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天蓋の欠片EP2-1

Episode 2-1:事件の始まり
まだ夜明け前の空に、重く灰色の雲が垂れ込めていた。鳥のさえずりさえ聞こえず、まるで世界全体が息を潜めているかのような静寂。街の郊外にある一棟の小さなアパートの一室で、鈍い光がカーテンの隙間から差し込む中、天野ユキノは目を覚ました。

「……ううん……また、早く目が覚めちゃった。」

枕元の時計を見ると、午前5時台。いつもならアラームより先に起きることなど滅多になかったが、最近はこの“早起き”に慣れつつあった。理由は単純――九堂エリスが提案した「基礎体力づくり」を実践するためだ。学校が始まる前の時間を使って、軽いランニングやストレッチをしている。

少し前までなら考えられない生活リズムだった。しかし、自分が“生成者”の素質を持ち、いつ真理追求の徒に襲われるか分からない日々を過ごすうちに、ユキノは早起きと日々のトレーニングの必要性を感じ始めている。何もしないまま怯えているだけでは、自分もエリスも守れないのだ。

ベッドから起き上がり、パジャマの上からジャージを羽織る。そっとカーテンを開けると、曇り空にうっすらと朝焼けの名残が混ざり、街は薄いグレーのベールに包まれていた。

「……今日も走ってこよう。雨が降らなきゃいいけど。」

独り言のように呟いて部屋を出る。まだ母も起きていない時間帯で、リビングは暗い。足音を忍ばせて玄関へ行き、スニーカーを履いてそっと外へ出ると、ひんやりした空気が一気に肌を刺激する。鳥肌が立つような冷え込み。梅雨時期というわけでもないが、近頃は妙に天気が崩れがちだ。

ユキノは軽く息を整えながら、アパートの近所を一周するように走り始める。まだ明かりのついていない家も多く、人影もまばら。エンジン音が遠くで聞こえる程度で、都会の喧騒からはやや離れた静かな住宅街だ。

「ふっ……はっ……」

一定のリズムで呼吸をしながら足を動かす。初めは息が上がりやすかったが、今では短いランニングなら平気になってきた。エリスに言わせれば「まだまだこれから」だろうが、それでも自分の変化を実感できるのは嬉しい。

走りながら頭に浮かぶのは、ここ数日の出来事。転入生の煤織蒔苗(すおり まきな)がクラスにやってきてから、なんとなく空気がおかしい。彼女はユキノの「事故じゃない疑惑」を見透かしているかのようで、何かしら絡んでくる素振りを見せながらも、核心には触れずに去っていく。
その彼女とどう接するべきか、ユキノはまだ答えを出せずにいた。下手な警戒をして敵対する可能性もあれば、逆に友好関係を築けるかもしれない。だが、蒔苗の考えは一向に読めないままである。

「よし……もう少しペースを上げて……」

ペースアップしようとしたとき、不意にスマートフォンがバイブレーションを起こした。こんな早朝の時間帯に連絡が来ることなど滅多にない。胸騒ぎを覚えながら立ち止まり、画面を覗き込む。

「……エリス先生?」

差出人は九堂エリスだった。何事かあったのだろうか。ユキノは少し焦りながらメッセージを開く。

エリス(5:25 AM)
「ユキノ、早い時間からごめん。大丈夫なら連絡ちょうだい。少し気になる動きがあるの。」

この一文だけで、ユキノはエリスが何か“事件”の匂いを嗅ぎつけたことを察する。最近、過激派の“真理追求の徒”はやや沈黙していたが、ここにきて再び動き出すのか。それとも別の事件なのか。いずれにせよ、通常ならエリスはあまり朝早く連絡を寄越すタイプではない。よほどのことだろう。

ユキノは急いで返信する。

ユキノ
「起きてます。ランニング中だけど、何かあったんですか?」

すると、ほぼリアルタイムで返信が返ってきた。

エリス
「やっぱり頑張ってるのね。偉い。……詳細は後で話すから、時間あれば探偵事務所に寄ってほしい。無理なら放課後でもいい。気になるニュースを見つけちゃってね。悪い予感がするのよ。」

ニュース――嫌な響きだ。最近の“連続消失事件”が落ち着いたと思ったら、また新しい異変かもしれない。ユキノは心の中でざわつきを感じながら、自分の意志を固める。

(学校に行く前に、事務所へ寄れたら寄るか。ちょっとギリギリになりそうだけど、話を聞いておきたい。)

決めたら早い。ユキノはメッセージで「これからシャワー浴びて着替えるので、30分後くらいにそちらに向かいます」と送り、ペースを上げて家へと戻っていく。まだ日は昇りきっていないが、すでに何か大きな波乱の“始まり”を感じさせる朝だった。

短時間のシャワーを済ませ、制服に着替えたユキノは、急ぎ足で駅へ向かう。まだ通勤通学ラッシュのピークには早い時間なので、ギリギリ電車に乗れば探偵事務所に少しだけ立ち寄れる。母には「ちょっと寄り道するから出るのが早くなった」と言い含めておいたが、それでも不審には思っている様子。だが、まだ深く追及されてはいない。

電車を乗り継ぎ、ビル街の一角にある古めの建物にたどり着いた頃には、時刻は朝の7時前。さすがに探偵事務所も閑散としているようで、ビルの入り口には人影がない。エレベーターを使わず階段を上り、2階の扉にたどり着く。

