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R-Type Requiem of Bifröst:EP-8

EP-8:ビフレスト計画

 太陽が地平線からゆっくりと昇り始める。薄いオレンジ色が空を染め、荒野の一角に設営された特務B班の仮設拠点を、まるで幻影のような光で包み込んでいた。近頃は怪物化した者との戦闘、そして“本物のフォース”プロメテウスとの衝突が続き、隊員たちは心身ともに疲労を溜めている。しかし、そんな中でも、新たな一歩を踏み出すための計画が水面下で動き始めていた。

 ――“ビフレスト計画”。

 バイド係数が高い者たちを一方的に排除するのではなく、彼らと人類が棲み分けできる中立地帯を構築する構想。先の“ヘイムダル構想”が提唱された流れの中で、さらに具体的な“ビフレスト”という特区の設置を検討することになったのだ。
 アリシア・ヴァンスタインはその提案に強く共感し、何か自分にできることはないかと考えていた。あれほど多くの血が流れてきた戦場を、少しでも平和に変えられるかもしれないのなら、力を尽くしたい――そう強く思っている。

「……今日から本格的に“ビフレスト計画”の交渉が始まるわよ。しっかり臨んでね、アリシア」
 少し離れたところで、班長が声をかける。彼女は特務B班を率いる指揮官であり、数多くの物資輸送や補給路確保を成功させてきた人物。バイド混血や怪物化した者との軋轢に頭を悩ませているが、だからこそ、この計画を希望として捉えている。

「はい。私も何とか、お手伝いします……。怪物化した人たちとも、戦わずに済むならそれが一番ですし……」
 アリシアは微笑んで応じる。思えば、今までは圧倒的な脅威としての怪物に対処する日々だったが、彼らだって元をたどれば人間であり、絶望的な差別や誤解の中で追い詰められてきた存在でもある。そこに救いの手を差し伸べることができるなら――この計画は意義深いはずだ。

 朝日を浴びながら、アリシアはまだ傷の痛む腕を撫でる。先日のプロメテウスとの戦いで負ったダメージが完全には癒えていないが、少しずつ良くなっている。プロメテウスは何故、人類と怪物を無差別に殲滅するのか――その疑問が頭を離れない。しかし今日はまず、目の前の“ビフレスト計画”に集中しなければならない。

 拠点の少し奥まったテントでは、ドイツ系男性のコンサルタント――クラウス・ヴァルナーがパソコンや資料を広げ、電話や通信機を駆使して慌ただしく動いている。彼は各国政府や軍、企業との交渉を担当するエージェントであり、特務B班に必要な資金や装備を確保する上で欠かせない存在だ。

「……ええ、そう。まったく新しい中立地帯を作るんですよ。“バイド係数の高い者たち”が安全に暮らせる場所を。もちろん、リスクやコストは承知しています……。はい、スポンサー企業や政府高官にも説明の機会を設けたい……ええ、よろしくお願いします」
 彼は流暢な複数言語を操りながら、淡々と交渉を進めている。表情には焦りや苛立ちもなく、まるでビジネスの契約案件を片付けるかのような落ち着き。しかし、その背後には膨大な政治的駆け引きと、利害関係の衝突が渦巻いている。

「クラウスさん、お疲れさまです」
 アリシアがテントに入ると、クラウスはちらりと視線を送って微笑む。

「ああ、アリシア。ちょうどいいところだ。君にも報告しておくが、今日から“怪物化した者たちの代表”と“数カ国の政府関係者”を含めた非公式会談が始まる。いわゆる“ビフレスト計画”の初期段階の交渉ってやつだよ」

「はい、班長から聞いています。私が直接話す機会はありますか?」

「もちろん、状況次第だが、君が『バイド係数の低い特務B執行官』として出席すれば、相手側にも影響力を与えられるかもしれない。特に怪物化した勢力の中には、“純人類に近い君が仲介してくれるなら検討する”と考える者もいるはずだ」
 クラウスは少し鼻を鳴らして資料を手にする。

