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Symphony No. 9 :番外編_1-3
エピソード番外編1-3:幻の音術師とのセッション
かつて戦火にまみれていた砦の中庭には、今朝も穏やかな風が吹いていた。石畳の隙間には小さな草花が根を下ろし、かすかな色彩を添えている。人々はアイドル活動に邁進するヌヴィエムをはじめ、子どもや商人、兵士たちまでが行き交い、いつも通りの活気に満ちあふれていた。
ヌヴィエムは広場の端に設えられた簡易ステージで、何度も繰り返しステップの練習をしている。軽やかに足を運び、手のひらを上に向けると、かつて戦場で使っていた“リズム指揮”の小さなエッセンスが動きに表れているようにも見えた。
「よし……もう一度、ここでターンを入れて……」
自分に言い聞かせるように、彼女は素早く踵を返す。かつては血に染まった戦場で部下たちの動きを同調させるための音術も、いまでは人々を魅了する芸術の一部となっているのがわかる。
「姉上、調子はどう?」
ステージ脇から、弟のユリウスが手を振りながら声をかける。身体のリハビリも順調なようで、右足にはまだ補助が必要だが、表情はすこぶる明るい。
「うん、ありがとう。思ったよりこの新曲のステップが難しくてね。昔の戦闘服と違って、いまの衣装は舞台向けだから動きが制限されるの。……でも、戦場の重い鎧を思えば全然マシかな」
ヌヴィエムはにこりと微笑む。ユリウスは苦笑して、「まあ、確かに……」と相槌を打った。
そんな兄妹のやりとりが微笑ましく広場に響く中、急ぎ足でこちらへ向かってくる兵士の姿があった。気配を察知したユリウスが首をかしげ、「また何か事件?」と姉に視線を投げかける。
「ヌヴィエム殿、少々よろしいでしょうか」
兵士は仰々しく敬礼をして、息を整える。「お客人がお越しになりました。ご高齢の女性で、あなたに“ぜひ会いたい”と……」
「ご高齢の女性……? 誰かしら」
ヌヴィエムは怪訝そうな顔をした。退位してからというもの、様々な客が訪れるが、大抵は自分のファンや、アイドル活動を見物したいという民衆だ。しかし、兵士がわざわざ報告に来るほど厳粛な雰囲気というのが引っかかる。
「その方、かなり強い音術の気配を感じるんです。わたしたち兵士が警戒していたら、『ヌヴィエムがいるから大丈夫』って言われて……」
兵士の話しぶりは戸惑い気味だ。音術といえば、かつては戦場でヌヴィエムが駆使した技術だが、同じようなことをできる者がいるのなら相当の老練だろう。何か大きな意図があるのかもしれない。
「わかった。案内してちょうだい。ユリウス、あなたも来る?」
「もちろん。危ないかもしれないから、俺が隣にいたほうがいいだろう」
そういう流れで、ヌヴィエムは練習を中断し、ユリウスと兵士の後をついて砦の門のほうへ向かった。軽く体をほぐしながら、一体どんな来訪者なのかと思い巡らせる。退位後にも何人かの術者が接触を図ってきたが、今回のように老女というのは初めてだ。
しばらく歩くと、砦の一角に設えられた来客用の小広間に通される。そこには、腰の曲がった小柄な老女が杖をついて立っており、背中にはくすんだ赤色のマントをまとっていた。頭には灰色の髪がまとめられているが、ところどころ白髪が混じり、いかにも長い年月を生き抜いた雰囲気を醸し出している。
「お初にお目にかかります、ヌヴィエム殿。」
老女の声は低くも澄んでいて、不思議な響きを持っている。ヌヴィエムが礼儀正しく微笑むと、老女は静かに杖を鳴らして一歩近づく。
「あなたが……歌をもって世界を救ったという少女か。いや、もうリーダーではないそうだが、若い身空でよくやったものだ」
「ありがとうございます。退位してますから、いまはただのアイドルです。ところで、音術の強い気配がすると聞きましたが……あなたはどなたなんでしょう?」
ヌヴィエムがやんわり尋ねると、老女は口の端を少しだけ上げたように見える。「わたしはリエラ・ヴェアレス……。昔は各地を旅して音術を奏でていたが、エッグの時代にそれを失った。あなたの噂を聞いて、会いたいと思ったのだよ。音術をもって戦場すら制したと……実に興味深い。」
「リエラ・ヴェアレス……」
ユリウスが記憶を辿るように瞳を細める。名前に覚えはないが、かつて音術師の系譜という噂を聞いたことがある。戦乱が起きる前の時代から、音術と音楽で人々を癒やした一族があったと――ただし、エッグの影響で多くが消え去ったとも。
「あなたはヌヴィエムのファン……というわけでもないんですか?」
ユリウスが少し探るように問いかける。リエラはふふっと短い笑いをもらした。「ファン? そういう言い方はよくわからんが、あなたたちが作る“騒がしき歌と踊り”に興味がある。かつてわたしが目指したものと似ているか、あるいはまるで別物なのかを確かめたいのさ」
「別物、ですか……」
ヌヴィエムは多少引っかかりを覚えつつも、老女に席を勧める。自分がかつて戦術的に使っていた音術は、今はアイドル活動に活用しているが、それを「騒がしき歌と踊り」と言われると、自分のやっていることを否定されているようにも聞こえる。
老女はゆっくりと腰を下ろし、杖を足元につき立てる。「おまえさんは人を救ったのだろう? その音術で戦場を支配し、勝利をもたらした。……だがそれはある意味、音を暴力に使ったとも言える。わたしにしてみれば、音は人を癒やす手段。武器になり得るなど、認めたくはなかったのだ」
聞き慣れた兵士や民衆なら、ヌヴィエムに対し畏敬や感謝を述べるところを、いきなり批判に近い発言が出てきたので、ユリウスはむっとした表情を浮かべる。「姉上はやむを得ず戦争を鎮めるためにリズム指揮をしたんです。大勢が救われたんですよ」
老女はその視線を受け止め、何も言わずにまたふふっと笑う。「そうか、それは失礼。けれど、わたしにとっては納得できない部分もあるんだよ。だから確かめたい。おまえさんがいま歌っている、戦わない音術とはいったい何なのかを……」
ヌヴィエムは少し考え込みながらも、老女の率直な物言いを嫌いになれず、「わかりました。あたしのステージ、見にいらしてください」と提案する。「今夜、砦で小さなライブを開きます。そこにぜひ。音術を戦いだけじゃなく、人を笑顔にするために使っている姿を、直接見てもらいます」
「ほう……」
