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天蓋の欠片EP2-2

あの廊下での襲撃から数日後。校舎の一部が破損してしまった影響で、臨時休校となっていた学校が、ようやく再開された。
爆発物や不審者が仕掛けた形跡は見つからなかったものの、壁と天井に大きなダメージが残り、応急処置で仮設の壁やシートが貼られたままだ。クラスメイトたちは皆、その生々しい痕跡を見ては不安を募らせている。

午前7時半。天野ユキノはいつもより少しだけ早い時間に校門へと到着した。雨上がりで湿った空気が肌にまとわりつく。校門前には警備員らしき人が立ち、入念に身分証をチェックしているのが見える。まるで軍隊の検問所のようだ。

「……すごい物々しい雰囲気……。」

ユキノは思わずつぶやいた。以前はこんな姿はなかった。最近になってから、校内への不審者侵入を防ぐため、警備体制が格段に強化されたのだ。先日の廊下襲撃事件を受けて、教育委員会や警察から「安全確保」の要請が入ったらしい。生徒が登校するたびに学生証を見せ、荷物検査までは行かないものの、不審な様子がないかを一人ひとりに確認している。

(ここまでしないといけないなんて……もう普通の学校じゃなくなってる感じがするよ……。)

気持ちが重たくなる。先日の事件を思い出さないわけにはいかない。あの赤黒いオーラを操る男が校舎内を破壊しようとした場面。蒔苗の不可解な力が、それを一瞬で防いだ光景。それらが脳裏をよぎるたび、胃がキリリと痛むのだ。

警備員に「学生証を見せてください」と声をかけられ、ユキノは慌ててカバンを探る。カードホルダーを見せると、警備員は「あ、失礼しました。気をつけて登校を」と淡々と言い、通してくれた。校門を抜けると、見慣れたはずの校庭が薄い霧のような朝もやに包まれている。遠くで部活動らしき生徒が声をかけ合うのが聞こえるが、どこか元気が足りないように感じる。

「ユキノ、おはよー……。」

ふと声をかけられ、振り向くと桐生ナナミが立っていた。彼女は肩にカバンを背負い、疲れたような笑みを浮かべている。

「おはよう、ナナミ。元気ないね……大丈夫?」
「うーん……まだちょっと怖いよね、先日のあれ。教室でまた変なこと起きたらどうしようって思うと、気が滅入るよ。」

ナナミだけでなく、多くの生徒が似たような気持ちを抱えているはずだ。あの廊下襲撃の日、炎のように渦巻く赤黒いオーラを目撃していなくても、壁が抉れた様子を見ただけで「ただ事ではない」と察してしまうのだから。

「とりあえず、今日から授業再開だし……無事に終わるといいけど……。」
「だね。あ、ところで……」

ナナミが何か言いかけたところで、スピーカーから校内アナウンスが流れてくる。どうやら朝のホームルーム前に校長が緊急の全校放送を行うという。二人は顔を見合わせ、靴箱で上履きに履き替えながら教室に向かう。

教室に入ると、すでに朝のHR前だというのにクラスメイトたちがざわついていた。黒板には仮設の掲示が貼られ、「1時間目は全校集会、教室でラジオ放送を聞くように」と書かれている。どうやら体育館も一部修理中で、安全面から大人数を集められないらしい。

「また校長先生の長話かな……うんざりだけど。」
「でも、こういう状況だし、仕方ないよね……。早く安全対策が進まないと。」

そんな会話が飛び交う中、ユキノは窓際の席につき、視線を外に向ける。曇天の空がまるで学校全体を覆うかのように暗い。心の中に広がる不安が、そのまま天候に投影されているみたいだ。やや遅れてナナミも腰を下ろし、「全校放送か……」とつぶやく。

やがて朝のHRのチャイムが鳴り、担任の先生が入室する。ほぼ同時に、校内放送が始まった。雑音が混ざるスピーカー越しに校長の声が響く。

「えー、生徒の皆さん、おはようございます。先日の騒動で学校は一時休校となり、ご心配をおかけしました。まだ一部、修理が終わっていない箇所がありますが、本日より授業を再開します。今後の安全確保に関して、いくつか重要な連絡がありますので、よく聞いてください。」

校長が淡々と話を続ける。その内容は、校舎内外での警備強化に関する案内や、生徒の安全第一を優先して、できるだけ課外活動を制限するというもの。さらに、先日から噂になっている近隣の不審者や連続消失事件との関わりは「現時点で不明」としながらも、警察の協力を仰いで引き続き監視を行うという。

「皆さんには大変不便をかけますが、何よりも命が大事です。くれぐれも不審者に近づかないよう、怪しい人物や物を見かけたら速やかに教職員に報告してください。以上です。」