「ただし、政治というのは一筋縄じゃいかない。特務B班が持つ軍事的リソースや、政府や企業が抱く利権、さらには“純人類の優越”を唱える者たちの抵抗……。考慮しなければいけない要素が山ほどある。君自身も覚悟しておくんだね。決して甘い話にはならないから」

 アリシアは神妙な面持ちで頷く。
「分かっています。怪物化した人たちを一括で安全にするなんて容易じゃない。けど、だからこそ“棲み分け”を提供できるビフレストは必要だと思うんです。彼らを放っておいたら、無意味な衝突ばかり増える……」

「そういう理想論が通じるかどうかが、交渉の核心だよ。俺は最終的に、政府と軍、さらにはバイド係数の高い者たちの代表との間で合意形成を図りたいが、ここで意見がまとまらないようなら計画は頓挫するかもしれない」

 クラウスの語気には、冷静な現実主義が滲み出ている。ビフレスト計画は夢物語ではなく、実際に複雑な利害を調整しなければならない現実的なプロジェクトだ。特務B班にとっても大きな挑戦と言える。

「大丈夫、私ができることがあれば何でもします。クラウスさん、よろしくお願いしますね」

「期待してるよ、アリシア。君の存在こそ、この計画の“象徴”になるかもしれない。純人類でも怪物でもない、境界に立つ者としてね」

 その言葉に、アリシアの心は少し揺れる。プロメテウスとの戦いだけでも手一杯なのに、こんな大きな計画の中でも重要な役割を担うことになるのか。しかし、後ろを向いている暇はない。彼女は覚悟を決め、クラウスに微笑み返した。


 同じ日の午後、特務B班のメンバーは数台の装甲車に分乗して、ある廃市街へ向かっていた。そこには“怪物化した勢力”の一部が集結しているという情報があった。正式な国籍や政府の支援を失った彼らは、小さなコミューンのような形でお互いを守り合いながら暮らしているらしい。

 怪物と聞くとすぐに暴力的なイメージを抱かれがちだが、中には理性を保ったまま怪物化を経験した者もいる。肉体が大きく変容しているが、コミュニケーションを取ろうとする意思を持つ人たちだ。ビフレスト計画では、こうした“怪物化したがまだ凶暴化していない個体”にも居場所を与えたいという目的がある。

「しかし、どうだろうな……“新天地を求める”なんて、口で言うほど簡単じゃないぜ。今まで差別や迫害を受けてきた連中が、そうそう人類と共存なんて受け入れるか?」
 メカニックのダニーが車中で呟く。特務B班の装甲車の中には、アリシアや如月も同乗していた。

「確かに難しいけど、全員が復讐に燃えているわけでもないようだよ。むしろ“バイド係数が高いだけで殺されたくない”とか、“怪物になっても静かに暮らしたい”と願う者も多いらしい」
 如月がタブレットのレポートを読み上げる。最近、班長やクラウスが集めた情報によれば、暴力的な怪物化集団とは違い、あくまで自衛のために武器を持っているグループも存在するという。

「もし本当にそういう人たちが“ビフレスト計画”に賛同してくれたら大きい。怪物化した者自身が“共存”の選択肢を選ぶとなれば、これまでより深い説得力が生まれるでしょうし」
 アリシアは期待を込めて言う。ダニーはやや懐疑的ながらも、「だといいな……」と相槌を打った。

 やがて装甲車が廃市街の一角へ到着する。ビル群は崩れ、道路は割れて雑草が生い茂っている。まるでゴーストタウンだ。そこに、小さなバリケードを築いた怪物化した者たちの姿が見える。思い思いの武器を手にしながら、特務B班の動向を警戒しているようだ。

「撃つな! 私たちは特務B班だ。話し合いに来た!」
 如月が拡声器で宣言する。すると、武器を構えた怪物化の一団の奥から、一人の男がやってきた。その身体は筋肉質で、腕には鱗のような硬質皮膚が部分的に現れているが、人間の顔立ちを保ち、言葉も発するようだ。

