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Symphony No. 9 :番外編_2-2
エピソード番外編2-2:古代クヴェルの秘密依頼
薄い朝の陽ざしが、砦の中庭にまだ残る夜の気配をかき消すころ。ユリウスはいつものように軽く剣を振るい、火術の調整を行う朝稽古を終えて、自室に戻りかけていた。かつて大けがを負った身体は、ようやくほぼ日常生活に支障なく動くところまで回復しているが、それでも万全とは言い難い。毎日地道なリハビリと基本訓練を継続しているのだ。
「よし、今日のところはこれくらいで……」
苦笑まじりに、ユリウスは剣を鞘に納める。昨日もヌヴィエムがアイドル公演で一騒動あったらしく、音術的な不調を直す手伝いに呼ばれていたのだ。戦闘用のリズム指揮を平和利用するのもいいが、思った以上に神経を使うらしい。姉の苦労を思いながら、軽く背を伸ばしたそのとき、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
「おはよう、ユリウス。早いわね。もう稽古は終わり?」
ひょいと顔を出したのはエレノアだった。鮮やかな金髪のショートボブが朝の光を反射している。いつも夜型のイメージがある彼女にしては珍しい朝の登場だ。ローブの胸元を少しはだけさせながら、杖を杖袋にしまう途中らしい。
「おはよう、エレノア。そっちこそ、珍しく早いじゃないか。何かあったの?」
ユリウスはいつも以上に胸が高鳴るのを抑えながら問う。退位後、姉ヌヴィエムはアイドル活動を本格化させ、エレノアはそこを魔術的にサポートしつつ、また旅をして研究を進めたりもしている。彼女と一対一で話す機会があると、最近はどうしても意識してしまう自分がいる。面と向かって恋慕の言葉を口にできるわけではないが、そわそわと胸がざわつく。
「うん、ちょっとね。実は、フィリップ3世の宰相が昨夜遅くに届けてくれた手紙があるの。ほら、これ……」
そう言ってエレノアがローブの内ポケットから一枚の封書を取り出す。淡いブルーの封蝋が封印に使われており、ふだんよく見る王都の紋章とは微妙に違う。宛先はエレノア本人。そして差出人は……よく分からない個人名が書かれている。
「エレノア殿、古代クヴェルの件に関し、あなたの力をお借りしたい……だって。王都でも、こういう正式な筋を通さず個人宛に手紙を送るってことは、何かあやしいわね。」
エレノアが封を開きながら、眉をひそめる。その横でユリウスも覗き込み、「古代クヴェル……また面倒な話じゃないか? おれたち、前に遺跡絡みで苦労したばかりだろう」と心配そうに言う。エッグ崩壊以降、古代文明の遺跡からクヴェルと呼ばれる術具が見つかることは珍しくないが、何かしら事故や暴走が絡むケースも多い。
「ま、そうね。でも、面白そうじゃない? ねぇ、ユリウス……一緒に行ってみない?」
にやりと笑うエレノアの目は、探検好きの子どもが宝探しに誘うような輝き。いつも彼女は新しい魔術の知識や遺跡の謎に目がない。ユリウスはその顔を見ると、胸がどきりとする。まったく、どうしてこんなに自由奔放なのに無性に惹かれるんだろう、と自問するが、答えなど見つからない。
「……行くって言われても、場所はどこなんだ? いま砦を空けるとヌヴィエムが困らないか……」
「手紙によると、ここから北西の山腹にある集落へ向かってほしいそうよ。小さな村があるみたい。どうやら“鎮めきれないクヴェル”があり、危険な気配がある、とか……。王都の筋を通さずに直接私宛に、っていうのは、たぶん公にできない事情があるんでしょうね。ヌヴィエム……はアイドル公演で忙しそうだけど、あの子なら『いってらっしゃい』くらい言うんじゃない?」
確かに姉のヌヴィエムは最近毎日のように公演やイベント準備に追われている。大きな戦乱もなく、彼女のリズム指揮を平和に活かす機会が増えているのだから、ユリウスとエレノアが留守でも、そうそう困らないだろう。
「わかった……。じゃあ、姉上に一応声をかけて、それから行こうか。俺も……まあ、姉上に従うだけの人生じゃなく、動いてみるほうがいいと思ってる。足もだいぶ動くし、火術の調整も順調だ」
ユリウスは、そう言いながら照れたように視線をそらす。行き先が危険かもしれないが、エレノアと一緒なら心強い――正直、そういう下心も少なからずある。顔を赤らめたのを悟られないよう、さっと身体を翻して、「じゃあ、ちょっと準備してくる」と背中を向けた。エレノアはその様子に気付いたのか、くすりと楽しげな笑みを浮かべる。
砦の食堂では、朝食の簡単なスープとパンが出されていた。テーブルを囲むのはヌヴィエムとプルミエール、そして食後のコーヒーを楽しむ兵士数名。朝早い公演の打ち合わせを済ませてホッとしているヌヴィエムは、プルミエールが飽きずに食べる姿をやさしく見守っている。
そこへユリウスとエレノアが連れ立って入ってきた。まだ人通りの少ない時間帯だけに、戦士の装いのユリウスと魔術ローブ姿のエレノアは目を引く。ヌヴィエムはプルミエールの頭を撫でながら、来客に気づいて笑う。
「おはよう、二人とも。今日はどうしたの? なんだか出かけるような顔してるわね」
「姉上……まあ、そんなところだよ。実は、エレノア宛にこんな手紙が届いてさ……」
ユリウスは鞘につけていた手紙を取り出し、ヌヴィエムに差し出す。ヌヴィエムは受け取ると封蝋の紋章を一瞥し、視線を細めた。
「これ……公的な紋章じゃないけど、貴族筋かしらね。依頼? まさかまた何かトラブル?」
隣でエレノアが肩をすくめ、「ええ、そんな感じ。小さな村にあるクヴェルが危ないとか何とか……正規のルートを通さずに私に依頼が来るあたり、闇があるのかもね。ま、興味深いわ」と淡々と答える。
