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新説:翡翠の調停者_EP1-3

エピソード1-3:クラウスとマリアの決意

陽光が、春の大地を柔らかく照らしていた。
 帝国の中心から遠く離れた辺境の村へと続く山道を、二頭立ての馬車がゆっくりと進んでいる。周囲には木々の葉擦れの音が小鳥たちの囀りと重なり、穏やかな自然のリズムを感じさせる。まだ肌寒い季節だが、朝日を受けてうっすらと温もりが漂う。その光景は、まるで厳しい試練を乗り越えて訪れた束の間の平和を示すかのようだ。

 荷台には、大きな毛布や荷物の陰で小さな揺り籠が置かれている。その中に眠るのは、翡翠色の髪を持つ赤子、――アイリーン。
 彼女の呼吸は静かで、寝息はとても穏やかだ。まだこの世界で生を受けて日が浅いはずなのに、不思議な安定感を漂わせている。その髪は太陽の光に当たると、さらに淡い緑の輝きを帯びるようで、見る者の心を魅了する。だが、この小さな存在は、人間とターム――そして世界の運命を左右する可能性を秘めていた。
 その事実を重く受け止めつつも、クラウスとマリアは彼女を我が子として育てる決意をしている。ふたりは馬車を操りながら、行く先に待ち受ける新しい生活への思いを巡らせていた。


 御者台にはマリアが座り、手綱を握っている。鍛えられた腕と鋭い視線は、元・帝国情報局長という経歴を伺わせる。けれど、その表情はどこか柔らかく、母親らしい慈しみも含んでいる。
 隣にはクラウスが腰かけ、地図とコンパスを見比べながら「ここからあと二刻ほどで目的地の村に着くはずだ」と呟く。その言葉にマリアはコクリと頷いた。
「この道はなかなか険しいわね。あんまり馬車が通るルートじゃなさそう。……だけど、人目を避けるためには都合がいい」
「そうだね。帝国の大通りを通ると、下手に役人や兵士に目をつけられかねない。それに、アイリーンの姿を見られて、妙な噂が広まるのは得策じゃないし……」
 クラウスは視線を後方の荷台へやる。アイリーンは本当に大人しく、まるで両親を安心させるかのように眠っている。小さな手がふわりと揺れ、毛布に絡む様子が微笑ましい。

「聞いてくれるかい、マリア?」
「何?」
「きみにはもう話したと思うが、あの子は生まれた瞬間に、タームの女王と皇帝の血を同時に受け継いだ存在だ。しかも、母である女王は出産の過程でずいぶん体を痛めつけられていたし、あの襲撃も……いろいろあった」
「……ええ、私も見聞きしていたわ。あの夜の乱戦、そして女王殿の必死さ。クラウス、あなたも危険な橋を渡ったわよね」
 マリアはハッと短く息をつく。遠い記憶を思い出すように目を伏せる。彼女は帝国情報局時代、同じように危険な作戦を数えきれないほど経験してきた。しかし、今回の任務はそれらとは次元が違う。世界の未来を託すような“子”を守る。いわば人類とタームを繋ぐ架け橋の責任を負うということだ。

「……それでも、不思議と怖くはなかったんだ」
 クラウスはフッと笑って首を振る。
「もちろん死ぬのは恐ろしかったが、それ以上に“あの子を守らなきゃ”という気持ちが強かった。僕たちはもう、あの子の父と母になっているんだね」
「ええ。私も同じよ。情報局で働いていたときは、任務のためなら子どもを預かることさえ辞さない――そんな非情な判断をしてきたこともある。でも、アイリーンを抱いた瞬間、何かが変わった気がしたの。……これが、母性なのかしらね」
 マリアは照れくさそうに微笑みながら、ひとつため息をつく。それは安堵の息でもある。時折、戦場の血なまぐさい記憶が脳裏に蘇るが、アイリーンの存在が不思議とその闇をやわらげてくれるように感じるのだ。


