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エブモス観測→:翡翠の調停者-11

アイリーンは、広大な大陸の中を一人で進んでいた。退位後の生活は、彼女にとって驚くほど自由で、解放的だった。けれど、その自由には責任が伴っていることを、彼女自身が一番よく理解していた。

「絶対自由親善大使」という異例の肩書を得てから数年、アイリーンは自らが導入した政策や改革が実際に機能しているかを見極めるため、世界各地を巡る旅を続けていた。その旅は単なる視察に留まらず、時には新たな課題を発見し、それに取り組む活動そのものだった。


初夏の暖かな日差しが湖面を輝かせる中、アイリーンはネレイドたちが暮らす居住区を訪れた。彼らは水の精霊のような存在であり、湖を拠点にした生活を営んでいた。アイリーンが到着すると、若いネレイドの少女が勢いよく駆け寄ってきた。

「アイリーン様!またいらしてくれたんですね!」

少女の名前はエレナ。アイリーンが皇帝だった頃から面識のある若きネレイドだった。

「こんにちは、エレナ。皆の様子を見に来たのよ。水源の管理はうまくいっている?」

エレナは誇らしげに胸を張った。

「もちろんです!新しい水路の設計も、村の人たちが協力してくれて……でも、一つ困ったことがあって……」

アイリーンは膝を折り、エレナと目線を合わせた。

「困ったこと?教えてちょうだい。何が起きているの?」

エレナは少し緊張しながら説明を始めた。最近、湖の周辺で水質を悪化させるような行為をする人間の商人たちが増え、ネレイドたちの生活が脅かされているというのだ。

「そう……それは放っておけないわね。商人たちと話をしてみるわ。」

アイリーンは立ち上がり、その目に鋭い光を宿した。


湖畔の集落では、幾人かの商人が大きな木箱を運び込んでいた。その内容物は染料であり、どうやら湖の水を利用して加工しているらしかった。

「こんにちは、商人の皆さん。」

アイリーンが声をかけると、一人の男が振り返った。粗野な態度をとる彼の視線が、アイリーンの特徴的な翡翠色の髪に留まった。

「なんだ、あんた。ここで何の用だ?」

アイリーンは落ち着いた声で答えた。

「私はこの地域の問題を見て回っている者よ。あなたたちが湖を汚していると聞いたのだけれど、その話を確かめに来たの。」

男は少し身を引いたが、すぐにふてぶてしい笑みを浮かべた。

「湖を使うのに何が悪い?俺たちは生計を立ててるだけだ。」

アイリーンは彼をじっと見つめ、その目には力強い意志が宿っていた。

「生計を立てることは否定しない。でも、その行為で他の命が脅かされているなら、考えを改めるべきだわ。」

男はしばらく言葉を失っていたが、最終的にアイリーンの説得に折れた。湖を守るための新たなルールが制定され、商人たちはそのルールを守ることを誓った。


湖からさらに遠く、アイリーンは灼熱の荒野に足を運んだ。そこは、サラマンダーたちが住む火の領域だった。彼らは火の力を自在に操る種族であり、その力を使って荒れた土地を再生させる計画が進んでいた。

「アイリーン様、よくぞお越しくださいました!」

サラマンダーのリーダー、ガルフが彼女を迎えた。彼は大柄な体格に似合わず繊細な性格で、再生計画に熱心に取り組んでいた。

「ガルフ、緑化計画の進捗を教えてちょうだい。」

ガルフは彼女を案内しながら説明を始めた。彼らは火の力で地面を活性化させ、新しい植物を育てる試みを行っていた。しかし、予想以上に困難が多いらしい。

「土壌が予想以上に貧弱で……植物が根付くのに時間がかかっています。」

アイリーンは熱風に晒されながらも、真剣に彼の話を聞いた。

「なら、帝国の技術者に協力を依頼しましょう。必要な資材も手配します。」

彼女の即断にガルフは感動し、深く頭を下げた。

「ありがとうございます、アイリーン様!これで計画を進められます。」


旅の終わりに近づいたある日、アイリーンは荒れ果てた辺境の村にたどり着いた。そこは七英雄の残した爪痕が未だに深く刻まれている場所で、人々は貧しい生活を余儀なくされていた。

