずれる音がしてしまった。
「ん? 今、誰かいるのか……?」
男性の気配がピタリと止まる。まずい、気づかれた――そう思ったプルミエールは、もう完全にパニックになってしまい、考えるより先に廊下へ飛び出した。そして、できるだけ遠くへ逃げようと、思い切り駆け出してしまう。
廊下を走る小さな足音がタタタッと響き、後ろから「おい、そこの子ども、待て!」という声が追いかけてくる。こうして、プルミエールのイタズラに端を発した騒動が、少しずつ砦の中に拡散していくことになる。
砦の廊下を駆けるプルミエールは、心臓がバクバクしてもう泣きそうになっていた。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。着てみたかっただけなのに――。
そのうち、人々の姿がちらほら増えてきた。兵士や砦のスタッフ、朝食を届けようとする厨房の人などが通りかかっては、走るプルミエールを見て一瞬驚き、そして後ろから追いかけてくる技術班の男性を見て「何事!?」とざわつく。
「まて、プルミエールちゃん! 話を聞かせてくれないと困る! あれは大事な装置なんだぞ!」
「ううっ……ごめんなさい……でも、今は逃げる……!」
プルミエールは自分でも何を言っているのかよくわからない。とにかく見つかる前にどこかへ隠れたい、怒られるのは後回しにしたい――そんな一心だ。
すると、目の前に見覚えのある部屋のドアが現れる。ユリウスお兄さまが訓練道具をまとめておく部屋だ。ここもカギはかかっていない。プルミエールは思わずドアノブを回し、中へ滑り込んだ。
「はぁ、はぁ……ここなら、しばらくは大丈夫……かな……」
そこは広くはないが、壁際に木製の武器ラックがあり、短剣や練習用の細い木刀、剣のレプリカなどが並んでいる。真ん中の机の上にはユリウスの研ぎ道具や、火術の書物が無造作に置かれていた。
ユリウスはまだ十七歳ながら、剣士として実践を経てきた青年だ。体のリハビリをしつつも、今は姉ヌヴィエムを助ける立場で砦にいる。あくまで「戦争は望まない」という意思を持ち、必要があれば剣を握るというスタンスだった。
(お兄さまの部屋……落ち着くけど……でも、もしかしてここも見つかっちゃうかもしれない……)
プルミエールは息を整えながら、耳を澄まして外の様子をうかがう。すると廊下を通る何人かの足音と声が聞こえた。
「プルミエールを見なかったか? 大事な装置を壊しかけたらしいんだ。早く見つけないと……」
「さっきこっちの方に走っていったよ。もしかしたらユリウス様のところかもしれないね。行ってみよう」
やばい、もう足取りを掴まれている。プルミエールは身を縮めて部屋の奥に隠れようとした。そのとき、壁際にかけてあったユリウスの愛剣――ギュスターヴの剣ではなく、日常的に使うトレーニング用の剣だ――が目に入る。
(あれ……かっこいいなぁ……)
子どもの好奇心は、恐怖や焦りの中でも湧きあがってくる。プルミエールは剣に手を伸ばしてみようとした。どんな感触なんだろう……。
「さっきはヌヴィエムお姉さまの衣装を触って……今度はお兄さまの剣を触るの……? ダメだよね……でもちょっとだけなら……」
そうつぶやきながら柄を握ってみると、思いのほか重くてプルミエールの腕がプルプル震える。トレーニング用とはいえ、子どもにはやはり扱いづらい。
それでも彼女は、その重量感にどこか魅了された。持ち上げようと踏んばるが、上手くいかない。すると、刃先が床にコンッとぶつかり、金属音が軽く響いてしまう。
「……まずい……音が出ちゃった」
廊下で足音が止まる気配がする。もしかして音を聞かれた? すると、ドアの外で低く何か話す声がして、ドアノブがガチャリと回り始めた。
(どうしよう!)