放送が終わると、教室は重苦しい空気に包まれた。担任も口を開きにくそうにしているが、仕方なく朝の点呼や連絡事項を淡々と進める。ユキノはやりきれない思いで胸が苦しくなる。

(こんな状態で普通に授業なんてできるのかな。真理追求の徒がまた来るかもしれないのに……。)

一方で、以前ユキノを救ってくれた、謎の存在・蒔苗の姿が気になる。彼女は今日も学校に来るのか。同じクラスなのに朝のHR直前になっても見かけないとなると、またどこかで何かを“観察”しているのだろうか――そう思うと気が気ではない。

1時間目が始まると、担任が教科書を開いて授業を進めようとする。しかし、クラスメイトたちの落ち着きのなさは明らかだった。あちこちで小声の雑談が起こり、「怖い」「警察は本当に守ってくれるの?」といった不安が漏れ聞こえてくる。

ユキノはノートを取るフリをしながらも、心ここにあらず。もし校内に真理追求の徒が再び潜入してきたらどうしよう。今は警備員がいるし、警察もパトロールしているはずだが、先日の襲撃を思い出すと油断できない。

(先生――九堂エリスは、もう動いてるのかな。何かあったらすぐ連絡するように言われたけど……。)

スマートフォンをカバンの中に忍ばせ、緊急連絡できるよう意識しておく。学校では通常、授業中のスマホ使用は禁止だが、今は非常事態だ。担任も細かいところまで注意する雰囲気ではない。

「天野、どうした? 体調悪いのか?」

不意に担任が声をかける。ユキノがまた上の空になっているのを見咎めたらしい。クラスメイトの視線が一斉に集まると、胸がドキリと鳴る。

「あ、すみません……ちょっと眠気が……」
「そうか……あまり無理をするなよ。最近皆もストレスが溜まってるだろうし……何かあれば保健室に行っていいぞ。」

担任のやさしい声が逆に胸に痛い。自分が隠していること――真理追求の徒との戦い、エリスとの接触、蒔苗の秘密――それらの“異常事態”がクラスメイトにも先生にも知られないまま続いているのだから。

(ごめんなさい、先生。私がもっとしっかりしてれば、こんなに不安が広がることもなかったかも……。)

罪悪感と無力感で頭がいっぱいになる。結局、1時間目から2時間目までほとんど内容が頭に入らず、教師の説明が耳を素通りしていく。休み時間になると、クラスメイトの何人かがユキノに声をかけてきた。

「ユキノ、ほんと大丈夫? なんか暗いよ?」
「保健室行ってきたら? 無理しなくていいんだよ。」

彼らの優しさが嬉しい反面、自分が何も言えないもどかしさも募る。ユキノは「大丈夫、ありがとう」と笑顔を作るしかない。そんなやりとりを続けていると、廊下からナナミが走って戻ってきた。

「ユキノ、ちょっと! 玄関のほうで警察の人がバタバタしてるみたい!」
「え、また何かあったの……?」
「わかんないけど、『怪しい荷物が落ちてた』とか言ってたみたい……。騒ぎになってるよ。」

クラスが一瞬でざわめく。「また不審物?」「まさか爆発物では?」と恐怖が広がる。何人かの女子が顔を青くし、男子もそわそわと落ち着かなくなる。

ユキノの心臓が嫌な鼓動を打つ。真理追求の徒が仕掛けた罠かもしれない。あるいは、蒔苗の存在を探る別の集団の動きか――思考が混乱する。とにかく、事態を知るには動かなければならないが、迂闊に廊下を駆け回って怪しまれるのも危険だ。

(どうしよう……でも、気になる……)

意を決して、ユキノは教室から出る。ナナミが止めようとするが、「ちょっと先生に聞いてくるだけ」と言い訳し、すり抜ける形で廊下へ出た。下駄箱のある玄関側から警察官と教師らしき人々の話し声が聞こえ、さらにその先に警備員の姿が見える。どうやら本当に“不審物”が見つかったらしい。

警察官の一人が緊張した面持ちで荷物を調べている。ユキノは近くまでは行けないが、廊下の角からその様子を盗み見た。ダンボール箱のようなものが置いてあり、警察官が慎重に中身を確認しているらしい。

「……空? 何も入ってない。イタズラか……?」

苦々しげな呟きが聞こえる。どうやら中身はなかったようだ。ただ、箱の表面に不気味な文字やシンボルが落書きされていて、その“真理追求の徒”を連想させるようなマークに警察や教師が騒然としているらしい。

(やっぱり、彼らの仕業……? もしくは誰かのデマか……?)