「エリス先生……おはようございます。」

ドアを開けると、エリスが既にコーヒーカップを片手に書類を睨んでいた。いつもより早起きしているらしく、髪の乱れもなくトレンチコートの上に淡い色のストールを巻いている。肩の包帯はもう取れたのか、少なくとも外傷はほぼ治ったように見える。

「おはよう、ユキノ。ごめんね、急に呼び出して。電車、混まなかった?」
「うん、まだ空いてた。先生こそ朝早くからどうしたんですか?」
「これ……見て。」

エリスはパソコンのモニターを指し示す。そこにはネットニュースの画面が映っており、“不可解な爆発事故が都内某所で発生”という見出しが躍っている。昨夜遅く、マンションの一室で原因不明の爆発があり、住人は重傷を負ったとのこと。幸い周囲への大きな被害はなかったらしいが、警察が原因を調査中という内容だった。

「爆発……ですか。でも、そんなのたまに起きるガス爆発とかじゃないんですか?」
「普通はそう思うわね。だけど、気になるのはこの住人。タスクフォースのデータによると、彼は以前“真理追求の徒”の下部組織と微妙に関わりがあった疑いがあるって話なの。」
「えっ……じゃあ、何か実験に失敗したとか……?」

ユキノの胸に寒気が走る。真理追求の徒はEM(エキゾチックマテリアル)やP-EM(擬似EM)を用いた危険な実験を繰り返していると聞く。もしその実験がマンション内で行われていたとしたら、爆発事故というより“事件”だろう。

「タスクフォースも確証は掴めてないみたい。だけど、私には嫌な予感がする。連中が『準生成者』を量産しようとしているっていう噂、覚えてる?」
「はい……前に先生が話してくれましたよね。」
「その一環で、P-EMを使った実験をしている可能性がある。……もしそうなら、これから類似の事故が増えるかもしれない。」

エリスの表情は険しい。肩の怪我が治ったばかりだというのに、まるで休む間もなく事件が迫っているのだろう。

「それって、また消失事件が再燃するってこと……?」
「ううん、消失事件だけじゃないかも。前よりも手段が過激になる危険性がある。……私は今日、一日かけて少し調べを入れたい。だから、もし何かあったらすぐ私に連絡して。」
「わかりました……。私、学校はどうします? これが大きな事件になるなら、私も何かお手伝いしたいけど……まだ無力ですし……。」

ユキノの声には焦りがにじむ。事件が起きているのなら、自分も役立ちたいという意志がある一方で、まだ訓練を始めたばかりで何ができるわけでもない。

エリスは微笑むように首を振る。

「学校へ行って大丈夫。日常生活を送るのも大事な修行のひとつよ。……ただし、怪しい動きを見かけたり、蒔苗さんが何か話しかけてきたりしたら、念のため知らせて。」
「はい……了解です。」

ユキノは深く頷く。蒔苗――彼女もまた、何か知っているのではないかと疑う存在。事件が動き出した今、もし蒔苗が真理追求の徒に近い立場なら、接触してくるかもしれないし、あるいは別の意図があるかもしれない。

「じゃあ、時間もないし、私はもう行きます。先生、気をつけて。」
「あなたもね。変な連中に近づかれたら、すぐ私に連絡すること。……今日の放課後、もし余裕があればまたここに来て。状況次第で対応を検討しましょう。」

そう言ってエリスはコーヒーを飲み干し、軽く背筋を伸ばす。探偵兼講師という表の顔を持つ彼女だが、裏ではこうして常にEM関連の情報を追いかけ、危険に飛び込んでいる。その姿に敬意と不安を同時に抱きながら、ユキノは再び階段を下りて駅へと向かう。

ビルの外に出ると、いつの間にか通勤ラッシュの気配が近づいており、周囲をスーツ姿の人々が行き交っていた。曇天の空は相変わらず暗く、今にも雨が降り出しそうだ。まるで世界が嵐の前の静けさに包まれているかのように感じられる。

「事件……始まっちゃうのかな。」

ユキノは小声で呟く。自分がまだ何の力にもなれないという苛立ちが湧くが、焦っても仕方ない。とにかく学校へ行き、いつも通りの生活を送りながらも、注意だけは怠らない――それが今日の使命だと自分を言い聞かせる。

電車を乗り継ぎ、なんとか始業前に学校へ辿り着いたユキノ。ホームルームが始まるまでのわずかな時間、クラスメイトの桐生ナナミと廊下で立ち話をしていると、周囲から妙な噂話が聞こえてきた。

「ねぇ、聞いた? また行方不明者が出たんだって……しかも○○駅の近くで。」
「えー、まじ? 連続消失事件がまた再発とかじゃなくて?」
「さあ……でも気味が悪いよね。最近ちょっと落ち着いてたのに……。」

“行方不明”というフレーズが、ユキノの耳に引っかかった。昨夜の“爆発事故”のニュースとは別の話だろうか。それとも関係があるのか――嫌な予感がして、思わずナナミに聞いてしまう。

「ねえ、その行方不明っていつの話か知ってる?」
「え? 詳しくはわかんないけど、さっきどこかのクラスで噂になってたみたい。今週に入ってから誰かが急に姿を消したとか……。まぁ噂レベルかもね。」

ナナミはそこまで深刻に捉えていない様子。しかしユキノは胸がザワザワする。“連続消失事件”――以前から問題視されていたが、一時期沈静化していた。もしこれが再燃しているならば、真理追求の徒がまた動き出している可能性は十分にある。

(まずい……エリス先生が言ってた「嫌な予感」と合致するかも。何か大きな動きが起きてるのかな……。)