 山道を抜けると、小さな谷間に広がる穏やかな里が見えてきた。木造の家がまばらに立ち並び、畑や牧場、そして遠くに小川が流れる風景が広がっている。
 クラウスは地図を確認しながら、「ここが僕たちの新しい拠点となる村……“コリーの村”だ」と言う。
「人口は多くはないけど、山の幸や林業が盛んで、生活に必要なものはだいたい揃う。帝国の巡察兵が来ることは少ないと聞いたよ。地理的にも辺境だし、危険な魔物も少ないらしい」
「いいわね。私たちがひっそり暮らすにはちょうどいい。人は少なそうだけど、逆に噂が広まるのは早そうだし、ある程度のコミュニケーションは必要だけど……」
 マリアが懸念を口にすると、クラウスは苦笑いを浮かべる。
「そこは僕たちの腕の見せどころだろう。何といっても元情報局長のあなたと、大学教授の僕なら、知恵を絞ればどうにかなる。まずは“遠縁の子を引き取った夫婦”として住民に認識してもらうことから始めよう」

 そうして馬車を走らせながら、彼らは村の入口に差し掛かる。そこには木製の看板が立ち、「コリーの村へようこそ」と手書きで書かれている。辺りには村人の姿はあまり見えないが、農地に出ている人たちが遠目で興味深そうに馬車を見つめているのが分かる。
 マリアは馬を停めてクラウスと相談し、「まずは人目につかない所に馬車を置き、紹介してもらうはずの家を探そう」という結論に達する。


 村に入り、民家がぽつりぽつりと点在する中を進んでいると、何人かの子どもたちが馬車の後ろを走ってついて来た。珍しい来訪者が気になるのだろう。彼らははしゃぎ声を上げながら、アイリーンの姿を見ようと背伸びしている。
「おい、兄ちゃん、どこから来たの?」
「その馬車、すごく立派だね!」
 クラウスは苦笑しながら、子どもたちに手を振って応える。
「ああ、ちょっと遠くからね。仕事の関係で引っ越してきたんだ。……まだ村長さんに挨拶してないから、内緒にしておいてもらえるかな」
「わかった!」
 子どもたちは面白がりつつも、どこか素直に頷いて駆け去っていく。

 しかし、大人たちの視線はそう甘くはない。納屋の前で農作業をしている壮年の男性がじっと馬車を見ているし、通りに佇む老女も何度もこちらを振り返っている。
 マリアがその様子に気づき、小声でクラウスに告げる。
「まだ本格的に村の中へ入っていないというのに、結構目立ってるわね……。やはり馬車が大きいからかしら。あまり噂が広がる前に、しっかり“設定”を固めておいたほうがいいわ」
「うん、早めに村長に会って事情を説明するのがいい。といっても、帝国から逃げてきたなんて言ったら怪しまれるだろうから……そうだな、学者夫婦が静養のために来た、とかどうかな。アイリーンは親戚の子どもってことで」
「それで十分ね。どのみち、私たちがこれまでどんな仕事をしてたかなんて、話しても怪しまれるだけだわ。あなたの肩書きは“元大学教授”だからウソではないし……私は“退職した役人”程度にしておきましょ」

 そうして馬車を進め、村の中央に位置すると聞いていた小さな集会所に差し掛かる。そこには木造の建物があり、村人が集まって話し合いや祭りの準備などを行う場所らしい。
 早朝にもかかわらず、集会所には何人かの村人がいて、雑談や何やら作業をしている。その中に、品のいい衣服をまとった壮年の男性がいて、こちらに気づくとニコリと笑って手を振った。
「おや、旅人さんかい? 最近は滅多に馬車も通らんから珍しいね。何かご用かな?」
 クラウスとマリアは馬車から降り、丁寧に挨拶する。
「はじめまして。私たちはクラウスと申します。こちらは妻のマリア。実は、ここの村長さんに手紙を送った者なんですが……」

