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天蓋の欠片EP12-1
Episode 12-1:平和な日々
まだ薄暗さの残る早朝、空の端にかすかにオレンジ色の光が差し込み、やがて透明度の高い青空が広がり始める。大きな戦闘や術式の暴発もひとまず収束し、街は久しぶりに静かな朝を迎えている。
タスクフォース医療施設の上階、ユキノは窓際の椅子に腰掛けたまま、朝の光を眺めていた。傷の回復は少しずつ進み、車椅子が必要だった日々からようやく解放されつつある。まだ痛みは伴うが、両足で歩くことに困難はない程度に回復してきた。
「……こんな普通の朝って、いつぶりだろう」
小さくつぶやいてみる。かつては戦闘のため夜を徹して動き、痛みに耐えて眠れない日々を過ごした。観測者・蒔苗や真理追求の徒との衝突が続くなか、朝が来ても気が休まることはなかった。
今はどうか――タスクフォースも上層部が動揺を続けてはいるが、大きな衝突は一旦収束し、生成者を脅かす危機は激減。アヤカやエリスが尽力してくれたおかげか、過激派の残党との“和解交渉”も進みはじめているという。まだ前途多難ではあるが、今朝の空気はどこか穏やかだ。
「おはよう、ユキノ。もう起きてたの?」
背後からカエデが現れる。彼女も大きな怪我を負っていたが、ユキノより先にリハビリを終えつつあり、歩く姿にも少し余裕が感じられる。ユキノが振り返り微笑み、「うん、外の景色を見たくて。傷もだいぶ良くなったよ」と返す。カエデは安堵の息を吐いて、「無理しないでね。すぐに出歩くとまた痛むでしょう?」と言いながら隣の椅子に座る。
カエデが昨日も夜更かししていたのか、軽いクマを作りながら「夜は眠れた?」と尋ねる。ユキノはコーヒーの残り香が漂うマグカップを握って、「うん、痛みで何度か目が覚めたけど、前よりは随分まし」と答える。
二人はしばし沈黙するが、その空気は殺伐としたものではなく、温かい気配が漂っていた。戦闘が当たり前だった頃には感じられなかった「小さな日常の幸せ」を噛み締める時間。
「ねえ、カエデさん……もし、全部が落ち着いたら、また学校に戻れるかな」
ユキノがふと思いを口にする。カエデは目を丸くし、「学校……ああ、そうだよね。わたしたち、学生だったんだものね。ここ最近はあまりにも世界の運命とか、観測者とか大きな話ばかりだったから忘れかけてた……」と苦笑する。
ユキノも微笑んで、「そうだよね……もう少し平和になったら、普通に授業を受けて、放課後に友達と笑い合って……そういうのがわたしの“夢”なのかもしれない」とつぶやく。
カエデは「きっと戻れるよ。アヤカさんやエリスさんが頑張ってるし、わたしたちだって守る側に回れるじゃん」と励ます。その言葉にユキノは「うん、ありがとう」とほっとした表情を浮かべる。
同じ頃、タスクフォース医療施設の一階ロビーでは、アヤカとエリスが小さな休憩スペースで作戦メモを整理していた。上層部との折衝や残党への監視・交渉を続ける中、ここのところ大きな襲撃は起きていない。
「ようやく一息つけるわね。まだ完全解決じゃないけど、少なくとも大規模な儀式は止められてるし、蒔苗も本格的には動いてないみたい」とエリスがコーヒーをすすりながら言う。
アヤカは腕を組み、「ええ、上層部の一部も“降伏派”との対話を容認してくれたし、ナナセさんたちの証言でスパイの動きが少しずつ浮き彫りになっている。逮捕間近という情報もあるわ」と応じる。
エリスはほっとした笑みを浮かべ、「スパイを片付けられれば、組織も落ち着いてくる。そうすればユキノやカエデも安心して過ごせるでしょう。あの子たちには、普通の学生生活を取り戻してほしいわね」とつぶやく。