「……特務B班? 聞いたことあるな。“怪物を無条件で殺しはしない”っていう珍しい連中だと聞いたが……この廃墟に何の用だ?」

 彼の声は低く、威圧感があるものの、敵意ばかりではない雰囲気。アリシアが一歩前に出て、懸命に言葉を選んで語りかける。

「私たちは“ビフレスト計画”というものを進めています。バイド係数が高い、あるいは怪物化した人々が安全に暮らせる新天地を作りたいんです。あなた方にも協力してもらえれば……」

 男はじっとアリシアを見つめる。銀色の髪と、若干17歳という少女然とした姿。それが“特務B執行官”と名乗ることに面食らっているのかもしれない。

「新天地? ハッ、その手の話なら何度か聞いたぜ。“安全に暮らせる”とか言っても結局、俺たちを監禁するか、研究材料にするための口実じゃないのか?」

「違います。私たちは本気で共存の道を探している。確かに安全管理のためのルールや防衛システムは必要ですが、それはあなた方を追い詰めるためではなく、お互いを守るためなんです」
 アリシアは真剣な眼差しを向ける。男は鱗の腕を組み、仲間と視線を交わした後、低く呻くように問う。

「もし、俺たちが“ビフレスト”に移住するなら、それなりの権利は保証されるのか? “いつ怪物化が進むかわからない”って理由で監視だけが強化されるなら、結局牢獄と変わらないだろう」

「もちろん、あなた方の意思を尊重し、自由を認めたいと思います。ただし、完全に野放しというわけにもいかない。互いの安全を守るため、一定のルールが必要になるでしょう。それは人類側だけでなく、怪物化した方々にも納得してもらうものです」

 苦しい答えだが、それが現実的な落としどころでもある。怪物化した者を無条件に信頼するのは不可能だが、同様に人類だって彼らを抑圧だけしたいわけではない――それを言葉で伝えなければならない。

「……まあ、すぐには信用できんが、聞くだけは聞いてやる。そっちが本気なら、俺たちも賭けてみる価値があるかもしれない。復讐に燃えてる連中ばかりじゃないからな……」

 男は渋い表情だが、全否定ではないようだ。この反応に、如月やダニーもほっとした顔をする。少なくとも話し合いの席につきそうだという手応えがある。

「ありがとう。私たちは決してあなた方を裏切らないよう努力します。もし疑問や要望があれば、遠慮なく言ってください。それを踏まえて“ビフレスト計画”をより良い形にできれば」

「分かった。俺たちも仲間と相談してみる。……まあ、あんたら特務B班が噂通りの連中なら、あるいは……いや、まだ分からんがな」

 そう言って、怪物化した男は仲間たちを率いて奥へ戻っていく。対立ではなく、ほんの少しの妥協点を見出してくれたようだ。アリシアは安堵し、肩の力を抜いた。彼らにも守りたいものがあるからこそ、こうして交渉の余地を持ってくれるのだろう。

(復讐ではなく、新天地に賭ける……そんな道が広がるかもしれない)

 彼女は自分の胸に手を当て、微笑みを浮かべる。苦しい戦いを重ねてもなお、こうして理解の窓口が開かれるなら、ビフレスト計画は夢ではない。今は、そう信じたい。


 数日後、クラウスの奔走により、国際的な非公式会合が開かれる運びとなった。会合の場は、かつて国連の下部組織が使用していた旧ビルの一室。怪物化が世界的に深刻化する中、各国の政府高官や軍関係者、怪物化した勢力の代表が一堂に会すのは初めての試みだ。

 特務B班からは、班長、クラウス、そしてアリシアが出席。ダニーや如月は警備とサポートに回り、万が一の衝突に備えている。
 会議室は大きな円卓が配置され、各国代表やバイド係数が高いコミューンのリーダーたちが顔を合わせて座っている。空気は重く、互いに探り合うような沈黙が続く。

「では、本日の議題は“ビフレスト計画”の具体的な構築案についてです。まず私から概要を説明させていただきます」
 クラウスが立ち上がり、淡々とプレゼン資料をモニターに映し出す。そこには地図と共に、“ビフレスト”という名称の特区イメージが示されていた。周囲を壁や防壁で区切り、内部に住居区画と農地区画、医療研究施設を置く。運営は特務B班や国際組織が一部管理しつつも、自治権を一定ほど認める――という設計だ。

