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天蓋の欠片EP2-3

Episode 2-3:探偵の動き

朝日が昇る前の暗い街。ビル群の隙間を抜ける冷たい風が、アスファルトを濡らしたまま吹き抜けていく。時刻は午前4時半。普通の人々がまだ夢の中にいる時間帯。だが、この世界の「事件」は眠らない――否、それどころか闇の中でこそ動きを増す。

その闇の一角に、トレンチコートの女が立っていた。
九堂エリス――探偵にして、ユキノの良き理解者。深夜のうちに仕入れた情報を確かめるため、都内のはずれにある小さな廃倉庫を訪れている。空き地の真ん中にポツンと建っているそれは、壁のペンキが剥がれ、天井の一部が崩落しかけている廃墟同然の建物だ。

「ここのはず、なんだけど……。」

エリスは薄闇の中で、スマートフォンの地図を確認しながら呟く。タスクフォースから回ってきた情報によれば、真理追求の徒の下部組織が「実験用の拠点にしようとしているかもしれない」という候補の一つが、ここに該当するという。
だが、外観を眺めても特に変わった様子はない。警備の人影もなければ、不審者の気配もしない。ただ、低くうなるような風の音が耳をかすめるばかり。

(とはいえ、やはり胡散臭い匂いがするわね……。)

探偵としての勘が、どうにも引っかかる。さっさと引き上げてもよいが、「やはりここは違いました」では済まない。下部組織が内部を改装して潜伏している可能性も否定できない。ならば、確かめる必要がある。

エリスは音を立てずに倉庫の周囲を回り込みながら、壁に空いた隙間から内部を覗き込もうとする。幾度か繰り返し、ようやく壁に穴の空いた箇所を見つけると、うっすら覗いてみた。

(暗いわね……あまり照明もなさそう。肉眼じゃ何もわからないか。)

懐中電灯を点ければすぐバレる。ここは探偵用の小型赤外線カメラを使うしかない。エリスはコートの内ポケットからそれを取り出し、静かにレンズを開く。赤外線スコープが作動し、カメラのモニターに少しずつ倉庫内部の輪郭が映し出されていく。

「……やはり、何もなさそう……かしら。」

埃の積もった床、投げ出された古い工具、倒れかけた棚……真理追求の徒が潜む感じはしない。手ぶらで帰るしかないか、と考え始めたとき、スコープの隅に妙な反応が見えた。
床板の一部が不自然に外され、さらに隠し扉のようなものが覗いているように思われる。通常の床材よりも綺麗な金属プレートがはめられている――そこだけ新しい素材に見え、どう考えても周囲との経年劣化具合が違うのだ。

「ビンゴね。」

エリスは口元を引き締める。どうやら下に空間がありそうだ。真理追求の徒はEMやP-EMを使った危険な実験を地下スペースで行う習性があるらしいと噂に聞いていたが、まさにそれに該当するかもしれない。
問題は、彼女一人で飛び込んでいいのかどうか。タスクフォースの支援を呼ぶにしても、下部組織が既に引き上げている可能性もある。もしも内部が空っぽなら、警戒心を高めるだけ損だろう。

「一度、中を確認するしかないわね……。」

リスクは承知だが、このまま見過ごすのは探偵としての性分が許さない。エリスはリボルバー型の射出機(正式には彼女の精神構造体発動機)に軽く手を触れ、決意を固める。一度外周をぐるりと確認し、警備や見張りがいないことを再度確かめた後、倉庫の裏手からゆっくりと扉を開いた。

扉の錆びた蝶番がギイと音を立てるが、周囲に人影は見えない。薄暗い倉庫内に足を踏み入れると、埃っぽい空気が鼻を突き、床板がミシリと低く唸る。外の月明かりがほとんど届かず、視界は悪い。

「さて、どこかしら……。」

先ほどスコープで見た床下の位置を頭の中でおおよそ把握し、そちらに向かう。薄い懐中電灯の光を床近くに落としつつ、足元を慎重に確認する。すると、埃の中にわずかに新しい足跡のような跡が見つかった。

(やっぱり、誰かが出入りしてる。時間は経ってないはず。)

床材が新しく貼り直された部分を覗き込むと、確かに鋼鉄製のプレートがあり、持ち上げるためのリングのようなものが取り付けられている。普通の倉庫の床にこんな仕掛けは不要だ。
エリスは警戒を解かぬまま、耳を澄ませる。下から何か音がしないか。――しばらく静寂が続くが、微かに機械的な振動のような低周波音が聞こえるような気がした。人の声ではない。

(地下に何か装置か発電機でもある? 興味深いわね。)

射出機に少量の擬似EM(P-EM)をチャージし、万一のときに精神構造体をすぐ展開できるように準備する。深呼吸をし、リングをゆっくり持ち上げようとすると、鍵やチェーンはない。意外にあっさり開けられそうだ。

(……とはいえ、軽率に飛び込むのは危険。まずは確認。)

懐中電灯を消し、再度赤外線カメラを低い位置に構えながら、プレートを数センチ持ち上げ、微妙な隙間から地下を覗く。さらに濃い闇が覗くだけだが、カメラの赤外線ならある程度見通せる。
モニターに映ったものは、コンクリートの階段と狭い通路。いくつかの金属棚が並び、奥に扉らしきものがある。やはり秘密の地下スペースが存在したらしい。人の姿は見えないが、何やら機械が置かれているようにも見える。

(やはり掘り出し物ね……うかつに突入すると危険だけど、ここまで来たからには確かめなきゃ。タスクフォースを呼んでも時間がかかるし……下見だけ、行きましょう。)

かがんだ姿勢のまま、エリスは柔らかく床板を開けて地下へと降りる。意外に階段はしっかりしており、足元のきしみも少ない。階段下のコンクリ壁に、最近になって取り付けられたと思しき蛍光塗料がかすかに光を放っているのが見えた。

「これは……誘導サイン。やっぱり連中が使ってる拠点か。」

真理追求の徒は、実験や研究を行う際に目印として蛍光塗料を使うことが多いという情報をエリスは得ていた。分岐がある通路でメンバーが迷わないようにするのだろう。
階段を下りきると、鼻を突く化学薬品のような匂いが漂う。かすかな機械音の正体は、通路の奥にある扉の向こうから聞こえるらしい。エリスは体を壁に寄せ、物音を立てぬように歩みを進める。

(まだ人影はない……?)