老女リエラは小さく頷き、杖を掴んだまま頬を引き締める。「それでいい。わたしはおまえさんの歌を聴こう。もしそれがわたしの信じる音の神髄に近いなら、手を貸すかもしれんし、まるで違うなら、ただ去るだけだ。よろしいか?」
ヌヴィエムは苦笑しながら、「全然構いませんよ」と即答した。ユリウスは心配そうだが、騒ぎを起こす相手でもなさそうだし、どうやら技量はあるらしい。退位した身としては、大きく身構える理由もない。
「姉上……大丈夫?」
「ええ、問題ないわ。むしろ面白そうじゃない」
夜のライブまで時間があるので、ヌヴィエムは早速ステージの準備をしに向かった。砦の中央広場には小さなステージが設置され、音響装置や簡易的な魔術発振器などが並んでいる。エレノアや兵士、近隣の町からやってきた音響係が協力してくれており、滞りなく仕込みが進んでいるようだった。
「ヌヴィエム、練習の調子はどう? 今日の曲は『風の宝石』でしょう?」
魔術師エレノアは、手元の魔術書をパラパラとめくりながら問う。ライブの際にライトアップ用の幻術効果を入れる予定があるので、ステージと連携しないといけないのだ。
「うん。昨日まで何度もステップを確認したけど、この衣装で大丈夫か心配。あと、あの新しい音響発振器がうまく働いてくれるかどうか……」
ヌヴィエムは衣装の裾をひらっと揺らしてみせる。動きやすさ重視だが、華やかさを加味してフリルや刺繍を増やしたデザインで、一部が裾に引っかかりやすい欠点がある。
「大丈夫よ。もし何かあったら、あたしがサポートするし、ユリウスがもし出番を作ってくれるなら……」
「え、俺が出るの?」
近くで聞き耳を立てていたユリウスが苦笑する。「アイドル活動に巻き込まれんのはちょっと……」
エレノアはくすくすと笑い、「まあ、あなたが舞台に立つのも悪くないじゃない? 火術と剣のパフォーマンスを見せたら観客が沸くかもよ」とおどけて言う。ユリウスはそれを聞いて首を振る。「姉上が主役なんだし、俺は裏方で見守るよ。暗い場所から飛んでくる野次を警戒するくらいでいい」
「ふふ、わかったわ。じゃあ期待してるわね、護衛さん」
そんな軽口を交わしながら準備が進む。プルミエールはまだこの時間は昼寝中で、ヌヴィエムとしてはあまり騒ぎを大きくしたくないが、このライブには結構多くの観客が集まりそうだ。退位したとはいえ、噂を聞きつけてやってくるファンは増えているので、砦の兵や地元の有志が手際よく警備を固めてくれるのが助かる。
でも今日は、ただのライブ以上に気になる存在が一人――老女リエラだ。ヌヴィエムはふと空を見上げる。「あの人、どんな音術を使ってたんだろう……。戦争で失ったと言ってたけど、もともと歌や楽器で人々を癒やしていたのかもしれない。もしそうなら、あたしが一緒に演奏できたら面白そうだけど……」
夕刻、ライブの開演が迫るころ、リエラは砦の渡り廊下で佇んでいた。傍には誰もおらず、石の壁が長い影を落としている。風がマントを揺らし、彼女の灰色の髪を微かにそよがせる。
「まさか、こんな形で音術を再び見る日が来るとはね……」
そう呟いた相手は誰もいない。かつて彼女が所属していた音術師たちの一団は、エッグと怪物の脅威に翻弄され、各地で殺され、行方不明になり、最終的には解散に追いやられた。リエラ自身も逃げ延びたものの、術の道具を失い、心にも深い傷を負った。そのために「音術はもう世に不要なのだ」と諦めかけていた。しかし、ヌヴィエムの噂を聞いてから心が波立ち、「もしかしたら音術は人を救えるのでは」と淡い期待を懐いてやってきたのだ。
「だけど戦場で使ったなんて、やはり危険だと思わざるを得ない。音は本来、魂を癒やすもの……暴力の道具にするなど……」
顔をしかめるように小さく呟く。もしかしたら、ヌヴィエムはただの“安っぽい音楽”を騒ぎ立て、人々を煽るようなパフォーマンスしかしていないのかもしれない。しかし、砦の人々の表情は明るく、誰もが彼女を慕っているのも事実。そこに矛盾があり、リエラの心をかき乱す。
「見せてもらうさ。貴様がどれほどの“音”を紡げるのか。もし、わたしの記憶にあるあの“癒しの和音”に近い何かを持っているのなら――」
その言葉を最後に、リエラは目を閉じた。もし認められたなら、何をするつもりなのか。自分自身でも確かではないが、少なくとも若者たちの邪魔をする気はない。興味があるのは、音術の魂の正体そのもの。彼女の杖が小さく石畳を叩き、夕陽に染まる砦の廊下にゆっくりと消えていった。
砦の広場に貼られた簡易のポスターには、こう書かれている――「ヌヴィエム・ドランフォード ミニライブ『風の宝石』 今宵、日没後スタート!」
人々が思い思いに集まり、会場周辺は熱気に包まれつつある。たまたま通りかかった旅人や商人も足を止め、子どもたちは大声で騒ぎながら客席の近くを走り回る。かつてはこの砦で怪物の襲撃に備えていたというのが嘘のような賑やかさだ。
夜風が肌寒く感じるころ、ステージ上に薄暗い照明が灯り始める。背後にはエレノアが用意した魔術の光がチラチラと控えており、ユリウスをはじめ数名の兵士が警護に立っている。客席も広場いっぱいに人が集まった。皆が「早く始まらないかな」とソワソワしている。
「じゃあ、行くね。頑張ってね、姉上」
袖から見守るユリウスが声をかけると、ヌヴィエムはうなずき、「ありがとう。……あ、もしなんか変な事件が起きても、あたしがちょっと拍子を刻んだら合図だからね。すぐ助けて」と頼む。ユリウスは苦笑いして、「わかったわかった。目を光らせてるよ」と応じた。
そしていよいよ開演時刻。魔術照明がさらに暗転し、客席がしんと静まり返る。突如、ステージ袖から小さく笛の音が鳴り始め、それに合わせるようにパーカッションがトントンと軽やかなリズムを刻む。
「皆さん、こんばんは……!」
ヌヴィエムの声が響いた瞬間、薄暗いステージに温かなスポットライトが浮かび上がる。観客から拍手が起こり、子どもたちが「ヌヴィエムー!」と口々に叫ぶのが聞こえる。
「今日も聴きにきてくれてありがとう。あたし、退位したただの人なんだけど、こうして歌を歌えるのが本当に幸せ……。まずは一曲『風の宝石』、聴いてくれる?」
再び拍手が広がり、ヌヴィエムは歌い始める。音響発振器を通じてかすかに拡張された彼女の声は、夜空に溶け込みながらもはっきりと客席へ届く。軽やかなメロディに乗って、戦場のリズム指揮の名残が垣間見えるしなやかなステップを踏む。