ヌヴィエムは少し考え込むように目を伏せ、「ふーん。分散治世が定着してるのに、まだそういう隠された遺跡があるとはね。確かに王都に言いにくい案件かもしれないし……。まあ、二人が行くなら止めないわ。せっかく身体も良くなってきたでしょ、ユリウス?」と顔を上げる。
ユリウスはぎこちなくうなずく。「足はまだ完璧じゃないけど、火術で刃を強化できるし、護衛するには十分。……でも、姉上、一応俺たちが留守でも砦のほうは大丈夫か?」
「大丈夫よ。あたしはこっちで公演を頑張るから、山賊でも盗賊でも出てきたら別の兵が対処してくれるわ。ふふ、いまは大きな戦いはないし、小さな衝突くらいなら分散治世の防衛組織がある。君たちこそ、気をつけてね?」
そう言いながら、ヌヴィエムの視線はエレノアとユリウスの間をちらりと行き来する。二人がここ数か月で微妙に接近している様子は、姉の勘でお見通しだ。公の場で茶化すのはさすがに気が引けるが、少しからかいたい気持ちも湧く。
「……何よ、ヌヴィエム。その目は」
エレノアがいぶかしむ。ヌヴィエムはすっと目を反らし、「いえいえ、何でもないわよ。ただ、ユリウスがあなたと二人で旅するなんて珍しいし。最近しょっちゅう一緒に行動してるわよね。ふふ」と口元を綻ばせる。
「そ、それは……偶然よ。ほら、ユリウスが剣を習得し直すのに私が火術を見てるとか、いろいろ理由があるの。それだけ。」
いきなりこめかみを染めるエレノア。その横でユリウスは恥ずかしそうに口をつぐみ、ややうつむく。プルミエールがパンをもぐもぐ食べながら、その様子を見て「なんか、あかい……」と笑っている。
ヌヴィエムはさも楽しそうに「はいはい」と流し、「ま、ともかく気をつけて行ってらっしゃい。危なくなったら引き返しなさいよ。あたしにも何かあれば連絡して。分散治世の要請書を使えば、近場の砦が協力してくれるから」と軽くアドバイスする。
「わかった。ありがとう姉上。じゃあ……行ってきます。あんまり体を無理しないようにな」
「ふふ、あたしは大丈夫よ。プルミエールと公演がんばるから。おみやげ話、期待してるわ。何か新しい術の発見とかあれば教えて」
こうして、朝の砦を後にする二人の背中を見送りつつ、ヌヴィエムはプルミエールの髪を撫でながら「ユリウスとエレノア、仲いいでしょ?」と軽くからかうように言う。子どもは「うん、やさしいおねえさん……」と答えるだけで、まだ恋愛の機微は理解していない。ヌヴィエムは微笑むしかなかった――自分も昔は熱い復讐や戦いに没頭していたから、こういう恋愛模様が微笑ましく思えるのだ。
砦を出て北西へ向かう道は整備されているとはいえ、徐々に山道へ入るにつれ凹凸も増え、馬の脚が鈍る。ユリウスとエレノアはそれぞれ一頭ずつ騎乗して進むが、どうにも沈黙が長い。珍しくエレノアが言葉少ななため、ユリウスは妙に落ち着かない気分だ。
「……あの、エレノア。何か考えごと?」
思い切って問いかけるが、エレノアは首を振って、「ううん、ただね……古代クヴェルの依頼で、危ない匂いがするのよ。私に直接手紙を寄越すなんて、普通はよほど切羽詰まってるか、官に言いにくい裏事情があるか……」と呟く。その顔はいつもの軽妙な笑みではなく、少し真剣な陰りを帯びている。
「そっか……。俺も、ちょっと気になる。もしかしたら、この間みたいに暴走しかけた遺物を何とかしてくれ、って話かもしれない。大規模な怪物が出るわけじゃないと思うけど……」
「ええ、たぶんそういう方向だとは思う。分散治世のおかげで大きな戦乱はないけど、古代クヴェルのトラブルは根強いからね。遺跡によっては封印が解けて、かつての術が残留してることもあるし」
エレノアは馬のたてがみを撫でながら、ふとユリウスを見た。その瞳は微妙に揺れ、「まあ、あなたと一緒なら多少危なくても大丈夫よね。以前より体は良くなったんでしょう?」と探るような口調。
ユリウスは少し照れて、「ああ、まだ痛みはあるけど、剣を普通に振るうのはもう問題ない。火術も合わせて、敵が出ても対処できるはず。……そっちこそ、幻術や火の術は万全?」
「もちろん。あなたが復帰してからは、私はサポートに回ることが多かったけど、戦闘経験はまだまだ衰えてないわ。ふふ、安心して頼りにしてちょうだい。……って、何か硬い会話ね、私たち」
エレノアが急に笑うものだから、ユリウスは戸惑いながらも「そ、そう? まあ、久しぶりに二人で出かけるから、変な感じなのかも」と力なく笑う。
互いに戦闘能力を確認し合うなんて、まるで昔の戦場を懐かしがるようだ。二人とも数か月前まで死線を共にくぐった仲間なのに、ここしばらくは砦でのんびり過ごすことが多く、ちょっとした旅といえばアイドル活動の護衛程度。今回のように“依頼”で二人だけというのは、確かにぎこちない。
エレノアは「……あたしとあなたって、どういう関係なのかしらね。師弟? それとも仲間? はたまた……」と言いかけて、言葉を飲み込む。ユリウスは内心「そこを言ってくれよ」と叫びたいが、当の本人もうまく言葉にできず、「え、えっと……」と声を詰まらせる。
沈黙が訪れ、二人の間に微妙な空気が流れる。馬の足音だけが山道にこだまする。だが、それは不快というよりは、むしろお互いに意識しすぎて気恥ずかしいのだ。短い沈黙を破るように、エレノアは「まあ、いいわ。とりあえず遺跡じゃないにしても、村で情報を得てから判断しましょう」と話を変える。ユリウスも「ああ、そうだな」と相槌を打ち、なんとか会話を続ける。