プルミエールの焦りは頂点に達する。ドアが開けば、自分がここにいるのは一目瞭然。それでいて、「なぜ剣を触っているのか」を説明しようにも、すべてイタズラがバレてしまう。
プルミエールは咄嗟に剣をラックに戻そうとしたが、焦っているせいで上手く置けず、さらにガタガタと大きな音を立てる。
「おい、ここだ、音がするぞ!」
外から声が聞こえ、ドアが勢いよく開く。プルミエールは思わず剣を放り出して後ろに転がり、棚に隠れようとするが、間に合わない。
「プルミエールちゃん、そこにいたのか……!」
入ってきたのは先ほどの技術班の男性と、衛兵の一人。ふたりとも少し息を切らせていて、追いかけ回したのがわかる。彼らは部屋の様子を一瞥し、プルミエールが剣をうっかり乱暴に扱っていたのを見て、眉をひそめた。
「こんなところで何してるんだ? 大事な剣まで触ったら危ないだろう……」
「ご、ごめんなさい……」
プルミエールは縮こまり、涙目になりながら謝る。小さな体をさらに小さくして、震える声で「ごめんなさい」と何度も繰り返す。
このまま捕まって怒られるのが確定か――と観念したそのとき、後ろから別の声が聞こえた。
「何を騒いでいるんだ?」
部屋の奥の扉がゆっくり開き、そこから姿を現したのは、ユリウス本人だった。どうやら隣の部屋で資料を整理していたらしく、何事かとやってきたようだ。
「ユ、ユリウス様……! 実はこの子が、ヌヴィエム様の装置を壊しかけて――」
「それは……本当なのかい、プルミエール?」
ユリウスは小さく息をつきながらプルミエールに目を向ける。彼女の真っ赤な髪は、今にも泣きそうな表情を隠そうとするかのように揺れていた。
プルミエールは唇を噛み、必死に言葉を探す。
「ご、ごめんなさい……。お姉さまの衣装をちょっとだけ、見たかっただけなの。触っちゃだめだってわかってたけど……どうしても……」
その素直な告白に、ユリウスは一瞬困った顔をしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
それは“怒り”ではない、“失望”でもない。ただの“苦笑”だった。
「そっか。でも危ないものがあったら、ちゃんと大人を呼ばなきゃダメじゃないか。君がケガをしたら……ヌヴィエム姉さんも悲しむよ」
「うん……わかった……」
プルミエールがしょんぼりと答える。技術班の男性は「いやいや、危ない目にあったのはこっちも……」と少し納得いかない様子だったが、ユリウスは丁寧に彼らに頭を下げた。
「申し訳ない。姉さんが帰ってきたら、こちらからもきちんと謝罪します。装置のカバーを元通り取り付けて、もう一度チェックしておいてもらえますか? 修繕費用は……姉さんに相談してみますから」
「……はい、わかりました。プルミエールちゃん、次は絶対勝手に触っちゃダメだからね?」
男性は釘を刺すように言い残し、衛兵と一緒に部屋を出ていった。ぎくしゃくとした空気が残るなか、ユリウスはそっとプルミエールの頭に手を乗せ、静かに撫でてやる。
「大丈夫か? ケガはない?」
「うん……だいじょうぶ……」
プルミエールは涙を拭きながら答える。ユリウスは少しだけ安心したような表情で頷くと、床に転がっているトレーニング用の剣を拾い上げ、ラックに戻した。
「剣も乱暴に扱っちゃいけないよ。下手をしたら自分がケガをするだけじゃなく、誰かを傷つけちゃうかもしれないんだから」
「わかった……ごめんなさい……」
落ち込むプルミエールを見て、ユリウスは苦笑しながら言葉を続ける。
「でもまあ……衣装を着たいと思う気持ちはわからなくもない。姉さんはステージだと本当に綺麗だからな」
「うん……お姉さま、すごくきれいで……わたしも、あんなふうに踊りたいの……」
しょげつつも、プルミエールは小さくそう呟く。その言葉にユリウスは思わず笑顔になった。けれど、「そうか、それなら一緒に練習しよう」とはまだ言えない。彼女が成長するにはまだまだ時間があるのだ。
