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Symphony No. 9 :EP1-2

エピソード1-2:犬の子の侮辱

オート侯カンタールの葬儀が行われたのは、彼が亡くなった夜からわずか三日後の朝であった。あまりにも急な事態に、城内も領内も混乱を極めたが、侍従長や近衛隊長らは「主君を弔う儀式は何よりも優先せねばならない」と各方面に連絡を取り、簡素ながらも厳粛な場を設けた。

 曇天の下、城の中庭には幾つかの石柱が整然と並んでいる。その中央に設えられた台座の上に、白い布で覆われた棺が静かに置かれていた。そこには、オート侯カンタールの遺体が安置されている。生前は絶大な威厳を誇った老侯も、今は冷たい安息の中に眠り、領民や家臣たちの祈りを受けていた。

 棺の周囲には、主だった貴族や家臣が弔意を示すために参列している。顔に悲しみを浮かべる者もいれば、戸惑いや先行きへの不安を隠せない者もいる。更には、カンタールの死を嘆くふりをしながら、水面下では政治的な駆け引きを始めている者までいるのだ。
 黒い喪服を身にまとったヌヴィエム・ドラングフォードは、棺のすぐ脇で父の最期を見届けた娘としての責務を果たそうとしていた。まだ十四歳という若さでこの状況に立たされている彼女だが、その瞳には涙こそ浮かべていないものの、悲しみと覚悟が深く沈んでいる。
(父上の遺志を継ぐ……そう決めたけれど、何をどうすればいいの……)
 父カンタールが遺した言葉、「復讐に囚われるな」「この家と民を頼む」。その重みを、ヌヴィエムは噛みしめ続けていた。自分がなすべきことは、これから多くの争いを呼ぶであろうこの領地を守り、未来を切り開くこと。だが、そう簡単ではないのはわかっている。
 やがて、葬儀が進むにつれ、弔辞を述べる家臣や近しい貴族たちが次々に前へ進み出る。彼らは口々にカンタールの功績を称え、領民思いの名君だったと惜しむ言葉を重ねる。中には泣き崩れる者もおり、長年仕えてきた忠誠心が滲み出るようだった。
 ヌヴィエムは頭を下げながら、その言葉に耳を傾けつつ、時折胸が熱くなるのを感じる。父カンタールは本当に愛されていたのだ。彼女が見たことのない父の側面を、人々の言葉の端々から知ることができ、同時に自分の未熟さに痛感させられる。
(もっと早く……父上の苦悩や、領地の情勢を知っていれば、何かできたかもしれないのに……)
 だが、今さら悔やんでも父は戻らない。自分にできるのは、父が守ろうとしたものを受け継ぎ、継承することだけだ。ヌヴィエムは喪服の裾を握り締めながら、大きく息を吸い込んだ。

 そのとき、弔問客の列がざわつき始めた。まるで冷たい風が吹き抜けたかのように、場の空気が一変する。ヌヴィエムが振り返ると、そこにはヤーデ伯領の紋章を胸につけた数名の使者が立っていた。その中心にいる壮年の男は、上質な衣服を纏いながらもどこか高慢な印象を与える。
 ヤーデ伯チャールズ――オート侯カンタールのかつての知己であり、今は対立していた伯爵。先日の夜襲にも深く関与していると噂されているが、表向きは「関与は一切していない」と言い張っているらしい。
 使者たちに先導されるようにして、チャールズ本人が喪服らしき黒いマントを羽織り、棺の前まで進んでくる。
「まったく、悲しいことになったものだな」
 チャールズは鼻で笑うように呟き、棺を見下ろす。
「オート侯カンタール殿には色々と世話になったが……残念だ。こんな形でお別れすることになるとはねぇ。いやはや……」
 その声音はどこか芝居がかったもので、故人を悼む真摯さが微塵も感じられない。空々しくため息をつく彼の姿勢に、周囲の家臣たちも眉をひそめ、明らかな嫌悪を示している。しかし、チャールズが一方的に関与を否定している以上、表立って糾弾することも容易ではない。
 ヌヴィエムはそんなチャールズの様子に腹立たしさを感じる。しかし、葬儀の場であることを思い出し、必死に感情を抑え込んだ。
「ヤーデ伯チャールズ様、葬儀へのご参列に感謝いたします。残念ながら父は、闇の術による重篤な呪いで……」
 そう口にした瞬間、チャールズの唇がわずかに吊り上がった。
「闇の術? それは物騒な話だな。だが、オート侯カンタールは戦場で大きく傷を負ったのだろう? わざわざ呪いを使わずとも、老侯はいつか寿命を迎えたはずだがねぇ」
 それは死者を侮辱するも同然の発言だった。周囲の人々の視線が一気に鋭くなる。中には剣の柄に手をかける兵士も現れ、対立の火種があからさまに見え始める。
 ヌヴィエムもまた、怒りの感情がこみ上げてきたが、葬儀の場で乱闘を起こしては父の名誉にも関わる。歯を食いしばり、声を震わせながらなんとか返した。
「……父は最期まで、自分の身を投げ打ってオート侯家と民を守ろうとしました。寿命などではなく、明らかに外部からの襲撃と闇の術による……っ!」
 言い終わる前に、チャールズが軽く手を上げて制止する。彼の視線はまるでゴミを見るかのように冷ややかだ。
「おやおや、そう熱くなられなくても。まぁ……子どもが父の死に取り乱すのは当然か。まして、お前は“犬の子”なのだから、粗暴に吠えるのも無理はないかもしれないな」