「まず、バイド係数が高い者や怪物化した人々が移住し、安定した生活を送れるようになる。さらに、同盟国や企業からの協賛でインフラを整備し、外部への通行は管理下で行われる。この“棲み分け”が成功すれば、無用な衝突や大規模な戦闘を減らせると考えています」

 クラウスの落ち着いた口調を、各国代表たちは鋭い目で聞き取っている。一方、怪物化した側の代表は腕組みをし、時折舌打ちしながら聞いている様子。

「ふん、要するに“隔離”じゃないのか?」
 ある国の軍代表が不満そうに言うが、クラウスは即座に首を振る。

「それは誤解です。むしろ我々は、居場所のないバイド係数の高い者を保護し、かつ彼らが暴走するリスクも管理するという形で両立を目指している。強制的な隔離とは異なり、移住はあくまで本人たちの意思を尊重します。ただ、治安維持と外部との衝突を防ぐための監視システムは必要になるでしょう」

「何をきれい事を……」と鼻を鳴らす者もいるが、班長が続けて口を開く。

「実際に私たち特務B班が、いくつかのコミューンと接触した結果、棲み分けを望む人々が存在することが分かっています。“復讐や破壊”よりも、“安全な生存”を求める怪物化個体がいるのです。そうした声に応える一歩として、ビフレストを設置するのが狙いです」

 すると、怪物化した勢力の代表の一人――巨大な角を持つ男が手を挙げた。その角はまるで獣のようだが、言葉は理知的だ。

「そうかもしれない。俺たちの中にも“復讐はしたくない”という者は多い。ただ、政府や軍がどこまで信用できるかは疑問だ。過去に何度も裏切られ、研究施設のモルモットにされた仲間だっている……」

 その言葉に、一部の人間代表が居心地悪そうに視線をそらす。確かに、バイド係数の高い者を研究材料として利用した黒い歴史がある国も存在する。そうした痛みを抱えた怪物化個体がいる以上、信頼を得るのは容易ではない。

「もちろん、その点は真摯に向き合わなければなりません。研究や管理が必要な場面はあるとはいえ、決してモルモット扱いするのではなく、対等な“住民”として迎える。これがビフレストの理念です」
 クラウスが力を込めて言う。対する怪物化代表は、少しだけ表情を緩める。

「……まだ疑いは晴れんが、君ら特務B班が仲介するなら、少しは違うかもな。“プロメテウス”とかいう殺戮者や“純人類の優越”を掲げる連中から逃げられるなら、悪くない話ではある」

 それを聞き、アリシアも一歩進み出る。ここが自分の出番かもしれないと感じたのだ。

「もしあなたが不安なら、私自身が守ると約束します。私は特務B執行官として、怪物化した人たちもできるだけ殺さずに守りたいんです。ビフレストはそのための大きな枠組みになる……」

「君が……? そんな少女が守れると?」
 男は怪訝そうに眉を寄せるが、アリシアは微笑んで応える。

「ええ、見た目以上に頑張ってきました。プロメテウスとも戦いましたし、怪物化した方も救おうと行動しています。あなた方が信じてくれるなら、私たちは裏切りません」

 しばしの沈黙が走る。やがて、怪物化の代表は深い溜息をつき、「考えてみるか……」と呟いた。
 議論はまだ続き、疑問や不満は尽きない。しかし、少なくとも“ビフレスト”に移住する選択肢を“全否定”する声は減り始めた。多くが「管理されるのは嫌だが、無用な争いで死ぬよりはマシかもしれない」という現実的な観点で耳を傾け始める。

 この変化に、アリシアは大きな希望を感じた。血で血を洗う戦場ではなく、話し合いで解決を目指す姿勢こそが人類の進化かもしれない――そう感じられたのだ。


 しかしながら、会議の後半になると、“純人類の優越”や強硬派を代弁する立場の者が鋭い意見を放ち始めた。軍や政府の一部として参加している人々だ。
 一人の将校らしき男が声を荒らげる。

