
FFT_律する者たちの剣_EP:4-1
EP4-1:ウィーグラフの最期
イヴァリースの大地に、晩秋の肌寒い風が吹き渡っていた。
その日、ミルウーダ・フォルテは、灰色の岩肌がむき出しになった細い山道を歩いていた。視界の先には連なる峰々がそびえ、薄い雲がかかった頂上が冷たい光を放つ。高度が高いのか、いくら秋とはいえ体温を奪う風が容赦なく吹き付ける。
「……ここに来るのは何年ぶりかしら。」
呟く声は微かに震えているが、その眼差しには決意が宿っている。
かつて革命軍が一時的な拠点として使っていた山岳地帯の砦跡――そこにはウィーグラフという男の面影が強く残っていた。彼女にとっては“兄”であり、“革命家の同志”であり、“人生の指針”ともなった存在。それゆえに、長らくこの場所を訪れなかったのだ。
(ウィーグラフ……本当にここにいるの? それとも、ただの噂……?)
最近の噂話で、山岳地帯に謎の“化物”が出没し、貴族の哨戒部隊が全滅させられたという情報を耳にした。しかも、その化物は“ルカヴィ”を名乗る存在に近いらしい。そして、その中心にウィーグラフらしき男の姿があったと……。
ルカヴィ――聖石を媒介に人を怪物に変貌させる力。かつて“異端”とされる教会の秘蹟にも記録があるが、ミルウーダはあまり詳しくは知らない。しかし、“兄”がそんな異形に堕ちたという話には、信じられない思いと恐怖が混ざっていた。
「兄さん……本当に、そこまで堕ちてしまったの……?」
彼女は胸の奥が軋むような痛みを感じ、思わず足を止める。風が吹きつけ、薄いマントをバサリと揺らした。
ウィーグラフとミルウーダ――二人は革命を志し、貴族からの抑圧に苦しむ平民たちを救おうと血を流してきた。かつては頼もしき指導者だった兄が、いまはルカヴィ化の力を手にしているという事実を受け入れるのは容易ではない。
だが、もしそれが真実なら、彼女には会って確かめなければならない。革命家として、そして“妹”として。
険しい山道をさらに進むと、かつての砦跡が見えてきた。石造りの外壁が半壊しており、中央に建っていたはずの主塔は屋根ごと崩れ落ちている。周囲には長年の放置で生い茂った草や低木が絡み、足元に落ちているのは朽ちた木材と枯葉の吹き溜まりだ。
それでも、かつての革命軍がしばらく占拠していた形跡は残っている。落書きのような革命の合言葉や、火を焚いていた跡がうっすら確認できる。
ミルウーダは懐かしさを覚えながら、同時にあの血塗られた日々を思い出して胸が苦しくなる。かつてはウィーグラフが中心となってここを取り仕切り、自分も負けじと戦いを支えていた。――あの頃は、“貴族を倒せば平民が救われる”と、ただそれだけを信じていたのだ。
「兄さん……。」
静かに呼びかけるが、返事はない。廃墟となった砦はやはり不気味なほど静まり返っていた。だが、確かな気配がある――まるで、この砦の奥から殺意を含んだ視線を感じるような、重苦しい空気。
ミルウーダは魔銃を腰に携え、傷を負ったままの身体に鞭打って少しずつ内部へ足を進める。先日のアルガスとの戦いで受けた怪我は完全には治っていないが、そこまで重症ではない。何より、今は“兄”のことを確かめるほうが大事だ。
砦の中央に位置する広場跡に差し掛かったとき、不意に冷たい風が渦を巻いた。落ち葉が宙を舞い、朽ちた石壁の隙間から奇怪な声が響く。
その声は、かつての人間の発声とは微妙に違う。地の底から湧き上がるような、低く歪んだ音の重なり。それが、しばらく続いたあと、やがて一人の男の姿が瓦礫の奥から現れた。
「……ミルウーダ……?」