 その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「犬の子」――それはヌヴィエムにとって、最も忌まわしい蔑称。幼少期から幾度となく耳にしてきたが、父カンタールがその度に庇い、尊厳を守ってくれた。今、この場でその言葉をあからさまに放つチャールズの意図は明白だ。ヌヴィエムを侮辱し、オート侯家の権威を貶めようとする挑発である。
 ヌヴィエムの顔から血の気が引き、胸の奥で炎のような怒りが燃え上がる。葬儀という厳粛な場をわきまえない相手の態度に、周囲の者たちも息を呑んでいた。
「なぜ……そんな……」
 ヌヴィエムはかすれた声で呟く。怒りのあまり言葉が出ない。それを見て、チャールズは嘲笑を浮かべる。
「お前はカンタールの娘であるとされてきたが、本当にそうかは定かじゃない。母がどこの馬の骨かもわからぬ妾であったなら、犬の子と言われても仕方がなかろう?」
「言葉を慎め!」
 侍従長が一喝するが、チャールズはまるで取り合おうとしない。むしろ、不敵に目を細め、さらに言葉を重ねる。
「それとも、お前は誇りを持って“オート侯家の娘だ”と主張するか? いいだろう。ならば今すぐにでもこの領地をまとめ上げ、ヤーデ伯領と互角に交渉できるだけの力を示してみせるがいい。犬の子が吠えたところで、誰もついては来ないだろうがな」
 言いたい放題のチャールズに、葬儀の列からはさすがに非難の声が上がる。しかし、彼はまるでそれを享受するかのように肩をすくめる。
「おっと、これ以上ここで長居すると、せっかくの葬儀が台無しになりそうだ。愛すべきカンタール殿に申し訳ない。私はこれで失礼しよう。……まぁ、“犬の子”を当主に据えるのは勝手だが、そうなればこの先、オート侯家がどうなるか想像するだけで笑いが止まらないね」
 そう言い残すと、チャールズは取り巻きたちを率いて踵を返す。彼らが中庭から出て行くまでのわずかな時間、ヌヴィエムは硬直したまま一言も発せず、ただ悔しそうにチャールズの背中を睨み続けていた。


 葬儀が終わると、カンタールの遺体は地下納骨堂に安置されることになった。本来ならばもっと盛大に弔いを行うべきなのだろうが、先日の襲撃で負傷した者たちの看護や城の復旧などが急務であり、最低限の儀式のみにとどめざるを得なかった。
 チャールズの一団が立ち去って以降、参列者の間に不穏な空気が漂い始める。ヌヴィエムへの同情と、未来への不安。なかには「本当にヌヴィエムが当主を継ぐのか」と疑問を口にする者も現れる。
「異母兄弟がおられるのでしょう? やはり長兄が家督を……」
「でも、彼らにはそれぞれ問題があると聞く。ヌヴィエム様のほうがまともでは……」
「いや、それにしても“犬の子”などと……どうしてあそこまで露骨に侮辱を……」
 人々はひそひそと囁き合いながら葬儀の場を後にする。その表情には明らかな動揺が見てとれる。侍従長や近衛隊長はヌヴィエムを庇いつつも、何も進展させられないまま時間だけが過ぎていく。