そんなぎこちないやりとりすら、今の二人にとってはどうしようもない甘酸っぱさを伴っていた。かつては魔術の師と剣士の弟子という明確な上下関係があったが、今はほぼ対等。戦場での連携から生まれた信頼に、恋心というスパイスが混ざって、一歩踏み出す勇気を互いに模索しているのだ。
昼過ぎには、山道の途中にある小さな集落――地図にも載っていないような小村に着いた。指定の場所からさらに奥地に住む人々がいるらしいが、道案内が必要という話を事前に聞いており、ここで案内人を探すのが目的だ。
村に入ると、離れた場所に野良犬が一匹吠えながら逃げていき、人気はあまり感じられない。わずかな畑と数軒の民家があるが、どこも荒れている印象だ。エレノアは馬を下り、「うーん、閑散としてるわね……人がいないのかしら」と眉をひそめる。
ユリウスも付いて下り、村の中心らしき井戸周りを見渡す。井戸端の桶が倒れかけており、水汲みをしている姿はない。そこへ、ひとりの初老の男性が腰を曲げて歩いてくるのが見えた。杖をつきながらヨロヨロしており、声をかけるべきか迷う二人。エレノアが先に口を開く。
「すみません、こんにちは。この村で‘案内人’とお聞きして来たんですが……」
男性は二人を睨むように目を細め、「なんだ、旅人か? 案内人とは……もしかして、あなた方がエレノア殿か?」と弱々しい声で問う。
エレノアはやや驚きつつ、「ええ、私がエレノアだけど……あなたが依頼人? それとも案内してくれる方?」と返す。
「いや、私はただの村人だ。近くに“カダッシュ”って若者がいる。彼があなた方を、もっと奥の集落まで案内すると聞いてる。ほら、あそこだ、ほとんど人がいないが……」
そう言って指差した先には、小さな家が一軒建っているのが見える。村のはずれ、周囲に柵も立てず、家畜の姿もない。まるで廃屋に近いが、かすかに煙が上がっているから誰か住んでいるのだろう。
「ありがとう。助かるわ。行ってみる」
エレノアが礼を言うと、老人はすぐに背を向け、腰を曲げたまま歩き去る。ここらの人々は、何か重苦しい事情を抱えているのかもしれない。ユリウスは「感じ悪いってわけじゃないが、元気がない村だな……」と小声でつぶやく。
エレノアは同意しつつ、「ま、深追いしてもしょうがないわ。手紙の差出人がこの先の集落にいるなら、そこへ向かわないと」と結論を出す。ユリウスもうなずき、二人は馬を引いてその家へ向かう。
木製の扉がぎしぎしと音を立て、呼び鈴もないのでエレノアがノックをする。しばらくして中からやや荒い声が聞こえ、「どなた?」という若者の気配がした。
「エレノアよ。手紙の差出人に呼ばれてきたの。……案内をしてくれるって聞いたんだけど」
扉が開いて現れたのは、二十代前半と思しき青年。整った顔立ちだが、どこか影があるような鋭い瞳をしている。カダッシュという名前の通りなら、きっと彼が案内人だ。
「やっぱり本当に来てくれたのか……エレノア殿。そちらは?」
「ユリウスだ。エレノアの同行者だよ」
ユリウスは軽く会釈をする。青年はホッとした様子で、「ああ、よかった。頼もしい方が一緒なら安心だ……。では、村の奥の集落へ行く準備をしましょう。お二人の馬はこの家の裏手に置いてくれていい」と手短に説明する。
中へ招かれると、そこは質素な空間だが、片隅に武器や道具が並べられている。地図や古い書物も見える。カダッシュは手早く荷物をまとめながら説明を始めた。
「あなたたちが知りたいのは、奥の集落に隠されたクヴェルのことですよね。実は……あそこ、昔から‘封じられた地’って呼ばれてて、地元民さえ近づかないんです。けど最近、何やら封印がゆるんだ気配があって、奇妙な光や音が漏れているとか……」
エレノアはうなずきながら、「なるほど、隠すにはワケがありそうね。公的に報告すると騒ぎが大きくなりすぎるから、私を指名したと?」
「そうなります。実は、ここの有力者がフィリップ3世殿に知られるのを警戒している節もあるんです。彼らには過去の争いの傷や、隠したい歴史があるらしく……」
ここで青年は言いにくそうな表情を浮かべる。どうやら大っぴらにできない理由があるようだ。ユリウスは小さく息を吐き、「要するに、そっちにも何か都合の悪い秘密があるのかもしれないが、クヴェルの暴走で大惨事になるよりは、手遅れになる前に対応したいってことか」とまとめる。カダッシュは申し訳なさそうに、「そうです」と肯定した。
話がまとまり、二人は家の裏手に馬を繋ぎ、最低限の荷物だけを持ってカダッシュに案内される形で山奥へ歩を進める。整備された道はすぐに途切れ、ぬかるんだ小道を進むうちに、背の高い針葉樹が視界を塞ぎ始める。
エレノアとユリウスは、山賊の類が出る可能性もあるため、一応武器と最低限の戦闘装備を身につけている。彼女は魔術の杖を片手に、ユリウスは剣を腰に差している。
だが、歩くほどに天候が怪しくなり、遠くで雷鳴がとどろき始めた。エレノアは苦い表情を浮かべ、「うわ、最悪。山の天気は変わりやすいけど、まさかこんなに早く嵐が来そうになるなんて」とつぶやく。
カダッシュも神妙な面持ちで、「ここから先は足場が悪くなります。嵐が本格化する前に、あの集落までたどり着きたいところですが……急ぎましょう」と促す。
三人は足を速め、ずるずるとした斜面を慎重に下りたり、小さな沢を渡ったりと、短い距離とはいえ困難な道のりを進む。その合間にも、ユリウスとエレノアはちらちらお互いを気遣う視線を交わしていた。
(体力には自信があるけど、やっぱり魔術師だから長い道は得意ではない。ユリウスの足の状態は……大丈夫かしら。彼、ほんとは痛みに耐えてるんじゃ……)
(姉上と違ってエレノアは繊細だし、こんな山道で体を壊さないか。俺も完全には回復してないけど、できるだけ支えてやりたい……でも無理に手を貸すと嫌がるだろうか?)