「とりあえず、ここで大人しくしていなさい。ぼくは姉さんを呼んでくる。そのあとはきちんと謝ろう、いいね?」
「……うん」
プルミエールは神妙な面持ちで頷く。ユリウスが部屋を出ると、やがて残されたプルミエールは膝を抱えて小さくなる。
悪いことをした自覚はあるのに、どうしても「きれいな衣装が着たい」という想いが消えない。でも、もう皆を困らせたくない。後悔と欲望の狭間で涙がこぼれてくる。
(もし、お姉さまに嫌われちゃったら、どうしよう……)
何より一番の不安は、ヌヴィエムに嫌われることだった。今まで優しく抱きしめてくれた笑顔を、自分の軽はずみな行動で失ってしまうかもしれない。そんな恐怖が子どもの心をさいなむ。
プルミエールは部屋の床にペタンと座ったまま、ぐすぐすと鼻をすすっていた。
一方、砦の各所では「プルミエールがまたイタズラをしているらしい」という噂が広まり始めていた。かつての戦乱の時代なら、そんな些細な出来事は話題に上がることもなかっただろう。しかし、今は平和の中でアイドルのステージが大切な娯楽かつ希望の象徴であるため、その装置が壊されかけたというのは一大事なのである。
「プルミエールちゃん、まだ幼いから仕方ないけど……もう少し落ち着いて行動してほしいね」
「ヌヴィエム様はライブの準備で忙しそうだし、あの子の面倒は誰が見てるんだろう」
「ユリウス様が見ているらしいけど、あの子が動き回るスピードに追いつけないみたいで……」
砦の兵士たちがそんな噂を交わす中、朝食をとるために食堂へ向かっていたエレノアが「ふうん……」と頬に手を当てて考え込んだ。エレノアは三十代前半の美貌の魔術師で、ヌヴィエムとも古くからの盟友関係にある。今は参謀というより自由奔放な立場で、時にはアイドルライブの舞台効果を魔術でサポートすることもある。
「プルミエールったら、また何かやらかしたのね。あの子、身体能力が妙に高いから、目が離せないのよね……」
エレノアは苦笑しながらそう呟く。自分にも思い当たる節があるのだ。何度かプルミエールと遊んだとき、「ちょっと距離があるところから物を取ろうとする」と、まるで大人のような身のこなしでひょいと身を伸ばすのを見かけたことがある。あれはただの子どもの運動神経とは思えない。
「まぁ、ヌヴィエムの娘だものね。カンタールの血が流れているし……将来、槍でも振り回すようになるのかしら」
エレノアはそう言って笑うと、朝食を急いで済ませ、すぐに行動を起こす。ヌヴィエムのところへ行って事情を伝え、プルミエールをフォローするのだ。どこかでまた騒ぎを起こしていないかと気になって仕方ない。
砦の廊下を小走りに進んでいくと、ちょうどそこに目を真剣にさせて歩いているユリウスの姿があった。
「おや、ユリウス。顔が怖いわよ?」
「エレノア……。あぁ、さっきの騒動のことかな。プルミエールがヌヴィエム姉さんの装置を触って……怒られそうで怖がってる」
ユリウスは一通りの経緯を手短に説明する。エレノアはフムフムと頷き、口元をわずかにほころばせる。
「そっか。でも、あの子がイタズラ好きなのは今に始まったことじゃないでしょ。ヌヴィエムもわかってるはずよ。そんなに深刻にならなくても……」
「そうだといいんだけどね。姉さんもステージ前で忙しいだろうし、もしかしたらきつく叱られるかもしれないと思うと、プルミエールが可哀想で……」
ユリウスの顔には、弟としての優しさがにじんでいる。エレノアは彼の肩を軽く叩いて、くすっと微笑んだ。
「大丈夫、ヌヴィエムは優しいもの。危ない行為をしたことには注意するだろうけど、ちゃんとプルミエールの話を聞いてくれるわ。きっとね」
「……そうだね。じゃあ、ぼくは姉さんを探してくる。プルミエールを部屋で待たせてるから、できればエレノア、様子を見に行ってあげてくれないかな? なんだか元気がなかったんだ」