胸がざわつく。事件自体は大事にはならないようだが、学校にこんなものが仕掛けられること自体、正常じゃない。ユキノは身を引きながら、再び教室へ戻ろうと踵を返す。そのとき、ふと背後に視線を感じた。

(誰か、見てる……?)

振り向いても、誰の姿もない。廊下には少数の生徒と教師が行き交っているだけだが、その中の誰かがジッとこちらを見ている気配がする。ゾクリと鳥肌が立ち、ユキノは急ぎ足で教室に逃げ帰った。


3時間目の授業が始まる少し前、蒔苗が教室に入ってきた。プラチナブロンドの髪が朝の光を反射し、虹色の瞳がクラスのどこかを一瞥する。明らかに周囲とは違う空気をまとい、その存在感は大きい。しかし、先日の事件を知るクラスメイトもどこか遠巻きに見るだけで声をかけにくい様子だ。

彼女は無言で自分の席に腰を下ろしたかと思うと、少し遅れてユキノの方を向く。

「ユキノ、元気そうね。」
「蒔苗……今日も来てたんだ。あの、どこに行ってたの?」
「ちょっと見回り。学校全体がどんな状況か観察していたの。」

“観察”――やはりその言葉が蒔苗の行動原理を表しているのか。ユキノはあの廊下襲撃のとき、蒔苗が圧倒的な力で真理追求の徒を退けたことを思い出す。彼女はその力の正体を説明してはいないし、“観測”している理由も不明のままだ。

「……もう少し説明してくれない? あなた、何者なの? どうして学校であんな力を……。」

声をひそめて問いかけると、蒔苗は少しだけ首を傾げるようにして、まるで言葉を選ぶかのように口を開く。

「私はまだ“学び”の途中。あなたに言うべきこと、言わないほうがいいことの線引きが明確じゃないの。――でも、あなたが危険に晒されるとき、私は黙って見ているつもりはないわ。すでにそう言ったはず。」

決めつけたような口調だが、その瞳にはどこか不確かな光がある。まるで感情が芽生え始めているかのような揺らぎ――ユキノはそれを敏感に感じ取る。

「私を……守りたい、って言ったよね。どうして、そんなふうに思うの?」
「単純に、あなたが“面白い”から。……他の生徒たちとは違うエネルギーを感じる。真理追求の徒もそこに目をつけているでしょうね。」
「それ……生成者の素質、ってことかな……。」

エリスから聞かされている“脳内マップ”の話が頭を過ぎる。ユキノにだけある特別な構造。真理追求の徒がそれを求めているという現実。――蒔苗がそれを知っているのだとすれば、やはり彼女も普通の生徒ではあり得ない。

蒔苗は小さく頷き、静かに続ける。

「私には、あなたがどこまで“その力”を扱えるか興味がある。成功すれば世界が広がるかもしれないし、失敗すればあなたは壊れてしまうかも……。でも、見届ける価値はあるわ。」
「見届ける価値……? まるで実験を観察するみたいな言い方だよ……。」
「そう感じるのは当然ね。私はまだ、人間の感情を十分に理解していないから。」

彼女の言葉に、ユキノは得体の知れない不安を覚えつつも、なぜか嫌悪感は湧かない。むしろ、一種の哀しみすら感じる。蒔苗はどこか孤独で、自分の感情を客観視しているように見えるのだ。

「……私、あなたのことを信用していいのかわからない。でも、あのとき救ってくれたのは事実だから……ありがとう。」
「感謝されるほどのことではないわ。それより、また奴らが来るかもしれないから注意して。――私がずっと側にいられるわけじゃない。」

蒔苗はそう言うと、軽く溜息をつくように視線を外す。彼女の内面には何があるのか。ユキノはもう一歩踏み込みたい気持ちを抑えながら、小さく息を吐く。

(結局何もはっきり分からないけど、少なくとも私を脅かす存在ではなさそう……。でも、どうしてこんな言い方なんだろう。まるで私に“個人的な感情”はないって言ってるみたい……。)

そんな疑問を抱えながら、3時間目の授業が始まる。蒔苗はそれ以降、特にユキノと話すわけでもなく、ノートを取っているふうな、取っていないふうな中途半端な姿勢で授業を受けている。クラスメイトも声をかけにくいのか、一定の距離を保ったままだ。
時折、窓の外に視線を投げかける蒔苗。その虹色の瞳に何が映っているのか――ユキノには知る由もなかった。


昼休みを迎えたとき、突然ユキノのクラスのドアが開き、スーツ姿の男性が入ってきた。先ほど玄関で“不審物”を調べていた警察官らしい。担任の先生が慌てたように「あ、どうも……どうされましたか?」と声をかける。