実際、雨脚が強まるにつれ滑りやすい地面で足を取られそうになる場面が増える。何度かエレノアが足をもつれさせそうになり、ユリウスが咄嗟に腕を取って支えるシーンが続く。
「ありがと……助かった」
「い、いえ。そっちこそ、魔術で照明を出してくれると助かる」
二人の会話が交差するたびに、隣のカダッシュがちらりと一瞥し、「この二人、いい雰囲気だな……」という表情をするが、あえて何も言わない。秘めた恋模様には立ち入らないのが彼なりの配慮らしい。
しばらく行くと、大きな岩壁の下に小さな集落がひっそり佇んでいた。数軒の家が崖に寄り添うように建てられている。どの家も扉や窓が閉じられ、積もった枯れ葉や苔が放置されているあたり、ほとんど住民がいないようだ。
「着きました。これが“あの集落”です。ご覧のとおり、ほとんどの人はもう出て行ってしまって……いま何人いるんだか」
カダッシュが声を落としつつ説明する。エレノアとユリウスは周囲を警戒しながら進むが、気配はほとんど感じられない。人がいるなら、隠れているのか、あるいは昼間は外に出ないのか……。
三人が奥の一軒に近づくと、扉が開いて中から初老の女性が顔をのぞかせた。褪せた布をまとい、険しい表情で三人を見据える。
「……来たのか、エレノア殿。あなたが、クヴェルを封じる術を持っているという魔術師か」
声音には警戒がある。ユリウスは無言でエレノアを見やる。彼女はやや芝居がかった口調で「そうよ、依頼を受けてきたの。あんたが当事者?」と言い返し、老婆は重い空気を吐き出すように頷く。
「ええ、そうです。私はこの地に残る最後の一族の者……名前はシェラと言います。どうぞ、中へ。でも、周囲に気を遣ってほしい。ここは封印が脆くなって以来、気味の悪い現象が起きるものだから……」
カダッシュが「彼らに案内してほしいと言ったのはシェラさんなんです。私の手紙を受け取り、フィリップ3世に公表しない条件で動いてくれる魔術師を探していた……」と補足する。エレノアは「なるほどね」と納得しつつ、「騒がずに進めたいのね」と悟る。
シェラの家の中は薄暗く、古い魔法燭台がかろうじて淡い光を放っている。家具は少なく、埃っぽい空気。奥のほうに木製の階段があり、床下へ続く扉が見える。そこから、何か湿った風が上がってくるような感覚がした。
「さっそく下を見てもらえますか……この先にある地下室が、古代のクヴェルを封じた場所なんです。何百年もこの一族で守ってきたけど、最近異常が出て……」
シェラはそう言いづらそうに視線を落とす。エレノアが杖の先に小さな光を灯し、ユリウスは剣の鞘を確かめてうなずいた。カダッシュは「外で見張っておきます。何かあれば呼んで」と言って退く。
地下へ下りる階段を慎重に踏みしめながら、エレノアは低い声で「ユリウス、ちゃんと足元に気をつけてね。さっきの山道より滑りやすそう」と囁く。ユリウスはコクリと頷き、「ああ……でも、あんたも無理しないで」と返す。二人のやり取りを聞いたシェラは「ふふ、仲が良いのね」と軽くからかうような調子。ユリウスは思わず「い、いえ……」と口ごもる。
階段を下りきると、そこには小さな空間が広がっていた。壁面には無数の古代文字が刻まれており、中央に石の台座らしきものがある。その上には青白い光を帯びた水晶――いや、クヴェルの一部なのだろう――が配置されている。ところどころにヒビが入り、そこからかすかな音が漏れているように見えた。
「これが、そのクヴェル……? 確かにヒビ割れが酷い。中に何らかの術が封じられているかもしれない」
エレノアは杖を構え、そっと光を当てる。水晶の表面が反射する歪んだ光は、あたかも内部に脈動するエネルギーがあり、そこから不規則な波長を放出しているかのようだ。ユリウスが後ろから覗き込み、「触って大丈夫なのか?」と心配するが、彼女は慎重に距離を取りながら診断を始める。
「うわ、なんだろう、この感じ。術式が経年劣化しているというより、何か意図的に割ろうとしたような跡があるわね。外部から衝撃を与えたのか、あるいは内側から暴走しようとしているのか……」
「そんな……封印が破れてしまったら、何が起きるの?」
シェラが怯えた声を出す。エレノアは少し戸惑いながら、「正直、私にも全部は分からないけど、少なくともここに溜まった術の残滓(ざんし)が放出されれば、怪物化や精神汚染のような現象が局地的に起きる恐れがあるわ。大規模戦乱にはならないにしても、地元の住民にとっては大惨事ね」と説明する。
それを聞いてシェラは頭を抱える。「やはり……。あの古い伝承が正しかったのか。私の先祖が“ここに大いなる力を封じた”と言っていたのは真実だったのね。よく何百年も保ったものだわ」
ユリウスは小声でエレノアに、「あれを封じ直すにはどうするの?」と尋ねる。エレノアは少し眉を寄せ、「簡単じゃないわね。とりあえずクヴェルのヒビを封鎖する術式をもう一度書き込むか、根本的に力を抜いて無力化するか……でも、そのためには紐解かねばならない術式があるはず。まずは調べる必要があるわ」と呟く。
そこでシェラがはっと何かに気づき、「あの……古い書物が一族に伝わっています。うまく読めるか分からないけど、そこの棚にあるはず」と指し示す。見ると、部屋の隅に石棚があり、埃をかぶった数冊の本が乱雑に置かれている。エレノアは目を輝かせ、「助かるわ!」と手を伸ばした。
しばらく、エレノアが書物を読み解き、ユリウスはその横で周囲を見張る形になった。地下室は湿気が強く、ライトな火術で空気を乾かそうとするユリウスの行動がかえって狭い空間に熱気をこもらせ、薄い汗が額ににじむ。
「……熱い。ごめん、これじゃ体調崩しそう。少しだけ涼まそうか」
ユリウスは苦笑し、火術を緩める。エレノアが「ううん、ありがとう。でも暑いのは嫌いじゃないわよ」と言うが、その耳元にはうっすらと汗が光り、彼女の頬はかすかに赤みを帯びている。火術だけが原因ではないのかもしれない。
お互い何かを意識し合いつつも、目を合わせると気恥ずかしくてすぐそらしてしまう。さきほど山道で語ったように、恋人未満の関係性が続いているのだ。仲間であり師弟でもあり、しかし今は対等。そして心のどこかで強く相手を求める気持ちが芽生えている。
「あ、ありがとう。読めそうよ、古代文字がかなり崩れてるけど、前にあなたと遺跡を探索したときの経験が活きるかも」