 すると、その男性は「ああ、わしが村長のベックだよ」と名乗る。顔に刻まれた皺は多いが、健康的な小麦色の肌をしており、人柄の良さそうな印象を与える。
「手紙、ちゃんと受け取ってるよ。確か……“辺境の地で静かな暮らしをしたい学者夫婦”と書いてあったね。正直、本当に来るとは思わなかったが」
 村長のベックは豪快に笑い、周囲にいた村人たちに「手を止めてこっちへ来い。新しい住人がおいでくださったぞ」と声をかける。すると、3~4人が集まり、好奇のまなざしでクラウスとマリアを眺める。

 マリアはさすが元情報局長だけあって、すぐに愛想良く笑って言葉を交わす。
「この村は山と森が豊かだと聞きまして。静養にも最適だと。本からの知識しかないけれど、実際に見ると本当にきれいな場所ですね」
「はは、そう言ってもらえると嬉しいね。このあたりはあまり発展はしてないが、自然の恵みがあるから暮らすには困らない。……ところで、ご夫婦お二人だけで来られたのかい?」
 村長が馬車の様子をちらりと見やる。その奥に赤ん坊がいる雰囲気を察知したのかもしれない。マリアは軽く微笑み、馬車から布に包まれたアイリーンを抱き上げる。
「実は、親戚の子を預かっておりまして……この子も含め、家族三人という形ですね。そうだ、よかったらお顔を見てくださいますか?」

 マリアがそっとアイリーンの顔の布をずらすと、村長や周囲の人々がどよめく。
「……まぁ、美しい髪色だこと。見たことないわ」
「まるで翡翠みたいだね。こんな子が本当にいるのか……」
 一瞬、その不思議な髪色に惹かれながらも、村長は良識のある笑顔を向ける。
「なるほど、血筋が違うとこういうこともあるんだな。心配しなくとも、村の連中が変に騒ぎ立てることはない。皆、子どもには優しいからね」
 そう言いながらも、村長の横で首をかしげる年配の女性が「うちにこんな子がいたら、毎日見とれちゃうわねぇ」と笑う。マリアは軽くお辞儀し、ほっと胸を撫で下ろす。

(思ったほど、村人たちは拒否感を示さない。田舎特有の好奇心はあるが、敵意や不快感は感じられない。これなら……うまくやれるかもしれない)
 マリアは内心でそう思い、クラウスに目をやる。クラウスも、村人たちの反応に穏やかな笑みを浮かべていた。
「村長さん、もし可能であれば、私たちが住める家か部屋を借りたいのですが……」
「もちろん、そのために手紙をもらったんだろう? 実は、最近出稼ぎに行った夫婦が家を貸しに出していてね。広くはないが、三人で住むには充分なはずだ。案内するよ」

 こうしてクラウスとマリアは、村長の紹介で空き家を見つけ、そこを拠点としてアイリーンと共に新生活を始める運びとなった。


 村長から紹介された家は、集会所から少し離れた場所にあった。木造の平屋で、裏手には小さな畑と倉庫らしき建物がある。前の持ち主が置いていった家具が多少残っており、粗末ではあるが生活に必要な最低限の設備は整っている。
「想像していたより、ずっといい家じゃないか」
 クラウスが感嘆の声を上げると、マリアも続けて頷く。
「そうね。村外れで人通りも少ないから、アイリーンの存在をあまり見られずに済む。奥にある倉庫も使えそう。食料を備蓄したり、万一のときの隠れ場所にするのもいいかもしれないわ」
 彼女の言葉には、さすが情報局時代の名残がある。通常の生活だけでなく、非常事態に備える知恵を瞬時に思いつくのだ。

 荷物を運び込み、埃まみれの床や家具を掃除していると、あっという間に半日が過ぎた。アイリーンはというと、手伝っている村の女性たちの腕の中で静かに眠っている。彼女の可愛らしさに惹かれ、早くも「うちにもこんな子が欲しいわ」などと歓声が上がる。
 そして夕方になり、ようやく落ち着いたところで、クラウスとマリアは床に腰を下ろして一息ついた。
「マリア、ありがとね。あなたが村の女性たちとすぐに打ち解けてくれたおかげで、作業がずいぶん捗ったよ」
「いえ、私もまさかこんなに親切にしてもらえるとは思わなかったわ。やっぱり田舎の人たちは、人懐こいというか、余所者にも優しいのね」