アヤカは微かに肩を落とし、「そうね……でも、蒔苗の問題は unresolved(未解決)よ。彼女がいつ世界終了を選ぶかも不透明。ユキノが拒絶した以上、彼女が助けてくれる見込みは薄い。つまり、私たち人間が本当に自力で平和を実現しなきゃいけない」と苦い笑いを浮かべる。
「ええ、だからこそユキノたちは頑張った。わたしも少しは支えてあげないとね」とエリスが返し、二人は心地よい静寂の中でコーヒーを飲み干した。
数日が経過し、ユキノの身体は徐々に回復し始めた。完治とまではいかないが、自宅療養が可能なレベルとの医師の判断が下され、タスクフォースの保護下のままではあるが、一旦病室を出て日常へ復帰してもいいという結論になる。
退院の日、エリスとカエデ、アヤカが迎えに来てくれる。ユキノはまだ包帯が痛々しいが、自分の足で立ち、ゆっくりとロビーを歩いている。
「やったね、ユキノ。ようやく外に出られる……!」カエデが嬉しそうに声をかけると、ユキノは照れくさそうに「うん、なんか外の空気が恋しかったよ」と笑う。アヤカは微笑ましい気持ちで「一応、通院は続くから無理は禁物ね」と釘を刺す。
エリスは腕を組み、「さて、このまま学校に復帰するつもり? それとも自宅で休む?」と尋ねる。ユキノは少し考えて、「まだ体力が戻ってないし、先生にも相談したいから……もう少しだけ家で休ませてもらうかな。あたし、家族を心配させてばかりだし……」と苦笑する。
家族――ユキノの両親は、この混乱の中でも娘を心配しながらも、タスクフォースに任せるしかなかったが、ようやく落ち着いたら顔を合わせたいと連絡が来ているという。かつては普通の学生生活を送っていたのに、いつからこんな戦いに巻き込まれたのかと溜息をつく間もなかっただろう。
その午後、ユキノは自宅のドアを開く。久々に見る自分の家の玄関やリビングは、戦いの記憶とは無縁の穏やかな空間だ。
「ユキノ……帰ってきたのね……!」母親が駆け寄り、包帯姿を見て涙を浮かべて抱きしめる。ユキノは痛みをこらえながらも、「ごめんね……心配かけて」と返す。父親も仕事を切り上げて戻ってきており、「本当に……大変だったな。おまえが無事でよかった」と肩を叩く。
この何気ない家族の温もりが、ユキノの胸を熱くする。戦闘や痛みの世界では味わえない、日常の温かさ――**“平和な日々”**の象徴のようだ。ユキノは少し目を潤ませ、「ただいま」と深く頭を下げる。
夜が来て、ユキノは両親と家族団らんのひと時を過ごす。傷を負って大変な思いをしている娘を迎え、母親が腕を振るって作った食事はいつもより豪華に感じる。
「わあ……久しぶりの家のごはん……!」とユキノが感激すると、母親は「食べられないかもって思ってたんだけど、大丈夫そう?」と心配げ。ユキノは笑って「食べられる食べられる、もう痛み止めも飲んだから平気だよ」と答える。
父親も照れくさそうに「娘が帰ってきた祝い、って言っても大したものじゃないけどな……ほら、これ好きだろ?」と茶碗を差し出す。ユキノは「ありがとう、お父さん……」と懐かしさを噛みしめるように笑う。
家族は観測者や真理追求の徒の詳細には踏み込めないが、それでも「危ないことに巻き込まれた」とだけは知っている。母親が「タスクフォースの担当さんも大変だろうに、ユキノをずっと守ってくれてたのよね……ありがたいわ」と言えば、ユキノは「うん、アヤカさんやエリスさん、カエデさん……みんなのおかげ。あたし、すごく支えられた」とうなずく。
外の大きな争いを脇に置いて、一家団欒の時間がゆったりと流れる。久々の笑い声や冗談が飛び交い、ユキノは本当に“普通”の生活に戻りつつあるのを感じて、胸がじんと熱くなる。
翌朝、ユキノは家の近所をゆっくり散歩していた。医師からは「回復には軽い運動が大事」と言われており、家の前の公園までがちょうどいい距離だ。