 一方、ヌヴィエムは喪服を着替える間もなく、自室に戻っていた。ドレスの黒いレースが破けかけているのも気に留めず、椅子に座ったままうつむいている。
(犬の子……また、言われた……)
 その言葉は、ただの蔑称ではない。ヌヴィエムがこの家で生きていく上で常に突きつけられる、血筋の問題を象徴する呼び名だ。実際、ヌヴィエムの母親については詳しい記録が残っていない。父カンタールの愛人だったのは確かだが、高貴な血筋ではないという噂が広まっている。
 父が生きていた頃は、人々の前であからさまに口にする者は少なかった。しかし、カンタール亡き今、その侮辱が表面化し始めたのだ。
 ノックの音がし、エレノアが部屋に顔を出す。彼女は旅の魔術師として城に留まり、負傷者の手当や結界の補修などを手伝っている。
「ヌヴィエム、少し入ってもいい?」
「……いいわ」
 ヌヴィエムは力のない声で答える。エレノアは遠慮がちに室内へ入り、扉をそっと閉めた。その表情には憂いが漂い、どう言葉をかければいいのか悩んでいるようだ。
「……葬儀、お疲れさま。あなたが立派に振る舞っていたのを見て、きっとカンタールも喜んでいると思う」
「ありがとう。でも、立派に振る舞えていたかはわからない。チャールズは“犬の子”とあたしを侮辱した。あたしは何も言い返せなくて、ただ……」
 ヌヴィエムは涙をこぼさないまでも、瞳に悔しさを宿している。エレノアは静かに頷き、声を落とす。
「私から見ても、あの男の態度は目に余るものがあったわ。故人を冒涜するどころか、あなたをあざ笑うなんて……。でも、大丈夫。あなたには音術があるし、周囲にも味方はいるわ」
「味方……そう、だといいんだけど……」
 ヌヴィエムはかすかに唇を噛む。父を失った今、家臣たちが自分をどこまで支えてくれるのか。それすら確信が持てない。
「エレノア、もしあたしが本気で当主になると言ったら、みんな受け入れてくれると思う?」
「難しい質問ね。でも、あなたがやりたいなら、私は応援するわ。オート侯家の人々はみんなカンタールを慕っていた。その娘であるあなたを拒絶しようにも、よほどの正当な理由がなければうまくはいかないはず。周りを納得させる力を、あなたはまだ持っているわよ」
「……そうかな。ありがとう……」
 ヌヴィエムは微かに微笑むが、その笑顔にはどこか陰りがある。力強い言葉をかけられても、自分の境遇を考えるほどに不安が募るのだ。


 葬儀の翌日、城の主要な執務室で一つの会合が開かれた。参加者は侍従長、近衛隊長、一部の有力家臣、そしてヌヴィエムの異母兄弟数名が顔を揃えている。
 異母兄弟たちはそれぞれ血筋や母の出自が異なり、性格も様々だ。長兄ガロード、次兄ベルトラン、末弟ユリウスなど、数人が揃う。最も年長のガロードは三十を超えており、強面の容姿と傲慢な態度が特徴だ。彼は「自分こそがオート侯家を継ぐにふさわしい」と公言してはばからない。
 一方、ベルトランは口数が少なく、どこか影のある印象。末弟のユリウスは十三歳で、ヌヴィエムとは血縁関係の上では近いが、術の才能がないことに劣等感を抱いている。
 この日、ヌヴィエムは当主としての地位を正式に継承したいという意向を表明するために、この会合に呼ばれた。しかし、最初から反対意見が噴出していた。
「ヌヴィエムなど当主の器ではない。あの子はまだ十四歳の小娘だ」
「それに、あの子の母親の素性も怪しい。“犬の子”などという噂まであるじゃないか」
「当主を継ぐならガロード様がふさわしい。年長であり、戦の経験もある」
 部屋のあちこちから飛び交う声に、ヌヴィエムは立ったまま拳を握りしめて耐えていた。隣に立つ侍従長が「少し静粛に!」と声を張り上げるが、一向に会話が収まらない。
「ガロード兄上、あなたはどうお考えなのですか?」
 ヌヴィエムは意を決して、長兄ガロードに問いかける。彼は椅子にふんぞり返ったまま、嘲るような目で妹を見ていた。
「フン、言わなくてもわかるだろう。お前が当主になるなど、お笑い草だ。“犬の子”だろうが何だろうが、オート侯家を引っ張るなんて百年早い。俺が当主になれば、ヤーデ伯チャールズともやり合えるだけの軍備を整えられるし、この領地を強固に守れるぞ」
「……その“軍備を整える”ために、民へ過酷な徴税をして彼らを苦しめるようなことは考えていませんか?」
 ヌヴィエムの問いかけに、ガロードは眉をひそめ、にやりと笑う。
「おいおい、“犬の子”が生意気に口を挟むなよ。徴税なんてのはどこの国でも当たり前にやっている。甘やかしたところで、この先ヤーデ伯との戦が激化すれば、誰が資金を捻出するんだ? まさか、お前の音術で金が湧いて出るとでも?」
「そんなことは……!」
 ヌヴィエムは言いかけて口を閉ざす。音術はあくまで感情や精神面に作用する力だ。実質的な資金繰りや軍備の整備とは別問題である。ただ、だからといって民を不当に苦しめる徴税策を行うのは本末転倒だと彼女は考えていた。
 部屋の隅ではベルトランが薄く笑みを浮かべながらガロードとヌヴィエムのやり取りを眺めている。ベルトランは政治に興味を示すことが少なく、大きく口出しはしないが、何を考えているのか測りづらい人物だ。
 一方、末弟ユリウスは所在なげに立っている。彼はまだ幼く、しかも術の才能がないため、当主候補としてまったく考慮されていない。むしろ、親しいのはヌヴィエムだけということもあり、彼は心配そうに姉の様子を見つめる。