「ちょっとお時間をいただきたい。天野ユキノさん……という生徒はいますか?」

まさかの指名。クラスメイトが一斉にユキノを振り返り、ユキノ自身も驚きで口がきけない。教師が「ユキノ、前に出て」と促すと、警察官は書類を確認しながら彼女を見つめる。

「先日の校内騒動の際、あなたが現場付近にいたとの証言がありましてね。改めて事情を確認したいのですが、今お時間よろしいですか?」
「え……あ、はい……。」

クラスメイトたちはざわつき、「ユキノ、何か知ってるの?」と小声で囁き合う。ユキノは視線を下に落としつつ、警察官に連れられるように廊下へ出た。ナナミも心配そうに見送っているのが視界の端に入る。

(まずい……どこまで話せばいいんだろう。蒔苗の力や、真理追求の徒の話なんて……下手に言えば大事になるし、エリス先生は『極力伏せておけ』って言ってたし……。)

胸がバクバクと高鳴るまま、警察官についていくと、校内の一室――応接室のような場所に通された。そこにはもう一人の警察官と、それを補助する形で教師が同席している。緊急の事情聴取の形だろう。

「すぐに終わりますから、気楽に答えていただいて構いませんよ。あなたが危ない目に遭わないよう、念のための確認です。」

初老の警察官が柔らかい声で言い、名刺を差し出す。ユキノは自分の椅子に腰を下ろし、ぎこちなく会釈をする。教師も「まぁ、単に状況を知りたいだけだから、正直に答えていいよ」とフォローしてくれるが、正直なところ、正直に答えられる話ではない。

「ええと……あの日は廊下で大きな音がして、慌てて逃げました。それから煙が広がって……壁が崩れてて……あんまりはっきり覚えてなくて……。」

ユキノはなるべく曖昧な表現を使う。警察官たちは書類にメモを取りながら「なるほど」「他に見かけた人はいませんでしたか?」「不審者らしき人物は?」と矢継ぎ早に質問をする。ユキノはあくまで「姿を見たような気もするけど、すぐ煙で分からなくなった」などと答え、蒔苗の存在や赤黒いオーラについては触れない。

5分ほどの質疑応答が過ぎると、警察官は書類を閉じ、ふうと息をつく。

「なるほどね。大体分かりました。あの場面は混乱もあったし、煙幕で視界が悪かったという生徒が多いんですよ。あなたも同じ状況だったんでしょう。ありがとうございます、協力に感謝します。」
「い、いえ……何も力になれずにすみません。」
「いやいや。むしろ、安全が第一ですから。もし今後また何か変わったことがあれば、すぐ先生や警察に伝えてくださいね。」

そう言って立ち上がる警察官たち。どうやら大した収穫はなかったらしく、少々肩透かしを食らったような雰囲気だ。ユキノは一安心しつつも、胸の奥に罪悪感を感じた。嘘をついたわけではないが、真実を隠しているのは事実だからだ。

(でも、言えないよ……あの赤黒いオーラとか、蒔苗の力とか……信じてもらえるはずがない……。)

教師に礼を言われ、ユキノは応接室を出る。昼休みの大半が過ぎてしまい、今から教室に戻っても残り少ししかない。廊下を歩いていると、ふと後ろから声がかかった。

「大丈夫? 変なこと聞かれたりしなかった?」

振り向くと、そこには蒔苗が立っていた。いつの間にか近くまで来ていたらしい。ユキノは驚いて息を呑む。

「あ……蒔苗。うん、大丈夫。あの日のこと、詳しく聞かれたけど……何も覚えてないって言っておいた。」
「そっか。賢明な判断ね。いま警察に話しても、彼らには処理しきれない内容でしょうし。」

蒔苗はいつもの無表情だが、かすかに「ありがとう」と言いたげな雰囲気を感じる。ユキノは顔を伏せながら「うん……」と返事をするが、本当は聞きたいことだらけだ。

「蒔苗……あなた、この状況で何をするつもり? 真理追求の徒がまた来たら……」
「私は、彼らがまた来るか来ないかにかかわらず、ここで“観察”を続けるだけ。あなたの動向も含めてね。……何かあれば手を貸すわ。」
「そう……。でも、蒔苗にばかり頼ってもいいのかな……。」

心が揺れる。自分にはエリスという存在がいるが、彼女は“人間”の範囲で最大限に戦ってくれている。それに対し、蒔苗が示すのは明らかに“超常”的な力。真理追求の徒が扱うEM以上かもしれない。そんなものに依存するのは危険かもしれないが、現実問題として、蒔苗がいなければ守れない瞬間もあるかもしれない。