「馬鹿げている。バイド係数の高い連中を一カ所に集めるなんて、自爆行為だろう! もしビフレスト内で大量に怪物化が起きたら、どうやって止めるつもりだ? 大惨事じゃないか!」

「それを防ぐために医療研究や監視システムを導入するのが計画なんです。怪物化を事前に察知して、抑制剤を投与するなどの方法も考えています」
 ドクター・Lが冷静に回答するが、男は不機嫌そうに吐き捨てる。

「研究研究と気軽に言うが、その間に何百人、何千人が死ぬか分かったもんじゃない! そんな未知数な方法に投資するより、軍の火力で怪物を徹底的に排除したほうが速いんじゃないのか?」

 空気が張り詰める。怪物化代表の顔色が変わり、今にも反発しそうだ。アリシアは咄嗟に立ち上がり、間に割って入る。

「怪物化した方を皆殺しにするなんて方法は、絶対に間違っている! 無辜の人たちがいるのに、バイド係数が高いだけで殺されるだなんて……!」
 将校は鼻で笑い、「だから甘いと言うんだ。現実を見ろ」と応じる。

「現実を見てます! だからこそ、ビフレスト計画が必要だと思うんです。ずっと戦ってきて、たくさんの血を見てきました。戦わずに済むなら、その道を選ぶべきです……!」
 アリシアの瞳には涙が浮かぶ。胸の奥に蓄積した痛みが爆発しそうだった。これまでの戦いで失われた命、怪物化した者の悲しみ――そんなものを思い出せば、簡単に“排除すればいい”とは言えない。

「うるさい。何も分かっていない小娘が」

「分かっています! 私の目の前で怪物化した人が、軍に撃たれたり、逆に人間を襲ったり、もう何度も繰り返されたんです。その度に自分は無力だった。だけど、今は特務B班の力で、あなた方政府や軍、そして怪物化した皆さんとも協力して、“戦わずに済む道”を作れるかもしれないんですよ……!」

 その叫びに、部屋の中はシーンと静まり返る。特務B班の面々はアリシアの決意をよく知っており、かけがえのない命を救いたいという彼女の思いを認めている。
 一方、将校は口をへの字に曲げ、言葉を失っている。彼にも兵士仲間を怪物化に殺された過去があるのだろう。アリシアの真剣さに、一瞬揺さぶられたのかもしれない。

 しばらく沈黙が続いた後、クラウスが割って入る。
「皆さん、ご理解いただける通り、ビフレスト計画にはリスクもある。それでも、“怪物化した側も人類側も無益な争いを減らす”というメリットは計り知れない。どうか、まずは試験的にでもよいから、この案を進めるチャンスを与えていただきたいのです」

 その後の議論は難航しつつも、絶対反対という声は徐々に小さくなり、条件付き賛成や“まずは様子見”という態度が増えていく。アリシアの訴えも大きな効果を上げたようだ。
 こうして、ビフレスト計画は未完成ながらも一歩進むことになる。


 会議が終了した頃、夕日がビルの廊下を朱色に染めていた。アリシアは少し疲れた様子でロビーのソファに腰掛ける。長時間の交渉と感情を振り絞った発言で、心身がぐったりしていた。

「……お疲れさま、アリシア。大丈夫か?」
 如月がペットボトルの水を渡しながら声をかける。アリシアは微笑んで受け取り、「ありがとうございます」と呟く。

「なんとか……でも、今日はすごく緊張しました。戦うのとは違う怖さですね、政治の交渉って……」

「だろうな。相手を間違えれば銃弾より痛い結果になる可能性もある。まあ、お前なら大丈夫さ。今日の発言は悪くなかった」

 そこへクラウスが合流し、肩をすくめるように言葉を挟む。
「賛否両論はあれど、大きな前進だよ。とりあえず、数カ国と怪物化コミューンの代表が“試験的にビフレストに参加する意思”を示唆してくれた。これで資金もある程度は確保できそうだ」