 ふと、マリアは部屋の隅に置かれた籠の中のアイリーンを見つめる。その翡翠色の髪が夕日の光を受け、ほのかに色彩を帯びてきれいに輝いている。
「この子の髪色、やっぱり見るたびに不思議な気持ちになるわ。タームの女王の血が流れてる証なんでしょうね……」
 クラウスは頷き、やや神妙な面持ちで答える。
「そうだろうね。それに、まだ生まれて間もないけど、何か特別な力を感じるんだ。気のせいかもしれないが……でもきっと、皇帝と女王があれほどまでに執着したのには理由がある。それだけの潜在能力が秘められているはずだ」

 マリアはその言葉に同意を示すが、同時にどこか不安そうな表情を浮かべる。
「潜在能力……もし、それが暴走したらどうなるのかしら。七英雄の話、聞いたことがあるでしょう? 彼らもまた“異形の力”を取り込んで英雄から破壊者になってしまった。……あの子が同じ道を辿ったら、どうすればいいの?」
 そう言いながら、マリアの瞳にはわずかな翳りが見える。情報局時代に“七英雄の力”の実験資料を見た経験があるからこそ、なおさら危機感を覚えているのだ。
 クラウスはマリアの手を軽く握り、優しく微笑む。
「大丈夫だ。僕らはあの子を“ただの兵器”のようには扱わないし、“調停者”として国の道具にするつもりもない。愛情を持って育てていけば、力があっても暴走することはないと信じたい。もちろん、リスクはあるだろう……それでも、僕たちはやるしかないんだ」

 マリアは少しだけほほ笑んで、その言葉に救いを感じる。
「ええ、そうね。私たちが選んだ道だもの。逃げるわけにはいかないわ。……それに、この子が幸せに笑ってくれるなら、それだけで価値があると思うの」
 夕日の残照が部屋の窓から差し込み、二人の会話を照らしている。外では村の住民たちが帰宅し、焚き火や夕飯の支度を始めているらしい。煙の匂いや調理の音が微かに届いてきて、山間の小さな村ならではの素朴な暮らしの温もりを感じさせる。
 クラウスとマリアは、ここでアイリーンと共に新しい人生を歩む決意を再確認する。彼らはまだ危険な状況にあるし、帝国やタームの情勢もまったく安定していない。だが、ひとまずこの村での拠点づくりは順調なスタートを切ったように思えた。


 その夜、村全体が静寂に包まれようとしていた頃。
 クラウスとマリアがアイリーンを寝かしつけ、ようやく二人だけで一息つこうとした矢先、外から不穏な足音と話し声が聞こえてきた。どうやら何者かが家の前に立っているようだ。
「……誰かいるみたい。こんな時間に?」
 マリアは瞬時に警戒モードに入り、小声でクラウスに伝える。「あなたはアイリーンを見ていて。私が行くわ」と言い残し、玄関へ向かう。
 扉を開けると、そこには二人の男が立っていた。村の者にしては荒っぽい服装で、腰には短剣を差している。恐らく旅人、もしくは流れ者に近い風体だ。
「こんな時間にすまないね。俺たちは帝都からやってきた旅行者なんだが、道に迷ってしまって……今夜は泊まれる場所を探してるんだ」
 先に口を開いたのは背の高い男。口元に無精髭が目立ち、目つきが鋭い。もう一人はやや小柄で、薄暗い中でも警戒感を漂わせているのが分かる。

 マリアは一見すると優しい表情を装いながら、内心ではすでに“怪しい”と警報を鳴らしていた。
「こんばんは。この村は小さいですし、宿屋はありませんよ。私たちも引っ越してきたばかりで……申し訳ありませんが、他を当たったほうがいいかと」
 すると、背の高い男がわざとらしく笑う。
「そう言わずにさ。お宅、広そうじゃないか。厄介になるだけなら問題ないだろう? 俺たちは礼儀はわきまえてるし、金も持ってるよ。まさか断ったりはしないよなあ?」
 その言葉に、マリアは微かに眉をひそめる。
(これは単なる旅人じゃない。何かしらの下心がある――もしや、私たちを探している? それとも盗賊まがいの連中か?)