唇を噛みながら、ユキノはクラスへ入る。机に座りながら心ここにあらず、考え事に耽っていると、ふと横から声がかかった。

「おはよう、天野ユキノさん。」

静かな声――振り向くと、そこに蒔苗が立っている。例のプラチナブロンドが朝の光を浴びて淡く輝き、その虹色の瞳は相変わらずどこか掴みどころがない。ユキノは一瞬戸惑ったが、軽く微笑んで返した。

「あ、おはよう……煤織さん。」
「私も“ユキノ”って呼んでいいかしら? ……あなたは私を“蒔苗”と呼んでくれて構わないわ。」

急に距離を詰めるような言い方に、ユキノは驚きつつも「いいよ」と頷く。蒔苗は変わらず無表情めいた顔のまま、ユキノの机の隣の席に腰を下ろした。

「ユキノ、今日は少し疲れてるように見えるけど……何かあったの?」
「え……そ、そうかな……。たしかにちょっと睡眠不足かも……。」

本当のことは言えない。「爆発事故が気になって、事件が始まるかもしれない」なんて口が裂けても言えないし、彼女が何を知っているかもわからない。でも、蒔苗の視線はまるで「本当は分かってるんでしょう?」と語りかけるように鋭い。

「ま、いいわ。あなたが話したくないなら、それで。でも、その“疲れ”がより大きくなる前に、何とかしたほうがいいと思う。」
「え……どういう意味?」
「言葉のままの意味よ。……あなたの抱えている重荷は、やがて“事件”として周囲を巻き込む可能性がある。そのとき、あなた一人で防ぎきれないかもしれないわ。」

まるで預言者のような口振り。ユキノは思わず息を詰める。彼女が“事件”という言葉を使うのは偶然じゃないだろう。少なくとも何らかの確信めいた情報を握っているのは確かだ。

「蒔苗……あなたは、何かを知ってるの?」
「さあ、どうかしら。私はいろいろ“観察”するのが好きだから、人の動きや世界の変化を見ているだけ。でも……あなたが苦しむ姿はあまり見たくないわね。なぜかしら。」

蒔苗はそう言い残して立ち上がり、ホームルームの準備をするためか自席へ戻っていく。ユキノは心臓の鼓動が早まるのを感じながら、彼女の背中を見送った。

(やっぱりこの子は……普通じゃない。どういう立ち位置なの? 私に協力する気があるの? それとも邪魔をするの?)

疑問が渦を巻く。しかし、彼女自身から何かを明かしてくれる気配はない。
次の瞬間、ホームルームのベルが鳴り、担任が入ってくる。クラスはいつもの朝と変わらない活気に包まれるが、ユキノだけは落ち着かないままだった。

ホームルームが終わり、1時間目の授業が始まるタイミングで、校内放送が突然流れる。

「生徒の皆さんに連絡します。本日早朝、近隣で不審者の目撃情報がありました。校外へ出る際は、なるべく複数人で行動し、万が一危険を感じたら速やかに教職員に報告してください。以上です。」

教師たちも知らされていなかったのか、「何だそれ?」「警察から連絡でも来たのか?」とざわつく。生徒たちは「不審者? この辺りじゃ珍しいね」と怖がりながらも、どこか他人事のようだ。だが、ユキノにとっては穏やかでない情報だった。

(近隣って、もしかしてあの“爆発事故”があった場所とか? 真理追求の徒のメンバーがうろついてるのかもしれない……。)

嫌な想像が浮かぶが、確証はない。ただ、校内放送にまでなるのは尋常ではない事態だ。ユキノはノートを開きながらも頭の中は事件のことでいっぱいになり、授業に集中できない。

2時間目、3時間目と過ぎていくうちに、また校内放送が入る。今度は「校庭の使用に制限をかける」というアナウンス。理由は明言されないが、“安全対策”とだけ伝えられる。不審者情報の影響なのか――どこか腑に落ちない。最近、花壇の事故以降、校内での制限が増えているのも気になる。

「ねえ、ユキノ。この前の中庭事故といい、変なことばかり続くよね。まるで何かの前兆みたい。」
「……そうかもね。」

ナナミの言葉に、ユキノは曖昧に返事をする。下手に同意すると「詳しく知ってるの?」と勘繰られそうだ。自分が何も話せずにいるのがもどかしいが、仕方ない。

(とにかく、放課後までは耐えるしかない。エリス先生に状況を伝えよう。)

そう心に決め、ユキノは退屈な授業を耐え忍ぶ。が、予想外に事態は早く動き始めた。

昼休み。クラスメイトが購買部に走ったり、教室で弁当を広げたりする中、ユキノは小さなパンを手に席でぼんやりしていた。蒔苗の姿は教室に見えない。朝の会話以来、どこへ行っているのか不明だ。

(蒔苗のことも気になるけど……私、どう動けばいいんだろう。先生がいない今、何が起こっても──)

そのとき、不意に隣の席から声がかかった。

「ユキノ、悪いけど手伝ってくれない? 購買部でパンとジュース買いたいんだけど、荷物多くて……」

ナナミが申し訳なさそうに袋を抱えている。どうやら部活の用具か何かを持ってきてしまったらしい。大したことではないが、ユキノは気分転換にもなると思い、快く引き受けた。

「いいよ、一緒に行こうか。」
「助かるー! ありがと。」

二人で廊下に出て、購買部へ向かう。そこは昼休みになるといつも大賑わいで、パンや軽食を求める生徒が列を作っている。しかし、今日はどういうわけか人が少なく、まばらな状態だった。