見つめる人々の目が輝き始める――たとえ戦場の血を知らない民衆でも、ヌヴィエムの動きに“何かしらの魔力”が感じられるのだ。音術の余韻が客席全体を包み込み、聞く者を心地よい陶酔感へいざなっていく。
「すごい……」
誰かが小さく呟き、周囲の人たちが思わず見とれる。かつては恐怖を戦術へ転化したリズム指揮が、いまはこうして安らぎと盛り上がりを与える芸術になっている。その変化に人々が拍手や口笛を送るころ、ヌヴィエムのステップはさらに優雅さを増していく。
会場の後方、外灯の届きにくい暗がりに一人の老女の姿があった。杖をついたままジッと舞台を見つめるのは、もちろんリエラだ。その表情には安堵とも苛立ちともつかない微妙な皺が刻まれている。
「……なんとも、不思議な音よね。戦場で得た技をこんな形に変えてしまうとは」
周囲からは人々の歓声が起こり、笑い声も混じる。小さな子どもが飛び跳ね、疲れた顔の商人たちが癒やされたように微笑む。リエラはそれらの様子を余すところなく目に収めるかのように、あえて後方に位置していた。
「だが……これは本当に“癒やし”なのか? ただの騒ぎでは?」
そんな自問を心の中で繰り返す。かつてリエラが信じてきた音術は、深い静寂や心象への働きかけ――いわば瞑想的な癒やしの術だ。戦場どころか、派手なショーとも無縁に人々の苦しみを取り除く慈しみの音だった。対して、このステージは楽しげで華やかだが、その本質は何なのだろう。
曲が終わり、第二曲目へ移る前にヌヴィエムがMCとして一言述べる。「今日は、ちょっとだけ実験したいことがあるの。あたしが戦場で培った“音術”を、みんなに平和的に伝える試み……。よかったら、一緒に手拍子してくれますか?」
客席がざわめき、皆が手を見合わせる。ヌヴィエムは笑顔で拍を刻み、「ワン、ツー、ワン、ツー、スリー!」とリズムを出すと、兵士たちが先導してパチパチパチと手拍子を合わせ、少しずつ全体が揃っていく。無数の手の音が夜空に響き、その波動がリエラにも伝わってきた。
「へぇ……、客席全体を一つのリズムにまとめて……音術の基礎原理を、こういう形で使うのか」
驚きと興味が混じった息が彼女の口から漏れる。人々が強制されているわけではないのに、自然とヌヴィエムのリズムに惹かれていく様が、かつてリエラが見た“癒やしの調べ”と通じるところがあるようにも思えた。
「でも……これはあくまで盛り上げるだけの音楽。まさか魂の深淵に触れるようなものじゃ……」
リエラの思考はそこまで達していたとき、舞台上でヌヴィエムが静かに腕を広げ、歌声を重ねはじめる。人々の手拍子に合わせて、彼女の声が客席全体に広がり、誰もが自然に身体を動かす。そこには確かに“強制”や“威圧”は感じられない。音術の力なのに、やさしくて自由な空気がそこに宿っているのを、リエラは敏感に察知した。
「まるで……人々が集まること自体を喜んでいるかのような音だ。これが、おまえの音術か……ヌヴィエム……」
そう呟くと、リエラの瞳にほんの少し潤みが浮かぶ。長い間、失っていたもの――人を癒やすための音の形が、こんなところにあるのかもしれないと、老女の心が揺さぶられていた。
曲が終わり、客席から喝采が起こった。ヌヴィエムは汗ばんだ額を手で拭き、マイクを握ったまま笑顔を浮かべる。「ありがとう、皆さん……。あたしは、この世界から大きな戦いが消えて、こうしてみんなと歌を分かち合えるのが本当に嬉しい。昔は、戦わずに済む未来なんて無理だって言われたけど、あなたたちがこうして拍手してくれると、できる気がするのよね」
観客が「すごいよ、ヌヴィエム」「生きててよかった!」と口々に声を上げ、砦の夜空まで歓喜が届くようだった。ユリウスは警護の立場でステージ脇に立っているが、思わず目頭が熱くなるのを感じる。姉がここまで自由な笑顔を見せるのは久しぶりだ。
ところが、突然、客席の後方でざわめきが起きる。「おい、何してるんだ!」「離せ、俺は騒ぎを起こすつもりはねえ!」と男の声が上がる。ユリウスが振り向くと、兵士が客を取り押さえようとしているような混乱が見えた。
「なんだ……? もしかして酔っぱらいか何かか」
ユリウスはすぐにステージを一瞬ヌヴィエムに任せ、エレノアにアイコンタクトを送ってから客席へ降りていった。あまり大ごとにはしたくないが、一応確認しないと。
そこでは、旅の男らしき人物が兵士に詰め寄られている。「あんたがヒソヒソ話しながら怪しい動きをしてたんでな、俺たちも仕事なんだ!」と兵が言い訳めいた声を上げる。男は「ただあの子に話しかけてただけだ、何が悪い!」と反論する。
「はいはい、ストップストップ。落ち着いて」
ユリウスが割って入り、兵士と男を両脇に置いて事情を聞く。どうやら、男が客席でこそこそ何かを企んでいるように見えたのが誤解を生み、兵士が「トラブルメーカーかもしれない」と思って止めたらしい。実際には、その男は知り合いの子どもを探していたという話だ。
「だって、俺の昔の仲間の子どもがいるって聞いてさ、はぐれたと聞いて探してただけなんだよ……。騒ぎを起こす気はないって……」
男は汗をかきながら懇願するように言う。ユリウスは安堵して、「わかった、何も悪気はなかったなら、こっちも大目に見る。でも大声でうろうろすると怪しまれるから気をつけて。ステージは一応聴いてっていいですよ」と肩を叩く。兵士も「すみません」と謝罪し、無事に和解ムードに落ち着いた。
ステージではヌヴィエムが状況を察し、「ちょっと何かあったみたいね?」と軽く舞台上から声をかける。ユリウスは手を振って「もう大丈夫!」と知らせると、観客からも小さな笑いがこぼれ、ライブの空気を壊す大きな事件には至らなかった。
少し離れた暗がりには、リエラが静かに立ち尽くしていた。騒ぎも小さな誤解に過ぎないとわかると、彼女は胸をなでおろすように息を吐く。「なるほど、この世界にもまだ火種はくすぶっているが、こうして人々が話し合いで落ち着きを取り戻せるなら、戦場よりはまし……か」
そう呟くと、またヌヴィエムの方へ視線を戻す。彼女は再び歌い始め、客席はさらに暖かい拍手で迎えている。火種の臭いがすっと消えて、みんなが笑顔に戻れるのは、「音の力」だけではなく、ヌヴィエムと周りの人々が築いた信頼関係があるからだと、リエラは感じ取り始めていた。