「申し訳ないですが、私たちも余裕がないんです。お力になれなくて……」
 マリアがピシャリと断ると、男たちは一瞬だけ殺気を漂わせた。小柄な男がステップを踏むように玄関へじりじり近づき、手を短剣の柄へ伸ばす。
「おい、仲良くしようぜ。もしかして隠してるものでもあるのか? まさか、この辺りで妙なウワサの子どもを匿ってるなんて話もあるみたいだし、俺たちも気になってるんだよな」
 その言葉を聞いた瞬間、マリアの心臓がドクンと鳴る。(まさか、早速アイリーンの噂を嗅ぎつけた連中が現れたの……?)
 外套の内側に隠していた短剣を密かに握りしめながら、マリアは冷静を装って返す。
「そんな子どものことは知りませんわ。噂なら村の人にでも聞いてください。……もう夜も遅いですし、これ以上は勘弁してください」

 男たちはなおも詰め寄ろうとするが、そのとき屋内からクラウスの声がした。
「マリア、どうしたんだい?」
 彼が姿を見せると、背の高い男は軽く目を光らせた。クラウスの学者風の雰囲気を見て、あまり戦闘能力はないと踏んだのかもしれない。
「おや、あんたがご主人か。もしかして、ここに“特別な赤子”がいるという噂が漏れてたんじゃないか? ……みんな興味津々らしくてねえ。われわれも、それを見に来たんだ」
 マリアは睨みつけるように男たちを見て、クラウスに目配せする。クラウスも内心で緊張感を募らせるが、落ち着いた声を保ちながら口を開く。
「赤子……? 親戚の子を預かっているのは事実ですが、特別というほどでは。怪しい勧誘ならお断りですよ」

 すると、小柄な男がニヤリと笑って踏み込んでくる。
「まあまあ、そう固くなるなよ。俺たちはちょっと見せてほしいだけなんだ。そしたらおとなしく帰るさ」
 それは明らかに嘘だと分かる。彼らの目には金銭欲、あるいは何かを得ようとする欲望が宿っている。もしかすると、帝国からの密偵か、あるいはタームの暴走派閥が雇った刺客かもしれない。
 マリアは一瞬だけ男たちの死角を作るように動き、クラウスを庇う形を取る。次の瞬間、シュッと鋭い音を立てて短剣を横薙ぎに振るう。男たちは驚き、後退して態勢を整えようとする。
「おい、突然何を……!」
「そちらこそ、夜分に押し入ろうなんて非常識も甚だしい。正当防衛ですよ」

 マリアの瞳には、かつて戦場や諜報活動で磨き上げた殺気が宿っていた。男たちはそれを見て、「こいつ、只者じゃねえ……」と面食らう。
「そうかい、いい度胸だな。じゃあ容赦しねえぞ!」
 背の高い男が抜刀し、マリアに向かって突撃する。マリアは冷静にステップを踏み、相手の腕を捌くと同時に短剣で相手の頬をかすめる。男は痛みに顔を歪め、一瞬ひるむが、再び態勢を立て直して斬りかかる。
 小柄な男も横から加勢しようとするが、今度はクラウスが大声を張り上げる。
「やめろ! ここには赤ん坊がいるんだぞ!」
 しかし、男たちは聞く耳を持たない様子。むしろ「そいつを人質にでも取ればいい」とささやき合い、家の奥へと目を向ける。