「誰か……助けて……」

倒れた老女の声を聞きつけ、アイリーンは駆け寄った。彼女の周囲には、食べるものすらない住民たちが集まっていた。

「安心して。私が何とかするわ。」

彼女は持ってきた薬や食糧を配り、村人たちに励ましの言葉をかけた。彼らの目には希望が戻り始めていた。

「アイリーン様、あなたはまるで……神のようです。」

村人の一人が言ったその言葉に、アイリーンは穏やかに微笑みながら答えた。

「私はただの人間よ。でも、できることを全力でやりたいだけ。」


アイリーンの旅はまだ終わらない。彼女は世界中で多くの人々と出会い、その中で自分が築いた未来を見つめ直していた。そして、その未来を次の世代に託す決意を胸に抱きながら、新たな目的地へと向かっていく。

彼女の足跡は、どこまでも広がる地平線の先へと続いていた。


アイリーンが帝国を退位してから数年が経過した。その間、彼女は「絶対自由親善大使」という特異な称号のもと、大陸各地を巡りながら様々な活動を行ってきた。この肩書は、リアンが彼女のために用意したもので、法的な権力こそ持たないものの、通行許可や検閲の緩和といった旅を円滑にするための特典が付与されている。これにより、アイリーンは自らの信念を貫きながら自由に活動することができた。


ある日、アイリーンが小さな村で人々と交流していた時、リアンから一通の手紙が届いた。その手紙には「絶対自由親善大使」の称号に関する書類とともに、彼の率直な思いが綴られていた。

「どうせお前のことだ、人助けのために動き回るだろう。それなら、もっと自由にやれるようにしてやる。」

その手紙を読んだアイリーンは、思わず微笑んだ。

「リアンらしいわね。」

最初はこの称号を受け取ることを躊躇したアイリーンだったが、現実的な問題に直面するたびにその恩恵を感じるようになった。


ある日、アイリーンは帝国の地方都市を訪れていた。その都市では、新たな交易路の建設が進められており、異種族との協力が課題となっていた。彼女が現地に着くと、工事現場には険しい表情をした監督官と、困惑した様子の異種族たちが集まっていた。