蒔苗はかすかに微笑んだようにも見え、それから背を向けて歩き出す。去り際に、小さく漏らした言葉が印象的だった。

「あなた自身が、その力を手にしたとき、私がいなくても平気になる。でも、そこに至る道程は長い。……それまで、目を離さないであげる。」

まるで教官のような物言いだが、ユキノは不思議と嫌な気持ちにはならない。むしろ、見守られているようで複雑な安心感さえある。

(いったい何者なんだろう……。でも、今はとにかく、彼女に救われる場面もあるだろうな……。)

自分が“生成者”として力を得るかどうか――それが先日のエリスの話だと、射出機を用いて“心の中心”を撃ち抜くことで始まる可能性があるという。しかし、その覚悟はまだできていない。
ユキノは複雑な気持ちで、ちょうど昼休み終了を知らせるチャイムを聞きながら教室へ戻った。


午後の授業が始まっても、校内の緊張感はまったく解けない。先ほどの警察とのやりとりや不審物騒動の余波で、生徒たちは落ち着きを失っている。教師たちはなるべく普段どおりに授業を進めようとするが、空回りしている感が否めない。

「……以上が世界史の資料についてだ。何か質問あるか? ……ないなら、ノートまとめを続けてくれ……。」

教師の声はいつもより生気が感じられず、教室内には沈鬱な空気が漂う。誰もが内心、「また何か起こるのでは」と身構えているのだ。

ユキノもノートを開きながら、視線が自然に窓の外へ向かう。
グラウンドには青いシートが敷かれ、一部修理が行われているのが見える。警備員が巡回する姿が小さく映り、まるで刑務所の中庭を見ているような気分になる。
そんなとき、不意にスマートフォンがバイブレーションを起こした。授業中だが、ユキノは担任の目を盗んで画面を覗き込む。差出人はエリスだ。

エリス
「新しい情報が入った。大きな動きがあるかもしれない。終わったら事務所に寄れる?」

簡潔なメッセージ。ユキノはドキリと胸が高鳴る。何かが“起きようとしている”――そんな予感が否応なく伝わってくる。急いで返信を打つ。

ユキノ
「わかりました。放課後、すぐ行きます。学校の様子も変です……。」

送信を終え、スマホをカバンに忍ばせる。席に戻ると、ちょうど教師の目がこちらを向くタイミングだったが、辛うじて見咎められずに済んだ。内心で冷や汗をかきながら、ユキノは“また事件が動き出すのか”という焦燥感に襲われる。

(爆発事故やら不審者やら、行方不明者まで出ているのに、まだ本格的な対策は進んでいない。真理追求の徒がさらに大きなことを始めるとしたら……やっぱり私を狙う可能性が高いよね。逃げられない。)

ノートの上に書かれた文字が脳に入ってこない。指先が震え、呼吸が浅くなる。――こんな状態が続いたら、いずれ自分は壊れてしまうのではないか、という不安がかすめる。しかし同時に、胸の奥には確かに「負けたくない」という小さな炎が宿っているのを感じるのも事実だ。

蒔苗の冷たい守護や、エリスの支援だけに頼るのではなく、自分の力で立ち向かう日が必ず来る。――そう確信しつつも、それがいつになるのか、どれほどの訓練を要するのか、まるでわからないのがもどかしい。
昼過ぎに突入する3限、4限が終わり、放課後を迎える頃には、ユキノは疲労と緊張で身が持たない状態になっていた。


ホームルームが終わり、クラスメイトたちが下校や部活に移る中、ユキノはカバンを持って急いで廊下へ向かう。エリスの探偵事務所に行くつもりだ。だが、昇降口へ向かおうとしたところで、蒔苗がふらりと現れた。

「また外出? 最近、用事が多いのね。」
「うん……ちょっと、どうしても行かなきゃいけないところがあるの。」
「そう……。あなたの自由だけど、気をつけて。学校の外も安全とは限らない。」

蒔苗の言葉はいつも冷静だが、その裏に優しさが隠れているようにも思える。ユキノは足を止め、少しだけ勇気を出して問いかけた。

「蒔苗……あなたは、この先も学校に通うの? それとも、何かのきっかけがあれば消えちゃうの?」
「さあ、まだわからない。でも、もう少し“観測”は続けると思う。あなたの成長……もしくは破綻を見届けるまで。」
「破綻……。」

その冷淡な言葉に、ユキノは胸がチクリと痛む。まるで、自分が失敗する可能性を当たり前のように見ている。だが、同時に見守るという意志も感じられる。矛盾しているようでいて、蒔苗の真意が垣間見えないが、何かしらの“情”が芽生えているとも受け取れるのだ。