エレノアは快く頷くと、「任せといて」と軽やかに返事をして、ユリウスと別れた。
こうして砦のあちこちで人々が動き出し、プルミエールのイタズラ騒動は、やがてヌヴィエムの耳にも届くことになる。
一方、ユリウスの部屋に一人残されたプルミエールは、床に座ったまま泣きそうな気持ちをこらえていた。扉の外では人の往来が感じられ、いつ誰が入ってきてもおかしくないというプレッシャーで、心臓が高鳴る。
(どうしよう……お姉さま、今忙しいのに……わたし、迷惑ばっかりかけてる……)
子どもとはいえ、プルミエールにはわかる。ヌヴィエムは今日、ある地域の人たちが砦にやってきて行う小さなライブを手伝う予定だと聞いていた。砦の広場を使って音響や照明の準備をして、あの美しい歌声とダンスをみんなに届ける――そんな大事な日に、自分が余計なトラブルを起こしてしまった。
プルミエールは無意識にぎゅっと拳を握りしめる。床を見つめ、ぽろりと涙が頬を伝った。
(あの衣装、きれいだったな。わたしもいつか……着てみたい、踊ってみたい。でも、触っちゃだめだったんだよね……)
頭の中でいくつもの思いが駆け巡る。そんな風に沈んでいると、コンコン、と扉が軽くノックされる音がした。
「プルミエール、いるかしら?」
聞き覚えのある落ち着いた声に、プルミエールははっとして顔を上げる。扉が開くと、エレノアがひょこりと顔を出して、「やっぱりここにいたのね」とやさしく微笑んだ。
「エ、エレノアお姉さま……」
プルミエールの目に涙がうっすらとたまっているのを見て、エレノアはそっと部屋に入り、床にしゃがみ込んで目線を合わせる。
「ずいぶん落ち込んでるみたいだけど……大丈夫? ケガはしてない?」
「うん……大丈夫。あの……ごめんなさい。みんなに迷惑かけて……」
プルミエールが縮こまって謝罪の言葉を漏らすと、エレノアはその小さな頭をポンポンと撫でる。彼女の指先にはほんの少し魔術の気配があり、優しく温かさを伝えるような感覚でプルミエールを包み込む。
「迷惑かどうかはこれから話をしてみないとわからないけど、少なくともケガがなくてよかった。どんなイタズラをしたか聞かせてくれる?」
「……お姉さまの、衣装……きれいだったから、ちょっと触りたかったの。でも……倒しちゃって……」
プルミエールはしどろもどろになりながらも、詳細を話し始める。魔術装置のカバーが外れていたこと、スタンドが倒れて大きな音を立ててしまったこと、技術班の人に見つかりそうになって廊下を逃げ回って……。それを聞いていたエレノアは時折「ふむ、なるほど」などと相槌を打ちながら、穏やかなまなざしで見つめている。
「それで、今はお姉さまにどう思われるか不安なのね」
「……うん。せっかくのライブの準備を邪魔しちゃったかもしれないし……お姉さまに嫌われちゃったら、どうしよう……」
その言葉に、エレノアはほんの少し首を振った。まるで「そんな心配はしなくてもいいのに」といった表情だ。
「ヌヴィエムがプルミエールのことを嫌うわけないでしょ? あんなに大事に思ってるんだから。あなたがカンタールの血を受け継いでるとか、そんなことより、あなた自身を大切な家族として見てるのよ」
「……でも、わたし、勝手にいろいろ触っちゃったし……」
「それは叱られることはあるかもしれないわ。でも『嫌われる』のとは違う。叱るのは、あなたを守りたいからよ。危ないものに触ってケガしたら大変だからね」
プルミエールはエレノアの言葉にほんの少しだけ安心して、胸の奥が温かくなるのを感じた。ただ、やはり怖さは残っている。大人たちに囲まれて厳しく問い詰められたらどうしよう。自分の気持ちなんて聞いてくれないんじゃないか――そんな不安だ。
「でも、わたしどうやって謝ればいいの……? まだ上手く話せないかもしれない……」