「あれ? いつももっと並んでるのに……。何かあったのかな?」
「わかんない……まぁ、並ばないで済むならラッキー……かな?」

ナナミは首を傾げつつも、にこやかにパンを選び始める。ユキノも棚を見ていると、視界の端に妙な人影が見えた。購買部の奥まったスペースに、黒っぽいフードを被った人物が立っているような――しかし目を凝らすと誰もいない。

(……気のせい? 嫌な予感がするんだけど……。)

思わず背筋が寒くなり、首を振る。数日前まで実際に“真理追求の徒”と何度も衝突しているから、ちょっとした人影にも敏感になっているのかもしれない。ナナミがパンとジュースを手に「さて戻ろう」と微笑むのを見て、ユキノも購買部を出ることにした。

ところが――廊下へ出た瞬間、遠くの方で生徒たちの悲鳴が上がる。

「きゃあああっ! な、何あれ……!?」
「おい、どうしたんだ!?」

声のする方へ視線をやると、校舎の渡り廊下近辺がざわついており、生徒たちが怖がって後ずさるように走ってきている。ユキノは嫌な胸騒ぎを覚えつつ、「ナナミは下がってて!」と言って駆け寄った。

(本当に起きちゃったの? 何か事件が……?)

廊下を曲がった先には、黒いフードを被った人影が立っていた。こちらに背を向けているが、あの雰囲気は以前襲ってきた真理追求の徒のメンバーを思い出させる。しかも、その人物の周りに奇妙な揺らめきが見える――赤黒いオーラのような、EMの干渉かもしれない。

「なんで学校の中に……!?」

ユキノは思わず声を上げる。生徒たちは「やばい、逃げよう!」と散り散りに走り去っていく。教師の姿が見当たらないのは、昼休みでいろいろ動き回っているからだろうか。どうやら職員室にもまだ事態が伝わっていないようだ。

黒いフードの人物はゆっくりと振り返ると、視線をユキノに向ける。顔は完全に隠れていて表情は分からないが、軽い嘲笑のような気配を感じた。背後の空気が微妙に歪み、赤黒いエネルギーが帯状に揺れ動く。

「……見つけた。生成者の素質を持つ子だね。ちょっと付き合ってもらおうか。」

低い声が廊下に反響する。ユキノは恐怖と緊張で喉が渇き、下唇を噛みしめる。エリスが言っていたように、過激派が本格的に学校へ侵入してきたのだろうか。どうやって警備を掻い潜ったのか――考えても仕方ないが、危機は目の前だ。

「……なぜ、こんな場所に……!」
「君もわかってるだろう? 私たちは真のEMを追求するために、“素材”を探しているのさ。それとも大人しく従うか?」

男の声色は底意地の悪さと興味本位が混ざり合っている。ユキノは後ずさりしながら、ナナミや周囲の生徒が巻き込まれないように考える。どうにかして時間を稼ぐか、あるいは逃げ道を確保するしかない。

「……先生に連絡しなきゃ……!」

頭でそう思っても、すぐ行動に移せるほど冷静ではいられない。男が手をかざすと、赤黒いオーラが渦を巻き始め、廊下の天井近くまでうねりを伴って広がる。見るからに危険なエネルギーだ。これがP-EMの力なのか――かつての戦闘を思い出させる嫌な気配だ。

「捕まえさえすればいいんだ。壊さないように気をつけないとな……。」

男がそんな独り言を呟いた瞬間、そのオーラが大きくしなり、鞭のようにユキノへ襲いかかる。速い――回避が間に合うかどうか、思考が追いつかない。だが、体が本能的に動く。ユキノは咄嗟に廊下の床に身を投げ、ギリギリで鞭を回避。鞭はそのまま後方の壁を抉り、コンクリート片が飛び散る。

「きゃああああ!!」

周囲の生徒たちが悲鳴を上げ、一斉に逃げ出す。天井には亀裂が走り、壁には大きなひび割れが刻まれる。学校の廊下とは思えない惨状に、ユキノは背筋が凍る。

(まずい、私が捕まったら……先生……先生、どこ……!?)

だが、エリスは今日は来ていない。周囲に頼れる人物も見当たらない。自分が逃げるしかないのか。あるいは、まだ覚悟を決めるには早いとわかっていても、射出機を使うべきなのか――思考が混乱する。

(射出機……持ってきてない……!)

エリスから訓練用に渡された初心者モデルは、まだ実際には使っていないし、持ち運びも許されていない。つまり、今のユキノには戦う手段がない。歯を食いしばりながら、せめて他の生徒を巻き込まないよう、相手を校舎の奥へ誘導するか、あるいは逃げまどうしかない。

「ユキノ!!」

ナナミの声が後方から聞こえる。どうやらまだ逃げずにこちらを気遣っているらしい。危険だと思いつつも、友人がいるのは心強い――しかし同時に、巻き込まれるリスクもある。

(ダメだ、ナナミは逃げて……でも、どうすれば……)

ユキノが迷っている間にも、男は再び鞭のようなエネルギーを構え、じりじりと距離を詰めてくる。その瞳の奥には、狂気とも言える執念が宿っているかのようだ。

「さて、もう少し遊んであげようか。生成者の力を目覚めさせるには、恐怖が手っ取り早いからね。」
「やめて……これ以上……!」

ユキノが声を荒げた次の瞬間、廊下の奥から人影が現れた。いや、悠然と歩いてくるように見える。周囲の騒音にまるで動じていない姿――見覚えのあるプラチナブロンドが揺れる。