「よかった……。本当に、よかった……」
 アリシアはほっと安堵し、涙を浮かべる。この数日の苦労が少しだけ報われた気がした。

「だが油断は禁物だ。計画が大きくなると、必ず“純人類の優越”を掲げる勢力が妨害に来る。プロメテウスの存在も相変わらず不明瞭だし。ビフレストが完成するまで、一波乱も二波乱もあるだろう」
 クラウスの指摘は正しい。ここで道が開けても、前途は多難。だが、アリシアは逃げないと決意していた。

「分かっています。でも、一人でも多くの人を守れる可能性があるなら、私は続けます。ビフレストが本当にできて、怪物化した人たちがそこで平和に暮らせるなら、それ以上の喜びはありませんから」

「ふふ、まったく。あんまり無茶だけはするなよ。俺の仕事が増えるからね」
 クラウスは苦笑して去っていく。交渉の続きや事務処理が山積みらしい。彼も一見クールな現実主義者ながら、この計画に熱意を注いでいるのが分かる。

「じゃあ、アリシアも少し休め。夜にはまた作戦会議があるって班長が言ってたぞ」
 如月が背を向けて歩き出す。アリシアは頷き、立ち上がろうとするが、疲労で足元がふらつく。その瞬間、誰かの腕が支えてくれた。

「おっと……大丈夫か?」
 見ると、怪物化した勢力の代表の一人――先ほど円卓で質問してきた角の男がそこにいた。まさか自分を支えてくれるとは想像しておらず、アリシアは驚く。

「あ、ありがとう……。どうしたんですか……?」
 男は少し照れくさそうに鼻を鳴らし、手を離す。

「いや、あんたが議論のとき頑張ってたからな。一応、礼を言っておこうと思ってさ。あんなに真剣に“怪物化した連中”の未来を考えてくれる人間がいるとは思わなかった」

「いえ、私なんか大したことないです。まだ何も成果を出せていませんし……」

「それでも、今まで俺たちはまともに話を聞いてくれる人間と出会ったことがなかった。ほとんどが俺たちを怪物としてしか見ず、ただ撃つだけだ。あんたらは違う……だから、ビフレストがどうなるか、ちょっとは期待してるよ」

 そう言うと、男は軽く手を振って去っていく。アリシアは暖かな気持ちで胸が満たされると同時に、より強い責任感を感じた。怪物化した者が自分に期待を寄せているという事実。決して裏切れない。

「ビフレスト……絶対に成功させなきゃ……」
 呟いた声は廊下に消えていく。夕日の名残が赤く染める窓ガラスには、どこか遠い日射しが映えていた。


 会議後の数日間、特務B班は再び怪物との衝突やプロメテウス捜索に明け暮れながらも、“ビフレスト”の具体案を練り上げていた。資金提供を申し出る企業や、一部の国連機関のサポートが徐々に集まり、クラウスと班長はその調整に忙殺されている。

 アリシアはというと、怪我の回復と同時に、ビフレストでの役割を考えていた。もし実際にビフレストが動き出せば、そこを守るための“戦力”として特務B班が駐留する可能性が高い。彼女自身もプロメテウスの襲撃に備え、“戦わなくて済む環境”を構築する一方で、“いざというときは戦う”責任を負うことになる。

「戦わずに済む手段……だけど、完全に戦いをなくすのは難しいんだよね」
 ある日の夕方、荒野に沈む夕日を眺めながら、アリシアは独りごちる。隣にはダニーが腰掛け、整備したRシリーズ装備を点検している。

「ま、軍事的にも完全な平和は幻想さ。ビフレストを護るために、俺たち特務B班が武装して守るのは当然。そこが矛盾に思えるかもしれないが、ゼロにはできないんだよな」

「うん、それは分かってる。でも、プロメテウスみたいな存在が突然やってきて、全部壊していくなら……結局、私たちが立ちはだかるしかない。そこが“戦わずに済む手段”と両立するのか、まだ疑問で……」

「両立させなきゃ意味がないさ。怪物化した奴らも、俺たちも、『必要最低限だけ戦う』という環境をビフレストで作りたい。それを維持できるように努力するのが、建設を提唱する俺たちの使命だろ」

