Symphony No. 9 :番外編_2-3
エピソード番外編2-3:山越えの護衛任務
「ユリウス殿、エレノア殿――どうか、この依頼を引き受けていただけないでしょうか。
ベルトラン残党こそ沈静化していますが、この先の山道は未だに山賊の出没が絶えません。各国が連合を組み、物資を輸送しようとしているのですが、防衛の手が足りず……」
朝もやの残る砦の一角――整然とした執務室で、フィリップ3世が恭しく頭を下げた。その横で、ヌヴィエムはつい先日行ったアイドル公演の調整書類を片手に持ち、笑みを浮かべている。かつては華やかなリーダーだった彼女だが、いまは完全に表舞台を退き、市民の一人としての立場。もっとも、フィリップ3世にとっては頼もしい相談相手であることに変わりはない。
「山の道って、あのグレン峠のことかしら? 前に行ったときは、崖が崩れかけていて通るのも怖かったっけ」
ヌヴィエムが軽く思い出すように言う。
フィリップ3世は深く息を吐き、「ええ、そうです。あそこが最短ルートではあるんですが、崩落した岩肌を縫って通るので、大規模な馬車列が進むには危険が多い。しかも、山賊が地形を活かして襲うケースが急増していまして……」と顔を曇らせた。
ユリウスは椅子にもたれ、腕を組む。髪は以前より伸びて、ほのかに子どもっぽさを脱した表情が伺える。だがまだ、足に感じる微かな痛みが残るのか、ときどき眉をひそめることがある。
「護衛依頼ということは、俺とエレノアの手で山賊を牽制し、荷馬車が安全に通れるようにするわけですね。騎士団や兵士たちも同行するのか?」
「もちろん、ある程度は連合軍の兵がついていく。しかし、多くは崩れかけた道の整備をしなければならないし、山頂付近では魔術的な歪みが未だに残っているとも聞く。そこを火術や幻術でサポートしてもらえれば助かるのです」
フィリップ3世の説明に、エレノアが頬杖をつきながらうなずく。「なるほど。崩落寸前の道を修理しながら進む護衛任務……あまり気軽な話じゃないわね。連合軍の兵だけでも難しい仕事だと思うけど、わたしたちが行くなら火術で岩を焼き固めたり、幻術で山賊を攪乱したりできるかもしれない。いいわ、面白そう」
「それなら決まりね」
ヌヴィエムが軽く微笑む。「あたしはアイドル活動があるから、同行は控えるわ。プルミエールもいるしね。でも、いざ何か起きたら連絡してちょうだい。たとえ退位したって言っても、もし大規模な戦闘になったら――」
「ありがとう、姉上。でも大丈夫。規模は大きくないし、エレノアと俺で十分対応できるはず。むしろ、危険が高まらないうちにサッと終わらせたい」
ユリウスはそう力強く答えた。姉が心配する気持ちもわかるが、もう自分は以前のように何もできない弟ではない。火術のリハビリを終え、剣を握って何度か実戦もこなしている。さらにエレノアがいれば、不意打ちや地形対策も万全だ。
それを聞いてエレノアは茶化すように微笑む。「ま、わたしたち二人ならちょっとした山賊くらいは追っ払えるわ。それに、この道中……色々と楽しみもあるのよ、ユリウス?」
その視線に、ユリウスは少しだけ照れるように目を伏せる。彼女は何を考えてるんだろう……と思いつつも、その胸の奥が軽く熱を帯びるのを感じる。実は、先日の“古代クヴェルの秘密依頼”の帰り道で、二人の間には確かに距離が縮まった。まだ明確に言葉で約束してはいないが、もはや互いが特別な想いを抱いているのは明白だ。だが――ずっと曖昧にしてきたからこそ、心がざわめく。
「では、ぜひ二人にお願いしたい。物資護衛は三日後の午前に出発予定で、輸送馬車が十数台ほど。それに荷積みの商人や荷役が十数名。さらに連合軍の兵士が二十名程度同行します」
フィリップ3世が満面の安堵の表情を浮かべて続ける。「報酬面は十分用意しますし、何より、これが成功すれば分散治世の連携がさらに深まる。山賊の被害を減らし、道を安定的に使えるようになれば、ヌヴィエム殿のアイドル活動だって各地を回りやすくなるでしょう?」
ヌヴィエムはクスッと笑う。「あたしは山越えのステージをあまり想定してなかったけど、ま、世界が平和になるなら大歓迎ね。どう、ユリウス? がんばって“あの女性”を守ってあげなさい」
視線がエレノアとユリウスの間を往復する。ユリウスは「な、なんで姉上がそこで茶化すんだよ」と若干赤面し、エレノアは「ふふっ」と楽しげに笑う。周囲から見れば明らかに“いい仲”に映っているのに、まだ本人たちは煮えきらないのだ。
「まさか、山越えの道がこんなに険しいとは……」
依頼を引き受けて三日。砦の厩舎では朝早くから兵士たちが荷馬車の準備をし、商人たちが荷物を整理している。ユリウスが軽く足をほぐすように歩きまわりながら、地図を確認していた。