扉の前に立ち止まり、そっとノブに手をかける。鍵はかかっていない。罠の可能性も考えつつ、ノブをゆっくり回した――開いた。
わずかな隙間から覗くと、そこには小さな部屋があり、古いモニターやパソコン、薬品らしきボトルが雑然と置かれている。照明は薄暗く、まるで簡易ラボのような様相を呈しているが、人の姿はやはり見当たらない。

エリスは息を潜めつつ部屋に足を踏み入れ、パソコンの画面を確認する。英数字がバーッと並び、グラフのようなものが映し出されているが、素人には理解しがたい。タスクフォースか、あるいは専門知識があれば解析できるかもしれない。何らかの実験データだろうか。
薬品ボトルのラベルには「P-EM 拡張テスト用」などと走り書きがあり、真理追求の徒の手口そのものだ。これだけ証拠が揃っているなら、ここが連中の秘密実験拠点だと断定して差し支えなさそうだった。

(情報としては上々。写真を撮って、タスクフォースに送ろう。彼らに突入してもらえばいい話よ。)

その考えに至った瞬間、背後の扉が勢いよく開く音がした。
反射的にエリスは身を伏せる。遅かったか――誰かが戻ってきたらしい。足音は二つ。部屋に入ってきた人物が会話を交わしているのが聞こえる。

「おい、もう外は明るくなるぞ。今夜の作業は終わりにしないと、警察やら怪しい動きがあるって聞いたぜ。」
「大丈夫だ。ここまでわざわざ誰も来ないさ。あの事故倉庫だと思われてるから逆に安全なんだよ。……でも、今日は一応最終チェックしとくか。パソコンのデータだけは流出しないようにロックしておきたい。」

どうやら下部組織の構成員だ。エリスの心臓が強く鼓動を打つ。 二人いるなら、一気に戦闘になれば不利かもしれない。が、隠れる場所は限られる。この部屋で隠れて逃げるのは難しい。
だが、エリスも探偵とはいえ、決して素人ではない。彼女のリボルバー型射出機がある限り、対EM戦もある程度は戦える。問題は、物音を立てた瞬間、相手がどう反応するか。ここは奇襲しかない、と判断する。

(やるしかないわね……真理追求の徒の連中と話し合いなんて無駄だし、この場所を押さえるなら一度制圧するしかない。)

エリスは呼吸を整え、射出機を握りしめる。冷静さを保ちつつ、ゆっくり身体を起こす。二人組は部屋の中央に立っており、一人がパソコンを操作しようとしている。背中を向けている今がチャンスだ。
床を蹴り、エリスは物陰から一気に飛び出した。

「そこまでよ! 動かないで!」

短く鋭い声が部屋に響く。リボルバーの銃口を二人に向け、エリスはわずかに距離を取りながら目を光らせる。男たちは驚き、振り返りざまに何かを言いかけるが、その一人が素早くポケットから円筒状の小型装置を取り出すのを見逃さなかった。

(閃光弾か何か……!?)

エリスは即座にトリガーを引く。銃口から放たれた青い閃光の弾丸が、男の腕に命中――ただし致命傷を避け、装置を落とさせる程度の衝撃を与える。男は悲鳴をあげて床にうずくまり、もう一人の男も怯んだ表情を浮かべる。

「ぐっ……何者だ……!」
「探偵よ。あなたたちの悪行、ここで終わりにさせてもらうわ。」

リボルバーを構えたまま、エリスは二人を睨む。すると、まだ立っているほうの男が懐から黒い小瓶を取り出す。――P-EMか何かの薬品だろう。これを使えば、精神具現化の実験などを強引に行うことができるはずだ。

「くそっ! ここで一体化してやる……!」

男がそう叫び、小瓶を自分に浴びせるように振りかぶろうとする。危険だ――もし暴走でもされたら、この狭い地下で大変なことになる。エリスは間髪入れず、再びトリガーを引く。
青い弾丸が男の胸元を正確に捉え、衝撃で瓶を落とさせる。男は背後の壁に叩きつけられ、苦しげに咳き込む。しかし、P-EMの液体が若干溢れ、彼の腕に付着してしまった。

「うっ……ああ……!」

激しい痛みとともに、男の腕から紫黒い靄のようなオーラが吹き出す。P-EMが精神を強引に抽出し始めているのか、男の表情が捻じ曲がり、瞳が焦点を失っている。
エリスは歯を食いしばる。もし完全に暴走すれば、狭い地下室が崩れかねない。だが、このまま放置すればここにいる全員が危険だ。もう一人は腕を撃たれ、動けずうずくまっているが、暴走の巻き添えになるかもしれない。

「まずい……止めなきゃ。」

射出機をかまえ直し、エリスは精神構造体を完全展開することを決意する。心の中心を“撃ち抜く”ための特別な手順が必要だが、ここで躊躇している暇はない。
一瞬のためらいの後、エリスは自らの胸元にリボルバーを向ける。――引き金を引いた瞬間、鮮烈な青い光が弾け、空間が脈打つように揺れる。

「っ……! 私の意志は……冷静に、的確に……。」

胸を貫くような感覚が走り、目の前が閃光に包まれた。次の瞬間、エリスの手には実体化した精神構造体――銀色のリボルバーよりさらに輝きを放つ“冷徹なる撃鉄”が握られている。
同時に、軽い浮遊感とともに周囲の空気が変わった。暴走しようとするP-EMのエネルギーが渦巻いているのが、視覚的にも感じ取れる。黒いオーラが男の腕から肩を覆い始めているが、エリスは動じない。

「あなたを暴走させるわけにはいかない……! 沈静化する!」

心の中で意志を込め、精神構造体の引き金を引く。――すると、銃口から青く歪む空間の波紋が走り、黒いオーラをぶつ切りにするような衝撃波が放たれる。
衝撃波が男を包み込むと、男は凄まじい叫び声をあげた。

「ああああっ……!」

しかし、その叫びも徐々にかき消され、黒い靄は青い光に吸い込まれるように散っていく。最終的には男の精神暴走は食い止められ、彼は力なく床に倒れ込んだ。小刻みに痙攣しているが、意識は朦朧としているらしい。

(よかった……間に合ったわね。危うく暴走EMが炸裂するところだった。)

構造体を活かした抑制弾の発動。エリスは浅い呼吸を繰り返しながら、男が完全に沈黙したのを確かめる。
もう一人の男は腕を押さえながら苦しそうにしているが、EM暴走までは至っていない。部屋の隅で呻いているが、こちらに反撃する余力はないだろう。

エリスは部屋をざっと見渡し、息を整える。
パソコンや薬品は残され、二人の構成員は無力化。十分な成果だ。ただ、ここで長居すると、別の仲間が来る可能性もあるし、当人たちが再び動き出す危険もある。すぐにタスクフォースへ連絡し、拠点の制圧を依頼するのが賢明だろう。

「やれやれ……本当はユキノにこんな姿見せたくないけど、私もやっぱり無茶してるわね。」

少し苦笑しながら、エリスは構造体を解除すべく深呼吸をする。そして引き金を引き、今度は逆方向に自分の「心の中心」を解放し、青い光をかき消す。リボルバーが消え、代わりに強烈な疲労感が押し寄せる。やはり構造体の展開は大きな精神負荷が伴うのだ。