 マリアは男たちが奥へ行かせまいと、玄関先で身体を張って応戦する。かつて情報局の特殊作戦で学んだ格闘術を駆使し、短剣で相手の攻撃を受け流すように立ち回る。
 だが、相手も場数を踏んだ風情があり、力量差が大きいわけではない。特に背の高い男はリーチがあり、剣の扱いにも慣れているようで、マリアも苦戦を強いられる。
 カキンッ、カキンッ、と金属がぶつかり合う音が連続し、二人の動きは狭い玄関では危険なほど激しい。クラウスは咄嗟にアイリーンの籠を奥の部屋へ移し、ドアを閉めて衝撃を防ぐ。
「マリア、がんばれ……!」
 クラウスは武器の扱いに不慣れだが、咄嗟に棒状の薪を拾い、補助的にマリアを援護しようとする。が、男たちが二手に分かれて動き始め、翻弄される。

 小柄な男がクラウスを狙って突き込んできた。クラウスは必死に薪を振るうが、相手は素早く身をかわし、逆手の短剣でクラウスの腕をかすめる。
「っ、痛っ……!」
 たちまち血が滲む。そこへ背の高い男の剣が迫ってくるところを、マリアが間一髪で割り込み、短剣を弾くようにして阻止する。だがマリアの肩にも剣先がかすり、赤い血が滴り落ちる。
「ちっ……面倒な夫婦だ。誰か応援はないのかよ?」
 背の高い男が苛立ちを滲ませる。すると、小柄な男が「村人を呼ばれたらまずい。さっさと片付けろ」と返す。
 二人の会話から察するに、彼らは何らかの目的でアイリーンを狙っているのは間違いない。だが、その背後にどの勢力があるのかは不明だ。盗賊として売り飛ばそうとしているのか、あるいは帝国やタームの情報を嗅ぎつけているのか……。

 マリアは苦痛に耐えながらも、か細い声でクラウスに叫ぶ。
「クラウス……早く、村の人に助けを求めて……!」
「わかった……でも、君一人で大丈夫か?!」
「誰かがアイリーンを守らなきゃ……あなたは早く行って!」
 マリアの目には必死さが宿っている。このまま二人を同時に相手していてはジリ貧だ。村人を呼び寄せて数的優位を作る以外にない。
 クラウスは決死の覚悟で玄関を飛び出し、外に出たところで「助けてくれ!」と大声を上げる。夜の村には静寂が広がっていたが、何軒かの家から明かりが灯っているのが見える。そこへ必死に向かい、ドアを叩く。
「泥棒……いや、悪党が襲ってきたんです! 助けて……!」

 数秒の沈黙の後、ひとりの壮年男性が戸を開いて顔を出す。夕方に荷物運びを手伝ってくれた村人の一人だった。状況を察した彼は「あんた怪我してるじゃないか!」と驚きつつも、斧をつかんでクラウスとともに現場へ駆けつける。その声を聞きつけたほかの村人たちも、松明や農具を手に集まり始めた。
 村長のベックの姿もある。
「いったい何ごとだ? 落ち着いて説明してくれ!」
「妻が、家の中で賊と戦ってます……早く、早く助けに!」

 こうして十人ほどがクラウスの家へ押し寄せ、中から聞こえる金属音や悲鳴を聞いて状況を悟る。斧や槍、鎌などを構えた村人たちが一斉に「出てこい!」と叫びながら玄関を取り囲んだ。
 男たちは予想外の数の集団に囲まれ、焦りを感じ取る。「くそ、こんなに集まるとは……逃げるぞ!」と背の高い男が叫ぶ。小柄な男もすぐに玄関を突き破るように外へ飛び出した。
 途端に村人たちの怒号が響き、彼らは一瞬で取り囲まれる。後ろからマリアが短剣を構えて追うが、男たちは隙を見て暗闇の方向へ走り去っていった。村人の武器が届く前に逃げられたが、肩や腕に傷を負っている様子だった。
「くそっ……とり逃がしたか!」
「大丈夫か、マリアさん……!」