エレノアはローブの裾を持ち上げつつ、ホコリを払い、「そりゃそうよ。崩落した岩や魔術歪みが残るって、フィリップ3世も言ってたじゃない。火術を上手く使えば、崩れそうな地面を固められるかもしれないし、術式の残滓を抑えられるかもね」と冷静に回答する。
ここには、護衛対象となる数名の商人のリーダーもいて、そわそわと落ち着かない。大きな荷馬車には布や穀物、それに各国からの贈答品が詰め込まれているという。もし山賊に狙われたら、非常に魅力的な獲物になりそうだ。
「うちは剣を取るのも怖いし、兵士たちだけでは心細くって……でも、お二人が同行してくださるなら、なんとかなるかもしれませんね。ありがとうございます、エレノア様、ユリウス殿」
リーダー格の商人が頭を下げる。その表情には安堵が混じっている。火術や剣の使い手がいてくれれば、よほどの大群でもない限り対処できるはず……という期待があるようだ。
「いやいや、こちらこそ任せてください。連合軍の兵も一緒ですし……僕とエレノアが上手くサポートします」
ユリウスが頼もしげに答えると、エレノアがニヤリと口角を上げる。「そろそろ出発するのかしら? 商人の馬車隊はみんな集まった?」
商人のリーダーがうなずく。「はい、全十六台、すべてそろいました。補助の馬や人員も最終点呼済み。荷積みも完了です」
辺りを見回すと、確かに多くの馬車が横一列に並び、兵士たちが警戒しながら走り回っている。あとは指揮役の合図で出発するのみ。
そんな様子を見ていたユリウスは、ふと“ある決意”が胸をよぎる。――そうだ、この任務が終わったら、エレノアに自分の想いをはっきり伝えよう。先の「古代クヴェルの秘密依頼」で互いの気持ちを確かめかけたものの、曖昧なまま終わってしまった。今度こそ決心するのだ。
だが、それを思うたびに心臓が高鳴る。何度も命がけの戦闘をくぐったはずなのに、この種の緊張は勝手が違う。「やれやれ……俺はまだ自信がないのか?」と小さく独りごちるが、エレノアはそんな彼の心を察してか、明るく「ユリウス、準備はいい?」と声をかけてくる。
「え、あ、ああ……大丈夫、今行くよ」
軽く動揺を隠しながら立ち上がるユリウスを見て、エレノアはくすりと笑う。どうやら彼女も少しは勘づいているようだった。
午前中いっぱいをかけて馬車列は砦を出発した。ヌヴィエムやフィリップ3世は見送りに立っており、ステージ衣装ではなく簡素なドレス姿のヌヴィエムが「二人とも、気をつけてね! いざというときは連絡を」と笑顔で手を振る。ユリウスも軽く手を振り返し、「姉上もお大事に。プルミエールをよろしく」と小声で応じた。姉は頷き、プルミエールが抱っこされながら「いってらっしゃい!」と大きく手を振っている姿が微笑ましかった。
山道へ入るまでは平坦な道が続き、隊列もスムーズに進む。何台もの馬車が連なって行く光景は壮観だが、その分目立つので、山賊に狙われやすいのが難点だ。
炎天下の中、エレノアが馬に乗りながら風を巻き起こす簡単な魔術を使い、周囲の暑さを和らげていた。「ふふっ、こういうときは火術だけが能じゃないわね。ちょっとした風を生むくらいなら幻術や軽い空気操作で十分」
ユリウスは並走しながら笑う。「助かるよ。兵や商人たちが感激してるんじゃないか?」
実際、後ろのほうから「助かるぜ、魔術師様!」という声が飛んでくる。魔術は戦闘だけじゃなく、こうした日常のサポートにも役立つのだ。
「ちょっとしたハッピーならお手のものよ。あなたも剣と火術だけじゃなく、もっと多彩な技を覚えれば、みんな喜ぶかもね」
エレノアの軽い冗談に、ユリウスは「そ、そうだな」と曖昧に返す。自分が火術でできることはまだ限られているが、足元を焼き固めるとか、危険箇所を炙り出す程度の技なら見せ場があるかもしれない。
道中、特に大きな事件は起こらず、昼下がりには峠の手前に到着する。そこは小さな休憩所をかねた泉があり、馬や人が水を補給できる貴重な場所だ。商人リーダーが「ここで昼食にしましょう」と提案し、全員が一時停止。
「さて、この先のグレン峠がいよいよ難関だね。山賊がいるとすれば、そこが本命か」
ユリウスが泉の水をすくって飲みながら言うと、エレノアも「石の崖が脆くなってるっていうし、地形を活かして奇襲を仕掛けてくるかもしれないわ」と真顔になる。兵士の一人が「護衛態勢を強化します。周囲の警戒をお願いします」と告げ、皆が静かに頷いた。
辺りの空気がぴりりとするなか、ユリウスは一度姿勢を伸ばし、足の具合をチェックする。ここで思った以上に痛みが走るようなら厳しいが、今のところ軽い違和感だけで済んでいる。
(大丈夫、ちゃんと歩けるし、剣も使える……エレノアや兵たちと連携すれば問題ないはず)
そう自分に言い聞かせるように深呼吸をした。