「はぁ……急いで写真とデータを撮って、帰る準備をしなきゃ。」

膝を少し震わせながら、エリスはスマホと携帯カメラで部屋を手早く撮影する。パソコンの画面も撮り、薬品のラベル、男たちの顔も。タスクフォースへの報告書に必要なエビデンスだ。
最後に男たちが仕掛けてないか確認し、P-EMの瓶を回収しておく。自分が“生成者”でもなければ制御が難しいものだが、外部に放置すればまた連中の手に渡るかもしれない。エリスにとっては面倒でも「証拠保管」の手続きが必要だろう。

「さて、ここまでね。お休みなさい……。」

床に倒れた男たちに向けて呟くが、返答はない。もともと彼らの目的は、この施設で何らかの実験を進めることだったはず。エリスが先に見つけたのは幸運と言うべきか。
部屋を出て階段を上がり、倉庫の外へ出る。夜は白々と明け始めているが、外の空気はひんやりとして肌が粟立つ。深く息を吸い込んでから振り返り、ドアに外から仮留めのチェーンを巻いて簡易ロックしておく。これでしばらく中から出入りしづらくなるはずだ。

あとはタスクフォースを呼び、しばし待機すればいい。もっとも、彼らの到着は数十分後になるだろう。エリスはスマホに手を伸ばし、連絡を入れようとした――そのとき、遠くでサイレンの音が鳴り響き始めた。警察か消防か。あるいはタスクフォースの車輌かもしれない。
電話をかけるより先に、誰かが倉庫周辺の動きを感知したのか、あるいは何かしらの事件通報があったのか。エリスの眉がわずかにひそめられる。

「真理追求の徒の仲間が別口で騒ぎを起こしてる……のか。それとも、ここへの通報が既に入った?」

悩みつつも、今更隠れる必要はない。もし警察なら、真相を話せばいいし、タスクフォースならなおさら手間が省ける。エリスはスマホを握り、連絡を急ぐ。

「こちら九堂。倉庫の地下で真理追求の徒の下部組織メンバーを確保。二名負傷につき要救護。施設内にP-EMらしき薬品多数、パソコンのデータもあるわ。座標は――」

淡々と事務的な報告を入れる。タスクフォース側のオペレーターが驚いたような声を上げるが、「すぐに救助班を送る」と言って連絡を終える。エリスはホッと一息つき、夜明けの空を見上げた。

(これで一つ拠点を潰せたわね。だけど、奴らの下部組織は無数にあるし、これで終わりじゃない。)

まるで“事件”はまだ序盤――そう感じる。ユキノが射出機を使いこなせるようになったとしても、この戦いがすぐに終わるとは限らない。心の底から息苦しさを覚えながら、エリスは軽く頭を振る。
さあ、タスクフォースが来るまでに倉庫周辺の様子を再度確認しておこう。ひょっとしたら仲間が隠れているかもしれない。それが探偵としての最後の仕上げだ。

「やれやれ……ユキノにも、こういう現場はあまり見せたくないわね……。」

苦笑いを浮かべながら、エリスは足早に倉庫を一周する。薄曇りの空がうっすらと染まり、街がゆっくりと朝へと移行していく。――探偵の長い夜は、まだ終わりそうにない。

太陽が地平線から半分ほど顔を出す頃、タスクフォースの車輌が倉庫近くに到着した。無骨な黒い車両から降りてきたのは、数名の隊員と医療要員らしき白衣の男。彼らはエリスに挨拶を軽く交わすと、すぐに地下へと降りていく。現場の確保と負傷者の救護、そして証拠品の回収がメインの作業だ。

「おい、気をつけろ。P-EMが撒かれてる可能性がある。」
「了解。ガスマスクと防護スーツを……。」

隊員たちの連携は手慣れている。エリスは倉庫の外で待機しながら、隊員に渡せる情報をまとめた報告書をスマホで作成する。簡易的とはいえ、どの場所に何があり、どれだけの証拠を確保したのか、写真を添付しながら整理していく。
やがてタスクフォースのリーダー格と思しき人物が現れ、エリスのもとへ歩み寄ってきた。グレーのジャケットの内側には拳銃らしきものがホルスターで固定されている。彼は小さく頭を下げると、淡々と口を開く。

「九堂エリスさん……いつも急な対応ありがとうございます。今回も単独で突入されたんですか?」
「まあ、下見のつもりがこんな形に。もう少しでやられかけたわ。」
「危険なことを……。できれば、事前にタスクフォースへ連絡いただければ助かりますけどね。」

その言葉には棘があるが、エリスは苦笑で返す。タスクフォースは官民合同の研究組織であり、真理追求の徒と対峙する専門部隊も擁しているが、官僚的な手続きや指揮系統が複雑で、即応性に欠ける面がある。探偵としてのフットワークと彼らの組織力を組み合わせるのが、今のエリスの立ち位置だ。

「もちろん承知してるわ。けど、今回も下部組織が残ってると確信が持てなかったし、あなたたちを呼ぶのは気が早いかと思って。でも結果的に上手くいって何よりでしょ?」
「……まあ、そうですね。現場の確保も順調ですし、数名の容疑者を捕らえられれば大きな進展になります。資料も豊富らしく、真理追求の徒のネットワークを割り出す手がかりになるかもしれません。」

リーダーは満足げに頷く。だが、その表情には安堵だけでなく、一抹の警戒心も滲んでいる。エリスが単独でここまで踏み込める力――すなわち“射出機”と彼女自身が持つ戦闘能力に、タスクフォースも一目置いているのだ。

「しかし、あまり無茶はしないでください。あなたの身体能力やEMとの親和度はタスクフォースでも稀な事例です。もしものことがあれば、こちらも損失が大きい。」
「ふふ、心配してくれてありがとう。でも、無茶するのが私の生き方なのよ。あなたたちには理解できないかもしれないけど……。」
「……わかりました。とりあえず、地下の回収作業は我々に任せてください。あなたはひとまず休んでいただいても構いません。後ほど、正式な書類をメールで送りますので、返信をお願いしても?」
「もちろん。よろしくお願いするわ。」

エリスは笑みを返し、手を振ってその場を離れる。倉庫の外には朝日が斜めに差し込み、空気が一気に明るみを帯びる。しかし、その光は決して暖かいだけでなく、真理追求の徒という闇を浮き彫りにしているようにも感じる。

「さて……そろそろ帰って仮眠を取らないと、昼からの仕事に支障が出そうね。……ユキノには内緒で、こんな時間まで探偵仕事してるなんて言えないわ。」

思わず自嘲気味に呟く。アクションの後の疲れがどっと押し寄せ、足元が少しふらつく。――射出機を大きく展開したせいで、精神力を消耗しているのだ。
車に乗り込み、エンジンをかける。タスクフォースの隊員が手を挙げて「ご苦労さま」と合図を送ってくるのを横目に、エリスは鋭くアクセルを踏み、倉庫跡地を後にした。