 やがて、侍従長が場の混乱を収めようと声を上げる。
「諸侯の皆様、ここは亡きカンタール様が示された意思を尊重するべきです。カンタール様は生前、ヌヴィエム様に家を頼むと仰っておりました。これに異を唱えたい方は、その理由をきちんと述べていただきたい」
 するとガロードが椅子を乱暴に立ち上がり、口を開く。
「理由なら先ほど述べた。ヌヴィエムは若く、母が不明瞭な“犬の子”で、軍備を増強する気概もない。こんな奴を当主にいただくのはごめんだね」
「それは殿下の遺志に反するではないですか……!」
「遺志、遺志とうるさい。死んだ人間の言葉など、時代が変われば糸のように切れていく。オート侯家を存続させるには、強硬策しかないんだよ」
 ガロードは苛立ったように机を拳で叩き、ヌヴィエムをきっと睨む。
「いいか? 俺は今すぐにでも当主として名乗りを上げるつもりだ。そしてチャールズが再び攻めてきても返り討ちにできるよう、大々的に兵を集め、城を要塞化する。連合を組むなどと言っても、どこも信用ならないだろうからな。結局は力こそがすべてだ」
「そんな……!」
 ヌヴィエムは唇を震わせる。力による支配は、まさにチャールズのやり方と変わらない。領民を苦しめ、さらなる戦火を呼ぶことが明白だ。それでは父が守ろうとしたものを踏みにじる行為にほかならない。
「父上は、そんなやり方を望んではいません! 城を要塞化して、それで本当に人は幸せになれるの? 血を流して、互いに憎しみ合うばかりじゃないですか!」
「黙れ、“犬の子”が!」
 ガロードは振り向きざま、ヌヴィエムに鋭い眼差しを向ける。怒号が部屋を震わせ、近衛隊長や侍従長が顔をしかめる。
「犬の子にはわからんかもしれないが、甘いことを言っていられる余裕はこの領地にはないんだ。現実を見ろ。父が死んだ今、弱みを見せればチャールズに漬け込まれるだけだ」
「……でも、民の暮らしを犠牲にしてまでするやり方を、あたしは受け入れられない。どうか、そういう手段以外で……」
 ヌヴィエムの言葉に、ガロードは嘲笑するように眉を上げる。
「はっ、話にならん。お前に政治の経験があるのか? 戦の知識はあるのか? 音術とやらで皆が平和になると本気で思っているなら、お笑い草だぞ」
 その言葉は痛烈だった。しかし、ヌヴィエムは動じまいと必死に耐える。確かに、具体的な政治や軍事のノウハウは持ち合わせていない。だからこそ、家臣や有能な人材を結集しなければならないと考えていた。
(父上……どうすればいいの……)
 ヌヴィエムの心の中で、亡き父の姿が脳裏にちらつく。カンタールならば、こんなときどう言葉を紡いだだろう。