食事を終えた商人たちが馬車を整え直し、また列を作りはじめる。エレノアがローブをはためかせつつ、ユリウスの近くに寄ってきた。「ね、ユリウス。今夜は途中の山小屋で一泊するんでしょ? ちゃんとゆっくり休めるといいわね」
「ああ、そうだな。連合軍が使う簡易小屋があるって話だ。雑魚寝かもしれないけど、屋根があるだけ助かる。雨や夜襲に対応しやすいし……」
二人の会話を横で聞いた兵士が「一応、山小屋の周囲を固める要員もいますし、夜襲されたらごめんなさいって感じではありますが……」とぼやく。
するとエレノアは楽しそうに「まぁ、こういう冒険も悪くないでしょ?」と肩をすくめる。ユリウスはその無邪気さに少し胸をくすぐられ、「本当に、あなたって自由奔放だよな」と苦笑する。
「そうかも。でも、わたしには大事な人がいるから、無謀はしないの。……ま、後で教えてあげるわ」
謎めいた一言を残して、エレノアは馬を先へ進めていく。ユリウスはその背中を見つめ、何か言いかけるがうまく声にならない。彼女と、そして“あの”約束を果たすタイミングがもうすぐ来そうな気がするが、心の準備はできていないような、不思議な焦りがある。
午後もかなり陽が傾いてきたころ、グレン峠の入り口と思われる崖道が見えてきた。一行は岩肌がむき出しになった荒涼たる風景を見て、その険しさに改めて息を飲む。道幅は狭く、細かい岩くずがそこかしこに散乱している。馬車が通るには神経を使わざるを得ない。
「さて、ここからが本番だ。商人の方々は荷馬車の順番を変えながら、なるべく縦一列で進んでください。兵士は先頭と後方、そして左右の崖上に散開して警戒をお願いします」
ユリウスが声を張り上げると、連合軍の指揮役が「了解!」と大きくうなずいて指示を飛ばす。兵士たちが手際よく動き、エレノアは先頭近くに陣取り、「火術を使用して道を少し固めてみるわね」と呟いて、石畳のようにしっかり固定できるかを試し始める。
ファッ、と手をかざすとほんのり赤い光が走り、崩れかけの土砂を熱して凝固させる。あまり広範囲にやると体力を消耗するため、最小限の範囲だけ。
「うまくいってる……これなら足元が少し安定するはず」
ユリウスが確認すると、確かに馬の蹄が沈みこむ感じは減っている。商人たちがホッとした表情を浮かべるのがわかる。
しかし、それでも油断はできない。あちこちに奥行きのある崖間や穴が見え、岩棚が不安定に突き出している。兵士が下見に出た先で落石が起こり、コロコロと小石が転がってきた。「ちょっ……危ない!」と声を上げるが、すんでのところで回避。
「くそ、どうにも足場が悪いな。山賊が出てきたら厄介だぜ……」
兵士がつぶやき、エレノアは魔術で落ちてきた石を動かそうとするが、やりすぎると術暴走の危険もあるので控えめに。彼女は小声でユリウスに言う。「きっとここで待ち伏せしてるわよ。気をつけて」
ユリウスも同意した。「ここで強襲されたら、足元を崩すだけで大惨事になる……。皆、一定の間隔を空けて進もう。馬車が密集すると崖が耐えきれないかもしれない」
指示を飛ばすうちに、夕暮れの光が峠を赤く染め始める。空が赤紫に変わり、崖の輪郭がぼんやりと浮かぶ。その光景は美しくもあるが、危険をひしひしと感じさせる不気味さもある。
やがて、一行が峠の半ばまで差し掛かった瞬間、それは起こった。崖の上から甲高い声が響き、「へっ、待っていたぜ、おとなしく荷物を置いていきな!」と複数の人影が姿を現す。
「来たか……っ!」
ユリウスは剣を握り、即座にエレノアに合図を送る。エレノアも杖を構え、火術と幻術の二重詠唱へ移行する。
「商人たちと荷馬車は真ん中へ集まって! 周囲を兵士が囲んで! ユリウス、あたしは崖上を狙うわ」
「了解っ!」
二人の声が同時に響き、兵士たちが統制よく動きだす。その間に山賊が崖からロープを垂らして滑り降りたり、弓矢で威嚇してきたりと攻撃を始める。岩がゴロゴロ転がり、足場がさらに悪化する。
「おいおい、やっぱり来たか……!」
兵士の一人が叫びながら剣を抜くが、すぐに二人の山賊が横合いから奇襲をかけてくる。しかし、ユリウスが素早く踏み込んで受け止め、そのまま体を回転させるように剣を振るい、山賊の武器を叩き落とした。
「逃げたくなければ荷を置け!」と山賊のリーダー格が唸るように言うが、ユリウスは「そんな脅しに屈するか!」と声を張り上げる。
一方、崖上ではエレノアが火の玉を小規模に連打し、岩肌を焼いて足場を崩す。山賊がそこに足をつけていたら崩れ落ちるわけで、何人かはたまらず飛びのくしかなくなる。
「くっ……この女、火術師かよ!」
山賊が悲鳴を上げるが、エレノアは涼しい顔で「悪いけど、わたしは火術だけじゃなく幻術も得意なの」と返し、杖を軽く振って視界を歪ませる幻影を発動する。崖の上に数倍の兵士がいるかのように見える幻を作り、威嚇効果を狙うのだ。
「やばい、こんな大勢は無理だ……!」