見た目はウィーグラフだ。やや伸びた髪、かつての革命軍時代の面影を残す鋭い瞳。しかし、その瞳の奥に暗い炎が宿り、肌はどこか蒼白さを帯びている。肩に装着された装飾具には、教会で見たことがあるような“宝玉”――おそらく聖石の一つ――が光を放っていた。
そして、その胸元や腕には何か紋様のようなものが浮かび上がっている。まるで悪魔の契約印を思わせる不気味さ。これは“ルカヴィ化”の兆候なのかと、ミルウーダは直感的に悟った。
「兄さん……やっぱり、噂は本当だったのね……?」
ミルウーダの問いに、ウィーグラフは苦悶の表情を浮かべながら、独特の圧力をもった声で答える。
「ミルウーダ……お前も来ていたのか……。革命を……終わらせないために、俺はこの力を手に入れたのさ……!」
その声には、かつての穏やかさや情熱が残りつつも、どこか異質な気配が混じり合っている。“人間”の領域を越えた力が彼の体内で蠢いているのだろう。
背後の空気が歪み、ウィーグラフの周囲に陰鬱なオーラが漂う。それはまさにルカヴィが宿るとき特有の魔力波動――教会が隠蔽しようとしている“聖石”の秘密だ。
ウィーグラフは、もともと革命家として貴族の圧制に立ち向かい、多くの同志を率いていた人物だった。ミルウーダが尊敬し、革命の先頭に立ち続けた誇り高き兄でもある。
だが、今の彼はその誇りや優しさが失われつつあるように見えた。瞳に宿る光は狂気じみており、時折「ククク……」と笑みを漏らす。その笑い方さえ不自然で、人間らしい感情のコントロールが効かなくなっているようだ。
「ミルウーダ……俺はまだ、革命を捨てていない……。いや、むしろ、より強い力で貴族を滅ぼそうとしている……! この……宝玉さえあれば……ルカヴィの力を借りれば……奴らを一網打尽にしてやる……!」
力説するウィーグラフの言葉には、すでに何か取り返しのつかない空虚が混じっている。彼が“ルカヴィ化の力”を宿しながら生身を保てているのは、革命への執念が異常なほど強いからだろう。だが、それは同時に人間の魂を削り取る儀式でもある。
ミルウーダは胸が痛む。革命家として理解できる部分もあれば、妹として悲しむ気持ちもある。ここまで堕ちた兄を、どうすれば救えるのか――それが見えない。
「兄さん……そんな形で革命を続けても、きっと何も救われないよ……。どうして、どうしてそこまで……!」
声が震える。ミルウーダは拳を握り締めながら、ウィーグラフの姿を正視する。かつての兄にあった優しさや熱意は、見えているのに同時に遠ざかっている。
ウィーグラフは微かに苦い笑みを浮かべ、胸の宝玉を撫でる。そこから青黒い光が揺らめき、何か生き物のように脈動していた。
「革命……まだだ……まだ終わっていない。あの貴族どもを全員屠り、平民を救うためには……この力が必要なんだ……! お前なら分かるだろう……?」
「……そんなわけない……! 兄さん、堕ちてしまったら何もならない……人間じゃない力に頼って、誰が救われるの? その代償は……どうなるっていうの……!」
かみ合わない叫びが廃墟に反響する。風が吹き、二人の髪を揺らし、倒れた石柱からガラガラと砂埃が落ちる。まるで、長年の時を経て崩れかけていた“兄妹の絆”が、今まさに完全に壊れようとしているかのようだ。
ミルウーダは魔銃を腰に携えたまま、動けずにいる。ウィーグラフが今にも襲いかかるような殺気を放ちながらも、彼女はかつて愛した兄の存在を思い出し、ためらいを拭えない。
一方、ウィーグラフの瞳には不穏な光が宿る。ルカヴィの力が魂を蝕んでいるのか、すでに人間らしい理性を保っているのか疑わしい。熱狂的な革命の執念だけが彼の身体を動かしているように見える。