倉庫での一件を終え、早朝に探偵事務所へ戻ったエリスは、簡単に体を拭き、シャワーを浴びる余裕もないままソファで横になる。コーヒーの香りが漂うが、疲れが勝っているため寝落ちするように眠りに落ちた。

ほんの2時間ほど仮眠を取ったころ、事務所の窓から強い日差しが差し込む。時刻は午前8時半。外の通勤ラッシュも少し落ち着き、街が通常モードに移行している時間帯だ。
エリスはソファで目を覚まし、頭を振って寝ぼけを振り払う。筋肉痛とまではいかないが、身体が思うように動かない感覚がある。昨日の夕方もユキノを送った後、書類仕事と連絡を処理し、夜にこの倉庫の情報を仕入れて出動……まったく休む暇がなかったのだ。

「はぁ……シャワー浴びたいわね……。先に朝食でも摂ろうかしら……。」

ボサボサの髪を手ぐしで整え、軽いストレッチをして血流を促す。鏡を覗くと、やや顔色が悪いが、ユキノに会うまでには回復させたいところだ。
探偵事務所の一角には簡易キッチンがあり、冷蔵庫を開けると野菜やヨーグルト、卵が少しだけ入っている。これを使って軽いオムレツとトーストで朝食を済ませるのがエリスの習慣だ。ささっと作り、コーヒーを淹れ、テーブルに並べて一人で食事をとる。

(さすがにこのままじゃ体がもたない。昼にはもう少し寝たいところだけど、ユキノに連絡くらいはしておくか。)

食事を終えたエリスはパソコンの前に座り、タスクフォースから届いた書類をチェックする。倉庫の地下で回収したデータは一部が解析され始めており、真理追求の徒の手口や新たな被験者候補リストが示唆されている。
そこには「生成者候補として天野ユキノに匹敵するパターンの脳内構造を持つ人物は見当たらない」と明記されていた。やはりユキノの特異性は群を抜いているらしい。

(ユキノが狙われ続ける理由はここにある。……早くあの子を訓練させてあげないと。)

そう思いながら、エリスは書類の末尾にある一文に目を止める。

「今後、ユキノに対する監視を強化してほしい――タスクフォース主任代理」

監視――つまりタスクフォースがユキノを公的に保護対象とみなし、場合によっては監視下に置く可能性がある。エリスにとっては悪い話ではないが、ユキノ本人が嫌がるかもしれない。できれば余計なストレスは与えたくないが、安全のためには仕方ないのか。

「ふむ……わかってるわよ。私だって、ユキノのことは一番に守るつもり。でも、余計な介入は逆効果かも……。」

ため息をつき、パソコンを閉じる。今日は学校がある日だが、ユキノが来るとしたら放課後になるだろう。少しだけ机の上を片付けて、シャワーを浴びに奥のスペースへ向かう。
シャワーの水音が狭い空間に響く。エリスは夜の倉庫戦闘の汚れを洗い流すように、念入りに髪と肌を洗う。すると、身体だけでなく心の緊張もわずかに解けていくようだ。

「……ふふ、少しは生き返った。人間、睡眠とシャワーは大切よね。」

冗談めかしてつぶやき、バスタオルで髪を拭きながらオフィスに戻る。タオルを首にかけたまま携帯を取り出すと、ユキノからLINEメッセージが届いていた。

ユキノ
「おはようございます、先生。昨日はありがとうございました。学校はやっぱり落ち着かないです……放課後にまたお邪魔していいですか?」

読みながら微笑む。ユキノも色々と抱えているのが目に見える。エリスはすぐに返信する。

エリス
「もちろん。こちらこそ昨夜はありがとう。放課後に待ってるわ。無理しないでね。」

送信を終え、思わずスマホを握りしめる。どんな状況でもユキノを守り抜かなければ――その思いが胸に込み上げる。昨夜のように一人で危険な場所に乗り込むのは慣れたとはいえ、彼女の笑顔を思うと無茶はほどほどにしなければと自戒せざるを得ない。

「さて……昼まで少し仮眠を取ろう。昼過ぎからまた調査や資料整理があるし、ユキノが来るまでには多少体力を回復しておきたい。」

そう心に決め、エリスは再びソファに身を横たえる。窓の外は既に青空が見え始めているが、彼女の身体は休息を強く求めている。
柔らかいソファと心地よい疲労感に誘われ、瞼が重くなる。――目を閉じると、廃倉庫の光景や暴走しかけたEMの赤黒い閃光がフラッシュバックするが、それも闇に溶けてゆき、エリスの意識は静かに眠りへと落ちていく。


午後3時過ぎ――事務所のドアを控えめにノックする音で、エリスはふと目を覚ました。いつの間にか2~3時間ほど眠ってしまったらしい。少し頭がボーッとするが、先ほどよりは格段に体調がマシになっている。
「どうぞ」と声をかけると、ドアが開き、ユキノが顔を出した。制服姿のままで、いかにも学校帰りという雰囲気だが、表情は硬い。

「先生、こんにちは……。今日もお邪魔します。」
「いらっしゃい。大丈夫? 顔色悪いけど……。」

エリスがソファから立ち上がり、ユキノを迎えると、ユキノは小さく頷いて中へ入る。カバンを脇に置き、上着の袖を少し引っ張りながら、視線を落とすようにして口を開く。

「実は、学校でもまた変なことがあって……。朝、警備員さんたちが警戒してたんですけど、どうやら誰かが玄関の近くにイタズラっぽいものを置いたみたいで……。みんなまたびくびくしてて……。」
「不審物か。昨日も言ってたわね。警察はまだ原因を掴めてないの?」
「うん。警察は『イタズラだろう』って言ってるけど、真理追求の徒の仕業かもしれないってみんな噂してる。今日は授業もいつも通りじゃなくて……なんか、皆が怖がって落ち着かない。」

ユキノの声には疲れがにじんでいる。授業にならない空気の中で一日過ごすのは精神的にも負担が大きいのだろう。エリスは「そう……」と小さく頷き、ユキノを椅子に座らせる。

「私も状況は多少把握してるわ。学校が不安定なのはつらいわね。あなたのクラスメイトも気の毒……。」
「はい。友達のナナミもすごく怖がってて……私ができることって何もないのかなって思うと、なんだか情けなくて……。」

深いため息をつくユキノ。その瞳はわずかに潤んでいる。学校がこんな状態になった原因は、自分の“生成者”としての特殊性にあるかもしれない――そう思うと罪悪感を拭えないのだろう。