夜のステージが終わり、観客は余韻に浸りながら続々と広場を後にする。砦の外では兵士が規律正しく扉を開閉し、人々の安全を守っている。ヌヴィエムはステージの上で深々とお辞儀をして、「来てくれてありがとう!」と明るい声で締めくくると、観客から割れんばかりの拍手が起こった。いつの間にか星空が姿を現し、まるで祝福しているかのように静かに瞬いている。
「ふう……」
袖に引っ込んだヌヴィエムは大きく息を吐いて、スポットライトがないところでペットボトルの水を飲んだ。こういう規模のライブも慣れたが、毎回心地良い緊張と疲労がある。今日は騒動も大きくなく、きちんと演目をこなせたので満足感が大きい。
「姉上、お疲れさま。最高だったよ」
ユリウスが拍手しながら駆け寄ってくる。彼の足取りも今は安定していて、顔には得意げな笑み。「最後の曲、特に良かった。『光のアリア』だっけ? あれ、ずいぶん改良したんだね」
ヌヴィエムは恥ずかしそうに頬を染めつつ、「うん、改良っていうか、ちょっとしたリズム指揮の要素をダンスに取り入れてみた。昔、戦場で使った効果を……今はこうやって、みんなを前向きにしてるわけ」
「まさにアイドル戦術、って感じだね」
二人で笑い合う。その様子を少し離れたところで見ていたエレノアが、「ロマンチックな会話に水を差すわね、悪いけど」とからかいながら近づく。「素晴らしかったわよ、ヌヴィエム。魔術照明も問題なく機能してたし、観客も大満足って顔してた。あとは……」
言いかけたエレノアの視線がステージ脇の暗がりに向かう。そこに杖をついたリエラの姿が佇んでいた。老女はゆっくりとこちらに近づき、鋭い眼差しをヌヴィエムに向ける。
「……終わったかい。随分と派手なショーだったね。けれど、客は笑顔で帰っていく。驚いたもんだ」
皮肉にも、褒めているようにも聞こえる声色だ。ヌヴィエムは笑顔を保ちつつ、「楽しんでもらえましたか?」と問いかける。
リエラは答えないまま、静かに睨むような眼差しをヌヴィエムに注いだ。「正直言うと、最初はこんなに騒がしく動き回るのは耳障りだと馬鹿にしていた。だが、いま思えば……これは一種の奇跡かもしれない。血や悲嘆が無くとも、人の心を強く動かせる音術があるなんて……」
ユリウスはほっと肩を下ろし、「よかった。姉上の歌を悪く言う人がいたら、俺が黙っていられないからね」と茶化す。リエラは彼をちらと見たが、すぐにヌヴィエムに視線を戻す。「ただ、わたしが信じてきた音術は“静寂と癒やし”の術。あなたが使うのは“熱狂と励まし”。それでも本質は同じかもしれない。そう感じるだけで、少し戸惑っているんだよ」
「本質は同じ、ですか……」
ヌヴィエムは考え込むように視線を落とし、それからゆっくりと微笑んだ。「あたしは戦場で音術を使いましたが、本当は人を傷つけたくなくて。みんなを一つのリズムにまとめて、苦痛や不安から解放するのが目的でした。だからいまは……そのリズムを平和な形に変えて、みんなに笑顔を与えたいって思ってるんです」
「そう……」
リエラは短い相槌を打ち、杖を握り直す。その動作から、彼女が心の中で何かを決意しているような気配が伝わってきた。エレノアが興味深そうに眉を上げ、「もしかして、リエラさんはヌヴィエムに何か伝えたいことがあってここに来たの?」と突っ込むと、老女は口を一文字に結んだまま、コクリと頷く。
「あなたの歌には可能性がある。戦場を超えて、人々を繋ぐ力。それはわたしや、わたしの仲間が昔追い求めた“音の力”そのものかもしれん。……もし、あなたが望むなら、わたしが持っている古い音響石を譲ってやろう。かつては封印されかかったものだが、うまく使えばさらに広い範囲を癒やせるかもしれない」
言葉に力がこもり、ユリウスが「音響石……?」と耳をそばだてる。エレノアも瞳をキラリと光らせ、「興味深いわね、それは魔術的には相当貴重な品なの?」と食いつく。
「相当だろう。昔の音術師が作り出した artefact……音の波を増幅して、人の感情に働きかける。けれど使い方を誤れば、エッグの時代のように人心を操る兵器にもなり得る。だから長らく埋もれていたんだが……今のあなたなら、きっと誤用はしないだろうと思ってね」
静かな空気が数秒流れた。ヌヴィエムはまばたきを一度、ゆっくりとしたあと、感謝の言葉をのせて口を開く。
「ありがとうございます。音響石……聞いたことはありますが、まさか実物がまだ存在するなんて。わたし、戦場で音術を使ったからこそ、その危険もよくわかっています。でも、今のあたしなら、それを歌と踊りのために使えるかもしれない……」
ユリウスは嬉しそうに唇をほころばせ、エレノアも「面白い展開になりそうね」と笑う。しかしリエラは厳かに杖を鳴らし、「だが一つだけ条件がある」と続けた。
「わたしがおまえさんの“音”をもっと間近で感じたい。共にセッションをするんだ。わたしにも、かつての音術師としての誇りが残っている。古い笛の音をまだ吹けるかはわからんが、この老体が出せる限りの力で、おまえの音術に挑ませてもらう。それに耐えられるならば、音響石を譲る。どうだ?」
セッション――ヌヴィエムはその言葉に、期待と緊張が入り混じった感情を抱いた。真の音術師同士が奏でる音の共鳴は、相当な精神力を要するという話を聞いたことがある。戦闘用のリズム指揮とも違う、新しい扉がそこにあるのかもしれない。
「ぜひ……。あたしもあなたと音を合わせたい。こんな時代だからこそ、音が人を救うことをもっと確信したいんです」
ヌヴィエムは強い眼差しで答える。リエラは微かに口元を上げ、「よろしい。では、何日かは砦に滞在させてもらうとしよう。わたしも体を慣らさねばならん。セッションにふさわしい場所を探しておいてくれ……」
言葉少なに言い残すと、老女は杖をついて踵を返す。ユリウスとエレノアが「どうする? セッション用の場所なんて……」と口々に相談を始めるが、ヌヴィエムは興奮交じりに微笑み、「場所なら、砦に古い音楽堂跡があるのを思い出した。少し改修が必要かもだけど、そこを使えないか交渉してみよう」と提案した。
エレノアは「ほう、いいわね。せっかくだから、わたしは魔術効果で演出を少しだけ手伝うわ。姉弟でまた戦場モードにならないでよ」と半ばからかい、「今回の相手は老女だけど、きっと強い音術を持ってるわ。気を抜かないでね」と釘を刺す。
ヌヴィエムは真面目な表情で頷き、「わかってる。戦場の音術とはまるで違うかもしれない。彼女が追い求めた“癒やしの音”を、あたしは学びたいんだ」と言った。その瞳には、退位後のアイドルとしての新たな野心――戦わずとも、人々の心を揺さぶる音をさらに高めたいという情熱が宿っているように見えた。