混乱した山賊の一部が後退を始めるが、リーダー格が「怯むな、あれは幻だ!」と叫び、下を警戒するように指示を飛ばす。なかなか狡猾な相手のようだ。
結局、山賊たちは崖上と崖下から同時に攻めかかってくる形で戦闘が激化。兵士が数名、落石に巻き込まれて負傷する場面も出る。ユリウスが剣を振りつつ、必死に隊列を保とうと指示を叫ぶ。
「皆、崖を背にするな! 中央へ集結して隙間を作らないで!」
馬の嘶きが響くなか、エレノアが姉弟ばりのリズム指揮を応用した声を出す。「火術で足場を固めるから、そっちに集まって! 幻術で相手の目をそらすから、この隙に隊列を再編して!」
周囲の兵士はその言葉に従い、馬車を守るように円陣を組む。なんとか一列に並んだ荷車を囲う形になり、山賊が無闇に近づきにくい布陣になる。その状況を山賊リーダーは舌打ちして見下ろしながら、最後の一押しを狙って大岩を崖上から落とそうと指示を出す。
「やばい、あの大岩が……!」
兵士が声を震わせる。崖の上には巨大な岩が斜めに突き出しており、そこを山賊数名が棒でこじり、崩落させようとしているのだ。もし落ちれば、馬車もろとも押し潰されるかもしれない。
「エレノア……頼む!」
ユリウスが焦燥混じりに声を上げると、エレノアは杖を握りしめ、呪文を急ぎ詠唱する。「火術と風術を合わせて岩の落下を逸らせるかもしれない……! でも、大掛かりよ!」
しかし、詠唱の途中で別方向から襲いかかる山賊がいることに気づく。エレノアが詠唱を続けるには護衛が必要だ。ユリウスは咄嗟に「俺が防ぐ!」と宣言し、剣を握って走り出す。まだ足は完調ではないが、全力を振り絞る。
山賊が剣を振り下ろし、ユリウスはそれを受け止める形で激しい金属音を立てる。火術で一瞬だけ剣を熱し、相手の剣を溶断しかけるが、完全にはいかず押し合いになる。だが、ユリウスは気迫を見せて「うおぉっ!」と吠え、相手を突き飛ばすように崩しにかかる。山賊が体勢を崩したところへ兵士が割り込み、一気に拘束する。
「今よ、エレノア!」
ユリウスが叫ぶと、エレノアは炎と風の二重呪文を放つ。崖上の大岩がゴリゴリと動き始めるが、落ちる先がわずかにずれて馬車の真上ではなく、斜面に転がり落ちる形になる。重々しい轟音とともに岩が道を外れ、無数の砂埃を巻き起こした。
「やった……!」
兵士や商人が安堵の声を上げ、山賊リーダーが「くそっ、もう無理だ……退け!」と指示を飛ばす。仲間たちが散り散りに崖上から逃げ始め、崖下の連中もロープを引き上げて退却する。「終わった……」ユリウスが息をついて剣を収めようとした、そのとき――
ドサッと足元で音がする。崖を駆け上がろうとした山賊の一人が最後の悪あがきで投げた小さな爆裂魔術の晶石が地面に落ち、ボンと火花が散る。ユリウスは「危ない!」と身をかがめるが、衝撃波が石を飛ばしてくるのをギリギリで受け、腕に痛みが走る。
「ユリウス!」
エレノアが駆け寄ろうとするが、ユリウスは歯を食いしばり、「大丈夫……かすっただけ……」と力なく笑ってみせる。
周囲の兵士が山賊を完全に追い払ったのを確認し、「被害状況を報告してください!」と声を上げる。商人たちはこわごわと荷馬車を調べ、どうやら物資はほぼ無事のようだ。
ユリウスは杖をついたエレノアの腕を借りて立ち上がり、「いやあ……きつかった……。でも、なんとか守れたな……」と安堵する。エレノアは彼の腕をそっと掴み、「平気? あんまり無理しないで」と真剣な目で見る。
「平気。戦闘は……終わったし……」
そのやり取りを横目に兵士が「助かりました、ありがとうございます!」と感謝を述べ、商人リーダーも「火術師さま、剣士さま、本当に……危機一髪でした」と頭を下げる。ユリウスは弱い笑みで頷き、「少し休ませてもらうよ」と言って、護衛の陣形を整えた兵士たちに続いて斜面の安定した場所へ移動する。
夕暮れが深まるなか、ようやく一行は予定の山小屋にたどり着く。簡易的に建てられた石と木の混合小屋で、広くはないが数十名を一時的に収容できる。入り口付近には連合軍が常駐する見張り台があり、これまでにも何度か隊商が利用してきた様子だ。
商人たちは馬車を囲むように泊まり、兵士たちは周囲の巡回に当たる。ユリウスとエレノアは指揮役の兵士に案内されて小屋の二階へ上がり、簡素なベッドを貸し与えられた。
「ふう、ここなら雨風をしのげるね……」
エレノアがローブを脱ぎ、少し肩を回す。ユリウスは剣を壁に立てかけて腰を下ろし、「助かった……。今日は大変だったな」と漏らす。確かに山賊との戦闘であわや大惨事だったが、二人が協力して崖から落ちてくる岩を逸らせたのは大手柄と言える。
エレノアがベッド脇に腰かけ、ユリウスと向かい合うように座る。「腕、見せて……さっきの爆裂魔術で傷ついたって言ってたでしょ」
「ああ、かすり傷だけどな……」