「言葉が出てこないなら、素直に『ごめんなさい』って気持ちを伝えればいいんじゃないかしら。あなたが本当に謝りたいと思っているなら、その思いは伝わるわ」
「……ほんとに?」
エレノアは大きく頷く。「ほんとよ。ヌヴィエムはあの通り優しいけど、しっかりしてるしね。だからあなたの気持ちにもしっかり耳を傾けてくれるはず」
プルミエールは少し希望を取り戻した表情になる。それを見たエレノアは、ふっと笑って腰を上げた。
「じゃあ、ヌヴィエムが来るまで、ここで大人しく待っていましょう。ライブの準備が一段落したら、きっとあなたのところに来てくれるはずだから」
「……うん。ごめんなさい、エレノアお姉さま……ありがとう……」
そう言ってプルミエールは顔をこすりながら一度立ち上がったが、まだ不安そうにきょろきょろしている。エレノアは「大丈夫よ」と微笑み、部屋の隅の椅子を引いて座り込む。まるで見守るように、プルミエールが落ち着くまでそこにいてくれるつもりなのだ。
やがて、部屋の外が再びにぎやかになってきた。近づいてくる足音と、ヌヴィエムの優しげな声が混じって聞こえる。
ノックの音が響き、ドアが開く。そこに立っていたのは、緩やかなウェーブのかかった赤髪をひとまとめにし、ステージ準備のままの衣装を身にまとったヌヴィエム本人だった。
ただ、いつものように笑顔というわけではなく、少し心配げな表情を浮かべている。
「エレノア、プルミエールは大丈夫?」
「ええ、ちょっと落ち込んでるけど、ケガはないわよ。ほら、プルミエール、ヌヴィエムが来たわ」
エレノアが促すように言うと、プルミエールは小さく息を呑んで、ゆっくりヌヴィエムの方へ顔を上げる。ヌヴィエムはその姿を見てホッとした様子を見せると、部屋に入り、プルミエールの前に膝をついて視線を合わせた。
「プルミエール……ケガをしていないかしら? 怪我をしたって聞いてはいないけど……」
「う、うん、わたしは平気……」
プルミエールがそう言うと、ヌヴィエムはまるで安心するように小さく笑んだ。そして、あまりにも萎縮している養女の姿に、そっと手を伸ばし、その赤い髪を撫でてやる。
「衣装を触りたかったんだって? それ自体は悪いことじゃないわ。でも、古い装置を倒しかけたのは危険よ。もしあなたがケガしたら、みんな悲しむんだからね」
「ご、ごめんなさい……」
プルミエールはうなだれながら絞り出すように謝罪の言葉を述べる。ヌヴィエムはプルミエールの顔を見て、叱るより先に、その小さな肩を抱き寄せた。
「危ない思いをしなかったか、それだけが心配だったの。装置のことは、あの技術班の人にもきちんと謝ろうね。今度からは勝手に触らずに、ちゃんと“見せて”って言うのよ」
「うん……ごめんなさい……」
プルミエールはもう一度頭を下げる。ヌヴィエムは「はいはい、もう大丈夫よ」と優しく微笑んで、そっと抱きしめる。その腕の中はとても暖かく、プルミエールは思わず泣きそうになる。
「えへへ、よかったわね、プルミエール」
エレノアがからかうように言うと、プルミエールは恥ずかしそうにうつむく。でも、その顔には安堵の色がにじんでいる。
「それにしても……衣装を着てみたかったの?」
ヌヴィエムは少し笑いながら尋ねると、プルミエールは恥ずかしそうにこくんと頷く。
「うん……。お姉さまがステージで着てるの、すごくきれいだから……わたしも、ちょっとでいいから着てみたいなって……」
「そっか。じゃあ、今度ライブの衣装合わせがあるから、あなた用の簡単なドレスも用意してあげましょうか。もちろん危なくないやつね」
「え……ほんとに?」
その申し出にプルミエールは目を輝かせる。ヌヴィエムが笑って頷く姿は、まるで優しい母親のようだ。
「もちろんよ。ただし、絶対に無断で触らないこと。これは約束ね」
「うん! 絶対……!」
プルミエールは感激して、涙の浮かんだ目で大きく頷く。エレノアは「これで問題解決ね」とホッと胸をなでおろす。