「……私は、破綻なんかしないよ。絶対に強くなって、みんなを守ってみせる。」
「ふふ、そう言い切れるところがあなたの魅力かもしれない。……じゃあ、またね。」

蒔苗は淡い笑みを浮かべると、そのまま校舎の奥へ歩き去っていく。ユキノは見送ることしかできないが、心の中には“頑張らなきゃ”という決意がさらに強く芽生えていた。

(大丈夫……私にはエリス先生がいる。蒔苗の謎は解きたいけど、今は自分にできることをまずやっていこう。)

そう自分に言い聞かせ、昇降口へ急ぎ足で向かう。もはや部活見学や友人との放課後談笑など、普通の学生らしい時間は失われつつある。だが、これが自分の選んだ道であり、背負うべき現実だと受け止めるしかない。

校門を出ると、今朝と同様に警備員がチェックをしており、ユキノは学生証を見せて通る。周囲の様子を伺っても、特に不審者の姿は見えない。警察官が車で巡回しているのが目に入る程度だ。

「よし……行こう。」

深呼吸して歩き始める。曇り空の下、まるで重苦しい空気が街を覆っているように感じるが、ユキノは足を止めない。ここで怖がって立ちすくんでいては何も始まらないのだ。


電車を乗り継ぎ、エリスの探偵事務所に着いたのは午後5時前。薄暗いビルの2階にある小さなプレート看板を横目に、ユキノはドアをノックする。すると、すぐにエリスの声が返ってきた。

「どうぞ、開いてるわよ。」

ドアを開けると、事務所の奥にエリスがデスクを囲むように資料を並べて座っていた。奥の壁には新しい地図が貼られており、赤や青のピンで場所を示している。ざっと見ても“事件”や“消失者”が多発していることが分かる。

「先生、こんにちは。学校、またいろいろあったんです……。」
「そうみたいね。聞いたわ、警察が不審物を発見したとか。中身は空だったらしいけど、学校としては更にピリピリしてるでしょう。」

エリスは苦笑しつつ、ユキノを椅子に促す。簡単なお茶を用意してくれていたようで、湯気の立つマグカップが机の上に置かれている。ユキノは「いただきます」と礼を言い、熱いお茶をすすった。

「そういえば、新しい情報が入ったって……何か分かったんですか?」
「うん。まだ確度は低いんだけど、タスクフォースのルートから“真理追求の徒が新しい実験施設を用意しつつある”って話が出てきたわ。場所は詳しくは分からないけど、都内の廃棄ビルか倉庫を拠点化しているらしい。」

エリスが指さした地図の端には、いくつかの×印がついている。これは既に捜索したか、候補から外れた場所だという。それでもまだ多数の空きビルや倉庫が残っており、どこに潜んでいても不思議ではない。

「そこで生成者候補をさらって、P-EMの実験をしている可能性が高い。行方不明者が増え始めたのもそのせいかもしれない。」

ユキノは息を呑む。廃棄ビルや倉庫――そんな薄暗い場所で、人間を実験台にしている光景を想像するだけで血の気が引く。

「……どうして、そんなことを……。彼らはEMが欲しいんですよね? でも、そんな非道なやり方で、いったい何を手に入れるつもり……?」
「真のEMの錬成方法を完成させるとか、次元間の鍵を手にするとか、いろいろ噂はあるけど、要は“力”が欲しいんでしょう。彼らは倫理観なんて持ち合わせていないから、どんな手段も厭わない。」

エリスの言葉に、ユキノの背筋が凍る。自分も“生成者”として注目されている。つまり、いつ攫われてもおかしくない立場なのだ。

「先生、私、もっとちゃんと訓練したい。あの射出機……使い方を早く覚えたいんです。でないと、学校の皆が……。」
「焦る気持ちは分かる。でも射出機の本格使用はリスクが高いから、まずは安全な場所での訓練が必要。タスクフォースに掛け合ってみるけど、すぐには難しいかも。――それでもやる?」

ユキノは迷いなく頷く。自分がこのまま何もできずに守られるだけでいることに限界を感じているのだ。

「はい、お願いします。少しでも早く使えるようになりたい。……先日、蒔苗に助けられたけど、あんな状況、また起きるかもしれないじゃないですか。」
「分かった。私も本気で動く。……ただし、暴走や精神的負荷には気をつけて。あなたが壊れたら意味がない。」