袖をめくると、軽い火傷のような痕が見えている。血は出ていないが皮膚が赤くなり、ややヒリヒリする。エレノアは小さく息をのんで杖を取り出し、低い声で治癒魔術を詠唱する。「まだ本格的な治癒師じゃないけど、火術との応用で多少の軽減はできるわ……大丈夫、痛くない?」
「うん、大丈夫。……ありがとう」
柔らかな光が腕に注がれると、じんわりと熱が引いていき、痛みが和らぐ。ユリウスはエレノアの顔を見て小さく笑う。「さすがに助かるよ。君の魔術、ほんとに幅広いよな……」
エレノアは頬を染めつつ、そっけなく言う。「まぁね。人生いろいろ経験してるから。ユリウスの剣捌きも、昔に比べたらずっと頼もしくなってるわよ。あんな狭い崖道で2人相手に同時に立ち向かうなんて、前のあなたなら足がすくんでたんじゃない?」
「確かに……最初は自信なかったけど、君が背中を守ってくれるなら怖くないって感じかな」
その言葉にエレノアはうっすら微笑む。「背中を守ってくれる、ね……私もあなたがいるから大きな呪文を使えたし、足場を焼き固める余裕もあったの。つまり、相思相愛ってことかしら」
冗談めかして言いながらも、どこか本気の響きがある。ユリウスは心臓がドキリと高鳴り、すぐには言葉が出ない。外では兵士たちが談笑する声や馬のいななきが聞こえ、ここは山小屋という心許ない空間。彼がいつかは口にしようと思っている“ある言葉”が、いままさに唇まで出かかっている。
エレノアはじっと彼を見つめ、「どうしたの? 顔が赤いけど……まだ傷が痛むの?」と首を傾げる。ユリウスは決心して口を開く。「えっと、その……痛みはない、むしろ、あの……。実は、君に伝えたいことがあるんだ」
「ふふ、どうしたの? 真面目な顔しちゃって」
エレノアがからかい半分に微笑むが、ユリウスはぎこちなく膝をつきかける。「こんな場所で言うのもアレだけど……その……。俺は……エレノア……」
やや言葉を詰まらせながら、顔が真っ赤になっている。ここでエレノアが「え?」と緊張した色を瞳に浮かべる。まさか、ユリウスが本当にプロポーズめいた言葉を出すなんて思っていなかったのかもしれない。
「俺……ずっと君が好きで、いずれ一緒に……あの、……結婚……したいって思ってるんだ。もちろん、今すぐどうこうってわけじゃないけど、君さえよければ……」
その言葉を最後まで言い終わるか終わらないかのうちに、エレノアの瞳が大きく見開かれる。耳や頬が一気に熱くなったのか、すぐに言葉が出ないまま、唇を震わせている。
部屋の空気が凍ったように静かになる。外の喧騒がやけに遠く聞こえ、焚き火のぱちぱち音が小屋の壁を伝う。ユリウスはしびれを切らして、さらに言葉を足そうとするが、声が裏返りそうだ。
「え、あ、その、別に……急に押し付けてごめん。俺なんかが君に相応しいのかも分からないし、君は自由が好きだし……でも、ずっと心に引っかかってたんだ。戦場で死にかけて、君に救われて、姉上の分散治世を支え合って……なんていうか……。俺は、君と……生きたい」
唐突な告白に、エレノアは息を呑んだまま動かない。だが、数秒経つとほんのり笑みを浮かべ、「ユリウス……ほんとに驚いたわ。あなたがそんなに勇気を出して言ってくれるなんて……」と震える声で返す。その表情には戸惑いと愛しさが入り混じり、いつもの余裕ある彼女らしさは消えている。
「わたしだって、あなたと一緒にいたい……。分散治世が落ち着いて、ヌヴィエムがアイドル活動に夢中になるのを見て、わたしはどこかで“自分はどうすればいいんだろう”って思ってた。魔術師として旅を続けるのも嫌いじゃないけど、もう一人の孤独な放浪者には戻りたくないのよ……」
エレノアの瞳がかすかに潤み、言葉が詰まる。「あなたがそう言ってくれるなら……わたしも、あなたと過ごしたい。結婚……なんて、思ったことなかったけど……嫌じゃないわ。むしろ……嬉しい」
じわりと熱い涙が頬を伝う。エレノアがこんな表情を見せるのは、ユリウスにとっても初めて見る光景だ。孤高に振る舞う彼女が、いま彼の前で素直に涙をこぼしている。
ユリウスは心臓が爆発しそうになりつつ、ぎこちなく彼女の肩に手を置く。「じゃ、じゃあ……君は……」
「ええ……わたしはあなたに賛成よ。まだ正式な形はないかもしれないけど、あなたがわたしと一緒に生きたいと言うなら、わたしもそうしたい。火術と幻術に生きてきたけど、あなたの傍なら何でも乗り越えられそうだもの」
エレノアが涙を拭いながら微笑む。ユリウスも安堵と喜びが入り混じり、言葉にならない声を出しながらそっとエレノアを抱きしめる。部屋に柔らかな魔術灯の光が揺れ、二人の影を映し出していた。
その抱擁はぎこちなくも温かい。剣士として厳しい戦場をくぐってきたユリウスと、妖艶な魔術師エレノアが、こんなに純情な会話を交わす姿が、とても微笑ましい。一方で外の廊下を兵士が通る音が聞こえ、そっと笑う声がする。