腕にはまだ包帯が残り、胸の傷はずきずきと痛むが、歩けるようになっただけでも大きな進歩だと思う。公園には子どもたちが楽しそうに走り回り、母親らしき人が見守っている。全く戦いや陰謀の気配がない、当たり前の風景――ユキノはそれを見て微笑ましく感じる。
ベンチに腰かけて息を整えながら、「わたしも学校に戻ったら、こういう普通の景色をもっと大切に感じるのかな」と考える。すると、カラスが木の枝にとまり、カアカアと鳴いて飛び立つのが視界の端に映る。まるで“観測”されているかのような錯覚を起こし、ユキノは少しだけ身構えてしまう。
(蒔苗がまた見てるわけじゃないよね。……大丈夫、拒絶したんだから)
心にそう言い聞かせて、青空を見上げる。ここは戦場じゃない。痛みと戦う日々から少しだけ解放された平穏の時間。ユキノはそっと瞼を閉じて、「こんな当たり前の時間をずっと守りたい」と改めて願う。
昼過ぎ、ユキノの家をカエデが訪れ、「また様子を見に来ちゃった。嫌じゃない?」と遠慮がちに笑う。ユキノは「何言ってるの、むしろ嬉しいよ」と玄関に招き入れる。両親は仕事に出かけて不在で、家はユキノひとりだ。
カエデは買ってきたケーキを取り出し、「好きだったよね? 甘いもの、病院ではあまり食べられなかったでしょ」と差し出す。ユキノの目が輝き、「わあ、ありがとう」と素直に喜び、お皿を用意して二人でダイニングテーブルに並ぶ。
「……なんだか不思議だね。あたしたち、戦うことばかりしてたけど、こうしてケーキ食べてお喋りしてるなんて」
カエデがそう言うと、ユキノはフォークを握りしめ、「うん、普通の友だち同士ってこんな感じかな……嬉しい」と微笑む。戦場の記憶とは対照的な、静かな幸福がそこにある。
ケーキを一口頬張ってしばし沈黙した後、カエデは真剣な表情で切り出す。「ユキノ……わたしは正直、蒔苗と完全に決別するのが不安。あの子が本気で世界を壊すなら止められないかもしれない。でも、あなたは本当にいいの?」
ユキノはフォークを置き、やや困った顔をしながら「正直、こわいよ。でも、あたしは蒔苗を説得できる道も残ってると思う。完全には聞いてくれなくても、あの子が世界を見捨てないなら、きっといつか和解できるんじゃないかな……」と答える。
カエデは大きく息を吐き、「和解って言葉、そんなに甘くないよね。でも、あなたの言う通り、可能性がゼロじゃないなら、わたしも信じたい……」と力なく微笑む。
二人がケーキを食べ終わる頃、ユキノのスマホが鳴る。画面を見ると、タスクフォースからの着信。ユキノは驚きつつ受話器に出ると、アヤカの声が緊迫した調子で響く。「ユキノさん、今大丈夫? すぐに来てほしいわけじゃないけど……ちょっと厄介な事件が起きてて、カエデさんも一緒に状況を把握してほしいの」
ユキノは冷やりとする。「また真理追求の徒が動いたの?」と問うと、アヤカは「大規模じゃないけど、残党の一部がタスクフォースの倉庫を襲撃した。どうやら降伏派を陥れようとしてる気配があるわ。ナナセたちと関係があるかも知れない」と告げる。
(せっかく平和な日々が訪れたと思ったのに……やっぱり問題は残ってるんだ)
ユキノは痛む体をこらえながら、カエデに視線を向ける。カエデも緊張した面持ちで「行く?」と聞く。ユキノは一瞬だけ迷うが、「うん、わたしも行く。大きな戦闘じゃないなら、見届けたい」と決断する。カエデは「じゃあ、わたしが車を呼ぶよ」と笑顔を向ける。こうしてまた、短い安息の間に小さな嵐が湧き起こる。
タスクフォースの大型倉庫は、組織の備品や機密資料を保管する場所。そこに残党の一部が侵入を試み、局所的な衝突が発生したとの報告を受け、エリスとアヤカが先行対応している。ユキノとカエデは少し遅れて到着する。