エリスはデスクの脇に置いてあった射出機の初心者モデルを取り上げて見せる。銀色のボディが鈍く光り、ユキノはごくりと唾を飲み込む。

「これは本番用じゃなく、あくまで訓練用。実際の具現化は難しいけど、発砲の感覚や心の集中を学ぶには十分。――近いうちに場所を探すから、心の準備をしておいてね。」
「はい……頑張ります。」

そう答えるユキノの瞳には、一筋の決意が宿っていた。怖いが、もう逃げるわけにはいかない。
エリスは微笑み、パソコン画面を示しながら「今日はもう少し情報収集を続けるから、あなたはここで休憩しててもいいわよ」と提案する。ユキノは素直に「はい」と返事し、ソファに腰を下ろす。

お茶を飲みながら、頭の中を整理しようとするが、すぐにスマホが振動を起こした。画面を確認すると、学校の連絡網アプリからの通知が入っている。どうやら「本日の不審物はイタズラ」との校内アナウンスが来たようだが、それを受けても心が晴れるわけではない。

(イタズラだったとしても、こんな状況じゃみんな安心できないよ……。)

日常が崩れ始めている実感。爆発事故、校内襲撃、不審物、行方不明事件――そして謎の力を持つ蒔苗の存在。
ユキノは深く息を吐き、「大丈夫、私には先生がいる」と自分に言い聞かせる。


時間はあっという間に過ぎ、日が落ちる頃、事務所の窓から夜の街が見えるようになった。エリスは相変わらずパソコンと向き合い、タスクフォースの新着報告をチェックしている。ユキノはソファでウトウトしていたが、キーボードを打つ音に目を覚ます。

「先生、何かわかった……?」
「少しだけね。やはり連続消失事件が再燃している。ここ数日だけで2人ほど行方不明者が出たとの通報があった。警察はまだ関連を立証してないけど、タスクフォースの情報筋は“真理追求の徒が絡んでいる可能性が高い”と踏んでるわ。」

エリスの声には苛立ちが混じる。真理追求の徒を野放しにしている状況に対する怒りだろう。

「私たちは事件の核心を知ってるのに……一般には説明できないから動きづらい。タスクフォースも行政との折衝が面倒で、結果的に後手に回るばかり。」
「どうすればいいんでしょう……? 先生が直接その拠点を探して突入するわけにもいかないし……。」
「そうね……。無茶を承知で動く選択肢もあるけど、あなたを守りながらできるかどうか……。」

エリスはそう言いながら、射出機を見つめる。その表情には覚悟と迷いが入り混じっているように見える。

「いずれにせよ、日常はもうおしまいよ。あなたが望むと望まざるとにかかわらず、事件は進行してる。気を抜いたら奴らに攫われるかもしれないし、学校もまた襲われるかもしれない。」
「……はい。わかってます。でも、私……まだ逃げたくない。もう決めたから……」

ユキノの言葉に、エリスは微笑むように目を細める。
「ええ、あなたは強いわ。確かにまだ力は未熟かもしれないけど、その意志は本物。――安心して、私も諦めたりはしない。少しでも、あなたが前に進めるように支えるわ。」

暖かな励ましに、ユキノは思わず胸が熱くなる。日常が崩れ去る中でも、こうして自分の存在を肯定してくれる人がいる。それだけで救われる思いだ。

「先生……ありがとうございます。」

そう言って微笑むユキノ。事務所の小さな照明が、二人の影を壁に映し出す。部屋の中は静かだが、外の街は暗闇とネオンが混ざり合い、不穏な予感を漂わせている。今日のうちに襲撃される可能性は低いとはいえ、何が起きてもおかしくない世界になってしまったと痛感する。

(それでも、私は戦う。蒔苗やエリス先生を頼りつつも、自分自身の力で。)

その決意を新たに、ユキノはソファから立ち上がる。時刻はもう夜の7時を回っている。そろそろ家に帰らなければ、母親が心配するだろう。エリスに「今日も送ってもらっていいですか?」と尋ねると、彼女は快諾し、コートを羽織る。

「大丈夫、送るわ。今日はもう遅いし、暗い道を一人で歩くのは危険。明日からまた学校で色々あるかもしれないけど、何かあったらすぐ連絡して。」
「はい……先生も気をつけてください。」

二人は事務所の電気を消し、ビルの階段を降りて外へ出る。夜風がひやりと頬を撫で、曇り空には月がうっすらと姿を見せている。車に乗り込むと、エリスはエンジンをかけながら窓の外をちらりと見やる。

「変な話だけど、どこかから視線を感じるのよね。……気のせいだといいんだけど。」
「えっ……。実は、私も学校でそんな気がしたんです。廊下や玄関で、誰かが見てるみたいな……。」