だが、ヌヴィエムはまだ話すことがあるようだった。真剣なまなざしをプルミエールに向ける。
「プルミエール、あなたはね、とても特別な子。カンタールの血筋とか、わたしに似てるとか、そういうことだけじゃなく、あなた自身が魅力的で、そしてみんなにとって大切な存在なの。だからこそ、大事な体を守るために、危険なことはしちゃいけないわ」
「……はい」
ヌヴィエムの言葉には、戦乱をくぐり抜けてきた重みがこもっている。小さな子どものプルミエールにはまだ全部を理解できないかもしれないが、「大切に思われている」ということは、十二分に伝わった。
「じゃあ、これで一件落着だな」
ユリウスがそう言いながら部屋に姿を見せる。先ほど技術班の人とも話をつけてきたらしく、「次からはちゃんとカギをかけて管理を徹底しよう」という方針になったという。
「プルミエール、よかったな。姉さんにちゃんと謝れたか?」
「う、うん……ごめんね、お兄さまにも迷惑かけて……」
「いいんだよ。何より、ケガしなくて本当によかった」
ユリウスの言葉に、プルミエールは少し顔を赤らめて笑う。それを見て、部屋にいた誰もが安堵の笑みを浮かべた。
こうして、ひとまずプルミエールの“イタズラ騒動”は収束を迎える。が、これで終わりではない。まだこのあとには小さなステージに関する一幕が待っているのだ。
騒動がひと段落した頃、砦の広場では小さなステージが準備されていた。今日行われるライブは、ヌヴィエムのソロ公演ではなく、地域の音楽愛好家たちが砦を借りて開催するものだ。ヌヴィエムはゲスト出演の予定で、その打ち合わせをしている最中だった。
プルミエールもすっかり落ち着きを取り戻し、ヌヴィエムに付き添って一緒に広場へ向かった。エレノアとユリウスも同席しており、賑やかな雰囲気だ。
「ねえ、お姉さま、今日はどんな歌を歌うの?」
「今日はね、わたしはサポートメインなの。本番は地域の合唱隊が中心だから、わたしは途中でワンフレーズだけ歌う予定よ」
「そうなんだ……楽しみ……」
プルミエールの瞳は好奇心とワクワクで輝いている。さっきまで落ち込んでいたのが嘘みたいだ。ヌヴィエムは思わず苦笑するが、その笑顔はどこか嬉しそうでもある。
広場の特設ステージには簡素な幕が張られ、音響機材が設置されていた。先ほどプルミエールが触ったわけではない新型の装置らしく、「さっきの装置とは全然違うやつね」と技術班の人が汗をかきながらチェックしている。
「今日は晴れていてよかったわね。外のステージも明るく映えるわ」
エレノアがそう言って空を見上げると、青空に白い雲がぽっかり浮かんでいる。優しい風が吹き、砦の空気はとても穏やかだ。
「プルミエール、ステージの上に行ってみる?」
ヌヴィエムが誘うと、プルミエールは一瞬戸惑うように眉を動かすが、「いいの?」と目を輝かせて尋ねる。
「うん。まだリハーサル前だし、誰もいないから大丈夫。ちょっとだけ立ってみなさいな」
「……うん!」
プルミエールはトコトコとステージに上がる。観客席(といっても広場に椅子を並べただけ)のほうを向くと、思いのほか視界が開けていて、少し高い場所から砦の皆が見渡せる。
ちょっとした高揚感に包まれて、プルミエールは自然と胸が弾んだ。こんな気持ちになったのは初めてかもしれない。ふわふわとして、なんだか体が軽くなるような感覚だ。
「わぁ……ここからだと、みんなの顔がよく見えるんだね……」
「そうでしょう? でも、そのぶん緊張することもあるのよ。見られるっていうのは、怖くもあるの」
ヌヴィエムはステージの端に立って、プルミエールに優しく微笑む。まるで母親が子どもの小さなチャレンジを見守るかのような、温かい目だ。
プルミエールは「ドキドキする……」と言いながら、ステージの真ん中にちょこんと立つ。その姿を見たエレノアとユリウスが、まるで観客になった気分で拍手を送る。
「可愛いぞ、プルミエール!」