「蒔苗……!?」

彼女は教室と逆方向から姿を現し、その虹色の瞳を男へ向ける。まるで恐怖がないかのように、静かな足取りで近づいてくる。男もそれに気づき、警戒心を抱いて鞭を緩める。

「なんだ、お前……邪魔をする気か?」
「邪魔……になるかどうかは分からないわ。でも、あなたがしていることは、この学校には似つかわしくない。」

蒔苗は淡々とした口調でそう告げる。男は苛立ったように舌打ちし、「消えろ!」とばかりに赤黒いエネルギーを再び振りかざす。蒔苗に向けて放たれる触手――ユキノは「危ない!」と叫んでしまうが、蒔苗は一歩も動かない。

すると、奇妙なことが起こった。触手が蒔苗に触れようとした瞬間、まるでそこに見えない壁があるかのように弾かれてしまったのだ。ビリッという閃光が走り、空間が歪むように見える。男が目を見開いて驚いている間に、蒔苗は静かにその手の平を男に向ける。

「あなたたちが求める“真理”とやらは、こんな粗暴な方法で得られるものじゃない。退いて。」
「なっ……このっ……!」

男は動揺しているのか、再度攻撃態勢を整えようとする。しかしエネルギーの制御が乱れているのか、黒いオーラが細かく震えて、上手く収束しない。蒔苗は少し首を傾げるようにして、まるで哀れむかのように男を見つめる。

「私には、人間の感情というものがまだよく分からない。だからこそ、あなたのような暴走は興味深いけれど……学校を壊すのはやめて。」
「貴様……何者なんだ……!」

男は焦りと怒りで声を荒げ、再度鞭を振るうが、結果は同じだった。蒔苗の周囲で何か特殊な力が働いているのか、触手はまたしても虚空で弾けてしまう。
その様子を見て、ユキノは茫然とする。

(蒔苗……この子、一体……何をしてるの? どうやって攻撃を防いでるの……?)

確かに、蒔苗が普通の人間ではない気配は感じていた。だが、これほどまでに“非常識”な力を持っているとは――。真理追求の徒の攻撃を容易く無効化する様子は、まるで0次宇宙の“観測者”だとでも言わんばかりの超然さ。

男は完全にペースを乱され、赤黒いオーラが衰え始めている。廊下の壁に焦げ跡や破片が散乱するが、蒔苗自身は一切傷を負っていない。

「くそっ……仕方ない。ここまでか……! だが、お前ら程度に阻まれるわけにはいかん……!」

男は捨て台詞を吐くと、小さな弾丸のようなものを床に投げつける。すると濃い煙幕が広がり、一気に視界が奪われた。ユキノは「うっ……」と咳き込みながら顔を覆い、煙が晴れるのを待つ。数秒後、煙が薄くなったときには、すでに男の姿はどこにもなかった。

「逃げた……。」

ユキノは荒れた廊下を見渡しながらつぶやく。蒔苗も立ち尽くしているが、その顔には微塵の焦りも見えない。むしろ、すべてを予定調和で退けたかのような静寂が漂う。

「蒔苗……今の……何だったの? あなた……どうやってあの攻撃を防いだの……?」

息を切らし、傷一つ負っていない蒔苗に問いかける。だが、彼女は答えず、ゆっくりとユキノのもとに歩み寄る。
虹色の瞳でユキノを見つめ、そっと首を振る。

「ごめんなさい。今はまだ、あなたに説明できる段階じゃない。ただ……こう思っておいて。あなたが危険に晒されるとき、私はそれを見過ごすわけにはいかない。」
「え……?」
「あなたは“観察”するに値する存在だから。――たとえ真理追求の徒がどれだけ追い詰めようと、私は守るわ。」

突拍子もない宣言に、ユキノは言葉を失う。守る――何故そこまで言い切れるのか、何を意図しているのかさっぱり分からない。だが、先ほど目の当たりにした“異能”が、蒔苗をただの人間ではないことを証明している。
遠くから教師や生徒たちが駆けつける足音が聞こえる。ここでこれ以上話し込んでいると、いろいろ詮索される恐れがある。蒔苗はそれを察したかのように、ユキノに向けて微笑む。

「また、話す機会があるでしょう。今は落ち着いて、嘘でも何でもついて、周りをごまかすのがいいわ。あなたが余計な注目を浴びないために。」

その言葉を残して、蒔苗はくるりと踵を返し、教師たちが来る前に別の廊下へ消えていく。ユキノは慌てて引き止めようとするが、煙の名残にむせて咳き込み、視界がゆらめく。
次の瞬間、何人かの教師が「大丈夫か!?」「一体何が起きたんだ!」と叫びながら駆け寄ってくる。廊下には崩れた壁や焦げ跡が残り、惨状を見た教師たちは言葉を失う。ユキノは咳を止めようと必死になりながら、どう説明すればいいのか分からずに狼狽する。

(どうしよう……私が変なこと言ったら、蒔苗の“力”がバレてしまうかもしれないし、真理追求の徒のことも……)

混乱の最中、ナナミが倒れそうになりながらユキノの手を掴んでくる。
「ユキノ……だ、大丈夫? 何が……あれは何……?」
「わ、わかんない……急に煙が……」

咄嗟に嘘をつく。教師たちは「爆発か? ガスか?」と騒ぎ、スマートフォンで警察か消防に連絡を取る者もいる。幸い、生徒は大きな負傷者がいないようだが、壁の破損や焦げ跡は“ただ事ではない事故”だと示している。