「……ミルウーダ。お前、まだ革命を捨ててはいないだろう……?」
兄の問いに、彼女ははっと息を呑む。それは図星だ。確かに、オヴェリアを救い出し、アルガスとの戦いでも殺しを選ばなかったが、彼女は革命自体を捨てたわけではない。貴族の支配を変えたいという思いは、いまだ胸に根付いている。
ウィーグラフはそこを突くように、苦しげな笑みを浮かべる。
「ならば……ルカヴィの力も、いずれは必要になる……お前も、それがわかるはずだ……。“殺さない革命”など……幻想に過ぎない……!」
その言葉に、ミルウーダは耐え難い痛みを覚える。アルガスとの戦いを通じて実感した“殺さなくても変えられる”道を、兄が否定してきた。しかも人外の力をもって、貴族すべてを掃討するという強硬路線――かつての革命の延長線にあるが、もはや“人の道”を逸脱していると彼女には映る。
「兄さん……それじゃ、ただの破壊だよ……。いつからそんなふうに……人間の枠を超えようなんて考えたの……!」
「破壊……? そうだ、破壊してこそ、再生がある……。ミルウーダ、お前は革命家としての誇りを忘れたのか……!」
答えになっていない言葉がむなしく木霊し、ウィーグラフの体からダークブルーの魔力がまるで熱気のように揺らめく。さらに、彼の身体の一部――手先や肩の周りが不自然に変形しそうな気配さえ漂う。
ルカヴィ化はすでに始まりつつあるのかもしれない。完全に化物になりきる前に、ミルウーダが止められるのか――あるいは、彼女はためらってしまうのか。
数年前、革命軍がまだ勢いを持っていたころ、ウィーグラフとミルウーダは周囲の同志にとって理想の“兄妹”だった。優れた指揮官と冷静な副官。貴族に虐げられた平民が集う、希望の象徴でもあった。
だが、今目の前に立つのは、ルカヴィ化の力に染まりかけたウィーグラフ。人を越えた破壊衝動が彼を支配し、革命という名の下にさらなる流血を望んでいる。
「兄さん……私は……あなたを救いたい……。でも……」
拳を握りしめ、言葉に詰まる。彼の魂が完全に堕ちきっているわけではないと信じたいが、すでに人外の魔力が彼を蝕んでいるのも事実。
ウィーグラフの表情が一瞬だけ優しげなものに変わる。かすかな記憶――かつての妹を想う気持ちが戻ったかのような、儚い表情。しかしそれは一瞬で消え、頬に浮かんだ筋肉がギリギリと痙攣して、獰猛な笑みに変化する。
「……救う? いいだろう、ならば俺を止めてみせろ……この力が……どれほど強大か……お前にわかるはずも……ない……!」
声が途中で二重に聞こえるような奇妙な反響を伴い、ウィーグラフの姿が揺らぐ。皮膚の一部が黒い鱗のように変化し、まるで人間と獣の境界が曖昧になっていくかのようだ。
完全な変身――“ルカヴィ化”――まであと少し。
地面が低く鳴動し、砦の壁を伝って埃が落ちる。ウィーグラフの周囲に湧き立つ魔力が、山岳地帯全体を歪ませるかのように重苦しいオーラを放ち始める。
ミルウーダは思わず一歩後ずさる。こんな圧倒的な力は、教会が絡む聖石の秘術としか思えない。だが、彼を止めるべく、拳を強く握り直す――魔銃を握る手にも力が入る。
「兄さん……本当に、そこまで堕ちてしまったの……?」
この言葉は哀切の極みだ。何度口にしても、答えは戻ってこない。代わりに、ウィーグラフの瞳が暗い赤色に光り、口元が忌々しいほど歪む。
「ミルウーダ……俺は革命を終わらせない。……そのために、この力を……! 俺が死んでも……この力が……革命を遂げさせてくれる……!」