エレノアは照れを隠すように早口でまくし立て、書物と睨めっこ。ユリウスも何も言わず頷き、「俺に手伝えることがあれば言ってくれ……魔術の知識は乏しいけど、古代文字の解読なら多少覚えがある」と言うと、エレノアは「じゃあ、これを見て……」と若干うわずった声でページを見せる。
そんなやりとりを見ていたシェラが「ふふ、若いっていいわね……」とほほ笑ましく目を細める。ユリウスは「す、すみません」と瞬時に顔を赤らめるが、エレノアは気づかないフリをして書物に集中した。
エレノアが書物を読み進めるうちに、どうやらこのクヴェルは「水晶型の封印器具」として古代文明が作り上げたものらしい。主に“怨念”や“余剰魔力”を内部に閉じ込める仕組みで、定期的に封じの術を更新しないとヒビ割れを起こす。それが原因で、負のエネルギーが周囲に漏れ出してしまう可能性があるのだという。
「これ、どうやら封印式を定期的に書き加えないといけないのに、長い間放置された結果、ヒビが拡大してるみたいね。しかも、内側に封じ込められたものが相当危険……“怨霊”か“術士の亡霊”の類が封じられてるみたい。カンタール時代以前の古代戦争で生まれた残留意識かもしれない」
エレノアが青ざめた表情でそう説明する。シェラは悲鳴に近い息を漏らし、「私たちの先祖はそんな恐ろしいものを代々隠してたというのか……」と絶望したように首を振る。ユリウスがさりげなく肩に手を置き、「隠していたから、世界に被害が出なかったわけだ。あなたたちにも責任っていうより……まあ、感謝される面もある」と励ました。シェラは感謝の涙を浮かべるが、気を強く持たねばと深呼吸をする。
「問題は、これ以上ヒビが進むとどうなるか、ね。術者の亡霊が具現化して周囲に影響を与えるって可能性もある。小規模な怪物化現象や精神汚染が発生すれば、また人が死ぬ……」
エレノアはページをパラパラめくり、「いくつか封じ直す手段が書いてある。けど、難易度が高いわ。書物によると“大いなるキー”が必要で、それを石版と組み合わせて……」と続ける。すると突然、クヴェルがピシッという亀裂音を立てた。
「……なんだ?!」
ユリウスが身構える。青白い光が水晶の内部で一瞬揺れ、不吉な波動が空気を震わせる。小さな衝撃に、シェラが「ひっ……!」と後ずさる。エレノアも「まずい、内部の力が活性化し始めたかも」と警戒を強め、杖を向ける。
そのとき、クヴェルの表面に走るヒビから白いもやが溢れ出し、うねうねと天井へ立ち上る。まるで亡霊か怨念のような姿が、苦悶の声を発するかのように揺れ動く。その気配を受けて、ユリウスが火術の構えを取り、「来る……!」と短く叫んだ。
「おそらく怨霊か残留思念……はっきり実体化したら厄介ね。ユリウス、もし何か出てきたら攻撃して! 私も杖で霊体を抑えるわ」
エレノアは素早く杖を振り、幻術と火術を織り交ぜた防壁を周囲に展開しようとする。だが、その白いもやは強くなったり弱くなったり、非常に不安定で、何度かエレノアの魔術を掻い潜るように形を変える。
ユリウスは剣を抜き、ゆっくりクヴェルに近づくが、「うっ……!」と唸り声をあげてしまう。妙な精神干渉が頭を刺すように走ったのだ。足に痛みも走り、剣先が震える。「こ、こいつ、やっぱり……精神系の攻撃か?」と思考が乱れる。
エレノアは歯を食いしばり、ユリウスの背中を見て声を張る。「ユリウス、下がって! あなた、まだ完調じゃないのにここで無理は……」
だが、ユリウスは首を横に振る。「大丈夫……ここで逃げたら、封印が完全に破れる! エレノアを危険な目に遭わせたくない……」と思う。声には出さないが、心の中でそう叫びながら、剣を掲げ火術で刃を紅く輝かせる。足の痛みをこらえて一歩踏み出すと、白いもやがわずかに抵抗力を失ったか、後退する動きが見えた。
「チャンス……!」
エレノアが突き込むように杖を振り、結界を一瞬にして凝縮させる。薄い風の刃が回転し、もやを封印しようとするが、それでも完全に捕らえきれず、幽霊のような形がぐにゃりと横へ逃げようとする。
「くっ……! まだヒビから漏れ続けてるか……」
エレノアは悔しそうに歯噛みする。水晶本体をどうにかしない限り、いくら怨念を払ってもキリがないのだ。
「あの水晶のヒビを塞げば、漏れは止まるのか?」
ユリウスが汗をかきながら問うと、エレノアは即答する。「ええ、でも術式が必要。適切な呪文を書き込まないと、ただ塞ぐだけでは内圧で爆裂するかもしれない」
「じゃあ、おれが時間を稼ぐから、あんたは術式をやってくれ!」
迷いのない言葉にエレノアは一瞬目を見開き、「わかった……。でも無理しないで」と応じる。ユリウスは剣を構え直し、火術を少し加減しながら、もやに向けて斬りかかるような動きを繰り返し、霊体がこちらに近づけないようにする。彼の剣には火の術が纏わり、怨霊らしき存在に触れれば一瞬は退ける効果がある。
エレノアは書物のページを地面に置き、杖で床をカリカリと刻んで簡易の魔方陣を描き始める。口の中で呪文を唱え、時おり視線を上げてユリウスの動きを追う。ひとりで霊体と対峙しながら足の痛みをこらえる彼――その姿は、戦場でエッグを砕いた時と重なり、彼女の胸を締めつける。
「やっぱり……ユリウス、あんたは無理しすぎ……」
胸の中で何度もそう思うが、声には出さない。今は術式を完成させねばならない。気持ちを奮い立たせ、魔方陣に必要な文字とラインを引き、クヴェルの周囲を囲うように三角形の封印結界を展開。最後に杖を使い、古代文字を唱えて結界を固定する。
しかし、水晶本体は激しく振動し始め、ピシッという音がさらに響く。ユリウスが「まずい、これ、時間がもたないぞ!」と叫ぶ。エレノアも汗をだらだら流しながら、「ああ、もう少し……もう少しで結界が完成するから!」と返す。
痛みが増す足を踏みしめ、ユリウスは白いもやがこちらに迫るタイミングで剣を振り上げる。火術の炎が刃先を赤熱化させ、一瞬の閃光が地下室を照らす。その眩しさにシェラが目を覆う。「危ない……!」
「だ、大丈夫……!!」
ユリウスが叫ぶように声を上げ、もやを剣で払うと、やはりダメージを与えるというより一時的に後退させる効果しかない。それでも時間稼ぎにはなる。
(姉上に頼りきりだった昔を思い出す。でも、いまは俺だって守りたい……エレノアを、みんなを……!)