「何が起きているのですか?」

アイリーンが監督官に問いかけると、彼は深いため息をついた。

「異種族の労働者が急に作業を拒否したのです。理由を聞いても明確な答えが返ってこない。」

アイリーンは異種族のリーダーと思しき者に歩み寄った。そのリーダーはモール族の中年男性で、険しい表情を浮かべていた。

「どうして作業を拒否しているのか教えてくれませんか?」

アイリーンの穏やかな声に、モール族のリーダーは一瞬驚いた様子を見せたが、やがて口を開いた。

「我々の村がこの工事で破壊される可能性がある。それが不安なのです。」

アイリーンはリーダーの目を見つめながら頷いた。

「あなたたちの不安は当然のことです。では、村を守る方法を一緒に考えましょう。」

彼女の提案にリーダーは驚きながらも、わずかに笑みを浮かべた。


翌日、アイリーンは監督官とモール族のリーダーを交えて話し合いを開いた。テーブルの上には工事の計画書と地図が広げられ、彼女は丁寧に説明を始めた。

「この区域を少し変更するだけで、村を守ることができます。そして、モール族の皆さんの協力があれば、工事も効率的に進むでしょう。」

監督官は少し眉をひそめたが、地図を見ながら考え込んだ。

「確かに……計画を少し変更するだけで大きな影響は出ないかもしれません。」

モール族のリーダーも地図をじっと見つめ、やがて静かに頷いた。

「それならば協力しましょう。我々もこの交易路が完成することを望んでいます。」

こうして、工事は再開され、双方の信頼関係が深まった。アイリーンは現場を離れる前に、モール族のリーダーと監督官に向かって微笑んだ。

「ありがとうございました。これからも共に未来を築いていきましょう。」


旅の途中、アイリーンは山間の村を通りかかった。その村では、七英雄の残党と思われる異形の兵士たちが襲撃を繰り返しているとの情報があった。

村人たちは怯えた様子で、彼女に助けを求めた。

「アイリーン様、どうかお力を貸してください!」

彼女はその場で状況を把握し、村を守るための戦闘準備を整えた。やがて夜が訪れると、異形の兵士たちが村を襲撃してきた。

アイリーンは素早く剣を構え、異形の動きを見極めた。彼女の体は滑らかに動き、敵の攻撃をかわしながら反撃を繰り出す。

「ここは通さない!」

剣が光を放ち、異形の兵士たちを一掃する。その背後には、村人たちが安心した表情で彼女を見守っていた。

「これで安全です。」

彼女の言葉に村人たちは歓声を上げた。


「絶対自由親善大使」という称号は、アイリーンがどこへ行っても歓迎される象徴となっていた。しかし、それは単なる肩書ではなく、彼女自身の生き方を体現したものだった。

リアンの思いが込められたこの称号が、彼女の旅を支え、多くの命を救う手助けとなっていた。そしてアイリーンは、その自由を使って世界中に新たな希望を広めていく。

彼女の旅はまだ終わらない。未来を託された者として、そして自由な旅人として、アイリーンは再び道を歩き出した。


旅の終わりを感じさせる、柔らかな夕陽が地平線に溶け込んでいく。アイリーンは丘の上から広がる草原を見下ろしながら、深い息をついた。彼女の目には、この数年間で見てきた景色や人々の顔が次々と浮かんでいた。

「ここまで来たのね……」

彼女の独り言に応えるように、かつてともに旅した仲間たちの声が聞こえた気がした。

『お前らしいな、ここに腰を落ち着けるって選択肢はないのか?』

リアンは、少し皮肉を交えながら微笑んで言う。
彼の声には疲労よりも安心感が滲んでいるように思えた。

「リアン、それじゃまるで私が落ち着きのない人みたいじゃない。」

リアンは肩をすくめて答える。

『だって、事実だろ?お前が帝国を去った後、次に何をするかと思ったら、こんな旅に出るなんて。』

エリオットがその会話に加わる。

『でも、それがアイリーンらしいとも思います。世界を見つめ、問題を見つけ、解決しようとする。それが彼女の生き方ですから。』

アイリーンは、記憶の中の二人の言葉に微笑みながら、視線を再び遠くに向けた。
広がる草原の先には、小さな村が見えた。
その村は、彼女がこれまでの旅で訪れた数多くの場所の一つだった。


その村は、七英雄による被害が未だに色濃く残る場所だった。家屋は修復途中であり、村人たちの生活も安定しているとは言い難い。アイリーンが村に入ると、すぐに子どもたちが彼女の周りに集まった。

「ねえ、あの人、皇帝様だった人でしょ?」

「本当だ!でも、今は普通の旅人みたいだね。」

子どもたちの無邪気な声に、アイリーンは優しい笑顔で応えた。

「こんにちは。私のことを知っているのね。」

子どもたちは少し恥ずかしそうに笑い、彼女を見上げた。その後ろから村の長老が現れ、アイリーンに深々と頭を下げた。

「アイリーン様、この村に来てくださるとは……なんとお礼を申し上げればよいか。」

「そんな堅苦しいことは言わないでください。今日は村の様子を見に来たの。」

彼女は長老に促されながら、村の中を案内された。畑で作業をする人々、修復中の家屋、そして村の外れにある小さな祈りの場――それぞれの場所に、村人たちの努力と希望が込められていた。


村の外れにある祈りの場は、簡素ながらも厳粛な雰囲気を持っていた。そこには一人の女性が立ち、静かに祈りを捧げていた。アイリーンが近づくと、女性は彼女の存在に気づき、振り返った。

「あなたは……」

女性は驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑みを見せた。

「お噂はかねがね聞いておりました。アイリーン様ですよね?」

「ええ、そうです。あなたはこの村の方ですか?」

女性は頷きながら答えた。

「はい。この村で生まれ育ちました。ここは私たちにとって大切な場所です。」

アイリーンは祈りの場に目を向け、その簡素ながらも美しい装飾に気づいた。

「ここで何を祈っていたの?」

女性は少し目を伏せながら答えた。

「未来のことです。この村が平和であり続けるようにと。そして、この場所に新たな命が芽生えることを願っています。」

その言葉に、アイリーンは深く頷いた。

「その願いはきっと叶うわ。私にできることがあれば、協力させてほしい。」


村での一日を終え、アイリーンは丘の上に戻った。
日が沈み、空には無数の星が輝いていた。

アイリーンの旅は、この場所で一つの区切りを迎えた。しかし、その歩みは終わることなく、彼女を新たな未来へと導いていくのだった。


アイリーンの旅が最終局面を迎える中、彼女の心は自然と故郷である村に向かっていた。彼女が育ての親と過ごした家、それが彼女の歩み始めた場所であり、いまだに彼女の心の支えであった。