「大丈夫、あなたのせいじゃない。全部、連中が悪いの。……ねえ、ユキノ。実は、私は昨夜、真理追求の徒の下部組織が使ってた廃倉庫を見つけて、そこに潜入してきたの。」
「えっ……!? 先生、一人でですか……!? 危なくないんですか……!」

ユキノの声が思わず高くなる。エリスは苦笑しながらうなずく。

「まあ、危なかったけど、なんとか拠点を潰してきた。そこでいくつかデータも入手できたわ。もちろんタスクフォースが回収してる。これで少しは連中の活動を抑止できるかも。」
「そっか……先生、無茶しないでくださいね……。怪我とか、本当につらい……。」

ユキノが気遣う言葉をかけてくれるのが嬉しい反面、エリスは心の中で“ごめんね”と呟く。結局、一線を越えた戦いをしなければならない場面も出てくる――それが今の現実だ。

「ありがとう。でも、こうでもしないと奴らは止まらない。あなたが学校で安心して過ごせるようにするためにも、私の役割は必要。……だけど、あなた自身も強くなってほしい。あの射出機、覚えてる?」
「あ、はい……。」

エリスは机の上にある初心者用射出機を手に取り、ユキノに見せる。銀色のボディは以前と同じだが、先端に小さなカートリッジが装填されているのが分かる。

「これが訓練用のカートリッジ。擬似EMをほんの少しだけ入れてあって、心を撃ち抜く練習ができる。とはいえ、具現化まではいかないけど、精神の集中を学ぶには十分ね。……あなた、やってみる?」
「やってみたい……。でも、正直怖い。心を撃ち抜くって……どんな感覚なんだろう……。」

ユキノは射出機を握りしめながら、唇を噛む。エリスはその気持ちを理解し、優しく励ますように言葉をかける。

「最初は怖いわよ。私も初めてやったときは震えた。でも、あなたには時間がない。焦らせるわけじゃないけど、真理追求の徒の動きは活発化してるし、いつまた学校が狙われるかわからない。いざというときに守る手段が必要なの。」
「……わかりました。やってみます。」

ユキノの声には覚悟が混じる。エリスは射出機の取り扱い方を再度説明し、心の中心――すなわち自分の意志や感情の核をイメージして、そこに向かって“撃つ”ことを解説する。その行為自体が強い恐怖や抵抗感を伴うが、克服できれば一歩前進となる。

「じゃあ、まずは姿勢からね。脚を軽く開いて、呼吸を整えて……はい、銃口は自分の胸のあたり。無理に押し当てる必要はないけど、当たる寸前くらいまで近づけて。――あまり力むと失敗するわよ。」
「は、はい……こ、こんな感じ……?」

ユキノが手を震わせながら射出機を胸の前に構える。心拍数が高鳴り、呼吸が乱れそうになるのを必死に抑える。汗が手のひらににじみ、射出機が滑りそうになるが、なんとか安定させる。

「先生……や、やっぱり怖いかも……。」
「大丈夫。私がいるから。もし精神が揺らいでも、私がフォローする。深呼吸して、自分の中にある“私がやらなきゃ”という気持ちを感じて。」

ユキノは目を閉じ、呼吸を整える。頭の中に昨日までの苦悩や学校の不安が去来するが、同時に「守りたい」という思いもよみがえる。ナナミやクラスメイトの笑顔、エリスの優しい言葉――それらが心を支え、自分を奮い立たせる力となる。

「……うん、撃ちます……!」

そう宣言し、目を開けながら引き金を引く。――カチリという金属音とともに、訓練用カートリッジが小さな光を放つ。ブルーの閃光がほんのわずかに胸に触れ、ユキノの身体が小さく震える。

「っ……ああ……!」

激痛ではないが、胸の奥がズンと重くなるような衝撃が襲い、呼吸が乱れる。射出機から放たれた微量の擬似EMが、ユキノの精神を強制的に刺激したのだ。――しかし、完全な具現化まではいかない。

「どう……? 大丈夫?」
「はぁ、はぁ……なんか、すごく苦しいけど……痛いってほどじゃない。でも、怖かった……。」

ユキノの額には汗が浮かび、膝が震えている。エリスは急いで射出機を取り上げ、カートリッジの排出ボタンを押してからユキノを抱きかかえるように支える。

「よくやった。最初はそんなもんよ。私も訓練のとき、何度も吐きそうになったもの。――でも、一度こうして“心の中心”を撃つ感覚を覚えれば、次からは少しずつ慣れていく。」
「そっか……何とかできた……私、もう一回やってみたい気もするけど、今はちょっとフラフラで……。」

ユキノは顔色を青ざめさせながら、苦笑する。エリスはタオルを渡し、水を飲むようすすめる。

「大丈夫、焦らなくていい。少しずつ慣れて、最終的には本格的な射出機を使いこなせるようになるのが目標だから。――でも、一歩進んだわね。おめでとう。」
「ありがとうございます……先生……!」

ユキノは喜びと不安が混ざった表情で、エリスに感謝する。自分の中の“力”に少しだけ触れた実感がある。怖いが、これが自分が求める道なのだと再確認する。

「ちゃんと休んでね。今日はもう十分よ。無理に繰り返すと精神が破綻するかもしれないから。心の負担が大きいの。」
「はい……わかりました。」

そう言ってユキノは床に座り込み、しばし息を整える。エリスはそんな彼女の背中をさすりながら、一人心の中で「よかった」と呟く。自分がここまで支えてきたユキノが、ほんの一歩を踏み出してくれた。それだけでも大きな進展だ。


二人が射出機の訓練を終え、少し落ち着いたころ。エリスの携帯が鳴り響く。画面を見ると、タスクフォースのリーダーからの着信だ。どうやら倉庫の件で何かあったらしい。
「ちょっと失礼するわね。」とユキノに一声かけてから、エリスは電話を取る。

「もしもし、どうしたの? 倉庫の連中はもう引き上げたんじゃ……」

声のトーンを落として会話を続けるエリス。だが、すぐに表情が険しくなる。
「え……? うん……なるほど……。わかった、今そっちに行くわ。場所を教えて。」

電話を切ると、エリスは深刻そうな顔でユキノを見つめる。

「先生……何かあったんですか?」
「タスクフォースからの報告。夜明け前に私が突入した倉庫とは別に、もう一つ拠点が見つかったんだけど、そこを捜査した隊員が行方不明になったらしいの。」
「えっ……!?」

ユキノは目を見開く。隊員が行方不明になるということは、真理追求の徒が反撃に出た可能性が高い。あるいは何らかの怪現象が起きたのか。

「タスクフォースの捜査官が数名、緊急通報してから行方不明になって……まだ消息がつかめてないとか。場所は郊外の廃病院だって。すぐ調査に向かうから、あなたはここで待ってて。」
「わ、私も行きます……!」
「ダメよ、危険すぎる。タスクフォースの精鋭がやられたかもしれない現場に、あなたを連れていくわけにはいかない。……わかるでしょう?」