 ダニーは笑顔で言い切る。アリシアもその言葉に励まされる。

「ありがとう、ダニー。そうだね、私たちが全部を諦めちゃいけないんだ……。プロメテウスを止める力も必要だけど、戦いを減らす工夫も怠らない。それがビフレストの理念だし、私がやりたいことなんだ」


 夜が更け、特務B班の拠点は明かりを落とし、一部の夜勤メンバーだけが警戒に当たっている。アリシアは自室の簡易ベッドに座り、左目のΩを外して休息モードにしていた。頭痛がまだ少し残るが、慣れてきたのか眠気が心地よい。

(ビフレスト……。棲み分けの中立エリアを築いて、怪物化した人も人類も平和に過ごせる場所。そんな未来が本当に……)

 彼女はまぶたを閉じ、想像する。緑豊かな土地に家々が建ち、怪物化した者も人間も、最低限のルールを守りながら共存する図。もしかすると、それは夢物語に近いかもしれない。けれど、どんなに絵空事と言われようと、実現できれば多くの命が救われるはずだ。

 思えばこの世界では、バイド係数を理由に差別や迫害、暴走や破壊が繰り返されてきた。逆に、“純人類”を名乗る過激派も武力を行使し、戦争と呼べる惨状が各地で起きている。しかし、その真ん中に“ビフレスト”という安住の橋が架かるなら、分断を少しは埋めることができるのではないか。

 アリシアはあの日、プロメテウスに聞かれた。“人類の戦う理由”――彼が本当にそれを知りたいのだとしたら、“ビフレスト計画”がその答えになるかもしれない。人類はただ相手を倒すためだけに戦うのではなく、“守りたいものがあるから戦う”。そこには希望があり、未来を築く意志がある。

(きっと、私はプロメテウスと再び戦うことになる。でも、そのとき私は戦いの先に何を見ているか……)

 彼女は静かに目を開ける。夜の闇がしんと広がり、虫の鳴き声すら遠くかすかに聞こえるだけだ。まだまだ課題は山積みだが、ビフレスト計画が動き出した現実に、小さな喜びを感じる。

「明日も頑張ろう……戦わずに済む未来のために、私は戦う。こんな矛盾を抱えていても、歩みを止めたくないから……」

 囁くように言葉を落とし、アリシアは薄目を閉じる。いつの間にか意識が遠のき、浅い眠りへ沈んでいく。夢の中で、“ビフレスト”の美しい橋が大地と大地を繋ぎ、怪物化した者や人間が手を取り合う光景が浮かんだ――それはまだ儚い幻かもしれないが、彼女はその光を信じたくて仕方がなかった。

**~翌朝:報せ~

 翌朝、アリシアが目を覚ますと、班長から一通の連絡が届いていた。どうやら“ビフレスト”の候補地として挙がっていた場所について、実地調査に向かうとのこと。地形や地下資源、水源の確保、治安維持のしやすさなど、検討項目は多岐にわたる。
 特務B班のメンバーはこれから数日かけて、その地を訪れ、軍や企業、そして怪物化コミューンの代表らと共に調査を行うという。

「よし、今度は私も調査に同行しよう。だって、ビフレストが実際にどういう形で運営されるか、ちゃんとこの目で見なきゃ」
 アリシアは意気込みを新たにする。これまでの戦闘の日々とは違い、今回は“政治”や“インフラ整備”の面が主になるだろうが、だからこそ彼女の視点が重要になる可能性がある。
 怪物化した者たちが安心して暮らし、かつ彼女自身もいつでも動けるように訓練しながら、ビフレストを守る準備をする。そんな忙しい日々が、もうすぐ始まるのだ。

(プロメテウスも、きっと黙ってはいないと思う。でも、それでも前に進まなきゃ。いつか、戦わずに済む場所を完成させて、あの人に見せるんだ――人類の“戦う理由”は、破壊のためじゃなく、未来のためだって)

 曇りの空を見上げ、アリシアはそっと笑みを浮かべた。ビフレスト計画は大きな賭けであり、多くの困難が待ち受けるだろう。だが、そこには希望がある。特務B班をはじめ、怪物化した勢力や協力的な政府、企業、そして“守りたい人々”が力を合わせるなら、必ずや道は拓けるはずだ。

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