緩やかな坂道を登りきると、目の前に見慣れた風景が広がった。古い木造の家々が並ぶ小さな村。畑では人々が働き、子どもたちの笑い声が響いている。村の中心にそびえる一本の大きな木は、彼女が幼い頃からずっとそこに立っていた。

「懐かしい……」

アイリーンは呟きながら村へと足を進めた。子どもたちが彼女を見つけて駆け寄ってくる。

「ねえ、あの人って、昔の皇帝様じゃない?」

「ほんとだ!でも、今は旅人なんだよね!」

子どもたちの無邪気な声に、アイリーンは微笑みながら答えた。

「そうよ。でも今はただのアイリーン。みんなのように、この村を愛しているだけの一人の人間よ。」

村人たちも彼女に気づき、次々に挨拶を交わした。

「アイリーン!帰ってきたのかい?」

「久しぶりだなあ!元気そうで何よりだ。」

彼女は一人一人に応えながら、懐かしい家々の間を進んでいった。


ようやく家にたどり着いたアイリーンは、玄関の前で一息ついた。彼女が戸を開けると、中から養父のクラウスが顔を出した。

「アイリーン……」

クラウスの目は少し潤んでいた。彼はその場に立ち尽くす娘を見て、そっと腕を広げた。アイリーンはその胸に飛び込む。

「ただいま、お父さん。」

「おかえり……よく帰ってきた。」

その声には深い安堵と喜びが混じっていた。続いて奥から養母のマリアが現れる。

「まあ、アイリーン!本当に帰ってきたのね!」

「お母さん……」

二人に抱きしめられたアイリーンは、思わず目頭が熱くなった。彼女はこの場所に帰るたびに、自分がどれだけ愛され、支えられてきたかを実感するのだった。


その夜、クラウスとマリアはアイリーンのために腕によりをかけて夕食を用意した。テーブルには新鮮な野菜のスープ、焼きたてのパン、村で採れた果物が並ぶ。

「どうだい、旅の疲れは癒えたか?」

クラウスがスープをよそいながら尋ねる。

「ええ、お父さんとお母さんの顔を見ただけで、ずいぶん元気になったわ。」

アイリーンの言葉に、マリアが微笑む。

「それはよかった。あなたが旅に出るたびに、無事に帰ってくるかどうか心配で仕方なかったのよ。」

「ごめんなさい。でも、私がこうして帰ってこられるのは、お父さんとお母さんが私を育ててくれたから。」

彼女の言葉に二人は目を合わせ、静かに頷いた。


夕食の後、三人は暖炉の前に集まり、ゆっくりと語り合った。アイリーンは旅の中で出会った人々のこと、見た景色、助けた村の話を一つ一つ丁寧に語った。

「本当にいろいろなことがあったのね。」

マリアがそう言いながら彼女の手を握った。

「でも、それがあなたの選んだ道だったんでしょう?」

「ええ。皇帝としての責任を果たした後、自分にできることを探し続けた結果です。」

クラウスがゆっくりと頷いた。

「アイリーン、お前は本当に立派になった。だが、自分を追い込みすぎるなよ。お前が健康でいてくれることが、私たちにとって一番の幸せだ。」

「ありがとう、お父さん。その言葉、ちゃんと胸に刻んでおくわ。」

暖炉の火がパチパチと音を立てる中、三人の間に温かな沈黙が流れた。


翌朝、アイリーンは村を見渡しながら深呼吸をした。空は晴れ渡り、朝陽が村全体を柔らかく包んでいた。

「ここからまた、新しい道が始まるのね。」

彼女は静かにそう呟き、家の中で見守っているクラウスとマリアに手を振った。

「行ってきます。」

「気をつけるんだぞ。」

「いつでも帰っておいで。」

二人の声に見送られながら、アイリーンは再び歩き出した。彼女の足取りは軽く、その背中には新たな希望が満ちていた。

彼女の旅はまだ終わらない。しかし、この場所に帰るたび、彼女は再び力を得て、新たな未来に向かって歩み続けるだろう。


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