内心でそう奮起すると、痛みも気にならなくなる。いや、実際はジクジクと疼くが、それでも前に出る。その姿をエレノアが横目で見て、「ユリウス……」と呟く。彼女の胸にも熱いものがこみ上げる。もっと彼を楽にさせたいが、いまは自分がやらねばならない封印が最優先だ。
「……ああ、神よ。あるいは古代の術祖よ。どうか我らに力を……」
エレノアが独特の節回しで呪文を口にし、杖をクヴェルへ向けて突き出す。石床に刻んだ魔方陣が淡く光り、部屋の空気がふるえる。シェラが思わず後ずさるほどの魔力の波動。
水晶がバリバリと音を立て、いまにも割れそうだが、魔方陣の光がそれを外側から包み込み、ヒビにかすかな霧のようなものが入り込んでいく。
「これで……! 封印できるかもしれない……」
エレノアが腕に力を込める。すると白いもやは悲鳴のような形で大きくうねり、弾かれるように水晶の中へ引き戻される。ユリウスが「よし、あと少し!」と叫び、火の術をいったん解除して剣を鞘に納め、代わりに魔術の炎弾で周囲の空気を整えて支援。
数秒か、数分か、それとも一瞬か――やがて衝撃が大きく揺らぎ、最後にピタリと静まり返った。部屋を満たしていた凄まじい緊張が消え、クヴェルは青白い光を失い、ただの水晶体のように澄んだ透明に戻る。
「……はあっ、はあっ……」
エレノアが床にへたり込みそうになり、ユリウスが慌てて支える。「エレノア……大丈夫か?」
彼女はゼェゼェと呼吸を整えつつ、小さく笑みを作る。「ええ、なんとか。あなたこそ、足が……。痛いでしょ?」
「大丈夫、大丈夫……俺はちょっと踏み込みすぎただけだ」と言い張るが、額の汗が物語るとおり、かなり無理をしている。
シェラが傍に駆け寄り、「封印、成功したんですか?」と目を潤ませて訊ねる。エレノアは疲労困憊のまま微笑し、「ええ、ひとまずヒビは一時的に塞ぎ、内部の怨念も再封印されました。でも……」と口を濁す。
「でも?」
「古代文字によると、これを完全に安定させるには“鍵”が要るの。ここにある魔方陣だけじゃ仮封印で、いつかまた暴走するかもしれない。ちゃんとした儀式とアイテムが必要なのよ」
シェラは暗い顔でうなだれ、「そんな……。私たちにはもう力も人手もない。どうすれば……」と嘆く。エレノアは杖を立て直し、「依頼した人物が、その儀式に必要な情報を持ってるはず。合わないといけないわね。あるいはあなたたちの一族が昔どこかに保管していた道具があるかもしれない」と提案する。
ユリウスはふうと息を吐き、「とりあえず暴走は止まったんだ。ひとまず村人に危険はない……それだけでも来た甲斐があったよ」と励ますように言う。シェラは「本当に……ありがとう」と深々と頭を下げる。
クヴェルの暴走が落ち着き、シェラの家の居間で一息つくことになった。カダッシュも戻ってきて事情を聞き、「まだ完全解決とはいえないが、封印が破裂しなくて本当によかった」と胸をなで下ろす。
村全体が沈んでいるような重苦しさは相変わらずだが、少なくとも地下に潜んでいた怨念の暴走という最悪の事態は回避された。外を見れば雨がやみ、雲間から夕陽が射している。
「今日はもう遺跡調査は無理かな……。あなた方、泊まっていきませんか?」
シェラが申し出る。ユリウスは一瞬姉ヌヴィエムの顔を浮かべ、砦に戻って状況を報告することも考えたが、どうやら封印が不安定なので当面は離れられないだろう。エレノアも「確かに、今日は体力も魔力も使い切ったし、ここに泊まって明日以降の情報収集をするほうがよさそうね」と同意する。
こうして、カダッシュと一緒に家の裏で馬の世話をし、夕食をとる段取りが決まった。シェラが簡素なスープと硬いパンを出してくれる。居間には古いランプが置かれ、そこに三人(+カダッシュ)が円になって座る。
途中、ユリウスとエレノアは疲労のせいか食が進まない。カダッシュは気遣って「山の薬草を煎じたお茶を出しますね」と立ち上がる。シェラも台所に引っ込み、二人きりの時間が訪れた。
(……今日はほんと大変だった。エレノアが無事でよかった。さっきの戦闘で、もし俺が足を引っ張ってたら……。いや、まだこうして彼女と向き合えてるのは幸運だ。何か言わないといけない気がする。ここまで頑張ったんだから、感謝も伝えたい……でも変なセリフを言って引かれたくないし……)
そんな考えが頭の中を駆け巡り、言葉に詰まっていると、エレノアが先に口を開く。「……ありがとうね、ユリウス。あなたがあそこで時間を稼いでくれなかったら、封印できなかったわ」
ユリウスは「あ、いや……俺はただ、剣を振っただけで……」と慌てるが、エレノアは首を横に振る。「ううん、あれは簡単じゃなかったはず。足がまだ痛むんでしょ? 無理してるの見え見えよ」と鋭く指摘する。
ユリウスは苦笑しつつ、少し顔を俯ける。「隠せてなかったか……まあ、エレノアの苦労に比べたら大したことないよ。魔術の封印はすごいエネルギーを使うんだろ?」
「ええ、まぁ……疲れたけど、あなたが助けてくれたから上手くいったわ。それだけよ」
その言葉に、二人の間にふわりと柔らかい沈黙が落ちる。いつもだったら軽口でごまかすエレノアが、今は誠実な感謝を述べる珍しい姿。ユリウスは照れを隠せず、思わず顔を赤らめながら「え……と、これからも、よろしく……」などと口を濁す。
「ふふ……あなたも、もう無理しないでいいのよ。姉上に頼りきりだった頃とは違うって、自覚してるんでしょ?」
エレノアの瞳はまっすぐユリウスを見つめている。ユリウスはどきりとし、反射的に頷いてしまう。「ああ……もう子どもじゃない。俺も姉上とは違う形で人を守りたいし、あなたにも頼りたい……じゃなくて、支えたい、かな」
思わぬ形で本音が漏れ出すと、エレノアが一瞬目を見開き、口元に微笑みが走る。「支えたい、ね……嬉しいわ。じゃあ、私もあなたを支える。これからは、そういう関係でもいいんじゃない?」