砦の外れにある古い建物――かつては軍楽隊の練習所や、儀式の場として使われていた音楽堂。エッグとの戦いが激化する前から廃れていたこの場所を、ヌヴィエムとエレノア、ユリウスらが力を合わせて小規模に修復していた。石壁のヒビを補修し、床の埃を払って最低限の安全を確保したうえで、リエラとのセッションの場にしようという目論見である。
天井は高く、中央に円形の空間があり、音響的には優れた構造らしいが、長らく放置されていたため湿気やカビで荒れていた。しかし集中して掃除を続ければ、それなりに音が反響してくれるのでは、と期待する。
「結構広いわね……思った以上だわ。ほんとにここでセッションするの?」
エレノアが懐中ランプを掲げながら声を上げる。ヌヴィエムは頷き、「うん。この空間ならきっと音が気持ちよく響くはず。昔はここで儀式用の合奏をしてたみたいだし」と答える。
ユリウスは少し畏怖を抱くように天井を見上げ、「まさかこんな場所が砦の端にあったなんて。姉上、よく気づいたね」と感心する。
「一度、分散治世を始めるころに砦の地図を見たの。ここは古い音楽堂だったと記録があったけど、荒廃してて使えないって話で。なんとかなるかなと思ってたら、こんなに埃まみれとは……」
そう言いながらも、ヌヴィエムは笑みをこぼしている。どこか秘境を発掘するような冒険心がくすぐられるのかもしれない。
そこへ杖の音が響く。リエラが静かに扉の隙間から入ってきた。「随分と広いじゃないか。まるで祭壇のような雰囲気だね。……音がよく響きそうだが、床は大丈夫か?」
「まだ万全ではないけど、最低限の補強をしました。足元には気をつけてください」
ヌヴィエムが案内すると、老女は杖で軽く床を叩きながら進む。「なるほど……“音術師”にはありがたい空間だ。ここでわたしとおまえが互いの音を響かせるなら、何が生まれるか楽しみだね」
エレノアが魔術的な照明を設置している間に、ヌヴィエムは軽くストレッチを始め、呼吸を整える。どうやら、いよいよセッションが始まる流れだ。ユリウスは一歩引いた位置で護衛兼観客のように立ち会い、エレノアも後方でサポートする態勢を取る。
「まだ習うことが多いと思うんですが……リエラさん、お願いします。わたしはこういうセッションは初めてなんです」
ヌヴィエムは少し緊張を覗かせつつ、一礼した。老女は穏やかでも厳かでもある表情で頷き、「いいだろう。まずはわたしが持つ笛の音を聴いておくれ。もしかしたら錆びついているかもしれないが、音術の余韻を呼び戻すには十分なはず」と言うと、胸元から古びた笛を取り出した。
音楽堂に静かな空気が張り詰める。リエラが笛を唇に当て、小さく呼吸を整えたところで、初めの音が放たれた。
「……っ」
ヌヴィエムは驚きに目を見開く。一音だけなのに、まるで細い糸が空間をスッと切り裂いたような感触が全身を包む。笛の音は儚げな高音で、かすかに金属的な響きをも感じさせる。そして、澄んだ余韻を残すまま、音楽堂全体に回り込むように反響した。
「静かで……温かい……」
思わず声をこぼすヌヴィエム。その音は、先ほどのライブのように多くの人を巻き込む賑やかなものではなく、もっと個人的な深い領域を揺り動かすような力を持っている。音楽堂の壁を伝って戻ってくる遅い残響の中で、ユリウスが身震いし、エレノアは息を飲んでいた。
「これが、あなたの音術……」
ヌヴィエムが感嘆と戸惑いを混ぜた表情を向けると、リエラは笛を唇から外して、「昔はね、これで人を癒やすことを仕事としていたんだよ。戦乱が始まる前は、多くの人がわたしの笛を聴きにきてくれた。……でも、エッグが生まれたとき、そんなものは無力だって思い知らされたんだ」と苦い顔をする。
「無力……?」
ヌヴィエムは思わず聞き返す。リエラは小さく頷いた。「エッグの恐怖が広がったとき、人の心は恐怖と憎悪に支配され、優しい音なんて届きやしなかった。むしろ戦場では、おまえのように“攻撃的”にリズムを操る音術だけが役立つと……言われて、わたしたちは見捨てられたのさ」
そこで言葉が途切れ、空気がしんと静まる。ユリウスやエレノアは痛いほどその悔しさを感じ取り、何とも言えない表情をしている。確かにエッグの時代は、癒やしや優しさをかき消すほどの狂気が溢れていた。
「だから、あなたが戦場で音術を使った話を聞いたとき、頭に血が上った。音術が武器になるなんて、けがらわしいと。でも、実際に見てみたら……あなたは戦闘よりも、いまや歌で人を救ってる。なら、わたしは音術の本当の力を、もう一度信じてもいいのかな、と……思った」
老女の視線には、消えかけた炎がもう一度揺らめくような光が宿っている。ヌヴィエムは静かにうなずき、「ありがとうございます。あなたの音は、あたしの知らない領域にある……だからこそ、教えてほしいんです。人を癒やす音を、どう編み上げるのか」と真剣に告げる。
リエラは笛を両手で握りしめ、「なら、次はあなたが“歌”を聴かせておくれ」と言った。ヌヴィエムは頷き、気持ちを落ち着かせる。「わかりました。あたしのいつもの曲だと、少し派手かもしれません。……昔、戦場で仲間を落ち着かせるために使った“子守歌”みたいなメロディがあるんです。あれを、ライブではほとんどやらないんだけど……」
兵士たちを疲弊や不安から救うために、一時的に心を鎮めるための“戦場の子守歌”。彼女がかつて使ったそのメロディは、敵も味方も落ち着かせる恐れがあったため、実践であまり大々的には披露されなかった。
ステージやライブのための曲とは異なり、静かな旋律を中心とした穏やかなもの。ヌヴィエムは思い出すように軽く口ずさみ、音楽堂の中央に足を進めた。ユリウスとエレノアは息を詰め、リエラは眼を細めて杖を握る。
「……♪」
最初の声が小さく響く。先ほどのライブでは出さなかった優しい低音から始まり、それがゆっくりと音楽堂の空気を振動させる。ヌヴィエムの歌声には本来、戦場で培った強い芯があるが、ここでは押さえ気味にして、包み込むような温もりを前面に出している。
シュッと風が音の波を持ち上げるように感じられ、古い石壁がほんのり振動する。空間が深呼吸するような感覚がヌヴィエムの体に伝わり、思わず目を閉じて歌に没頭してしまう。
(昔の戦場……思い出すのは、血や悲鳴、傷ついた兵士たち。でも、その闇の中でも……この子守歌だけは何人かの心を救ってくれた。今、あなたの前で、それを歌ってもいいのかな……)