 村長が駆け寄り、マリアとクラウスの負傷を見て舌打ちする。
「これほどの無法者が出没するなんて……コリーの村じゃ滅多にないことだ。すまないね、こんな目に遭わせて。すぐに手当てをしよう。家の中に子どもがいるんだったね……大丈夫か?」
 マリアは荒い呼吸をしながら、奥の部屋を指差す。
「アイリーンは無事です。……あの連中、あの子の噂を聞きつけて来たのかもしれない。とにかく、村長さん、これからもっと警戒が必要かもしれません。私たちも何か用心しますが……」
 村長は真剣な表情で頷き、周囲の村人たちに指示を出す。
「皆、今夜は物騒だから交代で見回りを頼む。あの連中が戻ってこないとも限らん。あと、このお二人の家は当分は私らが警護しよう。けが人もいるし、何より赤ちゃんがいるからな」

 こうして騒動は収まったが、クラウスとマリアの心には不安が残った。あの男たちがどこから情報を得ていたのか、そして再び襲ってくる可能性はないのか――。
 何より、まだ着いたばかりの村でこんな大騒ぎを起こしてしまったことに申し訳なさを感じる。
(私たちが来たせいで、村に危険をもたらしているのかもしれない。だけど、逃げるわけにはいかない)
 マリアは内心でそう誓い、痛む肩を押さえながら家の中へ戻った。そこでは村人の女性たちが、泣き声を上げるアイリーンをあやしている。
「ごめんねぇ、びっくりしたわよね。大丈夫、大丈夫よ……」
 アイリーンの瞳から涙が溢れ出し、その翡翠色の髪がかすかに光を帯びているようにも見える。まるで赤子ながら周囲の状況を敏感に感じとっているかのようだ。


 騒動から一夜明け、村人の助けもあって大きな被害は出ずに済んだ。家の修理は必要だが、怪我人も軽傷で済んだのは不幸中の幸いである。
 村長は二人を集会所に呼び、厳しい顔で問いかける。
「正直に聞きたいんだが、あんたたちは何者だ? 昨夜の連中は明らかにあんたたちを狙っていた。あの子の髪は尋常じゃないし、なにか特別な事情があるんじゃないか?」

 その問いに、クラウスとマリアは視線を交わし合い、苦渋の表情を浮かべる。すべてを話すわけにはいかない。しかし、嘘を重ねるのも彼らの誠意に反する。
 結局、クラウスはある程度のところまで本音を話すことにした。
「……実は、私たちは“帝国のある研究機関”に属していました。そこで保護された子どもを引き取ることになり、静かな場所で育てたいと思ったのです。どうやら、その子を狙う連中がいるようで……それでこの村に来ました。昨夜のようなことは、できるだけ避けたいのですが……」
 村長は黙って話を聞いた後、重々しく頷く。
「なるほど、研究機関とやらの実験で生まれた子かどうかは知らんが、確かに“特別”な匂いがする。だが、あんたたちが変な連中でないことは分かった。昨日の賊もあんたたちを追って来たんだろうな。……ならば、わしらがあんたたちを追い出すわけにもいかん。むしろ、守ってやりたいと思う。あんたたちはワシらに危害を加えるつもりはないんだろう?」

 マリアは深く頭を下げる。
「本当に助かります。私たちは人を傷つけたり、村に迷惑をかけるつもりはありません。あの子――アイリーンを守りたいだけなんです」
 村長は苦笑交じりに「まったく、大変なもんを背負い込んだねぇ」とつぶやくが、嫌な顔はしない。
「ここは田舎だが、人情には厚いんだ。しばらくは見張りを増やして、賊が来ないように警戒しよう。あんたたちもどうせ農作業は苦手だろうし、村の掃除や書類仕事なんかを手伝ってくれたらいい。お互い助け合えば、暮らしていけるはずさ」

 クラウスは涙が出そうになるほど安堵し、村長の手を握る。
「ありがとうございます……本当に。この恩は一生忘れません」
「大げさだな。ま、ワシもあの子の翡翠色の髪に心惹かれてるのかもしれん。珍しいものを見るとワクワクするんだよ。そうだ、子育てのことで困ったら、遠慮なく村の女たちに頼るといい。赤ん坊を育てるのは大変だからな」
 その言葉に、マリアもクラウスもうなずき、改めて深い感謝の意を表した。