「緊張しないで、いつものように踊ってみてはどう?」
プルミエールは恥ずかしがりながらも、思わずくるりと回ってみせる。スカートの裾がふんわり広がり、その赤い髪がさらりと揺れる。ヌヴィエムとは違うまっすぐなストレートヘアが、陽光を受けて美しく輝いていた。
(これが……お姉さまがいつも見てる景色の一部なのかな……)
プルミエールは生まれて初めて、自分が“ステージの上”に立っている不思議さを味わう。後ろからは軽やかな風が吹き、前にはみんなの笑顔。そこには、何とも言えない充実感があった。
すると、舞台袖にいた技術班の人が、「そろそろリハーサルの時間です」と声をかけてくる。プルミエールはステージから降りようと歩き始めたが、そのとき――
「あ、プルミエール、待って!」
ヌヴィエムが急に声を上げ、プルミエールに駆け寄る。どうやら、プルミエールの靴ひもがほどけていたらしい。
「危ないわよ、ステージから降りるときに転んだら大変だから」
「……あ、ありがとう、お姉さま」
プルミエールは少し照れながら靴ひもを結び直す。まだ上手く結べないので、ヌヴィエムがサポートしてくれた。その様子を見てエレノアやユリウスはほほ笑ましそうに視線を交わし合う。
まさにそのとき、背後からスタッフの声が響いた。
「ヌヴィエム様、今お持ちいただいてる“あの衣装”ですが、予備の部分を見せてもらってもいいですか? 手直しをしなきゃいけないところがあって……」
「ああ、わかった。ちょっと待ってて」
ヌヴィエムが返事をすると、袖に置いてあった衣装袋の中をゴソゴソと探り始める。どうやら、このライブで使う予定のサブ衣装らしい。プルミエールは遠目に見ながら、(きれいな色だなぁ……)と目を奪われる。
先ほどのイタズラ騒動のおかげで、勝手に衣装に触れるのはもう懲りているので、プルミエールはじっと見つめるだけ。
「……ねえ、プルミエール」
そんなプルミエールの横にすっとエレノアが近づいてきて、小声で囁く。
「あなた、せっかくだからヌヴィエムの許可を得て、ちょっと衣装のお手伝いをしてみたら? お姉さまが使わないパーツとかリボンを一緒に選んだりして。私も手伝ってあげるわよ」
「え、いいの?」
「勝手に触るんじゃないもの。ちゃんと頼めばいいのよ」
その提案に、プルミエールはしばし考える。怖がっているだけじゃなくて、自分からお姉さまに「お手伝いしたい」と言えば、もう少し理解してもらえるんじゃないだろうか。イタズラじゃなくて、いっしょに何かを作り上げる楽しさを味わえるかもしれない。
プルミエールは決心したように小さく頷く。そして、衣装を広げてスタッフと話しているヌヴィエムのところへ、トコトコと歩み寄った。
「お、お姉さま……その……わたしも、お手伝いしたい……」
「え? どうしたの、急に?」
ヌヴィエムは意外そうな顔をするが、プルミエールの瞳は真剣そのものだ。
「勝手に衣装を触るんじゃなくて、お姉さまが使わないパーツとかリボンを少しでも触ってみたい。ダメ……かな?」
「ふふ、ダメなんて言わないわよ。むしろ一緒にやってくれると助かるわ。ちょうどアクセサリーをどれにするか迷ってたの。あなたの意見を聞かせてくれる?」
ヌヴィエムは優しい笑みを浮かべ、衣装の脇に置いてあった箱を開けてみせる。そこには大小さまざまなリボンやレース、キラキラしたビーズパーツなどが詰まっていた。
プルミエールは思わず目を輝かせ、「わぁ、きれい……!」と感嘆の声を漏らす。
「じゃあ、この中からステージの色合いに合うものを選んでちょうだい。こっちは袖のアクセント用、こっちは腰リボン用とか、ちゃんと用途が分かれてるの。わかる?」
「うん……頑張る!」
こうして、ヌヴィエムとプルミエールはちょっとした衣装のアレンジ作業を始める。エレノアやスタッフも適度に口を出しながら、最終的にヌヴィエムのサブ衣装には可憐なレースと赤いビーズがあしらわれることになった。