心の声が揺れながらも、口から紡がれるメロディは途切れない。ユリウスは袖からその光景を眺め、かつて荒廃した大地で姉のリズム指揮に支えられた自分を思い出す。涙が出るほど懐かしいが、その記憶は苦痛でもある。今、この音がただ優しさだけを含むのなら、きっと素晴らしいと思う。
音の波が徐々に満ちてきて、リエラの肩がかすかに震えた。「……なんてことだ……」
彼女は、かつて自分が信じた“癒やしの調べ”に近いものを、ヌヴィエムの歌に感じ取り始める。戦場で使われたと聞いていたが、これほど柔らかい音ならば、誰の心にも寄り添えるではないか――そんな驚きと感動が、老女の胸を締めつける。
やがて歌が終わり、ヌヴィエムは息を吐いたまま、静かに目を開ける。「こんな感じ……です。昔の子守歌を、あたしの音術でちょっとアレンジしたくらいで……」
声が少し震えているのは、彼女自身も感情が込み上げてきたからだろう。音楽堂に浮かぶ残響が、はかなく消えていく余韻を誰もが噛み締める。ユリウスとエレノアは釘付けになり、言葉を失っていた。
リエラの頬を一筋の涙が伝う。「……なるほどね……。おまえさん、やはり戦場で音術を汚したわけじゃない。むしろ、血の中から見つけ出した“やさしさの響き”だ。この老女には……信じられないほど尊い音だ」
ヌヴィエムは微笑み、「……ありがとうございます」と頭を下げる。そこでリエラが杖を床にトンと突き、「では、次はわたしたちで同時に音を合わせてみよう。わたしは笛、あなたはさっきの子守歌か、また別の曲でもいい。混ざり合った瞬間、何が生まれるか……それを確かめたくてここに来たのさ」と宣言する。
「セッション、ですね。わかりました」
ヌヴィエムはグッと足を踏みしめて構えた。ユリウスやエレノアは心配そうに周りを見渡すが、特に問題はなさそうだ。音楽堂は静かに彼女たちを待っている。
リエラは笛を口に当てる。「合図はあなたがしなさい。あなたの歌が始まったら、わたしが笛でそこに割り込む」
「はい……」
そう答えた瞬間、ヌヴィエムはさっきより少し落ち着いた声を出し始めた。メロディは先ほどの子守歌に近いが、途中で上昇するパートに工夫を加えてリズム指揮のエッセンスを取り入れる。心の中でカウントを刻むと同時に、音の振動が胸から広がっていく。
老女もすぐに反応し、笛の高音がすっと入ってくる。二種類の音が重なり、音楽堂の空間で共鳴を起こす。通常のライブとは違い、観客なしの密やかな響きだが、その波動は想像をはるかに超えた圧力と優しさを同時に持っていた。
ユリウスはゴクリと唾をのみ、思わず背筋が震えるのを感じる。エレノアは呆然と立ち尽くし、「これが……二人の音術の合わさった力……」と息をのんだ。
まるで風が渦を巻くように、ヌヴィエムの声が笛の音と絡み合い、上下に揺れながら感情を波打たせる。戦場で使われた勢いとはまるで違う緩やかなリズムだが、逆にその静寂が濃密になり、心を動かしていく。
そして、ヌヴィエムの喉から声が出るたび、リエラの笛がうまく空隙を埋めるように加わる。譜面も何もなく、ただ互いの“音”を探り合う即興のセッション。しかし、その奇妙な噛み合い方は、まるで長年のバディのように自然だった。
音が高まるときは笛が先行し、下がるときはヌヴィエムの声が寄り添い、互いに呼吸を合わせていく。二人はほとんど視線を交わさないが、確かに同じ音の世界を感じ取っているのが伝わる。
「……すごい……」
ユリウスが唇を震わせ、エレノアも目を潤ませている。かつてアイドル活動で盛り上げていたヌヴィエムとも違う、もっと深い音の次元――戦場の荒々しさは皆無で、癒やしと包容がそこに流れていた。この音を聞けば、悩みや恐れを一瞬だけ忘れられそうな不思議な力がある。
やがてメロディが最高潮に達した刹那、ヌヴィエムはふっと声を落とし、リエラも笛をゆっくり下げる。余韻が石壁を舐めるように響き、しんとした沈黙が訪れる。
数秒の静寂が重くも温かくもある空気を満たし、二人は同時に息を吐いた。「はぁ……」
ヌヴィエムはうつむいて微笑み、肩で大きく息をする。心臓がドキドキしていて、汗がじんわり浮かぶ。「こんなセッション、初めて……。すごく心地いい……」
リエラは笛をそっと握りしめ、目に涙を浮かべる。「……ああ、これだ。わたしが追い求めた音術は、本来こういう“癒やし”の形を持っていた。失ったと思っていたけど……あなたのおかげで、ほんの少し取り戻せた気がするよ」
ユリウスがその場で小さく拍手する。「姉上、すごい。リズム指揮じゃないけど、もっと優しい音になってた。これ、すべての人に聴かせてあげたい……」
エレノアも感動に震えた声で、「あたしも、いま魔術で録音しておきたかったわ……これ、言葉で説明できないくらい素晴らしい」とため息混じりに言う。
セッションが終わり、リエラは杖をついて疲れたように立ち上がる。「思いのほか消耗してしまった。老体には応えるね……」
ヌヴィエムは慌てて駆け寄り、支えようとするが、老女は「大丈夫、ありがとう」と手で制す。「これで確かめられたよ。あなたが本気で“癒やす音”を求めているということが。……わたしも、もう一度だけ音術師として生きたいと思った」
言葉を噛みしめるように語るリエラの顔には、涙の跡がほんのり残っている。ヌヴィエムは優しくその背をさすり、「ご無理なさらずに、ゆっくり休んでください。セッション……本当にありがとうございます。あたしも、こんな音が出せるんだって、驚きました」と感謝を伝える。
老女は「そそっかしいね、こちらこそ感謝さ。……さて、先日言っていた音響石だが……」と切り出す。ユリウスとエレノアが耳をそばだてる。どうやら、これが本題らしい。
「それは、どうされるんですか?」
ヌヴィエムが恐る恐る訊ねると、リエラは杖を一度振り、「あなたに渡すさ。元々、音術師の間で受け継がれていたものだが、エッグによる戦乱で行方不明になっていた。わたしが必死に取り戻したが、あれは封印に近い形で使われずに眠っていたんだ」
そう言うと、彼女は懐から小さな布包みを取り出した。中には手のひらサイズの丸い石――半透明のクリスタルのようにも見え、光を当てると虹色に輝く模様が浮かぶ。
「これが音響石ですか……」
エレノアが息をのむ。ユリウスもかすかな魔力を感じ取り、「すごい……何とも言えない圧がある」と呟く。ヌヴィエムは思わず手を伸ばしかけ、しかし怖くて指先が止まる。