 騒動の翌日、クラウスとマリアは傷の手当てを受けながら、改めて家で過ごす準備を整える。アイリーンは幸いにも怪我ひとつないが、精神的な影響を与えていないか心配だ。だが彼女は変わらず穏やかな寝顔を見せ、両親を安心させる。
 玄関周りには板を打ち付け、割られた窓ガラスを修繕する。倉庫には非常用の逃げ道を設けておき、万一の事態にアイリーンと共に隠れられるようにした。マリアの情報局経験がここで再び活かされ、数日かけて簡易的な防衛網を築き上げていく。
 しかし、彼らの生活が常に警戒と不安で満たされていては、アイリーンにとってもよくない。村の人々は温かく迎え入れてくれたし、外に出て交流することも必要だ。
「マリア、今日は村の広場で小さな祭りがあるらしいよ。参加してみないか?」
「ええ、そうね。きっとアイリーンも、あの雰囲気を感じると喜ぶかも」
 二人はそうして村の行事に顔を出し、子育てに関するアドバイスをもらったり、食べ物を分けてもらったりしながら少しずつ溶け込んでいく。

 夕暮れ時、家の周囲で風がそよぎ、木の葉がさやさやと音を立てる。クラウスは小さなベンチに腰掛け、アイリーンを抱いて空を見上げていた。オレンジ色の空に、何羽かの鳥が飛んでいる。
「……どうだい、アイリーン。この景色は綺麗だろう?」
 もちろん、赤子のアイリーンは答えられない。けれど、その瞳はうっすらと開き、深緑の虹彩が夕日を映しこんでいるようにも見える。
(この子が大きくなる頃、世界はどうなっているだろう。タームと人間が争わない未来を築けるのだろうか……)
 クラウスの胸には淡い希望とともに、不安も入り混じる。それでも、ここで暮らすしかないのだ。女王と皇帝が願った“調停者”が真に世界を繋ぐ存在になるまで、私たちが導いてあげなければ、と改めて思う。

 そこへマリアが隣に座り、同じように空を見上げる。肩の傷はまだ痛むが、随分と落ち着いた表情だ。
「クラウス、あの夜、タームの女王が私に言った言葉を覚えてる? “この子が、人間とタームの未来を変える”……あれ、本当にそうなるかしら」
「わからない。だけど、きっとあの女王は心の底からそう信じていると思う。だからこそ、命懸けでこの子を守ろうとした。それは……僕たちも同じじゃないか」
 マリアは小さく笑い、アイリーンのほっぺたをやさしく撫でる。すると、アイリーンはその手の温もりに反応するように、小さな手を伸ばして指に触れる。
「そうね。同じよね。私も……この子が大きくなって、いつか本当に強い力を持つようになっても、後悔しないようにしたい。どんなに大変でも、絶対に見放さない。私たちが育てるって決めたのだから」

 沈みゆく夕日が、三人のシルエットを金色に染め上げる。穏やかな風に、山の草花が香り、遠くから村の人々の笑い声が聞こえてくる。クラウスはアイリーンをそっと抱き直し、マリアと視線を交わす。
「マリア。これが僕たちの……“決意”だね」
「ええ。ここから始めましょう。この村で、アイリーンとともに生きる。もし、危険が訪れたら、今度は私たちが村を守るくらいの覚悟を持って」

 こうして、二人の“決意”は新たに固まった。
 自分たちはこの地で、アイリーンを普通の少女として――しかし、決して普通の人生ではない道へ導くために――愛情と覚悟を持って育て上げていくのだと。彼らはこれから先、幾度となく危機に直面し、そのつど試されるだろう。
 けれど、いまはただ、こうして三人で穏やかな夕刻を迎えられることに感謝しながら、一歩ずつ前に進むしかない。その先にこそ、タームの女王と皇帝が願った“新しい未来”が待っていると信じて……。

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