ユキノは唇を噛みつつ、蒔苗の残していった言葉を思い返す。

「あなたが危険に晒されるとき、私はそれを見過ごすわけにはいかない。」

彼女はなぜ、これほどあっさりと真理追求の徒の攻撃を防げたのか。その真意は何なのか。
だが、そんな疑問を抱いている余裕は今はない。すでに教師や生徒が集まり、廊下は混乱の渦に飲み込まれている。校長や管理職が出てきて、「避難指示」を出す話まで聞こえてくる。

「皆さん、安全が確認されるまで教室や体育館へ移動を! 危険な場所には近づかないで!」
「爆発物やガス漏れの可能性もあるかもしれないから、気をつけて!」

ここが学校であることを忘れてしまいそうな緊迫感。ユキノは胸の奥が締め付けられるように痛い。結局、真理追求の徒はまたしても学校という日常を脅かしに来た。それを阻止できたのは蒔苗――だが、その代わりに校舎はこんな状態になってしまった。

(エリス先生……本当に事件が始まっちゃった。どうしよう。)

一方で、蒔苗が見せた力の意味を考えずにはいられない。彼女は一体何者なのか。自分を“観察対象”と呼び、これまでも何かと気にかけていた。その正体を知れば、事件を解決する手がかりになるのかもしれない――そう思うほど、頭の中でぐるぐると思考が回る。

教師たちは「警察が来るまで動くな」「みんな、教室や安全な場所へ避難しろ」と指示を出している。ユキノもナナミの手を取り、どうにか教室へ戻ろうとするが、胸中は嵐のようにかき乱されていた。

ユキノとナナミが教室に戻ると、クラスメイトたちはあちこちで情報交換をしている。すでに廊下の惨状が伝わっているらしく、皆驚きや不安を口にしていた。

「廊下が爆発したって、本当!?」
「見に行ったら先生に怒られた……マジで壁が崩れてたよ!」
「え……テロとか? まさか……」

そんな声を聞くと、ユキノの胸が痛む。テロ――実際、真理追求の徒によるテロ行為に近い出来事だ。彼らは準生成者の研究やEMの実験のためなら手段を選ばない。今回もユキノをさらう目的があったのかもしれない。

(私がもっと早く気づいていれば……。蒔苗がいなかったらどうなってた?)

ふと横を見ると、蒔苗の席は空のままだ。彼女はどこへ行ったのだろう。教師に報告するでもなく、避難誘導に参加するでもなく、まるで風のように消えた。
ナナミがユキノの肩を揺らしてくる。

「ねえ、ユキノ……本当に大丈夫? 廊下であの瞬間を見たんでしょ? 何があったの?」
「……私もよくわからない。煙が急に広がって……気づいたら壁に大穴が開いてたんだ。誰かが何かしでかしたのかな……」

曖昧に答える。ナナミは心配そうに眉を下げるが、あまり突っ込むことはしない。きっとユキノが動揺していると感じてくれているのだろう。

すると、携帯がバイブレーションで震えた。ポケットから取り出すと、エリスからの着信だ。教師の目を盗んで廊下へ出るわけにはいかないので、ユキノは教室の隅でコソコソと受話器を当てる。

「もしもし、先生……聞こえますか?」
「聞こえる。学校、大丈夫なの? 今、警察無線で騒ぎになってるのを小耳に挟んで……」
「実は……それが……変な人が入ってきて、廊下がめちゃくちゃ……私、どうすれば……」

動揺が声に出てしまう。エリスは低いトーンで「落ち着いて」と諭してくれる。

「怪我はないのね? 相手は真理追求の徒だと思う?」
「たぶん……赤黒いオーラを使ってて、私を連れて行こうとした。……でも、蒔苗が現れて止めてくれたんです。あの子、普通じゃない力を使って……それで、相手は逃げちゃった。」
「蒔苗……やっぱり何かある子なのね。……わかった、学校は今大騒ぎでしょう? 警察が到着すれば、一旦沈静化すると思う。あなたは無理に動かず、安全な場所にいるのよ。」
「でも、このままじゃまた来るかもしれないし、私……」
「いいから、まずは身を守りなさい。あなたが捕まったら本末転倒だわ。警察と学校側が警戒態勢を敷くだろうし、すぐに私も向かう。学校には入れないかもしれないけど、付近で待機するから、落ち着いたら連絡ちょうだい。」

エリスの言葉に、ユキノは少しホッとする。頼れる存在が近くにいてくれるだけで心強い。今の自分では何もできないかもしれないが、少なくとも孤立はしていない。

「わかりました……先生も気をつけて。」
「ええ。そっちもね。繰り返すけど、危ないと感じたらすぐ連絡すること。」

通話が切れた直後、職員室から担任がバタバタと走ってくる。どうやら校長や警察の話し合いで、「生徒は帰宅させるか、安全な場所に集めるか」を検討しているらしく、クラスごとに大騒ぎになっているようだ。ユキノのクラスも「今日は授業どころではない」という判断で、下校指示が出る可能性が高いらしい。

実際には、校舎内に爆発物が仕掛けられている恐れがあるとか、犯人が再び襲ってくるかもしれない、などの憶測が教師たちの間で飛び交っている。ユキノはその混乱した空気を感じ取りながら、ひどく落ち着かない気持ちで座り込むしかなかった。

(結局、事件が始まってしまった。先生が言ってたように……ここからもっと大きなことに発展するのかな……。)