「……危険じゃないですか? あたし、リズム指揮で人心を操作できるくらいだから、こんな強力な石を使ったら、また戦いに巻き込まれるかもしれない」
一瞬、そのトラウマがよぎる。自分が間違えば、血の匂いを呼び戻すかもしれないという不安。それにリエラは頷き、「だから、ここでセッションして確かめたんだ。あなたにはきっと、正しい使い方を選べる。……もし不安なら、わたしがしばらく傍にいてサポートしてもいいさ」と提案する。
ヌヴィエムははっとした目を向け、「一緒にいてくれる……?」と驚いた。老女は照れたように鼻を鳴らし、「あくまで音術師としての興味だよ。戦場で血を流す音術なんて、もう見たくない。あなたがこの石で、さらに人々を笑顔にするなら、手伝おうという話さ」
ユリウスは安堵の息を漏らし、「姉上、一人で抱え込まなくていいんだ。それなら大丈夫だろう?」と微笑みかける。エレノアもうんうんと頷き、「音術の専門家がいてくれるなら、安全な運用が可能になるわね。しかも姉上がアイドル活動をするなら、音響石をうまくライブに組み込めるんじゃない?」
ヌヴィエムは不安と期待の入り混じった気持ちを抱えながらも、石にそっと手を伸ばした。指先が触れると、ほんのり温かい波動が体内を駆け巡る。この感覚は、かつてエッグのクヴェルを相手にしたときに感じた恐怖とはまるで違う――優しく、柔らかな光が胸を満たすようだ。
「……使い方次第で、もっと大勢の人に歌を届けられるかもしれない。だけど、絶対に乱用はしない。約束します」
ヌヴィエムは石を両手で包むように持ち、決意を固めた。リエラは無言で頷き、杖を突いて少し後ろに下がる。「いいだろう。あとはおまえさんがこれをどう使うか、わたしは見届けるさ。もし危険が出たら……老体なりに止めてみせる」
そう言うと、老女の顔には初めて柔らかな笑みが浮かんだ。そこにはわずかな救済を見出したかのような表情がある。ユリウスもエレノアも、その二人の間に生まれた絆を感じ取り、そっと見守っていた。
翌日、ヌヴィエムは音楽堂でのセッションを終えたことを兵士たちに報告し、一部には「音響石を得た」とだけ伝えた。まだ詳細を公にするつもりはないが、将来的にはライブの舞台装置として活かすかもしれない。ただし、あくまで攻撃や洗脳に使う意図はなく、人々を癒やすための方向で研究しようと決めている。
「姉上、本当に大丈夫? 戦場で使うと危険なんだろう?」
ユリウスが心配そうに声をかけるが、ヌヴィエムは小さく笑う。「ええ、二度とそんな使い方はしない。もし小競り合いが起こっても、剣や火術で対処できるし、あたしの音術はあくまで‘歌’として使うのよ。砦のみんなにもそう言っておく」
「わかった。……じゃあ、余計な軍拡の話も出ないだろうし、大丈夫だね」
弟は納得したように頷く。分散治世が機能している以上、大規模な軍事力に依存する時代ではなくなっているし、ヌヴィエムが退位したいま、彼女の行動が政治を大きく動かすとは限らない。
その夜、ヌヴィエムは音楽堂で短いリハーサルを行った。リエラは杖をついて傍らに立ち、老女ながらも根気よく耳を傾ける。「音響石を肩に近い位置に装着するなら、音術との相性が高まる。ただし、激しい動きをしすぎると暴走の可能性がある。焦らず探ってみなさい」
「はい……こうでしょうか?」
ヌヴィエムは石を薄い革ベルトで肩の近くに固定し、静かに声を出してみる。確かに声量がわずかに増幅されるのを感じ、音がより立体的に広がる。だが、ちょっとしたブレが大きく跳ね返ってくるのか、声を出すたびに自分の鼓膜が振動する独特の感覚があった。
「うぐ……ちょっと酔いそう……」
「焦るな焦るな。息を深く吸って、身体に響きを回してから吐くんだよ」
リエラが指導し、ヌヴィエムは苦戦しながらも少しずつコツを掴む。こうした地道な練習を積めば、いずれ大勢の観客にも負担なく、豊かな音を届けられるかもしれない――そう思うと胸が弾む。
数日が経ち、リエラは砦での滞在を続けている。ヌヴィエムとのセッションや、音響石の練習を見るうちに、少しずつ笑顔を増やしていく。「わたしも音術師として、この時代に生きていいのかもしれない」と呟く姿が印象的だ。
ユリウスやエレノアも、これまで見たことのない“癒やしの音”に触れて感動している。特にユリウスは、怪我の後遺症で時々感じる痛みが、リエラの笛を聴くと和らぐような錯覚を覚えるという。「本当に、音の力って不思議なんだな……」としみじみしていた。
ある朝、ヌヴィエムはリエラとともに砦の広場を散歩していた。日の光が石畳を明るく照らし、民衆が通りを行き交う中、プルミエールが朝の散歩に付き合っている。子どもは老女に向かって無邪気に「あなた、だれ?」と尋ねるが、リエラは困ったように眉を寄せ、「わたしは音術のおばあちゃんさ」と答える。そのやりとりに、ヌヴィエムはくすくすと笑いながら歩く。
「そういえば、いつかあなたがセッションで認めてくれたら、音響石をくれるって言ったわね。もう半分以上、あたしの手元にあるけど……本当によかったんですか?」
「ああ、あれはもうおまえに渡した。わたしが持っていても宝の持ち腐れだからな。だが、セッションはまだ続けるよ。おまえの音術が完成し、真に‘癒やしの調べ’を体得するまで、老体なりに指導しようじゃないか……」
リエラは背筋を伸ばし、堂々とした足取りになっている。以前の落ち込んだ雰囲気とは打って変わり、むしろ生きがいを見つけたかのようだ。
プルミエールがリエラの杖に興味津々で、「これ、ふえ?」と言って杖を引っ張ろうとする。老女は大慌てで「こらこら、これはただの杖だ」と笑い、ヌヴィエムは「ごめんなさい!」と謝る。プルミエールは少し不満そうに唇を尖らせ、「ふえ……」とつぶやき続ける。その光景に二人は微笑ましい気持ちになる。
「この子も、いつか音術をやるのかね? 赤い髪を持つ才能なら、リズム指揮も使えるのかもしれないが……」
「どうでしょう。本人が望むならサポートしたいけど、強要はしたくない。今はあたしの歌を真似して踊ってるし、平和な世界で自由に成長してくれたらいいの」
ヌヴィエムが答えると、リエラは感慨深げにうなずき、「ああ、そうだな。無理に音術師に育てようとする時代じゃない。好きな道を歩ける、それが分散治世の恩恵かもしれないな」としみじみ語る。