 まさにそのとき、廊下の方から激しい足音と叫び声が聞こえてきた。
「誰か、助けてくれ! 賊だ、城内に賊が侵入した!」
 一同が驚き、執務室を飛び出すと、そこには見慣れぬ男たちが数名、刃物を手にして兵士を襲っている光景が広がっていた。城の通路に血飛沫が飛び散り、倒れ込む兵士たちがうめき声をあげている。
「何事だ……また敵が入り込んだのか!」
 ガロードが咄嗟に剣を抜き、飛び掛かろうとする。異母兄弟たちもそれぞれ武器を取ろうとするが、ベルトランはわずかに後ずさり、動こうとしない。ユリウスは恐怖に足がすくんでいるようだ。
 ヌヴィエムも一瞬身がすくむが、すぐに意を決して駆け出す。父の死後、城の防備は脆くなっているのは明白。それを見透かしての再襲撃かもしれない、と思い至る。
 賊は五、六人ほどの集団で、先日の夜襲とは規模が違うものの、妙に統制が取れているように見えた。先頭の男は槍を振るい、続く男は短剣を投げ、援護するように第三の男が風の術を使って味方の動きを加速させている。兵士たちは慣れない相手に苦戦を強いられ、次々に倒されていく。
「くそっ、こいつら術士までいるのか!」
 ガロードは舌打ちしながら、大振りの剣を槍使いに向けて振り下ろす。しかし、相手は風の術の加護を受けて素早く回避し、逆にカウンターで斬りかからんとする。金属がぶつかり合う鋭い音が廊下にこだまするたびに、床に火花が散った。
 城のあちこちで悲鳴や怒号が響き渡る。見れば、別の賊が脇道を回って後方から進入しており、侍従や使用人たちが逃げ惑う姿が見える。
「守りが完全に突破されている……!」
 侍従長が絶句する。直後、近衛隊長が部下を指揮しようと駆け寄ってきたが、賊の投げナイフが喉元を掠めて血を噴きながら倒れ込む。
「うわぁっ……!」
 深刻なダメージではないようだが、痛みに顔を歪めてしばらく動けない。その隙に賊がさらに前進してくる。
 ヌヴィエムは思わず後退しそうになるが、ここで怯んでは何も変わらない。父の死を無駄にしてはならない、と自分に言い聞かせて心を奮い立たせる。
(そうだ、あたしには音術がある。でも、どう使えばいい? 闇雲に歌っても効果は薄い……)
 心臓がバクバクと鳴り、喉が渇く。とにかく、前回のように音波を発生させて敵の動きを鈍らせるくらいはできるかもしれない。
「……やるしかない!」
 ヌヴィエムは深呼吸をし、震える唇を開く。かすかなメロディが口元から漏れ始めると、それはまるで波紋のように空気を伝わり、廊下全体を揺るがす小さな振動に変わっていく。
 ガロードや兵士たちが交戦している賊の耳に、その音波が届くと、一部は一瞬立ち止まったり、動きが乱れたりする。
「ぐっ……なんだ、この耳障りな声は……!」
 槍を構えた男が、不快感に顔をしかめる。彼らが術を使っているぶん、精神面への干渉には耐性を持っているかもしれない。だが、一瞬でも動きを鈍らせれば、こちらの兵士たちに反撃の隙を与えることができる。
「今だ、斬れ!」
 ガロードが機を逃さず、勢いよく剣を振り下ろす。風術で加速された槍使いの動きを完全には封じられないが、腕を斬りつけることには成功した。槍使いは悲鳴を上げて後退する。
「くそっ、こいつら……! 術士がいるなら先に潰せ!」
 賊の一人が仲間に呼びかけ、ヌヴィエムのほうへ殺到する。ガロードは妹を守るでもなく、再び槍使いへの止めを刺そうとしている。
(……やっぱり、あたしは自分でなんとかしなきゃダメだ!)
 ヌヴィエムは「犬の子」と呼ばれた屈辱や父の死の悲しみを抱えながらも、そのすべてを力に変えるように声を張り上げる。音の波紋がさらに強く大きくなり、賊たちの耳を攻撃する。
 金属音のような不快な残響が耳膜を震わせ、平衡感覚を狂わせる。賊の一人は足をもつれさせて転倒し、その隙に近衛兵が飛びかかって剣を突き立てた。血が廊下に飛び散り、断末魔が響き渡る。
 しかし、別の賊が短剣を投げ、ヌヴィエムの足元に迫る。咄嗟に後ろへ飛び退いたものの、ドレスの裾が裂かれ、かすかに皮膚も傷を負った。鮮血が滲む痛みに顔をしかめるが、倒れるわけにはいかない。
「姉上、危ない!」
 そう叫んで駆け寄ったのは末弟のユリウスだった。彼は剣を手にしながらも、どこか危なっかしい構えでヌヴィエムの前に立つ。
「ユリウス、あなたは……!」
「だ、大丈夫。僕だって守りたいんだ……姉上を……オート侯家を……!」
 ユリウスの声は震えているが、その瞳には必死の覚悟が宿っている。術の才能はない彼だが、ネーベルスタンから少しだけ教わっている剣術の片鱗を発揮するように、かろうじて賊の斬撃を受け流した。
「くっ……意外とできるじゃないか」
 賊の男が舌打ちし、再び短剣を繰り出してくる。ユリウスはまだ体が小さいぶん、素早い動きでそれを外へ弾き出す。完全ではないが、命中は免れた。
「はぁっ……!」
 意を決したユリウスが剣を横薙ぎに振ると、賊はそれを杖で受け止める。実はこの賊も簡単な術を扱えるらしく、杖に刻印された紋章がわずかに光を放っている。その光が刃の威力を相殺し、さらに反撃しようとする。
 ヌヴィエムはユリウスが奮戦している姿を見て、もう一度音術を高めようと決意する。動揺を狙うなら、歌をより強く、意志を込めて放たねばならない。
 深く呼吸をし、意識を集中してメロディラインを組み立てる。感情に任せた即興の旋律ではなく、自分なりに鍛錬してきた音術の基本形を思い出すのだ。鼓動をリズムに変え、声に乗せて震動を周囲へ送り込む。
「……っ!!」
 賊の耳には激しく不協和音が響き、頭を抱えるようにしてよろめく。隙を見たユリウスが思い切って剣を振りかざし、男の腹部を斬りつけた。血の臭いが廊下に広がり、男はのたうち回りながら倒れていく。
「ひ……っ……」
 息を切らすユリウスもまた、初めての実戦で人を傷つけた衝撃に茫然としていた。
「ユリウス、大丈夫……?」
「う、うん……」
 彼は辛うじて頷くが、その表情には恐怖と罪悪感がないまぜになっているように見える。ヌヴィエムは痛む足を引きずりながら弟のそばに寄り、そっと肩を支えた。
「ありがとう、助かったよ。あなたがいなければ、あたしは……」
 そう言いかけると、残っていた賊の二人が「撤退しろ!」と叫び合いながら後方へ走り去っていく。短期決戦で混乱を与えるのが目的だったのかもしれないが、狙い通りにはいかなかったようだ。