敷地内に入ると、数名の隊員が警戒態勢を敷き、エリスがリボルバーを握って建物の裏口を監視している。ユキノが駆け寄り、「エリスさん、どうなってるの?」と尋ねると、エリスは苦笑しながら「大丈夫よ。小競り合いはあったけど、すぐに終わりそう。敵が何を狙ったのか分からないけど、どうやら降伏派への嫌がらせかもしれない」と説明する。
建物の奥では過激派と思しき男が一人、隊員に抑え込まれている。カエデが「どうやら手荒な手段を使ったみたいだね……」と眉をひそめる。ユキノは重い足取りで男のもとへ歩み寄り、「あなた……何が狙いなの?」と問いかける。
男は荒い呼吸で「ふん……降伏派だと? ナナセとかいう裏切り者どもを潰す。それだけだ。貴様ら生成者にも二度と好き勝手させない……」と声を張り上げるが、隊員が「おとなしくしろ!」と押さえつける。
ユキノは少し体を震わせながら、男の目をまっすぐ見つめ、「ナナセさんたちは本気で争いをやめたいと思ってる。それを潰すなんて、あなたたちはまだ蒔苗を利用しようとしてるの?」と問いかける。
男は苦々しい顔で「観測者を得てこそ、人類は次元を超えるんだ……降伏や和解などくだらない。裏切り者は許さない」と断言する。カエデが「そんなことしても何も生まれないって分からないの?」と怒りを抑えつつ反論するが、男は不敵に笑うだけ。
「蒔苗がどう選ぼうと関係ない。奴の力を奪えば世界は我々のもの……お前らがいくら平和を謳っても、観測者に頼らず世界を守るなんて幻想だ……」
ユキノは歯を食いしばる。「幻想じゃない……わたしは観測者を拒絶した。だけど、こうして生きてるし、あなたたちの術式だって阻止した。それは事実でしょ?」
男は顔を歪め、目に狂気の光を宿す。「くだらん……お前は運が良かっただけだ。次はそうはいかない。真理は必ず勝つ……!」と吐き捨てるように言うと、隊員に連行されていく。ユキノはその背中を見つめ、「これが現実だよね……みんなが納得して和解できるわけじゃない」と悲しげに言う。
騒ぎが収まった倉庫を見上げながら、アヤカやエリスが緊張を解く。カエデはユキノの脇を支え、「無理して来たけど、大丈夫だった?」と声をかける。ユキノは「うん、まだ平気。少し痛むけど……」と答える。
エリスは苦笑して、「いずれにせよ、こういう小競り合いは続くかもしれないわね。降伏派が増えても、完全な統一を望まない連中は必ずいる。あなただけじゃなく、アヤカや私たちも気を引き締めないと」とつぶやく。アヤカは深いため息を漏らし、「だとしても、わたしたちの選んだ“和解”の道は間違いじゃない……よね?」と問いかける。
ユキノは微笑んで「うん……わたしはそう思う。戦いがなくなるとは限らないけど、少しずつ人間同士が手を取り合って、蒔苗に頼らない道を築ければ……。これがわたしたちの目指す平和であり、日常なんだから」と強く言う。
こうして**“平和な日々”**に戻りつつある現実の中、まだ新たな闘争の芽は消えていない。しかし、ユキノやカエデたちが感じているのは“日常を生きる喜び”――そこには観測者への依存や絶望ではなく、“自分たちの力で明日を開く”という意志が宿っている。
日々は、短いが確かな安息を描きながら、その安らぎの背後に潜む危機と矛盾、そしてそれでも進む意志の尊さを浮かび上がらせる。
観測者・蒔苗が再び表舞台に姿を現す日は来るのか。真理追求の徒の残党との戦いは完全に終わるのか――それはまだ、誰にも分からない。
けれど、ユキノたちが一歩ずつ進んでいる事実は、確かにここにある。
こうして物語は、さらなる展開を迎える準備を整えつつある。和解へ向かう努力と、痛みを越えたユキノの成長が交差し、世界の明日をほんの少しだけ照らす。
観測者が絡まない“平和な日常”を大切にする意志、それがいずれ大きな激動に直面したときの力となるかもしれない。戦いや痛みだけが全てではない、そんな優しい時間が、束の間の朝とともに訪れるのだった。