「……なんか、恥ずかしいわね。外に兵士がいるのに」
エレノアが小声で言うと、ユリウスは照れ笑いする。「ここじゃ落ち着かないから、また改めて、ちゃんとした場で……式とかは姉上にも相談しよう」
「そうね……きっとヌヴィエムが喜ぶわ。“分散治世のもとで生まれる新しい時代の夫婦”ってやつかしら? なんだか大げさだけど……」
「ふふ……俺だって照れるよ。でも……ありがとう。俺と一緒にいてくれて」
二人はまた短く唇を重ね、互いの体温を確かめるように胸を寄せ合った。これ以上ない幸せな瞬間――山賊との危機を超えた疲労が、一気に報われるような温かさがそこにある。
一夜が明けるころ、兵士たちと商人が小屋の周囲を確認し、「夜襲はなかったようだ。山賊も退散したらしい」と報告が入る。どうやら昨夜の戦闘を経て、もうあちらからの攻撃は期待できないと悟ったのだろう。
エレノアは魔術で温めた水を用意し、ユリウスに「腕の傷はどう? 治癒は十分?」と問いかける。ユリウスは「すっかり良くなったみたいだ。さすがに曲げ伸ばししても痛まないよ」と微笑み返す。二人が並んでいると、その間に甘い空気が流れているのを、周囲の兵士が察して遠慮がちな笑みを浮かべていた。
「じゃあ、そろそろ出発しましょうか。目的地まで半日くらいはかかるはずだ。道もおそらく昨日よりは安定してるかな……? ま、崩落が起きないうちに通り抜けるのが一番ね」
エレノアがローブを身にまといながら言うと、ユリウスも剣を腰に差し、「そうだな、夜襲の心配もなくなったし、このまま安全に行ければいいんだけど」と深く頷く。
兵士や商人たちも出発準備を進め、再び荷馬車を整列させる。昨日は崖道で命懸けの思いをしたが、今日はもっとスムーズに行けるだろうという期待がある。山賊が撤退したなら、恐らく大きな障害は残っていないはずだ。
出発前に商人リーダーが、ふと二人に言葉をかけた。「火術師さま、ユリウスさま……本当に助かりました。あれほど危険な状況で、こんなに皆が無事とは思わなかった。もう少しで落石に巻き込まれるところでした。あなたたちが来ていなければ荷物も命も失っていたでしょう」
ユリウスは恐縮しながら、「護衛が仕事ですから。商人の皆さんもよく協力してくださいました。あと少し、道が安定するまで気を引き締めていきましょう」と返す。エレノアもうなずき、「そうそう。昨日のうちに山賊を退けられたのは兵士たちのおかげでもあるしね。私たちはちょっとした火術や幻術を使っただけよ」と柔らかく笑う。
周囲からは「謙虚だなあ」「いや、あの火炎と幻影は凄かったよ!」といった声が飛び交い、一気に雰囲気が明るくなる。こうして人々の心がまとまるのも、分散治世ならではの力だろう。誰か特定の権力者に頼るのではなく、皆が役割を果たして危機を乗り越える。
実際、その後の行程は目立ったトラブルもなく進む。崖の中腹からは美しい山の稜線が見え、遠くに深い緑の森が広がっている。馬車の隊列はおそるおそる道をたどりながら夕暮れ前に峠を抜け、無事に次の平野部へ降りる道が開けた。
一行が宿場町に到着したころには、すでに陽が西に傾いており、町の大門をくぐった途端に商人や兵士たちは「はぁ……無事に着いた」とため息混じりの喜びを漏らす。門番に荷の通行証を見せ、町の中の広場に馬車がずらりと並ぶ。
その夜、町の賑やかな酒場で小さな祝杯が開かれる。商人たちが出資する形で兵士や護衛二人――つまりユリウスとエレノアにも振る舞いの酒や食事が用意される。テーブルに所狭しと並ぶのは地元特産の燻製肉や濃厚なシチュー、地ビールなど。旅の疲れを癒やすには申し分ないメニューだ。
「いやぁ、あんたたちがいなきゃ本当に無理だった。ありがとうよ!」
商人たちが酒の杯を掲げ、ユリウスとエレノアに乾杯を求める。ユリウスは「こちらこそ、おかげでいい経験になりました」と modest に応じ、エレノアは「ふふ、楽しい旅だったわ」と余裕の微笑みでグラスを合わせる。
兵士も数名参加しており、「山賊の襲撃はヒヤヒヤしたが、あんたらが一緒なら百人力だ」と感心しきり。ユリウスは照れながら「まぁ、それほどでも」と応じているが、エレノアは「彼、実は凄いのよ」と軽く口添えし、得意げだ。
やがて夜も更け、酒場の熱気が落ち着いてくるころ、二人はそっと外に出て町の夜風に当たる。通りにランプが灯り、遠くで犬の鳴き声がする。夜の静けさと淡い月光が路地を照らすなか、エレノアがローブを揺らしつつ腕を組む。「お酒、ちょっと飲みすぎたかも……。でも気持ちいいわ」
ユリウスは隣で歩きながら、「僕も少し酔いが回ってる。けど……うん、幸せな感じだな」と照れくさそうに言う。少し前にプロポーズを交わした二人が、こうして人目の少ない夜道を並んで歩く姿は、まるで新婚のようにも見える。実際、まだ正式な婚姻手続きはしていないが、気持ちはほとんど夫婦同然だ。