エリスの声は冷静かつ厳しい。ユキノもそれを感じ取って歯を食いしばる。確かに、せっかく一歩踏み出せたばかりの自分が、タスクフォースさえ苦戦している現場に飛び込むのは無謀だ。

「……でも、もし先生が危なくなったら……」
「大丈夫。私が危なくなる前に撤退する。タスクフォースのサポートもあるし、あなたが来ても足手まといになるだけ。それに、あなたは学校やユキノ自身の安全を守ることが先決。」

ユキノは何も言えなくなる。悔しいが、エリスの言う通りだ。せめてもう少し訓練を積んでいればと思うが、それも今更だ。

「……わかりました。でも、連絡は絶対にください……!」
「もちろん。無茶はしないから安心して。でももし私からの連絡が途絶えたら、すぐタスクフォースに連絡して。あと、蒔苗もいるでしょ? 危なくなったら彼女に助けを求めてもいいわ。」
「蒔苗……確かに、あの子がいれば……。」

これまでは情報を隠していたが、エリスも蒔苗がユキノを救った事実を知っている。彼女が何者か定かではないにせよ、非常に強力な力を持っているのは確かだ。

「じゃあ、行くわね。あまり夜遅くなるようなら、ここには戻らないかもしれない。あなたは家に帰って休むのよ。――絶対に外へ飛び出さないように。」

そう言って、エリスはコートを羽織り、射出機を携帯し、鞄にいくつかの道具を詰める。ユキノが不安げな表情で見送る中、エリスは「大丈夫」と微笑んで、事務所を出た。
ドアが閉まり、残されたユキノは胸の鼓動を早めながら、ただ祈るようにソファに腰を下ろす。自分がついて行けないのは仕方ないが、このまま手をこまねいているのがもどかしい。

(先生……どうか無事でいて。私、何もできないけど……ほんの少しでも、力になりたいのに……。)

射出機の訓練を思い出し、胸の奥にチクリとした痛みを感じる。まだ何度も撃ち抜いていないから、本番での具現化は難しいだろう。蒔苗のように圧倒的な力があれば別だが――。

「でも、私は私ができることを、少しずつやるしかない……。」

呟きながら、ユキノはスマホを取り出し、ナナミやクラスの友人が作ったグループチャットを開く。そこにはまた「不審物が置かれた」「警察が来た」などの話題で盛り上がっている。読んでいるだけで気が滅入りそうだ。
それでも、誰かと繋がっている感覚を失わないために、ユキノは短く「今日は用事があるから遅くまで外にいる」とメッセージを送る。嘘ではないが、本当のことでもない。自分が置かれている状況を明かせる相手は限られているのだ。


一方、エリスは車を走らせながら、タスクフォースのリーダーと通信をしていた。行方不明になった隊員の無線は途中で切れ、最後に「地下に下りる」という言葉を残しているらしい。
廃病院は数年前に閉鎖され、取り壊しの計画も凍結されたまま放置されているという。都内の外れにぽつんと建つその病院は、不気味な噂が絶えず、地元住民も近寄らない場所として有名だった。

「あなたたち、もう現地入りしてる? 私もあと10分くらいで着くわ。」
「はい、周囲を警察と協力して封鎖しましたが、病院の内部にはまだ一切手を出せていません。相手がEM兵器を持っている可能性があるので、迂闊に突入できないんです。」
「わかった。じゃあ、到着したら作戦を聞かせて。」

通信を切ると、エリスはハンドルを回し、廃病院へと続く細い道に入る。周囲には高い雑草が生い茂り、廃墟のような家屋が点在している。空は薄い雲に覆われ、夕闇が濃くなりつつあった。
やがて開けた場所に出ると、遠目に朽ち果てた病院の建物が見える。コンクリートの壁が一部崩れ、窓ガラスは割れている。手前には警察車両やタスクフォースの車が複数止まっており、すでに封鎖線が張られているのが分かる。エリスは車を停め、フェンスの前まで歩いていくと、リーダーが出迎えた。

「ようこそ、九堂さん。状況は悪化しています。先に入った捜査官二人が戻ってこず、今は一時的に待機しているところです。内部で異常なエネルギー反応を観測しましたが、詳しいことはまだ……。」
「異常なエネルギー反応……EMの暴走か、あるいはP-EMの実験が失敗したか。最悪の場合、捜査官が捕まっているかもしれないわね。」

エリスはリボルバー型射出機を確認し、弾倉に擬似EMを少し充填する。表情が引き締まる。
「突入するなら、私が先行したほうがいいかも。内部が迷路のようになっている可能性があるし、私の探偵スキルを活かしたい。」

タスクフォースのリーダーは少し顔を曇らせるが、やがて諦めたように首を縦に振る。

「わかりました。危険が高いが、あなたの経験と能力は頼りになります。こちらも少数精鋭でサポート部隊を投入するので、連携を図りましょう。無線で常に状況を報告してください。」
「もちろん。じゃあ、早速行きましょう。ここで時間を浪費すれば、捜査官の命が危ないかもしれない。」

二人は握手を交わし、エリスはタスクフォースの隊員数名と合流して、廃病院の正面玄関へと向かう。フェンスを越え、荒れ果てた敷地内を進むと、崩れかけた看板には「○○市立病院」の文字がかすかに残っていた。

玄関ホールに足を踏み入れると、強烈なカビ臭と湿った空気が鼻を突く。床はタイルが剥がれ、壁には落書きがある。照明は当然なく、懐中電灯の光だけが動く影を作る。
「隊員A、B、Cは左翼を、私と九堂さん、それから隊員Dは右翼を行こう。捜査官が地下に降りた形跡があるから、地下へ通じる階段を探すんだ。」

リーダーの声が響き、それぞれが手分けして行動を開始する。エリスはリーダーとDを引き連れ、右側の廊下を進む。観葉植物の枯れた鉢や壊れた医療機器が散乱しており、足元で破片が音を立てる。

「静かですね……嫌な感じです。」
「ええ、何も聞こえない。だからこそ危険。」

会話を抑えつつ、彼らは慎重に奥へ進む。すると、突き当たりの先に階段が見えるが、そこには朽ちたロープやベッドが積まれており、人為的にバリケードのようにされている。
リーダーが囁くように言う。

「捜査官が行方不明になる前、ここを突破したのか……? こんな障害物を置いたのは連中かも。どうする?」
「迂回するにしても時間がかかる。手でどかしましょう。私が先に少しずつ外します。……音を立てないように注意して。」