 こうして再び城内を襲った小規模な賊の襲撃は、数人の死者と負傷者を出しつつも、なんとか鎮圧された。しかし、その背後に誰の指示があるのかは依然不明だ。
 廊下には呻き声がこだまする。負傷者たちを手当てする衛生兵や魔術師が駆け回っており、床は血だまりと瓦礫だらけだ。警戒体制の甘さを突かれた事実に、家臣たちもショックを隠せない。
 ガロードは肩に深い切り傷を負ったものの、強がりを言いながらも部下たちに応急手当を受けている。彼が悔しげに吐き捨てるように言った。
「クソッ……城内がこんなに荒らされるなんて、ふざけた話だ。やはり軍備を増強するしかない。ヌヴィエム、お前が当主を名乗るなら、今すぐ大規模な徴兵と徴税を行え。できなければ、俺がやる」
「……民の負担を増やすだけでは、憎しみを生むわ……」
「じゃあどうやって守る? このままではチャールズにも食われるぞ。“犬の子”に答えがあるなら言ってみろ!」
 ガロードは傷の痛みに耐えながら吠えるように言い放つ。ヌヴィエムは言葉に詰まるが、それでも拳を震わせながら反論した。
「まだ具体的にはわからない。でも、無理矢理に力で押さえつけても、必ず反動がくる。父はそんなやり方をしなかった。だから、もっと別の方法で……」
「うるさい、“犬の子”が! お前の甘い理想論なんて役に立つものか。……フン、俺は部下をまとめて出直す。こんな茶番に付き合っている暇はない」
 そう吐き捨てると、ガロードは侍従長や家臣の制止を振り切り、城の奥へと足早に去っていく。


 散らかった廊下には、すでにエレノアやほかの治癒術師たちが現れ、必死に負傷者の処置にあたっていた。ユリウスも手や胴に軽い傷を負っていたが、今はショックが大きいのか落ち着かない様子。ヌヴィエムは弟の頭をそっと撫でて、「ありがとう」と労いの言葉をかけた。
 すると、ベルトランが無表情のまま近づいてくる。彼は袖に少し血が付いているが、戦いには加わらなかったらしい。
「ヌヴィエム、随分と派手にやったようだな。お前が音術で賊の動きを封じて、ユリウスが仕留めた……そう聞いたが?」
「ええ、そうよ。それが何か……」
 ヌヴィエムが刺すような視線を返すと、ベルトランは唇の端を釣り上げる。
「まったく、こんな妹がいたとは知らなかったよ。あの父上が可愛がっていたわけだ。“犬の子”もやるもんだな」
「……!」
 またしても“犬の子”という言葉を聞かされ、ヌヴィエムは怒りよりも悲しみが湧き上がる。それでも声を荒げるのは避け、静かに問い返した。
「兄上は、あたしをそう呼ぶのですね。何が目的……?」
「目的? 別に深い意味はないさ。ただそう呼ばれているのを知っているだけ。……ところで、どうするつもりだ? このまま当主を名乗っても、ガロード兄上のように強行策を取らなければならない時が来るかもしれない」
「それでも、強行策は避けたい。父上は、誰もが納得できる形を模索していた。あたしはその意思を継ぎたいの」
 ヌヴィエムの言葉に、ベルトランは鼻で笑うようにして背を向ける。
「まあ、せいぜい頑張るんだな。“犬の子”よ。俺はお前がどうなろうと知ったことじゃないが……ひょっとしたら、その理想が実現するのを見てみたい気もするよ。退屈しのぎにはなるだろう」
 軽薄な物言いを残し、ベルトランは廊下の向こうへ消えていく。なんとも掴みどころのない態度に、ヌヴィエムはただ唇を噛むことしかできなかった。