「ねぇ、ユリウス。これから先、どうするの? 砦に戻ったら……私たち、何か儀式でもする? 分散治世のもとだし、どこかの教会とか?」
エレノアが少しはにかみながら尋ねると、ユリウスは「まぁ、姉上に報告はするだろうけど、あとはフィリップ3世が“分散治世式の祝言”なるものを考えているとか……。俺は formal な儀式に執着はないけど、君が嫌じゃなければ何か形を残してもいい」と静かに答える。
エレノアは「ふふ……じゃあ、ヌヴィエムがアイドルをやってるステージで結婚式っていうのは?」と冗談めかして笑い、ユリウスは「それも面白いかも」と返す。馬鹿話みたいだが、二人の笑顔には真剣な愛情が混ざり合っているのを感じる。
足元が狭い石畳の道をゆっくり歩き、そろそろ宿に戻ろうかというとき、エレノアがふと立ち止まってユリウスの袖を引く。「あ……待って」
「どうした?」
「その、ありがとう。ほんとに……わたしがこうやって誰かと人生を共有したいと思える日が来るなんて、思ってもみなかったから」
目を伏せるエレノアは、いつもの軽妙さとは違う儚げな表情だ。過去にどういう恋をしても、飄々と離れていくことが多かったが、ユリウスだけは違う。彼女自身も最初は“教え子”の感覚だったが、いつの間にか深く惹かれていた。
「俺こそ、感謝してる。火術を教えてくれたのも、姉上を支えてくれたのも全部あなた。俺が本当に弱かった時期、あなたが助けてくれたからこそ、いまこうやって剣を握れてるんだ」
「もう、そういうお礼はやめてよ……でも、嬉しい」
エレノアは照れ隠しのように反らした視線を戻し、そっとユリウスの胸に頭を寄せる。彼女の金髪とユリウスの茶髪が月明かりの下で重なる。ユリウスも抱き返し、しばらく静かに夜の路地で抱き合う。
この微妙に甘酸っぱい空気を感じながら、エレノアが耳元で小さく囁く。「じゃあ帰ろ。明日、荷を届けに行くでしょ? この町で一夜泊まったら、商人さんたちと別れるのかしら。フィリップ3世に報告もあるから、いずれ砦に戻らないとね」
「……そうだな。朝早く出るし、あんまり無理しちゃいけない。姉上やプルミエールにも早く伝えたいよ、“僕たちのこと”を……」
エレノアは微笑み、二人はゆっくりと宿へ向かい歩を進める。月明かりに照らされる街路樹が揺れ、柔らかな風が二人の背を押すかのように吹き抜けた。戦場で死闘をくぐっていた頃は想像すらできなかった、**“普通の恋人同士”**としての未来が、いま確かにここにあるのだ。
翌朝、町の広場では商人たちが集まり、ユリウスとエレノアに最後の挨拶を行った。無事にこの町まで護衛してくれたことへの報酬が手渡される。そこには金銭のほかに特産品の小さな細工物などもあり、「君たちが記念に持っていってくれ」と勧められ、二人は少し照れながら受け取った。
「ええと、こういう民芸品、結構好きかも。彫刻が細かいわね」
エレノアが小さな木彫りの人形を手に取って眺める。ユリウスも「ありがとう、砦に戻ったら姉上やプルミエールに見せるよ」と微笑んでいる。
商人リーダーが深く頭を下げ、「このご恩は忘れません。分散治世になっても、こうして優秀な火術師と剣士が力を貸してくれるなら、俺たちも安心して商売ができます。いつか砦を訪ねて、改めて謝礼を述べさせてください」と感謝を述べる。
ユリウスとエレノアは「こちらこそ、いい経験でした」と応じ、兵士たちとも握手を交わす。皆が安堵の笑みを浮かべつつ、「また何かあったら助け合おう」と頷き合う。
そして、午前中には二人は簡素な旅支度を整えて、砦への帰路へつく。一行を見送る町人が手を振り、平和ムードのなかで街門を出た。道中の山賊はすでに壊滅状態なので、来たときほどの危険はないはずだ。
馬にまたがるエレノアが、太陽の光を浴びながら小さく伸びをする。「はぁ……ようやく一段落って感じ。帰ったらヌヴィエムがアイドルの新曲を披露するかもね」
ユリウスは笑って馬を並走させ、「そういえば、姉上が“次のステージ衣装はもっと華やかにしよう”って言ってた。これで連合軍への護衛依頼も成功したし、砦がさらに賑わうかもしれない」と返す。
「いいわねぇ。わたしもステージで幻術の演出くらいはしてあげようかしら」
そんな穏やかな話題をしながら、ふとエレノアが頬を染める。「……ユリウス。昨日言ったこと、わたし忘れないから。あなたも、忘れちゃ嫌よ?」
当然、昨日のプロポーズのことだ。ユリウスは少し恥ずかしそうに視線をそらし、「忘れるはずがないだろ……。帰ったら姉上やみんなに報告する。そして、俺たちなりの形で……結婚しよう」と力を込めて言う。
エレノアの胸がじんと暖かくなる。ずっと気軽な恋愛を繰り返してきた自分が、こんなに真剣に愛し合える日が来るなんて――分散治世とヌヴィエムの存在が、彼女をここまで導いたのかもしれない。