それから数日後、ヌヴィエムとリエラは簡単な公開セッションを砦で披露することになった。民衆からの要望があったわけではなく、ヌヴィエムが「一度みんなにも聴いてほしい」と思い立ったからだ。はじめは気恥ずかしがる老女も、「まあいいか、音の素晴らしさを知ってもらう機会になるなら」と承諾する。
場所は砦の広場――ライブステージほど大掛かりではないが、簡易的に観客が周りを囲めるように工夫する。ユリウスやエレノアが見守るなか、ヌヴィエムとリエラは向かい合い、それぞれ「声」と「笛」を構える。
客席には、「今日のコラボはなんだろう?」とワクワクしている人々、そしてプルミエールも最前列で背伸びをして見ている。いまだかつて、ヌヴィエムがこんな形で静かなセッションをするのは珍しいため、皆が興味津々で待ち受けていた。
リエラが先に低い音を笛で吹き始め、それが合図となってヌヴィエムの声が重なる。ライブの派手な曲とは別に、短い即興のようなメロディ。音楽堂で深夜に試した技が、昼の屋外ではどうなるのか――当人たちも未知数。
しかし、一音響いて人々が耳を澄ませた瞬間、場の空気が変わった。ナイフのような鋭さではなく、そっと背中を撫でるような温かな音が広場を満たし、皆が心を静めて聴き入る。ヌヴィエムはいつものダンスを封印し、身体をあまり動かさずに歌だけを注ぐ。リエラの笛がそれに応じて細やかな合いの手を打つ。
最初は客たちも戸惑っていたが、気づけばすぐ近くで子どもが目を閉じてうっとりし、疲れた商人があくびを噛み殺しながら微笑み、兵士がホッと息をつく。騒いでいた者たちも、自然に声をひそめ、音の深みに集中しているのがわかった。
プルミエールも「うわぁ……」と呟き、じっと姉を見つめている。姉は普段ならキレのあるステージを見せるが、今日は優しい子守歌のようなメロディ。子どもには少し眠くなるくらいかもしれないが、その一瞬に瞳を輝かせ、「姉がこういう音を紡ぐんだ」と感じているようだ。
「……すごい、これもアイドル活動なのか……?」
誰かがつぶやき、周囲が小さくうなずく。アイドルという言葉には派手なイメージがあるが、ヌヴィエムは退位後の生き方として、“みんなを笑顔にする”広義の活動をしているだけ。今回は“癒やしの音術”を取り入れた、もっと静かなアイドル活動の形だと言えるだろう。
曲が終わると、はっとしたように人々が拍手をしそうになるが、誰もすぐには音を立てられない。あまりに繊細で静謐な余韻が残っていて、壊すのが惜しいのだ。数秒、いや十数秒たってから、ようやくパラパラと拍手が起こり、「ありがとう……」という声がかすかに上がる。ヌヴィエムは息を吐き、リエラも笛を下ろして薄く笑みを浮かべる。
「これが……二人の音術……」
エレノアが感嘆し、ユリウスも「姉上、最高だったよ」と拍手を送る。客席のあちこちからも賛辞や感動の声が起きるが、皆が大きな声を出すというより、静かに噛みしめるように賞賛している。その雰囲気が不思議で神秘的だ。
リエラは笛を持ったまま、満足そうに杖を突き、「やはりあなたの音は本物だ。わたしが昔、追い求めた癒やしや静寂の境地とは若干違うが、それでも人を救う力があるのは確か……。この老体、最後の舞台としては悪くない」と呟く。ヌヴィエムは照れながらも、「あなたと出会えたおかげで、あたしも新しい可能性に踏み出せたんです。アイドルとして、こういう静かな曲も絶対に大事だとわかったから」と返す。
子どもや兵士たちがそっと寄ってきて、「これは寝る前に聴きたい曲ですね……」「心が洗われるような気がする……」などと言い合い、皆が拍手とは違う、しみじみした拍手を送った。ぷつぷつと手を合わせるような、柔らかな音が広場を満たす。
この日、広場から流れた静かな旋律は、砦の外にまで淡く届いたという。多くの者が直接耳にしたわけではないが、「ヌヴィエムが謎の老女と不思議な演奏をした」と噂が広がり、アイドルとしての彼女への評価が変化しつつある。派手なライブだけでなく、こうした“心に染みる音術”を生かしたステージが出来るのでは、と人々は期待を寄せていた。
リエラは、それからしばらく砦に滞在し、ヌヴィエムの音術を指導する立場を続けることに。同時に、音響石の安全な使用方法を二人で試行錯誤し、最終的には小さな杖状のアタッチメントとして装備できる形を考えているらしい。ユリウスとエレノアはおどけて「そのうち姉上が超絶ライブを展開しちゃうんじゃない?」と冗談交じりに話すが、ヌヴィエム自身は慎重だ。暴走しないように、じっくり磨き上げるつもりだ。
プルミエールも姉の活動に興味津々で、フラフラと舞台袖に入り込んだり、リエラの笛を触ろうとしたりしながら、幼いながらに“音術”の洗礼を受けている。かつては血と恐怖が渦巻く戦乱の地だった砦で、こんなにも柔らかな日常が訪れるとは誰も思わなかっただろう。
「大きな戦争は終わったけど、小さな事件はたくさんあるわ。でも、あたしたちは笑いながら乗り越えられる。それってすごいことよね」
ある日の夕暮れ、ヌヴィエムはエレノアやユリウスにそう呟く。退位してからの人生は、まだ始まったばかり。アイドルとして世界を回るかもしれないし、プルミエールが大きくなるまで砦で教育を施すかもしれない。
老女リエラは遠目にその横顔を見つめ、「おまえの音術が本当に人を救うかどうか、最終的に答えを出すのはこれからかもしれんね」と心中でつぶやく。だが、今の彼女の顔には疑いよりも希望が色濃い。
こうして、**ヌヴィエムとリエラの“幻の音術師とのセッション”**は静かに完結した。血塗られた戦場の記憶を超えて、音術は確かに人を癒やす道具になり得るのだと、二人はその身をもって証明した。これからヌヴィエムがアイドルとしてどんな音を紡ぐかは未知数だが、少なくとも“戦わずに済む未来”という目標に一歩近づいたことは間違いない。
夜になると、砦の上に星がまたたき、音楽堂の窓からは faint な調べが漏れていた。おそらくヌヴィエムとリエラが、明日の練習に向けて音響石の調整をしているのだろう――まさに「音術師同士の深い対話」がそこにある。
ユリウスとエレノアが静かに見守るその光景は、戦乱をくぐり抜けた者たちがたどり着いた優しい未来の一端。かつての絶望が嘘のように、笑顔や歌声、そして癒やしの旋律が砦を包み込んでいる。人々はもう怪物の悲鳴を恐れず、夜風に乗る音楽の余韻に身を任せる。小さく旅立ち、そして再び戻ってきた“音術”――それが今、この砦で“幻”ではなく現実として息づきはじめていた。