その肯定的な言葉に、ユリウスの鼓動が跳ね上がる。(やばい、これは……会話の流れによっては告白めいた話になる……)と思いつつ、心地よい震えが身体を走る。エレノアが好意を示してくれていることは、彼女の目の輝きや微笑みから明らかだ。
二人の間の空気が温かくなったところで、カダッシュが「お茶を……あ、すみません」と気まずそうに戻ってきた。気配を感じとったのか、戸口で立ち止まり、テーブルに茶を並べてそそくさと退散。エレノアとユリウスは「う、うん、ありがとう……」と引きつった笑みを返すしかなく、そこに淡いロマンチックな雰囲気が流れたまま会話は一旦終了した。
翌朝、雨上がりの山道を少し下ったところに、一人の旅装束の男が立っていた。年配のようで、背に大きな荷を背負い、あたりをうろうろと見回している。カダッシュが先に声をかけ、「もしや……あなたが今回の依頼主?」と尋ねると、男は軽く頭を下げ、「そうです。いや、正式には私は単なる使者。ほんとうの依頼人は別にいますが……」と歯切れ悪く答える。
エレノアとユリウスが近づき、「昨夜クヴェルを仮封印しました。でも、それを完全に沈静化するには特定の鍵が必要とか。あなたがその情報を握ってる……?」と確認すると、男はビクビクしながら「は、はい。一族の秘宝を探す必要があるんです。古い文献では‘深き眠りの鍵’と呼ばれる代物で、それがないと完全封印は無理だ、と……」と切り出す。
そこから聞き出した内容によると、鍵は別の遺跡に保存されている可能性が高く、表立って国に報告すれば領地に干渉されるという理由で、こうして秘密裏にエレノアを招いたらしい。分散治世とはいえ、王都やフィリップ3世に干渉されることを嫌がる貴族や勢力はまだ多いのだ。
「それで、あなた方にお願いしたいんです。そこのお二人(エレノアとユリウス)だけで、こっそり鍵を取りに行ってもらえないか、と……。私たちにはもうこの封印を維持する力がないので……」
男は深々と頭を下げる。エレノアは呆れながらも、「こっそりね……。まったく、やることがまわりくどいわ。だけど放置すれば、いずれまたクヴェルが暴走する。被害が出れば、結局大騒ぎになるのに」とため息をつく。ユリウスも同感だが、ここまで来た以上、投げ出すわけにはいかない。
「わかった。依頼を受けるよ。……エレノアもいい?」
ユリウスがそっと伺うと、彼女は苦笑交じりに、「仕方ないわね。あの水晶を一度は沈静化したけど、根本的な解決にならないもの。ヌヴィエムに相談すれば、きっと大掛かりになってあたしたちの自由もなくなるし、ここは2人で動きましょ」とうなずく。
その会話の内容に、使者はさらに恐縮した様子で何度も礼を言う。「そ、そのかわりと言っては何ですが、謝礼はきちんと用意しますから……。あと、クヴェル封印に必要な術式や道具は私から渡せるものをすべてお渡しします。私にできる範囲で協力します」
エレノアは「じゃあ、詳しい場所の地図とかある? できればスムーズに行きたいわ」と話を先導し、ユリウスは横で黙って聞きながら、エレノアの手腕に感心していた。もともと彼女は自由奔放と言われるが、こういう局面では交渉や要領の良さを発揮する。そこに惚れ直すユリウスがいた。
この日の晩、エレノアとユリウスはシェラの家ではなく、使者が手配した近隣の無人家屋を宿として借りる形になった。雨がまた降り出しそうな天気で、外には外灯がほとんどない。山に囲まれた暗闇が迫る静寂のなか、屋内だけがほのかにランプで照らされている。
簡易のベッドが二つ用意されていたが、壁越しに仕切られただけの小部屋なので、相手の声がよく聞こえるような距離感。2人きりでこの夜を過ごすのは微妙な緊張感があった。
(今までずっと旅先でも仲間大勢と泊まることが多かった。エレノアと二人だけ、しかも暗い夜なんて……。なんだか落ち着かない。下手に部屋を行き来したら変な誤解を招くよな。でも、今日話ができるのは今だけかもしれない……。どうしよう)
結局、食事も済ませ、シャワーがわりに汲み置きの水で体を拭ったあと、ユリウスは部屋にこもりベッドに横になった。足の痛みがじわじわと残っており、しばらく目を閉じて休もうとするが、思考がふわふわして眠れない。エレノアは隣室で何をしているんだろう。書物を読んでいるのか、魔術の復習をしているのか……。そんなことを考えていると、ドアがコツコツとノックされた。
「……ユリウス、まだ起きてる?」
小さな声はエレノアのもの。ドキッとしながら、声を押さえて「うん、起きてる」と答えると、戸が少し開いてエレノアの顔が覗く。彼女は薄いローブを羽織ったまま、少しほてった顔で部屋に入ってきた。
「ごめんね、夜分に。でも明日は早めに行動しないといけないし、少し話したくて……眠れないのよ」
ユリウスは心臓が跳ねるのを感じつつ、わずかに身体を起こし、「どうぞ。……何か気になることがあったの?」と促す。
エレノアは部屋の隅に腰掛けて、ランプの柔らかい光を受けながら目を伏せる。「さっき使者と話してて思ったんだけど、今度の‘鍵’探し、私たち二人だけでやるんでしょ? 場所も詳しくないし、もしかしたら今日みたいな戦闘より厄介かも。あなたの足が心配で……」
それは確かに気になるところだ。ユリウスの傷は治りきっていないし、クヴェル事件は短期で解決する保証はない。危険が増す可能性は高い。
「俺だって、心配かけてるのは分かってる。でも姉上に言えば騒ぎになるし、あなたが大規模な軍を引き連れるのも望んでないでしょ? だから、おれしかいないだろう……」
ユリウスが静かに言うと、エレノアは痛むような顔で微笑む。「ええ、そうね。あなた以外に頼める人はいないから……ごめん、私もわがままで。あなたを危険に巻き込んでるわね」
「そんな……いいんだ。むしろ俺は、あなたと二人で旅をするのが、嫌じゃない……っていうか、その……」
不意に言葉を詰まらせ、顔を背ける。エレノアはその姿にほんのり口元を緩めて、「私も、嫌じゃないわよ。むしろ、一緒で助かる。あなたが側にいると、安心するもの」と囁く。