エリスの表情が険しくなる。「そう……なら、やっぱり奴らが私たちを監視している可能性もあるわね。」

車が街灯の下を進み、ヘッドライトに照らされたアスファルトが水光に反射する。いずれ雨が降り出すかもしれない。暗い車道を進むうち、ユキノは微かに恐怖を覚えるが、エリスの隣であればまだ安心だと感じる。

「怖いけど……負けない。」

小さく呟いた言葉は、車のエンジン音にかき消されそうになるが、エリスには聞こえたようで、彼女は微笑む。
「ええ、そうね。私たち、まだ負けるわけにはいかない。」

こうしてユキノは、わずかな安堵を胸に家へ向かう。一方で、真理追求の徒の実験拠点や蒔苗の正体といった数々の謎は、ますます深まり、日常のあちこちがほつれるように変質しつつあった。何気ない日常が“異変”に飲み込まれていく――それは、まだ序章に過ぎないと気づいている人は多くない。


車がユキノの自宅近くに到着し、彼女はシートベルトを外す。エリスはハンドルを握ったまま、視線を前に向けている。

「今日はありがとう、先生。本当に助かりました。また明日、連絡しますね。」
「うん、何かあったら遠慮なく。夜道は十分注意してね。」

エリスの言葉に頷き、ユキノは車から降りる。玄関の灯りが漏れ出しているアパートを見上げると、いつもの景色のはずなのに、なぜか違って見える。――それは、ここ数日で世界が激変してしまったからだ。

車のエンジン音が遠ざかり、夜の静寂が訪れる。わずかに湿った風がユキノの髪を揺らし、街のネオンが空にぼんやりと反射している。前ならこんな夜道も普通に歩いていたのに、今は“真理追求の徒”の影をどこかに感じてしまう。

「負けない……私、自分の足で進むんだ……。」

心の中でそう呟く。明日がまた平穏であるとは限らないが、それでも逃げたくはない。蒔苗との奇妙な関係も、エリスのサポートもすべて含めて、自分の未来を自分で切り開きたいと思う。
ドアを開け、「ただいま」と言うと、母親が台所から顔を出して「おかえり、遅かったのね」と尋ねてくる。ユキノは「ちょっと友達と話し込んでた」と苦笑いで答える。嘘も方便。心苦しいが、話せないことは多い。

部屋に入り、ベッドにカバンを置くと、窓の外を見つめる。曇りの中、月がわずかに姿を見せている。あの月明かりの下では、真理追求の徒や蒔苗たちがどう行動しているのか――考えるだけで心が乱れる。

(大丈夫、先生がいる。蒔苗もきっと……守ってくれるって言った。それに、私自身も強くなる。)

そう思い、制服をハンガーにかけて着替える。鏡に映る自分の顔は、わずかに頬が痩せたように感じられるが、瞳には以前より力があるように見える。ほんの少しずつでも前に進めている証拠だと信じたい。

ベッドに腰を下ろし、スマホを確認する。エリスからの追加連絡は入っていない。蒔苗からはもちろん連絡先など知らない。友人たちのグループチャットには学校の不安や、次回の部活予定がごちゃ混ぜに書き込まれていて、目を通すだけで疲れる。
そっとスマホを置き、布団に潜り込む。今日は休校明けの一日で、いろいろなことが起きすぎた。身体も心も休めなければ、また明日に響く。明日はどんな“日常の異変”が待ち受けているのか――想像するだけで不安だが、今は寝るしかない。

「絶対に……負けないから……。」

誰にも聞こえないような小さな声で呟き、瞳を閉じる。天井の蛍光灯を消せば、部屋は闇に包まれる。夢の中でさえ、真理追求の徒の影がちらつくかもしれない。それでも、前に進まなくてはならないのだ。
こうしてユキノの一日は終わる――が、世界の歯車は休むことなく回り続け、日常は少しずつ歪み始めている。爆発事故や行方不明事件が重なり、恐怖が街を包み込む。その“異変”を誰も完全には止められず、誰もが不安に揺れる夜を迎えていた。

薄い月明かりの下、学校の屋上に立つ人影があることなど、ユキノは知る由もない。そのシルエットはプラチナブロンドの髪をなびかせながら、街を見下ろしている。
蒔苗――その瞳は虹色の冷たい光を宿し、ゆっくりとまぶたを閉じる。

「もう少し……。この世界と、彼女の“意思”がどう変化するか……見届けなくては。」

静かな独白が夜風に溶け、闇に吸い込まれていく。
“日常の異変”は、既にあちこちで蠢き出している。蒔苗もエリスも、そしてユキノも――誰もがそれぞれの思惑を抱えながら、運命の渦へと足を踏み入れていた。


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