二人は馬を駆り、小高い丘を越える。背後には昨日の激闘を乗り越えた山々が霞んで見え、その先に穏やかな空が広がっている。山賊の危機を退け、商人を守り抜き、互いの想いを確かめ合ったこの旅は、ユリウスとエレノアの人生にとって大きな転機になった。
帰路は長いが、ほとんど会話が絶えない。ときに冗談を言い合い、ときに「結婚の式はどうしよう」「砦でやる? それとも町でやる?」などと未来の話をする。エレノアが「ヌヴィエムのステージの隅で結婚式って、すごく面白そうだけど? あの子、絶対はりきるわよ」と吹き出せば、ユリウスは「さすがにステージの途中に式をぶっ込むのは……ま、姉上なら喜ぶかもな」などと苦笑する。
途中で野営も挟みつつ、数日の帰路を経て、砦が見え始める頃には二人の間には強い絆が芽生えている。エレノアはあえて口には出さないが、「こんな形で落ち着くなら、戦いや血に塗れた日々も無駄じゃなかったかもしれない」と心の中で呟く。ユリウスも「分散治世がもたらす平和の中で、新しい家族を築いていけるんだな」と胸を熱くし、姉やプルミエールに会うのを楽しみにしている。
「さて……そろそろ砦が見えてきたわ」
「うん、もう少し。あの城壁が懐かしい」
馬を走らせる二人の目に映るのは、夕陽を浴びて輝く砦の石壁。そこではヌヴィエムがアイドルとして日々ステージに立ち、プルミエールが姉の踊りを真似し、フィリップ3世が政治を回し、ネーベルスタン将軍や仲間たちが交流を続けている。
二人にとって、その世界は帰る場所であり、同時に新しい未来を告げる場所でもある。ユリウスは心の奥で、エレノアとの結婚生活を思い描きながら馬の速度を緩める。エレノアもそれを察してか、恥ずかしそうに微笑み合う。
戦乱で荒廃していた頃とは、まるで違う輝きを見せる砦。そこへ帰りついたとき、二人は堂々と報告するだろう。「山越えの護衛任務は成功。そして、わたしたちは……結婚する」と。
そうして、分散治世の土台の上でまた一つ、新しい家族が生まれようとしている。
旅路は確かに危険だったが、そこには二人の思い出と愛が詰まっている。
これこそが彼らの“戦わずに済む時代”の一つの形――血なまぐさい戦闘から離れ、護衛程度の任務で済むほど世界が安定しているからこそ、こんなにも幸せな決断を下せるのだ。
砦の門をくぐったとき、ヌヴィエムが偶然ステージ衣装で練習している姿が見えた。光が差し込む一角でダンスのステップを繰り返し、何やら新曲の旋律を小声でつぶやいている。プルミエールが近くで手拍子をし、楽しそうに回っているのが微笑ましい。
「あ、帰ってきた!」
子どもの声に気づいたヌヴィエムが顔を上げ、ユリウスとエレノアを見る。汗ばんだ額を拭いながら、「おかえり! だいぶ遅くなったじゃない。護衛任務はどうだった?」と駆け寄る。その目に二人の雰囲気を読み取ったのか、すぐに「……あら、なんか進展あったかしら?」と口端を上げて悪戯っぽく聞いてくる。
エレノアは軽く頬を赤くしながらも、「ふふ、まぁね。詳しくは後で話すわ……まずは報告を済ませて、落ち着いたらあなたと一緒にお酒でも飲みましょう」と返す。ヌヴィエムは「そっかそっか、やっぱりね!」と手を叩いて喜ぶ。
ユリウスは「姉上……わかりやすいリアクションするなぁ」と困りつつも、嬉しさが顔に滲んでいる。
プルミエールが駆け寄ってきて、ユリウスの足に抱きつく。「おかえり……こわくなかった?」と幼い声で質問。ユリウスは柔らかい笑顔で「こわかったけど、無事だったよ。エレノアが守ってくれた」と答えると、子どもは「すごい……エレノア、つよい!」と小さな手を叩く。
そんな光景を見ながら、ヌヴィエムはしみじみと「こうして帰ってきてくれるのが、何よりの幸せよね」と呟く。姉弟の紡いできた物語がまた一歩進み、エレノアという家族が増える日は近い。分散治世によって平和な道が広がるからこそ、こんなにも優しい時間が砦に流れているのだろう。
夕陽が砦の石壁を染める。ヌヴィエムはアイドルのリハーサルを一旦中断し、ユリウスとエレノアを中庭へ招いて盛大に迎え入れる。
プルミエールが姉の後ろを跳ねながら、「ユリウス、おかえり!」と再度叫ぶ。周囲の人々が拍手し、「お疲れさまでした!」と声をかける。
そのなかでユリウスとエレノアが見つめ合い、確かな安心を共有している姿がとても尊い。
大切なのは、これが終わりではなく始まりだということ。ヌヴィエムの退位による分散治世が安定し、人々が少しずつ笑顔を取り戻すなか、ユリウスとエレノアの新しい人生もまた始まろうとしている。
**“戦わずに済む未来”**という壮大な夢を背景に、二人の愛がさらに温まっていく――そんな希望に満ちた帰還が、この日の物語の終幕となるのだった。