 その日の夕刻、ヌヴィエムは自室でひとり、深い考え事に沈んでいた。先ほどの会合でも、今回の襲撃でも、何一つ思い通りに事が進まない。周囲は彼女に懐疑的な視線を投げかけ、ガロードのように露骨に敵対する者もいる。
(“犬の子”……また、あたしはそう呼ばれるのね。父上がいなくなった今、誰も守ってくれない……)
 しかし、ここで諦めたら父カンタールの思いはどうなる。彼は最期に「復讐に囚われるな」と諭してくれたが、このままではチャールズやガロードの暴力的な策に押し潰されてしまうかもしれない。あまりに理不尽だ。それでも、短絡的な復讐心に駆られるのは父の遺志に反する。
 悶々とした気持ちを抱えたまま、ヌヴィエムは小さく声を出して歌の練習を始めた。疲れた心を落ち着けるため、音術をコントロールするための基礎練習でもある。
 「ラ……ラ……」と澄んだ声が部屋に響き、少しずつ旋律が形を帯びてゆく。ヌヴィエムの歌声はまだ未熟かもしれないが、確かな力を持っていると感じる瞬間がある。
 やがて、部屋の外から控えめなノック音がし、エレノアが入ってきた。
「……あら、いい歌ね。気分転換かしら?」
「少しだけ。考え事が多くて、頭がどうにかなりそうだったから……」
 ヌヴィエムは疲れた笑みを浮かべる。エレノアは彼女に近づき、そっと肩に手を置いた。
「あなたが当主として立つなら、政治や軍事の知識が必要になるわ。力でねじ伏せるだけの方法を取りたくないなら、なおさら準備が大切。でも、今のあなたには協力者がまだ足りない。侍従長や近衛隊長は助けてくれると思うけど、彼らだけでは限界があるわ」
「わかってる……。でも、どこから手をつければ……」
 ヌヴィエムは眉を寄せる。領地を守る兵や財政の再建、そしてヤーデ伯チャールズへの対抗手段。やらねばならないことは山のようにある。
「そうね……私は魔術師として、あなたの音術をもっと効率的に使う方法を提案できるかもしれない。それに、政治的な交渉というのは、案外“人の心”が大きく動かすものよ。あなたの歌や音術で人々の心を動かせれば、戦わずに勝つ道が見えるかも」
「戦わずに勝つ……そんなこと、本当にできるの?」
「難しいけど、不可能じゃないわ。私が旅をしてきた国々でも、強大な術士や巨大な軍勢を破るために、民衆の心を結集させて大義を通した例を幾度か見たことがある。あなたはその素質を持っていると思うの」
 エレノアの言葉はヌヴィエムにとって、暗闇の中に差し込む一筋の光のようだった。自分の音術が人々を繋ぎ、争いを減らす手段になるというなら、まさに自分が目指す道ではないか。
「でも、そのためには……もっとあたし自身が鍛えられなきゃダメね。声も技術も、意志も。あたしは父上のように強くなりたい。父上が残してくれたものを、絶やさずに活かすために……」
 そう呟くヌヴィエムの眼差しは、ほんの少しだけ輝きを取り戻しているように見える。エレノアはうなずいて微笑んだ。
「まずはあなたがやりたいこと、目指したいゴールをはっきりさせましょう。そうしたら、一つ一つ道が見えてくるかもしれないわ。幸い、私も多少は政治や交渉事に首を突っ込んできたから、アドバイスできる部分はあると思う」
「エレノア……ありがとう。あなたがいてくれて、本当に助かる」
「うふふ、私もこんなに面白いことに関われるのは初めてよ。ヌヴィエム、あなたはきっと“犬の子”なんかじゃなくて、“新しい風”になるかもしれないもの」
 エレノアは茶化すような言い方をしたが、その瞳には確かな期待が込められていた。ヌヴィエムは照れくさそうに目を伏せつつも、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じる。