そして、蒔苗という“謎”が新たな局面を招きそうな予感がする。彼女の圧倒的な防御の力――あれはいったい何なのか。真理追求の徒やエリスですら持っていない形態だとすれば、さらに上位の存在か、あるいはEMとは別次元の力かもしれない。

朝、エリスが言っていた「悪い予感」は現実になりつつある。爆発事故、不審者、そして学校での襲撃――これらは序章に過ぎないのかもしれない。
ユキノは震える手をこらえながら、心の中で“これが本当の始まりだ”と痛感していた。

結局、警察が到着し、学校の中をざっと検分した結果、生徒たちには下校命令が出された。事情聴取は後日に行うとのことで、校内は大混乱だったが、保護者への連絡やメディア対策などで教師たちはてんやわんや。生徒たちは「テロだったのか?」などと怯えつつも、半ば強制的に家へ帰されることに。

ユキノも例外ではなく、クラスメイトのナナミと一緒に校門を出る。しかし、胸の内ではエリスの言葉がリフレインする。“落ち着いたら連絡して、私も付近で待機するから。”――つまり、エリスはすでに学校周辺にいるかもしれない。

「ナナミ、ごめん。私、ちょっと用事があるから、ここで……」
「あ、そうなの? でも、こんな状況だし、一緒に帰ろうよ。危なくない?」
「大丈夫だよ。私の家、あっち方面だから……。ナナミも気をつけてね。」

無理やり納得させる形で別れ、ユキノは校門を出て少し歩いてから、人目の少ない角でエリスに連絡を取る。すぐに電話が繋がり、エリスは「そっちに向かうわ」と答えた。

数分後、路肩に黒い車が止まり、エリスが運転席から顔を覗かせる。探偵事務所で使われているらしい車で、彼女が一人で乗ってきたようだ。ユキノは急いで助手席に乗り込み、ドアを閉める。

「先生……来てくれてありがとうございます。」
「こっちこそ、無事でよかった。さっきまで警察が校内を調べてたみたいね。もう生徒たちは帰されたの?」
「はい。みんな怯えてる感じで……私も、見ちゃいました、相手の攻撃。」

ユキノが廊下での出来事をかいつまんで説明すると、エリスは難しい顔でハンドルを握りしめる。

「やはり真理追求の徒が動き出したか。しかも、堂々と学校に入り込むとはね……。そして、煤織蒔苗がそれを防いだ? 彼女は一体何者なのか……。」
「それが私にも分からなくて……でも、間違いなく普通じゃない力がありました。私が何もできない中で、あっさり敵を防いで……。」

エリスは苦々しく唇を噛む。自分がいたらユキノを守れたかもしれないが、そうではなかった。逆に、蒔苗が助けたことへの安堵と悔しさが混在しているようだ。

「このままじゃ何も進まないわね。私もタスクフォース経由であの爆発事故や、学校襲撃について調べられないか動いてみる。あなたは、もし蒔苗と話す機会があったら、できる範囲で探ってみて。」
「はい……でも、どうやって。あの子、あんまり自分のこと話さないし……」
「無理はしないで。向こうから接触してくるかもしれないし、そのときにさりげなく情報を引き出せばいい。――とにかく今回の一件は“事件の始まり”よ。真理追求の徒が以前よりも大胆に、そして短期間で複数の行動を起こしている感じがする。」

エリスはそう言うと、アクセルを踏んで車を発進させる。ビル街まで移動し、今日は探偵事務所に籠もって情報収集を行うつもりらしい。ユキノは予定外の下校になったが、家に帰っても落ち着かないので、エリスに同行してもいいか尋ねる。

「私も、事務所に行っていいですか? 先生の邪魔になるかもだけど……家にいるよりは……」
「もちろん。一緒に来て。あなたも見ておいた方がいい情報が集まるかもしれないし。安全面でもそっちのほうが安心でしょ。」

ユキノは安堵の笑みを浮かべる。蒔苗が助けてくれたとはいえ、またどこで真理追求の徒が現れるか分からない状況だ。エリスのそばが一番安心できる。
車はしばらく走り、やがて見慣れたビルの前に停車する。そこが九堂探偵事務所――ユキノにとって今や“第二の拠点”のような場所だ。

「さ、行きましょう。とりあえずお茶でも飲みながら、状況整理ね。」
「はい……今日は本当に色々あって、頭がパンクしそう……」

二人はエレベーターで2階へ上がり、事務所のドアを開ける。中に入り、エリスが電気をつけると、いつもの資料が整然と並んだ空間が広がる。少し前に見慣れた散らかった感じよりは片付いている。エリスが短いランチタイムを取ろうと、棚から軽食の缶詰やスナックを取り出す。

「お腹は大丈夫? 学校で昼ごはん食べる暇なかったでしょ。軽く何か食べながら話しましょう。」
「……うん、ありがとう。」

ユキノはデスクの端に腰を下ろしながら、水を一口飲む。さっきの緊迫した場面がフラッシュバックし、まだ心臓が落ち着かない。けれど、こうしてエリスが側にいてくれることが唯一の救いだ。

「……先生、これからどうなるんでしょう。爆発事故、不審者、学校での襲撃……続いてますよね、事件が。まさに『始まった』って感じで……正直、怖いです。」
「私も正直、嫌な流れだと思う。でも、今が踏ん張りどころ。あなたも私も、あの連中に屈するわけにはいかないからね。」