エリスがそう提案し、リーダーとDがカバーする形でバリケードの隙間を少しずつ拡げる。古いマットレスや椅子をそっと動かし、階段への通路を確保する。
数分の作業を経て、どうにか人が通れる程度の隙間を開けると、そこから生ぬるい風が吹き付けてきた。

「うっ……何か、嫌な空気。」

Dが顔をしかめる。血や薬品、腐敗臭が混じったような何とも言えない臭いが階段下から漂ってくる。精神が蝕まれそうな薄気味悪さに、三人は一瞬身構える。
エリスはリボルバーに手を添え、低く声をかける。

「ここから先、相当に危険かもしれない。気を抜かないで。」
「了解……。」

階段を下りると、足元で何かを踏む感触があり、懐中電灯を当てると小さなガラス片や注射器が散らばっていた。さらに先へ行くと、壁には血痕らしき染み。古いものか新しいものかは判別できないが、不穏な痕跡に変わりはない。
やがて、地下に到着する。廊下が左右に伸びているが、左側は完全に崩落して通れない。右側には扉がいくつも並び、病室や倉庫らしきスペースが暗がりに続いている。

「捜査官はどこまで行ったんだろう……。」

リーダーがタブレットを操作しながら、捜査官のGPSログを確認する。どうやらこの先の奥にある大きな部屋まで行ったのが最後の通信だったらしい。
三人は武器を構えながら扉を一つずつ確認する。だが、人の気配はない。ただ、所々で嫌な薬品臭がして、黒い粉のようなものが床に散っている。――P-EM関連の実験痕かもしれない。

「……くそ、嫌な雰囲気だ。俺たちが来るのを見越して逃げたのか?」
「捜査官たちは……まさか連れ去られた?」

会話が交わされる中、エリスは直感的に“まだ終わってない”と感じる。廊下の奥から、かすかにうめき声のようなものが聞こえた気がするのだ。

「静かに……! 何か聞こえない?」

三人が息を潜める。遠くから、かすかな人の声がする。「……た……助け……ろ……」と聞こえる。捜査官のものかもしれない。
エリスはリーダーの目を見て無言の合図を交わし、声のする方へ急行する。扉が半開きの部屋を覗くと――そこには床に横たわる捜査官の姿があった。血まみれで意識が朦朧としている。周囲に数本の注射器が散乱しており、壁には「P-EM 投与記録」と書かれたメモが貼り付けてある。

「くっ……なんてことだ……!」
「大丈夫? 応答して!」

Dが捜査官に駆け寄り、脈や呼吸を確認する。まだ生きているが相当衰弱しているらしい。リーダーが無線で救護班を呼ぶ。エリスは辺りを見渡し、「まだ誰かいるかもしれない」と警戒する。

すると奥の暗がりで、ガサリと物音がして、青い火花のような閃光が瞬いた。
「隠れてるやつがいる……っ!」

リーダーとエリスが同時に身構えるが、次の瞬間、狂気のような叫び声が上がる。

「ウアアアアアアッ……!!」

人影が飛び出してくる。その腕には黒い液体を浸した注射器が突き刺さっており、目が血走っている。捜査官を襲った真理追求の徒か。赤黒いオーラが腕から立ち上り、精神が半ば暴走状態にあるようだ。

「危ない……!」

リーダーが発砲しようとするが、相手の動きは常軌を逸して速い。Dが捜査官を抱えているところを狙って突進しようとする。が、エリスは素早くリボルバーを構え、トリガーを引く。
――青い光弾が男の足元を撃ち、足が止まる。続けざまに二発目を腕に命中させ、注射器を落下させる。男は苦悶の表情で膝をつき、叫び声を上げる。しかし、完全には沈静化せず、オーラが跳ねるように逆立つ。

(やはり、普通の弾丸だけじゃ抑えきれないか……。)

エリスは心を定め、精神構造体を展開するために再度“自分の胸を撃ち抜く”動作を取る。今度は短い決意とともに引き金を引き、青い光が弾ける。
「やめて……暴走はここで終わりにする!」

光の奔流が男を包み、黒いオーラを打ち消していく。男の体が小刻みに震え、やがて床に崩れ落ちる。荒い息をしているが、暴走エネルギーは抑制されたようだ。

「助かった……。二人とも倒れてるが、一応生きてはいるみたいだ。」
「D、捜査官を救護班へ。リーダー、こっちの男の手錠を……早めに拘束して。」

エリスが指示を飛ばす。すでに射出機のエネルギーを連続で使い、体力の消耗も激しいが、今が踏ん張りどころだ。こうしたアクションの繰り返しによって、真理追求の徒の拠点を一つずつ潰していくしかない。

「まだ……どこかに被害者がいるかもしれない。捜索を続けましょう。危険だけど、ここで引き返すわけにはいかない。」
「ああ、わかった。あんたの気合いには頭が下がるよ。」

廃病院の闇の中、彼らは更なる探索を続ける。捜査官を襲った形跡がある以上、同様の犠牲者がいるかもしれない。――そこで、さらに深い階層へ続くエレベーターシャフトの跡を見つけ、下に降りられるかどうかを検討する。
しかし、時間も限られているし、増援を待つべきかどうか迷うところだ。リーダーは無線で状況を本部へ報告し、指示を仰ぐ。一方、エリスは部屋の隅でP-EMの空き瓶を蹴飛ばしてしまい、はっと表情を強張らせる。

「ん……これは……。」

瓶にはユキノが使うべき本物のEMとは異なる、P-EM特有のラベルが手書きで貼られている。連中が繰り返す強制具現化実験の道具だ。ここでも同じことが行われているのか。
(奴ら、本格的に“次のステージ”に移ってるんだわ。ここで止めないと、ユキノが……学校が……。)

エリスは引き続き捜索に意欲を燃やすが、リーダーから「増援を待て」と制止がかかる。ここで散開すれば、先ほどのような被害が出る可能性があるというのだ。

「わかりました。無理はしません。……でも、隠し階層や地下があれば、早めに確認したいところね。」
「同感。ここで油断したら、我々が行方不明になるかもしれない。……一旦合流して、作戦を立て直そう。」

そうして彼らは捜査官の救出や犯人の拘束を優先し、廃病院の探索を一部保留する形で引き上げることになった。エリスも胸中で「やり残した感」があるが、単独で先へ行くのは危険すぎる。
重傷の捜査官を背負い、男を拘束したまま、階段を上り、地上へ出る。外には救護班が待機しており、担架や医療機器が用意されていた。夕暮れの空が橙色に染まり、建物から出た彼らの姿を迎える。

(やれやれ……また後味の悪い撤退。でも、少なくとも捜査官は救えたし、真理追求の徒の片割れを捕まえた。)