プルミエールは「すごくかわいい……!」と感動しながら、自分もいつかこれくらい綺麗なドレスが着られるように頑張りたいと思う。
「ありがと、プルミエール。おかげで華やかになったわ」
ヌヴィエムがそう言って微笑むと、プルミエールはちょっとだけ誇らしげに胸を張った。
その後、リハーサルが始まり、ヌヴィエムは合唱隊と簡単な合わせを行った。プルミエールはステージの下のスタッフ席に座って、その様子をじっと見守る。
衣装をまとったヌヴィエムが歌い始めると、やはり空気が変わった。透き通る声が広場全体に響き渡り、合唱隊の声との重なりがまるで光のカーテンのように観客を包む。プルミエールは胸がじんと熱くなるのを感じた。改めて、彼女が尊敬する“お姉さま”はすごい人なのだと、幼心に思い知らされる。
「いつか……わたしも、こうやって歌えるようになるのかな……」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。その言葉をたまたま近くにいたエレノアが耳にし、そっと笑顔で頷いた。
「ええ、きっとなれるわよ。あなたにはその資質があるわ。焦らずゆっくり、成長していけばいいんだから」
「……うん」
ほんの数時間前まで落ち込んでいたプルミエールだったが、今は「叱られるかも」という不安や恐怖ではなく、「自分も一歩を踏み出したい」という新たな希望が胸の中に生まれている。
やがてリハーサルが終わり、合唱隊やスタッフが拍手し合いながらステージを後にする。砦の昼下がりは温かな陽光に包まれ、少し早めのランチへと人々が散っていった。
プルミエールも、ヌヴィエムやユリウス、エレノアと一緒に簡易の食事を取りながら、まるで“イタズラ騒動”などなかったかのように笑顔を取り戻している。
「さて、プルミエール。イタズラはほどほどにして、今度は一緒にドレスの練習をしようか」
ヌヴィエムが明るい調子で言うと、プルミエールは恥ずかしそうに笑った。
「うん……もう勝手に触ったりしないよ。約束する」
「いい子ね。それに、あなたがもしもっとダンスに興味があるなら、今度は少しずつ動きを教えてあげるわよ。アイドルの基本は“見て楽しむ”だけじゃなくて、自分が体を動かすことでもあるから」
「ほんとに……? ありがとう、お姉さま!」
プルミエールはパッと笑顔を輝かせる。その赤いストレートヘアが日の光を浴びて、一層鮮やかに映る。ユリウスはその様子を目を細めて眺め、エレノアは楽しそうにくすくす笑う。
「いやはや、これだけ元気なら、イタズラもまだまだ続きそうね」
「やめてよ、エレノア……ぼくが追いかけるの大変なんだから……」
「じゃあ、二人で追いかければいいわ。プルミエールは最強の逃げ足を持ってるかもしれないわよ?」
三人が冗談を交わし合う中、プルミエールは何か言いたげに口を開いた。
「でも……ありがとう、みんな。わたし……ずっとこの砦にいたい。お姉さまの近くで、もっといっぱい歌を聴いて、ダンスを見て……いつかはわたしも、みんなに笑顔を届けられるようになりたい!」
その言葉に、ヌヴィエムは少し驚いた表情を見せるが、すぐに優しい笑みへと変わっていった。
「嬉しいこと言ってくれるじゃない。あなたの赤い髪がステージで揺れるところ、きっと素敵だと思うわ。いつか、一緒に歌って踊れたらいいわね」
「うん!」
こうして、砦でのイタズラ大騒動は、最終的にプルミエールがヌヴィエムと“ドレスを一緒に作る”という素敵な時間に結びつき、彼女の新たな一歩を踏み出すきっかけとなった。
まだ四歳にも満たない幼い少女の世界は、これからもっと広がっていく。イタズラはほどほどにしつつも、その溢れんばかりの好奇心と身体能力は、いつかきっと大きな花を咲かせるだろう。
――それは、今はまだ誰にもわからない未来。けれど、この砦の人々は、それを心から楽しみにしている。