エリスはパソコンを起動しながら、タスクフォース関連のメールやネットニュースをチェックしているようだ。ユキノも覗き込み、爆発事故や行方不明事件の新たな報道がないかを確認する。画面には断片的な情報が掲載されているが、核心にはほど遠い。

「先生、これからどうすれば……」
「うん、まずは事件の手がかりを整理してみよう。爆発事故の住人が真理追求の徒と関わりを持っていた可能性、そして今回の学校襲撃……。彼らが“生成者”を狙うって点では一貫してる。――あなたを探してるのは確かね。」

ユキノは射出機の存在を思い出す。まだ使いこなせていないが、自分が本気で心の中心を撃ち抜けば、どんな形の精神構造体が具現化するのか。
真理追求の徒の襲撃を阻止するためにも、必要な力だと分かっているが、恐怖は拭えない。

「先生……私、早く強くなりたい。今日みたいに何もできずにいるのが、すごく悔しい。蒔苗がいなかったら、捕まってたかも。」
「焦る気持ちはわかる。でも射出機を使うのは重大なリスクもあるから、段階を踏んで進めましょう。タスクフォースが安全な訓練場を貸してくれるかもしれないし……交渉してみる。少し時間ちょうだいね。」

エリスの言葉に、ユキノは静かに頷く。今は焦っても仕方ない――何よりも自分が壊れてしまっては意味がないのだ。
ただ、今日の襲撃は“事件の始まり”に過ぎない。再び過激派が動き始めた今、これから先も学校や街で惨事が起こる可能性は高い。爆発事故や行方不明者も増えていくかもしれない。自分ができることは何か――それを考えると、胸が熱くなる。

「負けたくない。私も、私の大切な人たちを守りたい。」

小さく呟いた言葉は、もう引き返せない覚悟の表れだ。エリスはそれを聞き取り、軽く微笑む。

「ええ、あなたならきっと乗り越えられるわ。これが、『事件の始まり』に過ぎないとしても、私たちは最後まで戦い抜ける。――さあ、資料を整理しましょう。あとでタスクフォースの協力を仰いでみる。」

そうして二人は机に向かい合い、長い時間をかけて情報収集と整理を進めていく。曇天の窓外は、暗い雲がさらに厚みを増していて、まるで迫り来る運命の重圧を象徴しているかのようだ。

夕方になるころ、探偵事務所の窓から見える空は、わずかな夕焼け色を覗かせながらも、依然として灰色の雲に覆われていた。エリスのパソコンには新たな情報が届かず、タスクフォースも現場対応に追われているためか、詳細は未だ不透明なまま。

ユキノはすっかり疲労を感じていた。学校での襲撃、蒔苗の謎の力、そして真理追求の徒の目的――考えるだけで頭が痛い。だが、これが本当に“始まり”に過ぎないのだとしたら、この程度でへこたれていられない。

「ユキノ、今日はもう帰る?」
「そうですね……お母さんも心配してるだろうし……って、あ。そういえば学校があんな状態だから、家に連絡するの忘れてた……。」

携帯の電源を入れると、母親から着信やメッセージが多数来ている。学校が大騒ぎになったニュースを見て驚き、心配で連絡してきたのだろう。ユキノは急いでメッセージを返信し、無事であることを伝える。

「明日は学校はどうなるんでしょう……こんなに壊れちゃって……。」
「全面休校か、別の施設を借りて授業をするか……まだわからないだろうね。次の指示が出るまで待つしかない。……気をつけて帰ってね。暗くなる前に送っていくよ。」

エリスは車でユキノをアパート付近まで送るつもりらしい。ユキノは遠慮しつつも、今の状況を考えればそれがベストだと思い、素直に甘えることにした。

「先生、今日はありがとうございました。……こんなに大変な日になるなんて……。」
「私こそ、あなたが無事でよかった。あとは蒔苗さんね……あの子、また学校に来るのかしら。いずれ話をしなくちゃ。」

二人は事務所を閉め、ビルの階段を下りる。外は既に黄昏の色が濃く、街灯が点り始めている。通りを行き交う車のヘッドライトが雨粒を反射し、路面が薄く湿っている。再び雨が降り出しそうな気配だ。

車に乗り込み、エリスがエンジンをかけると、スマホからニュースの通知音が鳴る。ユキノは画面をチェックし、思わず息を呑む。

「また行方不明者の速報……しかも、さっきの校内襲撃と同じ区画の付近……!」
「やっぱりそうきたか。連中、本格的に動き始めたのね。“事件の始まり”というには、もう既に事態が進行してる感じだわ。」

エリスは苦々しげに呟き、車を走らせる。ユキノは不安と緊張で胸が押し潰されそうになるが、運命から逃れられないと覚悟している。

(ここから先、もっと大変なことが起きるのかもしれない。でも……私たちは、諦めるわけにはいかない。)

遠ざかるビル街のネオンが曇り空に滲んでいる。事件の歯車は既に回り出し、再び連続消失事件や爆発事故に繋がるのか、それ以上の惨劇を生むのか――まだ誰も知らない。
ただ一つ言えるのは、ユキノやエリス、そして謎めいた蒔苗を巡る物語が、いよいよ大きくうねり始めたということ。

探偵事務所を後にする車のバックミラーに映るビルの群れが、ゆっくりと闇に沈んでいく。ユキノはハンドルを握るエリスの横顔を見つめながら、心の奥で誓う。
“きっと私も強くなる。もう逃げない。”
それが、事件の始まりの先にある、かすかな光を手繰り寄せるための第一歩だと信じて――。


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