その一言が深く胸に響く。狭い部屋の中、雨音が細く響く沈黙。ユリウスは顔を赤らめたまま唇を噛み、「そ、そうか。ありがとう」としか言えない。せっかく二人きりなのに、これ以上どう踏み込むべきか分からない。
エレノアは僅かに息をついて、杖を床に立てかける。「……ねえ、ユリウス。私たち、もう少しはっきりしたいと思わない? 戦友とか師弟とか、言葉はいろいろだけど……本音は、もっと特別になりたいって思ってるんじゃないか、私たち」
ドキリ。言葉が止まる。恋愛に不器用な二人が、ここまで踏み込む会話をするなんて。しかし、この雨音に包まれた夜なら、嘘偽りなく向き合える気がする。ユリウスは胸の内を荒い息で押さえ、「え、エレノア、それって……」と震えた声で返す。エレノアは頷くように瞳を閉じ、「あなたに聞きたいの。どう思ってるのか」と問いかける。
足の痛みなんて忘れ、彼は心の奥から言葉を引っ張り出す。「……おれは、あんたのことが好きだよ。もうずっと前から。戦場で助けてもらったときから、ただの憧れや尊敬じゃなくて、もっと……」
それを聞き、エレノアの頬が熱を帯びる。「嬉しいわ……私も、あなたには普通の弟子以上の感情がある。自由奔放に見えるかもしれないけど、本気の恋になると怖くてね……でも、あなただから素直に言える」
二人の視線が交わった瞬間、ハッと息が止まる。今までのぎこちなさが嘘のように、気持ちがリンクしていく。小さな灯りが照らす中で、互いに寄り添うように座り、言葉なく抱き合うには少しだけ踏ん切りがつかないが、気持ちは確かめ合えた。
「……ありがとう。これからも俺は、あんたを守るから。……恋人、みたいな感じで大丈夫なのか?」
ユリウスが戸惑うように聞くと、エレノアはくすりと笑って、「それでいいんじゃない? 私たちはもう支え合う仲だから。誓い合わなくても一緒にいられるし……でも一応、これで恋人になりましょ」とさらりと言う。
胸を締めつける幸福感。ユリウスは目を潤ませてうなずき、「ああ……そうだな」と呟きながら、そっとエレノアの手を握る。エレノアもその手を握り返し、頬を紅く染めながら微笑む。
こうして、二人は大きく距離を縮めた。熱い言葉を掛け合うわけでもなく、静かに手を握り合うだけ。だが、雨音と夜の静寂が、その行為の尊さを際立たせる。長きにわたる師弟関係や戦友関係を経て、いま新たな一歩を踏み出したのだ。
「そろそろ休もうか……明日、朝早く出るんでしょ?」
エレノアが柔らかい声で言う。ユリウスは名残惜しそうに握った手を離し、「うん、そうだね。ありがとう、エレノア。おやすみ」と返す。二人の会話は短いけれど、お互い気持ちが通じ合った今、何も恐れるものはない気がした。
朝になり、雨はすっかり上がって澄んだ空気が漂う。シェラの家には最低限の朝食が用意されており、ユリウスとエレノアは昨夜のやり取りをおくびにも出さず、淡々と食事を終える。いつもより自然に言葉を交わしていることに気づく人は、カダッシュだけかもしれない。
「じゃあ、あの鍵のありそうな場所、地図でいうとどのあたり?」
エレノアが使者を前に問いかけると、彼は手作りの地図を広げて説明を始める。「ここの峠を越えた先にある‘廃寺’が怪しい。私の主はそこに鍵が安置されている確率が高いと言っていました。詳しい資料がないので推測ですが……」
「ふーん、廃寺ね……。面倒そうだけど、仕方ないわ。ユリウス、また歩きづめになりそうよ?」
ユリウスは笑みを返し、「ああ、でも今度はあんたが危ない目に遭ったら、そのときはしっかり守る。……心配しないで」と言う。さりげない言葉にエレノアは少し頬を染め、「変にカッコつけすぎないでよ」と照れ隠し。そのやりとりを見たシェラは「若いっていいわね」とまた微笑む。
こうして二人は、古代クヴェルを完全に封じるための“鍵”を求め、次の目的地――廃寺へ向かうことになる。山の天気は不安定で、小規模な魔物や残党が出るかもしれないが、彼らはもう臆さない。二人で力を合わせれば何とかなると信じているからだ。
「姉上には、あとで報告すればいいよな。大きな問題になったら呼び戻されるだろうけど、今は俺たちだけで対処できるはず」とユリウスはエレノアに確認する。エレノアも「そうね。ヌヴィエムがアイドル公演に集中できるよう、ここは私たちが綺麗に片付けましょう」と頷く。
「……まるで夫婦の会話みたいだね」とカダッシュが茶々を入れると、エレノアとユリウスは「う、うるさい!」と同時に反応してしまう。使者やシェラもくすくすと笑い、暗かった家の空気が一気に和む。
こうして、ユリウスとエレノアは再び旅立つ。下山する道のりで夕日に染まる谷を見下ろし、二人は黙って歩きながらも心の奥に温かな想いを抱えている。まだお互いを「恋人」と呼ぶには照れがあるが、互いを唯一無二の存在と認め合った。
古代クヴェルを完全に封じる“鍵”を探す旅――ここからが本番ともいえるが、二人の関係が変わったことで、微妙なラブコメ要素も一段と濃くなるだろう。行く先々で発生する小さな事件や謎を解きながら、ユリウスは火術と剣の回復を進め、エレノアは新たな魔術応用を学び続ける。
(エレノアを守るって、こういうことなのかな……。ただの仲間じゃなくて、大切な恋人を……)
そう胸の内でつぶやき、ユリウスはエレノアの後ろ姿を見つめる。彼女は振り返り、少し微笑む。「どうしたの?」
「あ、いや……何でもない。ほら、先を急ごう」
エレノアの笑みにドキリとしつつも、ユリウスは笑って流す。二人の間には確かな思いがある。それだけで、この危険な道も悪くない。
空には赤紫の夕焼け雲が広がり、風は穏やかに吹いている。かつて、エッグとの戦いに明け暮れた日々が嘘のような静けさ。しかし、新たな冒険が始まる予感に胸は高鳴る。
クヴェル封印の使命を果たす旅の合間に、喜びや苦労を分かち合いながら。