そう自分に言い聞かせ、エリスは疲労感を噛み締める。これ以上深追いすれば、隊員がさらに負傷するリスクが高い。タスクフォースのリーダーもそれを判断しているのだ。

「お疲れさま、九堂さん。あなたがいなかったら、私たち全員危なかったかもしれない。……とにかく、今日はここまでだ。」
「また後日、増援を集めて再突入しましょう。早めにこの病院を潰さないと、連中がさらに被害を広げる可能性があるわ。」

顔を合わせ、互いの健闘を称え合う。エリスは周囲の隊員が動き回る様子を横目に、ひとまず一仕事終えたと感じながらも、満足感よりも「まだ終われない」という緊張感が強い。ユキノはどうしているだろうか――あの子も今ごろ自宅へ戻っただろうか。

(とりあえず、今日はもう連絡だけ入れて、休もう。さすがに二日連続の徹夜戦闘はこたえるわね……。)

燃えるような夕日の中、廃病院の外観が不気味なシルエットを浮かび上がらせている。エリスはリボルバーをそっと触れながら、遠くで鳴くカラスの声を聞き、心の中で「また近いうちに来るから待っていなさい」と呟く。――真理追求の徒に対して、そして自分自身に対しても。


夕暮れが夜へ移行するころ、エリスは車を走らせながらユキノへ電話をかける。
「……あ、ユキノ? 私よ。いま廃病院の捜査が終わったところ。そっちは大丈夫?」

受話器の向こうで、ユキノが少し安堵した声で答える。

「先生……よかった……無事だったんですね……!」
「ええ、まあ何とか。ちょっと危ない場面もあったけど、大きな怪我はしてないわ。そっちはどう? 家でちゃんと休んでる?」
「うん……まだちょっと胸がモヤモヤするけど、射出機の訓練の影響もあるのかな……。でも大丈夫です。」

エリスはフッと笑みをこぼす。ユキノが少しずつ強くなる姿を想像し、誇らしい気持ちが湧き上がる。

「そっか、よかった。あまり無理せずにね。学校は明日も落ち着かないだろうけど、あなたはあなたの生活をしっかり続けて。……こっちは私が何とかするわ。」
「先生……いつもありがとうございます。私、本当に先生がいてくれてよかった……。」

ユキノの声に、エリスも少し涙腺が緩みそうになる。だが、ここは探偵としての冷静さを保ち、優しく応える。

「私こそ、あなたがいてくれるから頑張れるわ。……また何かあったら連絡して。今夜はもう遅いから、しっかり休んでね。」
「うん、先生も休んでください……おやすみなさい……。」

電話を切ったあと、車の中でエリスは一人呟く。

「日常が崩れつつあっても、あの子はまだ頑張ってる。……私ももっとしっかりしなきゃね。」

真理追求の徒の次なる攻撃がどこで起こるか。廃病院や倉庫での戦いは序章に過ぎないかもしれない。それでも、エリスは揺るぎない覚悟を胸に秘めている。
学校で起きている不審物騒ぎ、爆発事故、行方不明事件――すべてが繋がっているのは明白だ。ユキノと蒔苗の存在を巡り、世界が大きく動く予兆がある。そこに探偵としてどう挑むか――“探偵の動き”は、これからが本番なのだ。


夜は深まり、街のネオンが川面にきらきら反射している。エリスは車を事務所の駐車場に停め、建物へ向かう足取りが重い。消耗した身体を引きずるようにエレベーターに乗り、2階の事務所へ向かう途中、ふと思い出す。

(蒔苗……あの子はユキノとどういう関係を築いてるのかしら。私も一度は直接話しておきたいけど、まだタイミングがないわね。)

教室での廊下襲撃の際にユキノを救った蒔苗の力――0次宇宙を彷彿とさせる超常。もし彼女も真理追求の徒の狙いに巻き込まれるなら、ユキノと同等かそれ以上の危険が伴う。
エレベーターのドアが開き、事務所の鍵を開けて中に入る。電灯を点けると、薄暗い部屋が急に暖かく感じられる。一日の長い探偵業務が終わりを告げる時間――だが、エリスは眠る前にもうひとつだけ仕事をする。

パソコンを立ち上げ、今日の廃病院での出来事をレポートにまとめる。捕らえた男が誰で、捜査官がどう救出されたか、そのとき感じたP-EMの濃度などを事細かに記す。疲労で何度も意識が飛びそうになるが、翌朝になると記憶が曖昧になるかもしれない。今のうちが肝心だ。
1時間ほどかけてレポートを仕上げると、時計はもう深夜0時を回っている。エリスは椅子に背を預け、天井を見上げる。隣には誰もいない静かな空間――ユキノは今頃、自宅で眠っているだろう。蒔苗はどこで何をしているだろう。

「私もそろそろ眠らないと、明日倒れちゃうわね……。」

そう呟いて、書類を片付け、シャワーを浴びようと立ち上がる。が、そのとき、スマートフォンにメッセージが届く。発信元はタスクフォース。もうこんな時間に何を……と思いながら画面を確認すると、簡潔な一文が目に飛び込む。

「倉庫の処理完了。回収したパソコンデータから、EM生成者に関する重大情報あり。後日会議に参加願う。」

エリスは小さく息をのむ。EM生成者……つまりユキノのことであろう。タスクフォースがどんなデータを得たのか、気になるところだ。
まだまだ終わりが見えない。事件は加速度的に動き、真理追求の徒も動きを増している。ユキノや蒔苗、学校での不審騒ぎ――すべてが一つの巨大な渦となりつつある。探偵として、そしてユキノを守る存在として、エリスは再度決意を新たにするしかなかった。

(よし……今日はもう寝る。明日からまた忙しくなるわ。探偵の仕事も、ユキノの訓練も、蒔苗との接触も……全部こなしてみせる。私ならきっとできる。)

そう心に言い聞かせ、照明を落とす。窓の外には夜の闇と街の灯りが混ざり合う。――時折、何かの影がビルの屋上を横切ったように見えるが、エリスは疲労で目が霞んでいるだけかもしれないと気にも留めない。
部屋の隅のソファに倒れ込むように身体を横たえ、射出機をコートの内ポケットにしまい込む。静かに瞼を閉じると、充血したまぶたの裏にはユキノの笑顔が浮かんだ。あの笑顔を守りたい――それがエリスの、探偵としての存在意義なのかもしれない。

「おやすみ、ユキノ……。また、明日ね……。」

誰にも聞こえない独白が、闇の中に溶ける。事務所の外で、ビルの谷間に風が吹き抜ける音がかすかに聞こえた。それはまるで、事件がまだ終わらないことを告げる夜の合図でもあるように思える。
こうしてまた一日が終わる。だが、“探偵の動き”は止まらない。いつどこで真理追求の徒が牙をむくか、わからないから。エリスはユキノのため、そして自分自身の信念のために、これからも闇と対峙し続けるだろう――夜明け前の影を払うように、銃口と探偵の鋭い眼差しをもって。

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