 そして深夜。城の一室では、ガロードが腕に巻かれた包帯を雑に外し、酒をあおっていた。肩の傷からはまだ血が滲むが、彼は痛みなどものともせず、苛立ちをさらけ出すように杯をテーブルに叩きつける。
「くそ、“犬の子”が幅を利かせやがって……」
 そこには、ガロードに近しい家臣や傭兵崩れの男数名が集まっている。彼らはオート侯家の強硬派であり、ガロードを擁立すれば自分たちの地位が上がると期待している連中だ。
「ガロード様、いっそヌヴィエム様を排除してしまっては? 今のうちなら、事故に見せかける手も……」
「……馬鹿言うな。あの娘は術を使うし、侍従長や近衛隊が守っている。騒ぎを起こせば、俺に疑いがかかるのは目に見えてる。チャールズと共謀していると思われても面倒だろうが」
 ガロードは怒りを抑え込むように言葉を吐き捨てる。
「だが、一ついいことを思いついたぞ。先日の賊、あれは一体何者だったのかまだはっきりしないが、もし“犬の子”が対応を誤ってさらに被害が出たらどうなる? 民心は一気にあいつから離れ、俺に有利になるってわけだ」
 傭兵崩れの男たちが下卑た笑いを漏らす。
「なるほど。つまり、ガロード様は待っているわけですね。ヌヴィエム様が自滅して、周囲の支持を失うのを」
「そういうことだ。いずれにせよ、俺が力を示せば領民も家臣もこっちについてくる。時間の問題さ。あんなガキ一人が必死に頑張ったところで、犬の子は所詮犬の子。吠えても無駄さ」
 ガロードの笑い声が夜の静寂の中に低く響き、部屋にいる者たちもそれに同調する。まるでヌヴィエムが行き詰まって破滅するのを待ち望むかのようだ。
 一方で、城の別の場所では、ベルトランが陰鬱な表情で窓辺に佇んでいた。闇夜の空には半月が薄く光を放ち、その光がベルトランの横顔を照らしている。
「犬の子、ねぇ……」
 窓の外を見下ろせば、先日の夜襲や今日の賊の襲撃で傷ついた城壁や、怯えるように灯火を落とした町並みがわずかに見える。ベルトランは興味を失ったようにそっぽを向き、独り言のように呟く。
「父上の死がきっかけで、この家はどう動くのかな。ヌヴィエムが当主になるか、ガロードが力で押し切るか……。どちらでもいいが、少し様子を見てみようじゃないか。退屈を紛らわせてくれるなら、それも悪くない」
 その瞳には冷笑の色が漂うばかりで、家や民への愛情は感じられない。彼はただ、騒動を傍観しながら自分にとって一番都合のいいタイミングを狙っているのだろう。


 夜明け前、ヌヴィエムは短い仮眠から目を覚ました。窓の外は深い藍色からうっすらとオレンジ色へ変わりつつあり、新しい一日が始まろうとしている。寝台から起き上がると、脚の軽い痛みがまだ残っているのに気づく。昨日の賊との戦闘で負った傷だ。
「痛っ……」
 うめき声が漏れるが、なんとか体を起こし、身支度を整える。喪服から着替えたのは、動きやすいチュニックとスカート。まだ公の場で正式な装いをする必要はないが、これからしばらくは慌ただしい日々が続くだろう。
 部屋を出ると、廊下はまだ静かだ。負傷者たちを看護するため、医療班や魔術師が徹夜で動いていたため、ようやく今になって休息を取っているようだ。
 ヌヴィエムは廊下を渡り、父カンタールの執務室へ向かう。あの机にはまだ父の書きかけの書簡や書類が残されているはずだ。政治の知識に疎いと言われる自分だが、まずは手がかりを探さなくては。
 扉を開けると、室内の空気はどこか淀んでいるように感じた。大きな机の上には、開きかけの巻物や、カンタールのメモらしき紙が散らばっている。ヌヴィエムは一つ一つ丁寧に手に取り、書かれた内容を読み解こうとする。
 そこには「ヤーデ伯領との領土交渉」「連合軍結成の可能性」「術への依存を減らす技術開発の重要性」といったメモが残されていた。カンタールは術だけに頼らず、鋼鉄兵や職人の技術力を高める方策も検討していたようだ。
(父上……こんなにも先のことを考えていたのに、間に合わなかったのね)
 ヌヴィエムは苦しい気持ちを押さえながら、書類をめくり続ける。その中でふと、彼女の目に飛び込んできた一文があった。

「ヌヴィエムの音術は、この領土に新たな可能性をもたらす。彼女には未知の力がある。大衆を動かす歌声、感情を繋ぐ音の波。争いを防ぐための戦わずして勝つ道に……」

 父カンタールの筆跡でそう記されている。まるで、ヌヴィエムが抱いている希望そのものを認めてくれているような言葉だ。
(父上は、あたしの音術を“新しい可能性”だと捉えていたんだ……)
 胸が熱くなり、思わず目頭が熱くなる。父が最後まで自分を信じていたと思うと、その想いに報いるためには、簡単に挫けるわけにはいかない。
(犬の子……それがどうしたって言うの。あたしはオート侯カンタールの娘。たとえ周りが何と蔑もうと、父上が認めてくれたんだから)
 ヌヴィエムは書簡をそっと抱きしめるようにして立ち上がった。目に映る机や椅子、壁にかかったタペストリーなど、すべてが父の痕跡を感じさせる。
「父上……。あたしは頑張るから。何があっても、屈しない……」
 誰もいない執務室で、小さく誓いを立てる。ほんの数日前に父を失った悲しみは大きいが、それ以上に守るべきものが今のヌヴィエムにはある。それが“犬の子”と呼ばれようが、彼女の心を折ることはできない。

 やがて窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえてきた。夜明けを告げる光が差し込み、執務室の片隅にあった父の椅子の背を照らし出す。その光景は、まるでカンタールがヌヴィエムの決意を見守っているかのようだった。

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