何度も唸るように繰り返し、徐々に身体が獣化のシルエットを帯びる。腕の筋肉が隆起し、皮膚の一部が漆黒に染まり、鋭い爪のようなものが覗き始める。
まるで、このまま完全にルカヴィの怪物へと姿を変える寸前――ミルウーダの心に絶望が押し寄せるが、同時に「これ以上変わる前に止めなければ」という使命感が目を覚ます。
内部で渦巻く感情を噛み殺すように、彼女は魔銃を構える。既に何度も使ってきたが、今回は相手が“兄”という事実が立ち上がりを阻んでいた。しかし、自分がしっかりしなければ誰が止めるのか――これ以上ウィーグラフを放置すれば、多くの無辜の者が犠牲になるかもしれない。
「……わかった、兄さん。あなたを止めるのは、私しかいないのね……!」
悲壮な覚悟がにじみ出る。かつてのミルウーダなら、情よりも革命の使命を優先していたかもしれない。今はむしろ“殺し合い”を避けたいが、ウィーグラフが相応の形で堕ちかけている以上、戦わざるを得ない。
彼女は魔銃の照準をゆっくりとウィーグラフへ向けるが、手が震えそうになる。きつく噛んだ唇から血の気が失せ、目元には涙が滲みかけている。
「もし……正気に戻れるなら、戻って……! お願いだから……こんな化物になるなんて……!」
懸命に訴えるが、ルカヴィ化の進行は止まらない。ウィーグラフは苦しげに身体を折り曲げ、断続的な嗚咽のような声を漏らしたあと、異様に伸びた爪をガシッと地面に突き立てる。瓦礫を粉砕するほどの威力があり、あたりが小さく揺れる。
「もはや……引き返せぬ……! 革命を……成し遂げるためなら……俺は……“人”を捨ててでも……!」
その一言に、ミルウーダの心が大きく揺れ動く。
かつての自分たちは、平民を救うために“人間の力”を信じ、血を流しながらも前進してきた。なのに今やウィーグラフは、“人間”を捨てることで革命を完成させようとしている――あまりに悲しい結末だ。
「……兄さん……! そんな革命、私は……認めない……!」
言葉は悲痛に満ちていて、もう説得の余地はなさそうだ。ウィーグラフの眼光がミルウーダを射抜き、今にも襲いかかる気配を漂わせる。
そう、いよいよ“戦いのとき”が来た。兄妹としての情はもはや糸ほどしか残っていない――ルカヴィという怪物化が、その最後の情をも踏みにじるかのようだ。
廃墟の砦跡に朝陽が差し込み、崩れた石壁の影が二人を包む。
ウィーグラフは半ば人外の姿を晒しながら、邪悪なオーラを放ち、“革命を終わらせない”という執念だけで動いている。
ミルウーダは魔銃を掲げ、背にオヴェリアとの出会いやアルガスとの対決など、さまざまな経験を背負っているが、ここで兄を止めるかどうかは重大な選択だ。一歩間違えば、自分が命を落とすかもしれないし、兄を殺す結果になるかもしれない――だが、躊躇していては遅い。
「……行くよ、兄さん……。あなたを、これ以上……堕とさせない……!」
声に濁りが混じる。拳が震えているのがわかるが、そこにあるのは覚悟。ウィーグラフはルカヴィの力を解き放つかのように背筋を伸ばし、“醜い獣の腕”へ変容した右腕をゆっくり構える。
その山肌に、風がビュウっと鳴いて吹き付け、枯れ葉や瓦礫の粉が舞い上がる。舞い散る塵の向こう側で、兄妹の視線が交錯し、最後の最後までかみ合わない“革命の道”が衝突するのだ。
「革命を……終わらせない……そのために、この力を……!」
彼の宣言が響き渡り、そこから先は、もはや言葉での対話ではなく、戦闘という形でしか続かない。
こうして、ウィーグラフの最期という運命の幕が、今まさに上がろうとしている――。